第4話 「空を感じて」第1話
梅雨頃だ。ここ、神崎天の川公園では水路沿いの桜が散ると大分人も足を運ばないのがこの時季である。
わしは飯田源次、75歳。あっという間に歳をとった。日本酒造を営んでいるが息子が跡を継ぎ、最近は隠居生活。だから毎日、この公園に来て、水路を眺めている。
水路の流れは、人生の流れとよく似ている。次第にそれは大海原へ。そして余生を終えるのであろう。
水路の反対側にトカゲが動いているのを見つけた。それをしばし眺めながら、目線を上にあげる。そこにはいつもの女性が立っていた。彼女はいつも悲しい顔をしながら缶ビールを飲んでいる。源次は、彼女が帰るまでの約1時間という時を共有していた。きっと彼女も、いつものお爺さんだわ。と思っているのだろう。
まだ話しかけてもいない彼女との距離は丁度水路が阻む。
しかし、今日は雨がぱらついている。彼女は傘を持たず、少しずつ濡れているのが分かる。それを見て、源次の中で、彼女は相当何かに追い詰められいるのかもしれないと哀れんだ。
源次は場所を一旦離れて、家から傘をもう一本取りに行った。
傘を持ち、公園に戻ると彼女はまだ水路の前で立ち尽くしていた。
源次としては、亡くなった婆さんにプロポーズをする時以来の緊張感だ。
彼女の頭の上に広げた傘を差し出す。
彼女は突然の事で驚いていたが、源次の顔を見て安堵したようだ。
「ありがとうございます。」
「このままだと風邪をひくと思ってね。年寄りの勝手な自己満足じゃよ。気になさらんな。」
2人は、しばし静かに水路を眺めていた。源次はこの後、なんて話しかければいいのか分からないでいたが、源次から手渡された傘の下で彼女の方から話かけてきた。
「えっと、おじ様?おじ様はいつもここに居ますよね?」
「まあ、近所だからのう。しかし、おじ様と呼ばれるのは恥ずかしい。わしの名前は源次だ。飯田源次だよ。」
彼女はクスッと笑って見せた。彼女の笑った顔は初めて見る。
「私は鎌倉リカといいます。源次さん。って呼んでいいですか。」
「ああ、構わん。鎌倉リカ…リカさんか。覚えておくよ。公園仲間じゃからの。」
また、沈黙が続き、源次は思い切って聞いてみた。
「リカさんは、なぜ毎日ここの公園に?わしは隠居した身で散歩コースみたいなもんじゃから深い意味はないのだがね。」
鎌倉リカは手に持ってた缶ビールをぐいっと飲み干す。
「私、もうすぐ結婚するんです。鎌倉リカじゃなくなっちゃうんですよね。」
彼女は寂しげな瞳で空を見上げる。
「森野リカになるんです…。」
「それは、それは、おめでたい。」
「それが、全くおめでたくないんです…。」
彼女はため息を吐いて、話し続ける。
「結婚が決まってから彼の態度が急に横暴になって、毎日怒鳴られたり、手を挙げられたり、日に日に暴力が酷くなって…。その上、他にも付き合っていた女性とまだ縁が切れてない事も分かりました。」
「そうでしたか…。」
少しの沈黙が続き、彼女は続けた。
「でも、結婚式の日取りは決まっているから、今更引き返せない…。彼の実家の大阪のお父様、お母様も喜んでくださりました。それに、何より私のお父さんもお母さんもすごく喜んでくれているんです。」
そこまで言って彼女は涙と嗚咽を堪え始めた。
源次は、あまりの内容になんと声をかけていいのか分からず。ただ、水路を眺めていた。
「わしは無力じゃな。話を聞いて同情するしかできないなんての。」
「いえ、そんな!源次さんに話を聞いてもらえただけでも気持ちが楽になりました。ありがとうございます。」
だが、このまま結婚したら鎌倉リカの人生はさぞ大変だろう。源次は何とかしてあげたくて仕方がない。
結婚式は迫っている。親族に迷惑はかけられない。わしは嫌われても構わん。できることなら…。
「リカさんよ。」
「なんでしょう?」
「わしに誘拐されないか?北の方に向かおう。新鮮な魚でも食べて、一回自分の人生を楽しく見つめ返すのじゃ。」
半分、冗談ぐらいのつもりで言った。こんな話に乗るわけがないと。でも、
「いいですね。源次さん。私を誘拐して下さい!」
この時、源次は鎌倉リカの満面の笑顔を初めて見て、恥ずかしながらもドキッとしてしまった。
「それに源次さん。私、新鮮なお魚、すごく大好きです!」
気が付いたら、雨は止んで、眩い太陽が2人を照らす。それは、とても温かい日差しであった。
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