ストーカーな浮気純愛恋

浅桧 多加良

 

 篠崎優斗はバイトの休憩でタバコを吸っていた。雑居ビルの非常階段に消火用バケツに水が張られている。こんな所からは風景なんて全く見えない。黄昏てはいるのだけれど優斗の所からは全く夕日なんて見えない。

 それでも紫煙を漂わせながら優斗はため息を吐いていた。煙は綺麗とは思えない風に流されて淀んでいる方へと流れていた。

「恋しいねんなぁ」

 独りごちていた言葉だったのだけれど、横でケータイを眺めている仕事仲間の前島が気が付いて、優斗の方を見た。こちらもタバコを吸って缶コーヒーを持っていた。

 すると前島はタバコを灰皿となっているバケツへと捨てた。チュンと火の消える音がしてタバコが水に浮いていた。

 前島は座っていた階段から起き上がると横で手すりに持たれている優斗の横に並んだ。

「ちょっと楽しそうな言葉が聞こえたんだけどなー?」

 ニッコリと笑っている前島は優斗の事を肘で叩きながら聞いている。

 そんな表情を見て優斗は言うべき時を間違えたと顔を渋くさせてしまった。再びのため息。前島はそんな事を気にしないで「なあ」としつこく優斗に話しかけていた。

「うるさいなぁ。ちょっとした独り言やん気にすんな」

「それは気になりますって……」

「副店に気にされる程の事では無い」

「でも、こっちに住み始めてからまだ一週間のシノが恋だなんてオモロイじゃん」

「俺は副店の楽しみの為に居るんじゃないからな……」

 ブスッと優斗はぶーたれて手すりに顔を預けた。

 優斗がこの街に住み始めたのは、ほんの一週間前から。三十も過ぎてからの引っ越しなのだが、転勤とかそんなのではない。もちろん夜逃げなんてそんなドラマチックな事でも無かった。

 優斗の職業はカラオケ屋のアルバイト。それは今の土地になってから、偶然道端の張り紙を見付けたもので三日目となる。

 前島は三つ年下の社員で副店長だったのだが、教育係になってその人懐っこさから随分と仲良くなっている。

 優斗からしてみれば、前島は年下上司なのだが、そんな事も気にしては居ない。その理由は前島にも有った。前島は優斗を友達の様にフランクに話してそこに雇用関係なんて無いみたいに思える程だ。だのでまだ会って三日と言うのに優斗も気兼ね無く話せているのだ。

「んでっ? お相手は誰なんだよ?」

「言わへんし」

「独り言って誰かに聞いてほしいから云うんじゃね?」

 二人の仲の良さは随分と昔から知っているかのようになっている。

 一応、上司の前島にも優斗は言葉遣いも気にしてない。そして前島の方も年の差を無視って今は優斗の背中をバンバンと叩いている。

「まあ、そうなんかもなー」

「うーん、バイトの仲原ちゃんかな? ちょっと若いけど綺麗で、今は彼氏も居ないって云ってたから」

「あーっと……俺には若すぎるだろ」

 随分と優斗は店にも慣れている雰囲気なのだが、一応まだ三日目なのでまだ全員の顔なんて憶えてない。

「そっかー、じゃあバイトリーダーの田中さん? シフトも似てるし。バツイチさんでも良いなら応援するぞ」

「んー、田中さんな……派手な人、俺のタイプやないんだよな」

「じゃあ、誰なんだよ!」

 前島は業を煮やした様に声を荒げている。そしてコーヒーをキュッと飲み干して優斗の事を睨んでいた。

 しかし優斗の方は手すりに肘を付いて前島を眺めながらも穏やかな笑顔になっている。

「俺が恋は最近の事やないよ……」

「ふむ。話が長くなりそうだ。今日呑まないか?」

 存分に休憩時間を超過していた。それには前島も気が付いていたらしくこんな提案をしていた。優斗の今日のシフトは夕方まで。

 対する前島は一応、夜までなのだがその差は数時間しかない。

 歓迎会もまだなのだが親睦を深めるならそれも有りなのかもしれない。お酒が好きな人間なら二つ返事で賛成しているかもしれないが、優斗はそう言う訳でも無かった。

 篠崎家は代々アルコールには弱い。もうホントーに優斗はビール一杯でしっかりと酔える。それでも家族では一番強いと言う遺伝子的に酒とは縁遠い人生なのだ。

 とは言え優斗もお酒の席は結構好きな方で、そして夜は暇だ。ちょっと酔っ払って話してしまいたいとも思ったので、優斗は断わろうとも思ってない。

「まっ、構いませんよ」

 あまり喜んでいる様な雰囲気では無かったけれど、前島はにこやかになって張り切って仕事に戻った。

 ガチャンと鉄のドアが閉まるのを見て、優斗はまた一つため息を吐いていた。正直な事を言うと自分は人見知りな方。こんなにすんなりと仲良くなれた前島は有り難い。そんな事も含めてのため息だった。

 優斗が仕事が終わって帰ろうとしていた時に、前島がカウンターから、丁度客が居なかった事を良い様に優斗の肩をガシっと捕まえた。

「それじゃあ、ヒロシの所で待っといてくれ! 逃げんなよ」

「逃げへんて……それよか、ヒロシって誰?」

「副店と篠崎さん用事ですか?」

 待ち合わせの約束を受付の横なんかでしている、例の仲原さんがしっかりと仕事をしていたので横で聞いていて疑問符を付けていた。

「一緒に呑む事になってん……」

「歓迎会なら私も参加します!」

「仲原さんは閉店までだから時間が合わないでしょ。それに今日は重要な話だから二人っきりで。歓迎会はちゃんと予定してるよ」

 優斗がちょっと面倒そうな顔をしていると、仲原さんは楽しそうだと自分も手を挙げていた。でも、前島は悪い社員と化してニッカと笑っていた。

 そんな事をしているとお客さんが現れたので、優斗はお疲れ様でしたと残して店を出た。顔からにこやかさが離れない。それはお客さんにサービスのスマイル送っていたのも有るんだけど、今さっきまで話していたのが楽しかったから。

 街はまだ冬の風景をあちこちに残り雪として置いていたけれど、明らかに暖かくなっている。それでも優斗にはまだ寒い。優斗が生まれ育ったのはまだかなり南の方。真冬になったとしても雪が二日も続く事なんて無い。それなのにこの地方は優斗が訪れてからずっと雪は姿を残してまだ降る事だって有る。そんな風に吹かれて優斗はジャンパーの襟元を締めて歩いた。

 この街は自分でも憧れた時も有る。しかし、だからと云って今更になって引っ越した訳では無い。それには一つ理由が有るから。自分でもバカげてるとは思う。

 優斗は前島には今日この事を話そうかと悩んでいた。こんな事を考えていたって答えが見つかる筈も無い。取り敢えずはお酒を呑んでその時の気分で話そう。優斗はそう思って考える事を辞めてしまった。

 前島との約束の時間まではちょっと有る。家に帰っても良いのだけどイマイチゆっくりしている時間も無いだろうと、街をフラつく事にした。

 意味も無く優斗はまだ知らないばかりの街をフラフラとする。時折、別に普通の風景を眺めては足をとめて難しい顔をしていた。

 それは人々の波だったり、野良猫だったり、更には足元の転がっているゴミだったりもした。

 そんな風に時間を潰しながらちょっと寒くてなったので地下街の方へと進んだ。しっかりと暖房が効いていてこちらは外の格好をしていると、暑くてしょうが無いくらいだった。。

 地下のその通りの路上では様々な人達が自分のお店を開いていた。でも、それはお店と呼べる程の事ではなくてストリートミュージシャンや道化師と、良くてもアクセサリーショップくらいだ。それでも優斗そんな店を順に見て回った。

 買い物するのでも音楽に耳を傾ける訳では無く、ただずっと眺めているだけ。しかも楽しそうでは無くて渋い顔をしている。そんな店の一角に優斗の興味が示された所が有った。

 二十代の女の人がただ座っているだけなのだが、その周りには似顔絵が飾って有る。その場で似顔絵を描いてくれる人だ。

 優斗はそれまでとは違った視線で見つめると、ふと腕の時計を見た。誰でも知っている様な超高級ブランドではないが、好きな人が見れば結構良い品だと解るそれは、約束の時間までまだ余裕がある事を示していた。

 すると優斗は笑顔を作ってそっちに向う。

「こんにちは。良いですか?」

 近付くと女の人は気が付いてニコッとしたので優斗がそんな風に聞いた。

「ハイ。もちろん!」

 優斗は似顔絵を描いてもらう事にした。

 絵師から要望は有るかと尋ねられたので、優斗は自由にと厄介な注文をしていた。こんな時にはあれこれと注文をする方が意外と似顔絵としやすい。言う慣れば他の事で誤魔化せないので面倒な注文と言える。

 それでも優斗の向かいの女の人はサラサラとペンを進めて、ほんの数十分で完成させてしまった。似顔絵はそれなりに似ていた。

 優斗も笑顔で「ありがとう」と勘定を済ませて、待ち合わせのヒロシの所に向かう事にした。意味が解らなくって、ホスト風のスーツを着人間が浮かんだけれど、携帯で調べたら直ぐに判明した。この辺りでは有名な待ち合わせスポットらしい。

 どうしてヒロシと呼ばれているのかまでは調べなかったが、優斗は時間に余裕を持って到着していた。時間に間に合わない様な事は自分には合わない。だからいつだって余裕を持って時には基本十五分は待つ事にしている。

 暇潰しには全くもう苦労しない。周りを見詰めているだけで優斗には重要な時間となるのだ。暫く優斗は現代人の暇潰しである携帯すらも見る事も無く、辺りを見渡していた。

 すると遥か遠くの方から最近では一番良く会っている人間が近付いていた。

 前島だ。今は待ち合せの人が少なかったので、前島は優斗の事を見つけてニッコニコになって駆け寄っていた。そんな姿を見て優斗はどうしてか、うざったくなってしまったので視線をはずして、気付かなかったフリをしていた。

「やー、待たせたね。ゴメン」

 前島は隣まで駆け寄ると気軽に話していた。

 優斗はこの前島と言う人間の人懐っこさを面倒な奴なのかもと思い始め、横目で睨んでいた。前島はそんな視線を気にする事も無く笑顔を崩すことも無かった。

 それから二人は適当に選んだ居酒屋に向かってビールと肴を注文すると、仕事場での文句を前島が言い始めた。

 こんな話はあんまり好きじゃない優斗は適当に相槌を打ちながら流していた。

 するとさっきまでマシンガンの様に話していた前島が、優斗の持っていた色紙に気が付いて手に取った。それはさっき描いてもらった似顔絵。ちゃんと優斗の特徴を捉えていて良く似ている。

 前島はそんな似顔絵を眺めて「ふーん」と云っていた。

「それさっき地下街で描いてもらったんだ」

「似てんな……この人うまいねー」

「そっかな? この人の腕はイマイチかな? まあ、お金を取っても問題ない程度かな?」

 横から優斗は前島がずっと見詰めていた似顔絵をピッと取ると、自分もそれを眺めた。

「詳しいね。シノくんは絵の勉強でもしてたの?」

「勉強って程の事はしてないけど、このくらいは解る」

「俺には解かんねーわ」

「普通の人はそれで良いんじゃね? そうじゃないとその辺の似顔絵師は稼ぎが無くなる」

 そんな事を言いながら優斗は似顔絵をしまった。

「だったらシノくんは似顔絵うまいのかよ?」

「俺っ?」

「そう。文句を言うなら誰でも出来る」

 さっきまで仕事の文句を云っていた前島の言葉とは思えない。

「ペンと紙が有ったら副店の似顔絵描いてあげるよ」

 すると前島は自分のカバンをガサゴソと探し始めた。そしてテーブルに書類らしきものとボールペンを置いた。

「安請け合いしたと、吠えづら描くなよ」

「心配しなくても似顔絵描くよ……」

 優斗はふっと笑ってビールを飲むと、紙とペンを取って前島の方を向いた。

 スラスラとペンが進む。優斗は考える事も無く時々、前島の顔を見ながら似顔絵を描いていた。

 ほんの数分で絵似顔は完成した様子で、優斗は一度紙と前島の顔を並べて見た。納得したみたいで優斗はもう一度テーブルに置くとyu-toとサインをして前島に渡した。

 それは前島の特徴を誇張されていて、おデコが明らかに実際よりは広くてピカッと光っている。ちょっと膨らんだ鼻はアンパンになっている。そして普段からずっと笑顔の表情はクシャリとしていた。

 どれもが馬鹿らしい絵だったが、どう見てもそれは前島だったので今本人はア然としながらそれを眺めている。

 そんな事は気にしても無い優斗は、鳥の唐揚げを咀嚼して静かにしていた。

「これは……十分に金を取れるぞ」

「んっ? ありがとう」

 優斗はそう言いながら掌を見せている。もちろんこの時の優斗の瞳には「現金」と言う文字が見えていた。

「ホントーに、趣味にしておくのは勿体無いって」

 しかし前島はそんな魔法みたいな視線は無視をして、優斗の掌を叩いた。

「さっきの絵師さんは千五百円だったから一緒で良いよ」

 優斗は反対の掌を更に出した。今度の目は「督促状」になっているけれど、優斗は三つ目小僧では無い。

「どうしてバイトなんかしてんだよ」

 その掌には前島からフライドポテトが置かれていた。

 優斗はそんな芋を睨んでからポイッと自分の胃袋へと収めた。

「バイトは暇潰しと現代社会の観察」

「……? ちょっと意味解かんねーぞっ。俺は絵描きになれって云ってんだぞ?」

 ポカンと前島はアホな顔を見せてた。

 優斗はそんな顔を睨んでチーズフライを差し伸べると、前島は犬みたいにパクっと瞬時に取ってしまった。残念な事ながら「ワン」とは言わない。

「店長には伝えてあるけど、聞いてないの?」

「いえ。全く」

 仕事での連絡事項がこんなにも伝わって無い事を思い知って、優斗はガックリと肩を落とす。

「俺、絵を描いてちょっと稼いでるんですよ。バイトは副業」

「そうだったの? 知らんかったー」

「副店長なんでしょ、知っておいてよ……」

「聞かされてないもん」

 お茶目に前島は答えていたが、優斗は更に肩を落とすばかり。もう優斗の身体からは離れて居酒屋の地面に肩が転がっている気分になっている。

「そんなんで、あの店良いんすか」

「今ん所はバイトに心配される必要は無い。ってか似顔絵屋でもしてんの?」

 明らかに楽しそうになった前島はニコニコと笑っている。

 優斗はもう説明する事が面倒になったみたいで、眉間にシワを寄せて深いため息を吐いていた。

「まあ、そんなんですよ……」

 それからも前島は芸術の事を話したり、時々さっきの似顔絵を見ては優斗の事を褒めた。

 お酒はどんどんと続いていた。弱い方の優斗はちゃんと自分のペースを守って、時折ノンアルコールを挟みながら進めていた。

 それでも十分に酔っ払っているので隣で考えもなく呑んでいた前島なんてのはもう潰れそうになっているけれど、そのしつこさはいつにも増していた。

 どちらかと介護になりながら店を離れて、優斗が前島に肩を貸している。まだ前島は優斗の絵の腕を褒めてグダグダと話を続けていた。でも、その時に前島はピタッと立ちどまってしまった。

 優斗は危ないと思った。吐くのだろう。誰だってそんな事を予想する瞬間だけど、前島の表情は冴えている。気分の悪そうな雰囲気では無くて、ちょっと考え事をしてるみたいに思える。

「俺達って、他に話が有ったんじゃ無かったっけ?」

 前島の言葉にちょっと離れてファイティングポーズを取っていた、その両拳を下ろして優斗は呆れていた。

 嘔吐の危険は無いと解った優斗は、お荷物の前島の手を引く。

「はい。もうそんな事は良いから帰りましょ」

 引っ張られてもなお前島は考えると、ピカッと電球が光った。もうそれは現代の子は知らないだろう昭和の時代のアニメの様だ。

「シノちゃんの恋の話を聞くんだった!」

 前島は腕を振り解いて語っていた。かなりのボリュームだったので周りの人々がクスクスと笑っている。

「もうそんな事良いから、帰んぞ!」

 優斗は前島を両手で引っ張るけれど、前島はそれに対抗してしまっている。

 駄々っ子の手を弾く母親の様相を呈していた。

「駄目だ! 俺は恋バナを聞く! もう一軒だ!」

「まだ呑むんか……」

 実に面倒そうな顔をして「えー」っと優斗は云っていたが、前島には聞かれなかった。

 歩いて軽く覚めたのか前島は元気になっていると、自分の知っている店なのか、静かなと言えば聞こえが良いが、寂れている居酒屋に着いた。

 前島は狭い店の一つしかないテーブル席にドカッと座る。他に客は無くてお爺さん店長だけの店だった。

 注文もする事も無かったけれど焼酎のキープボトルが運ばれて、それと一緒に焼き鳥が並んだ。

「それじゃあ、シノくんの恋しい相手を聞きましょうか?」

 前島は水割りをサックリと作りながら、にこやかな笑顔を優斗へと送っている。

 対する優斗の方はかなり顔が渋い。そんな表情をしていても前島のニコニコは続いて話さないと今日は終わりそうに無い。優斗は取り敢えず水割りをクッと呑んだ。

 結構強くて優斗には一瞬で酔ってしまいそうな割り方だった。

「聞いても楽しくないですよ」

「恋の話はどんな時でも楽しいよ」

 優斗は前島の事を睨んでいたけれど、前島は全く気にする様子は無い。

 なので優斗はフンと一度ため息を吐いた。

「俺の恋はとても古いんですよ」

「へー、それはいつ頃からなのー?」

 実に前島は楽しそうな返事をしている。片手に水割りを持って笑っている。本当に恋の話が好きな様。

「俺が高校の時の話ですよ」

「それはまた古いなー」

「そう。戦前の話ですから」

「シノちゃんって結構な年なんだねー」

 もちろんそんな筈は無い。ちゃんと優斗も平成生まれだ。海賊と呼ばれる男でも無かった

「もう百歳になるって、そんな訳有るかい!」

「やっぱ西の人は楽しい」

「でも俺、関西人じゃ無いから」

 冗談を続けるので優斗もその気分になっていた。

「だからこそ真面目にね。その高校の時に恋してたんだね」

 笑っていた前島だったが急に真剣な顔に戻る。

「そりゃまあ、普通に。その頃はね……」

「それで? 今と、どう繋がるの?」

「んー、言わないでおこうかな……」

「まどろっこしい奴だな。話せよ」

 前島は座った目で優斗の事を睨んでいた。

「笑わないか?」

 対する優斗の方は飄々とした表情で返している。

「そりゃもう!」

 実に楽しそうな前島が居て、優斗はその言葉を信じきれないみたいで横目で睨んでいた。

「まだ、その娘の事が好きなんだよね……」

 ボソリと優斗が話すと、前島はポカンと眺めた。

 無言の時間が続いていた。とても静かな店にお爺さんが居眠りしてそうな声が聞こえる。お笑いのコントならお爺さんが面白い事をいうところだけれど、そんな事も無く二人がただ静かに座っていた。

「まだ? 高校からだと……十五年近く?」

「うん。もうそんなになるんだな……」

「それってちょっと危なくないか?」

 前島の眉間に皺が寄っていた。明らかに軽蔑しているみたいな視線が有る。

 そんな表情を読んだ優斗は慌てた様に話を続ける。

「別にその間も普通に恋愛とかはしてたよ。でも、別の人と付き合っていると違うなって思って……俺が本当に好きなのは、あの頃の娘だなってなるんだよ」

「うん。別にシノくんが今まで彼女居なかった、とかを云っているんじゃなく……ずっと好きだったって言うのがねー……」

 優斗の慌てぶりを完全に無視って、前島は腕を組んで「うーん」と唸っている。

「そうは言われても、好きなんだよ」

 そんな前島に対して優斗はまたもやもボソリと返すしか出来なくなっていた。

「どうして告白しなかったの?」

 その前島の言葉を聞いた瞬間、優斗はガックリと肩を落として俯いてしまった。

「チャンスが無かった……その娘とは仲の良い友達だと思っていたんだ。けれど、進学して離れてみてやっと解った。俺は彼女が好きなんだと。でも、その時にはもう連絡もつかないで、会う事も叶わなかった」

 優斗は水割りをジッと眺めながらも、しっかりと語った。

 もう随分と酔っているのか優斗は自分でも驚く程に素直に語れている。

 俯いている優斗の肩に前島は手を置いた。でも、やはり難しい顔をしている。

「でもさあ、こんな事云っちゃ悪いけど、それは誰にだって有るし。忘れる事なんじゃ無いの?」

「そうだよねー。俺も解ってる」

 優斗は返事をしながらも力無くテーブルに伏せてしまった。

「しょうがないよ。忘れるべきなんだ。新しい恋を探しなよ」

 前島は優斗の肩をポンポンと叩きながら話していた。

 しかし、優斗はそんな前島の事を顔だけで挙げて見ていた。

「忘れられない……」

「そんな事云ったって……」

 前島は困った顔をする。

「忘れたくない」

 更に前島を困らせる言葉を優斗が言う。

「連絡が付くんなら今からでも告白すれば良いけど……」

 前島の言葉はため息と一緒に綴られている。でも、それは文句でも有った。

「だから、俺もそう思ってこの地に居るんだけどなー」

「んっ? どういう事なんだい?」

 優斗の云っている事に前島は楽しそうになって聞いていた。もうさっきまでの難しい顔ではなくてにこやかだ。

「その娘、今はこっちに住んでるんだよ」

 楽しそうな前島を他所に、優斗はもう目を瞑ってテーブルに伏せてしまって、眠りそうになりながら話していた。

「へー、そんな事までどう調べたの?」

「まあ、それは共通の友人に聞いて……」

「それで再会出来たらと思ってシノくんもこっちに引っ越したの?」

「そういう事だよー」

 怪獣が吠えるみたいに優斗は「ガオー」と答えているけれど、やはりテーブルに伏せってしまっているので迫力は全く無い。それはこの街に有る有名な時計台みたい。苔落としなのだ。

「シノくんってかなり情熱的だねー。普通の人はそんな事出来なくて諦めるんだよ。よし解った! 俺は協力する」

 あまりに優斗が真っ直ぐなので前島は納得したのか、その肩をバンバンと叩いていた。

 でも、優斗の方はそんなのも痛くは無いみたいで、もう今にも眠りそうになっている。これは完全に酒に負けているのだ。

「安請け合いしない方が良いよ」

「どうしてなんだよ?」

「その娘はもう結婚してるから」

 前島の優斗を叩いていた手が宙でとまってしまった。

 数十秒だけれど静かになった。

「本当に? それはどうなのかなー?」

 前島の言葉に優斗は返事をしなかった。この時にはもう眠ってしまったから。

 もうこれでは話にもならなかった。優斗はその日、前島に酔っ払っていた事も有り、店まで連れ帰られて、全く記憶に無かった。

 前島は細かい事を聞きたかったのだけれど、へべれけになってしまった優斗では言葉を交わす事も難しく、ただの荷物になってしまっていた。

 そんな事だから次の日だって、優斗はどこまで話したかのもすっかりと忘れてしまっていた。更には週末だった事も有ってカラオケ屋はかなり繁盛して、ゆっくりと前島と優斗は話をする機会も無かった。

 そうして週が開けると、今度こそはと前島は優斗に話を聞こうと思っていた。

 でも、今日優斗は繁華街を荷物を持って歩いていた。

 週明けとは言え、そこは二百万人が住む所なので人通りは途切れる事も無い。そして観光客もそこら辺にゴミの様に落ちている。

 優斗はシフト通りの休みに暇をただ潰すだけで無い様にしようと思っていた。

 歩くのはこの間、似顔絵屋がいた所の方。持っている荷物は自分の似顔絵用の画材。一応、優斗も似顔絵描きをしていた時期も有ったので、こんなものも持っている。こっちでもその稼業を開こうと思っていたのだ。

 一応、お店を出す許可をもらってから優斗はそのスペースを探した。あまりライバルのいる所は好まないので道の一角の隅っこの方を選んだ。

 優斗は手際もなれた様子で椅子を置いて、店造りを始めた。ほんの数分でそれは完成してこれまでに描いていた有名人なんかの似顔絵も飾った。いかんせん隅なので人通りは余り良くないけれど、優斗は気にしている事も無い。

 それはこれが自分の本職では無いのだから。もちろんカラオケ屋もアルバイト。他にちゃんと稼ぎが有る。

 だから優斗はゆっくりと座って時折歩いている人々を眺めてみたり、ふと思いつくまんまに似顔絵を描いていた。

 すると、そんなお店にだって興味を示す人は居て優斗の絵を眺めている。

「良かったらいかがですか? 今日はまだお客さんが居ないので、一人につき千円で良いですよ」

 ちょっとした挨拶程度で、優斗もこんな言葉は慣れているので話した。

「じゃあ、お願いしても良いですか」

 お客さんは一度考えたけれど優斗と向かい合う様に座った。

 対象は二人でどうやら地元のカップルみたいだ。優斗はもう観察を始めて、絵の構図を考え始めていた。

 それからも会話をしながら注文を聞いて、絵へと向い真剣な顔になる。

 適度にお客さんが退屈にならない様に優斗は会話をしながらも絵を進める。

 お客さんのカップルはずっと楽しい雰囲気で会話を続けていて、緊張している様子も無くて普通の顔が見れていた。これも優斗の営業手段の一つなのだ。

「はい。出来上がりましたよ」

 そんな風に雑談をしている間に優斗は似顔絵を完成させていた。そしてYU-TOとサインをしてお客さんへ見せた。

 前島に描いた時とはかなり違うタッチで似顔絵っぽさを残しながらも、かなり愛らしい雰囲気を示している。とても優斗が描いているとは思えない代物だった。

「ヤッバ! 上手! ありがとうございます!」

 彼女さんの方から悲鳴の様な歓声が上がった。

 それからの二人の会話を聞いているとどうやら気にいってくれた様子。

 お代をもらっていると、その彼女さんはずっと優斗の描いた似顔絵を持って、ちょっと跳ねるみたいに喜んでいる。ちょっとうるさいくらいなので良い宣伝にもなる。

 おかげで次のお客さんは直ぐに訪れた。親子の四人組だったけれど椅子に座ったのは幼い二人。子供達の似顔絵を描いてほしいとの事だった。

 このお客さんは子供達でさえ慣れた様子で、話を聞いていると記念に時折、他の絵師さんにも描いてもらっているらしい。

 慣れている人だったら優斗も気を使わずにすんなりと普段の表情を引き出しやすく、似顔絵も簡単に完成させてた。

 でも、やっぱりその完成度はかなりの好評を呼んでいた。

 だから今ではちょっとギャラリーも集まっている。隅っこを選んだのに全く客には不自由をしない。

 続いてもお客さんは有った。優斗が楽しい会話をしながらうまい似顔絵を描いているので、見物だけの人も現れた。

 元々この地下街はストリートパフォーマーの集まる所なので、それ目当ての人も居る。優斗の似顔絵もそんな人達を楽しませていた。

 かと云ってひっきりなしにお客さんが居る訳でも無いので、優斗はのんびりとコーヒー休憩を挟みながらも存分に絵を描いていた。自分で思い付いた楽しい似顔絵だったり、もちろんお客さんのも。

 そんな風にしているとちょっと不思議な注文をする人も居た。それは有名アイドルと自分のツーショットを描いてほしいとの事。もちろん優斗はこんな事にもちゃんと応じていた。そして恋人同士みたいな絵を完成させるとお客さんは随分と喜んでいた。

 時間もかなり過ぎて夕方になり始めた。人通りは増えて、今が稼ぎ時になるのだろう。他のお店も明らかに朝よりも増えている。

 そんなライバル達が頑張って客を呼んでいる時に、優斗は宣伝もする事も無く、またしてもコーヒーで休憩をしようと店を離れて、カフェで買い物をしていた。自分はあくまでも暇潰しと、練習や観察の為の店なので必死になる事も無いと思っていた。

 店まで戻ると、そこには優斗の絵を見ている人が居た。

 幼い女の子を二人連れた女の人。

 子供達は芸能人のヘンテコな似顔絵を見て楽しそうに笑っていた。けれど、その母親と思われる人はジーッと一つの絵を見ていた。それは他とは全く違う。似顔絵ですら無い。

「気に入りました? 良かったら似顔絵いかがですか?」

 もう店も終わりにしようかなって思っていた優斗だったけれど、その自分も好きな絵を見てくれていたので声を掛けた。

「うーん、似顔絵って高いんですか?」

 声を掛けられた事にビックリしていたその人は、一瞬だけ優斗の事を振り向くが、顔も確認する事も無くまた絵を見始めた。

「もう店じまいしようかと思っていたので、サービスしますよ」

「それなら頼んじゃおうか? どうする?」

 お客さんは子供達へと聞いていた。

「ママ! 良いの?」

「わたちも!」

 するとお姉ちゃんの方が楽しそうに笑うと、もう喜んでいる。

 妹の方も負けじと、母親に二人揃って引っ付いていた。

 お母さんはそんな二人をあやしていた。

「安くしてくれるんなら、お願いしますね!」

 その言葉を優斗はさっき買ったコーヒーを、自分の椅子の方に片付けながら聞いていた。

「それじゃ、あそこに座ってください。そうですね、お値段は……」

 優斗はそれまでお客さんの顔を見てなかったけれど、座って向かい合った瞬間に言葉が消えていた。

「んっ? どうかしました?」

「タダで良いわ……」

 急に優斗は営業言葉を辞めていた。それは友達にでも話すような風。優斗は前島とだってこんな喋り方はしない。

 優斗は子供達の方を見ながら話していた。

「タダって無料ですか?」

「オウ。そう言う事やな」

「でも……どうして?」

 お客さんは意味が解らない様子で首を傾げていた。

「知り合いから金は取らんて」

「へっ? 知り合い? 誰ですか?」

 まだお客さんは優斗の事が解ってない様子で観察を始めた。

 しかし、今日の優斗は眼鏡をして、外は寒かったので帽子とマフラーまで装備しているので顔が解りにくい。

 でも、優斗からは相手が良く解っていた。

 子供に向けているにこやかな視線が古い記憶に有った。昔と一緒の笑顔だ。優斗はそう思って、自分の心が踊る。

 お客さんは水浦真由菜。優斗の高校時代の友人。そして、あの恋をした人物。

 会いたいと思っていた人間なのだが、まさかそれが叶うとは思ってなかった。でも、そんなちょっとした奇跡がその場には有って、優斗は静かに喜んでいた。

「そうやね。もうかなり遠い昔の事やから、忘れられてるんかな?」

「ってか顔が見れんや無いですか? ちょっとマフラー取ってくれん?」

 優斗はちょっとガッカリした様子を見せていた。しかし、明らかなにそれは演技臭くて冗談だと解りやすい。

 真由菜の方はまだ解らない様子で聞いているが、さっきとはちょっと言葉が違っていた。優斗と一緒の方言へとなっている。

 なので優斗はしょうがないなと言いながら、マフラーと帽子をはずした。

「水浦、久し振り。覚えとる?」

 優斗は真由菜へとニッコリと笑って見せていた。

「うーん……忘れた」

「マジでか! そっかもう十五年も過ぎてるからなー」

 今度こそ優斗は本当にガックリと俯いていた。

「そっかー。もう十五年にもなるのか。もしかしてとか思ってたんだけど……ふーん、篠崎は眼鏡かけるようになったんだ。ちょっと雰囲気違うね」

「……解っとるんやん」

「そんなん解るわい。あたしはそんなに忘れっぽくないって」

 ケラケラと真由菜は楽しそうに笑っていた。

 その姿は優斗から見ると昔っから全く一緒だ。まるでタイムスリップしているかの様にも思えていた。

 でも、違う。確かに歳を重ねているのにそれを忘れさせる程に、水浦は昔の愛らしさを讃えている。優斗はそう思って再び恋心を燃やしていたけれど、それは表さない。

「故郷も知人も忘れて、こっちでエンジョイしてるのかと思ってた」

「そうなんよ。あたしは冷たい女だから昔の事なんて捨て、今を楽しく生きてるってオイ! それは良いとして、篠崎はどうしてこんな所に居るの?」

「良いんかいっ。それはまあ、今はこっちに住んでるから」

 優斗と真由菜はさっきまでとは全く違って仲良く話し始めた。それには冗談も含めてずっと友達だったみたいに。

「ふーん、そうなんだ。偶然やね」

「しかし、水浦は方言ヘタクソになったなー」

「あんだとっ!」

 もう真由菜は楽しくも優斗を殴りそうになっているが、その袖を引っ張る者がいた。

「ねえ、似顔絵はー?」

 真由菜の子供のお姉ちゃんの方がつまらなそうに頬を膨らませている。

 そして妹の方は自分の母親が急に知らない人と親しげに話をしているので、真由菜にくっついている。ちょっと人見知りな様だ。

「ゴメンねー。ママがおっちゃんの事を馬鹿にするから文句云っちゃった。どんな絵が良い?」

「うーん、とねー。ママと乃愛と仲良しの絵が良い!」

 お姉ちゃんは全く人見知りをしていない様子で、優斗に話をしている。

 優斗はこれまでにお客さんの子供とも話をしているので、「そっかー」っと普通に会話をしている。

 自分の娘と仲良く話している優斗の事を、ちょっと信じられない様な顔をしながらも、真由菜は楽しそうに語り合っている我が子を見ると、クスクスと笑っていた。

「そっか。妹ちゃんは乃愛って言うんだ。じゃあ、お姉さんのお名前は?」

 もう優斗は似顔絵を描き始めて、それでも話を続けている。

「私はね、恵羽って言うの。乃愛は怖がりさんだから、喋らないでゴメンね」

「ふーん、恵羽ちゃんと乃愛ちゃんかー。良い名前だね。……水浦? 聖書でも読んだか?」

 優斗は恵羽と話してたかと思うと、真由菜の方を睨むみたいに見ていた。

 でも、これも一応似顔絵の為なのだ。恵羽とばっかり顔を合わせていても、絵は完成しない。

「バレたか……ちょっと人とは違う名前が良くってね。でも、姉妹で合わせてるからおかしくないと思うんやけど……」

「まあ、水浦らしいっても言えるな……乃愛ちゃんもちょっと美人さんのお顔を見せてー」

 真由菜の観察はしなくても優斗は昔を憶えていたので、いざとなれば簡単なので、問題を解消する事にした。

 乃愛は似顔絵屋に居るのに、真由菜にかくれる様にして優斗に顔を見せない。

「ホラ、乃愛もちゃんと顔見せないと、このおっちゃんブサイクに描いちゃうよー」

「コラッ、そんな事はせんって……乃愛ちゃんはママの事好きなの?」

 真由菜が乃愛の事を自分から離そうとしているが、頑固な所を見せて更にくっついてしまう。

 優斗はそんな事に困る様子も無くて、笑顔で乃愛に話し掛けていた。

 すると乃愛は片目だけで優斗の事を見て、僅かながら頷いていた。

「ゴメンねー、こんな困った子で。絵、描けないでしょ?」

 そんな風に言い、真由菜は優斗の手元を見た。

 でも、その時には優斗が真由菜には見せないようにした。

「完成までお客さんには見せれませんな。水浦の顔はあえてヘタッピに描いてるしな」

 優斗はそんな風に話しながらもペンを進めた。

 そう言う風に真由菜と雑談をしていると、子供達は暇なのか遊ぼうとお互いにちょっかいを出している。

 でも、それは良い事でも有って、恵羽が笑うと乃愛もくっつくのを辞めて遊び始めた。

 それに気が付いた優斗はじっくりは見ない様に、乃愛の事を観察する。

「篠崎如きに似顔絵なんて特技が有ったなんて」 

 子供達の事に気が付いているのか、真由菜は話を続けていた。

 優斗は三人の姿を見ながらも、その言葉をちゃんと聞いていた。かとはと言えもちろん絵の方も進めている。

「うん。まあ、高校の時は別に描いて無かったしな」

「あたしの顔は若くしといてね」

「ちゃんと、おばさんにしてるから安心しろ」

「そうじゃなくて若く……」

 ずっと喋っているのは優斗と真由菜ばっかりだったけれど、子供達も母親が楽しそうにしているからなのか、怖がったりする事も無く二人でも遊んでいる。

「ちゃんと歳相応に描いてますから心配なく」

「年よりも若くしろって云ってんだよ……」

「嘘を描くとなると別料金になりますが……?」

 優斗はニコリと笑って真由菜の事を見ていた。

 すると真由菜の方もニコッと返していた。

「そこは友人料金で!」

「割増にしても良いのか?」

「タダにしろって!」

「図々しいなー。まあ、水浦から金取ったら怖いから、元からそのつもりだけど……」

「だったら、始めっからそう云ってよ……」

 すると優斗は一度手を停めると、真由菜の事を見て首をひねった。

「始めっからタダやって云っとるやん」

「そっか、忘れとった」

 アハハハッと真由菜が笑ったので、その時に子供達もつられてニコニコとなる。

 そんな表情を見て優斗も微笑んで、似顔絵を進めていた。

 暫く雑談をしたり真由菜達、親子が話している姿を、優斗は見ながらその表情を絵にしていた。ほんの十分程度で似顔絵は完成した。

 これまでのお客さんよりも優斗にとっては随分と楽しい時間だった。

「それじゃあ、これで完成だけど、いかがでしょうかね?」

 優斗はそう言いながら、ずっと見せないようにしていた似顔絵を三人の方へと向けた。

 楽しく親子で会話をしていた真由菜達だったけれど、優斗がそう言うと注目する。一つの絵に三人が顔をくっつけるみたいにして眺めた。

 ポケーっと三人が良く似た表情で優斗の描いた似顔絵を見ている。ちょっと三つ並んだ顔が面白くなって、優斗はクスッと笑ってしまうが、まだ真由菜達は一言も喋らない。ジーッと自分達の似顔絵を見て黙っていた。

 ずっとリアクションも無かったので、優斗はこの絵に気に召さなかった事が有るのかと思って、自分も見た。

「乃愛ちゃんが絵になってるー」

 まるで魔法でも見た様に乃愛が一番に声をあげて、ぴょんぴょんと跳ね始めた。

「恵羽ちゃんもママもそっくりー!」

 するとそれに合わせる様に恵羽も喜んで、乃愛と手を取って一緒に跳ねる。

「ちょっとビックリだな……篠崎にこんな才能が有ったなんて」

 真由菜も驚いていたみたいで、優斗が似顔絵を渡すと、それをずっと眺めてポツリと語っていた。

「黙ってるからどうしたのかと思ったよ」

「素直に驚いてた。こんなにうまいとは思ってなかったからね」

「ちゃんと水浦を若くしといたから」

 優斗は似顔絵の真由菜の顔を示しながら語っている。

 絵に有るその笑顔には昔を知っているからこその幼さが、ちょっとだけ含まれていた。

「んー……それはどうかな? 今のあたしもこのくらい美しくないか?」

「………………」

 その言葉に優斗は黙っていた。返す言葉が見つからない訳では無かった。冗談で云っているのだから、そのくらいは簡単に返せる。

 でも、優斗はそんな事を云っている真由菜の笑顔が、本当に美しく思えたのだった。優斗はそれを云ってしまって良いのか解らなくて黙っていた。

「そんなに黙られたら、あたしが本当にそう思ってるみたいやんか」

「そうでも無いよ……」

「どういう事?」

「醤油うこと!」

「誤魔化すな!」

「……ちょっと絵が追い付いて無い。水浦はもっと愛らしいから……」

 若干「ブーッ」と言うようなふてくされたみたいに、優斗は似顔絵を見ながら話していた。

 優斗は自分の絵を見ていると、これまでに無いくらいヘタに思えていた。

 優斗の瞳には真由菜がもっと素敵な人に映っている。その笑顔を似顔絵に閉じ込める事なんて出来ていない様に思っていたのだ。

「……お世辞を云ったって割増料金は払わないからな」

「そっか……それは損をした。トークも有料にしとくんだった」

 ちょっとだけ困っている真由菜が居たので、優斗はハッとなって冗談に戻した。

「割増無しならお代は四千五百円で良いの?」

 真由菜は料金表に有った標準の価格を見て計算していた。

「だから、タダで良いって」

「うまかったから、お礼だよ」

「そんなん要らんし」

 優斗はもう帰ろうかと店じまいをしながら返事をしている。

 それでも真由菜はそんな優斗の事を財布を片手に追い回していた。

 子供達は似顔絵を持ってまだ椅子に座って嬉しそうに話をしている。

「それじゃあ悪い気がするから受け取れ!」

 自分の言う事を無視するみたいに優斗が片付けを進めているので、真由菜はその強情さに苛って言葉が荒くもなっていた。

「なんでそんなに頑なになってるんか知らんけど、断る!」

 そう言うと優斗は飾っている絵を片付け始めた。そして再会した時に真由菜が見詰めていた絵をはずした。

「なら、その絵を売って」

「これをか?」

 その時に真由菜は急にそんな事を云った。

 それはポストカード程の紙に、向日葵だけが描かれている並んでいる絵では、これだけが違っていたものだ。

 優斗はその向日葵を見せて聞くと真由菜は「うん」と頷いた。

「実は似顔絵なんか興味無かったんだけど、ふとその絵が気になったんだよねー」

「それを似顔絵師を前に言うか?」

「普通なら言わんけど、篠崎だからな」

「どんなんだよ。これは非売品なんだけどな……」

「そっかー、良い絵だと思ったのになー……ダメ?」

 優斗がジーッとその向日葵眺めていると、真由菜が非常に残念そうに言いながらも、まだ諦めて無いみたいに愛らしく笑顔で首を傾げていた。

 優斗はこの真由菜の笑顔をイメージして、向日葵の絵を描いていたのだ。

 自分の心ではこんな笑顔がいつも咲いている。かなり良く描けていると思っていたので、これからも売る事はしない筈だった。

 でも、この絵が真由菜の元に有るなら、それも構わないとも思った。

「高いぞ……」

「そう言われると恐いな……」

 ちょっと真由菜が難しい顔になったので「フッ」と優斗は鼻で笑うと。片手を出した。掌を開いて真由菜へと向けている。

「これだけでどうだ!」

「ムムムッ、五千円かー……晩ごはんを切り詰めればどうにかなるか」

「アレッ? 五万じゃ駄目なのか?」

「それは今すぐには払えないよー。まけて!」

 一応、冗談で云ったのに真由菜が買わないとは言わなかったので、優斗は面白くって笑ってしまった。

 こんな人の所に有るなら描いたかいも有る。

「嘘だよ……。五百円でどうだ?」

 そう言うと真由菜はパァっと顔を綻ばせた。どうやら本当にこの向日葵の絵が気にいっている様子。

 優斗はどうしてか嬉しくなっていた。

「ありがとうこれはお宝だ」

 渡すとその笑顔は更に華やかになる。真由菜はしげしげとまだその向日葵を眺めていた。子供達と一緒の瞳をしている。

 三人の笑顔を見ていると、優斗はフッと自分の元にまで笑顔が浮かんでいた。

 しかし、この向日葵の絵は完成品ではない事を思い出した優斗は、真由菜が見ているけれど、そんなのは無視をして取った。

「一応、サインをしておくから」

「似顔絵の方とは違うんだな……」

 優斗はペンでサラリと自分のものである証を記した。

 そこには似顔絵に有るYU-TOでは無い。優斗はcinonと綴っていた。

「似顔絵作家はYU-TOだけど他のものは違う名前にしてるんだよ」

「シノンってラノベから取った?」

「誰かさんと一緒にすんなや」

「誰のことかいな?」

 真由菜はひょうきんな顔をして周りを見渡している。その横で優斗はしっかりと真由菜の事を指で示していた。

「普通に本名のモジリだよ。フランス語綴りだから、あのキャラとは区別している」

「ファンなのかと思ってた。まあ篠崎だからな……安直。YU-TOもだけど」

「簡単なのが良いんだよ」

 ちょっと呆れている真由菜に優斗は「フン」と言いながら返していた。

「しかし、そんなん分ける意味あんのか?」

「有るから分けてんだよ」

 キョトンとしている真由菜に対して、優斗は「当たり前だろ」って表情で睨んで返事をしていた。

 優斗はそう言いながらサインを終えて、自分の財布から一つの紙片を添えて、真由菜へと絵を返した。

 それは名刺で二つの雅号と本名が並べられている。これは優斗が暇潰しで作ったもので、電話番号やメルアドも記してあるので、親しい人にしか渡してない。

 真由菜はちょっと首を傾げながらその名刺を眺めていた。

「ふーん、おかしな事してるんだなー」

「暇な時が有ったら、飯でもどうかな?」

「奢ってくれるんならオッケーだよ。もちろんお酒付きで!」

「ちょっと恐くなった。忘れてくれ」

「ふーむ、タカリどころを見付けた! この電話番号は登録しておかないとな」

 真由菜は非常に楽しそうに笑って、名刺に有る電話番号を携帯に打ち込んでいた。すると真由菜は腕をぐるりと回す様に携帯を振り回した。スマホを優斗の方に向け「バンッ」と言いながら真由菜が携帯をタップする。

 そうしたら撃たれた方の優斗の携帯に着信が有る。

「たかられても困るけど、まあ、奢るよ」

「気にしなくても良いよ。半分は冗談だから。それ、あたしの番号。登録しといてね」

「もう半分は冗談じゃないのか……美味しい店を考えとけ!」

「よっしゃ! 高い店ね!」

「違う! 安くて美味しい所だ!」

 ケケケッと笑いながら真由菜は子供達に帰ろうと云っていた。

 もう時間は晩ごはん時を過ぎている。優斗は真由菜の子供達に手を振って見送ると、自分も似顔絵屋を片付けて帰ることにした。

 今日はかなり良かった一日になった気がする。真由菜に会えたら良いなと言う心も確かに有った。そもそも優斗は真由菜の事が恋しくなってこの土地に引っ越したのだ。でも、二百万人も居るのだから偶然にも会える事は無いかもしれないと思っていた。それなのに優斗は真由菜と再会して、今は電話番号まで手にしている。

