第96話 あだな
「シヤ、愛する品子さんが帰って来たよ!」
「シヤちゃんただいまっ! 遅くなっちゃったかな?」
「シヤ、今日も邪魔するがいいか?」
三人三様とはよく言ったものだ。
それぞれに返事をしながら、シヤは思う。
今日の午前中、慣れていたはずの一人で過ごすこと。
その時間に、思っていた以上にシヤは戸惑っていた。
いつも通りに学校の課題を済ませ、いつも通りに家事を行い、いつも通りに……。
かつてはいつも通りだった、しんとした家で。
シヤは、今までに感じたことの無い思いを抱いていた。
ヒイラギがいないということもあるのは、もちろん理解している。
でも今日は。
いつも自分の隣に来ては、とりとめのない話をしてくる人がいない。
パタパタとスリッパの音を立てながら、おやつを一緒に食べたいと言いに来る人がいなかった。
それだけのことが、たった一日だけ無かった。
ただ、それだけのことなのに。
どうしてだか今日はふとした瞬間に、心の隅で小さく寂しい気持ちが自分の中に出てきてしまうのだ。
自分の変化を、シヤはどう捉えたらいいのか分からない。
「シヤちゃん、えっとね。今日の帰りに、美味しそうなパンを売っているところがあったの。今度、一緒に行きたいなぁ」
それなのにこの不思議な感覚を作った当の本人は、相も変わらず
そしてまたシヤに、その感覚を増やそうとしてくるのだ。
このむずむずするような。
これ以上は、知ってしまってはいけないと思ってしまう感覚。
これを認めるべきか、突き放すべきかとシヤは迷う。
「シヤ、聞いてよ! 今日ね、冬野君に惟之があだ名をつけたんだよ」
「いや、品子。……それ、本人の前で言うのか?」
「え、私にあだ名が出来たんですか? しかも靭さんが考えてくれたのですか! 凄く嬉しい。これって、好感度アップイベントってやつですよね?」
つぐみの言葉に、惟之が動揺しながら頭をかいている。
「いや、これはまずい展開ってやつだろう。品子、その話は無かったことに」
「いいじゃないですか! 聞かせてください。私のあだ名!」
「そ、それは……」
珍しい惟之の態度に、シヤは彼も自分に通ずるものを感じているのではと思う。
そんな皆の態度をにやにやと見ていた品子が、シヤに抱き着いてきた。
「わかった! じゃあシヤだけに教えちゃう! あのね……」
品子は、シヤの耳元でそっと囁く。
「『有能なポンコツ』だってさ」
……なんという。
なんという的を射たあだ名なのだろうと、失礼ながらシヤは思ってしまった。
つぐみには申し訳ないが、これはなかなかに相応しいかもしれない。
そして、惟之が本人に言えないのもわかってしまう。
「シ、シヤちゃんだけずるい。シヤちゃん! 私にも教えて!」
……言えない、絶対に。
話を変えるべきと判断をしたシヤは口を開く。
「……言わない代わりに、パン屋には一緒に行きます」
「うわー、嬉しいけど! それもちょっと切ないの~!」
シヤの胸の奥でむずむずが、少しあたたかいものに変わっていく。
だが、今はここで留まっていようとシヤは思う。
わいわいと騒いでいる三人を見つめ、彼女は感じるのだ。
答えを出すのは、もう少し後でもいいだろうと。
◇◇◇◇◇
「ところで先生、明日なのですが。午前中に私、用事が出来てしまったのです」
いつも以上に、気弱に話を始めたつぐみにシヤは顔を向けた。
「お、そうなの? いいよ、明後日から一緒にまた行こうか?」
「はい。すみませんが、よろしくお願いします」
「え、どこ行くの? デート?」
「え? ち、ち、ちがいます。そ、そのようなものでは。……ないですよ」
ひらがなだ。
つぐみはまるで、言葉を覚えたての子供のような話し方をしている。
怪しい、あからさまに怪しい。
シヤは自分以上に、そう思っているであろう大人二人を見やる。
つぐみの動きに、品子の目が一瞬どす黒く光ったように見えた。
惟之がサングラスを、やたらとくいくいと上げ下げしているのも、いつもならありえない動きだ。
「そうなんだね。何時頃にどこへ行くんだい? ……良かったら、送っていくよ」
「大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます。先生達は、資料室に気にせずに向かってください」
にこにこと、嬉しそうにつぐみは答えている。
「では私は夕飯を作り始めますね。ご飯の準備が出来たら声をかけます。皆さんゆっくりしていてくださーい!」
エプロンを身につけると、つぐみは軽やかに台所へと向かっていった。
それを見届ける途中で、シヤは凄い力で奥の和室に引きずり込まれていく。
この引っ張る手は、品子だろう。
そう思ってうんざりした顔で眺めた先にいたのは。
「……え? なぜ惟之さんも和室に?」
彼女の問いに答えることなく、品子は障子を閉めるとびしりとシヤへ指を突きつける。
「シヤ、これはきっと一大事だよ。明日、彼女に何かがある」
「いや。だから一大事も何も、つぐみさんは用事があって出掛けるのでしょう?」
「そうだけど! そうなんだけど! あれって相手が、男の子なんじゃないの?」
「だが! 調査書には特定の異性と仲がいいという報告はなかったぞ!」
いつになく惟之の声が鋭い。
「あの? 惟之さん、どうしたんですか?」
「いやぁぁ。お母さんは許しませんよ!」
品子が頭をかきむしりながら叫んでいる。
いつも以上に、品子がおかしくなっている。
いや、品子だけでなく惟之もだ。
「「というわけでだ、シヤ」」
戸惑うシヤの両肩に、二人の手が置かれる。
「「君に依頼をする。シヤ」」
二人そろって、口元は笑顔だ。
だがやはり、二人そろって目はちっとも笑っていない。
「……なんでしょうね。本当に嫌な予感しかしませんけど」
シヤはそう言ってため息をついた。
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