第94話 出雲こはね

 つぐみにとって昨日はとても奇妙な日だった。

 皆と賑やかに過ごせた、とても楽しい一日。

 だが品子が、車に忘れ物を取りに行くと言って出て行った後のことだ。

 頬が真っ赤にれた惟之を、品子は連れて帰って来るではないか。

 さすがにこれには驚かずにはいられない。


(先生の忘れ物って、靭さんだったんだ。そういった驚きではない。うん、決して)


 初めて惟之と会った時を思い出す。

 その時は品子が頬を真っ赤に腫らして、帰って来ていた。

 それが今度は惟之だ。

 あの二人は一体、何をやっているのだろう。

 

 惟之はとても痛そうではある。

 それなのに、なぜだかとてもすっきりとした顔をしているのだ。

 かつて品子に渡したように、保冷剤とハンカチの応急セットを差し出す。

 笑顔でそれを受け取った惟之は、品子と三十分ほど話をして帰っていった。

 

(あ、冷やすといえばアンドリュ……。じゃなかった、クラム君は元気かな?)


 彼も、随分と痛そうな怪我をしていた。

 治っているといいなとそっと願う。

 連絡先は交換したので知っているが、さすがにこちらから連絡するのは恥ずかしい。


「……いつか連絡が来てくれたら、いいな」


 つぐみの言葉は静かに、夏の夜に解けるように消えていった。



◇◇◇◇◇



「着いたよー。ここが二条の資料がある所だよ」


 言葉と共に、つぐみが品子に連れて来られたその場所は。

 ……同じ戸世市内にある、オフィスビルだった。


 勝手な想像をしていたことをつぐみは反省する。

 自分が知る限り、品子の所属する組織は大きなものだ。

 様々な情報が手に入り、どれだけ急だろうがその状況に応じた場所が確保できる力を持つ存在。

 さぞその本拠地は、大きな屋敷や会社が待ち構えているのだろう。

 そう思い込んでいたのだ。

 あまりのギャップに拍子抜けだと、こっそり思ってしまう。


「イメージと違いますぅって顔してるねぇ」


 くすくすと笑いながら品子はつぐみのおでこにちょんと触れた。


「あ、いえ! そんなわけでは!」

「ここは本当の二条の資料室ではないんだ。一部の資料をこちらに持ってきてもらうようになってる。まぁ、いわば『仮二条資料室』って所だね」


 品子の説明を聞き、つぐみは問いかける。


「それはつまり、私が急遽きゅうきょ参加するために、こちらを準備してもらった。そう理解しても?」

「ん~。まぁ、それもまた一つの理由だね。君の存在をあまり本部に知られたくないという私の我儘わがままもあるかな。あと、もう一つ。君にはやってもらいたいことがあるんだ」

「何でしょうか? 私に出来るのでしたら」


 つぐみの答えを聞き、品子の顔が柔らかだった笑顔から、引き締まった表情へと変わる。


「今回の蝶の毒についての資料はもちろん準備する。だけど、それは私と惟之で調べる。それとは別に君には私達の組織のことを、少し学んでもらいたい。今後、私達が君からの助言が必要となった時に、その知識があるのと無いのとではかなり違うと思うから」

「わかりました。精一杯、勉強します!」

「今日も、元気でいい返事が聞けて嬉しいねぇ。惟之が先にいるはずだから行こうか」

「はい、よろしくお願いします」



◇◇◇◇◇



 案内された場所は、ビルの三階にある会議室のような部屋だった。

 惟之と知らない女性が、自分達へと視線を向けてくる。


「お、来たな。冬野君」

「おはようございます、靭さん。あの、お隣の方は?」

「初めまして。あなたが冬野さんね。私は二条の出雲いずもこはねと申します」

「は、初めまして。冬野つぐみと申します」


 綺麗な人だ。

 きりりとした顔立ち、凛としたたたずまいと理知的な瞳。

 すっとした輪郭の顔に掛かる、ミディアムロングの綺麗なダークブラウンの髪。

 優雅な仕草で髪をかきあげる姿に、思わず見とれてしまった。


「冬野さん?」


 黙ってしまったつぐみを、不思議そうに見つめる出雲の声で我に返る。


「すっ、すみません。私、初めての人にお会いすると緊張してしまいまして……」


 恥ずかしさに、思わずうつむいてしまう。

 早くこういう性格は改善しなければと思ってはいるのだ。

 小さな声でしか答えられない、自分自身に情けなさが襲う。

 そんなつぐみに、出雲からは優しい声が掛けられてきた。


「気にしなくていいと思うわ。慣れない場所に、慣れない環境ですもの。誰だってそうなってもおかしくはないから」


 穏やかな口調で、出雲はゆっくりとつぐみに語りかけてくる。


 優しい人だ。

 そう感じたつぐみはおそるおそる顔を上げる。

 目が合った出雲は、ふわりと微笑んできた。

 その笑顔で、緊張が少しずつほぐれていくのが分かる。


「では一度、私は戻ります。惟之様、品子様。何か必要なものがあればご連絡下さい」

「ありがとうね、出雲君。夕方前にはここを出るつもりだから」


 品子の言葉に、出雲は再びにこりと笑む。


「承知しました。では失礼します」


 一礼をして出て行く間際に、出雲はつぐみの傍に来てささやく。


「冬野さん、顔がとても緊張してるわね。深呼吸してみましょうか。はい吸って!」

「はい。すぅー」

「ゆっくり息を吐いて」

「はー」

「はい、そのまま息を吐いて」


(え、そこは吸うのでは?)


