第36話 優しい時間

「うわぁ、可愛い!」


 思わずつぐみの口から声が出た。

 洗面台には、黄色の犬の描かれたパジャマが置いてある。

 ポケットの部分から犬がこちらを覗き込んでいる可愛らしい柄に、たまらずぎゅっとパジャマを抱きしめてしまう。

 パジャマの上には巾着のポーチが置いてあり、中には歯ブラシや化粧水、さらには使い捨て用のペーパーショーツまで入っていた。

 まさに至れり尽くせりだ。


 シャワーで軽く汗を流してから、浴槽につかり体を伸ばしていく。

 自分の部屋の狭い浴室と違って、しっかりと足が伸ばせるお風呂に入るのは久しぶりだとつぐみは思う。

 大きく伸びをすると、自分の動きに応じてちゃぷりと音を立てる水音がとても心地いい。


「それにしても、まいったなぁ」

 

 先程見た資料の内容をつぐみは思い返していく。

 不明者に対する詳細な情報もさることながら、沙十美の参考資料の方につぐみのデータまで入っていたのだ。

 自分の行きつけのスーパーの情報まで書いてあり、かなり恥ずかしい思いがある。

 家庭事情のデータが無いのは、品子がヒイラギ達に見せないように配慮してくれていたのだろう。


 しかしながら、どうやって店を見つけたらいいのだろう。

 早くしないとまた、行方不明の人が出てしまう可能性がある。

 今日中に資料を読むために泊まってほしいという品子の意図いとも、そこに在るのだろう。


「もう少し読み込んだら、何かわかるかもしれない。徹夜になってもいいから頑張ってみよう!」


 決意を新たに浴槽からざばりと立ち上がる。


「私に、私にだから出来ることをやるんだ!」



◇◇◇◇◇



 つぐみがリビングに戻ると、机の上にあった資料は片づけられ、代わりに美味しそうな食事が並んでいた。

 ほうれん草の入った卵焼きにお味噌汁、つぐみが作った豚バラも盛られた皿で湯気を立てている。

 品子はそれをこぼれんばかりの笑顔で食べていた。


「おかえり! 先に頂いてしまっているよ~。匂いとか大丈夫かな?」


 匂いで気分が悪くなることはなさそうだ。

 だが食欲は、まだ出てこないのをつぐみは認識する。


「はい、大丈夫みたいです。すみませんが、私はこのまま資料を読ませてもらいますね」


 つぐみが机の横に置かれた資料に手を伸ばすと、品子から声が掛けられる。

 

「でもヒイラギが、君にってスープ作ってあるよ? 良かったらどう?」

「え、そうなんですか?」


 つぐみはヒイラギの方を見るが、彼は黙々と食べている。

 ちらりとつぐみを見たものの、彼はすぐに視線を逸らしてしまう。


「みっ、みそ汁のついでに作ったやつだ。食欲が無いなら食うな」


 ヒイラギは早口に話すと、かなりの勢いでご飯を口へと入れている。


「台所のコンロにあるやつだよ。見てから考えれば~?」


 のんびりとした口調の品子が言うままに、つぐみは台所へと向かう。

 コンロには鍋が二つ並んでいた。

 一つには味噌汁が、もう一つの小さな鍋の方に野菜を煮たスープが置いてある。

 コンロの脇に置いてある椀を手に取り、ゆっくりと注ぐ。

 皆の方に行こうかとも考えたが、もし体調が悪くなってしまったら迷惑が掛かる。

 このまま、台所のテーブルの方で食べようと席に着く。


 食べられるだろうかと思いながら、つぐみはスープを口にする。

 薄味だけれども、だしの香りがふわりと広がるとても美味しいものだ。

 中の野菜は白菜と大根で、こちらも胃が受け付けやすいようにと、細かく切って入れてある。

 味もさることながら何よりもヒイラギの優しさがいっぱい詰まったスープだとつぐみは思う。

 自分でも驚くほど、あっという間に飲み終えてしまった。


 ほぅ、とため息のような息が出て、おもわずにっこりとしてしまう。

 その時点でようやくリビングに目を戻すと、品子とヒイラギがつぐみを見ていた。

 同時に視線を逸らすつぐみとヒイラギを見て品子は、楽しそうに笑っている。


「いいねぇ。美味しいご飯は人を幸せにするよなぁ。そして青春って感じもいいよねぇ」


 品子の言葉に、つぐみの顔が赤く染まっていく。

 

(いけない、この流れは何かおかしい!)


 気まずくなったつぐみは慌ただしく使ったお椀を洗い、改めて資料の読みなおしに取り掛かる。

 先程のことで動揺したためだろうか。

 目はただ文字を追っているだけで、文章が頭の中に入ってこない。


「冬野君、今日はここまでにしようか」


 品子の声を受け時計を見ると、すでに日付が変わっていた。


「鈍くなった頭で考えてもうまくいかないだろうから。今日は休もう。こんな時間までありがとうな」


 品子に肩を軽くポンと叩かれる。


「確かに言われるとおりですね。少し頭を休ませてから、考えた方が良さそうです」

「そうだよ。ここの隣の部屋に、布団を敷いておいたからそれを使ってね。おやすみ~」


 伸びをしながら品子は廊下の方へ去っていく。

 つぐみも眠ることにしようと体を伸ばす。


「うん、明日になれば、何か気づけるかもしれない」


 敷いてもらった布団にくるまりながら、つぐみはそう呟くと眠りにつくのだった。

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