 そんな事なのだから、荷物を持って寒い帰り道を歩いている時もルンルンと歩みは軽くて鼻歌でも語ってしまいそう。今日ばかりはこたえる寒さも気にならなかった。

 休みは明けて優斗はバイトをしていた。平日の昼間なんてカラオケをする人間なんて居ないから、かなり暇なのである。

 優斗は指示された通りに掃除をしながらも、昨日の事を思っていた。それはもちろん真由菜に会えた事。それが嬉しくってしょうが無い。誰かにこの喜びを伝えたい気もしたけれど、軽くそんな話を出来る友人なんて居ないので、自分だけで嬉しがっていた。

 淡々と仕事をこなしている。静かに掃除をしているのも優斗は結構好きな方だ。自分の部屋は適当に広げてしまっている。でも、その汚れが目立つ様になるとそれはもう改装のごとく掃除をするのだ。そんな人間で更には仕事と言う名分も有るのでかなり綺麗にしていた。

 自分の担当分の部屋を掃除し終えた優斗が受付の方に戻る。そこには暇そうにただ座っている仲原が居た。

 仲原帆乃華はまだ16歳なのだけれど、高校には進んで無くてこのカラオケ点でアルバイトをしている。もちろん本業なので、開店作業もこなしてしまうし、殆どがフルタイムで働いていて、優斗とはシフトが合う時も多くてもう仲良くなっていた。

 普通のお店だったら、こんなに暇そうにしていたら責任者に怒られてしまうだろう。しかし、今は責任者なんて居なかった。ちゃんと出勤はしているのだけれど、グループ店との会議が有るので今は離れていた。だからバイトの者達は羽を伸ばしている。

「篠崎さんも適当にサボっちゃいなよ」

 そんな事を云っているので、優斗は取り敢えずタバコ休憩でもすると仲原に一言伝えた。

 仲原はあくびをしながらも片手をヒラヒラと振っているので、了解とのことらしいので優斗は非常階段のドアに向かった。

 若干立て付けの悪いドアをガタンと開くと、冷たい風が吹いていた。優斗は冷えてしまっている階段に座ると、タバコに火をつける。

 今日はやたらと静かでのんびりとしている。こんな調子だとバイトも疲れなくて良いし、また終わってから似顔絵屋を開こうかと優斗は思っていた。

 そうしていると店の方が賑やかになった。「戻らないと駄目かなー」っと思いながらも、まだタバコが残っているので、仲原には悪いけれどもうちょっとサボらせてもらおう。そんな風に優斗が美味しそうにタバコを吹かしていると、店へと続くドアが開いた。

 優斗はそのドアの横に座っていたので「ブンッ」と開かれた扉はクリーンヒットした。

「シノくん。踊ってどうしたんだ?」

 肩に思いっきりぶつかったので痛がっていた優斗の事を見て、前島が楽しそうな表情で見ていた。

 そんな視線に優斗は「ジトー」と、白々しい目で見ていたけれど、前島に文句を云った所でしょうが無い。優斗だってドアの横に座ったのが悪いんだ。そして前島がそんな事を気にする人間でないのも解っている。だから優斗は深いため息をついて肩に手を当てた。

 今日、店が静かだったのは前島が居なかったからでも有る。とは言え一応、責任者が戻ったのだからと優斗は仕事に戻ろうと思った。丁度タバコも残りが少なくなったので消火バケツへと捨て、受付の方へと戻る。

 前島もタバコ休憩をするのかと思っていたが、優斗に付いて歩いていた。

 受付はやっぱり暇そうで仲原がまだあくびをしていた。どうやらさっきの賑やかさは前島の影響で、お客さんなんて今は居ない様子。

 そして責任者たる副店長が居てもこの調子なので、真剣に仕事をしなくても良い。前島だって仲原さんの横に座ってのんびりとしながら、優斗にも椅子を用意している。

 こんなのでこの店は良いのかとバイトの方が心配してしまった。

「ホラ! シノくんもお喋りしましょ」

 更に前島はそんな事まで言うので、優斗は呆れてしまった。でも、グズグズは言わない。座っているだけで時給がチャリンチャリンと言いながら落ちるのならば、文句は無い。

 再びため息をつきながらも、優斗は二人と並んで座る。全くのんびりとした雰囲気になっている。

「それで? どんな事を喋るんですか?」

 ちょっとふてくされている表情の優斗は、前島の方を見ようともせずに語っていて、反対側の仲原さんに至っては携帯を真剣に見ている。

 本当にこのカラオケチェーンの本部の人が見たならば、確実に雷となるだろ。

「そんなのはもうシノくんの恋だって!」

「それは……ちょっと私も聞きたいですね。篠崎さん恋してるんですか?」

 優斗はまだそんな話をするのかと呆れてしまったが、恋と言うワードを聞いた瞬間仲原は携帯をしまって楽しそうな視線を閃かせている。

 前島はこの間までに優斗から聞いた話を、本人の許可も無く仲原さんに話していた。

 だからと言え優斗も前島に話してしまったので、その辺は諦めていた。

 優斗が真由菜に古い恋をしている事を前島はキッチリと伝えてしまった。

 仲原はそんな話を聞くとさっきまでとは違って、ちょっと難しい顔をしている。

「どうしたの? そんな顔をして?」

「えっと、篠崎さんには悪いけど、それって見方が違うとストーカーですよ……」

「そっか。美しい恋ではなくて、そんな考え方も出来るんだな。シノくん危ないぞ」

 優斗は一つも話してなかったけれど、勝手にストーカーにされてしまって、前島からは注意まで受けてしまった。

「そうですね。でも、俺は例えストーカーになっても良いと思ってますし……」

「うーん、そこまで愛してるって言うんならロマンチックな所も有るし、応援できなくも無いかな?」

「仲原ちゃんもこんな犯罪者の味方をしちゃ駄目だよ」

「俺まだ、法に反する事はしてませんけど」

 ちょっと賑やかに笑いが広がった。暇な店なのにちょっとだけど賑やかになっていた。

「まあ、犯罪は置いといて、その結婚してしまった片想いの相手の事を教えてよ」

「恋の相手は結婚してるんですか? それはちょっとマズイかも」

「つってもどうせ会えないんだから、想うだけだから良いんじゃないか?」

「それがですねー……」

 にこやかな顔をして優斗がそう言うと、二人は首を「ギュン」風を斬るようにと振り向いた。やはりこの話題が楽しいみたいだ。

 運が良いのかお客さんは姿を見せようともしない。

「恋に新たなる事が有ったのか」

 客を気にする風も無く話を続けていた。もちろん今は閑古鳥が鳴いているので関係は無い。店には厳しい状況なのだが従業員にとっては、嬉しい事ばかりだ。

「昨日、会っちゃいました」

「犯罪だ! 通報しないと!」

「だから、法は反してませんから……」

「ちょっと私に説明してくださいよー。話が読めない」

 優斗が一言云うと、前島は楽しそうにパタパタとうるさくも騒いでいたが、その隣の仲原はずっとはてなマークになっている。

 そして前島は優斗からの話を聞きたそうにしながらも、取り敢えず気分を害してしまうと面倒な仲原に説明を始めたけれど、それは冗談ばっかりが含められていた。

 優斗に聞いた真由菜の事を無い事ばかりを教えている。その合間に優斗はちゃんと訂正をしているので、話はちゃんとまともに通じてはいるのだけど、それはストーカーとして説明しているので、明らかに犯罪者にしてしまおうとして語られていた。そんな事なので説明が進む度に仲原は、優斗の事を白い目で見る様になった。

 しかしそこはちゃんと前島の信頼の無さから、仲原は全ての説明を聞くと、優斗に本当の事ですかと聞く。

 優斗はそんな問いに話し自体は間違っていないが、悪意が思う存分含まれてるとして改めて説明をし直した。

 そうしていると殆ど一緒の説明を前島と優斗が繰り返した事になった。仲原はしっかりと両方の説明を聞いてから優斗の方を信じた。やはり前島は副店長と言う立場が有りながらも、信頼は無い。それはまだ知り合って一週間程の優斗にも負けてしまう程なので、前島の人間実が解る。

 いじけている前島は二人に聞こえるくらいに、ブツブツと訳の解らんことを呟いていたが、楽しそうにキラリンと笑顔を見せて閃いた。

「いじけてる場合じゃ無かった。それで? 彼女にはどうして会えたの? あくどい方法で居場所を調べたとか」

「副店はどうにかして篠崎さんを犯罪者にしたいんですねー」

「仲原さん、それはもう良いよ。ほっとこ。因みに会えたのは偶然です」

「そんな偶然が有るのか? 今白状したら警察には黙っておこう」

「警察に話してくれても、ふーんって言われるだけですよ」

 ずっと前島はギャグを続けているけれど、優斗はそんな事にちゃんと付き合っていて、仲原はそこの所はしっかりと無視をしている。

「偶然ってロマンチックですねー。相手も篠崎さんの事を覚えてたんですか?」

「それはもう自分のストーカーの事は忘れられないだろ」

「ハイハイ、ストーカーさんです。あっちも覚えてくれてた。話も出来たし」

「もしかして、連絡先交換とかしてたり?」

「まあ……一応」

 もう仲原は恋愛映画でも見ているみたいに、パアァっと顔を輝かせている。

「駄目だ……篠崎くんが女の人を追い回してる……」

 楽しそうな仲原とは対照的に前島は横に有った電話を取って110番をしているが、それはカラオケの内線用で、繋がる事は無い事は誰もが解っているので優斗達は無視っていた。

「篠崎さん、恋には積極的なんですねー。憧れちゃいますよ。私もそんな風に追い回されたい」

「確かにロマンチックだが、でも、仲原さん忘れちゃならん事が有る。シノくんの想い人は結婚してるんだよ」

「そっか……忘れてました。うーん、難しい」

「なんも仲原さんが悩む事じゃないよ」

 仲原がそんな恋話に心を踊らせている横で、前島はしっかりと現実を見ていた。

 そうなのだ今は楽しそうに優斗も話しては居るのだけれど、それは叶ってしまっては駄目な恋と言える。優斗にだってそんな事は解っていた。だからと言え優斗の心から簡単に真由菜は消えないで居続けて、今だって恋しい人なのだ。

「シノくん。思い出作りまでにしときなさい。告白とか駄目だから、解ってるよね?」

「解ってますよ。まあ、昔の知人としての付き合いにしときます」

「それって、そんなに駄目な事ですか?」

 前島がそれまでとは違って真剣な表情になって語ると、優斗もその点については理解しているので静かにも返していた。

 でも、仲原が一言呟いた。その言葉で前島と優斗は一度言葉を無くしてしまう。静かな店内だったのに更にシーンとした。

 そんな静けさを振り切るみたいに前島はブンブンと首を振った。

「それは駄目だろう。相手はもう結婚してるんだよ? 告白は浮気をしろって宣言なんだぞ? 仲原さんはまだ若いからそんな事言うのかもしれないけど重たい話なんだよ」

 この時の前島はちゃんと副店長で年長者の顔をしていた。

 仲原は16歳の乙女。対する前島は30のおっさんだから親子みたいにも見える。

「でも、本当に好きなら想いは伝えるべきですよ。黙って知人として付き合う方が悪ですよ」

「それは普通の恋愛ならだよ。でも、シノくんの相手は結婚してるんだよ。だから駄目なのは解るよね?」

「全く解りません!」

 もうずっと前島と仲原で話している。張本人の優斗はもう言葉も無くなって、その会話を聞いているだけになってしまっていた。

「解らないって、そんな子供みたいな事を言わないでよ」

「私は子供じゃ有りません。法的にはもう結婚も出来る歳ですから!」

「そう言う事を云ってるんじゃなくてね……」

「ホラ、副店長お客さんですよ!」

 丁度その時に店の自動ドアが開いてお客さんが訪れた。

 仲原は怒ったみたいに厨房の方に消えてしまったので、前島が対応をしていた。

 優斗も仕事に戻ろうと、受付を前島に任せて厨房係が居ないのでそっちに回った。するとそこにはもちろんだけど仲原が居る。今でも怒っているのかと思いながら優斗は自分も居ることを示すように咳払いをするが、振り返らない。

 困った優斗だったけれど、空気が悪くなるのは良くないと仲原に近付いて、お茶目に笑いながら背を向けていたその顔を見る。

「そんなに怒ってないで。俺の事は気にしなくて良いよ……」

 そう言いながら仲原の顔を見た優斗は驚いてしまった。

 その時、仲原は泣いていた。

 だから優斗が一瞬で困ってしまって、くるりとブリキの人形みたいに背を向けて再び言葉を無くすと、仲原は今でも真っ赤になっている瞳から涙を拭った。そしてどう声を掛けたら良いのかと、言葉も無くてワタワタしているばかりの優斗の事をキッと睨んだ。

「私は篠崎さんの事を応援しますからね!」

 そう云って電信されたオーダー票を取ると、フライヤーへと向かってポテトを揚げ始めた。

 夕方、学校が終わった時間になったのでポツポツとお客さんが現れ始めると、のんびりと三人で会話をする機会なんて無くなって、それなりに忙しくなって終わった。

 それからの日々も流石に三人は一緒のシフトになったりもするけれど、暇をしていたとしても雑談は仲原が前島の事を睨むので、無くなっていた。ハッキリ言うと雰囲気は、思いっ切り悪くなってしまった。

 どうして仲原があんなに頑固になったのかは、前島には解らないのだった。普段はおとなしくて、とても人の意見に反論する様な娘では無いのだから。やはり歳柄から恋愛話には熱くなるのだろうかと、前島はタバコ休憩の時に優斗にそんな結論を話していた。

 優斗の心ではちょっとその考えとは違っていた。恐らく優斗の予想でしかないのだけれど、仲原は前島に良い印象を持っているのではないのだろうか。もちろんそれは好意で有ること。優斗はそれから二人の事を、見守ると言う観察することにした。

 淡々と日々は流れて残っていた雪が段々と無くなっている。毎日見ていると冬の終わりの合図の様にも思える。優斗はこれまでこんな北国に住んだ事は無かったので、楽しくもそんな風景を眺めていたが、気になる事も有った。

 それはもちろん恋をしている真由菜の事だ。あれから連絡なんて無い。一応、番号を交換したのでそれに連携して携帯のアプリにも登録されている。真由菜は頻繁に呟きなんかををアップロードしているので、それで今の事は優斗も知れる。

 だけどそんな風に真由菜の事を確認していると、自分でもストーカーだなと確信してしまいちょっと笑けてしまう。けれどやはり直に連絡が有ったら良いなと思う。出来るならば会って話をしたいと言う気持ちも有るから困ってしまう。優斗のストーカー心が揺らいでしまう。

 気軽に自分の方から連絡しても良いのだろうか。メッセージアプリでなら簡単に連絡が取れてしまうのだけれど、それさえも迷って時折真由菜のトークルームを見てはずっと眺めてしまう事が有る。電話番号まで教えてくれたのだからそれは考え過ぎなのかもと思うのだけれど、やはり自分からアクションを起こすには勇気が無かった。

 優斗は日々眺めていた風景をスケッチしながらも、つい携帯が気になっていてどうにも絵が進まない。

 優斗はフーッと深いため息をついてペンを置いた。今の絵はあまり良くない。スケッチブックをバリバリと切り離してクシャクシャにしてゴミ箱に捨てると、タバコに手を伸ばして窓の方に向った。

 今住んでいる所は贅沢にも二部屋有るので、こっちは絵を描く専用にしていて作業テーブルくらいしか無くて、灰皿は周りが汚れない様に窓の外のちょっとした台に置いていた。

 窓を開けるとまだ冷たい空気が流れて、優斗の吐く息なる。暇潰しに携帯を持っていたけれど、気になるのはやはりメッセージアプリの方。真由菜のアイコンはタップしないけれど、やはり考え込んでしまった。するとその時に着信音が鳴った。

 ボーッと眺めて居たので、ほんの少しビックリしたけれど優斗はその通知を見る。するとそれは恵羽と乃愛が並んで笑っている真由菜のアイコンだった。

『ちょっと! cinonで検索したらこんな作品が現れたんだけど篠崎の事なの?』

 開いてみるとそんな文字が並んでいる。

 今まで優斗が悩んでいたのが馬鹿みたいに、普通に挨拶もなしに真由菜は会話を始めていた。

 添付されている画像には確かに優斗が描いた絵が写っている。

『そうだけど、問題でも有るのか?』

 ちょっと返信に困って悩みそうになったけれど、向こうには既読マークも付いているのであまり時間を置くのも悪いと思って、取り敢えず考えずに返した。

『嘘を付いてるんでは無いよね』

『そんな嘘を付いて俺に得が有るのかわからないのだが……』

『参考価格がとんでも無い事になってるんだけど……コレ本当なの?』

 今のcinonの作品は現代アートの世界ではちょっと有名で、それは安いものでも十数万からになっていて、十分に人気画家となっているのだ。

 そしてその正体が優斗なのであってこちらがある意味で本業としている。今のカラオケ店でのバイトは創作の為の社会見学程度に優斗は思っている。

『まあ、俺が値段付けている訳じゃ無いから』

『もしかして、この間の向日葵の絵も高いの?』

『そうだな……あれは売る気無かったから、もしかしたらとても高価かもしれん』

『返す! そんなに高い物貰えないよ』

『別に構んって。それはちゃんと水浦に売ったんだから』

 それから真由菜は返すなんて事を散々言い続けた。

 優斗にとってはあんなに連絡を取りたかった相手なのに、あまりに頑固なのでちょっと今では面倒なくらいになっていた。

 そんな会話を続けて結局は、一度落ち着いて会って話そうと真由菜が言い始めた。これは優斗にとっては嬉しい事なのでバイト終わりの時間を知らせると、次の日には真由菜は約束をする。

 場所は優斗が細かい所はまだ解らないと云ったので、再会した地下街の近くに有る世界各地に店舗の有るカフェで会う事にした。そんなところなので携帯で検索すれば直ぐに見つかった。これなら方向オンチでは無い優斗なら迷わない。

 優斗はちょっと楽しみにしながら一日を終わらせると、当日カラオケ店には前島も仲原も居たけれど、約束の事はあえて黙って置いて過ごした。

 運が良いのか週末と言う事も有って仕事は暇をしない程度に忙しく、直ぐに時間は過ぎる。

 優斗は浮かれてしまいそうな自分をかくして、落ち着いた様子でバイト仲間にお疲れと普段通りに言うと約束の場所まで道を歩く。

 北国の街はとても寒いけれど、そんな事を人々は気にする事も無く週末の都会は賑わっている。寒いとは言えそれは優斗にとってのことで、こんなのはこの地方ではもう暖かいのだろう。それでも優斗には存分に冬だった。道の横にはまだ名残雪が残っていた。昨晩はとても冷え込んだので、またそれで積もったのだろう。優斗の育った地方では考えられない。そんなのをまだこの街の新米である優斗は、若干楽しそうに眺めて歩みを進めた。

 軽く暮れ始めている街は明かりが灯り始めて、きらびやかに閃き出している。優斗はそんな風景もボーッと眺めなていて、つい約束を忘れてしまいそうになりながら歩く。時間には余裕を持っているのだけど、絵に出来る様な良い風景を見付けてしまえば優斗は時間を忘れてしまう。ジーッと眺めて構図を考えたり、印象だけでも描けるので目に焼き付けようとまでするし、スケッチブックなんて持っていたのだったら軽く約束なんて忘れてしまう。でも、今日はそんな事が無い様に、普段はいつも離さない様にしている簡単な画材の詰まった鞄は家に置いて手ぶらにしていた。

 どうにか約束の時間には間に合いそうになりながら地下街へと向かうと、今日もそのあちこちに有るイベントスペースでは利用者が居るけれど、実はこの部分は有料なのでお金を稼ぐ事には向いていない。どちらかと言えば自分の実力の発表場所としての点が深い。赤字を覚悟してのお店が並んでいる。この間の優斗だってトントンだった。

 そうしているとカフェが見えた。するとそこには見覚えの有る三人の姿を優斗は見付ける。真由菜と恵羽そして乃愛が、手を繋いで三人で並んで居た。

 てっきりカフェで座ってると思ったのに、真由菜達はお店の外でドリンクすら持ってなく待っている様子だった。

 すると優斗の事を恵羽が一番に見付けて「似顔絵のおっちゃんだ」って言いながらアタックした。容赦のない恵羽のタックルを優斗は笑って受けとめると、そのまんま抱っこした。

 真由菜の方を恵羽と一緒に優斗が見ると、自分達の方を素敵な笑顔で見ていたが、足元ではやはり乃愛が人見知りをしているのか半分だけちょっと困った表情を見せていた。なので優斗はそんな乃愛へ苦笑いを送りながら二人の方へ近付いた。

「あのねー。恵羽の似顔絵は玄関に飾って有るんだよー」

「そっかー、恵羽ちゃんはあの絵好き?」

「うん。めっちゃ似てるもん!」

「恵羽はもう懐いちゃってるねー」

 微笑ましい会話を恵羽とかわしながら近付くと真由菜がにこやかに話している。

 なので三人はもう一人の子供である乃愛を見る。するともちろんなのだが乃愛は優斗の視線から、かくれる様に真由菜へと顔を埋めた。

「乃愛ちゃんは慣れてくれないみたいで……」

「そうだなー、こっちは人見知りだからねー。ちょっと難しいかも」

「ホントにかー。乃愛ちゃん、おっちゃんと仲良くしてよ」

 優斗は乃愛にちょっとだけ顔を近付けながら話したけれど、そんなのはちょっと片目だけで見られただけに終わったので真由菜が笑っていた。それでも少しだけ見えた乃愛の顔もにこやかだったのでキラわれて無い事で安心した優斗も居る。

「それじゃあ、ゆっくり話せる所へと……」

 真由菜はそう言うと、乃愛の手を引いて歩き始めた。

「このカフェじゃ無いのか?」

「これは単なる目印だから」

「意味解かんねー」

「お腹も減ったしねー」

「なんだ、たかりなのか」

 真由菜はしっかりとこの間優斗が奢るって云っていた事を憶えていた様子で、楽しそうに語っていた。

 なので優斗は気にする事も無く、恵羽を抱っこしたまんまで真由菜と並んで歩く。

 目当ての店は今の場所から若干離れた所らしい。まるで家族四人みたいに歩くけれど、それは間違いなのは優斗にだって解っていた。

「恵羽も降りてちゃんと歩きなさい」

「ヤダ! ママ抱っこしてくれないんだもん」

「良いよ。重たくないし」

「ゴメンねー。疲れたら落としちゃえば良いから」

 甘えん坊の恵羽の事を真由菜はちょっと物騒な事を云っているが、それは冗談だと思っているので優斗は降ろすことなんて考えてない。

「ところで、旦那さんは一緒じゃ無いのか?」

「うん。今日は呑み会なんだって。だからあたし達もそれに対抗しようと思って。旦那の事が気になる?」

「もちろん気になるな。水浦を嫁になんて考える人は一度拝んでおきたい」

「それは……どう言う意味なのか返答に寄っては血の雨が降るぞ」

 さっきまでのにこやかな笑顔なんてどこに落としたのかも解らないくらいに、真由菜は「ギラッ」と優斗の事を睨んでいた。

 優斗は並んで歩いていたが、横にステップしてからちょっと困った顔をする。

「こんなに美しい人を嫁にもらったなんて幸せな人だなーって……」

「なら宜しい」

「ホント恐いなー」

 とっさに云った優斗の冗談は本心では嘘ではなかった。。

 そんな風に思っている訳では無い。こんなに自分も好きな人なのだからその旦那が気にならない筈も無い。だけどそんな事を真っ直ぐに言える筈も無くて冗談にしていた。

 子供達も含めて楽しく会話をしていると、段々と真由菜の旦那の事も解る。名前は橘嘉紀と言うらしい。優斗はこの時になって真由菜の今の本名が橘になっている事を知った。全く自分は名刺まで渡しているのに一番知りたい真由菜の事を忘れていた。自分がいつも水浦と呼んでいる真由菜はもう名さえも違うのかと思うと心が寂しくなる事も有った。

 嘉紀は優斗でも名を知っているくらい有名な会社に勤めていて、真由菜とはもう結婚して五年になるのだと言う。その他にも足が臭いなんて、どうでも良い様な細かい事を主に恵羽から聞いたが、優斗にとってはしっかりとメモしたい程の事だった。

 そんな風に話をしながら歩いていると、飲み屋街の片隅に有るイタリアンのお店へと付いた。

「このお店は安くて美味しいからお勧めだよ。あたしの結婚前からのお気になんだ。子供用メニューも有ってなお良し」

 店の前で手振りまでつけて、真由菜はテレビでレビューしているみたいに語っていた。

「それにしても安いな……もうちっと豪華な所でも良かったんだぞ」

 看板に有るメニューを優斗が眺めると、その値段はかなりの低価格で人々には有り難い。

「高い店もそれなりには考えたけど、違うかなって」

 真由菜は首を傾げながらも優斗の方へとそのにこやかな表情を送っていた。

 まあ、お金目当てならば絵を帰すなんて言わないだろうと、優斗も安い事は良いとして納得するとみんなで店へと進んだ。

 店内はお洒落と言うか、どうやらオーナーの趣味で飾り付けをされているらしくてオートバイレースの写真なんかが飾られているけれど、優斗も好きな方なのでそれが解った。

 席に通されたけれど、そこにはイタリア人ライダーの今も現役だが伝説的となっている選手のハングオンの写真が飾られていた。優斗はその写真を眺めている。こういう時の優斗は絵の事を考えているので構図等を眺めて描く時のイメージを掴んでいる。

 しかし、そんな事は真由菜には解らないので、ボケッとしている優斗の事を不思議そうに見ていた。

 席には優斗と真由菜が向かい合う様に座る。そして真由菜の横には幼い乃愛が座り、恵羽の方はと言うと優斗にしっかりとくっついていた。

 なので優斗はジーッと真剣に写真を眺めている訳にもならず、恵羽に「ねえ」と言われて現実に戻った。

 恵羽はまだ文字が読めないのか通常メニューを持っている。

「おっちゃん、コレはどんな料理なの?」

「うん? それはねスパゲッティだよ。でも、恵羽ちゃんはこっちの子供用メニューの方が良いんじゃないかな?」

「恵羽ちゃんチーズのやつが良い!」

 優斗は子供の言う事に困りもしないで、ニッコリとして会話を始めてもう一つのメニューを見付けて、恵羽と一緒にそれを眺めて選び始めた。あーだこーだ言いながら恵羽は楽しそうに優斗と話しているのを、真由菜はちょっと訝しげな表情をしてそんな二人を見ていた。

「水浦は酒、呑むか?」

「えっと、うん。そうだねー。ちょっとくらいなら」

「じゃあ、俺も久し振りに呑もうかな?」

 ジーッと見ていたので、優斗がドリンクメニューを渡しながら言うので真由菜も頷いた。

 真由菜は優斗が知っている頃からアルコール好きなのだ。優斗はその事を憶えていて、こんな事を云っていた。そして優斗は酒には弱い。どんな軽い酒であっても一杯でも十分に酔っ払えるおかしな自信が有った。

 みんながそれぞれにメニューを考えて、それにグラスワインを二つ含めて注文をした。

 まだ恵羽は優斗の事がお気にの様子でずっと話をしている。

「篠崎ってさ、結婚してるの?」

「そんなんしてないよ」

「もしかして、バツイチとか?」

「残念ながら、戸籍は綺麗なもんです」

 ずっと自分の娘と楽しそうに話している優斗の事を、真由菜は不思議そうな顔を崩さずに話し始めた。

 すると優斗は恵羽とじゃれながらもちゃんと返事をしていた。

「なんか、子供に慣れてるから、もしかしてとか思ったんだけどそうなのか……」

「一応、俺にも姪っ子くらいは居るからね。懐いてくれてるんだ。だから子供の扱いくらいは余裕! 元々好きだしね」

「へー、そうなんだ。ちょっと以外だったかも……」

「ふーん、そんなイメージだったのか……昔っから友達の弟なんかと仲良く遊んでたんだけどな」

 真由菜は今まで優斗に驚いていたのだった。

 でも、そう言われて考え直すと、確かに昔友達の年の離れた弟くんと仲良くなっていた記憶が水底の方にあったので、ひどく納得してしまった。

 真由菜はもう既に仲良しになってしまった恵羽と優斗を見ていると、今日会う事にした一つの目的を忘れそうになっていた事に気が付いて荷物置きに有った自分が持っていた紙袋を手に取った。

 それはもちろんあの向日葵の絵だった。

「こちらを返却致します……」

 真由菜はテーブルにそれを置いて申し訳無さそうな顔をしていた。

「返されてもな……俺はしっかりと水浦に売ったつもりだし」

「でも、コレって高いんだろ?」

「どうだろうな。まだ画商に見せてないから値段は付いて無いけれど、自分では良く描けてると思うから……」

「ネットで調べたんだ。cinonのこのくらいの絵なら安くても十万だった。あたしにそんなに払えないよ」

 真由菜はそう言いながら携帯の画面を見せていた。

 そこには絵画通販が表示されていて、優斗の作品が並んでいる。

 この向日葵は三号キャンバスなので、それと一緒の物を見ると確かに真由菜云っているくらいの値段で販売されていた。

「ネットはちょっと高いからね。実際お店とかで買ったらそんなにしないよ」

「でも、あたしはこの絵に五百円しか払ってないんだから」

「俺はそれで水浦に売ったんだから良いんだって」

 優斗と真由菜はテーブルで向日葵の絵をお互いに譲り合っている。

 絵があっちにこっちにと移動しているので、恵羽と乃愛がそれを追う様に首を振っていて、ついには楽しくなったのかクスクスと笑っている。

「それにしたってコレは悪い気がする……」

「ちゃんと額装までしてもらってるし」

 向日葵の絵は渡した時とは違って、しっかりと額に納められている。

 優斗はそんな絵をしげしげと眺めていた。シンプルな額だけれど絵も向日葵だけだったので良く合っている。

「額装って結構高いんだね」

「水浦もせっかく額装代払ってるんだから返したら損じゃん」

「額装代は払ってくれても良いんだよ?」

「この絵、そんなに俺に返したい? 好きになってくれてると思ったのにな」

 優斗はブスッとして、ため息をつきながらも、絵を再び真由菜の方へと向けた。

 真由菜はcinonの向日葵を眺める。とてもシンプルなのに華やかさが有って、自分でもかなり好きになっている。元々良いと思ったから優斗にこの絵を譲ってもらおうと思ったんだ。ハッキリ言うとこの絵が好き。真由菜の心にはそんな言葉が転がっていた。

 ずっと眺めていても飽きないこの絵は、子供の笑顔を見ている様。どこか恵羽と乃愛の笑顔にも似ている気がしていた。真由菜は黙ってずっと絵を眺めていたが、周りを見て今の状況を思い出した。この絵は優斗に返そうと思っていたのだった。

「好きだけど、やっぱりあたしが持っていて良いものではない気がする」

「俺は水浦にこの絵を持っていてほしいな……他の人には売らないつもりだったし」

 どこまで話しても二人の会話は平行線を辿っていた。

「おっちゃんが良いって言うんならもらっとけば? 私もその向日葵好きだよ。ママの笑顔みたいだし」

 ずっと二人で一緒の事を話し続けているので、退屈になったのか恵羽が云っていて、その向かい側では乃愛もうんうんと頷いている。

 恵羽の言葉は当たっていた。優斗はこの向日葵に、真由菜の笑顔を閉じ込めたつもりだった。だから誰にも売らないで自分で持っていようと思っていたのだ。

 真由菜はそれを自分の子供達の表情に映していたのだったが、間違いで恵羽達が自分の笑顔と似ているのだ。

「恵羽ちゃんの言う通りにしなって」

 優斗にまでそう言われて真由菜は困った顔をしながら絵を受け取った。

 手にとって見るとやはり素敵な絵で、自分のところに置いていたいと真由菜も思っていた。

「追加料金とか請求されても無いよ」

「そんな手も有ったか!」

「やっぱ返そうかな……」

「冗談だって、それはもう水浦のもんだから」

 一瞬だけ笑いにしたけれど、優斗は朗らかな瞳で真由菜の事を見ると、優しく語っていた。

 真由菜の方も既に困っている顔なんてしてなくてにこやかだった。

「解った。じゃあ、もう篠崎が頼んだって返さないからね……」

「うん。その絵は水浦の」

「安く売ったからって恩も無しだから」

 真由菜はどこまでもしつこくって、優斗は眉間にシワを寄せていた。

「まどろっこしい事、言わなくて良いから……」

 でも、優斗は怒っている訳ではなくて呆れていたのだった。

 首を落として「ふう」とため息をつきながら手をヒラヒラと振っていた。

「良かった。乃愛ちゃんも好きだったんだ。おっちゃんありがとう」

 真由菜がふんわりとした笑顔になって、その絵をしまうと急に乃愛が云っていた。

 そんな事だったので優斗はもちろん真由菜まで驚いていた。人見知りの乃愛がこんな事を言うなんて思って無かったから。真由菜なんてもう「乃愛が喋った」なんて、どこかのアルプス辺りに居る少女が言うように連呼していたけれど、そんな古い事は子供達には解らないで笑っていたのは優斗くらいのもんだった。

 そんな優斗も驚いて乃愛の事を見詰めても隠れる事はなくて、しっかりと笑顔を返していた。

「それは良かった。おっちゃんも嬉しいよ」

 そんな乃愛の笑顔が嬉しかった優斗がそう言葉を交わしても、さっきまで人見知りしていた人間なんて居なくなっていた。

 乃愛はそれから嘘だったみたいに恵羽に負けなくらいの笑顔で、優斗とテーブルを挟んでいるがじゃれ始めた。仲良しさんとなった三人を眺めた真由菜は、向日葵をもう一度見てから片付けた。

 乃愛の一言で真由菜も向日葵の絵を返す気もなくなったみたいで、優斗もその様子を眺めるとホッとしていた。あの絵は真由菜を思い描いたのだから、その人の元に有ってほしいと願っていたから、その点では優斗も嬉しかったのだ。

 ディナーはそれからも進んで優斗は子供達と仲良く過ごしていた。

 やはり子供が居るとそちらが主役になってしまうので、真由菜との会話は少なくて恵羽と乃愛の事を聞くばかりになっていた。しかし優斗はそんな事を気にしている様子は無くて、普通に楽しんでいたみたいだったが、反対に真由菜の方がちょっと退屈そうにしかめっ面になっていた。

 子供達は晩ごはんをたらふく蓄えると、もうお店になんて興味が無いのかソワソワとし始めたので、優斗がデザートのメニューを見付けて二人へと勧めた。もちろん子供達はそれに跳びついた。

 それは本当に椅子から跳ねて居たので、真由菜にはちょっと怒られたけれど、二人の元には値段を気にしないで選んだ豪華なデザートがもたらされる。すると急に子供達はデザートの方に真剣になって静かになったので、真由菜は一緒に注文していたコーヒーを片手に優斗の事を見た。

「やっと静かになった……それで? 篠崎はどうしてこんな所に居るの?」

「今日は古い友人とディナーを楽しみに」

「そういう事では、な、く、て……こんな北の街にどうしているのかと聞いてる」

「そりゃ、普通に引っ越して」

 真由菜は丁度良く自分達の話を進めようとしたのだが、優斗の方はのらりくらりと冗談ばかりで返していた。

 だがそれはどう答えて良いものかと、優斗は考える時間を稼いでいたのだった。

「その引っ越す理由だよ。篠崎はてっきり地元を愛している人間だと思ってたのに」

「地元は今でも一番愛しているよ」

「だったらどうして? 金持ちの道楽? 創作活動の為? それとも……うーん、あたしを追って?」

 理由に予想が付いてなかった様子で、真由菜は次々と思い付く案を話していた。

 確かに今の優斗には若干のお金が有るので、自分の住みたい所に引っ越せる。けれどそれならば仕事のしやすい東京とかの方が良いのだ。

 実際、優斗の画題には都会からのインスピレーションもかなり含まれている。その点からも創作には関係無かった。

 田舎を好む画家も居る。しかし田舎と言うだけの点としては優斗達の地元で十分だ。この街は数十キロも離れたらそれは確かに憧れる人も居る程の土地がどこまでも続いている。

 しかし、優斗が現在住んでいるのは街に囲まれている所。そんな風景は無い。昔住んでいた家ならば窓から馬鹿みたいに山も望めるし海だって数十分で付く。こちらも意味は無かったのだ。

 そして三つ目に真由菜が云ったのは優斗に対抗した冗談だった。そのつもりだったのだが、優斗に言わせてみれば完全なる正解だった。

 コレはちょっと考えてしまう。本当の事を話してしまえば引かれて、これからは会えないのかもしれない。でも、そんな思いとは別に優斗には真由菜への恋心をかくしていた事をまだ続けるのかと悩んでしまう場面も有る。そうしているとふと仲原の言葉を思った。

「そうだな。水浦の事を探してた」

 優斗は穏やかに微笑みながらもそんな風に返す事を選んだ。

 ちょっとおちゃらけながらも、三枚目となるのも悪くは無いだろうと思ったから。優斗にはそんな雰囲気が合っている。

 それに本当の事なのだから。まあ、信じはしないだろうとしての笑みだった。

 けれど、真由菜はそんな優斗の言葉を聞いた瞬間から訝しげな目で見ていた。

「本当に? どうしてあたしがこっちに居ると知ったの?」

 まさか信じたのでは無いだろうか。真由菜は笑うことも無く真剣な目で優斗を見ている。

 その瞳がとても強くて軽蔑している雰囲気は無い。でも、そうなるのも時間の問題なのかもしれない。

「それは秋森に聞いたから」

 取り敢えず優斗は真由菜の質問に答える事にした。全く嘘を付く事は考えて無い。ソースを全て明らかにするつもりだった。

 この秋森美咲と言う人間は、真由菜の古い友人で優斗も高校が一緒だったので、共通の知人と云った所。

 優斗はまだ地元からちょっと離れた拓けている街で絵描きをしてた頃、名が売れるに連れてそれは地元では顕著になった。すると古い友人だとか知人が勝手に増えた。もちろん自分が憶えてない人間も居た。誰もが好意的では無いのだったが、そこに秋森が居た。

 しかし、その再会は普通に昔を懐かしむもので、有名になった優斗に対しても普通の人間として扱ってくれたので、時折連絡を取るようになった。

 そして優斗は気にもなっていたし、話のネタの為に真由菜の事を聞くと、秋森は普通に現在を教えてくれていた。

「そっかー。ミサキちゃんって手段が有ったのかー。最近会ってないなー」

 真由菜と秋森はとっておきの仲良しで、高校時代はそれこそずっと二人で一緒に居た。その友情は十年も過ぎた今でも健在の様子で、真由菜は近頃地元に帰れてないので懐かしそうに語っていた。

「そう。水浦に会いたかったから、脅して秋森から情報を聞き出したんだ」

「ふーん、まあ、脅してってのは嘘でしょ。ミサキちゃんからそんな連絡は無いからね。普通に話題になって聞いたって所でしょ?」

「……うんと、そう! 騙して聞いたんだ」

「アハハハッまあ、そう言う事にしておいてあげようか」

 真由菜はコーヒーを片手に楽しそうに笑うと、全く信じる気配も無くて楽しそうに笑っていた。

 どうにも優斗は自分の方がおちょくられている気分になっていた。確かに脅したとか騙したは嘘なんだけど、他の本当の事を話しているのに信じられないとは。どう言えば良いのだろうと考える。

「もしかして、冗談云ってると思ってない?」

「だって、ミサキちゃんには普通に聞いたんでしょ? 問い詰めてたりしてたら、あたしにも云ってるって」

「そうじゃなくて、俺が水浦の事を追ってるって」

「ふーむ……案外信じてる」

 それまではずっと笑顔だった真由菜が真剣な顔になって答えていた。

「どうしてそうなる? 俺ってそんなにストーカーっぽく見えるんか?」

「そっか! 篠崎はあたしのストーカーなんだ!」

「おかしな所で納得しないでくれる?」

 今ではもう話している方と聞いている人間の表情が逆になっている。

 普通ならストーカーをされている真由菜が深刻な顔になる筈なのだろうが、今は優斗の方が眉を寄せて難しい表情になっている。

 対して真由菜はすっかりと悩み事なんて無い様に、笑ってるとも思える顔をしていた。

「だって、篠崎って昔、あたしの事好きだったんだよね?」

「ど……うしてそんな事を?」

 ずっとかくしてた想いなのだから優斗は、真由菜に伝わっているとは思って無かった。なのにそんな事を言われてポカンとしてしまう。

 コレは単なる予想だけで語られているのだろうかと、優斗は真由菜の事を良く見た。それはもう睨む程に。すると真由菜はニコッとして首を傾げている。

 昔っからのキラースマイル。こんな表情をされると優斗の心はギュッと苦しくなってしまう。

「当てずっぽうとかじゃ無いからね」

「だったら、どうして知ってるんだ!」

「サイコメトリー」

「英字新聞のことか?」

「そのギャグに気づく人居ないと思うよ」

「水浦は解ってるやん」

 二人して馬鹿な事を云っていたけれど、真由菜の方が呆れてしまったので話を戻す。

「篠崎って馬鹿だねー。高校の時にあたしの知り合いじゃ無いからって、女の子に好きな娘云っただろ? ネットワーク馬鹿にすんなよ」

 優斗は遠くイタリアンレストランの壁をも超えてその本場の国までを見るような瞳をして、自分の記憶を改めていた。

 それは高校時代のクラスでの馬鹿話の時の事だった。当時、真由菜は優斗とクラスが違って、更にはそこに居た女の子とは繋がりが無い。更にはちょっと真由菜とは敵対している様な者だったから伝わることはないと、その娘達からのあまりの追求に白状していた時の事。

 今さっきまでそんな事は張本人の優斗だって忘れてしまっていた。しかしそんな事実は、仲良しグループを枠なんて軽く通り越して広まってしまっていた様子。優斗は今更、当時の真実を知って顔を真っ赤にしていた。それは優斗は伝わっている事なんて知らないで普通に真由菜と話をしていたなんて思うと、昔の自分を馬鹿だと言う理由だけで殺してしまいそう。青いネコ型ロボットに頼んで昔に戻りたい。

「怖い。女の子グループおそロシア!」

「それはどんなコートジボワール?」

 半分言い間違えそうになったのを優斗は冗談にすると、真由菜は冷静に返答していた。

「俺って馬鹿みたいだったな……」

「うん。馬鹿だったねー。ちゃんと告白してくれてたら、付き合ってたかもしれないのに」

「へっ? それって冗談?」

「本当だよ。でも、そんな事は無かったから、実際は解らないけどねー」

 優斗は壊れてしまっていた。

 もう本当に昔の自分が恨めしい。あの頃に自分にもうちょっとだけでも勇気が有ったのだったら、今は世界が違っていたのかもしれない。それはもう美しいばかりの世界を優斗は想像している。

「もう死にタイ王国」

「このダジャレ続けるの?」

「云ってないと喋れなくなりそうだから……流しといて」

「そっか。でも、今は付き合えないよ。この子達も居るしね。ストーカーまでにしときなさい」

 微笑んでいる真由菜は我が子達を見た。

 子供達はもうデザートと無くしてしまったみたいで話は聞いてなかったが、真由菜が笑顔を送るとニッコリと返していた。

「それは許してくれるんか?」

「まあ、人の想いまではとやかく言えないし、誰かに好かれてるってのは気分が良いからね」

「じゃあ、これからも俺は君の事を好きでいさせてください」

 すると真由菜はふわっと笑い「解った」なんて云っていた。

 子供達が飽きても駄目なので優斗はこの話を切りあげて、店を離れようと伝票を取っていた。真由菜も一応、財布を持っているが、優斗はそんな事を無視をしているのでさっさと進むと、子供達がもたついて置いてけぼりになっている。

 なので真由菜がそっちを見ている合間に、優斗は支払いを済ませて待っていた。

「悪りぃね。奢って貰っちゃって」

「元々そう言う約束だっただろ?」

「うん。もちろん。でも、一応払うってポーズとお礼くらいは言わないとね」

「ポーズだけなんかい」

「その通り。ポーズだけだ!」

 優斗が近くの地下鉄の駅まで送ろうとして、真由菜はそんな事を言いながらケラケラと楽しそうに笑っている。

 もちろん子供達も「ご馳走さま」とか「ありがとう」なんて云っているので、優斗は歩きながらも二人共にハグをしながら返事をしていた。

 今年はまだ雪が降るみたいで、今だって寒くて暗い夜空からはヒラヒラと舞っている。優斗はやはり寒くてちょっと襟元を直していた。しかし真由菜も育った所は優斗と一緒なのにもう寒さには慣れてしまっているのか、そんな事は無い。もちろん子供達は北国生まれなので、もうこの季節は寒くないとばかりにはしゃいでいる。

 店から駅までは近くて、子供達とお喋りなんかをしながら歩いていると直ぐに付いた。

 楽しかった時間を優斗はちょっと惜しんで居たのだけれど、真由菜達とまだ一緒に居られるだけの理由を持ってなかった。

「次は水浦の旦那さんにも会ってみたいな」

 優斗の家は駅から歩いて暫くの所で電車には用が無いのでこの場での別れとなるから、また会う機会を作ろうと云っていた。

「会ってみたいの? てっきり憎い相手だから知りたく無いのかと思ってた」

「全く憎くないと言えば嘘になるけど、俺が水浦をほっといた責任も有るから。それに自分が好きな人が選んだ夫は会いたい」

「ストーカー心理は解らんなー」

「そこはストーカーだから、水浦の旦那さんをどうにか別れさせる様に仕向けるんだよ」

 優斗がちょっと考えてから言うと、真由菜は面白かったみたいでお腹を抱えて笑い始めた。

 優斗からすれば真由菜の方が考えが解らない。普通なら自分のストーカーと言われたなら、まず良い顔なんてしないだろう。それどころか警察に通報されてもおかしくはない。けれど真由菜はそんな事を許してしまって、ずっとストーカーの優斗と仲良く話して笑っている。

