第95話 冬野つぐみは集中する

 品子は、目の前におけるつぐみの行動をただ見つめる。

 それだけ彼女の集中力は凄かった。

 渡していた資料を読んだ後に、凄い勢いでルーズリーフに文字と図を書き込んでいく。

 文字でだけでなく図としてかく。

 その方が、頭にイメージとして入りやすいとつぐみは言っていた。


 この状況でのいつものお約束。

 そう、彼女の腹が全く鳴らなかったのにも品子は驚いている。


 一通り書き終えたつぐみは、今度は誰もいないフロアがあるかと品子に聞いてきた。


「四階は誰もいないし、三階は私達だけだよ」


 彼女はうなずくと、ぎっちりと書き込まれたルーズリーフを強く握りしめる。

 そうして、品子をぐっと見つめた後にたった一言。


「ちょっと、散歩に行ってきます!」


 そう叫び、出て行った。

 時折、廊下からぶつぶつと呟いているような声が聞こえる。

 扉のすりガラス越しに歩いている彼女がうつるのは、ちょっとしたホラー映画のようだ。


「なぁ、惟之。あれが散歩というのなら世の散歩は今後、何と呼べばいいのだろうな」


 それに答えることなく惟之は、好奇心に負けてこっそり扉を開けしばらく覗いていた。

 だが無言で扉を閉めると、品子の元へ戻ってくる。

 そのまま席に座り、机に突っ伏すとぼそりと呟いた。


「……なぁ、品子。俺の知らない冬野君が、廊下にいるんだ」

「そうか良かったな。彼女の、新しい一面を知れたじゃないか」

「違うんだよ。そうじゃないんだよ。……縄がないのに縄跳びみたいに、ジャンプしてるんだよ」

「そうか良かったな。やはり彼女の新しい一面を、知れてるじゃないか」


 惟之は、がばりと顔を上げ、かすれ声で続ける。


「その後に、廊下にある休憩室のローテーブルを使って。……多分、懸垂けんすいしようとしてたようなんだが」

「ローテーブルで懸垂? どうやってやるんだよ?」

「ローテーブルの下に頭を入れて、テーブルのヘリを掴んで……」

「あぁ成程なるほどね。面白い発想するねぇ、彼女は」

「それで失敗して、力尽きてそのまま頭を思いっきり打ってた」

「そうか、良かったな。いつも通りの彼女じゃないか。お前が冬野君を大好きなのはわかった。だから、とっとと仕事してくれ」


 品子の発言の終了と同時に扉が開く。

 後頭部をさすりながら、涙目のつぐみが部屋へと戻ってきたのだ。


「い、一冊目の内容把握、できたと思います。もうお昼過ぎです。お弁当でも私、買ってきましょうか?」

「あぁ、お昼ご飯なら出雲君が手配してくれるみたい。いくつかメニュー貰ってるから、この中から選んでって」


 少し前に出雲が持ってきてくれた、この辺りの店のデリバリーのメニューをつぐみへと見せる。


「わ、こんなにあるんですね。凄い! これは悩みますね! 先生と靭さんはもう決めたん……」


 部屋に響く低い音。

 お約束の彼女のお腹が、今になって鳴りだしたのだ。


 「「あ」」


 品子と惟之の声が重なる。


 その反応にいつも通りに顔を赤くして、もじもじする彼女の頭を品子はゆっくりと撫でる。

 そうして最も値段の高い店のメニューを手に取ると、品子はつぐみへと差し出した。


「冬野君が、とても頑張ったみたいだから。惟之がこの店のご飯、おごってくれるって」

「そんな! それはさすがにいけません!」

「いや、折角せっかくだからいいよ。ただし、ちょっとした試験をしてみようか。先程の君が見た資料から、俺が問題を出す。正解が出来た分に応じて俺が支払う。不正解の分が品子の払い。これでいこう」

「面白そうじゃん! 冬野君。わざと間違えたりしたら、私にも惟之にも失礼だってわかるよね」

「……はい、もちろん。ですが支払いは、自分の分は自分でしたいです。それでしたら答えさせてください」

「相変わらず優しい子だね。じゃあ惟之、問題を出してみてよ」

「よし、じゃあ確認テストだ」



◇◇◇◇◇



「見事だよ冬野君、俺は君に一体どれだけ驚かされるのだろうな。あの短時間で、よくぞここまで……」


 惟之は、持っていた資料を閉じつぐみを見つめる。

 結果は全問正解。


 惟之の頭の中で、彼女の縄跳びもどきや懸垂もどきがくるくると回っている。

 この記憶力。

 こんな才能をくすぶらせておくのは、あまりにも惜しいではないか。


「なぁ品子。彼女を二条の……」

「却下」

「だろうなぁ。しかし惜しい」


 だが、当の本人はと言えば。


「先生、大変です。このお肉、んでないのに溶けましたー! 脂身の所が私の口で勝手にー!」


 最近は、オンとオフの激しい人間と接する機会が増えている。

 惟之はそう感じずにはいられない。

 目を閉じれば、明日人のふにゃりとした笑顔が浮かぶ。


「冬野君。そんな君に、私の弁当のこれを食べさせてあげるよ。はい、あーん」

「いけません、先生! これ鰻じゃないですか! こんな贅沢ぜいたくしたら私、もう……」

「ふふふ、いいんだよ。もう戻れなくていいじゃないか。大丈夫、さぁ口を開けてごらん」


 ぱくり、と音でもしそうな食べ方で、つぐみは品子から鰻を食べさせてもらっている。

 ぱあぁという効果音でも聞こえそうな、驚きと感動の表情が、つぐみの顔に生まれていく。


「……お、おいひい。私、生きててよかったです」

「そうだろう、そうだろう! いいんだ。全て惟之の奢りだ」

「それはいけません。私は自分の分は払う約束ですから!」

「いやいいよ。今日は俺から君へのバイト代と思ってくれ」

「そうそう、これからしっかり働いてもらうからね」

「ありがとうございます。私、頑張ります!」


 そう言うと彼女は困ったような。

 でも少しだけ嬉しそうに、惟之へと笑顔を向けた。


「あの、靭さん。今日の夜ご飯を私、いつも以上に頑張って作ります! だからあの、……い、一緒に皆で食べませんか?」


 顔を真っ赤にして、自分を見上げてくるその顔に。

 断られたらという思いを含んだせいか、少しうるんだその瞳で、つぐみは問うてくるのだ。


「……まぁ、なんだ。そんな顔で言われたら断れないな」


 その言葉につぐみの顔には笑顔の花が咲いていく。

 最初から断るつもりも無かったが、その顔を見て妙な満足感を得ている自分に惟之は戸惑う。


「……まぁ、いいか」


 こういう時間も、こういう気持ちになるのも。

 ――悪くはない。

 そう思える自分が確かに感じられるのだから。

 自然と上がっていく頬を親指でそっと撫でると、惟之はつぐみに向けてにこりと笑うのだった。

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