第7話 樽に詰まった魅惑の果実
円い木の蓋を弾き飛ばし、すぐに跳び退って低く身構える。
大樽の中から何かが飛び出して来ることはなかったけれど……代わりに耳に届いてきたのは、途切れ途切れの弱々しい息遣い。
寝息というよりは、むしろ重病人のような気配だ。
何にせよ、すぐに襲われることはないと判断した僕は、慎重に大樽に近づいて中を覗き込んだ。
「……えっ?!」
樽の中で身体を丸めていたのは……毛皮のドレスを纏い、泥にまみれた女の子。
先ほどの石槍と合わせれば、原始人という感想しか出てこない。
そして、案の定、全身にひどい怪我を負っていて、意識も朦朧としているようだ。
「まさか、あの族長……いや、さすがに違うか」
手枷足枷などは付けられておらず、良からぬ目的のために連れて来られた奴隷といった雰囲気でもない。
それに、この倉庫にそんなのがいるなら予め僕に伝えているはずだし、やはり意図せぬ侵入者と判断するべきだろう。
さて、どうしたものかと改めて原始人の女の子に目を向けると……その瞼がパチリと開いた。
◇
視線が交錯した刹那、全身のバネを使った強烈な頭突き。
「ぎゃっ!」
顔面に直撃を食らった僕は、鼻血を撒き散らしながらゴロゴロと床を転げ回る
……どう見ても死にかけていたのに、何処にこんな力が残っているんだ?!
激痛を堪えて何とか体勢を立て直すと、原始人も石槍を杖にしてヨロヨロと立ち上がるところ。
「この堕落者め! 貴様なんかに触れさせるほど、私の身体は安くないわ!」
堂々と威勢の良い口上を謳うも、その口元からは一筋の血が流れ落ちている。
……貞操を気にするよりも、まず命の心配をしたほうがいいんじゃないだろうか。
とにかく、取り押さえて大人しくさせないことには、ろくに話も出来そうにない。
僕は互いの間に複数の火球を滞空させ、原始人の次なる攻勢に備える。
「…………えっ?!」
なけなしの力を振り絞って凛と立つその姿は、泥に塗れていてもなお高貴さを感じさせるものだった。
そして、暗がりに浮かび上がった端整な顔立ちは……僕にとって、忘れたくても忘れられないものだった。
「っ?! どうして、貴方が……」
僕が見知った女の子は、僕のことを覚えていたようだ。
直前で攻撃を踏み留まってくれたけど、そのせいでフラフラとよろめき尻餅をつく。
そのうえ、緊張の糸が切れたのか……完全に気を失ってしまった。
「えっ、ちょっと!」
慌てた僕は、数少ない親友の妹……かつてサプライズお見合いをさせられた相手に駆け寄った。
◇
意識のない女の子を樽詰めにするという背徳的な作業を終え、額の汗を拭って一息。
「とりあえず、出来ることはやってみたけど……」
ベッドに寝かせるではなく、また樽に詰め込んだのは治療が目的。傷を癒す作用のある水術に浸すためだ。
ただし、これは打ち身や切り傷程度にしか効果はなく、内臓の損傷のほうは教会関係者の『神聖術』でもないと治せない。
「どうして、この子がこんな目に……」
相当なお転婆だったのは覚えているけど、あくまで彼女は貴族のご令嬢。
こんなズタボロになるのはヤンチャの範疇を超えているし、そもそもこの島は高貴な人間が訪れるような場所ではない。
当然、厄介な事情があるのだろうけど……それを聞き出す前に意識を失ってしまった。
「……何にせよ、このままじゃまずいな」
外傷からの出血は収まって呼吸も落ち着いたものの、相変わらず意識はないし顔も土気色のまま。
どう考えても、早急に専門家による本格的な治療が必要だ。
とはいえ、あんな集落に担ぎ込んだところで、教会もなければ医者もいないし……
「……よし、ダメ元で試してみるか」
幸いにして、この状況を何とか出来る物は倉庫の中に転がっている。
もちろん、本物であれば……だけど。
僕はベッドの傍に戻り、胡散臭い『神酒』の瓶を手に取った。
◇
スポンと勢い良く栓を抜き、手の甲に垂らした雫を舐めてみる。
すると、僕の両の鼻の穴から、止まっていたはずの鼻血が勢い良く噴き出した。
「かはっ?!」
舌がとろけるほどに美味しく、喉が焼けるほどにキツい。
しかし、それより何より……多少感じていた疲労が一瞬で吹き飛んだ。
……偽物でも毒物でもなく、紛れもない本物。
ますます族長のことが分からなくなったけど……今考えるべきは、そんな事じゃない!
「よしよし、イケるぞ!」
瓶の中身の大半を樽の中に注ぎ込み、残りを新たに創り出した水で目いっぱい薄める。
……この威力では、原液のままでは内臓がぶっ壊れてしまうだろう。
僕は樽の中で力なく眠るお姫様に近づき、その口元に瓶を寄せたところで……ふと動きを止める。
「…………」
完全に意識がない人間の口に含ませたところで、飲み込めずに溢れるのは素人でも分かる。
そうなると、方法は『口移し』くらいしか思いつかず……
「…………」
緊急避難の医療行為なのだから、何も躊躇する必要はない。
たぶん、本人は『それなら私は死を選ぶ』と言うだろうけど、意識はないので気にする必要もない。
「…………」
泥さえ落とせばビックリするぐらい美人なのは知っているし、生理的嫌悪を覚えるどころか文句を言ってはバチが当たるレベル。
僕と同い年で背丈も変わらないのに、人並み以上に大きく育った部分は、今も水の中でプカプカと揺れているし……
「……いやいや、僕は何を考えているんだ」
そんな下らない事はどうでもよく、今するべきは人助けだ。
いくら気に食わない相手とはいえ、救う手立てがあるのに見殺しにしてしまっては……リンジーさんに再会したときに顔向けが出来なくなってしまう。
覚悟を決めた僕は、彼女に『神酒』を飲ませる作業に取り掛かった。
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