「どうする? このおっちゃんパパを捨てるって」

 ずっと笑っているのを子供達が不思議そうに見ているので、真由菜がそんな風に間違いでも無い説明をしていた。

 するとちょっとだけキョトンとして恵羽と乃愛が顔を見合わせたけれど、真由菜の笑いがうつったのかニコッとした。

「別に良いよ。恵羽ちゃんはそれでも!」

「だったら乃愛もそれで良い」

「子供達は意味が解ってないみたいだぞ」

「篠崎は喜んで居れば良いんだよ。まあ、ちゃんと悪くは無い様に説明しとくよ」

 ずっと真由菜の顔からは笑顔が消える事は無い。

 全てが冗談だと思っているのかもしれないと、優斗は思っていたけれどそれでも今は良かった。取り敢えず真由菜とこれからも会える。これまではこんなに側に近寄れる事も無かったのだから。今の笑っている姿も見えないのだ。そんな時と比べたら優斗には嬉しいんだ。

「じゃあ、連絡するから」

「ストーキングを待ってますわ」

 どこまでも真由菜は笑っている。これは酔っているのだろうかと思ったけれど、足取りはしっかりとしていて子供達の事も気を付けながら駅の方へと消えた。優斗はそんな姿を見えなくなるまで見続けると「ふう」とため息をついてから帰った。

 楽しかった。そんな心に灯火が点ったので、それからの優斗は毎日にこやかでバイトだって張り切って仕事をしている。普段だって優斗の仕事振りに文句を付けようが無いのだけれど、それにしても気分良くなっている。

 そんな姿を見てもちろん首を傾げている人々も居る。前島と仲原だ。優斗の楽しそうな姿を見ては、スリラーのゾンビみたいに首を真横に傾げている。シフトが合わなくて三人が一緒になる事は無かったのだが、二人は優斗の雰囲気が違う事を察知していた。

 優斗は週末に似顔絵描きもして、今回は客も少なくて赤字になってしまったのだったが、それでも落ちる事なんて無かった。

 一週間過ぎても優斗は明るい。やがてシフトの都合で前島達と三人の暇な時間が訪れる事になった。

 週明けの月曜日客なんて誰もが仕事モードになっているので居ない。こんな日が優斗の働いているカラオケ屋では時々有るのだ。

 そんな時には当然、暇潰しの話になってしまう。優斗が各部屋を軽く掃除のチェックをしてから受付へと戻ると、もう前島と仲原が座って待っていた。

 二人が仲良く話して居たのだったら優斗は遠慮をして仕事を探す。だけれど今の二人は優斗を見つけると睨む様に見詰めていた。そして仲原の方が手を挙げて「おいでおいで」をしている。

 もうそこには優斗の分の椅子まで用意されていた。まるで取り調べの様で微かにカツ丼の幻影まで見えていたけれど、この二人を敵にすると店では一番危険な事をもう優斗も解っていたので、文句も言わずに被告人席へと座った。

「さて、それではシノくんに近況を聞きましょうか?」

「俺って、副店に近況報告しないと駄目なんか……」

「別に普段なら必要ない。でも、最近の印象がおかしすぎる!」

「印象がおかしいって?」

 優斗は前島の言葉に眉を寄せて、腕を組み首までひねっていた。とことんまで自覚は無い。

 すると、仲原が横から手を伸ばして、自分も発言しようとしていた。

「私達、篠崎さんが二週間前から楽しそうにしてるって気が付いて、話をする時間が無いか副店と相談してたんですよ」

「へー、副店と仲原さんって仲良いんだね」

 少しだけ優斗は意地悪な事を云ってみようと思った。

 それで仲原はスッと視線をはずしたけれど前島は至って普通な顔をしている。

 やはり優斗が前に推測したことは外れてはない様子。状況証拠だけで、優斗の考えは確信へと姿を変えて微笑んでいた。

「そりゃまあシフトも良く合うし、仕事仲間だからな。ってそんな事はどうでも良くて、シノくんの方は嬉しい事でも有ったんだろ?」

 その時に仲原がどうでも良いのかよって誰にも聞こえない様に云っていたが、優斗はそれが解ったようでにこやかにしている。だが、もうこっちの方にはおちゃらけるを辞めようと思っていた。

「別にそんな事、有りませんよ」

「嘘付いても解るんだからな」

「特に嘘を付いても無いんですけど、どう解ってるのかな?」

「本当に、嘘付いて無いの?」

 どうやら前島の言葉は当てずっぽだったみたいで、今は目を丸くして熊が鮭で殴られた様な顔をして優斗の事を見ている。

 そんな馬鹿な前島の顔をどかせて、仲原がやっと視線を戻して優斗に向かった。

「もしかして、篠崎さんの好きな人と進展でも有ったのかと、思ってるんですけど?」

「うーんっと、それはね……」

「有ったんですね」

 前島よりも仲原の方が賢い事は優斗には簡単に解ってしまった。見た目はおっさん、頭脳は子供の前島よりも随分と恐ろしい。うっかりしているとジッチャンの名にかけて推理されそうだ。これは言い逃れができそうにも無い。

「うん。この間、ご飯だけ……」

「どんな事を話したんですか? 聞かせてくださいよ!」

「楽しそうだね……どうして俺の事にそんなに真剣になるの?」

「それは、篠崎さんを応援したいからですよ」

 仲原は目を煌めかせながら楽しそうに話をしている。

 学校に進まなかったのでこんな恋バナとも離れているからなのだろうか。仲原は真剣にも優斗の話を聞こうとしている。

 でも、その横でブスッとした前島が居た。

「おかしな事になって無いよね? シノくんもそれは解ってよ」

「それがさあ、ちょっとおかしな事になった」

「危ない。警察に連絡しないと!」

「副店は黙っていて!」

 冗談を挟もうとする前島の事を仲原が遮っている。

 もう普段は使っている敬語も忘れる程に邪魔者扱いだ。

「俺は、ちゃんと今も好きだ的な事を伝えたんだよね」

「うわー、ロマンチック! それで返事は?」

「まあ、雰囲気は冗談に近かったけどね。それに特には返事も無かった。でも、拒否もされなかった」

「それって付き合うって事ですかー!」

 もう仲原は自分の事の様にボリュームも考えないで話をしているので、優斗と前島は耳を塞いでいた。

 仲原はそんな事を気にする事も無くて、今にも優斗に掴み掛かりそうな雰囲気。

「違うから……付き合いは出来ないけど、ストーカーなら良いって言われた」

「シノくん、ストーカー白状しちゃったの?」

「まあ、話の流れで……」

 尋問は終わりそうに無くて、客も居ないので好都合なのだった。

 今日は冬の寒さが戻った様に雪が降っている。おかげで人通りは少なくて、客は姿を見せる様子も無かった。

 なので、優斗は前島達の取り調べに協力するしかない。バイト側の罪人は立場が弱いのだ。

「相手の人は篠崎さんの事、どんな風に思ってるんでしょうね。一度会ってみたいな」

「普通に昔の知人が、ちょっと面白いストーカーになったと思ってるんじゃないかな? 考え方が特殊な人だから、昔から要領掴めないし……」

 優斗と仲原がそんな風に真由菜の事を話し続けていると、前島はその隣で難しい顔をしている。

 話している優斗の顔を睨んで居たのだった。

「それって、良い考えかもしれない」

 前島はピンと閃いた様な顔をしていたが、もう真由菜の事を細かく聞いていた仲原は、この人は馬鹿になったのでは無かろうかと、怪訝な顔をした。

「副店、どうしちゃったんですか? 馬鹿になったんじゃないの? ってそれは元からか」

 仲原は前島の事を笑いながらその通り馬鹿にしていた。けれど前島はそんなのをブスッとしながらも無視をして、横で二人の話をにこやかな顔をしている優斗へと相手を移した。

「さっき仲原ちゃんが云っていた事だよ。シノくんの愛しの人に俺も会ってみたい」

「はいぃ? 仲原さんの言う通り馬鹿になってるよ。どうして副店が会うんだよ」

「それなら私も会いたいから一緒に。四人でご飯でもいかがですか?」

「仲原さんまで馬鹿な事を言わないでよ。あっちがそんなのオッケーしないと思うよ」

 不思議な事を言い始めた二人に、優斗は真由菜と会わせて良いものかと考え、困ってしまっていた。

「昔から考えが読めなくて、シノくんがストーカーで居ることを許してる人なんだろ? だったら提案だけでもしてみてよ。君だって彼女に会う理由が有った方が嬉しいだろ?」

「うーん、そうは言われてもねー」

 優斗はまだ悩みながら腕を組んで、天井を見つめてしまった。

「ホラ! ご飯は副店が奢るって云ってるんですから!」

「俺は、そこまでは云ってないけど……」

 深く悩み始めた優斗に仲原が餌を吊って居るけれど、その横では前島が再びブスッとしていた。

「細かい事を云ってないで、上司なんだからキッパリと払っちゃいなさいよ!」

「稼ぎはシノくんの方が良いと思うけど……」

「篠崎さん、バイト以外にも仕事が有るんですか?」

 仲原は優斗の本業の事を知らないので首をひねっていたけれど、前島は「うーん」と唸ってから自分の膝を叩いた。

「しょうが無い。俺の考えだからな」

「ちょっと待ってくださいよ。俺はまだ良いとは云ってませんよ」

「篠崎さんはまだその人のストーカーで彼氏じゃないんだから、会わせない権限なんて有りませんよー。取り敢えず連絡してみて! それで駄目だったら私達も今回は諦めますから」

 渋る優斗に仲原はひじょうに楽しそうな瞳をしながら、おかしい気もする正論を言い納得させようとしていた。

 言葉では仲原に勝てそうもなく、しょうがなく優斗は携帯を取り出して真由菜へとメッセージを打ち始めた。それは仲原の理論に納得したわけではなくて「今回は」と言うワードが含まれていたからなので有った。それは次もあるかもしれないそんな風に思うと、面倒にもなったので真由菜から断りの言葉が有る事を期待して、それでこの話を無しにしようと思っていた。

 優斗がメッセージを送ると返事は直ぐに有った。優斗がメッセージを読んでいる姿を、前島と仲原が黙って見詰めている。すると優斗は非常に困った顔になった。

 言葉を発しないので前島達からはどんな返事が有ったのかも解らない。

「シノくん、どうしたんだよ。返事が有ったんだろ?」

「まあ、そうですね……」

 前島が痺れを切らした様に聞くと、優斗からは実にテンションの低い言葉が帰った。

「そっか、断られたか……そうだろうね」

「いえ……オッケーだって云ってます」

 まだブツクサと腑に落ちない様な話し方をしている優斗が見ている携帯には、真由菜からの今回のご飯会を了承する意図の文面が並んでいる。

 一応、優斗はさっきのメッセージの時に「断っても良いよ」と付け加えていたのに真由菜からはそんな返事だったので、再び困ってしまったのだ。

「ヤッター! じゃあ、次の金曜とかはどうですか? 副店達二人は開店からだから夜は暇ですよね。私は休みなので都合が良いんですけど、篠崎さん、その人に聞いてみてくださいよ!」

 もう仲原は楽しそうに話をしている。彼女の本当の目的が解らないなと、優斗は既に前島にどの店にしようかと話している仲原を一度見てから携帯へと向かった。

 真由菜からの返事はどれも直ぐに有って、日付けは全く問題無い様子。優斗はそれだけでは無くて、真由菜にどうして今回の事をオッケーしたのかと聞いていた。真由菜は普段子育てに追われて退屈だったし、ストーカーの優斗の周りの人も面白そうだからと話していた。

 優斗はどうにも困った事になったのかもしれないと思いながらも、既に前島達と真由菜も楽しみにしているみたいなので、自分からはもう言える事なんて無かった。

 だから、もうそれからは言葉も少なくなって、前島と仲原が仲良く違う話になった頃、優斗は意味も無く外に掃除でもレレレのレとする為にその場を気を利かせて離れた。

 雪は今も降っている。優斗が育った街ではもう桜が咲いていると言うのに、これは魔法にでも掛かっているみたいだ。これは夢なのかもしれない。優斗はそう思ったけれど、夢でも覚めてほしくない。真由菜の事が好きでいられてそれで、会えると言うならもう他には望む事なんて全く無い。

 日々を楽しく前島達と過ごしていると、毎日は忘れたみたいに過ぎてしまって、直ぐに思い出になってしまう。でも、ちゃんと優斗の心には真由菜と言うフォルダを作って、永久保存にしてあるから最近のその笑顔は褪せることも無くて、煌めいていた。

 近頃の優斗の絵はカラフルになっていた。明るいイメージが次々浮かんでしまうので、パステルばかりを選んでキャンバスへと向かっている。売れるくらいの作品は出来上がっているのだけれど、絵画賞を取れる程のものは無い様な気がして、優斗は更に描き続けていた。

 程良くテンションは高くて進んでいるのにスランプだ。週末はシフトによって時間が有るので、似顔絵描きをするのも良いかもしれない。丁度良いリフレッシュになるのかもしれない。けれど、その前に例のご飯会が有る。

 真由菜と会える事自体は優斗も嬉しいのだけれど、問題な人間が二人も居るので、楽しみなのかそうでない様などうにもおかしな気分になっていた。

 金曜になり前島と一緒に開店作業をすると、優斗は肩をばしんと強く叩かれた。前島は嬉しそうな顔をして流石に週末と言う事も有って、開店を待っていた客の相手を始めた。

 優斗も適当に仕事をこなしながら時間が流れる。そうしていると仲原が約束の時間までまだ有るのに現れたかと思ったら、高認の勉強をしている塾が終わったからと、暇潰しにカラオケをするのだと言う。

 夕方になって店も賑わい始めたけれど、優斗と前島は交代要員も居るので時間通りに仕事を終えられた。二人揃って店から出ると、そこには店がこまない間にカラオケを辞めていた仲原が、寒いのに頬を紅く染めながら待っていた。

 一瞬、優斗達の事に気付かなかった仲原だったけれど、二人を見付けると瞬間に笑顔になってから手を振っていた。でも、優斗はそれに振り返す事は無くて、隣の前島を見る。前島はそんな視線に不思議な顔をしながらも、仲原だけが手を振っているのを悪いと思ったみたいでそれに返していた。

 ちょっと嬉しそうな女の子の笑顔が有る。三人になって店から呑み屋街の方へと進む。

 ご飯とは言え店はお酒がメインな所になる。これはしょうが無い。仲原は法律が許さなくて、優斗は体質的に呑めなくても、前島も酒好きで真由菜はそれに負けてない事を知らせるとこうなってしまった。

 予定していた店は居酒屋では無くて、ちょっとオシャレだけれど気を使わなくて、良く話が出来そうな所を前島がチョイスしていた。ネットの評判も良くてちゃんとご飯類も美味しいとのレビューが有ったので、仲原からも得点としては、はなまるをもらっていた。

 三人が店に近付くと、そこではもう真由菜が待っていた。

 ちゃんとメッセージアプリで店のデータを送っていたので、待ち合わせをその場にしていたのだが、待たせてしまったのか真由菜はちょっと寒そうに軽く背を丸めている。

 前島と仲原はもちろん顔を知らないので気付きもしなかったので、優斗はちょっと急ぐ様に足を進めて、二人から離れ真由菜の元に近寄った。

「待たしたかな? ゴメン」

 反対方向を見ていた真由菜は足音に気が付いて振り向き、優斗を見るとニコッと笑った。その真由菜の元には子供達の姿が無かった。当然一緒だと思っていた優斗は、ちょっとキョロキョロとしてその姿を探している。

「今、着いたところだし……? 誰か探してんの?」

「恵羽、乃愛コンビ。一緒じゃないの?」

「うちの姉妹はおっぺけだから、今日は旦那に預けてる。会いたかった?」

「うん。ちと寂しいなー」

「篠崎はあたしのストーカーじゃ無いんかい」

 ずっと仲良さそうに優斗と真由菜が話しているのを、前島達は不思議そうに見ていた。

 ふと見ると二人がどんな関係か解らくなってしまいそう。確かに仲の良い友人と言われたら、それがしっかりと合う。夫婦や恋人だって云っても納得してしまうだろう。でも、ストーキングしている者とその相手だとは思えない。

 険悪な雰囲気が無いので、傍から見ればそうなのだろう。どうしても不思議なのだ。関係を知っている前島達からも浮気相手の様にさえ見えていた。真由菜が結婚していることを知らなければ単なる恋人同士だ。

 前島がフリーズしている横で、仲原は二人の方へと走り寄った。

「篠崎さん、取り敢えず寒いからお店で座りません? 自己紹介もその時で」

 仲原はずっと話を終わらせようとしない優斗に云ってから、真由菜にもニッコリと笑顔を送っていた。

 もちろん真由菜もそれに返していて、こちらも雰囲気は穏やかだ。あくまでもスターウォーズの印象は無い。

 四人は並んで店へと進んで、案内された席に座ると、まずはビールを三つと仲原用のウーロン茶を注文した。それからゆっくりとフードメニューを眺めて、それぞれがお腹と相談して追加をしようと言う算段。

 ドリンクが到着した所で数々の品物を注文してから乾杯をした。名目なんて無いから口上も省いていた。

「それじゃあ、シノくん紹介してー」

 乾杯のビールを置くと前島が話を始めようと、真由菜の方を見ながら優斗へと話した。

「えーっと……俺の高校の時の友人で、水浦真由菜さん……んっ? 今は苗字が違うのか。聞いてなかった」

「こんばんわ。西川真由菜と申します」

 基本的な情報をこれまで聞いても無かった優斗は、はてなマークを浮かべながら真由菜の事を前島達へと紹介するが、そんなのはグダグダになっていた。

 なので真由菜が隣で咳払いをしてからしっかりと訂正をする。そんな事だけでこのテーブルに笑いが広がった。

「ハイ! こんばんは。私は仲原綾香です。ちなみに篠崎さんがストーカーだって事も知ってます」

「そんな事も知ってるの? って言うか若いね」

「篠崎さんから聞き出しました! 残念ながら若いんですよ……16ですけど、倍でも良いんですよねー」

「そんなー、やっぱり若い方が良いよ」

 女同士をほっとくと話なんて終わりそうに無かった。

 真由菜と仲原もどうでも良い事をそれからも聞き合っている。

 でも、まだ自己紹介をしてない前島が寂しそうにビールを呑んでいたので、優斗が気を利かせてその事をジェスチャーだけで知らせていた。

「おっと……副店の事を忘れてた」

「一応、俺は今回のスポンサーなんだけどな……」

「そんな細かい事を気にしないでくださいよ。前島芳樹さん。一応、これでも副店長なんですよ」

 拗ねている前島に代わって仲原が紹介をしていた。

 料理も到着したので四人は楽しく会話を始める、と思われていたが、真由菜は仲原に取られてしまって優斗と前島が話をしている。

 向かい合っている二人が両方話すので、まるで相席の様になってしまっていた。

 今日は子供が居ないので真由菜は随分とお酒を進めていて、優斗が確認するとその頬が紅くなって良く笑っている。存分に楽しく酔っているみたいで、優斗はこの二人と会わせるのはどうかと思っていたが、良かったのかもしれないと思っていた。

 自分も今日は普段あんまり好きじゃないビールが美味しく思えて進んでいた。気分も良くなっていて、もう前島の主に職場でのグチを適当に相槌だけでかわして、酔っ払って更に愛らしくなっている真由菜の事をジッと見詰めていた。

「シノくーん。聞いてるのー?」

 もう随分と酔っ払っている前島が自分の方を向いてない優斗に気が付いて、ブスッと睨んでいた。

「篠崎さんはストーキングに真剣なんですよね?」

 唯一酔ってない仲原なのだが、ちゃんと雰囲気には流されているのでこんな風に語る。

「そうだね……うん。水浦の事見惚れてた」

「はっ? 馬鹿じゃないの?」

 言葉こそは厳しいけれど真由菜は笑顔で冗談だと解るし、頬はさっきよりも赤くなっている。

「マユナちゃんはどうして、こんな篠崎さんの事を許したんですか? ストーカーなんて犯罪ですよ」

「んー……別に危害も加えられないんだったら、構わないかなって思って」

「でも、西川さんには旦那さんが居るでしょ。こんな風に自分の事を好いているシノくんと会ってる事を知られたらマズイんじゃないの?」

 さっきまで別々の席だったみたいなのに、急に仲原と前島が息を合わせて真由菜へと質問を続けた。

 やはり元々の目的はこちらなので、二人共ずっと気にはなっていた様子。

「ちゃんと旦那には話してますよ」

「そうなんだ。ちょっと安心したよ」

 その真由菜の言葉に返していたのは優斗だった。前島と仲原は一瞬意味不明になってしまったので言葉を無くしている。

「全て報告してるって。昔の友人と再会しました。子供達とご飯奢って貰いました。ストーカーらしいです。一緒に呑みます。って」

「ふーん。そうなんだ」

「そうなんだって、シノくん……」

 真由菜と優斗はビールを飲みながら世間話でもしているかのように普通に語っているが、前島はもう驚き過ぎて顎が落ちそうになっている。

「マユナちゃんの旦那さんは信頼してるんだね」

「どうなんだろうね。わかんないよ」

 仲原の言葉に、真由菜は笑顔な表情はそのまんまに話していたけれど、前島の視線は厳しくなっていた。でも、そんな事を無視って仲原が意地悪そうな顔をして笑っている。

「ところで、マユナちゃんは篠崎さんが真剣になって付き合ってって言われたらどうするの?」

 キラーワードだった様子で、仲原の一言で三人が静まり返ってしまった。

 けれど、次に現れたのは笑い声だった。

 それは真由菜から発せられていて、本人はとても楽しそうでテーブルを叩いていた。

 笑っている理由が前島には解らなかった。もしかしたら真由菜は優斗の事を茶化して遊んでいるだけなのかもしれない。優斗は真剣に真由菜の事が好きなんだと、前島には解っている。だから、ちょっと優斗の事が気になってしまう。少し説教になってしまうけれど、それもしょうがないと思っていた。

 すると真由菜は笑うのを辞めて、仲原の事をにこやかに眺める。

「そうだね。今は解かんないかな……それよりあたしはアヤカちゃんの方が気になるんだけど?」

「私がどうしたって言うんですか?」

「バレてないと思ってる? あたしは年の差が有っても似合ってると思うよ」

 真由菜がそんな風に言うと、仲原は「ワーッ」と騒いで急にうるさくなった。

 前島が耳を塞ぎながら怪訝な顔をして騒いでる仲原の事を見ると、真由菜はもちろん優斗までも穏やかな微笑みで二人の事を見ていた。

 すると前島は、またもや意味も解って無いので周りを見渡していると、急に仲原がキッと睨んだかと思うとパカンと叩いた。更に意味が解らない前島は、仲原と言い合いになったけれど、優斗がいつもの事だからと真由菜に伝えると「仲が良いんだね」とこちらも二人で話をし始めた。

 呑み始めた頃と違って、今度は男女二組の相席の様になっている。

 前島達はずっと喧嘩みたいに話して、優斗と真由菜はずっと笑って、時々二人の事を暖かくも眺めていた。

 もう呑み始めてから随分と時間が過ぎた。前島もずっと考え事や喧嘩をしていたと言うのに楽しかったらしくて、今はもう潰れてしまっている。ちょっとオシャレな店なのに油断をしていると、前島のいびきがなりそう。その度に仲原は前島の事を起こしている。

 こんな風になってしまえばもう宴会はおしまいだ。

 どうにか眠気と戦いながらも前島は会計へと向うが、女の子二人を残して優斗はそれを追い、自からと真由菜の代金だと半分を持った。

 仲原と前島はあれだけ話していたけれど、そんな恋は進展している雰囲気も無くて、元々の関係に戻っている。かなり足元の危ない前島の事を仲原が、肩を貸してどうにか歩いてた。

 優斗と真由菜からはそんな二人が仲良いのか解らなくなりながらも、続いてこちらは並んで歩いている。けれど、優斗はしっかりと酔っているので歩みはどうにかなっているが、危なくないとは言えない。楽しそうに真由菜が優斗の肩を叩いて、転ばそうとしているくらいだ。

 その度に優斗は文句を言うけれど、ふらつきは続いて居た。

「それじゃあ、私はこの荷物を店に転がしておきますから、篠崎さんはマユナちゃんの事を送ってね」

 賑やかな優斗達を若干恨めしそうに見てから、笑顔に替えて仲原が振り返っていた。

「そうなの? だったら、俺が運ぶよ」

「なんだ? 篠崎、ストーカーのくせにあたしの事を送れんのか?」

「でも、副店重そうだからさ」

「ふーん、篠崎はアヤカちゃんの邪魔をしたいのか」

 クスクスと笑いながら真由菜が云っている。こちらも楽しそうでしっかりと酔っていると思われる。

「邪魔とかじゃなくて……」

 優斗は真由菜と仲原の顔を見た。二人共ニコリと笑っている。

「私なら気にしなくても良いですよ。興味の無い女なんて捨てといて構いませんよ」

「興味無いって……」

「アヤカちゃんが、かわいそーだよー」

「水浦はどっちの味方やねん」

「強いて言うなら、篠崎の敵かな?」

 真由菜の言葉に、優斗はもう返せなくなって睨んでいる。

「解った。ちゃんとストーカーするよ……」

 そんな会話が有って、四人はその場で別れた。

 前島はもう本当に潰れてしまっているが、仲原は困った顔もしないでその肩を支えながらちょっと嬉しそうにもしている。

 それに対して優斗の方は難しい顔になって、真由菜と一緒に反対の方向へ向かって歩き始めた。

 言葉は無くてさっきまでの真由菜からのちょっかいは無い。近くの地下鉄駅へ淡々と進んでいる。

 真由菜は仲原の為に自分を離そうとしたのだろうか。それならばもう自分は用も無いのだからさ邪魔もしないし、帰っても良いのかもしれない。これで家まで送ったら本当にただのストーカーになるだけじゃ無いのだろうか。別にそれでも構わないと思う自分と、格好を付けたい心が喧嘩をしている。優斗は黙って難しい顔をしていた。

 風は冷たいけれど歩いていると段々と暖かくなる。解らない問題を抱えていたので、道端のラーメン屋を眺めて歩みを辞める。

 もちろんさっきまで並んで歩いていた人が居なくなったので、真由菜はそれに気付いて振り返ると、優斗の視線を確かめる。

「酒を呑んだ時って、ラーメンが恋しくなるねー」

「ちょっと寄ろうか?」

「奢ってくれるなら!」

「こえても知らんけど」

「ぐあっ……そんな事を言われると心が痛いけど奢りにはもっと弱い」

「財布にはなりますとも」

「重そうだけどね……」

 真由菜は油の浮いているラーメンの写真を恨めしそうにも睨んでいるけれど、その美味しそうな見た目に完全に負けていた。

 アルコールを頼まなかった仲原とは違い、他の三人は酒類をメインとしていたので、お腹には余裕が有る。

 二人はラーメン屋さんに寄ると並んでカウンターへと座る。

「ラーメンとビール!」

 優斗は座るとメニューも見ないで注文していた。

「まだ呑むの? 控えといた方が良いと思うよ」

 真由菜から見た優斗は明らかにもう呑み過ぎな印象になっていたので、アルコールの限界値は知らないけれど一応は注意だけでも挟んでおいた。

 しかし優斗はそんな言葉を聞くことも無くて、真由菜の事を睨むように見ている。

「水浦が呑まんのだったら、別に俺だけでも良いんだけど?」

「あたしからビールを取り上げたら素敵な笑顔しか残らんよ」

「いっそ取り上げようか?」

「そしたら笑顔も残らん」

「どっちやねん」

「笑顔とビールはセット」

「なら構んけどな」」

 明らかな真由菜の冗談に優斗は納得した様に返していた。

「一応、ボケたつもりなのに」

 ブスッとしながらも真由菜は自分もちゃんと好物のビールを注文して、直ぐにそれが運ばれると二人はもう一度乾杯をした。

 ラーメンも到着したけれど、優斗はまたビールを主役にしていた。

 ちょっとおかしな呑み方で、ペースを考えて居ない。話もしないでずっとラーメンとビールを無くそうとしていた。

 優斗は弱いのにビールをおかわりまでしていた。まあ、そんな事を徹底的に弱い人間がすると結果は解るだろう。優斗は店を出る時にはもう存分に酔ってしまってフラフラになっている。

 気分が悪くて視界が歪む。普段ならこうならない為にセーブをしているのだけど、ふと呑みたくなった。今日の僕はおかしい。君と一緒に居られるからかな。優斗はそう思いながらも歩こうとしたけれど、足が重たくなって倒れそうになる程、気分が悪くて、歩道有った花壇の縁座った。

 アルコール分解能力を持たない、篠崎優斗と、彼の泥酔の時、となった。

「呑みすぎた……」

「だろうね……自分の限界知っときなさいよ」

「うん……もう呑んだらこうなるって解ってたんだけど、今は休憩」

 もちろん優斗だってこれまでに酒を呑んで、自分のアルコールへの弱さを知っていたのでこうなるのも解ってたし、対応方法も解っている。

「馬鹿なんじゃ無いの? ストーカーがその対象に看病されるって有るの?」

「まあ、有ったら嬉しいけど……」

「全くっ。お水買ってくるから待ってなよ」

 真由菜は文句を言いながらも近くに自販機を見付けると、パタパタと走って優斗の元から離れた。

 かなり急いで居て硬貨を落としそうになっている事から、言葉とは違ってちゃんと心配している様子も解る。

 そんな姿をボケッと、ただアルコールを分解されるのを待っている優斗は眺めていた。ちょっと寒いくらいなのに汗が雨でも降っているみたいに流れる。自分の腕さえも重たくて、もう思考能力も無くなって気を付けていないと、地べたに転がってしまった方が「楽そうだ」とおかしくなってしまう。

 優斗はどうにか苦しい呼吸をしながら座っていると、頬に冷たい物が当たった。

「ビックリした……ありがと」

 それは真由菜が買ってくれたスポーツドリンクで、優斗は一生懸命になってキャップを開けると、ガブガブと身体へと流し込んだ。

「驚いたんなら、ちょっとはリアクションしてよ。恐いよ……」

 今の優斗はそれどころでは無いので、冷たかった事にも気付いて無い様に無反応で、ボトルを受け取っていたので真由菜の瞳は真剣になってしゃがむようにしてその気分の悪そうな人間を見ている。

 それでもちゃんと水分をとって、優斗も辛そうながら応答をしているので真由菜は安心したのか、「うんうん」と頷くと隣に座った。

 折角、真由菜と並んで座っているのに優斗は気付きもしないで、ただ時が流れ、気分が回復するのを待っている。水分を取ったので自分の身体はアルコールを発散させようと汗にしている。もうシャツは気持ちが悪い程に汗を吸っている。額の汗も邪魔で仕方が無いけど、今はそれを拭う事さえもだるくて諦めていた。

 するとスッと額を拭かれた。辛うじて狭い視界から見えたのは、心配そうに自分の事を見ながら汗をハンカチで拭いてくれている真由菜の姿だった。

 優斗はこれまでどちらかと言うと、笑っている真由菜の印象ばかりで、そんな所が好きだったのに、こんな姿を見ると改めて恋に落ちそう。もうしっかりと恋しているのに。

「あのさ……ちょっと聞いて良いかな?」

「個人情報以外なら答えます」

「それなりに水浦の個人情報は知ってる」

「そうなんだけど、あたしにはまだ保護している情報だって有ります」

 今はもう目が回りそうなので、瞑ってはいるけれど、優斗はちょっとだけ楽になったので、会話も出来るようになっていた。

 隣で聞いている真由菜もそれに気が付いて、単に返事をするだけでは無くて、安心して余計な会話を増やしていた。

 じゃれ合う様な言葉をまだ寒い道端に転がしながらも、二人はゆったりと語る。

「それはちょっと知りたいかも……」

「仲良しの友人くんには、そのうち教えても良いよ」

 フフッと真由菜は笑っていた。

「ありがとう。でも、俺ってこのまんまでも良いの?」

「このまんまとはストーカーって事?」

 優斗は段々と回復して今まではグッタリと俯いていたけれど、やっと顔を挙げた。

「まあ、そうだけど……」

「言葉を濁さないでハッキリ言いなさい」

 治り始めたのに隣で視線も交わさずに居る優斗に、真由菜はしっかりと安心した様子で文句までも折り込む。

「君を好きな僕でまだ居ても良いですか?」

 それまでは笑顔も見せていた真由菜だったけれど一度、言葉を無くすと立ち上がって優斗の横を離れた。

 やはりそれは断られるのかと思って今、聞いた事を優斗は消したくなってしまった。しかし言葉は一度発せられると効力を有すので、無くなったりはしない。

「篠崎ってそんなに弱っちい人間だと思われても構んの?」

 確かにこんな事を言うのは自分が弱く情けないから。

 そんなのは優斗も解っている。けれど言葉にした。

「俺って弱い人間だからな。笑われても仕方が無いし」

 真由菜はそれまで優斗の周りを暇潰しみたいに歩きながら話していたけれど、スタンとジャンプしてからしゃがみ込むように座った。

 ただ若干、塞ぎ目で眺めていた優斗の視線に自分を現せた。真っ直ぐに優斗の事を見詰めている。

「笑わないよ。それは勇気だから。こちらからお願いします。好きで居てね」

 話が終わる時の「ね」って言う時に真由菜は首を傾げていた。

 これは真由菜の作戦なのだろうか。優斗はそんな表情に完全に負けながらも、随分とアルコールとの戦いから回復したので「よっこらしょ」と立ち上がっていた。

 まだ辛くて若干フラつくと、真由菜が支える様に手を伸ばしていた。

「気にしないで歩けるから……」

 優斗はその真由菜の手を取って、ありがとうと言いながら断っていた。

「しかし、篠崎はそんな事ばかりを聞いてるねー」

「そんな事は……有るか。ちょっと自分でも良いのかなって思うから」

 再び歩き始めた優斗は少し考えて、がっくりと肩を落としていた。

 二人はそれからも楽しく会話をしながら、真由菜の家の方へと向う。

 地下鉄の駅から電車で終点まで進む。そこからはバスで数分と言う事で、優斗は送るのをこの場所までにしておこうかと思っていた。

 真由菜は気にしている様子も無くてバス停で待っている。昔もこんな姿を故郷で見ていた気もする。懐かしくて酔っている優斗はタイムスリップした気分すらも有る。けれど間違い無くこの地は二人が育った街ではなくて、今はもう真由菜は誰か知らない人の妻だと思うと、お腹の底に有るおもりみたいのがズキンと傷んだ。

 最近の優斗はこんな事ばかりなのだ。真由菜がもう既婚者な事にショックを受けていて、その度に意味無く自分が惨めに思えてしまう。それでも時代が進んでいる事には全く困っていない。

 恵羽と乃愛が居る事。つまり真由菜にもう子供が居るのは、どうしてかは解らないけれど、嬉しい自分も居たりする。

 そんな風に優斗が勝手に自分の文句を心だけで語っていると、遠くの方からバスが近付いていた。

「それじゃあ、俺はこれで帰るわ」

「アレッ? 家まで送ってくんないの? ストーカーとしてはそれはどうなんだ?」

 てっきり家まで送ってくれると思っていた真由菜が「ポケッ」とした表情で優斗を見ていた。

「俺は顕著なストーカーだからな」

「どんなんだよ……」

「こんなんだって」

「解らんわい!」

 バスは近付いているのに、二人は話を辞める雰囲気は無かった。

「実の所、俺も解ってないけどな」

「どうなんよ。それは……うーん、篠崎と話してると楽しいけど、今ならまだ子供達も起きてるだろうし、今日は帰るわ」

 そう言うと真由菜はバスに手を挙げて、自分が乗る事を知らせていた。

「うん。子供達にも会いたがってたって云っといて」

「喜ぶだろうねー」

 バスがエアブレーキの音を鳴らしながら二人の元へと到着した。

「それから旦那さんにも一度お会いしましょうと」

「宣戦布告でもするの?」

「どちらかと言うと奥様を盗みますって予告かな?」

 プシューっとバスのドアが開いている横で、真由菜は楽しそうにお腹まで抱えて笑っていた。

「それ面白いわ!」

「ホントに言うぞ……」

「今の所は遠慮しといて。じゃあね」

 ケラケラと楽しそうに笑ってから、真由菜はバスへと歩みを進めて、優斗の方に振り向き手を振っていた。

「じゃあ、会う時はストーカーですって自己紹介までにしとく」

 すっかりと顔に赤みが戻った優斗を見て、また笑いそうになったけれど、クスッとしただけで真由菜は座席の方に移って、もう一度手を振る。

 優斗は運転手の方に自分は乗らない事を示している。

 するとバスはファンとクラクションを鳴らしてから進み始めた。バスの窓からは優斗がずっとその場所を離れずに眺めて居るのが見えていた。

 やがて優斗の姿も確認できないくらいに進んで、真由菜は今日は楽しかったなっとため息を吐いた。

 数分でバスはその会社の有る停留所に着いたので、真由菜は降りた。もう自分の家は直ぐそこだ。

 風が冷たくて空は雲に覆われて星も見えないので、また雪でも降るのかと思った。真由菜は賃貸の五階建ての自分の部屋へと向う。

 鍵を取り出して玄関ドアを開けると、テレビの音がそこまで聞こえていた。子供番組の音でかなり高いので近所にまで響いているかもしれない。そんな風に思って、散らかっていた靴を片付けてから、今の自分の分もちゃんと揃えていると、ドッカンと体当たりを二度された。

 そんな犯人はもちろん恵羽と乃愛だ。リビングのドアを「ガターン」と開けると、走って母親へとぶつかっていた。元気が良い事は悪くは無いのだが、暖房で暖められた空気が逃げている。

 そして、もう夜も深いのにこんなに元気では困るのだ。真由菜は数々の文句が有りながらも、二人の事を連れてリビングへと向かい、しっかりとドアを閉めて暖房の暖かさを守った。こんな所はまだ寒い地方の人間になりきれてない真由菜だった。

 リビングでは子供番組がわんわんと鳴っていて、その周りにはぬいぐるみなんかが散々としている。

 そして、横のソファでは真由菜の夫、徹也がスマホとにらめっこしながら、缶ビールを傾けていた。部屋の散らかりっぷりに、ため息を吐いてあたまを抱えてしまう真由菜が居た。

「二人はもうねんねしなさい。お片づけはママがするから……」

 さっきまでは子供に甘い顔をしようと思っていたけれど、家の惨状を見ると、そんな事も振っ消えてしまったので、文句にならない様に恵羽達を黙らせる様にした。

 恵羽と乃愛は母親の怒っては無いけれど、にこやかでは無い表情にこれまで散々楽しかったのも有ってちゃんと従っていた。

 真由菜は外着をクローゼットに掛けると、直ぐに戻ってテレビを消して、子供達の散らかした所を片付け始めた。

 そんなのを普通の事の様に徹也は見る事も無くて、スマホのゲームに真剣になっている。まだおかえりの言葉も無い。さっくりとまだ散らかっては居るけれど、有る程度片付いたので子供達の様子を見た。

 すると二人はまだ直ぐには眠ってなくて、明るくなったドアの方を眺めていた。恵羽は真由菜が怒っているのでは無いかと、その顔を見ているけれど乃愛の方はそんな事も気にしてないで、両手を広げていた。

 真由菜はフッと心が暖かくなって、二人の元に近付くと乃愛の要望に答えて、恵羽の事も一緒にハグをした。

「ママ、おやすみー」

「ちょっとお酒臭いー」

 乃愛からは母親が好きらしく嬉しい言葉が有ったけれど、恵羽からはちょっとだけ文句が有った。

 なので真由菜はゴメンと言いながも、酔っている楽しさから二人の事をギュッとしてから離れた。おやすみと云って手を振ると、ドアをゆっくりと閉める。

 どんなに子供が部屋を散らかしても別に構わない。自分も楽しくお酒を呑んでいたのだからそのくらいの等価交換は当然なのかもしれない。でも、教育には悪い事は重々承知している。さっきだってちゃんと片付けをさせるべきだったのかもしれない。

 そう思いながらリビングへ戻ると、徹也のビールはもう三缶目になっている。つまみも適当に探したのかカルパスの包みの袋がテーブルから落ちている。そのゴミを捨て、空いている缶を一度水洗いする為にキッチンの方へと向かった。そこにも惨劇が待っていた。

 冷凍品やレトルトながらもちゃんと家でご飯を用意したのだろうが、コンロには汚れた鍋が置きっぱなしで、流しには洗われてない皿やお椀にコップが乾いてしまっている。

 もう真由菜は楽しかった酔いも覚めてしまいそうになった。

「ねえ、確かにあたしもお酒を呑んでたから文句は言えないけど、ちょっとは家の事をしといてよ」

 こんな事は言うまいと思っていたのに徹也の方を見ると、まだゲームを続けてビールを呑みながら、またつまみのゴミを増やしている。そんな姿を見てしまうと言わない様にしていた文句を云っていた。

「うーん……ごめん」

 徹也からの返事はそんな程度で、全く反省している雰囲気も無かった。

 こうなる事はわかっていたので真由菜は諦めてキッチンを片付け始めた。ホントは酔っているのでゆっくりとしてから、そのまんま眠ってしまいたい。でも、それが叶わないのは仕方が無いとも思っていた。自分はそんな運命でこれは不幸では無いと考えもしなかった。真由菜の今日はそれで終わってしまう。

 次の日も朝から誰にも負けずに一番に起きると、朝ごはんの用意をする。すると、ねぼすけの恵羽は起きないけれど、乃愛が眠たそうな目をしながらもリビングに現れた。

「ママ、おはよう。お腹すいたー」

「もうご飯出来るから、パパとおねえちゃん起して」

「うん! 解ったー」

 真由菜からのお願いに乃愛はうんと云って、今進んだ道をまた戻った。

 これはいつもの事で、乃愛は目覚めが良いのでみんなを起こす係になってしまっている。うっかりしていると真由菜まで乃愛に起されてしまう事も有る程だ。

 ダイニングテーブルに四人分の朝ごはんを用意していると、恵羽が乃愛に起こされたみたいでゆっくり歩いて自分の指定席に座るけれど、まだ目は閉じられていて眠ってしまいそう。

 そうしていたら乃愛が戻って、恵羽の向かい側へと座る。こちらはもうお目々パッチリで、すっかりと目覚めている。

 真由菜もご飯の用意を済ましてテーブルに着くと、やっと徹也がリビングに姿を現した。でも、やっぱりその手にはスマホが有る。まあ時代と言うものでニュースでも確認しているのだろう。でも、テレビも点いているので情報はそちらでも受けられる筈。

 さて、と子供と真由菜の三人がいただきますと声を揃えたけれど、徹也はあくびをしてみんな一緒では無かった。

 それからご飯になったけれど、家族の会話が無い様なので真由菜は考えると、優斗の言葉を思い出していた。

「そう言えば昨日、絵のおっちゃんが二人に会いたいって云ってたよー」

「それってひまわりのおっちゃん? 恵羽も会いたい!」

「乃愛ちゃんはもう一回絵を描いてもらうの!」

 子供達は嬉しそうに返事をしていた。

「じゃあ、また似顔絵屋さんの時に会おうか?」

 真由菜の方も笑顔になって話を続けていた。暖かな家庭がそこには有った。母親と子供達が賑やかにそして楽しそうになっている。三人が仲良くダイニングテーブルで朝ごはんにしていたけれど、そこには父親は居なくてリビングのソファに座ってまだスマホを見て、テレビもニュースにしている。

 今日は徹也の仕事もゆっくりで良いのでこんな事になってしまっているのだが、元々低血圧の為に四人でテーブルを囲むと言う事はあまり無い。子供達がご飯を終わらせて保育園への準備を始めた頃になって、やっと徹也はダイニングテーブルに座る。

 けれどそれは子供達が賑やかにリビングの方で準備するのでそれを逃げた様にも思える。

「コーヒー……」

 徹也は一言云っていたけれど、これが今日起きてからの一つ目のワードだった。

 真由菜は子供達の準備に追われながらも、徹也の言葉を聞いてコーヒーを淹れて渡す。バタバタとしている三人とは違って、徹也の所には優雅な時間が流れている。

 忙しい朝も子供達を送り出すと一段落するものだけれど、真由菜が二人と別れて部屋へと戻ると、徹也は今度はお腹がすいたみたいで用意されていたハムエッグをつまんでいる。けれどそこにはごはんもスープも有るのについで無くて、真由菜はゴメンネなんて言いながら用意をした。

 徹也が仕事に出ている日ならば、これから真由菜は洗濯から掃除をする。だけれど洗濯機を回してから掃除機の所には向かわずに、ダイニングテーブルの徹也の向かいに座った。

 流石にご飯の時に掃除は出来ない。それに、時には徹也と話したいと真由菜は思っていた。こんな風に会話は殆ど無いのだけど夫婦なのだから。

「さっき子供達に話してた篠崎の事なんだけど……」

「うん……」

 真由菜が自分にお茶を淹れて、徹也の方を真っ直ぐに見て話しているが、やはりその視線はスマホから離れない。それでも徹也からは返事が有ったから、真由菜は話を続けようと思った。スマホの方に真剣な時は返事が無かったり、明らかに邪魔そうな顔をされる時だって有る。だけど、今の徹也は若干つまらなそうにスマホを見ているので、話せるチャンスなのだ。

「なんかねー、貴方にも会いたいとか云ってるよ」

 返事までは一拍ある見たいで徹也はスッと真由菜の事を軽く見た。

「マユナの友達なんだろ。俺は面倒だから断っといて」

 一応、返事は有ったけれど、あまり好意的ではない。テンションも低くてブツクサと呟いているみたい。

「そんな事言わないで、スッとあの絵をくれたんだからそのお礼も云ってよ」

「アレってそんなに価値が有るの? 俺はあんま好きじゃないし」

 すると徹也はスマホをスリープにした。こんな事はあまり無いのだ。その理由はリビングの壁に飾られているひまわりの絵を見る為。

 リビングのサイドボードの上の方に優斗のあの絵が綺麗に額装されて飾られていた。そこは徹也の背の方になるので振り返ってから、ちょっと鼻で笑ったみたいにしてご飯の方へ戻る。