「は? はー」

「はい、頑張って!」


 言われるまま続けるものの、さすがにもう無理だ。


「す、すみません。限界ですっ!」


 我慢できず、息を吸う。

 胸に手を当てて呼吸を落ち着かせていると、そっと背中に手が添えられた。


「はい、お疲れ様。初めから緊張してたら、心も体も持たなくなるわよ。もっとリラックスして取り組んでね」


 そっと背中を撫でてくれている温かな手。

 出雲は柔らかく頭をかしげ、つぐみに目線を合わせると口元に緩やかな弧を描く。

 そうして小声で、こっそりとつぐみだけに聞こえるように話すのだ。


「あのね。今日がんばったら、ご褒美ほうびに品子様に美味しいものでも買ってもらって帰るといいわよ」


 そう言ってとんと一回、つぐみの肩を叩き出雲は部屋を出て行った。


 なんて素敵な人だ。

 名残惜なごりおしいわけではないが、つぐみは扉の方を見てそう考えてしまう。


「ん~、冬野君。君は今、出雲君のこと好きになったでしょ?」

「……はい、好きになりました。って、え? 先生、なんでそんなことを?」

「見りゃわかるよー。あんだけ、ぽやーっとして出雲君を見送ってるんだもん」

「あ、あのそれは違うというか。……最初は綺麗できりっとしていたので、もっと厳しい感じの方なのかと思ってたら、違っていたので」

「いや、人によっては厳しいよ。だってこの間の奥戸の事件の後に、二条に用事があって私が本部に行った時さ。惟之が出雲君に、めっちゃ怒られてたもん」


 惟之を見ながら、品子はにやにやしている。


「しかも惟之さ、正座しながら怒られてたよね」

「せ、正座ですか? 靭さん、出雲さんの上司ですよね?」


 思わず惟之の方をがばりと振り返る。

 目が合った惟之の表情で、それが事実だと悟ってしまった。


「ま、まぁ。俺や出雲はどうでもいい。本来の用件にさっさと取り掛かろう」


 惟之が珍しく動揺している。

 これ以上は彼が気の毒だ。

 言われた通り、作業に取り掛かろうと周囲を見回していく。


 部屋は十畳ほどの大きさだ。

 中央に大きな木製の机があり、周りに四人分の椅子が設置されている。

 他にも二か所のサイドテーブルがあり、その上には小さな可愛らしい観葉植物とつぐみ達が読むであろう資料が並べられていた。

 奥にミニキッチンがあるのが見える。

 シンプルながら、設備は十分に整えられていた。


「さてっと。まずは冬野君は、こちらのテーブルにある資料を読み込んでもらうよ。私と惟之は。……もう一つの方のテーブルだね。さすが出雲君。仕事が早い」


 品子は数冊、手に取ると中央の机へ向かい、惟之と並んで座り読み始る。

 自分もと、つぐみは品子に指示されたサイドテーブルに向かった。

 資料を手に取り、自分も中央のテーブルへと戻る。


「先生、こちらのお部屋はいつまで使う予定ですか?」

「時間でという意味ならシヤのこともあるし、夕方前にはここを出ようと思っているよ。期間という意味なら、このビルがうちの組織の所有だから、特に期限はないけど?」

「でしたらこの部屋に、私が書いたメモや覚書などを置いておくのは許可を頂けますか? あと、シュレッダーってこのビルにはありますか?」

「おぉ、覚える気満々。さらには情報漏洩対策まで考えてくれてありがとね。ここの二階にしばらくの間は、二条の人達が何人か常駐しているはず。だから、そこにならシュレッダーはあると思うよ」

「ありがとうございます。では私も始めますね」


 後の処理を考えると、ノートよりルーズリーフの方がよさそうだ。

 持ってきた鞄から筆箱とルーズリーフを取り出し資料を開く。


「あれ? この資料は……」


 白日はくじつの組織内部関係と書いてある。

 白日。

 この名前は品子達が所属する組織の名前ではないだろうか。


『白日の関係者だとは知りませんでしたよ。ここに入れたということは、発動者ではないみたいですが』


 先日の奥戸が話していた言葉の意味を、ようやくつぐみは理解する。

 今までは品子のいる組織のことを聞いて、迷惑を掛けてはいけないと聞かずにいた。

 だがこの資料を渡されたということは。

 つぐみは品子へと声を掛ける。


「先生、この資料を見ていいということはつまり」

「先に言っておくが、君を白日に入れるつもりは無い。先程も言ったが、君の存在を私は上には知られたくないんだ。勝手な話だとは承知はしている。君は、表に出せない三条の協力者という立場にいると思っていてほしい」


 それはつまり、自分がまた認められたということ。


「……私っ、私は! 先生達の協力者になれたのですね。まだ一緒には行けないけど、傍にいて手伝っていいということですね!」

「こんな失礼な話をして怒るかと思ったけど。そこは君は、逆に喜ぶんだね」


 品子は、呆れたような表情を浮かべている。


「よ、喜んではいませんが。あれ? でも嬉しい? 自分でもよくわからないのですが、すごく嬉しい、……です?」



 やはり浮かび上がる感情は『嬉しい』だ。

 少しだけとはいえ認めてもらえている。

 ぐっとこぶしを握り、つぐみは思うのだ。


 頑張る!

 頑張るんだ、冬野つぐみ!

 先生達に、必要と思ってもらえる位に!

 まずは組織の把握からだ。

 何だかいつもより頑張れそうな気がする。 

 ――さぁ、はじめよう。

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