 真由菜も恵羽も乃愛も好きで時々眺めているひまわりの絵なのに、徹也はこれまで真剣に眺める事も無い。これは単なる趣味の違いなのかもしれない。

「結構高いみたいなんだから。今度は子供達も一緒にみんなで楽しいご飯のつもりで」

「だったら家族だけで良いだろ? どうして知らない人が居るんだ?」

 真由菜は徹也から言われた事にブスッとした表情になる。

 でも、今は徹也はご飯の方を見ていた。自分の方を見ていたのならこんな表情は出来ないだろうと、真由菜は顔を整えた。

 すると丁度徹也が真由菜の事を見ていた。ちょっと睨んでいるみたいな瞳。

「別に良いやんか。篠崎ってちょっとオモロイよ。自分をストーカーとか云っちゃうし」

「方言……」

「んっ? どうしたの?」

 ボソっと徹也が言うので真由菜は聞き直していた。

「田舎臭いから俺はキライだって云ってるよな」

「ごめんなさい。篠崎が時々方言バリバリで話すからつられちゃって」

「まあ、文句くらいはその篠崎くんに云っとこうか」

 徹也はそう言うと自分が苦手なトマトだけを残して、他は平らげて席を離れた。今から会社へ向かう為に準備をする様で、リビングダイニングからも離れてしまった。

 真由菜は残ったトマトをつまんでから全ての皿を空にすると、片付けを始めた。ちょっと嬉しそうで家事の手間が増えた事も気にしないでテーブルを綺麗に片付けると、次は洗い物にステップをしながら移った。

 別に優斗と会える事が嬉しい訳じゃない。まあ、確かにそれも全く無いと言えば嘘になるのかもしれない。だけど、今は普通の夫婦の様に話せていた様な気がする。そして優斗に徹也が文句を言うと云っていたから。それも真由菜にはちょっと嬉しいんだった。

 徹也が仕事に出掛けると、家はとても静かになった。真由菜は改めて片付けから始める。子供達が散らかしても自分ばかりが片付けているけれど、そんな事は文句にしない様にしていた。それから本来なら掃除なのだけど洗濯機に呼ばれたので、それを干す事にした。こんな北国では外に干すよりも部屋の暖房に任せた方が乾きが良い。真由菜は明るい物干し用になっている窓辺にハンガーを掛けると、外を眺めた。

 階数が高い部屋なので、かなり眺めは良いのだけれど、この家からは会社街も近いので働いている人達が良く見える。今の真由菜は専業主婦となっているが、若い頃はそれはもう仕事をする事が楽しくて仕方が無かった。

 その当時は結婚をしても、例え子供が居たとて、時間を見付けてパートでも良いので働きたいなんて思っていた。けれど、徹也の稼ぎは十分有るし、それなりに家事も忙しい。それに徹也には家庭を守ってほしいと言われているので、真由菜はそんな些細な夢も諦めていた。こうして働いている人を見ると楽しいが、それでも最近は切なくもなってしまう。

 真由菜はセンチメンタルを捨てる様に、今日も家事を進める。

 対してこちらは楽しいカラオケ屋で働いている者達の笑顔が並んでいる。その筈だった。もちろんお客さんに対しては誰もが笑顔で対応している。

 優斗も随分と仕事を覚えて殆ど、どこのポジションでも任せられる様になって、機転も効くのでお客さんからの反応も上々。

 前島に至っては高校の時からバイトで始めて、今は正社員の副店長になっているので、その点には問題なんて有る筈も無い。職場の環境を整えるのも管理職の仕事なのだ。イザコザを起こす筈も無い。

 となると問題なのは仲原だった。優斗とは仲良く話したりしているのに、前島とお客さんの居ない所で顔を合わせたりすると、フグの様にふくれっ面になって言葉も交わさなかった。

 真由菜と楽しく呑んだ日、前島はしっかりと潰れてしまい、仲原にカラオケ屋まで送ってもらっていた。その時は、まだ店も開いてたので休憩室に転がして、他の仕事仲間に面倒を任せたので、仲原は安心しながらも自分でも最善の作だと思っていた。

 次の日まではとてもにこやかな表情で、怒っている雰囲気も無かった。それなのに日が過ぎるに連れて仲原の気は斜めどころでは無くなっている。

 前島にはその理由にとんと記憶が無い。でも、覚えて無い事が問題なのかと、自分が仲原に悪い事でも云ったのかと悩んでいた。

「シノくん。この間、俺って仲原さんの気を悪くする様な事を云って無いよね?」

 休憩時間に優斗の元に前島は現れて、青くなると聞いていた。

 もうそれは真っ青になっていて死人の様にも思えるから、優斗は反対を向くとブブっと笑ってしまう。

「云ってたよ。そりゃもう、ひどい事を」

「マジでか……俺、酔うと記憶が無くなる事はあったけど、これまで問題になったこと無かったのに」

「アレはもう、あやまったくらいじゃ許してくれないだろうねー」

 優斗はずっとクスクスと笑いながら、タバコに火を点けていた。

 前島をおちょくるのはとても面白い。そんな優斗の笑いだったけれど、横では前島が倒れてアメーバの様になっている。

「俺ってどんな事云ってたの?」

「別におかしな事は云ってないって」

「だったらどうして仲原さんは怒ってるの?」

 どうにか人間の状態に戻った前島は、正座をして優斗に救けを求めている。

 さっき冗談を言われていた事なんて、気にしている風でも無かった。

 なので優斗もタバコの煙を吐きながら考えた。そして首を傾げる。答えは、はてなマークだった。

「俺にも解かんないなー。あの日は副店の事をちょっと嬉しそうに担いでったけど……」

「俺って、シノくんに送られたんじゃ無いの?」

「そんなんせんから。俺だったらその辺に転ばしとくし」

「せめて、雨風しのげるとこにしといてよ……」

 前島は段々と通常運転に戻っているみたいで、今は優斗の隣に座ってタバコを取り出している。

 二人はこんな所で常々会談をしている。場所も階段なので話すには良い所なのだ。

「もしかして、仲原さんに送ってくれたお礼云ってないの?」

「そんな事を言うどころか、今までシノくんに送られたと思ってたから、お礼を言わないとって仲原ちゃんと話したな……そう言えばその時から怒ってるんだ」

「なる程。仲原さんが怒ってる理由はそれだ」

 パンッと優斗は手を叩いていた。

 その音にビックリした前島は意味が解って無いので、不思議そうに優斗の事を眺めている。

「シノくんと間違っちゃったから怒ってんの? 仲原ちゃんってそんなに心の狭い娘じゃないよ。笑って許してくれそうなのに」

「問題は副店が仲原さんの想いにいつまでも気付かないからでしょ」

「想い? 悩みでも有るの?」

 ポッケーっと、全く馬鹿な前島の表情を見て、優斗からはため息しかない。

「これは、かなり難問な悩みだ……」

 すると前島はまだ随分残っているタバコを消火バケツに投げ捨てると、鉄製の非常階段をガタンっと鳴らす程に立ち上がっていた。その瞳は爛々と煌めいている。

「悩みが有るなら聞こう! 管理職としてバイトの心理管理も重要だ!」

 前島は間違いな事を思って、今にも走り出しそうな雰囲気も有った。こんなマネジメントはドラッガーもビックリだろう。

 明らかな間違いなので優斗は訂正しようかと思ったけれど、ちょっと考えた。良い機会なのかもしれないと。

「うん。副店が聞いてあげな。でも、仕事は別として、個人的な相談と言うニュアンスでな」

「解った! シノくんありがとう! 善は急げだ!」

 ドタバタと階段と非常ドアを鳴らして、煩くも前島は仲原の元へと向かった。

 優斗はそんな姿を見送ってから、ゆっくりとタバコを吸っていた。

 もう雪も終わりそうになっている。これからは恋の季節になるのだろうと優斗は思っていたけれど、それは自分の事では無だろう。

 非常階段のドアを壊れそうに開いた前島は、自分の足音を騒音とも思わないで走る。時々お客さんが煩いと怪訝な顔をしてドアから顔を出しているが、その時にはもう前島の姿は無いので、店に苦情は運良く無かった。

 前島は受付の方へと急いでいた。お客さんとの扱いにも仲原は慣れていて、華やかさが有るので殆ど受付は任している。だからそこに居る仲原の元へと前島は向う。

 到着した時にはそこには店長も居た。

「前島くん、煩い。静かに歩きなさい」

 もう定年退職するくらいの、実質的には戦力になってない店長に怒られてしまって、横では仲原がクスクスと笑っている。

 しかし前島はそんな言葉に気にする事も無かった。

「仲原ちゃん。ちょっと話をしよう。店長は受付をお願いします」

 全く話なんか聞いてなくて、前島は仲原の手を取ると有無を言わさずに引いた。

 そして上司である店長に仕事をしてろと言わんばかりな命令をしてから、その場を離れた。もしかしたらこれで前島の出世は遠ざかったのかもしれない。

 前島は仲原を連れて空いているカラオケルームへと連れていた。

「ちょっと副店どうしたんですか? 私の休憩時間はまだなんですよ」

「えっと……取り敢えずはこの間送ってくれたの仲原ちゃんだったんだね。ありがとう」

「そんなの、別に普通の事ですから」

 前島に礼を言われた瞬間に仲原は、顔を真っ赤にして俯いた。言葉とは違ってとても嬉しかったみたい。

 もう仲原は自分が前島に対して怒っていた事を、すっかりと忘れてしまっている。恋は盲目とは言うのだけれど、それがピシャリと仲原の元に訪れている。

「それで仲原ちゃんが悩んでる事が有るって、シノくんから聞いたんだけど……俺に話してみなよ」

「そっそんなのっ副店には言いませんっ!」

 ボッと燃え上がりそうな顔を、前島の方には向けずに仲原は強く語った。

 そんな事を言える筈もない。篠崎さんはどうしてこんな事を副店に云ったのだろうか。私の想いは恐らく知っているのに。これは意地悪にしかなってない。仲原は存分に優斗への文句を浮かべるけれど、今は好きな人が側に居るので言葉にしない様にしていた。

 それでも前島は相談を受けようと「ねえ」とか「悩まないで」とか「協力するから」とか云っている。ちょっともう仲原は普通に話せる気がしなくなって、その場を逃げようと前島の横を通り過ぎて、廊下に続くドアを勢い良く開けた。

 するとガンッと言う音がして、痛いって言葉が聞こえた。もしかしてお客さんが居たのだろうかと思って、仲原は背が寒くなりながらも「すいません」と言いながらぶつかった人間を見た。その瞬間に今まであやまっていた言葉は消えた。

 そこに居たのは優斗で、痛そうにオデコに手を当て二人を眺めた。

「これは……お邪魔しました」

 仲原と前島が居たので、優斗は軽く言い放ちその場から消えようと、オデコとは反対の手を振って居る。

 ニコッと笑って離れようとした優斗の襟を仲原が掴んだ。そして引きずりさっきの部屋へと投げた。

 火事場の馬鹿力なのか優斗は抵抗する事も出来無くて、それから仲原に睨まれてしまった。

「篠崎さん。おせっかいかもしれませんけど、私には必要有りません。副店に冗談だったと云って下さい」

 その目付きは恐ろしくて、もしその辺のヤンキーが相手だったとしても仲原の睨みには逃げてしまうだろう。しかし、今は仲原がドアの所に立っているので、逃げたい優斗に退路は無いのだ。

 怖いけれど優斗は一度落ち着く様にため息をついて、立ち上がる。そして汚れても無いけれど服をパタパタと払う。どちらかと言うと心を落ち着けているのだった。

「仲原さんも素直になって、副店の事が好きって云っちゃえば良いのに……」

 すんなりと優斗は語ってしまっていた。

 三人が居た空間は元々薄暗かったが、今ではもう宇宙のかの様にふんわりと不思議な印象に包まれた。

 若干にこやかな優斗が居て、その向かいにはキョトンとしている仲原が真っ直ぐをただ眺めて、横の方では前島がフリーズしてボケッとしていた。

 仲原は今ただ映っている優斗から徐々に視線を外して前島の方へと移すけれど、顔はそのまんまで目だけをずらしていた。視界の端っこに辛うじて映った前島は、全くさっきから表情も無くなってずっと呆然としている。

「篠崎さんはちょっと冗談に攻撃力有り過ぎますよ。副店だと信じちゃうじゃないですか」

 キョロキョロとしているので、仲原の今の言葉は誰から見ても様子がおかしいのが解る。普段はどちらかと言うと落ち着いている娘なので、今の印象は全く似合わないのだ。

 だから前島も凍結から回復して、腕を組んで仲原の事をジーっと見た。その視線は全く外れる事も無く仲原だけの事を見ている。

 もちろんさっきからキョドっている仲原は、その視線に気付いて目を合わせない様に俯いた。こんな姿だって普段の仲原からは想像すら出来なかった。仲原はいつだってスマイルゼロ円の華やかな女の子なので、深刻になったりと言う姿は最近知り合った優斗はもちろん、前島でも見たことは無かった。

「仲原ちゃんって、俺の事が好きなの?」

 まだ子供みたいな純粋な瞳で前島は仲原の事を見て、そんな事を聞いていた。確認とは言え、ちゃんとした告白を言わせる様な質問。

 そんな事を聞かれて、俯いている仲原は目が点になりながらも、次の瞬間に首をブンブンと振っていた。

「有り得ません! 嘘ですよ! 私、もうあがりの時間なので帰ります。違いますから!」

 仲原はひどくおかしな事ばかりを言い、その場をさっさと逃げた。しかしこの仲原のリアクション自体が告白とも言える。

「追わないとダメなんじゃないの?」

 眉間にシワを寄せながら腕を組んでいる優斗は、まだ難しそうな顔をしている前島の方を見ていた。

 前島は一度えっ、とした顔をしてから優斗に背を叩かれたので走り始めた。

 前島を見送った優斗は人が居なかった受付へと戻ると、疲れた様にポスっと椅子に座りながらも、カウンターに肘をついているが、その顔はにこやかなのであった。

 本当に世話がやける二人だと思いながらも、客も居なかったので、今の事を真由菜に報告しておこうかと仕事をサボって、ポケットのスマホを取った。

 メッセージアプリを開いて、真由菜の名前をタップする。この間、雑談をしていた文字が表情されて「昔と変わらんなー」っと思うと、優斗はちょっと楽しそうに首を傾げてからスマホを睨み、メッセージを打ち始めた。ずっとにこやかな優斗は文面を完成させると、スマホを上に掲げてポーズを決めてから送信ボタンをタップする。そしてドリンクの注文が有ったので仕事に戻った。

 その頃、真由菜は子供達のお迎えを済まして、今日の晩ご飯をどうしようかと冷蔵庫を睨んでいた所だった。するとメッセージの着信音が聞こえた。スマホはリビングのテーブルの所に置いているので、直ぐには見ないで再び料理を考えていたけれど、その真由菜の携帯にドタドタと近付いた人間が居る。

「ママ! ひまわりのおっちゃんからだよ」

 それは恵羽でこの年頃の子なので、もちろんスマホには興味津々で音が鳴る度に近付いて、真由菜にその着信なんかを教えるのがマイブーム。

 それに恵羽はメッセージアプリの優斗のアイコンまでも既に憶えてしまっているのだ。真由菜も以外と便利だし、動画を見る為に盗られる訳では無いので、全く怒らないどころか褒める事さえ有ったので、恵羽は今もニッコリとしている。愛らしく健気なので、真由菜は適当にあしらう事も出来ずに「ありがとう」と笑顔を返すので、恵羽はまた嬉しそうな顔になってから自分の遊びに戻った。

 正直なところ、どこが楽しいのか解らない自分の娘を見てから、真由菜は届けてもらったスマホの画面をタップして優斗メッセージを開いた。でも、その瞬間真由菜は眉間にシワを寄せて睨む。怪訝な顔になる。

『ストーカーはいつだって貴方の事を見ています。今、家に着いたね。おかえり』

 真由菜には全く意味が解らなかったのだ。なので首を傾げながらも返信を打つ。

『もう二時間程、家に居ますけど?』

 優斗がお客さんの所にドリンクを運び終えた時に真由菜からの返信が有る。

 丁度ドアを閉めた時だったのでお盆を小脇に抱えて、優斗は仕事をしている事を無視ってスマホを見た。一応、お客さんも他のスタッフが居ない事も確認はしていた。

『そっかー。ストーカーっぽい事を言おうかと思ったんだけど当たらなかった』

『馬鹿じゃないのw暇潰しに送ってるんじゃない!』

『実は報告しておきたい事も有りまして……』

 優斗は仕事の暇を見付けてはメッセージを返しているので、どうしてもタイムラグが有るから真由菜はリビングの方に移動をして、子供達が遊んでいるのも見える様にソファに座って連絡を待つことにした。

『ほう、それは重要な事で?』

『かなり重要! 副店と仲原さんの事なんだけど』

『それは重要だ! ちゃんと報告しなさい!』

 ゆったりとしている真由菜の方はもう次の返信が気になって、ずっとスマホを見続けているけれど、優斗は直ぐには暇も無かったので待つ事が増えていた。

『二人がまどろっこしいから俺が仲原さんの告白を代弁しといた』

『それって、マズくない?』

『うーん、仲原さんも素直に認めちゃえば良いのに、それで逃げちゃったから副店を追わせた』

『それからどうなったんだよ!』

 もう真由菜は次のメッセージが気になって、子供達が暴れ始めたのも気にして無いけれど、優斗からはやはり直ぐには返信が無いので、やきもきしてしまう。

『まだちょっと戻って無い……』

『失敗してたらどうすんだよ。篠崎、責任とれんのか?』

『でも、二人もあのまんまじゃ駄目だろ?』

『うん。それはあたしも駄目だと思う』

 暇になったのか優斗から直ぐに返信が有るので、真由菜は楽しそうにスマホを眺めていた。すると子供達はそんな母親を見て怒られない事を察知したのか、部屋は散らかし放題にして遊んでいた。

 優斗の方はお客さんが一組帰って、注文も無いので全く人が訪れそうも無い受付に座ってスマホを持っていた。すると自動ドアの所に人影が見えたので一応、スマホをしまって営業スマイルにした。

 でも、そこから現れたのはお客さんでは無いのでそんな気遣いは無用になったのだが、優斗の笑顔は更に深まった。現れたのは前島だったのだ。そして、その顔は普段より三割増で晴れやかになっている。

 優斗はそんな前島の表情を見たので、さっとスマホに向かった。

『副店が戻った。表情が明るいので今から事情聴取を開始する!』

『了解。更なる報告を待つ!』

 楽しそうな返信をして真由菜は取り敢えず時間が掛かるだろうと、一度スマホを置く事にした。

 すると目にしたのは子供達が散らかしている部屋と、全く晩ご飯の準備が進んでないのに過ぎている時間だった。真由菜はつい悲鳴を上げそうになったけれど、それは自分が悪いのかもしれないと落ち込んで、まずは子供達を軽く怒ってからもう一度冷蔵庫の方に向うけれど、もうこの無くしてしまった時間の責任は優斗にあるとした。

 それからはちゃちゃっと晩ご飯の支度をして、子供達の散らかしたのを片付ける。そうしていると徹也が帰って、家族団らんの時間となるのだけれど優斗からの報告は無かったので、それはマズイ状況になってしまったのかと真由菜はちょっと悩みながらも洗い物をしていると、やっとの事でメッセージの着信音がなった。

 もちろん恵羽がその事を知らせてくれて、優斗からだと解ったのだけれど、まだ洗い物が終わってないので直ぐには開く事も出来なかった。恐らく自己最速記録でさっさと洗い物を済ませると、真由菜は急ぎ足でソファの方へと向かった。

 子供達はテレビに釘付けになっていて、徹也はやはりゲームをしながらビールを呑んでいる。なので真由菜は静かに優斗からのメッセージを読む事が出来る。

『どうやら二人は付き合う事になったらしいよ。俺ってグッジョブだな。今は副店と祝勝会になってる』

 文面にはそんな事が有った。前島は仲原を追い掛けてちゃんと自分から告白の答えを云ったらしい。前島自身も仲原の事は素敵だと思っていたのに年の差が有るので遠慮していたのだと言う。そんな事を聞いた優斗は前島と呑み会を開いているのだ。

『良いなー。祝い酒か。あたしも呑みたい!』

『そうだなー、ってか。旦那さんに会わせてくれ』

 そう言われて真由菜は徹也の方を見た。

 ゲームが調子良かったのか嬉しそうにビールを呑んでいて無くなったので、おかわりと云っている。

 真由菜は冷蔵庫に向かって自分の分の缶も取って、徹也の向かい側に座って「はい」と渡して夫婦でビールを楽しむ。

「あの画家と楽しそうに話してるな」

 視線は合わせないけれど、徹也は取ってもらったビールを開けると、ポツリと呟く様に話していた。

 真由菜はちょっと嬉しそうにスマホの横から徹也の事を見た。

「気になる?」

「まあ……そうだな」

「ちょっと、面白い事が有ってね。それから篠崎が貴方にも会いたいって云ってるよ」

 ずっと真由菜も優斗とメッセージを交わしているので、二人共視線も合わす事無く夫婦の会話になっている。この二人は最近はずっとこんなので確かに会話は少なくはないのだけれど、それは微笑ましいとも言えないけれど、お互いに仲が悪い訳でも無いと真由菜は思っている。

「うーん、まあ子供達も懐いてる訳だし、悪くも無いのか……」

「なら、篠崎にも呑みましょって返事しとくよ」

「それってお前が呑みたいのが目的なんじゃ無いのか?」

 その時徹也はやっと真由菜の事を見ていた。だが、今度は真由菜がスマホの方に真剣になっているので、やはり視線は合わなかった。

「そんな事は、無いよ。じゃあ、ご飯! の約束しとくからね」

 真由菜は徹也の意向を優斗へと伝えた。

 その時はもちろん酔い始めている優斗だったので楽しくなって笑っていた。居酒屋で質素なアテをつまみながら前島と向かい合っている。

 もちろん前島はちょっと照れくさそうにしながらも、幸せな表情でビールが進んでいる。今日は前島の奢りになるのだけれど、そこは安い店になっていたのは財布事情が厳しいからでも有った。

 笑っている優斗の事を見て前島が不思議そうに見ていた。

「良い事でも有ったのかい」

「また、水浦とのご飯の約束を取り付けた」

 優斗は前島の方にスマホから視線を移すともう酔ってしまっている瞳はにんまりとしている。

「ほーう、その席に俺達はお邪魔?」

「俺達ってのは副店の彼女も含んでる話で?」

「まあね、俺の最愛の彼女!」

 こちらも随分と酔っている様子の前島は実に嬉しそうに仲原の事を云っている。もうそのウザさに優斗は呆れるばかりだけどため息をついて、まあ悪い事では無いと思って眺めた。

「でも、今回はごめん。あっちの旦那さんも居るし、遠慮しといてもらえるかな」

「もしかして全面戦争の様相?」

 さっきまでとは違って前島は急に真剣な顔になったけれど、今でも直ぐに笑えるだけの余裕は残している表情にも優斗からは見えていた。

「戦いはしないよ。俺は水浦の幸せを願っているからね」

 すると前島はまだ真剣な顔で「うーん」と唸った。彼女が出来たばっかりで嬉しい筈なのにこんなに悩む事も無いだろうに。それも人の事なのに。優斗は氷で薄まったハイボールを、呑みやすいとそんな事を思いながら傾けていた。

「それで、シノくんは幸せなのかい?」

 ポツリと前島は優斗の事を睨んで呟いた。

 一瞬優斗はハッとした自分が居る事に気が付いたけれどそんな事を前島には解らない様に、そして自分の心からもかくしてしまった。手に持っていたアルコールを消してしまって、優斗はかなり酔っているのにおかわりを注文した。

「まあ、そうだね。それで良いんだよ」

「酔ってるから言うけど、シノくんがマユナちゃんを旦那さんから盗ってしまっても、俺は良いと思うよ」

 優斗は考えても無かった前島からの言葉に、一度天井を見つめてその時におかわりが到着したので、乾杯をする様にジョッキを掲げた。

「それは時と場合によるかな。でも、恐らくは無いよ」

 ちょっと重たい話題になっていたので優斗はまた仲原の話に戻して、簡単に前島の表情を笑顔に戻した。

 それからも二人は呑み続けて安居酒屋なのにそれなりの料金になったけれど、前島はハッピーだったので気にもしないで次の店にもと云っていたが、優斗はもう半分潰れているのでそれでカラオケ店の方へと帰った。もう呑んで潰れたら店に運ばれる事になってしまっている。でも、そんなのは主に前島がそうだったのだけれど、優斗も酒に弱いので良く利用する。お客さんを酒臭いカラオケルームに通す事は出来ないので休憩室の地面に毛布だけで転がされるので身体は痛い。

 文句は言えない二人はどうにかアルコール臭を消して、次の勤務をするのだけど仲原も一緒だと前島の瞳はずっとだらけてしまっている。殆どの日が前島と仲原の二人と優斗はシフトが合うので、そんな甘々な時間をただ見つめて過ごす。仲原が休みだと前島は明らかに元気が無いので静かで良かった。

 次の優斗の休みの日に街に姿は無かった。もう随分と暖かくなって桜の蕾も随分と膨らんでもう咲くのも遠く無くて、街にはあちこちに人々が見える様になっていた。観光地はかなり賑わいを始めてこれからの新しい季節を楽しもうと誰もがしている。

 優斗もこんな時は好きで、暇を見つけると街をふらつき更に言えば絵の題材を探すのも良いのにそんな事もしてない。似顔絵屋もいつもの場所は今日違う人が手作り雑貨の店を開いていた。どこにも優斗の姿は無くて、その人物は自宅に在った。

 しかし、のんびりと引きこもりをしている訳でも無くて、病気で伏せっている理由でも無くて、優斗は元気だった。それでも目の下にはクマを作って仕事部屋で椅子に座って難しい顔をしている。向かい合うのはスケッチブックで優斗の周りには破られたページが丸まって転んでいた。

 今の状況は全く仕事が進んで無いのだ。優斗は今度の絵画賞に出品する予定にしているのだが、イマイチ良い絵が描けて無くってずっとこの連日前島の、のろけを聞いてから家に帰るとこうして題材をスケッチしている。休みと言う事も有って、昨日から眠っても無いのだけれど良い構図が浮かばないでいた。題材の雰囲気は掴めている。

 それはこの街を描こうと思っているのだけれど、それだけでは芸が無いのでどうにか絵の隅にでも真由菜の事を示したいと思っているのに、その事が難しかったのだ。でも、優斗にはおかしな頑固さが有って自分の思った通りにしない絵は元から描かない。

 例えそれが世間からニーズの有る様な題材だと解っていても、簡単にスルーしてしまうのだ。なので今はこんなに困ってしまっている。まあ、どうしても駄目だとなった時にはまだ発表してない完成品を出品しても良いのだが、それもどうかと思うので頑張っている。まだ期限までには時間が有るのだが、この日の優斗は全く本業が進まなくて終わった。

 真由菜との約束は土曜の夜の予定。優斗はその日もバイトが有るのだけど、夕飯なので全く問題は無い。有ると言えば酔い潰れると次の日もバイトなので、そっちに差し支える事くらいなので真由菜と会ってこの間みたいに呑みすぎ無いだけだろう。若干睡眠不足な優斗ながらもしっかりと土曜もカラオケ屋の仕事をまっとうしているが、前島と仲原のラブラブな雰囲気がウザかった。

 そしてあがりの時間になって優斗は店を離れようと、前島に「お疲れさん」と言いながら右手を挙げて自動ドアの方に向かった。すると。

「篠崎さん! 一緒に帰りましょ!」

 仲原が優斗の腕を掴んで恋人の様に寄り添った。もちろんそんな姿を見て心穏やかでない人が居る。

「シノくん! アヤぴょんと浮気すんなよー」

「アヤぴょんて……仲原さん仲良いんだね」

 前島が睨むので優斗はため息をつきながら、仲原の腕をストンと振り解いて話をしていた。

「ヨシが嬉しがっちゃって」

 そんな仲原の方だって今までとは違う呼び方をしている。

「心から君のだけをずっと事を愛してるよ」

 前島は仲原の方を見てこんなに馬鹿らしい事を、演劇の恋人の様に手振りを付けてまで語っているので、優斗は呆れてしまってシラーっとした目で見ていた。でも、そんなアホから視線を横に移してみると、そこには恋する乙女はやはり盲目なのか仲原がうるわしの瞳で眺めている。

 優斗は深いため息を吐いてずっと見つめあってる馬鹿な恋人達を無視って足を進めると、それに気付いた仲原がついて歩く。

 ロミオとジュリエットは哀れにも引き裂かれて店を離れた。

 夕方の街は人がゴミの様に歩いている。もう随分と暖かくなったので暖房の効いてない外でもこんな風に人が集まっているのだ。優斗はそんな人混みはあんまり好きじゃないなと、渋い顔をして眺めるけれど更にレモンとみかんを間違えたみたいな表情になって横を見る。

「仲原さん……? いつまで腕を掴んでるの?」

 再び腕を掴んで恋人みたいにしている仲原を、優斗はパサッと軽く払う。

 するといとも簡単に仲原はその腕を離して楽しそうに笑った。

「ちょっと私の美貌で篠崎さんも恋に落として見ようかと……」

「おーっとそれは恐い。気を付けないと」

 全く怖がる雰囲気も無くて、優斗は歩き始めるので仲原も横に並ぶけれど、今度はちゃんと友人としての距離を置いていた。

「つまんねーな」

「しょうがないよ。俺には好きな人が居る。叶わないだろうけど、昔からとても恋しいそんな娘が存在するから仲原さんには悪いけど、君とはロマンチックな関係になる事は無いよ」

 もう本当の事を知っている人なので、優斗は照れる事も無く真由菜への思いを素直に語りながらも進む方だけを眺めていた。でも、仲原からは文句があるどころか横からクスクスと笑い声が聞こえた。

「一途な人は良いですね。こっちのは気にしないで良いですよ。どうせ冗談ですし、私に興味の無い奴は友達にしかしません。それに愛してる人は居ますから」

「いっそ清々しいね……俺はその相手も知ってる」

「こればっかりは篠崎さんにはお礼の言葉しか有りません」

「因みにどちらに向かってるんで?」

 ずっと並んで歩いている仲原の事を優斗は見てそんな質問をしたけれど、隣を歩いている人はキョトンとしているだけだった。恋の欠片も無いのだけれど、その仲原の表情が愛らしいと優斗は思ってしまった。

 だけどそれが嬉しいとか心躍るなんて事は無くて、それが「真由菜だったらな」と言う思いくらいしかない。これは仲原には悪いのかもしれないと優斗は思いながらもやはり真由菜の事が好きなのでしょうがないと割り切った。

「取り敢えず今日は私、暇なんで篠崎さんとお話でもしようかと」

「残念だけど、俺の方は用事が有るんだ」

「おっと! あたしピンッと閃いちゃいましたよ。その表情はマユナちゃんと会うんですね」

 優斗は至って普通な顔をしていたつもりなのでちょっと驚いてさえいた。それは優斗の歩みを停めてしまう程の衝撃だったらしくて、目を丸くして仲原の事を見ていた。

「今日の俺、おかしいかな?」

「そりゃもう嬉しそうに浮かれてますからね」

 首を捻って考えている優斗と、ずっとクスクスと楽しそうに笑っている仲原が居た。

「そんなにかな? 自分では平然としていたつもりだったのに」

 すっかりと顔を両手で覆って悩み込んでしまった優斗の事を見ると、仲原はさっきまでクスクスだったのに今度はキャハハハと笑い始めた。

「ゴメンナサイ。全部、当てずっぽうです。一応、篠崎さんは普通でしたよ」

 お腹を抱えて仲原はポカンとしている優斗の事を叩いていた。

「まあ、そう言う事なので、俺はこれで……」

 まだ笑いが続いている仲原ほっといて、優斗は待ち合わせの方へと歩こうとした。

 すると服の裾を仲原に掴まれた。

「ちょっと面白そうだし、着いてっちゃ駄目ですか?」

「んー、今日は駄目。あっちの旦那さんも居るし」

「対決を観戦したいんです!」

 その瞬間に優斗の眉間にはシワが寄った。

「だったら尚更却下致します」

「冗談ですよ。マユナちゃんに挨拶したら帰りますからー。子供も見てみたいんですよ。お願いしますぅ」

「甘えられてもなー……」

 余りにしつこい仲原に優斗は困ってしまっている。もうこの簡単な城壁は陥落しそうになっていた。

 そして周りを見ると道を歩く人々が優斗の事を見ている。仲原は優斗に向かって手を合わせて拝む様にしているのだから注目の的になっている。

 まあ、当然ながら優斗にはもう断る権利は無くなっていた。

 一応、二人は世間話や前島の事を話しながらさっきまでと同様に、楽しそうで仲良く話をして真由菜達との待ち合わせの場所へと向かった。

 真由菜は徹也の運転する車で、こちらも待ち合わせにしている高級とは言えないけれどファミリーの付かないレストランへと向かっていた。リアシートではチャイルドシートに座っている恵羽と乃愛が騒いでいるので、かなりやかましいけれど真由菜はそんな二人と一緒になって楽しそうにしていた。

 一方の徹也は真剣に運転をしていると言えば良いのか解らないが、無言で笑顔の一つも見せない。恵羽の冗談に三人が一緒にもう一度笑った時に、真由菜が徹也の事を見てみるとこちらは話も聞いてないみたいに信号待ちだったのに横を向いて窓の外を眺めている。かと言えど別に空気が悪い訳でも無くて、ほんわかと子供達が騒いで真由菜はにこやかで、誰も文句なんて云ってない車は約束の場所に近付いた。

「ママ! ひまわりのおっちゃんが居た!」

 恵羽が一番に宣言をしていた。優斗は信号で泊まっている真由菜達の車の前の横断歩道を歩いていた。もうその方向にはレストランが有るし、時間も約束の五分前なのでそんな事も有り得るのだろう。

 もちろんこんな事が有ったら騒ぎ始めるのは子供達で、恵羽はもちろん乃愛だってワーワー叫んで居たけれど、雑踏と車からの声なんて聞こえないので真由菜は「静かにしない」って怒っていた。

 すると横から。

「女連れてるんだな……」

 ボソっと徹也の声は聞こえたけれど、自動車用信号が青になったので真由菜は黙っていた。

 車はレストランの駐車場に進んで停まると、恵羽と乃愛が降ろして再び騒ぐので、夫婦でその怪獣を世に放つ。

 真由菜が「車が居るから危ない」と二人の事をやっとの事で捕まえると、その騒ぎに気付いてやっと優斗が近付く。

「おっちゃん。今日は絵、無いの?」

 恵羽が近付いた優斗にまずそんな事を言うので、真由菜は呆れていた。

「こんばんは、から言いなさいね」

「それじゃあ、私はこれで帰りますね。マユナちゃんもバイバイです」

 真由菜が恵羽に教育をしていると、ちゃっかりこんな所まで一緒に居た仲原が優斗に云っていたのだが、その時にはもう当人は子供二人とじゃれているので返事は無かった。

 でも、真由菜はしっかりと仲原へとしっかりと手を振って帰る姿を見送った。そして真由菜はジャングルジムの様に恵羽と乃愛がよじ登っている優斗の事を見た。

「どうしてアヤカちゃんと一緒だったの?」

「別に用事が無かったから暇潰しにでもされたんじゃ無いかな? 子供達も見てみたかったんだって」

「そうなのか……それで、恋の方は順調?」

「俺の?」

 もちろん真由菜が聞いているのは前島と仲原の恋の状況なのだろう。でも、優斗にとっては冗談の一つも挟まないと真由菜との会話が始まった気がしないから解っている事を聞いていた。

「そんなん、聞いてもつまらん」

「ツマラン言うな。俺には真剣な問題なんだ」

「あたしにはツマラン問題なんだ」

「そうかいな……あの二人ならもうそれは甘々で、もう砂糖のレベルは超えているな」

「だったら今は蜂蜜くらいか」

 真由菜は「うーん」と唸って考え込んでいるけれど、別にこの二人には関係の無い事でも有るんだが、それは一応面白がっているのだった。

 優斗も一緒に悩んでみようかとしたが、恵羽が肩まで登ったのでバランスを崩しそうになってしまったので、子供達を抱っこして再びじゃれ始めた。こんな状況では全く話が進みそうに無い。唸って考えている真由菜と、今度はブランコになって両腕に恵羽と乃愛をぶらさげている公園優斗が居るのを、徹也が呆れた顔で見ている。

 そんな徹也は一つため息をついてから、真剣に人の恋路を考えている真由菜に近付いてから肩を叩いた。

「マユナ……取り敢えず紹介してくれ」

 今日は優斗と徹也の顔合わせの意味合いを含んだご飯だったのに、そんな事を全く無視をしている女の子が三人いたので、その旦那は困ってしまっていた。

「そっか、篠崎。うちの旦那様でございます」

 明らかに真由菜は普段は使ってなさそうな言葉で紹介をしているので、こんな所まで冗談を含めているのだが、徹也も普通の顔をしているので一応間違いは無い。

「どうもこんばんは、西川徹也です。嫁と子供がお世話になっているみたいですみません」

「こちらこそ、ストーカーなんてしてしまって」

 今日の徹也は真由菜から見ると印象がとても良かった。もしかしたら普段の険悪な徹也で居て、そんでもって喧嘩でもするんじゃないかという心配も全く無かった訳でもないので安心していた。

「こんなのストーカーする価値有りますかねー?」

「とっても素敵な人だから旦那さんが羨ましいですよ。恵羽、乃愛ちゃん達も良い子ちゃんだし」

「子供はうるさくって困りますよ。どっちか要りますか?」

 まあ、こんな徹也の言う事は普通のどこでも有るので、悪意も全く無いと思われる。

 でも、優斗はちょっと考えている様な顔をした。

「そうですね。三人共でも僕は構いませんよ」

「どうしようか、それは困りますね」

 一瞬ピリッとするかと思われた言葉さえも徹也は普通にスルーをしていて、優斗の方だって軽く冗談の様に話をしている。

 それからは二人共仕事の話をしたりするから、真由菜はつまらなくなってしまった。けれど子供達も真面目な話をしている優斗に飽きてしまったのか、離れて真由菜の方へと近付いた。

 子供達は存分にぶーたれた顔をしているので、真由菜はそんな怪獣に付き合って笑わせる様にした。

 ご飯の時だって優斗達はすっかりと話し込んでしまって、時々笑い合い和やかな雰囲気しかない。

 存分に子供達は優斗と遊べなくてふてくされるばっかりだったけれど、真由菜は安心していた。でも、そんな真由菜だって心のどこかがポッカリと置いてけぼりになってるみたいで、フワッとした空間がある気がしていた。

 今日のレストランで真由菜は料理が美味しかったのかも解らなくて、ただ優斗と徹也の話している横顔ばかりを見ていた。二人共ずっと遠くに居るみたいで、全く自分とは視線が合わない。真由菜は二人が喧嘩をしない事は自分にとって幸せだと思っていたのに、今では解らなくてなってしまっていた。子供の面倒を見ながらもずっと優斗達の事が気になって、そっちばかりを見てしまう真由菜が居ても二人はずっと話を続けている。

 基本的には二人共ずっとお互いを見ているので視線は合わない。時々優斗が子供達を見ているのかニッコリと真由菜から眺められるくらい。

「もっとおっちゃんとお話したかったー」

「わたちは似顔絵描いてもらいたかったのにー」

 帰る頃になって恵羽が優斗の事を、遊び相手にしか思ってないように話すと、乃愛もそれに続いて文句を云っているが、やはり優斗は「ゴメンネー」と言うくらいで子供達と手を取ってはいるが、ずっと徹也と話している。

「意外と良い話し合いが出来て、楽しかったですよ」

「それはこっちもです。水浦の旦那さんは敵だと思ってましたから、こんなに気軽に話が出来るとは思ってませんでした」

「それじゃあ、これからは敵じゃ無くなりましょね」

 もう二人は話の終わりを気にしながらの言葉を交わしている。

 まだ全然子供達はブスッとしているけれど、そんな事を気にしてる雰囲気も無くて「それじゃあ」なんて云って徹也は車の運転席の方に向かった。

「まだおっちゃんと一緒に居る」

「乃愛ちゃんも!」

「随分と好かれちゃってるねー」

 徹也はもう車のエンジンを掛けて待っているので、真由菜は子供達を優斗から引き離そうと近付きながらも人気振りを見て茶化す。

「有り難いこってす。二人共また今度、遊ぼうねー。似顔絵も別々に描くからね」

 しゃがんでしっかりと子供達との視線を合わせて、優斗はなだめる様に話をしていた。優斗があんまり素直にあやまるので恵羽と乃愛はしょうがないと云った印象でふてくされては居るけれど、真由菜の足元に寄り添った。

「それじゃあ、篠崎、また今度ね」

「オウ、またストーキングメッセージ送るからな!」

 ニッコリと笑った優斗が真由菜からは望める。

「ちゃんとあたしの状況くらいは調べとけよー」

「うーん、努力はしますが、そこまでのストーキングは犯罪になりかねんので……」

「警察ビビってんのか?」

「俺は善良な市民だからな」

「小市民が!」

「一般ピープルだ」

 子供達を車に座らせると楽しそうに真由菜は手を振った。

 すると優斗はちょっと困った様な顔をしていた。

「では、本当今日はありがとうございました」

 真由菜も車に乗り込むと、徹也はさっさと急ぐ様に挨拶だけをすると車を進めてしまった。

 ずっとにこやかに優斗は遠くなる車を見つめていたけれど、やっとその姿が見えなくなると「ふう」とため息をついていた。これはとても疲れた事を示している。

 そんな優斗は途端に肩を落とすと自分の家の方へと歩き始めた。今日の星空は綺麗だけれど薄雲が所々に有って、その美しさを消している。

 恵羽のフラストレーションの篭った声が、真由菜達の乗っている車には響いていた。乃愛はもう眠たそうにしていてもうテンションも低いけれど、どうにかその騒ぎに目を開けている状況。賑やかに進む車はまるで宣伝カーの様になっているけれど、真由菜もそして徹也だって立候補をしてもない。

 真由菜は恵羽をどうにかなだめようとしているけれど、車はどこかに寄って子供達を楽しませようということも無く、真っ直ぐに家の方向へと進んでいた。その道順まで解っているので、恵羽はすねてしまって頬を風船の様に膨らんで宙を舞うかの如くになったが、おかげで静かにはなったので乃愛もすっかり夢の世界へと旅をしている。

 家に着いても恵羽は拗ねているので母親の言う事なんて聞かなくて、眠ってしまっている乃愛を抱っこしている真由菜が「歩いて!」と云っているのにブスッとして横を向いてしまっている。困った顔をする真由菜だったけれど、ため息と一緒に車から離れると流石に恵羽も自分だけを残されると思ったのかさっとその横に並んだ。

 真由菜はクスッと笑って恵羽の顔を見るけれど、ずっと頬を膨らましていた。既に眠っている乃愛を子供部屋に転がして、真由菜は恵羽をヨイショしながらどうにかおねむにしていた。

「恵羽はもっとおっちゃんと遊びたかったの!」

 乃愛と並んで横になってあくびをしている恵羽だったけれど、やはり文句は続けていて聞いている真由菜も「この頑固さは誰に似たんだ?」と首を傾げて居るが、子供達はどう考えても母親にそっくりなのだ。

「はいよ。解ったって……おっちゃんには恵羽が遊びたがっているって云っとくよ」

「約束だからねっ!」

 強い言葉で恵羽は真由菜の事をとても眠たそうな瞳で睨んでいた。

「じゃあ、恵羽のがメッセージを送ったら?」

「うん! そうする!」

 その言葉に恵羽は文字通り飛び上がって真由菜に抱き付いた。真由菜は携帯をスリープから解くとカメラモードにして恵羽をフレーミングする。

「じゃあ、撮るからね」

 ムービーモードのスマホを見ながら真由菜が言うと、恵羽が笑顔になってうんと頷いた。

 なので真由菜はスマホの録画ボタンをタップする。

「ひまわりのおっちゃん。今日は恵羽ちゃんつまんなかった! 次に会ったら遊んでください。宜しくお願いします」

 恵羽は正座をして深々と礼までしてお願いをしている。

 我が娘ながらこんなに遊ぶ事に関しては熱心だと思うと、クスッと笑えたけれど録画されている事を確認すると、メッセージアプリを開いてムービーを選択した。

 横でその様子を見ていた恵羽の手を取って、その幼い指を自分のと重ねると「せーの」と云って送信ボタンを二人でタップした。動画だとデータが重いので丸いゲージがゆっくりと進んでいるのを、真由菜と恵羽が顔をくっつけながら眺めていた。

 恵羽が真由菜の膝に座ってずーっと眺めていると「ピコン」と音がなってゲージが消えた。すると恵羽が振り返って真由菜の事を見た。

「それじゃあ、ねんねしようか?」

「ヤダ! おっちゃんからの返事待つ!」

「もう眠たいんでしょ?」

「眠たくなんかないもん!」

 勇ましくも恵羽はそんな風に言うけれど、次の瞬間にはあくびをするので明らかに眠たそう。

 子供の我儘に困りっぱなしの真由菜は、優斗に直ぐに返事をする様に願った。

 恵羽のショボショボしている瞳でスマホを眺めていると「ポン」と音が鳴った。メッセージアプリを開いている時の着信音だ。

 どうやら真由菜の怨みに近い願いは優斗の元にも届いた様子。

『解りました。次はちゃんと遊びましょう! 乃愛ちゃんにもそう云っといてね』

 文字だけでは解らないかもしれないと、優斗はその言葉に続けて敬礼と遊んでいるのと笑顔とのスタンプを送っていた。だから恵羽にも直ぐに解った様子で、嬉しそうに真由菜に抱き付いた。

「さて、お姫様。おねんねを」

 すっかりと簡単では有ったけれど恵羽はニッコリになっていたので、真由菜の言うことを素直に聞いた。元々眠たかった恵羽は瞬殺ですやすやと言い始めたので、真由菜はやっとこさ子供部屋を離れる。

 どうにも子供達は優斗に懐いている事を考えると、嬉しい自分も居て真由菜はルンとしてしまう。自分の友人は誰にも好かれる良い者だという喜びが有るのだ。真由菜は廊下をステップしながらピタッとポーズまで付けて、リビングのドアを開いた。

「浮かれてるな……馬鹿みたいだから控えろ」

 そこには徹也がビールを片手に真由菜の事を見ていた。自分でもそんな姿を見られたのが照れくさかったのか真由菜も「ハハハッ」と笑って冷蔵庫に向かうと自分のビールを持って、ダイニングテーブルの徹也の向かい側に座った。

「それで? 篠崎の印象はどうだったかな? 結構面白い人間だったでしょ? 貴方もあんなに良く話をしていたんだし」

 今日の徹也はずっと朗らかで優斗と話している時には笑顔さえ見れていたので、この数年の事を思うとこんな雰囲気だったのは久し振りの様な気が真由菜にはしていた。

「それな……」

 しかし徹也の方は今は表情が優れない。さっきまで持っていたスマホも今はテーブルに置いて、難しい顔をして若干俯いているのだった。

「子供達もまた篠崎と遊びたいって云ってるから、今度は休みの日に公園でもって、あたしは思ってるんだけど?」

「それは俺も必要なのか?」

 楽しそうに話している真由菜とは違って徹也の言葉は重たかった。

「もちろんでしょ。貴方も篠崎と仲良くなってよ」

 そう真由菜が云った瞬間に徹也の目つきが恐くなった気がした。

「俺はあんな人間と仲良くはなれんな……」

「そんな事を言わないでみんなで一緒に遊ぼうよ」

「遠慮しておく。別にあの男と会うのは構わないが、マユナと子供達だけにしておけ」

 徹也はビールを呑み干して、テーブルから離れようとした。

「貴方は篠崎の事をどう思ってるの?」

 しかし、真由菜が待たせる様に聞いたので、徹也はもう一度椅子に座って恐い目つきを送る。

「確かに面白い男なのかもしれない。けれどな、あんな奴と仲良くなっても俺に全くメリットがないんだ。マユナも人と付き合う時は損得で考えろよ」

 怒っているみたいな顔をしていたけれど徹也は淡々と告げる様に言うと、ダイニングから離れて自分の部屋へと移ってしまった。リビングと続いている部屋は「シーン」と静かになってしまった。

 真由菜の元には誰も居なくて、ビールと残された。暫くさっきの徹也の言葉を考えて居たのか真由菜はボーッと自分の手元だけを見つめていたけれど、深呼吸をしながら顔を挙げた。

 そしてビールを傾ける。

「損や特なんかで友達は選びたく無い」

 呟きは静かな部屋にころりと転がっていた。

 真由菜はちょっと寂しい気にもなっていたけれど、自分はしっかりと結婚もして子供にも恵まれているのだから幸せな方だ。

 深呼吸を続けてずーっと深いため息を吐いた。肺に有る全ての空気を吐き出してしまって、ちょっと目が眩んでしまったけれど気分は新しくなれた。真由菜はそんな風に気分転換をしてから立ち上がると、頬を叩いて残っていた家事を済ませた。

 どんなに疲れていてもこれは自分の仕事なのだから「しょうがないな」っと鼻歌を歌っていた。

 時は悪ガキが日めくりカレンダーを捲るみたいにドンドンと進み、優斗のストーキングは真由菜の暇潰しに丁度良い様に有る事は無かった。それはもう、とんと無くなって電話はおろかメッセージすらも届かない。

 真由菜からは仕事でも忙しいんだろう、なんて思いっていたがそんな事を許してくれない怪獣達もいた。その怪獣は世界を壊す様に日々進化してグレードアップをしている。文句を言う程度から段々と駄々をこねる様になり、今日になってしまっては真由菜に対してはずっとブスッとしている。

 怪獣の恵羽と乃愛はもう笑顔なんて無くしてしまい、真由菜の事を悪人でも見るみたいに睨んでいる。そもそも真由菜に責任は無いのだからそんな顔をされるのは全くのお門違いなのだ。

 元々は優斗が自分のストーカーなのにメッセージの一つもよこさないから悪いんだ。子供達にこんな顔をされて自分も暇なのは全て優斗が悪いんだと言う風に、真由菜は思うようにした。

 けれど、そんな事で今の状況が好転する事は無い。恵羽がずっと真由菜の事をつけ回してブスッとした顔を見せて居る。乃愛に至っては部屋の隅っこに座り込んでしまっている。これは乃愛の拗ね方なのだ。二人共が別に文句を言う訳では無い。至って家は普段よりも静かなのだ。

 でも、真由菜はソファに座って項垂れた。そうしてしっかりと自分の横に陣取っている恵羽の顔を見る。そして自分の向いの遠くに居る乃愛の事も見てみる。どちらの言いたい事だって直ぐに解ってしまう。完全敗北だ。

 最強タッグに真由菜はノックアウトされてしまった。なので真由菜は乃愛の事も自分の方へ呼んで、二人が見つめるのを見返して頷いた。

「おっちゃんの事、呼んでくれるの?」

「乃愛ちゃんは一緒に遊びたい!」

 真由菜の思った通りの要望だったので黙って、その言葉に頷いて自分の携帯を取る。そしてメッセージアプリの優斗のアイコンをタップした。

 ちょっと楽しみな自分も居るのは真由菜も気付いてるけれど、それは横に置いておいた。

『コラ! ストーカー! 子供達が暇してんだ! どうにかしろ!』

 一応、真由菜は子供達にもメッセージを送ったからと言い訳をして、今日の晩ごはんはどうしようかと考え始めた。

 もちろん子供達はもう文句なんて言う事も無く、優斗の返事を楽しみに待っている。けれどそれは真由菜のスマホをジーッと見詰めている馬鹿とも言える待ち方だった。

 でも、そんなに簡単に返事は無くって、二人は黙ってスマホを見つめるだけの時間が過ぎる事になってしまった。

 乃愛は直ぐに飽きてしまって、優斗の事を怒りながらも遊び始め、恵羽の方はそれからも数十分待っていたが、やはりこちらも待ちくたびれてしまって姉妹で仲良くし始めた。

 本当に優斗はどうしてしまったのだろうかと、真由菜が思ってしまうけれど、それでも返信は無くて子供達が眠ってしまった頃になってやっとこさリアクションが有った。

『ゴメン。今、絵の方の仕事の締め切りに追われていて時間が無かった。携帯も見れないくらいに……』

 すっかりと優斗はカラオケ屋の店員と言う認識に真由菜はなっていたので、アーティストと言う事を全く忘れてしまっていた。

『そっか、篠崎は絵を描くのが仕事だったんだ……忙しいの?』

『忘れないでくれるかな……うん。そう。忙しいよ』

『カラオケ店員の方が似合ってるからね。じゃあ、子供達とは遊べないか。解った』

 一応、真由菜も優斗が忙しいと言うので、それを無視ってまで言う事を聞かせる事は今日は無かった。

 あくまでも今日は。

『俺ってそんなにバイト生活が似合うかなぁ……子供達とは遊びたい!』

『著名人ぽくないからね。時間作れる?』

 二人はずっと冗談と一緒にまともな話を続けている。これは必要なのかとお互いに思いはするのだが、面白いので続けている。

『これでもちょっとは有名なんだ! 明日は休憩時間を作るから余裕!』

『全然知らなかったけどね。真面目に仕事しろよ!』

『もっと売れる様に頑張ります……時には休息も必要なんだよ』

『それじゃあ、明日子供達の保育園帰りに』

 簡単にでは有ったけれど真由菜も眠たくなっていたので、これくらいでメッセージを終わらせていた。

 今日も徹也との会話は少なかったのでちょっと心が暖かくなった気がする。真由菜は優斗と話す度に和んで居るので、明日会う事を楽しみにした。

 次の日、やはり乃愛がすんなりと起きて、恵羽と徹也を起こすと普段通りの朝が訪れた。真由菜がご飯の用意をしていると、恵羽はテーブルに有った母親の物であるスマホを一番に確認した。使い方はまだ良くわかってないから通知を調べるだけ。もちろんそんなのは真由菜が消してしまっているので無くなっている。

 すると恵羽はため息を吐きながら真由菜の方を眺めていた。

「忘れられてるのかな」

 優斗からの返信が無かったと思って、不貞腐れた顔になっているけれど、おかげなのか普段よりも目覚めは良かったみたいで、もうあくびなんてしてない。

 どちらかと言うと眠そうなのはソファの方に居る徹也の方で横になって、スマホのニュースを見ていた。

 真由菜達三人は一緒に手を合わせると「いただきます」と云ってから父親を残して朝ごはんにしていた。まだ表情の優れない恵羽を見て真由菜はため息を吐いた。

「ちゃんとおっちゃんからは返事が有ったよ。今日、保育園が終わったら会えるよ」

 本当ならサプライズにしておこうかと思っていたのに、あまりの恵羽の不貞腐れっぷりに負けてしまっていたのだ。

 もちろん恵羽の方は喜んで「ワー」っと騒いでいて、その横では乃愛が淡々とごはんを楽しんでいる様にも見えたけれど、クスクスと笑っているのでこちらも十分に喜んで居るみたい。

 バタバタと忙しい朝の時間は過ぎてしまうのに、子供達はゆったりと優斗の話をしながら用意をしている。さっさと用意をしてくれたらたすかるのにと、真由菜が呆れている横でまだ朝ごはんもとってない徹也が仕事着に着替え始めた。

「今日は夜も要らないから」

 それだけで徹也はおはようも無しに家を離れてしまった。

 それから真由菜は子供達を保育園へと送り届けると、家に戻って散らかったダイニングテーブルを見る。

 手の付けられていない徹也の分のごはんが、まだ並んでいる。ハッキリ言うともったいない。けれど、そんな文句を言う相手も無い真由菜は卵焼きとサラダとベーコンが並んでいる皿にラップを掛けて、自分のお昼にしようとした。

 それからはちょっと寂しさの有る真由菜だけの時間が過ぎる。家事もなれてしまうと余裕も出来てしまって、暇な時間も作れてしまう。これは真由菜にとって苦痛でしか無いのだけれど、他に方法も無くて好きなので音楽と本でどうにか潰すしか無かった。

 やっとの事で保育園の終わる時間になって、真由菜も家を離れる。どうしてか気が急いでしまって普段よりも時間が余っているけれど、気にしない様にした。

 保育園で二人の事も迎えるともう子供達は「おっちゃん」のコールを続けている。優斗と約束のしたのは街に有る公園だった。そこは遊具なんて無くて、イベントなんかをする為の所で、子供達には退屈しそうな雰囲気も有った。

 恵羽と乃愛はそんな事は無くて、広い芝生の広がっている小高くなっている所を走って遊んでいた。真由菜はベンチに座ってその姿を見ていた。

 するとその隣に座る人が居た。優斗だ。ちょっと疲れた顔をしているので、一瞬見違えてしまったけれど二人が顔を見合わせるとお互いに笑っていた。

「仕事忙しいの?」

「そんなでも無いよ。子供達、楽しそうに遊んでるね」

 ポツリとそれまで会ってなかったとは思えないみたいに会話が広がる。

「全く。さっきまではおっちゃんと遊ぶんだって騒いでたのに、公園に着いたらそんな事も忘れてるみたい」

「あれっ……ちょっと寂しいなー」

「そのうち、あの子達も気付くんじゃない?」

 子供達の姿を見ながら二人は話して、優斗は時々真由菜の方を眺める。

「気付かれないと哀しいなー」

「もう篠崎の事なんてどうでも良かったりして」

「うわぁそうだと死ねるわ」

 馬鹿な話ばっかりをしていると、やっと子供達も優斗が居る事に気付いた様で、ベンチの方を見て走り寄った。

「おっちゃん! 居たんならちゃんと云ってよね!」

「一緒に遊ぼうよ」

 まずは恵羽が文句を言う様に語ると、続いて乃愛が優斗の腕を引っ張った。

 優斗は怪獣に連れられて単なるかけっこに強制参加させられる事になってしまった。それはルールも無くって、ただ走り回るだけだけど子供達はとても楽しそうにしている。

 優斗は疲れてしまっているけれど、子供達の笑顔を見ていると終わりには出来なくって走り回った。

 真由菜はそんなに楽しそうに子供達が遊んでいるのを見ていると、自分も嬉しい気分になっていた。他にも遊んでいる子供が居て意味も無い追い掛けっ子に参加し始めて、戦闘力を増していた。

 するとその他の子供のお母さんが真由菜の元へと近付いた。

「すいません。親子で遊んでいる所にお邪魔しちゃって」

「いえ。別に構いませんよ。うちの怪獣達も楽しそうにしてますから」

 今の恵羽は歳が近そうな男の子と手を繋いで走っている。

 そしてその妹と思われる乃愛よりはしっかりとした雰囲気の子も競う様に走っている。

「休みの日に子供と遊んでくれるのは、優しいお父さんですね」

 一瞬真由菜は首を傾げてしまった。今、徹也はこの場に居ないのだから。でも、次の瞬間に理解はできた。きっとこのお母さんは優斗の事を恵羽達の父親だと思っているのだろう。

「そうですね。時には子供の面倒も見てくれないと」

 真由菜はあえて否定する事も無かった。別にこれからこの親子とずっと付き合う訳では無いのだろうから、説明が面倒くさい事も有った。それにもし次が有るならなばその時に実はって話せば良い事だろうと思ったからだ。

「あんな人だったら私も続いて居たのかも……ちょっと見ず知らずの方だから自分のグチを云っても良いですか?」

 若干おかしな言い回しが有ってから、その母親は聞いていた。

「あたしの方のグチも聞いてくれるのだったら構いませんよ」

「それはモチロン。私は茜って言います」

「どうも真由菜って言います」

 二人共この場限りの話にするつもりなので、フルネームまでは語らない。それでもニコリと笑って握手をしていた。

「実を言うと私、この間、離婚したばっかりなんですよ」

「ホウ、それは重たい話で。それにグチも有るでしょう。語ってくださいませ」

 急にこんな話になってしまったけれど、真由菜は暗くなる事も面倒そうな顔すらも見せなかった。

「その別れた旦那ってのが子供の面倒なんて全く見てくれなくて、ずっとスマホばっかり見てる人だったんですよ」

「それは確かに腹も立ちますね……人事では有りませんけど……」

「それだけならまだしも、家事だって私に任せっきり、自分はただ毎日仕事だけをしている人間で、それを誇らしげに語るんですよ」

 全く真由菜は自分の事を言われているみたいな気がしていた。実はこの人は自分の事を知って、わざとこんな事を云っているのでは無いか。どこかでモニタリングされてるんではとまで思ってしまう。

「でも、それは稼いでくれている訳で有りますしね」

 とは言え真由菜も疑問に思いながらも、ちゃんと言い返しては居る。

 でも、それは自分の立場を守っている事にもなる。

「稼いでたら偉いのかって話ですよ。全く、お宅みたいな人だったら私も結婚生活今も続けてたんだろうけどねー」

「そんなもんですかねー、うちの旦那もそんな風ですよ」

 この時の真由菜は徹也の事を考えていて、相手が優斗を見て話している事をすっかりと忘れてしまっていた。

 だから茜はちょっと不思議な顔をして真由菜の方を見ていた。その頃の優斗と言えば、元気な子供達に翻弄されてしまってもう足元があやしくて今にもダウンしてしまいそうになりながらも、一応走っていた。そんな不甲斐ない優斗の事を見て、子供達は楽しそうに笑っているので、この遊びはまだ終わりそうにもない。

「それでも真由菜さんは旦那に文句も無く尽くしてるの?」

「文句が無いって言うか、仕方が無いんじゃないですか? そりゃあたしも子供の面倒を見てくれたらとか思いますし、自分も働きたいなってのは有りますけど……」

「んっ? 働かしてくれもしないの? パートくらいは暇潰しにも良いのに」

 どうやら茜は自分の話よりも真由菜の事が気になったみたいで、さっきよりも近付いて楽しそうに話を聞いている。

「あたしも働きたいんですけどねー。俺の稼ぎが有るんだから、家を守ってけって」

「結構、亭主関白なんだ」

 ずっと真由菜は茜の言葉を疑問にしながら聞いていた。それはもう言葉の度に首を傾げてしまう程に。

「このくらいは普通なんじゃないですか……って、すいません。それが原因で別れたんですよね」

「あはははっ、もう私は終った事だから別に構わないんだけど、真由菜さん。ちょっと良く話し合った方が良いのかもしれないよ。解ってくれそうな旦那さんだし」

「そうですかね。うちの人、頑固なんですよ」

 真由菜の考えているのは徹也だが、茜が今も見ているのは優斗なのだから、そこにはギャップが有るのが当然な事なのだ。

「さて、私は仕事の時間も有るし帰るけど、一つだけ苦言をていしとくから、通りすがりの人の参考程度に覚えといてね」

「ちょっと怖いですけど、茜さんって信頼出来そうだから、しっかりと心に刻んでおきます」

 二人はまださっき会って名前しか知らないけれど、意気投合している部分も有るので、もう古い友人の様になっている。

 だから真由菜は茜の事を信じて、その言葉をちゃんと聞こうとしていた。

「今の真由菜ちゃんの結婚生活は普通じゃない。もっと妻には自由が有っても良いの。我儘も許してもらいなさい。自分の言う事も聞かせないさい。そうじゃないと疲れるのは相手じゃないんだからね」

 とても重たい言葉だったけれど、真由菜はフッと笑うと「ハイ」とだけ返して頷いた。それは自分でも、もしかしたらなんて思っていた事。とても真由菜の心は晴れやかになっている。

 茜は自分の子供に「帰るよー」と言うと、優斗の方へと向かった。二人は言葉を交わしているけれど、真由菜の所からはその話は聞こえない。

 そうしていると恵羽と乃愛が「バイバイ」と手を振るのが見えて、茜達がその場から帰るのが見えると、優斗がやっと開放されたみたいで疲れて、座り込んでしまった。もうそれは単なる走り過ぎで子供達に負けてしまったのだ。

 真由菜はそんな優斗の不甲斐ない姿を見て、楽しくなって三人の方へと近付く。

 段々と近付くと子供達が「まだ遊ぶ」なんて云っているのが聞こえているけれど、優斗はそれに返事をするのもやっとな様子で地面にへたり込んでいた。

「全く、篠崎は馬鹿だねー。適当にしてないと子供達の体力には勝てないんだから」

「もう、若くないわ……」

「年寄りが!」

「因みに君は同い年だったよな?」

「そうだっけ?」

 笑いながら真由菜は、うつ伏せている優斗の脇腹を軽く労る様に蹴っていた。

 明らかに馬鹿にしている真由菜の様子を見て、子供達も優斗の事を蹴り始める。もちろん子供達は容赦も無くバシバシと蹴っているので、優斗は痛がって仰向けになった。

「遊ぶ時は相手も真剣じゃないと。ホラ、空が綺麗だよ」

 優斗の視界からは笑っている三人の愛らしい姿と真っ青な空が映っていた。優斗からしてみればとても美しいばかりの自分の好きな映像ばかりが見えている。

 それを聞いた真由菜は一度首を挙げて空を見上げたけれど、つまらない顔になって優斗の事を眺めると、横に転がった。

 二人して芝生に仰向けになるので、恵羽と乃愛は顔を見合わせると、真由菜に習って転がった。

 四人が輪になる様に仰向けになって空を眺めた。どこまでも続いているみたいな青に子供達は「キレー」と喜びの声を挙げている。

「さっきの人。篠崎の事をあたしの旦那だと思ってたみたい。面倒だから否定もしなかったけど、ストーカーからしたら嬉しいのかな?」

 ずっと四人で空を見ているだけなので、真由菜が話をしてみるけれど優斗の方からは返事が無かった。気分でも損ねたかなと思ったけれど、そんな事も云ってないし優斗ならそうで有ったら文句の一つも言うだろうから違うと真由菜は思い、どうしてなのか解らなくなった。それからも一分程返事を待った真由菜だったけれど、恵羽達のはしゃいでいる声くらいしか聞こえない。

 真由菜は身体を起こして隣の優斗の事を睨んだ。でも、そこに居たのは真剣な顔をしている優斗の姿だった。

 いつだって真由菜の前ではヘラヘラしているので、優斗のこんな表情はこの最近見た事も無くて、昔を懐かしんだ。

 そんな真由菜の心には懐かしい恋が確かに存在していた。

 真由菜が見てみても優斗はずっと真っ直ぐに空だけを見ているので、恵羽と乃愛もその顔を見つめる。

 それでもやっぱり優斗は視線も移そうともしないので、真由菜が「どうしたの?」って聞いていた。

 すると優斗はやっと真由菜の方を見た。

「これはかなり良いかもしれないな」

 優斗は意味の解らない言葉を綴っていた。

 これは馬鹿になってしまったのだろうか。煙と馬鹿は高い所が好きなのだから、コイツもそうなったのかもしれない。真由菜はそんな事を思いながらクスッと笑って、優斗の事を見ている。

 恵羽が真由菜の事を見てその笑顔が感染った。そんな事なのだから次は乃愛も表情が華やかになった。

 またしても笑っている三人優斗の瞳に映る。細くなる愛らしい瞳が、とても美しい。優斗はそんな綺麗な風景を眺めていた。

「おっちゃん? どうしたの? 絵でも思いついたの?」

 恵羽が優斗の事を眺めていると、その真剣な瞳が似顔絵を描いている時と一緒だと気が付いていた。

 優斗はそんな言葉にやっと現実世界に戻ったので恵羽へ、ニッコリと笑い掛けた。

「そう! 良い絵になりそうなんだ!」

 優斗は起き上がると、恵羽の脇をコチョコチョとしながら云った。もちろん恵羽も喜んで、はしゃいでいるので乃愛の方は寂しそうにしていた。

 そんな姿を真由菜が見つけたので、こっちもくすぐり始めた。ちょっと苦しい様な子供達の笑い声が公園に広がっている。

 でも、そんな楽しそうな風景はいつまでもは続かない。優斗が絵のアイデアを思い付いてしまったので、今すぐにでも仕事に戻りたいと思ったから。愛しい人と居るのに優斗は帰り支度を始めていた。

 真由菜は文句を言わないが、それを担う人間は居る。

「おっちゃんともっと遊びたいー」

「恵羽。おっちゃんにも一応仕事が有るんだから、我儘言わないの」

「一応って事はないでしょ……」

 その真由菜の細かい言葉に優斗が白い目で見つめていた。

「あたちはおっちゃんが絵を描いている所を見てみたい」

 駄々をこねている恵羽の横で、こちらは静かにその様子を見ていた乃愛がポツリと言うと、みんながそんな姿を見て黙ってしまった。全員が言葉を無くしていたけれど真由菜がハハハッとちょっと笑いながら乃愛に近付く。

「そんな事云っても、おっちゃんの邪魔になるだけじゃない」

「別に邪魔になんてならないよ。そっかそんな方法も有ったんだね」

「ちょっと篠崎、良いの?」

 思いつかなかったと、優斗は乃愛の事を褒める様に抱っこをしている。

 もう恵羽も駄々をこねるのを辞めて、優斗の意見に賛成しているみたいで、その足に縋り付いていた。

 しかし真由菜は眉間にシワを寄せて困った表情をしていた。

「別に俺は構わないんだけど……水浦の方は問題でも有るの?」

 真由菜の表情を見た優斗は首を傾げて、そんな事を聞いていた。

 次の瞬間に真由菜はくるりと反転するとガッツポーズをしている。三人からは見えないけれど、その顔はにこやかに笑っている。

「絵を描いてる所を見てみたかったんだ」

 子供達二人を抱っこした優斗が真由菜の顔を改めて確認する様に見ると、嬉しそうにしながらそんな事を云っている。

「そんなん、似顔絵ん時に見てるやん」

 それは再会した時の話だ。確かに真由菜達は目の前で優斗が描いてるのを見ている。けれど真由菜は優斗の事を見つめた。

「篠崎じゃなくて、cinonが描いてる所。あたしってもう結構ファンなんだ」

「俺のファンとは嬉しいな」

「篠崎のじゃ無いよ。cinonのファンなんだって」

「だから、それは俺じゃないの?」

 二人は話を続けながらも歩いた。

 優斗が道案内をする様に時々「あっち」とか云っている。

 子供達は優斗に抱っこをされてもう絵が見れるとはしゃいでしまっている。

「違う! 断じて」

「難しいな……」

「あたしには、篠崎とcinonそしてyu-toも居るかな?」

「自分で考えたのにこんがらがりそうだ」

「と言う事にしておこうよ。cinonは篠崎とは別人格なんだ」

「訳解らなんなくなるな」

 それからも真由菜と優斗は全くどーでも良い会話をしながらも、暖かくなった北の街を歩いている。

 優斗は二人を抱っこしているので「重たい」と文句を言うと、真由菜からは「落としちゃば」と言う返答が有って、その会話を聞いていた子供達から「駄目」って言葉が有る。

 もちろん真由菜の云っているのも冗談で、優斗も実行はしないけれど「解った」と云ってから落とす振りをしていた。恵羽の方がビビリなみたいで、その瞬間に「ギャア」と叫びながら優斗へとトカゲの様にへばりついている。でも、片方の乃愛は優斗が落とす筈も無いと信じているみたいで、自分も手を離してキャハハハと笑ってさえいる。

 歩きながら子供と遊んで、真由菜と話をしながら進む。公園から離れて前にテレビ局だった所を反対に向かって進む。この辺りはどちらかと言えば住宅街で、お店はそんなに無い。ビルと言えばあっちこっちに古ぼけた団地が並んでいるばかり。道沿いに有るその建物の一階に小洒落た店が有って、優斗はそちらに足を進めていた。

 真由菜がどんな店なのだろうと看板を見ると、黒猫ギャラリーと有る。宅配便をしている訳では無いのだけれど、そのショーウインドウには魔女が荷物を運んでいる絵が飾って有った。

 優斗がその店のドアを開く為に子供達を降ろすと、二人は辺りを観察するみたいに眺めていた。

 ドアを開くと古い喫茶店の様にカランコロンとベルがなる。

 店は静かで、人が居ないみたいだけど、優斗は気にしないで進む。壁には見た事の有る様な雰囲気の絵が商品として並んでいる。それは有名な物ではない。cinonの物と似ているんだ。恐らくはそんな絵ばかりを集めているのだろう。

 優斗はスタスタと店を進んで、横の広くなっているスペースへと移っていた。

 真由菜達は絵を見ていたので優斗を追うと、そこは絵画教室になっていた。でも、今は椅子等が端っこに寄せられていて、壁には描きかけの絵が掛けられていた。

 それはもう真由菜にはすぐに解る優斗が描いている絵だ。でも、あんまり素敵だとは思わなかった。

 すると教室の椅子達が片付けられている方に有った扉が開いた。

「誰かと思ったらシノンくんかいな。どうでしょう? 創作は進みそうですかい?」

 恐らくは四十くらいの背の高い女の人が現れて、優斗に気兼ねをする事もなく話している。

 優斗はその人に敬礼をしてから真由菜達の方を向いた。

「この人達のおかげでちょっと道が見えた」

「お客さんかと思ったのに、シノンくんの連れかいな。秋森穂乃香です。ヨロシク」

 穂乃香は真由菜に会釈を交わすと、子供達の方にニコッと笑ってから手を振っていた。

「西川真由菜と申します。ちょっと見学なんですけど宜しいですか? 二人も挨拶」

「西川恵羽です!」

「乃愛ちゃん……」

 改まって真由菜が話すと続けて、恵羽が元気に答えて、乃愛はかくれながらもポツリと云っていた。

「シノンくんが許したんならどうぞ、見学は無料ですから」

 ヘラヘラと楽しそうに話している穂乃香も画材を持っていて、絵を描いていたみたい。

 だけど優斗はそんな事を気にする事も無く、壁に有る恐らくcinonの作品と思われる絵を外して、横に置いた。

「穂乃香さー、百号のキャンバスって有ったっけ?」

「私の店を馬鹿にすんな! 画材屋としても一流なんだ。絵に関するものは全て揃っている!」

「この人、嘘つきだから信用しないようにね」

 優斗は穂乃果の事を指差して子供達に教えていた。するとそんな穂乃果が渋そうな顔をしている。

「嘘ついたかも……」

「ホラね」

「一応、在庫が残ってると思うけど、倉庫見てみな」

「全く、俺も客だって事、忘れてない?」

 こう言う時は優斗もお客さんなのでは無いかと思うのだが、穂乃香は探す様子も無くって、自分の画材を若干荒っぽく片付けていたので、それをちゃんとしまってから優斗はさっき穂乃香が現れたドアへと消えた。

「真由菜さんはコーヒーで良いかな? おチビちゃん達はみかんジュースで勘弁してね」

 絵画教室の端っこに有るちょっとしたキッチンみたいになっていてコーヒーメーカーや冷蔵庫が置いて有る。

 穂乃香はそこでコーヒーカップを持って真由菜の方を見ていた。

「すいません。見ているだけなのでお構いなく」

「ちゃんとドリンク代はシノンくんに請求するから。それで? 貴方は彼の恋人?」

 冗談の様に笑いながら穂乃香はコーヒーを注いで、真由菜に渡すと冷蔵庫からポンっと、どこかのマジメなみかんジュースのペットボトルを取っていた。

 真由菜には懐かしい代物だった。

「違います。今のところは……あたしには旦那も居ますし、仲の良い友人ですかね?」

 真由菜はちょっと風変わりな返答の仕方をしている。単純に否定だけをしたら良かったのだけど、真由菜はそれもちょっと違う様な気がして、自分の思うまんまに話していた。

 穂乃香がみかんジュースをコップに注ぐと、子供達へと渡す。

 もちろん「ありがとう」とお礼は言えてるけれど、こんな時ばっかりは二人共しっかりと賃貸の猫になっているので静かだ。

「んーっ! そっか、じゃあ真由菜さんがあのひまわりを買った人なんだ」

 コーヒーを啜りながら穂乃香は急に思い付いた様子で声を上げていた。

「あのひまわりの事を知って居るんですか」

 真由菜の言葉に穂乃香はコーヒーを離さずにジーッと見詰めている。

 ちょっと恨みでもあるみたいな瞳なので、真由菜はちょっとたじろいでしまいそうにもなっている。

 二人がこんな風にゆっくりと話せるのは、戻った優斗が絵を描く準備を子供達に面白おかしく説明しているから。その手にしているキャンバスは優斗の背丈よりも高く、幅は子供達くらい有る。

「シノンくんが私がどんなに頼んでも売ってくれない特別な絵だったからね。そりゃもうどんな人が買ったのか気になってたんだ。ふーん、そっか貴方だったんだ」

「やっぱりあの絵って高いんですか? あたしその事を知らなくて……」

「じゃあ、私に売ってくれる?」

 コーヒーをその辺の棚に置いて、穂乃香が真由菜に近過ぎるくらいに歩み寄っていた。

 真由菜から見るとちょっと茶っぽい穂乃香の瞳が視覚全体に有る。もし相手が男の人だったら悲鳴でも上げれば救助されそう。

 そうしているとそんな穂乃香の綺麗な瞳が閉じられたと思ったら離れて「イテッ」と云っている。

 優斗の投げた鉛筆が穂乃香のあたまに直撃したからだった。

「馬鹿な事云ってないでよ。パステル使うけど盗んじゃうぞ」

「鉛筆だって商品なんだ! それにそんなのでこの秀才の頭脳をカチ割ったら弁償だかんな。因みに在庫はチェックしているから減った分はシノンくんに付けとくよ」

「俺のタイセツな人達だから恐がらすなよ」

 腕を組んで怒っている雰囲気が有る優斗は、穂乃香の事を睨んでそんな事を云っていた。

 けれど次の瞬間には穂乃香もニッコリと優しい顔に戻って、真由菜に「ゴメンネ」なんて云っているので、これまでもずっと冗談だったみたい。

 一瞬、真由菜は本当に恐い人なのかと思ったので安心したけれど、どうして自分がちょっと怯えてしまった事が解ったのか解らなくて窓に写る自分の姿を見ていた。

「残念だなー。あのひまわりは是非とも私のコレクションに加えたかったのに!」

 穂乃香はひまわりは買えないと思ったみたいで、両手を上げていたクルクルと踊るようにしながらも残念そうな顔になっている。

 そんなのなので、やはり真由菜からの穂乃香の印象は楽しい人になっていた。

 もちろんそんな面白さばかりを演出している穂乃香の事を、恵羽と乃愛は笑って眺めている。

 そうしている間にも優斗は画材の準備を整え終えて、キャンバスの方を真剣に見つめ始めた。これは優斗が描く時の儀式的なもので今は絵のイメージを作っている。もちろんキャンバスは真っ白だけれど、優斗の瞳にはもう画像が見えているので、そのデザインをしているのだ。

 急に真剣にになってしまって、乃愛が服の裾を引っ張っても、恵羽が叩いても、優斗は完全な無視と言うよりも気付いて無いみたい。

「恵羽、乃愛。おっちゃんはお仕事だからこっちで静かに見なさい」

 真剣になっている人を邪魔しても駄目だからと、真由菜が二人を呼んだ。

 渋々ながらも子供達は真由菜の方へと戻ったので、穂乃果が人数分の椅子と恐らく在庫品の棚からクッキーの詰まった箱を取って、子供達へと与えたので、文句は遠く彼方へと消えてしまった。

 因みにどうしてそんな所にクッキーが有るのかと言えば、穂乃果が度々コーヒータイムをしているからなのだが、時々画材と間違われてお客さんに買われそうになると言う、この店の面白い所だった。

「まあ、シノンくんはあんな風になったら、隣で戦争になっても気付かないだろうけどねー」

 手作りであろう真由菜の掌程も有るクッキーを持って、穂乃果は楽しそう笑って優斗の事を眺めている。

「あのー、ちょっと聞いても良いですか?」

「ハイな! 私に解る事で有れば!」

 両手で抱えるくらいになっているクッキーをリスの様に削っている子供達をほっといて、真由菜はちょっと疑問を持っている顔をして訪ねると、穂乃果は敬礼をしながら返事をしていた。

「篠崎ってやっぱり有名なんですよね。あのひまわりも高いんですか?」

「うーん、そうだなー。超が付くほど有名って程では無いけれど、現代絵画が好きな人だったら誰でも知ってるだろうね。だけど、そのどれもが高額って訳じゃ無いよ。あのひまわりも私が好きなだけで、実際売るとなったら価値は低いかもしれない。もち、その逆も有り得るけどね」

 穂乃果は解説をしながらもスーッとキャスター付きの椅子を滑らせて本棚の方へ移動すると、一つの雑誌を持って戻りページを開く。付箋が付いているそこにはcinonの絵と優斗が写っていた。

 真由菜はそれに優斗が本当に有名なんだと改めて驚いていたけれど、横で恵羽と乃愛が「おっちゃんだ」と騒ぎ始めた。

「あたしもあの絵は好きです。良かったらcinonの事を話してくれませんか?」

「やっぱりあのひまわりはcinonの代表作になるかも……売っては、くれないよね。うん。画家のシノンくんの事だよね。話したげる」

 真由菜の笑顔を見ると、穂乃果は悔しそうにしていた。

 でも真由菜はちゃんと今度は首を振っていたので、穂乃香もひまわりは諦めた様子。

「一応、篠崎優斗の昔の事は知ってますからね」

「そっか、なら今度教えてもらおうかな。えーっと、シノンくんはあんまり有名じゃない絵画展でそれなりの賞を取ってたんだよね。実際有名なコンクールでは落選してる方が、今でも多いかな? 万人受けじゃないみたい」

「そうなんですか……あたしは好きなんだけどなー」

 さっきの雑誌のcononの絵を見ながら、真由菜はうんうんと頷いている。

「そうなんだよね。もっと売れても良いと思ってる。まあ、それでもかなり裕福では有るから悔しい! 私が見出したのに」

「穂乃果さんが篠崎の才能を認めたんですか?」

 疑問点が有ったので真由菜が首を傾げていると、穂乃果が横でクスクスと笑っていた。

「自称はそう言う事にしといて、私はおじいちゃんの画廊の買い付けついでにシノンくんが賞を取った絵画展を見てたんだよ。その時……惚れちゃったんだよ」

 真由菜の肩を叩いてまで穂乃果がカカカッと笑っている。

「もしかして、篠崎にですか?」

 真由菜から見ても穂乃果はとても綺麗で、たよりがいの有りそうな人だ。それはもう自分では勝てないと思っていた。だから真由菜の心はチクっと痛んでいた。

「アハハハッ違うって、絵にだよ。もうその時には私は婚約していて、幸せだらけだったから、シノンくんをそんな風に見た事は無かったな。もちろん今も。元々育てたい画家って思ってる。親心に近いかな? 安心した?」

「はい……っじゃ無くてあたしも結婚してますから!」

 不意なスルーパスの様な穂乃果の問い掛けに、真由菜はすんなりと答えていた。しかし、それが間違いだったと訂正した時には話していた相手は高らかに笑っている。

「それは本人達に任せます。そんでシノンくんの絵を私が買い付けました」

「穂乃果さんは良いものを解っている画商だと思いますよ」

「それがねー。私はまだその頃、画商してなかったんだよね。芸術系の専門学校は卒業してたけど、普通の事務職で寿退社して、暇だったからおじいちゃんの買い付けを見学してたんだけなんだよね」

 そんな事を言われて真由菜は画廊をくるりと見渡した。

 どんな風に見ても年寄りの経営している画廊とは思えない。選んでいる絵のセンスもそうなのだが、ディスプレイしている小物も明らかに穂乃果が選んでいる様に思える。古臭い雰囲気なんて無くてオシャレだ。

「この店は穂乃果さんがオーナーじゃ無いんですか?」

「一応、オーナーは別の人。だけど、このお店は私の! 絵も飾りも教室も全部好きにしてます」

「素敵です。再々通いたいくらいに」

 その言葉に真由菜は全く嘘を含めていなかった。本当に素敵だと思って窓辺に置かれている黒猫のぬいぐるみを見ていると、ホッとする様な気がする。もちろん並んでいる絵も、cinonの物ばかりなのだが、他の画家のも綺麗だと思う。

 全てが新しい物では無くて、アンティークでもない古い絵画教室の揃ってない椅子なんかも真由菜の好みと合う。

 どこにも穂乃果のセンスが有った。

「通ってくれても良いよ。教室の生徒も募集してます!」

「すいません。あたしは絵心が無いんで……」

「なら、お客さんで良いよ。絵は買わなくても眺めてくれたらオッケーだし、それにシノンくんが描いてるのを観察するのも楽しいよ。あれだったら私とお友達になる? そしたらコーヒーはタダにするしね」

 穂乃果は生徒獲得出来なかったけれど、楽しそうにしていた。

 優斗はまだキャンバスを睨んで居るだけで、全く進む様子は無い。

 子供達はお腹が膨らんだからなのか、眠たそうになっている。そんな事だから甘えん坊の方の乃愛が椅子を降りて、真由菜へとへばり付いた。

「抱っこしておくからちょっとねんねする? 恵羽も頑張って起きてなくても良いよ」

 子供達はあくびの対決をしているみたいになっているので、もう夢の世界までは数分で到着してしまう。そうなってしまえば二人は単なるお荷物にしかならない。

 だから真由菜は一度眠らせて、回復してから帰ろうかと思っていた。

「うん。それならあっちにソファが有るから横になっちゃいな。子供だったら二人でも狭くないと思うから。お母さんは私とまだお喋りするから」

 穂乃果はそう云って絵画教室の向こうのドアまで、また椅子で滑って開けた。

 そこには座ると言うより仮眠用にされているソファが鎮座していた。ちゃんと畳まれているタオルケットまで有った。

「だったらお願いしますね。ホラ、恵羽もおいで」

 まだ優斗の絵は始まっても無かったので、真由菜はちょっとくらいは見たかったのも有って、乃愛を抱っこして、ついでに恵羽の手を取ってソファの方へと向かった。

 子供達はあたまを合わせるみたいに縦に並んで、横になると穂乃果が恵羽の方に「ちゃんと洗濯してあるから」とタオルケットを掛けながらくすぐっていた。

 けれど、もう眠たくて仕方が無い恵羽は鬱陶しさを表した顔をして、その手を払っていた。

 真由菜の方もタオルケットを受け取って、乃愛に掛けているけれど、こちらはもうソファに転がした頃には眠ってしまっていた。

「子供の愛らしさって、敵うもんが無いよね」

 子供二人の様子を見る為にドアを半開きにしながら穂乃果が語ると「そうですかね?」なんてもう仲良くなっている真由菜が話しながら絵画教室の方に戻る。

 そこでさっきまで石像だった優斗が二人の事を見ていた。と言うよりか子供達の方を眺めていたみたいで、真由菜と穂乃果にはその視線が合わない。

 だから穂乃果はわざと優斗と子供達の導線を遮る様に、身体を屈めてニッコリと笑ってから手を振ってみた。

 けれどそんなのは無視をして、優斗はもう一度キャンバスに向かってパステルの新品の箱を開ける。

「確かにホノカの言う通り、あの愛らしさには敵うもんは無いんだけどな……」

 そんな風にブツクサと語ったかと思ったら、優斗は青のパステルを持ってキャンバスに近付くと右手を弧を描く様に振るい始めた。

「どうやらイメージがまとまったみたいだね。真由菜ちゃん再びコーヒーでも飲みながらお話でもしーましょ」

 ルンルンと楽しそうな語りで穂乃果は、さっきの冷めてしまったコーヒーを片付けて、ガタガタとうるさくも淹れ直す準備を始めた。

 そんな賑やかさに全く関する事も無く優斗はキャンバスに向かっている。今はまだ青の線を引いているだけなので、それが絵になるとは思えない。見方によっては数学の記号にも思える。

 段々と絵画教室のディスプレイされている窓から見える陽は傾き始めて、夕方の優しい光になり始めていた。みかんジュースやコーヒーの渋が残っている食器は流しに置かれて、そこにはポタリポタリと水滴が落ちる。音はそれだけではなくてガリガリと小気味良くコーヒー豆が砕ける音が聞こえて、もう一つキャンバスに削られるパステルの音だけがそこには広がっていた。

 真由菜の瞳は描き始めたばかりの絵と、穂乃果が回しているコーヒーミルを捕えている。クルクルと回るレバーの向こうで優斗が戦う様に絵を描いていた。

「素敵な空間で落ち着きますねー。喫茶店も併設したら儲けるかもしれませんよ」

「なるほど! じゃあ、シノンくんにはパフォーマンスとして、ずっと絵を描いてもらって、そしたら画商としても成功するから良いアイディアかもしれない」

「それはもう篠崎は馬車馬の如く働かないと駄目ですね」

 挽き終った豆を取りながら穂乃果が高笑いをすると、真由も一言付けて、二人でケラケラとうるさくなる。

 それでも優斗は気にしないで絵の方に向かっている。恐らくは真剣になっているので聞いてないんだろう。

 そんな事も穂乃果は解っていたから、煩くも気兼ねなく話しているんだ。でも、穂乃果はそんな細かい事を気にしないので、優斗が隣で聞いていたとしても馬鹿にするのは辞めない。そんな楽しくも面倒な人間なのだ。

「えーっと、それでどこまで話したんだっけ? それとも別の……そうだなー。シノンくんの馬鹿な事を語ろうか?」

「オーナーは違うけど、この店は穂乃果さんのものだってところまで……馬鹿な話も聞きたいですけど、それは追々にしますか」

「それではシノンくんのサクセスなストーリーをば。彼は才能が有るんだよ。ちゃんと賞も取れてるし、絵も売れてファンだって今では居る。でも、まだ私達が出会った頃には無名だったんだよ。だから……」

 穂乃果は楽しそうな顔をして話を遮ると、豆をドリッパーへと移して、横で沸かしていたポットからお湯を注いでいた。

「ちょっと、穂乃果さん。面白そうな所で話を辞めないでくださいよ」

「面白い事、ゆっくりとコーヒーでも飲みながらじゃないと。まあ、ビールでも良いのだが。シノンくんは私に返し切れない恩義が有る!」

 コーヒーを淹れ終った穂乃果は真由菜に渡しながら話をして、終盤には拳を高らかに掲げて宣言していた。

「だから、ちゃんと恩は返してるでしょ……」

 どうやら優斗は全く二人の話が聞こえて無い訳では無かった。真剣になる為に聞いて無かったのだけれど、それでも一応重要な事は耳から脳に届くらしい。

「まだまだ恩恵の借は残っておるぞ!」

「ヤクザの借の方が安全だったのかもしれない」

 優斗はキャンバスから目を離す事も無くて一度全体を見ると、また話を終わらせて元に戻った。

「篠崎の恩ってどんなのなんですか?」

「私がシノンくんの絵を買ったんだよね。全く勝算なんて無かったけど。それでも売れてくれた。そうしたらこの子ったら急にこっちに住むからってんで逃さんぞ! って事でこの店をオープンさせたの」

「アレッ? このお店って篠崎がこっちに住む様になって開いたんですか?」

 もちろん真由菜は穂乃果がこの店をしていて、優斗の才能を見出したと思っていたのだが、話を聞いているとそうでは無かった。考えてみると穂乃果は暇潰しの時にcinonの絵と出会ったと云っていたので、今画商をしているのは優斗がきっかけと言えるのだ。

「そうだよ。cinonの絵に惚れちゃったからね。旦那も説得して、結婚はしたのに別々に暮らして、こんな人の才能に賭けている。でも、私は間違って無いと思ってるよ。自分で考えて納得してるからね」

 穂乃果のその瞳は優斗の方を見ているけれど、それは人なんて見てない。ずっとcinonの絵と自分の夢を見てるんのだ。

 真由菜からはコーヒーを片手にずっとそれを眺めている穂乃果の姿が格好良く思えていて、自分も視線を優斗の方へと移した。こちらも必死になって、誰かの夢を背負いながら戦っている姿がとても格好良く見える。

 これでは諦めてしまった自分が惨めになってしまうばかりだった。結婚したのは幸せだと思っていたのに、それまでの想像とは違った。でも、これが現実なんだと自分に嘘を付き続けて、子供達の笑う確かな幸せと愛される事や楽しく働く者なんかを諦めていた、己を守っていた筈だった。でも、今の真由菜はそれが音を鳴らして崩れてしまいそうになる。もうガラスの心は割れて砕け、更に細かくなって石英の粉になってしまっている。この状況を元に戻す事なんて、そんな熱は自分には無いのかもしれない。

 急に黙った真由菜だったけれど穂乃果は隣で見ていると、真剣に優斗の描く絵を見ている瞳に確かに火が灯っていると思って、声をかけなかった。

 穏やかな静かな高台の住宅街に有る画廊には、心を癒やすコーヒーと描きかけの絵が良く似合っていた。

 夕陽がもう終わろうとしていた頃になっても優斗の絵は他の人から見ると全く進んで無い様にも思える。ずっと青のパステルを減らしているばかりに思えて、それは単なる資源の無駄遣いで、この街の行政はゴミに関して煩いので、環境に悪いと怒られそうだ。

 青いのは絵なのか優斗なのかは解らない。線にしている輪郭には丸いものも有ってどこかの猫型ロボットにも思える。そうしているとそんなモンが好きな世代の恵羽が起きて、真由菜の方へと近付いて抱き付いた。

 朝だったら乃愛に負けるのに、流石におひるねとなると年が上の方が勝てるらしい。そして妹に普段は盗られてしまっている母親を占領出来る時間でも有ったのだけれど、まだ恵羽には時間と言う概念は定着していない。自分が暇な時はそれはいつだって遊ぶ時間にしてしまう。

 それは羨ましい所でも有る。人は時間と言うものを解り始めると、段々とそれに追われる様になってしまう。キライだからと時針から逃げた所で、その罪悪からは離れられずに白旗の敗北宣言をするしか無い。

 真由菜もそうなっているので、時計を見るとつい悲鳴を上げそうになっていた。随分とゆっくりしずぎで、段々と絵になっていると思われるキャンバスを見て、自分の心を和ませようとしていたのは間違いだった。

 今日は家事なんてものを全くしてない。もう街は暗くなり始めているのに、晩ごはんの用意もしていないので真由菜はもう慌てる事しか出来なくなっていた。

「恵羽、乃愛。帰るよ……すいません穂乃果さん。こんなにゆっくりとお邪魔をしちゃって」

 パタパタと真由菜は上着を羽織ると、さっきまで飲んでいたコーヒーをお盆へと片付けるて、子供達を呼んで帰る準備を始めさせた。

 もちろん子供達からは「ブーブー」と文句を言われてしまうのだけれど、もう今の真由菜にはそんな時間的余裕は無いみたいだ。

「そっか、もうこんな時間かぁ。主婦だと忙しいね……私も一応そうなんだけど。因みにお邪魔なんて思ってないからいつでも見学してね。もちろんコーヒータイムは歓迎します!」

 そんな真由菜の事をちょっと不思議そうに見ていた穂乃果だったけれど、自分も壁に有るこちらもcinonの描いた文字盤にDIYされた時計を見ると、納得した様子で自分も主婦だけどそんなのは気にしてない様子で真由菜へと笑顔を返していた。

「そんな事を云っていると、お言葉に甘えちゃいますよ」

「社交辞令じゃ無いから心配しないで、シノンくんに場所を貸しているから絵画教室も休まなきゃだし、画廊の方のお客さんはあんまり居ないから……今度はそんなグチを聞いてもらおうかな?」

 今は優斗の画材とキャンバスで絵画教室のスペースはかなり占領されているので、その活動は到底不可能な状況なのだ。今だけはcinonの専用アトリエになんだ。そして画廊スペースの方は一応通常営業をしているけれど、真由菜が今まで居座った時間でお客さんはゼロ。穂乃果は途方もない程に暇をしていたのだ。

「じゃあ、また時間が有ったら……篠崎バイバイ!」

 一応こっちは社交辞令のつもりだった真由菜も、ちょっと見学は楽しいかもと思いながらも、まだ自分達が話をしている事に気付きもしてない優斗の事を呼んで帰る事を告げた。

 普通の時の優斗なら近くまで送ると言うだろう。でも、今は忙しそうに絵を描いて居るからそれは無くて、それでも笑顔の挨拶くらいは有るかなっと真由菜は思っていたのに、優斗は返事もしなかった。

 真剣な目をしながらただキャンバスだけを睨んでいる。その真剣な瞳は凛々しくて普段よりかなりの割合がアップされて格好良く見える。

「シノンくんは真剣に絵を描いてる時は別世界に居るから言葉は通じないよん」

 普段とは違う優斗の姿を見ていた真由菜に、穂乃果はその肩を叩いて話していた。

 結局優斗からは全く言葉は無いどころか、気付いてもくれないで真由菜達は店を離れる。穂乃果が店の外まで送ってくれて、ジャンプをしながら両手を振って「バイバイ」と云っている。

 面白い人だったので恵羽はもちろん、人見知りの筈の乃愛だって、今は穂乃果に手を振り返している。乃愛は優斗と出会ってからかなり人見知りが無くなった様にも思える。保育園でも友達が増えているみたいで、嬉しい事も優斗がもたらしたのかもしれない。それだったら優斗も意味が無い訳では無い。

 真由菜達は高台になっている方から下って近くの駅へと向かって、帰り道を歩き始めた。電車で移動してからそこからはバスになる。

 寄り道をしてそこで晩ごはんの買い物でもしようか。もう今日は惣菜もので簡単に済ませてしまおう。もしかしたら徹也から文句が有るかもしれないけれど、気にしなければ良い。自分が悪いのだから。真由菜はそんな事を考えながら電車を待っていると、到着したので二人の子供の手を取った。

 どうしてか乃愛が嬉しそうに笑っていた。

「今日のひまわりのおっちゃん格好良かったねー」

 子供連れだったので、人々は優しく席を譲ってくれて三人で座った時に、乃愛が真由菜の方を見て話していた。

「うん。絵も訳わかんないけど、綺麗だったし!」

 その言葉に返事をしたのは恵羽で、二人は眠っていたり遊んでばっかりだったので、そんなのも気にしてないかと思っていた真由菜だったけれど、ちゃんと二人は優斗の絵の見学をしていたみたい。

 真由菜は自分の子供達が笑ってる姿を見て顔を綻ばせた。

「ママもそう思った……」

 それで家に帰った。もちろん晩ごはんは割引シールの付いたスーパーの惣菜にしてしまった。

 子供達はそれでも十分に喜んでいたけれど、やはり予想は当たってしまって、子供達が眠ってしまってから帰った徹也からはブツクサと文句を言われてしまった。

 街は段々と暖かみを増して日々を進ませている。

 cinonが出品する絵画展の日付は近付いているので、そんな時にカラオケ屋には優斗の姿が有る筈も無い。今日も平日なので受付には暇そうな仲原の姿が有ってカウンターに首を乗っけてプーっと頬を膨らませている。

 すると店の前を掃除していた前島が通ると、その時だけ仲原は笑顔になっていた。もちろん前島の方もそれは華やかしい笑顔を送っているけれど、両手には箒とちりとりが有るので今はそっちを片付けようと数歩近付いたけれど進行方向を正した。

 前島は廊下の向こうに消えてしまったので、仲原は直ぐに不貞腐れた顔に戻ってしまう。どうにも暇でしょうがないのでポケットからケータイを取り出した。仕事中のケータイは緊急時以外は駄目なんだけど、そんな細かい事を言う人間は居ない。お客さんに見つからなければ良いのだ。仲原はメッセージアプリを開くけれど、まだ学校が有る時間なのでそんな関係の友達からは連絡も無かった。

 今日の仲原のシフトは昼過ぎまでの予定で、それから今日は塾も無い。更に前島は今日は閉店までの仕事になっているからデートだって望めない。つまりは仲原の予定はキレイさっぱりと無いのだった。

「時間潰しは、お客さんに見つからない様に」

 ずっと暇そうにしている仲原の所に、前島が掃除用具を片付け戻っていた。

「今日は暇だねー」

 店はガランとしていて、遠くのカラオケルームの歌声が混線する事も無くて、綺麗に受付まで響いている程だ。ドリンク類の注文も無くて、こんな時は店員が退屈してしまう。

「そうだな。シノくんも居れば、それからの恋の進展を聞けるのにな……連休なんて取りやがって」

 前島は仲原の隣に座りながら話しているけれど、その距離は近くて誰から見ても恋人同士に見える程になっている。

 仲原の方も嬉しそうに微笑んだ。

「そっか! そんな暇潰しも有ったんだ。よし! 聞いてみよう!」

 閃いた様に仲原はケータイを取ってメッセージアプリを開いて、文字を打ち始めた。

「シノくんとメッセージ交換してるの?」

 前島は自分の彼女の行動が気になって、横から仲原のケータイを見る。そこには仲も良さそうにメッセージを交わしている様な文章が有るので、前島はブスッとした顔をしている。もちろんこれは嫉妬なのなのだ。

「篠崎さんじゃない方の当人だよ」

 文章をサックリと打ちながらも、普通に前島の言葉に返事をしている仲原はそんな事を云っていたので、横では意味の解らない顔をしている人間が居る。

 アンポンタンの前島には仲原が云っている相手に検討がつかななくて、ポカンとしているばかりだった。

 そんな風に恋人達が楽しい時間を過ごしていると、直ぐに日は傾く。若干カラオケ屋にはお客さんが集まり始めたけれど、それでもやはり平日なのであまり繁盛しているとは言えない。

 そんな理由さえ有り仲原は残業なんて無くって、定時にはバイトが終わる。けれど仲原はタイムカードをついてからも店を離れようとしないで待っていた。それは最近付き合い始めた彼氏では無い。

 もう店では前島と仲原が付き合っている事はみんなが知っている。それはどうしてかと答えるとするならば、本人に問題が有る。つまりは前島が嬉しさとノロケによって、ことごとく周りの人間に話してしまったから。前島と言う人間は嬉しい事が有ったら誰かにそれを知らせてしまわなくては仕方が無い人間なのだ。こんな事ではもう一方の当事者は困ってしまうのが普通だ。でも、こんな人間と付き合えるのは、普通とは言い切れなかった。

 仲原も面倒そうにしているかと思っていたが、時間が流れるに連れてその事を苦にもしなくなった。店の同僚からちょっとしたからかいの言葉が有っても笑い済ませてしまう。そんな風になっているので、やはりこれはお似合いのカップルなのだ。

「誰か待ってるの?」

「友達と会う約束をしてるから」

 そんな恋人達が受付で話をしている。もちろん客は居ないからこんな会話が出来る。一応、気を使ってカウンターの端っこで普段着の仲原をお客さんとして話している様にしている。

 そうしていると店の自動ドアが開いた。お客さんの登場なので、仲原の事は一応、前島は横においといて営業用の表情になった。

 でも、現れたお客さんの顔を見て前島は一瞬、理解が出来ない表情になった。

 しかしその横の方では仲原が笑顔で手を振っている。

 現れたのは真由菜だった。

「友達ってマユナちゃんの事だったの?」

「今、私の一番の仲良しさんです!」

 彼氏からの問い掛けにニッコニコの仲原がいた。そして仲原は真由菜へと駆け寄ってハグをしていた。

「アヤカちゃんの彼氏さんがノロケてる所が見れると思ったのに、まだ仕事なんだ」

 まるで子供をあやす様に真由菜は仲原の事をヨシヨシとしながら前島の方を見ていた。

 まだ付き合い始めで彼氏と呼ばれる事で簡単に喜んでしまう前島は、仕事だろうとそんな事を言われてしまったら存分にノロケた顔をしている。

「だから、暇なんだよー。一緒に日常のストレスを吹き飛ばしましょ! 馬鹿はほっといて、ホラ! 受付! お願い」

 仲原の方もすっかりと子供みたいに真由菜に懐いて、受付の方に移動をしたけれど、そこでは仕事モードなんて忘れてしまっている前島しか居ない。ボケッと二人、正しくは自分の彼女の愛らしくも思える子供っぽい仕草に見とれてしまっている前島は、ビンタを受けていた。もうさっきの愛らしさは無くなって普段のクールな仲原が、会員カードを片手に前島を睨んでいた。

「急に叩かなくても良くない?」

 叩かれた右頬に手を当てながら前島は、仲原の会員カードを受け取ると、ブスッと膨れてポスに向かって操作を始める。

「仕事の時はしっかりしなさい!」

 前島が受付を終えてマイクやデンモクの籠を仲原へと渡した。

 すると仲原はビシッと指を指しながらも説教をしているみたいな言葉を吐いて、勝手知ったるカラオケルームに進んだ。

「すっかり主導権はアヤカちゃんに有るんだね」

 二人にはちょっと広すぎるくらいの部屋が用意されていた。でも、それは前島からのはからい。この部屋はカラオケの機種も新しく音響も良いので店員お勧めなのだが、普通は五人以上のお客さん用なのだ。

「男はちゃんと操縦しないとねー。もしもし? アイスティー二つ、副店の奢りで!」

 ニコニコと笑いながら仲原は軽く答えて、内線電話を取って無条理な注文をしていたけれど、相手は前島なので受け付けられた。

「あたしはそれに出来なかったんだよねー」

 電話をしていたので聞いていないだろうと、真由菜はひとりごちていた。

「今日は子供さん達はどうしてるの?」

 恵羽と乃愛の姿は今日も居なくて、仲原はまだ二人の事を写真以外では殆ど見た事が無かった。

 二人は話しながらも時間が惜しい様に、デンモクで自分の好きな歌を探し始めていた。

「カラオケはまだ恐がるかもだからね。歌もちゃんと覚えてないし。それに旦那の親が今日は一緒に居たいんだって。あたしも子供が居なくて暇してたからアヤカちゃんから連絡が有った時に喜んじゃった!」

 徹也は市内に実家が有って、真由菜から義理の父母になる二人は恵羽達を甘やかしてしまう。でも、そんな事を嫁の立場から文句は言えなくて頼まれると子供を渡している。ママ友や徹也の同僚の妻みたいなのでは無く結婚でこの街で暮らすようになった真由菜には、自分だけの知人の少ないので子供が居ないとぼっちになってしまう。だから仲原は良い友達なのだ。

「そんな風に暇な時が有ったら私を呼んでよ……えっと、篠崎さんとデートじゃ無いなら」

 これは良い事だと思った仲原だったけれど、その言葉を発した瞬間に優斗の顔が浮かんで訂正を語る。

 真由菜の方は笑っていた。

「別にあたしは篠崎と恋人じゃ無くて、友達なんだよ」

「でも、篠崎さんはそんな風に思って無いかもしれませんよ。それに真由菜ちゃんは今、幸せなんですか?」

 急な仲原の質問だった。もう二人共デンモクを見る事も無くて、お互いの事を眺めて話してしまっていた。

 真由菜は幸せかと言われて、ふと悩んでしまった。結婚もして子供達にも恵まれている。世間から言うならば自分は勝ち組とも言えるのだろう。でも、直ぐに幸せだと答える事が出来ないのは、どうしてだろうと言う想いが真由菜の心に雪の様に積もっていた。もう季節は暖かくて桜が咲く頃になっていると言うのに、真由菜の所に降っているのはその花弁ではなくて、冷たく優しくない氷の結晶だった。この想いは元から有ったのだろうか。それとも優斗や最近の出来事がもたらしたのかは解らない。確かに真由菜の思い出には、優斗の事が美しくこれまでちゃんと残っていた。別にキライになった記憶なんて無い。もう遠くなって届かなくなった存在だと思っていた。自分からそうしたのかもしれないけれど、終った事だと思っていたのに冷たい氷に閉ざされていても、やはり真由菜の心には優斗と言う華が確かに咲いていた。

 暫く言葉も無かった二人だったけれど、仲原が見つめているので真由菜はちょっと困った表情を見せた。

「幸せかと言われると、自分でも解らない。篠崎の事だって普通に好きだし、でも、それがイコール愛なのかと聞かれたらハイとは答えられないんだ。全くあたしって駄目な人間だね」

 涙を流さない様にどうにか頑張って笑顔を作っていた真由菜のその姿を仲原はしっかりと見ていた。仲原は自分の事で面倒を掛けたので、二人の幸せの為なら協力したいとも思っていたからこんなに真剣になっている。取り敢えずは話を聞いて考えた。だけど答えはとても簡単な所に有りそうだった。仲原は言葉が無くなっている間に到着していたアイスティーを飲んでから、再び真由菜の事を見つめた。これまでよりも強い瞳で。

「真由菜ちゃんって、自分の想いに素直になってないだけじゃ無いの? 普通、自分のストーカーだって人間が現れたら友達なんて言わないよ。篠崎さんの事を本当に好きなんじゃ無いんですか? 今の旦那さんの事をそれよりも愛してるんですか?」

 まだ十代とは思えない強い言葉。でも、若いから言える言葉なのかもしれない。真由菜はそう思ったので仲原を睨み返した。

「篠崎の事は、そうだね。本当に好きなのかも。でもね、あたしはもう結婚してるから。もう恋なんてしないんだよ」

 睨みながらも優しい笑顔を見せながら話していた。真由菜は言い終わるとそれで良いと思っていた。

「そんなのおかしいです! 恋は結婚しても続くはずです! その相手が旦那さんじゃないのなら本当の愛じゃ無いんだよ!」

 どうしてか仲原は熱くなって、今にもテーブルを瓦割りの様に真っ二つにしてしまいそうな雰囲気で話をしていた。

 そんな仲原を落ち着ける様に真由菜は「どうどう」と言いながら、両方の掌を見せてからアイスティーを勧める。

 前島からの奢りだったアイスティーを、仲原はストローも使わずにガブガブと飲んでいた。でも、そのおかげで仲原は若干落ち着いたみたいで、さっきまでの空手家の様相は無くなっていた。

 なので真由菜は落ち着いて、さっきの仲原の言葉をしっかりと考える事にした。若いけれどその言い分は確かに間違っていないのかもしれない。強く語られた仲原の考えが真由菜に落ちていた。

「取り敢えず、歌わない? カラオケなのに時間が勿体無いよ」

 確かに今日はストレス解消の為に居るのに、二人はもうかなり話し込んでしまっていた。そして更にストレスを増やすみたいな事ばかりをだ。それは仲原だけでは無くて真由菜の方も。

「忘れてました。じゃあ、私から歌いますっ! ……さっきは生意気な事を云ってすいません」

 すっかり鎮火した仲原はデンモクを取ると、瞬間的に曲を送信した。そして受付が完了されたら申し訳なさそうに真由菜へとあやまっていた。

 流石にさっきの言葉は自分の言う事では無いのだと思ったのだろう。

「気にしないで。あたしはアヤカちゃんの事を友達だって思ってるから、真剣に話してくれたのを嬉しいくらいで、怒ってはないよ」

 ニコッと笑った真由菜がそう言うと、イントロが流れ始めたので仲原は安心してモニターの方を見て歌い始めた。

 もちろん真由菜も負けじと歌合戦を始める。ジェネレーションギャップが有って、若干曲に差が有りながらも二人は楽しんだ。

 合間に前島が様子を見にサボりに訪れたけれど、もうその時には仲良く二人が肩を組んで一緒に歌っていた。女同士の友情はとても恐ろしくて、そして強い。

 すっかりと夕陽も暮れてしまって、街が夜になろうとした頃に、二人は喉を枯らせながら店を離れる。

 まるで酒焼けしたスナックのオバちゃんママさんみたいになっている。随分と楽しかった二人には笑顔が離れないで有る。店の前の所でお喋りをしているけれど、二人共離れようとはしない。それには理由が有った。どちらかと言えば仲原の方に。真由菜の方もニコニコしながらさっきみたいな話題は無しにして、無駄話をしていると二人に近付く影が有った。カラオケ屋の路地から現れて、二人の元へと一直線に進んだ。

「のど飴有るけど居る?」

 それは仲原の彼氏にしてカラオケ屋の副店長こと前島だった。どうしてか、いつだって常備している飴玉を持って二人の元に歩み寄っていた。

 仲原はその声に直ぐに気付いて、嬉しそうにのど飴を貰っている。二人は仕事の終る前島を待っていたのだった。前島は仲原とまだ付き合い始めで仲も良さそうに話しているので、そんな姿を真由菜はぼーっと眺めてた。

 すると「真由菜さんは?」って言いながら前島が紫のボトルの飴を差し出している。

 真由菜はボケッとしていたのを首を振って消していたけど、ちゃんと飴は貰っておいた。イガイガとしている喉に爽やかなフルーツの甘さが広がっていた。

 今の真由菜は仲の良さそうな前島と仲原のカップルを見て考え事をしていた。

「さて、じゃあ三人でご飯でも! 私もお酒が呑めたらなー」

 ずっと二人並んで歩いていた仲原が振り返って、真由菜の事を見ながら話して残念そうにしていた。

 前島が「おこちゃまは呑まなくて良い」と云ったので、仲原に蹴られていた。

 どこまでも仲が良さそうで真由菜は自分の昔を思っていたけれど、こんな事は無かった。

「アヤカちゃん良いよ。あたしはお邪魔虫みたいだし。帰るから」

 人々が歩いている道で前島と仲原と一緒に居る。

 そこに真由菜のスペースは無い様な気がしていた。真由菜は「篠崎が居たらそんな事、気にしないのに」なんて思っていたけれど、それが寂しさからなのかは考えない様にした。

「でも、今日は子供さん達も居ないんでしょ? 寂しくない? それとも旦那さんと二人っきりで喜んでる?」

 仲原は自分達の事は気にしてない様に前島を叩き避けて、真由菜の方に近付いていた。

「今日は旦那も仕事で帰らないんだ。でも、家事なんてしないでゆっくりビールでも呑もうかなって」

 対する真由菜の方も自分の事なんて気にしない様に話しているけれど、それはちょっと寂しい気もする。

「じゃあ、篠崎さんと一緒にご飯でもしたら?」

 軽く云った仲原の言葉だったけれど、真由菜はビックリしたみたいな顔をしていた。

 なので「冗談」だと仲原が云って、やはり三人でご飯にしようと真由菜の腕を引っ張った。

 もう暖かくてコートなんて無くなった街を三人で歩いた。そこに優斗の姿はなくてもみんなの元にそんな人間が繋いだ心が有る。

 ずっと仲原は真由菜の腕を掴んで前島の方を見もせずに話をしている。

 真由菜から見るとそれは自分の為にそうしてくれている気がして、申し訳無い。

 ちょっと寂しそうに前島が真由菜と話している仲原の事を見惚れている。

 どこまでも二人は惚れあっているのだろう。

 そんな事が解る合間に邪魔者としか言えない真由菜が居る。

「やっぱりあたしは良いわ……二人っきりでどうぞ」

 どうしても今の状況が申し訳なくなった真由菜はそう言うと、ガッチリとホールドされていた仲原の腕から逃げて両手を振っていた。

 仲原はとても残念そうな顔をしているけれど、もうその横には前島が居て寄り添っている。

「じゃあ、やはり篠崎さんの所に……」

「アヤカ……しつこいぞ。シノくんは今は画家の方の仕事で忙しいんじゃ無いのか?」

 代替案としてもどうしても仲原は優斗の間を取り持とうとするのだが、今度は前島に遮られてしまった。それはちょっとだけ怪訝な表情をした真由菜の顔を見たからだった。けれどその前島の言葉を聞いて真由菜は首を傾げた。

「忙しいんだろうけど、仕事場にはいつでも寄っても良いみたいに言われてるよ」

 もちろん優斗からの言葉は無かったけれど、穂乃果もそんな風に云ってたし、真由菜からは問題も無いだろうと思っていた。

「そうなの? 俺達にはどこに居るかも教えてくれないのに」

 その真由菜の言葉に前島は驚いていたけれど、直ぐにブスッとした表情になる。しかし、三十も既に過ぎたオッサンのそんな表情になっても誰も喜ばない。と思っていると横で仲原が微笑んでいた。恋する乙女の視線は解らない。

「やっぱり篠崎さんも待ってるんだよ。真由菜ちゃんも考えてみたら」

 愛する視線から戻った仲原は、ブスッとしている前島の若干ヒゲでチクチクする頬を軽く叩いてから、もう一度優斗の事を進めていた。

 叩かれた方の前島はちょっと難しい顔をしていた。

 真由菜も再三となる仲原の言葉に、今度はハッキリと困っていた。

「そうなるとアヤカの云っている事は間違いばかりとも言えないのかもしれないよ。本当に真由菜さんも考えてみてよ。この子うるさいし」

 しっかりと考え込んだ前島の言葉はこんなのだったけれど、余計な言葉が付いていたので、今度は仲原に結構強く叩かれた。まあ当然の事だとも言える。

 真由菜の方は本当に困ってしまった。こんなに二人に勧められると困ってしまう。どうしたものだろうかと考えるけれど、道なんてそんなには無い。人生の交差点なんてそんなにあちこちに有ってもしょうが無い。ある程度レールが敷かれている事を願う真由菜が居る。けれどそんな時にはちゃんと名案が浮かぶものでも有った。

「そうですね。じゃあ、篠崎の様子でも暇潰しに見てましょうか」

 全くの嘘を真由菜は語っていた。そんな事は全く思っても無いのだ。この場しのぎの嘘に過ぎないのだけれど、それでも構わない。

 真由菜がこんな事を云ったので、さっきまで勧めていた二人は浮かれてしまって楽しそうに笑っている。

 単純だとも思いながら真由菜は若干、苦味の有る笑顔になっている。

 前島と仲原はすっかり安心して居る様子。そして二人っきりになれる事を真由菜には見せないようにしていたけれど、喜んでいるのは誰からでも解った。

「それじゃあ、私達はあっちのお店でご飯にしますから。篠崎さんとの事を報告してくださいね!」

 仲原が真由菜の嘘に全く気付く気配も無くて、近くのバス停まで歩くと手を振って別れた。

 二人の姿を見送ると、仲の良さそうな恋人同士が並んで歩いている。少し羨ましい風景で真由菜は一つため息を吐いて、振り返るとバス停の時刻表を見た。

 今のバス停は真由菜の家の方へ進む路線とは違っていた。面倒だと思いながら真由菜は別のバス停まで歩こうかと思ったけれど、もう一度時刻表を見た。そこには穂乃果の画廊が有る所の名前がしっかりと有る。

 運命の交差点は本当に有るのかもしれない。そんな風に真由菜が思った時にバスが近付いた。まるで真由菜は呼ばれているみたいになっている。一度は離れてしまおうかと思った真由菜だったけれど、考えもしないで居ると自然と手を挙げてバスに乗る事を示していた。

 十数分すると真由菜は、穂乃果の店の最寄りのバス停へと降り立って居た。別に優斗に会いたいと思った訳では無い。流れに任せているとこんな所まで訪れていた。

 真由菜は店の外から絵画教室の窓を見てみると、そこには優斗が戦っている姿が写る。凛とした顔をしていて昔の真剣な顔と全く一緒だと、真由菜の心が揺れている。ふわりと風に揺れているひまわりがそこには有る。

 そうして夜になって流石に空気が冷えている事にも気にしないで、ちょっと格好良いと思う優斗をただジーッと見ていると、その視線に気付いた人間が居る。

 それは優斗では無かった。

「マユナちゃん、そんな所で見てないでおいで。コーヒータイムにしようよ」

 それは穂乃果で、さっきまで横の椅子で暇そうにあくびをしていたのだったが、真由菜の事を見付けるとさっと店から出て、手招きをしている。

 真由菜はやっとの事で自分が寒かった事に気が付いて、その穂乃果に呼ばれたのを良い事に暖房の効いている店にお邪魔した。

「良かったんですかね? かなり篠崎が真剣になってますけど……」

 自分から寄ったのに、今更ピリついた雰囲気さえ有る優斗を見ると、真由菜は申し訳なくなっていた。

 しかし、穂乃果の方はそんな事を気にしている様子も無くて、静かにもしないでガタガタと真由菜の分の椅子を用意している。

「そんなに小声にならなくても、今のシノンくんには聞こえて無いよ」

 穂乃果はそう言いながら今度は、ガチャガチャとコーヒーの準備を始めるけれど、優斗は本当にそんな音が聞こえて無いみたいに絵を描き続けている。

 本当にその姿は戦っている様に真由菜からは見えていた。

「もう完成は近いんですかね?」

 もう絵はかなり進んでいて真由菜でも解るくらい。

 すると穂乃果は頷いた。

「そうなんだよね。もう締め切りも近いし完成してもらわないと、こっちも困るわ」

 ちょっと穂乃果はクスクスと笑っている。

 けれど真由菜からはそんなに微笑ましくは見えて無かった。ジーッと優斗の事を見つめている。

「若干、疲れてるみたいなんですけど」

 その優斗は今もスラスラと絵を描いていたけれど、その顔には明らかに疲れが見えていた。

 優斗の瞳は睡眠不足でアルビノだったかの様に真っ赤に充血していて、その下にはくっきりと熊を飼っている。若干コケた様にも思えるその頬にはパステルの黒が付いて傷の様にも思える。

 真由菜が優斗から穂乃果の方へと視線を移すと、こちらはやっぱり微笑んでいて、全く心配すらもしてないみたい。

「シノンくんは締め切りが近くなるとこんなんだよ。もう丸三日、眠ることも忘れて描いてる。余裕を持って完成させた作品は結構良い物にならなかったりしてるし」

 今まさに優斗は命を削る様にしてるし描いているのに、支援者で有る穂乃果はそれを気にするどころか良い事だと言うみたいに、コーヒーを片手に見ていた。

 今も優斗は絵を完成へと近付けている。

 段々とその絵は素晴らしさを増しているのだろうが、普通の人間で有る真由菜には本当に進んでいるのかはイマイチ解らない。ずっと優斗が絵の前をウロチョロしているので、真由菜からはその全体を確認は出来てなかった。

 それでも真由菜は絵を見ずに優斗の事を見続けていた。穂乃果と無駄なお喋りをする事も無く、ただ二人が優斗の事を眺めている。

 時折、穂乃果は暇そうにあくびをしながら優斗から目を離して、ケータイで暇を潰したりしているが、真由菜の方は淹れられたコーヒーも忘れていた。

 時間は段々と過ぎて、それぞれの一日が終わろうとしている。

 優斗は絵がもう完成する事から真剣になっていて、真由菜はそれを見詰めている。

 その横では穂乃果がスマホゲームでレベルアップをしていた。

 誰もが等しく同じ時間なのは確かで、更に言うなら誰もが楽しんでいた。

 すっかりと真由菜のコーヒーが減らずに冷めてしまった頃、穂乃果は椅子に座りながらサイドテーブルに伏せて眠ってしまっていた。当人も優斗に付き合って自分の趣味でしか無くなっている絵を描いていたので、結構疲れていた証拠だ。

 しかし、時々イビキなのか「グーッ」とちゃんと言葉にして唸っている。それは普段なら笑い話になるのだろうが、優斗はもちろん真由菜もそんな事には気付いて無かった。そんな穂乃果が三回目に唸った時にすくっと起きた。そしてガタガタと椅子を揺らして優斗の事を観察した。

「穂乃果さん、起きたんですか?」

 一応、真由菜も穂乃果が夢の世界に居た事には気付いていた様子で、音に気付いていた振り向いた。

 でも、そこには眠気眼のどよんとしたアホらしい穂乃果は居なかった。真剣な目付きで優斗の事を見ていて、まさに画商の穂乃果だった。

「もう完成だね……」

 真由菜の言葉なんて完全無視な穂乃果は、ポツリと呟く。

 すると優斗が手を停めて一歩絵から離れた。

「アレ? 本当に?」

 完成したのであろうか絵を眺めている優斗を見て、真由菜が穂乃果の言葉を加味して呟き返した。

「シノンくん、倒れるよ」

 そうは言いながらも穂乃果は椅子から離れて、今度は優斗の事を完全に無視って絵を眺めていた。

 一瞬、真由菜が穂乃果の言葉に「エッ」と思うと、優斗がフラリと揺れた。真由菜は、ずっと絵を見て邪魔な人間が居なくなりそうなのを良い事だと穂乃果が真剣に腕を組んでいる横を走って、優斗の元へと急いだ。

 パタリと崩れる様に倒れた優斗は、小学校の教室みたいな硬い木製タイルの床にぶつかる瞬間に真由菜に救われた。

 その今は軽くもなっている優斗の身体を真由菜は受けとめて居た。真由菜が優斗の事を見てみると薄目にはなっているけれど、一応意識は有るみたい。

 優斗は、ぼーっと真由菜の事を眺めていたけれど、段々とその表情には疑問の表情が浮かんだ。

「アレッ? 天使……じゃなくて水浦か。一瞬、死んだのかと思ったよ」

 どうやら優斗の意識は、まともではないと思われる様な言動があって、真由菜は顔をしかめた。確かに美しいものに見間違われたのは嬉しくて、自分がゴリラとかだったら、今支えている優斗のあたまなんて放り投げてしまいそう。けれど、真由菜は人間だったのでそんな事にはならなかったので、取り敢えずは自分の膝に居る優斗の事を眺めた。

 今にも優斗は眠ってしまいそうになっている。もう瞼を開けているのが、必死にも思える程だった。

「多分、シノンくん眠っちゃうから、あっちのソファに運んじゃお。今回も絵は最高だよ」

 ずっと絵を眺めていた穂乃果がやっと二人の元へ近付いて、真由菜に一言云ってから、辛うじて起きている優斗の腕を引っ張った。

 その時に穂乃果は絵の批評も云っていたけれど、余りに抽象的過ぎて解らない。そして穂乃果は「よいしょ」なんて肩を貸しているので、真由菜も反対側を引き受けた。

「篠崎……しっかり歩け! 残り三メートルくらいは頑張ってくれー」

 今にも眠ってしまいそうな優斗は全く歩いている気配は無くて、女の子二人に担がれていた。

「真由菜ちゃん残念だけど、それは期待出来ないから」

 重たそうに穂乃果が唸りながら云っていたので、真由菜も足に力を込めて歩いた。

 どうにか二人で優斗をソファへと投げた。その瞬間には優斗はもう眠ってしまって居た。

 穂乃果はもう「絵の発送をする」と忙しそうにその場を離れたけれど、真由菜はまだ優斗の眠っている姿を見ていた。

 子供の様にバッテリーの容量がゼロになってしまっている。顔を見ると優斗は本当に子供みたいで、恵羽と乃愛にもちょっと似ている気がして真由菜はクスッと笑った。

 するとそれが気に召さない様に優斗は眉を潜めるた。

 ちょっと動いただけだけど、狭いソファなので優斗の腕が落ちたので、真由菜が仕方が無いなと云った顔になる。真由菜はその優斗の腕を取って、元に戻そうとしたが掌を見て愛しそうに眺めた。

 その優斗の手にはパステルで汚れてしまって、ボロボロに思える。

 真由菜はその掌が誇らしくもなって、頬を近付けた。歴戦の勇者の手に祝福を与え、真由菜は自分もその強さに癒やされた。暫くそんな風にしてから、優斗をゆっくりと眠らせようとその部屋から絵画教室の方へ戻った。

 すると発送作業をしているかと思っていた穂乃果が、コーヒーを片手にゆっくりと座っていた。

「急ぐんじゃなかったんですか?」

 そこには真由菜の分のコーヒーも用意されていたので、近付くと文句みたいに云った。

 そんな言葉に穂乃果は微笑んだ。

「だって、勿体無いじゃない。こんなに素敵な絵はまだ私達以外は誰も見てないんだよ。ホラ、真由菜ちゃんもジックリと眺めなよ」

 穂乃果は今、完成したばかりのcinonの絵を眺めて、笑顔になっている。

 真由菜はまだしっかりと絵を見てなかったと思って振り返った。そこには優斗の戦っていた証が有った。

 青くどこまでも透き通っている北の街の空に、可憐なひまわりが風と遊ぶかのように揺れている。良く見るとそれは今真由菜達が住んでいる街で、その風景自体はちょっと寂しそうにでも有って、優斗の心から見た風景になっているのだろう。でも、そこには寂しいばかりでは無くてちゃんとお日様が綺麗に輝いて、そこに照らされているのは真由菜の持っている絵にも良く似ているひまわりなのだけれど、こちらは三つの華が仲良く並んでいる。

「この絵、あたしも好きです」

 真由菜はやっと完成した絵を眺めると、すんなりと自分の思った事を話していたけれど、それを聞いていた穂乃果は楽しそうに笑っている。

「この絵はきっと今のシノンくんの心情を現してるんだろうね。彼は都会の街は好きじゃないから、暗さすらも有る。それでもそこには光明が有って、ひまわりを照らしている。三つあるって事はどうやら真由菜ちゃん達なんだろうね。まあ、でもこれは私の個人的な意見でしか無いけどね」

 絵画教室の木の丸椅子に座ってもう絵の方では無くて、穂乃香は真由菜の事を見詰めていた。

「うーん、あたしもそう思っちゃいました。多分、きっとそうなんでしょうね」

 この絵を描こうと思った時の優斗を知っているので、真由菜は穂乃果の云っている事が有っていると思っていた。

 真由菜はずっと絵の方ばかりを見ている。それはもうトランペットを見詰める少年。ルーベンスを見ているネロ。ひまわりを眺めている真由菜となっていた。

「絵画なんて見る人の自由にストーリーを付けちゃえば良いんだよ。好きならそれで良い。さて、名残惜しいけど梱包しちゃおうか……真由菜ちゃん、手伝ってくれる? バイト代は無いけど」

 申し訳無い様な事を、穂乃果は全然そんな雰囲気も無く笑顔で頼んでいた。

 でも、真由菜の方も断る事は無くて「ハイ。構いませんよ」と二つ返事で作業を進めた。

 とは言え二人は最低限の梱包をするだけで、ちゃんと穂乃果は明日、運送屋にちゃんと頼んでいた。なのでちゃっちゃと梱包を終わらせると、穂乃果は絵画展の出品書類を作り始める。そこには絵の題名を記す欄が有ったけれど、そこで穂乃果のペンはとまってしまった。

「どうしたんですか? もしかして題名、聞いてないとかじゃ無いですよね?」

 真由菜が冗談として云った。

 しかし振り返った穂乃果は「忘れてた」と云って、青い顔をして真由菜の事を見たかと思えば、椅子を蹴り飛ばして今は子供の様に健やかに眠っている優斗の元へと走った。

 優斗は疲れ切って泥の様に眠っている。

 穂乃果がどんなに泣き叫んでも、襟元を掴んで脳みそをシェイクしても起きる事は無かった。

 まるで優斗は死人の様だけど、一応呼吸もそして測っては無いが脈も有るだろう。だけどそれは問題だった。まだ青い顔をしてサイドテーブルに戻った穂乃果は、疲れた様に椅子に座るとコーヒーを一気に胃に流すとキッと顔を引き締めた。

「こうなったら私達で考えよう! 真由菜ちゃん良い、題名有る?」

「そんな事で良いんですか?」

「緊急事態だから……」

「それにしても、まずは一つくらい穂乃果さんが考えてくださいよ」

 すっかりと丸投げをする気でいた穂乃果だったが真由菜に断られたので、渋柿でも咀嚼しているみたいな顔になっている。

「私ってネーミングセンス無いんだよね。うーん、街とひまわり?」

 悩んで首を捻ったのに穂乃果の案はこんなものだった。

「それって絵を見たまんまですね……悪くは無いとは思いますけど、それで穂乃果さんは良いんですか?」

 ずっと不服ばかりの顔をしている穂乃果に、真由菜は腕を組みながら云っていた。

 するとキーッと蝶番が軋む様な音がしているみたいに、ゆっくりと穂乃果が真由菜の方を見る。

「全然良くない。もっとアーティスティックでかつ分かりやすくが理想」

「だったら、シンプルにひまわりにすれば良いんじゃ無いですか?」

 すんなりと答える真由菜だったけれど、そんな言葉に穂乃果はあたまを抱えて苦悩する様に蹲ってしまった。

「それは真由菜ちゃんの持ってるひまわりの絵の題名にしてるから、私は使いたく無いんだ……」

 聞いておいて頑固だなと思いながら、真由菜は一応考えを続けた。

 しかし、穂乃果の方は考えている様子も無く、真由菜に任せっきりにしている。

「それじゃ、あひまわりれいとりーってのはどうですか?」

 すると穂乃果は首を捻った。

「レイトリーってどう言う意味だっけ? スティービーワンダー?」

 穂乃果はどうしてか横に有ったサングラスを掛けて、ピアノを弾く真似をしている。

「えーっと、それは知らない……レイトリーは英語で最近のとかって意味」

「なるほどねー。真由菜ちゃんの持ってるひまわりがオリジナルで最近のバージョンって事か。それで良いんじゃない?」

 一瞬真由菜に知らないと言われて残念がりながらも、穂乃果は静かにサングラスを置いてから賛成していた。

 けれど真由菜の方はちょっと驚き慌てる。

「あたし、適当に考えたんだけど。そんなんで良いんですか? 正式な題名になっちゃうんでしょ?」

「そうだね。今回の絵画展はお客さんも審査投票するし、買えちゃうから、ひょっとしたら有名作品になるかも。真由菜ちゃんはそんな絵の命名者になるんだ」

 そんな事を言いながら穂乃果はもうサラサラと申請用紙を作ってしまった。もちろん題名の欄には真由菜の考えたひまわりれいとりーと有る。

「ちょっと待ってくださいよ。あたし、そんな責任負えませんって」

「気にしないで良いよ。シノンくんが題名を考えないで眠ってしまったのが悪い! さてこれで明日発送すればオッケーだから完成お祝いに一緒にご飯でもどう?」

 まだ反論しようと思っていた真由菜だったけれど、穂乃果にご飯と言われると、お腹が「くぅー」となってしまった。

 真由菜は晩ごはんを採ってなかった事を思い出して、ちょっと照れて頬を赤くしていた。

 すると穂乃果は面白そうに笑って、適当にサイドテーブルの片付けをすると、さっさと真由菜の腕を引っ張って画廊を離れてしまった。

 それから二人は画廊のほぼ向かい側に有る焼き鳥屋さんで晩ごはんとお酒を楽しんだ。

 真由菜からは優斗の昔話をして、穂乃果の方からはシノンとしての歴史を語り、気分良くなって真由菜はそれで家に帰ると、誰も居なくて真っ暗な部屋でそのまんま着替えもしないで眠ってしまった。

 cinonの新作で有る絵は絵画展にしっかりと出品されて、上々の評判を呼ぶ様になった。元々ファンの間ではあのひまわりが非売品になっている事からちょっと有名になっていたので、その新バージョンと言う事で良い評判を呼んでいる。

 でも、そんな事は画商で有る穂乃果くらいしか知らないで、真由菜もそして優斗さえも普通の暮らしを進めていた。

 優斗はあれから丸一日眠り続けて、やっと普段の生活に戻りやはりカラオケ屋でのバイトに戻った。

 数日間の休みは店長に許可をもらってはいたのだが、前島と仲原には意味も無い文句を言われてしまった。

 そんな日常も一週間が過ぎた頃、絵画展でcinonのひまわりれいとりーが話題になっていると、優斗がいつもの様に開店作業をしていると、時間ギリギリになって仲原が出勤すると急いで近付いていた。それは恋人の前島の所では無くて、優斗に向かっていた。なので笑顔で迎えた前島は無視されて通り過ぎたので、不憫にもその表情が悲しくも凍っていた。

「篠崎さん! ネットニュースにcinonの絵が人気ってのが有ったんですけど! 私ビックリしちゃって今日は就業時間に間に合わないかと思いましたよ」

 ピョンピョンと跳ねながら話している仲原だが、優斗はそれよりも恋人に無視をされて落ち込んでいる前島の事が気になって、そっちの方を見ていた。

 すると前島は「ボンッ」と煙を吐きながら再起動したみたいで、ずっとさっきの笑顔を保ったまんまで振り返ると、ブリキのロボットみたいな歩き方で二人の元に近付いた。

「シノくん……俺はとても悲しい」

「仲原さん、副店を無視ったからショック受けちゃってるよ」

「別にもうこんな事は慣れた! そうじゃなくて、どうして俺達に有名になっている事を言わなかったんだ」

 どうやらこの二人の関係は、前島がとことん仲原に対して弱いらしい。

 それでも仲良くしているのだから、優斗からは羨ましくも思える。

「言わなかったって言うか。俺も絵の評判については画商から全く教えられてないんすよ……仲原さんそのニュース見せてくれる?」

 すると仲原は「うん。良いよ!」と言うと自分の携帯を起動させると直ぐにニュースサイトが表情される。本当にさっきまでこのニュースを呼んでいたと言う事だ。

 それはニュースアプリで、別に絵画の事ばかりが有る専門サイトでは無くて、今話題になっているものを並べたその一つに載っていた。そこにはちゃんとcinonの名と今回のひまわりれいとりーの写真までが載って、説明には若手の人気画家の新作となっている。

 読み進めるとオリジナルのひまわりの事までも記されていて、今回の作品はcinonが徹夜をしてまで描いていたと言う状況までが発信されていた。この情報の細かさから優斗は身近な画商の顔が浮かんだ。ソースはその人物。

「綺麗な絵ですよね。買ったらどのくらいになるんだろ? それとオリジナルの方は元よりもっと価値が上がるって有るから、篠崎さんまだお金持ちになれますね」

「うーん、でもオリジナルの方のひまわりは売っちゃったからな……因みに今回の作品はまだ買えるから副店、彼女へのプレゼントにどう?」

「因みに、このひまわりれいとりーの相場ってどのくらい?」

 三人が顔を近付けながら仲原のスマホを見て話をしていた。

 前島は優斗から適当な相場を聞いて、がっくりと肩を落として、カラオケ屋店員の給料じゃそんなに簡単に買えない事を知っていた。

 もちろんこのニュースはコアなものではないので、一般人が見る。すると優斗を知っている者だったら、かなりビックリなニュースになるのだ。

 そんな事に驚いていたのは仲原だけでは無くて、家事を全て終わらせて残りは子供達のお迎えをするだけになっていたが、取り敢えず暇が有ったのでペットボトルのレモンティーで、ゆっくりと時間を過ごしていた真由菜も気が付いた。ニュースをしっかりと読むと、真由菜は嬉しそうな顔になった。

 携帯の時間を見ると、保育園のお迎えの時間にはまだ余裕が有ったけれど、この嬉しい事を誰かに分け与えたいと出掛ける事にした。保育園から恵羽と乃愛を家へと連れ帰ると、真由菜はソファに座って二人を呼ぶと膝に乗っけてニュースを見せた。

 まだちょっとのひらがなを憶えている合間の恵羽はもちろん、全く文字の読めない乃愛はポケーっとした顔をするばかり。

 真由菜もこうなるとは解ってはいたので、説明をしようとひまわりれいとりーの画像を表情させると、その瞬間「おっちゃんのひまわりだ!」と乃愛が云った。

 確かに同じひまわりを題材にしている作品で、cinonの絵と共通点は有るのだけど、詳しく無い人間が見るとそんな事は解らない。けれど乃愛はハッキリとそう言い切っていた。

「乃愛? これがおっちゃんのって解るの?」

「あのね。あのひまわりと似てるけど、違う人が描いてるのかもしれないよ」

 真由菜に続いて、恵羽が壁に有るひまわりを指差しながら乃愛に教えている。

 でも、乃愛は笑っていて自信も有るみたい。

「だって、おっちゃんのひまわりだよ」

 困る表情でも無く乃愛は云っている。どうにも自信は有るみたいだけれど、そんな事の理由なんて乃愛程の子供にある訳は無い。ただ単純にそう思っただけなんだけど、乃愛は自分を信じている。

 真由菜はそんな乃愛の事を見ていたかと思うと、急にギュッっと抱き締めた。

「そうだよ。良く解ったね」

「ひまわりれいとりー……?」

 真由菜が乃愛を抱っこしているのでその手から恵羽がスマホを取って、画面をスクロールさせるとその絵の題名を読んでいた。

 すると真由菜はそんな恵羽も抱っこした。

「この題名はママが付けたんだよ。ひらがなだから子供でも読めるでしょ」

「でも、意味わかんないよー」

 楽しそうな真由菜だったけれど、そんな人に抱っこされている恵羽は、まだ難しい顔をしている。

 真由菜はれいとりーの部分の意味を説明しているけれど、スマホは今度は乃愛の元に有る。まだ字は読めないので画像ばっかりを見ているだけだったけど、こんな操作くらいは乃愛みたいな子供でも出来る。乃愛は画面をスクロールさせて、優斗の姿を探すけれどニュースにはその写真は無くてつまらなくなったのか真由菜の方を不服そうな顔をして睨んだ。

「ママ! それでおっちゃんのひまわりがどうしたのっ?」

 もちろん字が読めない乃愛にはニュースの意味なんて解らないので、スマホを掲げて怒っていた。

 イマイチ恵羽はれいとりーの英語の意味を理解はしていなかったけれど、半分くらいは納得していたので真由菜は横で怒っている方の乃愛の相手に移った。

 もちろん恵羽もニュースの全て、特に漢字が読めてなかったので意味は解って無かったので、そちらの方が気になった。

「あのね。おっちゃんが絵のコンクール……うーん、競争に出したのね。それでとても有名になってるって事」

 真由菜が考えながら子供でも解るように説明をしたが、恵羽と乃愛はポカンとしていた。

 真由菜はまだ理解出来なかったかと、ちょっとあたまを抱えた次の瞬間だった。子供達は急に真由菜の元を離れると、部屋を走り始め喜びの声をあげている。

 ちょっとうるさくって、真由菜は自分の事では無いのだけど、嬉しくなって微笑んだ。子供達は散々騒いでからやっとの事で落ち着くと、次は「おっちゃんと会いたい」と言い始めた。

 こうなると子供のパワーは恐ろしくて、真由菜はそんな二人に悩まされる事になった。部屋の片付けをしようと、洗濯物を取り込んでいようと、晩ごはんの支度を始めても、真由菜の周りにはロープレの様に恵羽と乃愛が続いた。

 そして合唱の様に優斗に会いたいとの事を、子供の思い付く限りの言葉で云っている。もちろん真由菜も優斗に「おめでとう」の一言を言いたかったけれど、一応そこは自分は子供では無いので、急がない事にしようとおかしな頑固さを表していた。

 あまりにもうるさいので自分への言い訳に「子供の頼みだから」と思って、やっとの事で優斗に連絡を取る事にした。けれど真由菜がメッセージアプリで連絡をすると、優斗からは「バイトだから今度」と言う返事が有った。

 それはもう子供達は残念そうに嘆いたけれど、一番落ち込んだのは真由菜だった。ごはんの支度をしていたのにふとダイニングチェアに座って、子供達を眺めた。

 もう子供達は立ち直ったのか恵羽が人形で遊び始めると、乃愛もそれを追従していた。

 真由菜はそんな既に楽しそうな二人を見ていると、どうしてこんなに自分が落ち込んでいるのか不思議になっていた。ポッと優斗の笑顔と絵を描いている姿なんかのこの最近の風景から懐かしいまだ自分が恋をしていた時の幻想を見ていた。

 真由菜はそんな事を忘れる様に、自分の頬を両手でバチンッと叩いた。かなり強かったので遊んでいた恵羽と乃愛がどうしたのかと見るけれど、真由菜はほっぺたを真っ赤にしながらも微笑んだ。すると次にスマホの通知音が流れた。

『明日のバイトはラストだけだから、夕方までは暇なんだ。子供達と遊びたいけど、そっちの都合は?』

 それは優斗からのメッセージだった。

「明日ならおっちゃんも会えるって!」

 そのメッセージを見た真由菜は、まだポカンとしていた恵羽と乃愛に伝える。

 すると二人の顔は段々と綻んで笑うと走り始めた。

 また騒がしくなったけれど、真由菜も楽しくなって晩ごはんの支度へと戻った。でも、まだちょっと頬は痛かったので自分の手加減の無さを恨む。

 それから真由菜達は楽しく晩ごはんへと進むけれど、そこには唯一テンションが違う徹也が帰っている。まあ、そんな事なんて気にしてない子供達は楽しそうにしていると、難しい顔をして徹也が真由菜へと聞いた。

「チビ達はどうしたんだ? 普段よりうるさいけど」

「あー、えっと、それはね」

 真由菜は、優斗の事を云ってしまうのを悩んでしまった。

「ひまわりのおっちゃんがね! 有名になったんだって」

 迷っていた真由菜の事なんて気にしないで、恵羽がその事を伝えてしまった。

 だから、それからは徹也の気分は斜めになってしまった様で、うるさい子供達とは対照的に普段より当社比で三割減の言葉少なくなってしまった。

 もちろん普段もあまり喋らない徹也なので、それはもう言葉を忘れてたしまったかの様で、真由菜が用事を聞いても返事は無い程で、怒っている。

 夜が更けて子供達が眠って静かになった頃、真由菜が家事を終わらせて冷蔵庫のビールを取って、リビングの方へと移動しようと思った時に徹也の事を見た。するとそこはドヨンとした印象しか無くて、重たいので真由菜はつい手で払ってしまいそうになる。

「まだ、あの絵描きと付き合ってるのか?」

「うん。そうだけど」

 徹也が話をし始めた事からちょっとだけ空気が軽くなった気がして、真由菜はソファに座ってビールの缶を開ける。

 対する徹也の方は、テレビの方を見ながら真由菜とは一メートル程離れた所に座っている。もちろん徹也の視線は、真由菜の方には無くてテレビを向いている。

「あまり関心しないな……」

「どうして? あたしの友達なんだから自分の勝手でしょ? もう貴方には仲良くなってとか思ってないよ」

「友達か……」

「言いたい事があったら云ってよ!」

 視線も合わさないのにブツクサと言う徹也の事に、普段なら気にしないで居られる筈の真由菜だったのに、つい腹がたって言葉が荒くなっていた。

 すると徹也は振り返って、やっと真由菜と視線を合わせるけれど、その瞳はとても好意的とは思えない。

「俺は、マユナがアイツと単なる友達だとは思ってない」

「それって、どう言う事なんよ?」

「だから、浮気をしてるんじゃ無いのか?」

 至って真剣な徹也の言葉だったのだが、真由菜はそれを聞いた瞬間に面白くてつい笑ってしまいそうになってしまった。

「ふはっ、あたしと篠崎が? 無いって」

「別に俺は浮気くらいで、どうとは言わない」

「だから、それは無いって」

「だけどな、浮気ってのは世間体が悪いから辞めろ」

 ずっと笑いながら話していた真由菜だったけれど、徹也の今の言葉を聞いてそれが遠ざかった。

「世間体が悪いから、浮気を怒ってるの?」

「こんな事がもし会社にでもバレたら、俺はどうなるんだ」

「ちょっと待って、今は浮気自体を怒られてるんじゃ無いの?」

 段々と真由菜の方も怒りを言葉に載せていた。

「浮気が世間にバレたらって、怒ってるんだよ」

「それっておかしくない?」

「どうおかしいんだ」

「普通は浮気している事の方を怒るんじゃないのっ?」

 もう二人は言い合いになっていた。

 特に今はもう真由菜の方が子供達が部屋で眠っている事も気にしてられないボリュームになっている。

「そこは別に構わないよ。マユナが誰の事を好きだろうと」

「あたしの事を馬鹿にしてるの?」

「どうして、そんな話になるんだ?」

「貴方が浮気をしてるって勘違いしてくれた事、あたしはちょっと嬉しかったのに」

「意味が解らない」

 もう徹也はさっきの強い視線が無くなって、ポカンとしている。

「だったら、もう良い!」

 マユナはビールを少しも飲む事も無くソファを離れると、キッチンへと向かって流しに缶をカツンッと捨てた。

「取り敢えずだ、噂になる前にアイツとは別れろ」

 徹也は真由菜の事を追うことも無く、視線をテレビへと戻して話してた。

「篠崎とは友達。確かに彼からは好きだって言われたけど、貴方と結婚してるからって断ったよ。今、思うと馬鹿みたいだった!」

 真由菜は足音も強くキッチンから離れると、廊下に続くドアの所で強く語っていた。それは涙に潰されている声でも有ったが、真由菜は返事も聞こうとせずに、子供達の部屋へと向った。

 ドアを開いてバタンと閉じると、ポロポロと涙が落ちてそのまんま座り込んだ。ドアに背を預けながら真由菜は静かに泣いていた。

 子供達はそんな事にも気付いて無い様子で、すっかり夢の世界。

 真由菜だけが哀しみの端に居る。

 暫く泣いていた真由菜だったけれど、この場所に徹也が訪れる事も無いので涙を拭って、並んで眠っている恵羽と乃愛の方へと這う様に進んだ。

 月明かりに照らされている二人の顔は確実に天使で、真由菜の瞳は微笑みと共に細くなった。そして真由菜はとても愛おしい二人の子供達を、両手で抱き締めて眠りについた。

 気が付くと恵羽が真由菜にへばり付くみたいにしている。

 反対側の乃愛は真由菜のあたまをずっとヨシヨシとしている。

 泣きながら眠ったからなのか真由菜の頬にはまだ涙の跡が有って、そんな事に気が付いた乃愛は幼いながらも母親を救けようとしたのだろう。

 真由菜は嬉しくって再び泣きそうになったけれど、「乃愛」と呼ぶと恵羽と一緒に強く抱き締めた。

 目覚めの悪い恵羽も真由菜に抱きしめられて起きると、クスクスと笑った。

 それは伝染すると三人は華やかに笑っていた。

 真由菜がリビングへと移るともう徹也の姿は無かった。普段はどちらかと言うと仕事に出掛けるのはゆっくりな方で、こんな時間はまだ眠っているのに、やはり顔を合わせ辛いのか今日は居なかった。

 段々と北のこの街にも夏を近付けている。もうとうに本州では梅雨が終わり始めて、うだる様な暑さになっているけれど、この街はまだ半袖になると若干寒いと思わせる季節でも有った。

 優斗は例の地下街で似顔絵屋をしていた。昼になるとそれを畳んでしまって、天気の良い外を歩き始めた。やはり風が吹くと涼しいと言うより寒いと思ってしまう事も有る。暦だけで服装を選んだ優斗は自分の育った街との違いを、こんな所でも思い知らされていた。でも、それは哀しい事では無い。確かに優斗は地元が好きだったけれど、そこにもう愛しい人が居ないのだから。今はそんな人の近くに居ると思うと、この街がとても美しく思えて優斗の想像を超えていた。

 優斗は真由菜との約束の郊外に有る高台の公園へと向うけれど、まだ時間には十分過ぎる余裕が有るのでバスに乗る区間を減らして、ゆっくりと歩く事にした。

 地下街からは華やかな都会の街で、人も過ごしやすい季節と言う事も有って賑やか。いくつかの停留所を過ぎると丁度バスが通った。なので気分に任せてそこで乗ると一つ前の停留所で降りてまた歩く。

 公園を眺めると近くのテレビ局がロケをしていた。馬鹿みたいな地方バラエティだけど人気が有る。そんな撮影を眺めながら歩いて居るとやはり時間が余ったので、そのまんま進むと穂乃果の画廊の方へと向う。

 優斗は時間潰しにゆっくりとお茶でもしようかと思った。まあ、穂乃果が居たならそんなにゆっくりは出来なくて、お喋りを聞かされると思いながら。

「シノンくん、今日はデートなんだ! それはお邪魔しないとな」

「別に構いませんよ。そんなロマンチックじゃ無いでしょうけど」

 やはり穂乃果は賑やかで優斗は返事も適当にして、画廊の方を眺めていた。もう真由菜には穂乃果の所に居るとメッセージを送っているので、この場所で待つ。

「それでさぁ、シノンくんはマユナちゃんの事は、どのくらい真剣な訳?」

「まあ、俺はどこまでも真剣ですけど……」

「けどって、どう言う事なんだよ」

「彼女は結婚してますからね」

 画廊には自分の絵ばかりだけど、時々違う人の作品も有るので優斗はそれを眺めている。

「結婚なんてのはちょっとした障害だよ。私の恋愛話を聞きたいか!」

「聞いたことあります」

「だったら、そんな弱気な事を云ってるんじゃ無いよ。ぶつかりな。砕けるなら粉々になるまでだ」

「それって応援してんすか?」

 すると穂乃果は黙った。外を見ながら自分の好きなコーヒーの薫りを楽しんでいる。

「私は勝算が無かったら、こんな事は言わ無いよ」

「俺って、一度当たって砕けてるんだけど」

「ホントにねー。それでも好きって言うんだから……」

「呆れられても困るけど」

 タハハハって二人は楽しそうに笑いながら、それからも話を続けていた。

 結構、真面目な事だったり明らかに世間話で、どうでも良い事をコーヒーのアテにして話をするから暇なんて直ぐに潰れてしまって、優斗がふと窓の外の人影に気が付いた。人間は気にしていると好きな人の事を遠くからでも見付けられる事も有る。優斗もこの時は真由菜を見付けていた。

 真由菜は窓から二人の事を見付けた様で手を振っている。

 すると辛うじて窓に視線の高さが届いている恵羽の方だけがジャンプをして、優斗へと真由菜と一緒に手を振り始めた。

 そうしていると今度は窓からは見えてなかった乃愛の事を真由菜は抱っこした。もちろんこちらも笑顔になって手を振っている。

 優斗はみんなに笑顔になりながら手を振り返しているが、隣の穂乃果は三人に手招きをしていた。

 するとそれを見た恵羽は走り始めて、ガチャンと画廊のドアが開いてパタパタと体重の軽い足音が聞こえる。恵羽は走って優斗達の元に現れると、ニコッと笑った。

 優斗と穂乃果の二人が両手を広げる。

 恵羽はそれを見て走り始める。笑顔の恵羽は、穂乃果の元を通り過ぎて優斗へと抱き付いた。

 まだ穂乃果は朗らかな笑顔で居るけれど、ゆっくりと振り返ったその瞳は表情とは違って居た。

 でも、優斗はその事で更に笑顔になって、恵羽と一緒に不憫な穂乃果を眺めた。

 そんな穂乃果の元にも天使は現れる。

 走った恵羽とは違い真由菜と一緒に登場した乃愛が、穂乃果の服を引っ張っていた。

 それに喜んだ穂乃果はギュウっと乃愛の事を抱きしめていた。

 取り敢えず三人もティータイムに参加する事になって、子供達にはジュースと真由菜にはコーヒーが淹れられる。

 この店は画廊兼教室の筈なのにドリンク類が充実してしまって、簡単なメニューまでも有るのでどんな所なのかも解らなくなってしまっている。それでもティータイムなんて子供達には暇な時間でしか無いので、退屈し始めた時に優斗がその辺に有った画材を集めて、恵羽と乃愛にらくがきをさせ始め、豪華にも教室を始めた。

 恵羽と乃愛を向き合って座らせると、お互いの似顔絵を描かせる。とは言え子供の絵なのでヘタクソなのだが、それを優斗が手を加えている。

 横の方では穂乃果と真由菜が並んで、その様子を見ていた。

 すると穂乃果は並んで座って居たけれど、更に近付い真由菜だけに聞こえる様に話し始めた。

「マユナちゃんはシノンくんの事をどう思ってるの?」

「友達ですよ。仲の良い」

「でも、シノンくんが真由菜ちゃんの事を好きなのは、知ってるでしょ?」

「まあ、それは告白されましたから」

「それでも、君達は友達なの?」

 そんな事を言われて、真由菜は困ったみたいに眉間にシワを寄せていた。

「あたしは結婚してますからね」

「二人って似てるよね」

「どうしたんですか?」

「さっきシノンくんに同じ質問をしたけど、答えまで一緒だよ。可哀想に……」

「可哀想? 篠崎がですか?」

 その時に真由菜は優斗の事を見た。乃愛の方の絵を手伝っている。まだ幼いので人間を描いてるくらいしか判断出来ない様な絵を、優斗はちゃんとそれを恵羽の似顔絵にする。

 それは見事だったみたいで、乃愛が驚くとその声に恵羽も自分の席から離れて似顔絵を確認すると、飛び跳ねた。それはビックリする程だったらしく、恵羽が「似てるー」とはしゃいでいた。

 二人と話している優斗はにこやかで、とても幸せそうに真由菜からは見えていた。

「うーん、シノンくんだけじゃ無くて、真由菜ちゃんも」

 そんな風に真由菜が優斗の事を見ていたので、穂乃果は手を振って違うと云っていた。

「あたしが? フーム……そう見えますかね?」

「見え、はしないよ」

「ですよね。あたしは普通に幸せ。可哀想では無いですよ」

「でもね……主婦って様々な成約が有るでしょ」

 すると真由菜は、この最近の自分の疑問が浮かんでいた。

「まあ、それは有りますよ。でも、そんな事で嘆いたりはしませんよ」

「ホントに? グチくらい言いたくならない?」

「言いたいけれど、そればっかりになるのはヤだなって」

 今までは二人が優斗達の方を見て話していたけれど、穂乃果は真由菜の方を向いてその両肩を掴んだ。もちろんこうなると二人は見つめ合う事になる。

 真由菜からは穂乃果の優しいけど、今は怒っている様にも思える表情が浮んでいた。

「真由菜ちゃん? 主婦だって弱く、泣いちゃっても良いんだよ」

「そんな、あたしは泣きませんよ」

「辛い事は無いの? シノンくんに言えないんだったら私が聞くから」

「心配してくれなくても、あたしは問題無いです」

「そうは見えないよ」

 優しかったその言葉に、真由菜の右目からは一粒の涙が流れていた。泣くつもりなんて全く無かったのに。自分でも頬を伝う冷たさに気が付いて驚くほどだった。

 自分はこれで普通だと思っていた今の結婚生活での疑問だった想いが、ポトリポトリと真由菜の心に落ち始めた。それはとても重たくて時には痛い。ずっと気にしないでいた事に、真由菜はちょっと馬鹿らしくも思える程の辛い部分だった。

 自分でもわからなかった事なのに、どうして穂乃果に指摘されたのかは解らなかったけれど、真由菜はそれから涙を次々に流して居た。

 もちろんそんな事になっているので、穂乃果に縋り付いて泣いている真由菜を優斗達が見付けたのは直ぐだった。

 母親がそんな事になって泣いていたので、まだ似顔絵は八割程度の完成状況だったのに、恵羽と乃愛はそんな物をほったらかして真由菜の元へと急いで近付くと抱き付いた。

 もう乃愛に至ってはその涙が伝染ってさえいる。

 すると穂乃果は困った様な表情をしながら、優斗へと笑顔を送った。

 優斗はその笑顔の意味が解って、四人の方へ近付くと、子供達のあたまをヨシヨシとした。

 母親が泣いている姿を見てショックな二人はどうしたら良いのかも解らず、真由菜に引っ付いていた。

「ゴメンね。ちょっとママ心が痛くなっちゃったの。直ぐに治るから、ねっ」

 どうにか涙を拭って消そうとした真由菜は、子供達にそう伝えた。

 でも、まだ真由菜の心には雨が降っていた。恵羽と乃愛の心配の傘でしのげるが、降り続きそうだ。

「私が話を聞くからみんなは笑ってよう。ホラ! シノンくん、お姫様と公園で遊びなさい。これは命令だよ!」

「解りました。それではお姫様方と王女様は参りましょうか、相談役の召使いも一緒に」

「ちょっと待て! 私が召使いならシノンくんの役目は?」

「俺は王子様だよ」

 優斗と穂乃果がおかしな呼び合いをしているので、子供達は段々と涙は無くなって、いつしか笑い声になっていた。

 賑やかになると真由菜の所からも簡単に涙は消えてしまって、クスクスと笑い始めたので優斗と穂乃果がその表情を見て、顔を見合わせると頷いていた。

 みんなで画廊の近くに有る広い公園へと出掛ける。まだ心の痛くなる話をしていないけれど、真由菜は穂乃果と並んで歩いて、前を進む子供達を眺めていた。

 恵羽と乃愛が楽しそうにスキップまでもしている。その幼い手は優斗と繋がれていてブンブンと振られているから、その楽しさが周囲にまで伝わる。暖かな優しい手は安心ばかりを運んで愛情が有る。それは子供だから意味が解らなくてもちゃんと安心として伝わっている。

 恵羽の方は元々怖じけないので、優斗の事を自分の友達にでも思っているのだろうか、とても仲が宜しそうに話をしている。

 でも、反対側の乃愛は人見知りで男の人が苦手だったのだけれど、もう優斗は例外になっているみたいで、恵羽と仲良く話しているのを見ると自分もと腕を引っ張っている。

 そんな二人と手を繋いでいる優斗は、両方に引っ張られ困りながらも、とても嬉しそうでもあった。

 店から公園はすぐ側。芝生が広がる丘になっている所を見付けると、子供がどうなるかなんて解るだろう。遊び相手の手を引っ張って走った。

 優斗が子供達に引かれて走って、坂を登っていた。

 穂乃果はそんな子供達の底無しのパワーの犠牲者となる優斗を見送って、自分は座る所を探した。もちろん真由菜の事を連れて。

「それじゃあ、話を聞こうか」

「えっと……」

「まあ、急に話せと言われても困るよね」

「そうですね。それにやっぱ図々しいかなって」

「気にしない! おばさんは話好きなんだよ。だから私の物語から聞いてもらおうかな」

「ホノカさんの……?」

 真由菜がキョトンとした。

 けれど穂乃果はそんな事を気にもしないで、コクリと頷くと「そう……」と云ってから高い空を見上げた。鳥達が楽しそうに舞っている。

 真由菜が穂乃果の方から視線を移すと、自分の天使達が居た。そこには互いに楽しそうに笑っている優斗も居たので、心は落ち着いてしまった。

「私は昔、かなりなわからず屋だったんだよね」

 穂乃果はそんな風に話し始めた。それはちょっと昔の話。まだ穂乃果が優斗と出会う前の頃になる。

 穂乃果はその時はまだ画廊なんてなるつもりなんて無くて、趣味で時々絵を描いている普通の会社員だった。まあ、そうは言うけれど穂乃果は祖父の画廊をちょくちょく訪れては、絵を鑑賞してみたり、時には買い付けに同行する事もあった。祖父はもう年老いて、画廊も畳もうかと言う話まで有ったのだけれど、その頃の穂乃果はそこを継ぐ気も無くて、もう風前の灯火とも言える状況だった。しかし、そんな時に近くのもっと有名な画廊からの合併の話が有った。でも、それは実質的には祖父の画廊を買い上げて二号店にすると言う話。相手の画廊はもう次の経営者も息子がなる事になっている。だからその息子に二号店を任せたいと、穂乃果の祖父の店に目を付けたのだ。

 しかし穂乃果はこの提案を良い様に思ってなかった。祖父も自分が良いと思った絵を売っていたから、その点で穂乃果は好きだった。それが違う売れる絵ばっかりになってしまうのはイマイチ納得出来なかった。

 なので、その時穂乃果は「私があの店を引き継ぐ」なんて言い始めて、家族を困らせてしまった。祖父もそんな孫に、呆れながらも継いでくれると言うのは嬉しいから悩んでしまった。

 ハッキリ言うと祖父の店はあまり繁盛してない。老人の暇潰し程度には丁度良いくらい。穂乃果が店を継いでまともに生活する程では無かった。

 そんな事から合併相手から説得してもらう事になった。売れる経営と画廊の難しさを穂乃果に学ばせる為。そこで説得相手として現れたのは橘尚良だった。

「それで、穂乃果さんは旦那さんと出会ったって事ですか?」

「まあ、そうだったねえ」

 聞いていた真由菜は普通に昔話を聞いているつもりになってるが、まだドラマチックでも無かった。

 しかし穂乃果の方はまだこんなのは本題にもなってないと言う表情をしている。

「それから画廊を継いで、めでたしでは無いんですか?」

「それまでには様々な障害が有ってね」

「障害……?」

 そんな事を言う穂乃果に真由菜は首を傾げていた。

「説得の為に現れた私のダーリンとは絵の趣味が合った」

 経営の話を聞く為だったのに祖父の画廊で会った二人は、そこに有った絵の話になった。

 並んでいる絵は穂乃果のお気にばっかりで、尚良もそのどれもが好きだった。

 そうなってしまうと売れる画廊なんてどうでも良くなって、尚良も自分の好きな絵ばかりの店の夢を語り始めた。二人はとても仲良くなったので穂乃果は合併を了解して、その店の従業員になる事を望んだ。

 でも、そんな事を簡単に許される筈は無い。尚良の父は売れる画廊を目指して居たのだから反対された。すると尚良もそんな画廊の経営が難しい事も解っては居たので、穂乃果との夢は消えてしまって元の売れる方へとシフトチェンジへとなった。

 それでも二人は夢を叶える為に売れる画廊の方を頑張る事にした。

「それで穂乃果さん達は夢を叶えたって事?」

「まあ、画廊の方はめでたくも……」

「他にも話が有るんですか?」

「それは、もちろん!」

 穂乃果は深く頷いていた。

 真由菜はそんな穂乃果を見て「これ以上にどんなドラマが有るんだ」と思っていた。そんな真由菜が子供達の様子を見ると、まだまだ優斗と楽しそうに遊んでいるので、穂乃果の話を聞いている時間は十分に有りそうだった。

「それでは次の障害はどんなのなんですか?」

「それを聞いちゃう?」

「有るんですよね」

「もちろん。ベルリンより高い壁が」

「その壁はもう崩壊してますよ」

 話が進みそうに無いので、真由菜は穂乃果の軽い冗談には付き合わなかった。

「ダーリンはもう結婚してたの」

 尚良は穂乃果と出会った時にはもう妻が居た。しかし、これから困難な夢へと立ち向かう二人が恋をするには、そんなに時間は必要では無かった。

 穂乃果の方からは元々尚良を素敵な人だと思っていたし、趣味も完全に合った。そうなってしまえば恋するには簡単。会社を辞めて画廊で給料も殆ど無かったのに、穂乃果は毎日が幸せだった。尚良と一緒に居られるだけの幸せがそこにはちゃんと有った。

 しかし、穂乃果はそれだけで良しとする人間では無かった。ある日「貴方と結婚したい」そんな事を穂乃果は尚良に告げた。まだ穂乃果は尚良と付き合いもして無くて、もちろん結婚している事も知っていたのだが、細かい事として気にして無かった。尚良もその言葉には一瞬悩んだ。しかし、それは一瞬の事だった。

 元々二人の趣味は完全一致してしまっている。恋人となるには時間は必要無かった。毎日二人で夢に向かいながら恋を愛へと進めた。

 尚良はそれまでに愛していた筈の妻とは離婚をして、穂乃果を伴侶とする事を選んだ。

「ダーリンさんは元妻と仲悪かったんですか?」

「知らなーい。会ったことも無いもん」

「きっと、そうですよ」

 真由菜はだからだと勝手に思い込む様に頷いていた。

「古い知人には私がかなり悪い人だと思われたみたいだけどね」

「それって、どう言うことですか?」

「元妻は、周りから人気が有ったみたい」

 穂乃果は今ですらヘラヘラ話している。

「ちょっと状況、解りませんけど」

「私は良い人から旦那を盗ったって思われてるんでしょうね」

「笑えませんね……」

「笑えないんだよね」

 そんな事を言いながらも、穂乃果の顔は華やかな笑みが有る。

「略奪愛には良い事、有りませんね」

「そうでも無いよ。今の私は幸せ」

 ちょっと暗い真由菜の横では、穂乃果が苦労をしている気配も無くて、首をお茶目に傾げている。

 元妻から尚良を盗ってから穂乃果は本当に幸せだった。祖父の画廊を継いでからは経営は安定してとても順調だった。それでまだ暇潰しで絵を売買していた祖父の付き合いで優斗と出会って、その頃には画廊も余裕が有ったので、尚良との夢だった穂乃果の店をオープンさせた。

 こちらは若手画家ばかりを扱っているのだが、穂乃果の暇潰しでも有る絵画教室のおかげでどうにか赤字にはなってないと言う運の良い結果となっている。まあ、その代わりに穂乃果は折角の略奪愛だったのに尚良とは別居をしているが、それは二人の夢なので合意しているし、所属画家が居るので穂乃果は数々の手続きの為に東京に戻って、尚良ともちょくちょく会えている。だから穂乃果にとっては今の生活は全てが正解で幸せだのだった。

 真由菜はそんな誰から見ても幸せそうな穂乃果を眺めていた。

「そうですね、穂乃果さんは幸せそうです」

「そうでしょ。だから……」

「どうしたんでしょうか?」

 穂乃果は真由菜の両肩を掴んで見ていたので、蛇に睨まれた蛙の方はポツリと返すだけ。その穂乃果の瞳はとても楽しそうに煌めいているので、もうこの者がどんな人間か解ってしまっている真由菜には悪い想像しか出来なかった。なので取り敢えず真由菜は視線を子供達の方へ移して癒されようと思った。

 その時に見たのは坂道を転げながら追っ掛けっ子している三人。馬鹿らしくてプスッっと笑えてしまう。

 穂乃果の事を無視って、ずっとそっちばかりを見ている真由菜だったけれど、注目しているのは普段眺め慣れている恵羽と乃愛では無くて、優斗だった。

 無視られている穂乃果は掴んでいる肩を揺すった。

 もちろんそうなると真由菜の意識も戻った。

「私はシノンくんとの仲も別に良いと思うよ」

「あたし等、別にそんな関係じゃ無いですよ」

「まあ、今はそう言う事にしとこう。でも、旦那さんとは仲良い?」

 その時に真由菜は考えてしまった。

 普通に「良いですよ」って言葉が出なかった。この頃の徹也との事を考えると仲が良いとは言い切れない自分も居た。

「悪くは無いと思いますよ」

 こんな風に返すしか真由菜は出来なかった。

 しかしもちろんその一度言葉に間が有った事に穂乃果は気付いているので、真由菜の言葉を聞いても全く気にしてなかった。

「本当に?」

「嘘なんて付きませんよ」

 穂乃果はこの時、眉を寄せていた。

「ちゃんと会話はしてる?」

「まあ、それなりに」

 嘘を付いている。

 この最近の真由菜と徹也の会話なんて殆ど無かった。思い当たるのは喧嘩みたいになっている会話ばかりだ。

「子供の面倒はちゃんと見てくれてる?」

「仕事が忙しいみたいで」

 これも嘘。徹也は暇が有っても携帯ばかりを見ていて、子供達と遊ぶなんて事も無い。

「自分は幸せだと言える?」

「もちろん、それは……」

 その時に真由菜の言葉は途切れてしまった。

 それまでは付けていた嘘もプツリと糸が切れてしまったみたいに、続きが見つからない。自分は幸せなんかじゃない。そんな想いが真由菜の心にコロコロと転がると、再び哀しくなって涙が落ちた。

「ホラ。こんな時くらいは本当の事を言いなさい」

 泣いている真由菜の事を母親の様にも穂乃果は抱き締めて、背をポンポンと叩いた。

 それだけで真由菜の心にはホッとした火が灯って涙を乾かす。

 穂乃果が確認すると、恵羽と乃愛は真由菜が泣いている事にも気付かないでまだ優斗と遊んでいた。

 そんな優斗の方は、真由菜達の方を見たけれど、穂乃果の事を眺めてから子供達の方を向いた。

 涙を落ち着けた真由菜は、穂乃果になら自分の底に沈んでいる黒い部分を話したいと言いたい事がポツリポツリと雨が降るみたいに浮き始めた。

「あたし達夫婦は、もう本当は駄目なのかもしれない……」

「うん。そう言う時も有ると思うよ」

 穂乃果はそれをすんなりと聞いた。特に同調もしないでいる。

「ちょっとあたしのグチに付き合ってくれますか?」

「もちろん、元からそのつもり」

「クドくなりますけど……」

「解ったから話してみな」

 それから真由菜は日頃に降り積もって居た棘を穂乃果に話した。

 穂乃果はずっと真由菜の文句にしか聞こえない言葉を聞いていた。時に真由菜の味方をしてみたりも有る。けれど穂乃果は優斗の味方をしたりはしないで、聞いていた。

 随分と真由菜は穂乃果と話して、涙の事なんて忘れてしまった頃になって、やっと子供達が遊び疲れた様に「ママー」と真由菜の事を呼んでいる。

 すると真由菜は心に支えていた事が無くなったみたいで、その呼び声に微笑んだ。そして穂乃果の方にもう一度だけ顔を向けた。

「話したら気が楽になりました」

「そっか。でもね、選ぶのは真由菜ちゃん自身だよ。旦那さんとこれからも夫婦として続けるのか」

「そうですよね。間違わないようにしないとっ」

「間違っても良いんじゃない? どうせ選んだ方を正解と思うしか無いんだし」

「アハハハッそうですね」

 すると真由菜の元に恵羽がたどり着いた。

 一緒にスタートした乃愛はまだ到着して無い。

 そんな恵羽は母親の真由菜が笑っている姿を見て嬉しそうにしている。

「それとね。シノンくんにも言いたい事、話しちゃいな!」

 トテトテと走っていた乃愛を救ける為に、優斗が抱っこしてやっとゴールして、真由菜の元には娘二人の笑顔が並ぶ。

 その横の優斗は穂乃果が自分の事を云っているので「んっ?」と首を傾げた。

 しかし穂乃果も真由菜もプイッと横を向いていた。

 子供達はもちろん疲れているのだが、優斗はそれ以上に倒れそうなのでそんな二人の事を気にしている余裕も無い。すると地面が芝生なのを良い事に優斗は本当に倒れてしまった。もう若くは無い。

 そんな言葉が優斗には浮かんだけれど、もっと厳しい言葉を穂乃果と真由菜に華麗にそして次々と言われてしまった。

 馬鹿にされている優斗の事を恵羽は笑って、乃愛は味方をする様に守ろうとしている。

「おじさん疲れてるからお休みして置こうか」

 優しいみたいにそんな事を言う人が居た。それはさっきまで散々馬鹿にしていた方の片割れの真由菜だ。

 因みに穂乃果はまだ横で優斗の事を存分に馬鹿にしている。どちらかと言うと子供達はそちらの方が楽しいみたいで、優斗の事を守ったり、時折穂乃果の意見にも賛同して楽しそうにしている。随分と穂乃果とも仲良くなっている子供達は、まだ起き上がれない優斗から遊びの目標を移した様子で段々と離れ始めた。

 ゆっくりとした時間になってしまった優斗は、疲れていながらも子供達がいないと暇になってしまって、暫くお喋りをしている穂乃果と恵羽や乃愛を眺めていた。そうしていると仲間はずれな人間を自分以外にも見付けた。

 真由菜もそんな三人の事をベンチに座って朗らかに眺めていた。

 穂乃果達は芝生でお喋りを続けて、時々くすぐり合いをしたりとしているので、真由菜の隣は空席になっている。

 なので優斗はあえて「よっこらしょ」と云ってからそこに座った。そんな優斗の事にも真由菜は気にしている風でもない。普通に隣に人が座っただけで視線も交わす事も無くずっと子供達の方を見ていた。

 優斗も普通に真由菜の見ている方を眺める。単純に並んで座って子供達を見守っているだけだったのだが、そんな二人の事を気にしていたのは別の人物だった。

 穂乃果がベンチの二人の事を眺めて、急に横に居た乃愛を抱っこして立ち上がる。そして空いている片方の掌は広げて恵羽に向かって振る。手を繋ぐ様に呼んでいる。

 その事を解った恵羽もちょこちょこと穂乃果に近寄ると、その手をしっかりと掴んだ。

「ちょっと、お腹すいたから、三人でドーナツ屋さんまで散歩するわ」

「あたしも御一緒します」

「私がお腹減ったんだから良いって」

 そこまでは子供の面倒を見ては貰えないとばかりに真由菜は、ベンチから立ち上がろうとしたのだったが、穂乃果はすかさず近付いて肩をぶつけた。そして顔を見るとウインクまでしている。

 二人っきりの時間を作ると言う事なのだろう。言い返す言葉もない真由菜は一度優斗の事を見てから、軽くため息を吐いてからベンチに戻った。

 もちろん子供達から反論なんて無くって嬉しそうに喜んだ二人は、穂乃果と真由菜の元から離れる。三人でまだお喋りをしながら公園を歩いてドーナツ屋の有る通りまで歩くと、真由菜と優斗が座っているベンチからはその姿が見えなくなった。

 真由菜が隣を向くと優斗は穏やかな顔をして、どこを見るでも無く真っ直ぐを眺めていた。

 穂乃果はさっきのグチを優斗に話せと、こんな時間を作ったのだろうか。真由菜はそう考えると俯きそうにもなってしまう。

 今は優斗にそんな事を話したく無い気がしたから。グチばかりの見苦しい自分を優斗に現したく無くて、弱い所を見せたく無い。そして面倒を掛けたくないと思う事ばかりが真由菜には降っていたから。だから真由菜は黙っていようと思った。

 別に話をしなさいと言われた訳では無い。今は単純に静かな時間を過ごすのも悪くない。真由菜はそんな風に自分の心に言うと頷いた。

 優斗の方はずっと真っ青な空を見ていた。そうかと思っていると「うーん」っと唸って、視線を真由菜の方へと向けた。

「もしかして、穂乃果は俺達を二人っきりにする為に子供達を離したのか?」

「……っ。多分そう」

「お節介な人だな……」

「二人っきりにされても話す事なんて無いのにねー」

 この時、真由菜はニッコリと笑っていたが、それはいつもの表情とは違う。ちょっと困っている笑顔だった。

 しかし優斗はそんなおかしな真由菜の笑顔を見て、クスッと笑った。そして鼻でふんと云ってから微笑んだ。

「じゃあ、俺から一つ話しとこうかな?」

 微笑みと一緒に投げられた優斗の言葉に、真由菜はズキッと心が痛くなった。でも、そこは平穏を装って笑顔を返してみる。

 優斗の事を見ていると不思議と普段の笑顔になっていた。

「それは面白い話なんでしょうね?」

「どうだろう?」

「つまらんかったら聞かんよ」

「俺は水浦の事が好きだ」

 優斗は簡単にそんな事を云ってしまった。

 一応、伏線を張っていたのにと真由菜は思っていたが、まあ、このくらいならと話に付き合う事にした。

「知ってる。告白されたしね」

「うん。それでもう一度告白したい」

「好きにすれば」

 真由菜の答えは素っ気なかったけれど、優斗は聞いてくれているだけで嬉しかった。それで優斗はベンチから立ち上がると数歩進む。

 ひゅうともう暖かくなった風が吹いている。

「やっぱり、水浦の事が好きでしょうがないんだよ」

「それは一応喜んでおけって事かな?」

「まあ……本当は俺の方に近付いてくれたらと思う」

「つまりは?」

「今の旦那と別れてくれとまで思う時が有る」

 ちょっと優斗のトーンは下がっているけれど、落ちている訳でも無かった。

「それは悪い冗談だ」

 そんな優斗に真由菜はあくまで普通な印象にして返していた。

「悪いとは自分でも思う。けど、やはり諦められなくて、水浦。軽くでも俺とは付き合えない?」

 優斗の方から言えばかなり難しい事なのに、本当の事なのでスラスラと話せていた。

「まあ、考えておこうか……」

 返事が見つからなくて真由菜はスッとそこに有っただけの言葉を云っていた。普通に云った言葉だったので真由菜は気にしてなかったのだが、ふと優斗が振り返ったのでその顔を見た。

 すると優斗は笑顔だった。もうそれは本当に嬉しそう。

 なので真由菜はどうしたのだろうと首を傾げたので、優斗はそのジェスチャーに答える様に頷いてた。

「前に聞いた時は断られたのに、考えるってのは好転してると思っていいんだよな」

「それは……」

 真由菜はこの時になって考えてしまった。浮気なんてしない。そんな思いは間違いなく自分の心に有るのに普通に優斗にそんな風に答えてしまった。

 それは優斗の言う通り自分の心境が違っているのだろうか。元々優斗の事をキラってなんかは無い。昔は好きだった。忘れようとしていた真由菜の思いだった。

 高校の頃、真由菜はかなり強い恋をしていた。もちろんその相手は篠崎優斗。当時からそんなに格好良くてモテる雰囲気の人間では無かったのだけど、他の男達とは違って優斗にはやさしさが有った。それは優斗のチャームポイントで有って、その点においては周りからも人気になる程。

 それに加えて真由菜から見ると、優斗の見た目も減点ばかりでは無くて、好きになるには十分過ぎる程の要素は有った。その頃の真由菜はまだ恋人が居た事も無くて、それまでも恋の様なものもしてはいたのだったが、次元が違った。それは単純に年齢からの思いだったなのかもしれないが、相手からとも考える。真由菜は僅かでも優斗と会える時間を喜んで、それがずっと続く事を夢に見ていた。淡い恋はどこまでも続いてくれたらと言う真由菜の願いにもなっていた。しかしやはり淡かった。

 夢ばかりを見ているまだ子供だった真由菜の恋が、そんなに簡単に叶う事も無かった。ずっと告白される事だけを待っていた。でも、それは間違いなのだ。そんな事に気付くのは二十代になってから。待っているだけではこの恋は進まなかった。やがて進学の為に離ればなれになってしまって、恋は終わってしまう。筈だった。

 普通ならこれで学生の苦くも思える恋なんて終わりを迎えてしまう。しかし、真由菜の心には公園にポツンと置き忘れ、古くなったぬいぐるみの様に静かに真由菜の心に残った。新たな恋に揺れて、やがて結婚する事になっても、捨てたと思っていた優斗の思い出はずっと真由菜の心にからは消えて無かった。

 それを今でも真由菜はずっと解っていて、二回の優斗からの告白は素直に嬉しい自分も居た。こんな状況がずっと夢で、その優斗の想いに答えられたらどんなに自分さえも幸せになるだろうか考える一方で、もう時間切れになっている事から頑なに断っていた。

 それは自分の想いにさえ嘘を付いて。真由菜は今でも優斗の事が好き。それは真由菜にとっては優斗と再開した時には解っていた。でも、自分はもう昔とは違う。

 結婚もしていて子供まで居る。恋なんて出来ないと思っていた。それなのに優斗と話している時間はとても楽しくて、昔の想いと全く差異なんて無い。

 真由菜の心は自分の考えなんて、全く無視をしてしまって優斗に恋をしていた。再び蘇ったのでは無い、昔から一途に思っていた恋。そんなものは簡単に消える筈も無い。

 だからさっきの「考える」と云う言葉になって現れてしまったんだ。真由菜は自分の想いにも困りながら難しい顔をして、今は二人っきりの優斗の事を見る事も出来ずに俯いている。

 困ってしまっているみたいな真由菜の事を見ていると、さっきまで喜んでいた優斗もマズイなと思って落ち着いてからしゃがむ。優斗は俯き加減で眉間にシワを寄せてる真由菜の表情を見ていた。

「そんなに困らなくても良いよ。言い間違いならそれでも俺は構わない。一瞬でも嬉しかったし」

 優斗はそう言うと、まだ俯いている真由菜のおデコを軽く叩いた。それで振り返ってしまってドーナツ屋さんの方を観察する。

 良く見ると公園からでもお店の近くが確認出来て、もう買い物は終わっているのに自分達の方を確認しながら、どうにか子供達をゆっくりと歩かせ様としている穂乃果の姿が有った。

 ありがたいながらも優斗は、そんな穂乃果を見付けて呆れていた。そして話も終わった事から三人の事を右手を高く挙げておいでと手を振って呼んだ。

 しかし隣でベンチに座っている真由菜は、まだ地面ばかりを見続けていた。困ってしまう。優斗がやっぱりやさしかった。

 自分が難しい顔をしていたから急にやさしい言葉を投げてくれたのだろう。本当にズルい。こんなんだから自分は優斗の事が好きでいつまでも忘れられないんだ。好きになっては駄目なのに。真由菜はそんな事を堂々巡りをしている。

 この最近はこんな事ばかりになっている。もう自分が悩んでいる事にさえアホらしく思える。素直になってしまえば楽なのだろうに。その時、真由菜の心に暖かな火が灯った様な気がした。

 優斗が呼んだので穂乃果はもう策略は要らないのかと、子供達と公園に戻る。

 道路から公園の敷地になると、それを待っていたかの様に恵羽と乃愛が「よーい、ドン」と言い走り始めた。二人共手にはドーナツの袋を提げている。

 乃愛が「ママー」と言うので恵羽の方は「おっちゃーん」て呼んでいる。

 だから優斗は恵羽に手を振って待っていた。そして真由菜もその声に気が付いて、優斗の横に並ぶ。その時に優斗の事を見た。

「言い間違いじゃ無いよ。本当にそう思ったんだ。喜びなよ」

 もう優斗の事なんて見ないでポツリと言うと、真由菜は乃愛へと抱っこする為に両手を広げて待っている。

 一瞬、えっと思った優斗が横をを見ても聞き間違いだったみたいに、もう真由菜は華やかな笑顔で乃愛の事を待っていた。

 でも、ちゃんと優斗の耳には届いていたので間違いじゃ無いと確信した優斗は、心だけで存分にガッツポーズをして、乃愛とのかけっこに勝った恵羽の事を迎えた。

 二人共がゴールをしたが、恵羽は真由菜と自分達の分を、そして乃愛が優斗の分のドーナツを持っていたので目的地が反対だった。

 ビリでゴールとなったのは普通に歩いてた穂乃果だったけれど、こちらは子供達二人に迎えられたので一番華やかだった。

 そして公園でドーナツを広げてお菓子タイムとなった。乃愛が優斗の膝に座って、恵羽の方は真由菜と穂乃果を悩んでから普段ずっと一緒に居る母親を選ば無かった。

 なので優斗と穂乃果が並んで座る状況になったけれど、子供達がドーナツに気を取られお喋りもしない。だから穂乃果は一度、真由菜の事を見ると、優斗へちょっと近付く。

「それで? お二人でまともな話はできたの?」

「まあ、そうだな」

「うーん、こう言う時のシノンくんの表情は読めないな……」

 普段からやたらとニコリとしている優斗を見て、穂乃果はブスッとして、次は真由菜へと視線を移した。

「穂乃果さんの思う通りになったと思いますよ」

 その視線に直ぐに気が付いた真由菜は、すんなりとそう返して、ドーナツをリスの様に咀嚼していた。

 穂乃果はその言葉の真相が解らなくて、腕を組んで首を傾げ悩み始めたのでドーナツの事なんて忘れてしまっていた。

 それからも優斗は子供達と遊んだりして時間を過ごすと、バイトの時間が近付いているのも一応忘れて無かったので、暗くなり始めた頃にもう帰ろうかと言う話になって、優斗と真由菜は帰る方向が違うので穂乃果の画廊でみんなが別れる事になった。

「シノンくん、それじゃあ審査結果が解ったら連絡するからね」

 それは今回の絵画展の話だった。一応それなりに権威も有って、まだ若手の優斗には難しい賞でもあるのだが、落選でも通知は画廊に有るので、その事を云っていた。

 優斗は「一応頼む」と云ってカラオケ屋の方に向かうバスの路線の有る通りへと歩きながら、穂乃果の事なんて見ないで子供達へと手を振っていた。

 その事に穂乃果は憤慨しているみたいなため息を付いているが、真由菜達も違うバス停へと向かうので気を取り直した。そうして穂乃果も真由菜と子供達に手を振る。穂乃果もその姿が見えなくなるまでずっと手を振っていた。

 すると真由菜達は角を曲がる時にもう一度振り返って、三人揃った笑顔を見せた。

 それで姿が見えなくなって穂乃果は振り返ると、まだ優斗が居たけれどそんな者にはプイッと横を向いて店の方へ消えた。

 やはりさっき無視をしたのを怒ったのだろうが、優斗はそんな事も気にしないで振り返って帰った。別にこんな事は良く有るのだ。穂乃果の気分を考えていたら疲れるので、優斗はこれも無視っていた。

 ただ普通な日が続いている。普通と言うのは有るのだろうか。一日は全く同じなんて事は無くてどこまでも違う。随分と暖かくなったなんて思っていると、急に冬に戻ったんじゃないかと思う程寒い時も在るけれど、それでも確かに季節は進んでいて街を歩く人の服は段々と薄手になっている。カラオケ屋の仕事だっていつまでも一緒ではない。段々と新曲を歌うお客さんが増え、フードメニューは季節を彩る様に改める。そんな僅かな違いでもちゃんと時間の進みでも有る。

 真由菜の所にだってそれは有る。この間まで恵羽は自転車の補助輪無しを練習していたのに、そんな物を今では簡単に乗りこなして自由に走り回るので、危ないと真由菜を困らせるのは常々になっている。

 乃愛の方もちゃんと育っていて、いつまでも人見知りの幼い子では無い。乃愛の人見知りは自分よりも年下の子にだってしていたのに、今ではお姉さんっぷりを見せている。でも、それは真由菜が保育園で眺めた時にはついビックリしてしまう程に嬉しかった事でも有る。

 ついでに穂乃果の画廊はずっと一緒。絵が売れる事も無かった。

 今日もどこか違う日の始まりに、優斗は開店作業をしている。けれど最近は画家よりもバイトの方が充実しているので、どちらかと言うとこちらが本職になっているみたいだ。休みも少なくなってしまったので、似顔絵屋もずっと開いてない。まあ、時々スケッチなんかをしているけど、これは趣味でも有る。

 優斗は全てのカラオケルームのドアを開け、ゴミなど片付け忘れが無いか確認をして受付に戻った時だった。

 そこではポスを立ち上げている筈の副店長の前島が、店に着いたばかりの仲原とお喋りをしていた。まあ、恋人同士なのでイチャつくのは良いのだがイマイチ仕事が進んで無い。前島はもうスタンバイモードが終わってしまっているポスを無視って、仲原の事ばかりを見ている。

 仲原の方は一応そんなお喋りをしながらも、受付カウンターを簡単にでは有るけれど掃除をしている。

 もちろん前島の顔はデレーっとしているので馬鹿らしい。今日は優斗と前島で開店作業をして、仲原も加わってのメンツだから二人ものんびりとしている様子。

 ケラケラと楽しそうにポスから目を話している前島の事をシラーっと優斗は睨んでみた。

「どったの? シノくん怖い顔して」

「副店は仕事をしないのかと……」

「してるよ。けど、アルバイトとのコミュニケーションも仕事だから」

「副店のは恋人とのお喋りでしょ」

 もうとことんまで呆れてしまっている優斗は、前島の座っている椅子を蹴った。キャスターの付いているその椅子はガサーと横に滑ったので、優斗はポスに向かって起動コードを打ち込む。たった数秒の作業なのに前島はずっと時間を費やして居たのだった。

 呆れと怒っている姿を明らかにしている優斗なので、仲原は「ゴメンねー」と手を合わせて、ちゃんと仕事を進めたけれど反対側では前島がまだブスッとしていた。

「シノくんが上司みたい! 俺の方が偉いのに」

「ハイハイ……偉い副店長さんは店の前、掃除してね。開店出来ないと責任取らされますよ」

「クビになったら私、副店とは別れますよー」

 一つ深いため息を吐いて、優斗に椅子を押された前島はやっとの事で仕事をする気になったみたい。流石に減俸やクビなんて事にはなりたく無いらしい。そこに有った仲原の言葉も効果があったのだろう。

 そんな姿を見て仲原がクスクスと笑っていて、開店に向けて髪を纏めた時に普段は見なかったイヤリングがキラッと閃いたのを、優斗は確認した。そして見覚えが有ったので優斗は掃除用具を取っている前島を見た。

「仲原さんそのイヤリング似合ってるね」

 その時ガチャバタと前島の方が煩く箒を倒して音を鳴らしていた。

「これは、その……」

「副店に貰ったんでしょ。お揃いだし」

「まあ、そうです……」

「別に素直に言えば良いのに」

 仲原のそのイヤリングは、前島が付けているネックレスと同じデザインの物だった。

 答えている仲原は頬を紅くして優斗の方を見れないでいる。

 前島も数度箒を倒しては拾いを繰り返している。そうしていると逃げる様に前島は、掃除をしようと店から逃げた。

 ひょんな事で二人の照れ屋な所が見えて優斗が高らかに笑っている。

 仲原も逃げる様に受付ホールを掃除するけれど、そこは綺麗なのでこれも言い訳なのだろう。

 優斗はカウンターの方を汚れては無いのだが、マニュアル通り拭き掃除をする為にをふきんを用意しに厨房の方へと向かう。

 するとホッと仲原のため息が聞こえた。仲原は意味の無いホールの掃き掃除をサボって、自分でも照れすぎだと箒におデコを付けて落ち込んでいた。

 そうしていると厨房の方からザバザバと優斗がふきんを洗っている音が聞こえたので、直ぐに戻るだろうと深呼吸をして掃除を続けた。

 優斗はふきんを持って受付に戻ってカウンターを拭き始める。

 そんな姿を仲原はお茶目に仕返しでもしようかと見ていた。

「篠崎さんも真由菜さんにプレゼント贈れば良いんじゃないですか?」

 箒を片付けながら仲原は語った。

 その顔はにこやかだけど、今の優斗からは位置的にその表情は見えない。

 もちろん仲原からも優斗の表情は見れないけれど、さぞ困っているだろうと思った。ちょっと悪いけれどこのくらいなら優斗はちょっとした意地悪だと言えば、笑ってくれると仲原は考えていたので、振り返ってその困りっぷりを拝もうと思った。

 しかし振り返った所に困っている者なんて居なかった。優斗はちょっと考えながらも仲原の事を朗らかに見ていた。

「うーん、そうだね。本当はプレゼントくらいは贈りたいよ。でも、それは駄目じゃないのかな?」

 どちらかと言うと、優斗は仲原からアドバイスを貰って、更に質問までしている。

 だから仲原の方が意味が解らなくて、困った顔になってしまった。

 そうしていると店の前の掃除を終えた前島が戻って店を開ける事になったけれど、そんなに直ぐには続々と客が訪れる訳でも無い。開店を待っていた老人グループが一組居ただけで、ドリンクの注文も直ぐに有って途端に暇になってしまった。

 例のごとく前島は受付に座って暇潰しを探しているが、ドリンクを用意し終えたので優斗がカラオケルームまで運び、仲原がそこに戻った。

「ねえ、ヨシくん。篠崎さんの恋の進展、聞いてる?」

 バッチリお喋りタイムになったみたいで、仲原は疑問も無く椅子に座って前島に話を始めた。

「そう言えば、最近聞いてないけど」

「篠崎さんちょっと様子が違うけど……」

「それは進展が有ったのかな。さっきのお返しに聞いてみよう!」

「私と同じ事を考えてる……」

 その言葉はボソリと聞こえない様に仲原は呟いていた。

「ん? どうかしたの?」

 しかし、全く聞いて無かった前島はお茶目に楽しそうにしていたので、仲原はそんな馬鹿な恋人を見て呆れたため息を吐いた。

「ミイラ取りがって事にならない様に」

 ポツリと仲原が前島の肩を叩きながら言うと、丁度優斗が戻ったので、椅子を用意して待つ。

 異様な雰囲気の二人に優斗はちょっとたじろいでしまっているけれど、今は仕事なんて無いから前島からは逃げることなんて出来ないから、仕方が無くそこへと座る。

「それで? 俺にどんな事を聞きたいんですか?」

「君はエスパーなのか? まあ、そんな事はどうでも良いけど、ズバリ真由菜ちゃんとは最近どうなの?」

「やっぱりそれですか……」

「私達のキューピットで有る篠崎さんの恋は監督する勤めが有ると思いまして」

「その割に副店は楽しそうな顔をしてるよ……」

 仲原があくまで真面目そうに話して居たけれど、その横の前島は随分と面白そうにしている。

 そんな表情を優斗が睨むとテヘッと前島は笑ったが、そんなのを喜ぶのは仲原くらいしか居ない。

「俺だって真面目に聞いてるんだよ。それで?」

 全然そんな風には見えないので、優斗は腕を組んで再び前島の事を睨むけれど、そんなものが通用する人間でも無いのは解っているので諦めた。

「まあ、そうですね……ちょっとは好転してるんじゃないですかね?」

「ほう……それは」

「詳細を聞かせてください!」

 優斗が自分でも首を傾げながらも呟くと、前島が聞きたそうに話し始めたが、それを遮ってまで仲原が目を輝かせて居た。

「詳細と言われても……」

「俺達三人にひみつは無しだからな!」

「それは恋人同士でお願いします」

「篠崎さん聞かせてくださいよー」

「俺の彼女を困らせる人間は、副店長権限で休憩無しだ!」

「パワハラだ……」

 二人のコンビの良い会話に優斗は呆れてしまった。でも、こんな状況になってしまうと、どうしても逃げられる訳が無い。世間一般的にそれは確実なのだ。

「篠崎さんが絵の方に専念していた時から私は気になってたんですからー」

「うーん、そうだね。あの時は二人の事なんて忘れてましたっ。ゴメンナサイ」

「二人の事はって言うんなら、真由菜さんの事は忘れて無かったんですよね」

「そうだね。絵を描いてる時も会ってた」

 仲原が上手に優斗から話を聞いているので、前島は黙っていた。

 しかし、リアクションはうるさいくらいで「おー」とか云っている。

「もしかして、そんな描いてる篠崎さんに真由菜さんは惚れちゃったとか?」

「だったら嬉しいけど……」

「違うんですか……では、どうして好転してると?」

「ニュースになってから会ったんだ」

 すると前島が「デートだ!」なんて言うので、優斗は即答で「違います」って答えていた。

 どうも前島は邪魔になっているのだった。

「男女が会うのってデートって言うんじゃないですか? 特にどちらかに好意がある時は尚更」

「どちらかと言うと、水浦の子供達が会いたいって」

「なる程そう言う事ですか。でも、二人で話す機会くらいは有ったんですよね?」

「うん。俺の知人の画商も一緒で、そいつが時間を作ってくれた」

 段々と核心に近付いているのが解ったみたいで、もう前島も邪魔をしない様に黙っていた。もうそれはリアクションもしない様にしているのだが、黙っているけれどもう驚きの表情だけでうるさい。

「もしかして告白したんですか?」

「うん。その通り」

「それで真由菜さんの答えは?」

 その時の仲原の瞳は、恋愛ドラマでも見ているかの様に華やかだった。

「考えさせてくれってさ」

 しかし、優斗はそんな仲原と黙りながらも、リアクションの派手な前島にふんわりとした笑顔を見せて話した。

 もちろん二人はそんな優斗の表情と言葉にキョトンとしている。

 仲原は一度「うーんっ」と唸ってから優斗の方を睨む様に見つめた。

「それでどうして好転してるですか!」

「前に告白した時は流されたからねー」

「うーん、なる程……」

 再び仲原は唸って考え始めた。

 しかし、横の方でクエスチョンマークが踊っている。前島が意味が解らなくってパニックになっていた。メダパニだ。

「意味わかんねーよ。誰か説明して!」

 前島はそんな事を云っていたけれど、仲原と優斗は丁寧に無視をした。

 優斗からしてみれば、前島が意味を解っている方が面倒だったから。

 仲原の方は考えているので、そんな事をしている暇が無い。

 だから前島の言葉は木霊するだけになっていた。

「もしかして、真由菜さんの状況が今までとは違ったのかな?」

「そうかもとは俺も思ったんだけど……」

「篠崎さん、今なら勝機がありますよ!」

「でも、水浦にとって哀しい事かもしれないのに、だったら俺は喜べないよ」

「そんな事を云ってたら幸せは直ぐに消えますよ」

 二人が難しそうに話しているのを前島は黙っては見てなかった。

「シノくん! 説明しなさい。二人で勝手に話を進めないの!」

 それはかなり怒ってると二人には解った。

 けれど前島の怒りなんて優斗も、そして仲原は当然怖くは無かった。

 でも、拗ねると面倒なのは重々承知しているので優斗が俯いて、仲原はため息を吐いていた。

「だから、真由菜さんは夫婦仲が悪くなっているんじゃないかって」

 呆れながらも話していた事を訳して居た。

 すると前島はポカンとこの世界から居なくなって、遠く魔法の国へ居る様なおかしな顔になって、仲原と優斗の事を眺めていた。

 そしてふわりと静かな時間が流れた。そんな事をしているとお客さんが現れて優斗が一番に気が付いて「いらっしゃいませ」と言うと仲原もそれに続いた。

 けれど前島はまだ壊れている様で、仲原が受付を進めて優斗がお客さんの事をカラオケルームまで案内している間もずっと豆鉄砲で撃たれた鳩は静かにフリーズしていた。

 優斗はもう存分に慣れた案内を終えると、受付へと戻った。今のお客さんは持ち込みをしていたのでドリンク等の注文も無かった。なのでまた仕事が無いのでさっきまでの椅子に座るけれど、まだ前島はずっとポケっとしていた。

「まだ、副店は壊れてんの?」

「うん。キュートだと思いません」

「俺はこの人に恋する瞳は持ってないから、仲原さんの想いは解らないな」

 そんなアホでしか無い前島の事を、仲原は子猫でも見ている様な愛しい瞳で見ている。

 しかし、優斗からは単なる馬鹿でしか無いので呆れるばかりだ。

 でも、仲原も優斗の言葉を聞くと、やはりそうかと頷いて前島の顔の近くで手を叩いた。蚊でも潰すみたいなスイングで放たれた柏手はバチンと良い音を奏でる。

 軽い衝撃波は前島まで届くと、やっとの事でこの世界に戻ったらしく、瞬きをパチパチとするとキョロキョロと今、自分が居る所を確認した。そうして優斗の事を見ると黙って腕を組んで考えたかと思ったら、今度はハッと顔を挙げた。

「シノくん! これはチャンスだぞ!」

「だから、さっきからそう云ってんじゃん」

「仲原さんの彼氏は賢く無いね」

「それは十分理解しているつもりです……」

 前島だけが喜んでいると、仲原と優斗は明らかに馬鹿にした。

 なので前島はムッとしながらも話を続ける。

「だったらどうしてシノくんは喜ばないんだよ」

「だから、篠崎さんは自分の事よりも真由菜さんの幸せを考えてる優しい人なんだよ」

 仲原からのその言葉を聞いた前島は、キッと優斗の事を睨んだ。

「そんな事では駄目だよ! 自分の幸せをちゃんと考えないと!」

「もちろん俺も考えてますけど、アイツが不幸になるのはやっぱり喜べないんですよ」

「別に喜ばなくても良いじゃないか。真由菜ちゃんを今の旦那さんよりも幸せにするってくらいの心意気で居ろって!」

 どこまでも熱い前島が居た。とてもさっきまでのアホではないみたい。

 その言葉に優斗も自分の心を刀で斬られた様な思いで居た。

「そっか、俺がアイツを幸せにすれば良いのか」

 ひどく納得した様に優斗は数度頷いていた。

「ちょっと篠崎さん! そんなに簡単な事に今頃気が付いたの?」

「うん。ゴメン。君の彼氏と一緒なくらい俺も馬鹿みたいだ」

「もうちょっとで忙しくなるのに、馬鹿は二人も要りませんよ」

「それでさ、俺からも二人に聞きたい事が有るんだけど」

 優斗はそう言うと前島と仲原の事を交互に見た。

 すると二人共が互いに顔を見合わせている。どんな事を聞かれるのか解らない様子だ。

「それって重要な事なの?」

 クールでは無い方の前島が優斗に聞く。

「いえ。どうして二人は俺の味方をしてくれるのかなと……」

「と言いますと?」

「だって、俺は真っ当な恋をしている訳じゃ無い。人の嫁となっている娘を好いてるんだ。自分で言うのもどうかと思うけど、あまり褒められるべきでは無いよ」

 自分に罪が有ると優斗はちゃんと解っているので、そんな風に語っているが、それを聞いていた二人は笑った。

「シノくん。君には恩が有るからね。俺達のキューピットさん」

「それに篠崎さんの想いは真っ直ぐだから。好きな人がただ結婚していただけでしょ。でも、それでも良いんですか? この道は険しいですよ」

 その時の仲原の瞳はとても強かった。

 けれど優斗はそんな瞳に微笑みを返した。

「俺は良いんだ。アイツと、水浦と一緒に居られるなら」

「良い方に進むとも言えませんよ」

 優斗が返事をすると、仲原はやはり険しい瞳で続ける。

 しかし優斗の微笑みだって終わらない。

「元々俺はストーカーなんだ。それなのに今は友人くらいまではなれてる。それだけでも嬉しい。戻ったとしても構わないしね」

 今度の優斗はハッキリとした笑顔になっていた。

 それまで真剣な二人の話を聞いていた前島も、そんな優斗を見て笑顔になった。

 その彼氏を見ると仲原の元にも既に、さっきの瞳は無くなっている。

 三人共が笑っていた。しかし、そんな笑顔は直ぐに消えてしまった。お昼が近くなるとウイークデーでもカラオケ屋はそれなりに混み始め、フードメニューの注文も鳴り始めた。仲原の言う通りに忙しくなって、前島が「さて、仕事だ」と言い三人は雑談会を終わりにして、それぞれが離れる。

 優斗はフードメニューを調理する為にキッチンへと向かう。

 その姿を受付をしながら仲原が見ていた。

「恩だけじゃ無いくて、きっと篠崎さんなら幸せを掴めますよ」

 静かに仲原は誰にも聞かれ見えぬ様に呟いてた。

 もちろん優斗はキッチンの方に居るので聞こえる筈も無い。

 三人はそれから忙しくなって、仲原の呟きは誰にも聞かれる事も無く、その日を終える事になった。

 もう北の街にも確かな暖かさが訪れていて、もういたずらな雪なんて降るはずも無い。夜になって風が吹いたとしても、それはもう人を困らせる事も無い暖かく優しい様になったみたいだ。

 とある五階建ての住宅の窓が、そんな風を通すみたいに開くと人が居る。それは真由菜だった。まだ、始まったばかりの夜だけれど、子供達と過ごした一日はもうラストスパートに近い。

 そこで真由菜はちょっと疲れた自分へのご褒美に、缶ビールを開けてゆっくりと月を眺めている。恵羽と乃愛はテレビで子供番組を見ているので、これは真由菜の至福の時間でも有るのだ。

 三日月になっているけれど、かなり明るくて街を照らしている。かなりセンチメンタルで、自分が中二病に戻った気分になっていたけれど、それにはちゃんと犯人が居た。

 それはもちろん優斗だ。真由菜はこの間の事から、ふと優斗の事を考える時間が有る。買い物をしていると不意に優斗を探している自分が居る。ご飯を作っていると、優斗の好きなものを考えたりする。面白い事が有ると、隣に優斗を思う事だって有った。そんな風に真由菜の心では、確かに優斗の割合が増えている。

 今だってビールに苦さの向こう側に、アルコールの楽しさと一緒に優斗の笑顔を思っていた。そんな事になってしまうと、真由菜は窓の縁にもたれ掛かって、遠い地面の方を眺めた。

 そこには道路が有って車が往来して、時々人が歩いていた。意味も無く眺めながら真由菜は、自分が優斗の事を本当に好きなのかと考えてしまっていた。

 真由菜は優斗の事が好きだった。それはもう古い話になる。まだ優斗と真由菜が仲良くなる前の話だ。当時二人は高校受験で一緒の教室で試験を受けていた。

 真由菜にはちょっと背伸びの受験で、かなり疲れる程になっていた。やっと全てのテストが終わって、残すは面談試験だけになっている。真由菜はそれまでのテストの結果が良くない様な気がしてもう落ち込み、緊張もしているのでボロボロになっていた。

 受験番号の順番で呼ばれ、段々と人が減る。真由菜はもう気分が悪くなる程になっていて視界も狭くなっている。そんな時に別に注目するつもりも無かったけれど、前の人を眺めていた。ボーっとしていたので、その人が振り返ったのも真由菜は気が付かないで見つめ合っていた。

「どうかしたんですか?」

 そんな言葉が有るまで真由菜は、ずっとその人を見ていた事を気付かなかった。その時の人間が優斗と言う事も無かった。相手は女の子で不思議そうな顔をしているので、真由菜は慌て顔を真っ赤にしながら自分でも意味が解らない理由で取り繕うと、周りに居る人達から笑われてしまった。

 その時に隣で誰よりも楽しそうに笑っている人が居た。もちろん試験の待ち時間なので誰もが静かにしている。その人物も高らかに笑う事は無くて、ずっと笑顔になっているだけだった。

 しかし、その時の真由菜は普通の状況では無かったので、そんなリアクションに怒りさえも抱いていた。真由菜からの印象は悪い。そんな風にずっとニコニコと笑い続けていたのが優斗だった。

 笑みは続いて、それは優斗が次の試験に呼ばれるまでも残っていた。受験番号順で優斗が呼ばれたので席を離れようとした時に、再び「クスリ」と笑った。

 もちろん真由菜もその事に気付いて、キッと優斗の事を見た。

 すると優斗は微笑んで、真由菜の席を通り過ぎる時に肩をポンと叩く。

「ありがとう。緊張が解けたわ。君も頑張って!」

 そんな風に一言サラッと云ってから遠ざかった。

 さっきまではずっと印象が悪かったのに、真由菜の心にはふわっと風が吹いた様な気がした。

 それから真由菜はどうしてか緊張が無くなって、すっかりと気分が良くなっている。そして目を瞑るとさっきの優斗が笑っている顔が浮かんでしまう。でも、その時はもう怒りは無くて、思っていると心が和む様な気がした。

 そんな事だったのでそれからの試験を真由菜は、緊張なんて言葉を忘れてしまった様にのぞめた。真由菜はこの時まだどうして優斗の笑顔がムカつかなくなったのか解らなくなって、帰り道でふと不思議に思っていた。

 すると自分の進む方向に話をしている人影が居て、なんとなくその顔を見ると和まされた表情が有った。

「さっきのアイツだ……」

 そこでは優斗が試験の帰りに友達とお喋りをしていたのだった。真由菜はその事に気が付いては居たが、また笑われるのではと思ってちょっと顔を俯きながら話をしている優斗達の横を通りすぎ様とした。

「アレッ? お疲れさん」

 その時に優斗は真由菜の事に気が付いて、挨拶をしていた。

 けれど、真由菜はそのまんま逃げる様に通り過ぎた。一応挨拶をしていた優斗の顔を見た時に、自分の想いに気付いてしまった。それはもうその時には真由菜は優斗に恋をしてしまったのだと。ひとめぼれと言うには考える時間が有ったのだけど、既に恋はしてしまった。

 それから真由菜は志望校に合格して仲の良いグループが出来て、そこに優斗が居たことはイレギュラーだったけれど、嬉しい事だった。それでずっとその恋心を捨てないで暮らした。

 今までもずっと真由菜は、優斗の事をキライになったなんて記憶は無い。すっかりと離れてしまって勝手に諦めていた恋になっていた。

 そんな風に思いながら真由菜は缶ビールをカラにした。

「あたしの方が好きになったのは古いのか……」

 誰に言うでもなく、真由菜はビールは無くなったのに道路を見詰めながら呟いた。するとそこに見覚えの有る姿を見付けた。でも、それは試験の時の人では無い。

 真由菜は残念そうにため息を吐いて窓を閉めた。そしてさっき片付けたばかりのキッチンの方へ向かい、夕飯の支度を始めた。そうこうしていると玄関のドアが開いた音がして、リビングにさっきの人が姿を現す。

 それは徹也だった。「ただいま」も言わないで、ちょっと疲れたみたいな全く晴れやかでは無い顔をしているので、乃愛が一度嬉しそうに誰なのかを確認したけれど、徹也の難しい顔を見ると直ぐにテレビの方へ戻ってしまった。

 恵羽の方はと言えばその足音だけで判断したみたいで、振り返りもしなかった。

 子供の面倒はみない徹也なので、もう二人は父親に遊んでもらおうなんて事は無くなっている。

 真由菜も徹也の顔を見ると文句を言いたくなりそうだったので、料理の方へ専念していた。

 夫婦の、そして親子の会話も無く、徹也は黙ってダイニングテーブルに座ってスマホを見て、料理を待っている。阿吽の呼吸と言えば聞こえは良いのだが、真由菜も黙って夕飯を用意をし、テーブルに並べると徹也はビールを片手にゆっくりと箸を進めた。

 その間に真由菜はずっとほっといた子供達の面倒を見ようと、二人の元に近付くと乃愛はハッキリと喜び、そして恵羽は顔をテレビに向けたまんまで寄り添った。どちらも既にテレビには飽きてしまっている様で遊んでほしかった様子だったので、そんな姿を見た真由菜は心が和まされる。ほんわりと落ち着いてどうしてか嬉しくなってしまう。真由菜は心の隙間を子供への愛で埋めていた。

 冷めきっている夫婦に会話は無く、子供の笑っている賑やかな声が部屋に広がっていた。でも、そんな穏やかな家庭を良いとは思ってない人間が居る。もちろんそれは徹也だった。

 一家の主を無視をして、二つの世界が有るみたいに部屋を分断していた。それが徹也にも気に召さないのだった。そうしてスマホのゲームにも負けてしまったので、スリープにしてテーブルへと置くと徹也の座っていた椅子からは優斗のひまわりの絵が見えた。

 夕飯も既に無くなっていたので、ボーっと徹也はそのひまわりを眺めた。全く良い絵とは思えない。それどころかこの絵が自分の家庭を壊している気がして、段々と怒りが湧く様な気がする。徹也はゆらりと椅子から立ち上がると、ひまわりの絵の方へと近付く。近くで見ると更に腹立たしくなってしまった。

 なので徹也は、そのひまわりの絵を壁から取り外すと、ゴミ箱へと進んでポトっと捨てた。プラスチック製のペール型のゴミ箱は、額があちこちにぶつかってガタンゴトンと鳴った。

 その音に気付いたのは恵羽だった。振り返った恵羽は、壁に絵が無い事を不思議に思ってスタスタと近寄って、ひまわりの有った場所を眺めている。まだ壁には汚れも無かったけれど、普段との違いが明らかに有った。もうこの家にはひまわりの絵が有るのが日常になっている。恵羽はそんな壁から、今度はさっき音がしたゴミ箱の方へと歩み寄る。

 徹也はもうその場所には居なくて、冷蔵庫からビールを取っていた。

 恵羽がゴミ箱を見ると、自分の好きなひまわりがそこに有った。お菓子の箱なんかと一緒にゴミ扱いされているひまわりを見た恵羽は、急に怒った顔になってゴミ箱にダイブするみたいにしてひまわりを掴んだ。

 ゴトゴトという音がするので真由菜が振り返ると、その膝にいた乃愛も恵羽の方を見る。そこにはゴミ箱に捨てられた様になっている恵羽が居て、二人はビックリした。

 けれど恵羽はどうにかゴミ箱から這う様に出ると、愛おしいくらいにひまわりを抱き締めて、徹也の事を睨んで居た。

「どうしてひまわり捨てちゃうのよ」

 泣いてる瞳で睨みながら訴えが有る。

 しかし、徹也の方はそんな事も気にしてないみたいに恵羽を睨んで、その抱えているひまわりに手を伸ばそうとした。

 恵羽はちょっと怖がりながらもひまわりを守る様に身をかがめる。

 その時の徹也の手を叩いて払い除ける者が居た。それは乃愛だった。恵羽と一緒で泣いているけれど、真由菜譲りの強い瞳をしている。

 徹也はその乃愛を見ると、更に怒りを表して、手を今度は振り上げると降ろした。

 叩かれると思った子供達は二人共が目を瞑った。

 パシンと軽い衝撃音が部屋に響いた。

 恵羽と乃愛が二人で顔を見わせたけれど、どちらも痛そうにはしていない。不思議になった二人は音のした方を見る。

 そこには真由菜が居た。そんな真由菜の頬は赤くなって、子供から見ても痛そうだった。

 徹也が叩こうとした瞬間、真由菜はその間に立ちはだかりビンタを受けていた。

「子供を叩かないで!」

「コイツ等が言う事を聞かないからだ!」

「それは貴方が絵を捨てるからでしょ!」

 もう二人は喧嘩になってしまっていて、子供達は怯えているけれど、真由菜はそんな恵羽と乃愛を守る様に抱えている。

「そんな絵は無くても良いんだ!」

「絵は捨てさせない! あたしが守ります!」

 真由菜はそう言うと、一層絵を抱えている恵羽と乃愛の事を抱き締めた。

 そんな姿を見ている徹也は怒りが更に湧いて真由菜の事さえも睨んだ。そしてふとため息を吐くと、今までの怒りを無くしたかの様に落ち着いたけれど、真由菜の事を冷たく睨んだ。

「それなら、その絵を持って俺の前から消えろ」

 そんな事は出来ないだろうという徹也のあざ笑う様な顔が有って、真由菜はそんな姿を見ていると、腹立たしく自分がみすぼらしくなってしまった。しかしそれと一緒に真由菜の心では、それまで辛うじて繋がっていた糸がプツリと切れてしまった気がした。なので真由菜は子供達を守りながらも徹也の事を睨み返して近付く。

「じゃあ、そうします。これで終わりよ!」

 そう云って、真由菜は二人の事を抱えて子供部屋の方へ逃げた。

 徹也は予想外の真由菜の言動に、驚きながらも自分の思う通りにならなかった事に怒りを覚え、壁をガンッと蹴った。しかし、そんな事で徹也の怒りは消える事も無く、一度子供部屋の方を見て、更に文句を言おうと思ったけれど、真由菜が本当に自分の元から居なくなるなんて事は出来ないと考えると、取り敢えずアルコールで落ち着こうと冷蔵庫の方へ足を進めた。カツンッと缶のプルタブを開けて、ビールを胃へと流し込んだ。するとカッと熱くなるみたいだけれど、不思議と怒りは冷めた。なので徹也はダイニングテーブルに座って、更にビールを進めた。

 数分すると、さっきの怒りはすっかり落ち着いたけれど、真由菜への文句は募る。

 そんな風に思っていると、子供部屋のドアがカチャリと開いた。徹也はやっと真由菜があやまる事にしたんだろうとニヤリと笑った。徹也が黙ってリビングのドアの方には背を向けてビールを飲んでいると、子供部屋の方から真由菜の足音が近付く。

「いつまでも馬鹿な事を云ってんなよ」

 そう徹也が言いながら振り返ると、真由菜は堂々としてそこに居た。

 子供達は静かにしているけれど、廊下で待っている様。その姿はさっきまでのちょっとみすぼらしい部屋着では無くて、キッチリとした外を歩く格好をしていた。

「馬鹿な事なんかじゃない。もう貴方とはさよならにします」

 それだけを云って、真由菜は徹也のリアクションを見もしないで玄関へと向かって、恵羽と乃愛を連れるとさっさと居なくなってしまった。

 徹也は呆気に取られてしまって言葉も無くしていたけれど、もう静かになってしまった玄関を見ると怒りは再発した。ビールも無くなったのでその怒りをダイニングテーブルへとぶつけた。

 蹴られたテーブルは派手な音で転んで、載っていた料理の皿がガシャンと割れてしまったけれど、徹也はそんなのを片付ける気にもなれずに新しいビールを持って、ソファの方へと移った。怒りはどこまでも続いているので消えそうには無い。徹也はそれからも怒りをぶつけながら過ごした。

 真由菜達は宛も無くてただ歩いていた。これからどうしようと言う言葉が、真由菜には重くのしかかっている。恵羽の方はまだ良いけれど、乃愛はもう眠たそうなあくびをしていた。夫と喧嘩をしたからと言う理由でかくまってくれる様な友達なんてこの街には居ない。

 結婚してこの街に住み始めた真由菜にとって、友達は子供達の繋がる人ばかりになってしまっている。まだ学生時代の友達なら旦那の文句を聞いてくれる人くらいは居たのに。今はそんな話を出来る友達が居ない事を真由菜は心寂しくも思っていた。

 するとポンッと優斗の顔が浮かんだ。そんな風に思っていると不意に右手が引かれた。ボーッとしていた真由菜がそちらを見るとあれからずっとひまわりを持っている恵羽が見ていた。

「おっちゃんにごめんないさいって言いたい」

 怯えている様なその恵羽の言葉に、どうしてか真由菜は泣きそうになってしまう。きっと恵羽が優しいからこんな風になっているのだけど、真由菜は自分も会いたかったのだと気が付いたのだ。

 真由菜はその場で恵羽と乃愛の事を抱き締めた。

 夜の道端に僅かだけれどちゃんとした愛がある。まだ街なら賑やかだろうけれど、真由菜達の居る所は住宅街でこんな時間にはもう静かになっている。そこで母娘は愛を確かめていた。

 数分が過ぎた時優斗の携帯が鳴る。その画面の表示には真由菜の名前が有った。

「ハイ。こちらは君のストーカーです!」

 今の真由菜の事なんて知らない優斗はおどけた電話の受け方をしている。けれどこんな事はいつもで真由菜からの電話に優斗は、一つのボケから始めていた。

 普段だったら楽しそうな真由菜の笑いから始まる。

 でも、今はそんな事も無かったので優斗は間違えたかと思っていたけれど、それからも暫く真由菜の方からは静かだったので不思議に思っていた。

『も……しもし、今どうしてる?』

 やっと真由菜からの返事が有った。しかし、その声はかなり沈んでいるので、優斗は一度考えると、あえて明るく返す様にした。

「ちょっと打ち合わせで、悪徳画廊に居るよ」

『じゃあ、今からそっちに寄っても良いかな?』

「ちょいまち……オッケー。穂乃果も待ってるって」

 優斗は真由菜の落ち込みぶりに首を傾げながらも、ずっと自分を馬鹿にしている視線を向けている穂乃果に了解を取ってから返事をした。

『穂乃果ちゃんも居るなら救かるな。ありがとう』

 優斗はあえて真由菜が沈んでいる事を聞かないで、会ってから話そうと連絡事項はそのくらいで電話を切った。

 携帯を一度見つめてから打ち合わせに戻ろうと思って、穂乃果の方を見るとその人物はにこやかな顔をしている。

「真由菜ちゃんの来訪なのに、どうしてシノンくんは難しい顔をしてるんだい?」

「うん。ちょっとね……」

「コラ。私はシノンくんのマネジメントもしてるんだから、細かい事も話な!」

「それがさあ、水浦の様子がおかしくって……」

 穂乃果の笑みにうんざりしながらも優斗はちゃんとその期待に応えた。

「ほう、それはどんな風に?」

「うーん、普段の明るさが無くってな」

「まあ、誰だっていっつも笑ってるばかりじゃ無いって」

「例外も居るけど……そうなら良いな」

 優斗は穂乃果の事を見て、ため息を吐きながら話していた。

 そんな例外な人間は今だって笑っている。

「誰が悩みも無くてもう幸せそうにしてるって」

 今のため息の訳くらいは解ってたみたいに穂乃果は、向かい側の優斗の事を宿敵の様に睨む。

 だから優斗は穂乃果のに対して「アハハハッ」と今の言葉を消すみたいに笑っていたけれど、パシンと叩かれるのは仕方が無かった。

 この二人はいつだってこんな風に話を面白くするばかりなのだが、今は真由菜の事を心配しているのであえてそうしてるのだった。

 優斗の本心から言うなら、今にだってじっとしてられないくらいに心配しているのに、穂乃果が冗談に付き合ってくれているので、紛らわせられるんだ。

 そして穂乃果の方にしても、もう完全な友達なので真由菜がどうしてそんなになっているのか悩んでしまいそうなくらいなのに、優斗が笑っているから安心できる部分も有る。

 こんな風に二人は心配を打ち消しながらも、取り敢えずは真由菜の事を待とうとした。もう打ち合わせをする雰囲気では無くなってしまって、手持ち無沙汰な穂乃果は真由菜の為に紅茶やお菓子の準備を始めていた。

 真由菜の家から画廊まではそうは離れていない。十分程有れば到着する。優斗がそう思って時計を気にした時に、一台のタクシーが画廊の前に停まった。窓からその風景を優斗と穂乃果が眺めていると、降りたのは真由菜達だった。

 てっきりバス移動かと思っていた優斗が、その登場に若干慌てながらも喜んでいる部分も有るので、迎えようかとウロチョロしている間に、穂乃果が俊足でその横を通り過ぎた。穂乃果からしてみれば、真由菜だけでは無くてその子供達が居たから優斗みたいに格好を付けずに走ったのだった。

 優斗がそんな事に呆れていると、穂乃果はもう眠たそうな乃愛を抱っこしていた。

 そして画廊で待っていた優斗の元に涙を浮かべている恵羽が走り寄って抱き付いた。

「恵羽ちゃんどうかしたの?」

「あのね。パパがひまわりの絵を捨てそうになったの。だから、ゴメンナサイ」

 しかし、その手にはちゃんとひまわりが有るので、優斗には恵羽が泣いてまであやまっている意味が解らなかった。そう思いながらも優斗は恵羽の事をヨシヨシしていると、真由菜も近付いた。その表情はこちらも申し訳無さそうだ。

「あのね。私が旦那と喧嘩しちゃって、その腹いせにひまわりが捨てられそうになったんだ」

 真由菜からの説明が有ったのだけれど、優斗には全く解らなかった。でも、取り敢えずいつまでも恵羽の涙を見たくない優斗は、落ち着かせようと思ってしゃがむと幼い子と顔を合わせる。

「そっか。でも、恵羽ちゃんは絵を捨てなかったんだよね。じゃあ、おっちゃんからはありがとうって言わないとね」

「うん。私はおっちゃんの絵が好きだから守ったの」

「ホントに? 嬉しいな。じゃあ、ゴメンナサイは要らないよ」

 優斗がそう云ってニコッと笑うので、恵羽も安心したのかさっきまでの涙は消えてしまって、その顔も華やいだ。

 しかし優斗が真由菜の方を確認すると、こちらには笑顔なんてものは無かった。

 それで次に優斗は穂乃果の方を見る。

「恵羽ちゃんもお菓子が有るからおばちゃんの所においで。ママはちょっとお話が有るんだって」

 穂乃果は棚からクッキーの缶を取って、恵羽の事を呼んだ。

 乃愛に関しては、もう穂乃果の足元を嬉しそうにチョロチョロしている。恵羽も一度良いのかと母親の方を見ると、真由菜もうんと頷いているので、喜んで近付いた。

「ちょっと、飲み物でも買おうか?」

 もちろん画廊にはどうしてか解らないが、子供でも喜ぶ飲み物くらいは常備されているのだけれど、優斗は言い訳をして真由菜の事を呼んだ。

 真由菜は切なそうな瞳で見ると返事もしなかったが、優斗に続いて画廊から離れる。

 窓から穂乃果と子供達が見えるので優斗は恵羽と乃愛に手を振った。すると子供達も笑顔で振り返す。

 母親が居なくて寂しいなんて事は無さそうだと、真由菜も安心してみんなの事を見ていた。

 子供達の横では穂乃果さえも笑顔で手を振っているので、優斗がそっちに向けて「馬鹿」云っているので、つい真由菜も笑ってしまった。

「やっと笑ったな。今日はどうしたんだ?」

 歩き始めると、優斗はそんな真由菜に気付いていたみたいで、ボソリと云った。

 真由菜は自分でもさっきまで落ち込んでいたのを忘れていたので、ハッとしながらも優斗と並んで歩いた。でも、今の心の重さを全て話してしまいたいと真由菜も思っていたので、もう一度隣の優斗の顔を見た。

 優斗はそれに直ぐに気付いて、穏やかな顔で首を傾げていた。

「ゴメン。さっき嘘を付いた。喧嘩したのは絵を捨てられたからで……」

「ってか、恵羽ちゃんもだけど、それは俺にあやまる事なのか」

「うーん、やっぱ、申し訳無くて」

「そんな事を気にしなくても良いよ。まあ、捨てられたらショックだけど、それは持ち主の勝手だしな。それで? 喧嘩して文句を聞いてもらいたかったのか?」

 優斗はトボトボと歩きながら、近くの自販機へと近付いていた。

「確かにそう。文句を言いたかったんだけどね」

 言い訳をするみたいに喋りながら歩いてた。そんな真由菜だったけれど、もう心には涙なんかでは無い冷たい氷が落ちている。今の真由菜はその氷に冷され潰れて自分が壊れそうにもなりながらも、子供達が居る事と優斗が話していると言う温もりに頼ってどうにか今を保っている。

「なら話せば良い。俺は文句だろうと、君の話だったら聞くよ」

 自販機に付いた時に優斗がにこやかに振り向いていた。

 それを見た時に真由菜はふっと重い荷物を持ってもらえた様に心が軽くなる事に気が付いた。それは単なる慣用句ではない。本当に真由菜はさっきまで重くて苦しい思いがスッと無くなって、それと一緒に自然と涙が流れ始めてしまった。

 もちろんそんな事になってしまったので、驚いたのは優斗だった。普段通りに優しい事を云っただけのはずだったのに、振り返ったら真由菜が泣いていた。優斗からしてみれば好きな人の涙なのだ。そんなものは見たくなんて無いので、ついキョドってしまう。「どうしたんだよ」なんて言いながらも、泣いている人にとっては明る過ぎる自販機の電灯から腕を引いて離した。

 そんな事では真由菜の涙は終わりそうにも無いので、優斗は周りを見渡すと、そこにはいつもの公園が近かったので腕を引いてそっちまで移る。

 公園は街灯が灯っていて、暗いなりにも優しい明かりが有る。泣いている人が居ても、それはロマンチックになるばかりで悲しみは無くなってしまいそうだ。

 優斗はそんな街灯の元まで真由菜を連れた。優斗の選択は間違いでは無さそうだったけれど、真由菜の涙がそれだけで無くなる筈なんて無い。グスグスと泣いている真由菜に優斗は、どうしたらこんな弱ってしまった心の力になれるのか解らなくて、ただ困って心配そうな目で真由菜の事を眺める事しかできなかった。

 格好悪い。好きな人の悲しみを消す事も出来ないなんて、とても無様でみっともない。優斗はそんな風に思いながら、真由菜の事を見つめるばかり。

 真由菜は涙が付いている瞳で優斗の事を見た。そこには困りながらも、どうにか救いたいと思っている優斗が居て、真由菜の事をずっと心配そうに見ていた。真由菜はそんな優斗の目を見ると、勝手にうんと頷いた。すると二人の距離が急に近くなった。真由菜が涙も忘れて優斗へと抱き付いたのだった。

 こうなると困ってしまうのは優斗の方だ。あまりに急な事で、それに真由菜とこんなに近付いた事なんて無かったから、一度はパニックになってしまった。けれど、確かにそこには好きな真由菜がさっきまで泣いていたので、優しく背をポンポンと叩き始めた。

 真由菜は鼻を鳴らしていたけれど、それも時間を追う毎に収まって、どうやら涙は本当に無くなったみたい。

 優斗は自分にも真由菜の涙を無くせるだけの価値が有ったのかと安心していた。

 真由菜は五分程、優斗に顔を埋めていた。そしてすっかりと落ち着いた時に真由菜は顔を挙げた。もちろん近くには優斗の顔が有る。

 優斗からはとても近いので照れてしまっては居るけれど、ちょっとキスをしたいと思う自分も心には有ったけれど、そんな想いは今の所は雑草でも取るみたいに切り捨てた。そうして若干顔を赤らめながらも、真由菜の事を見る。

 真由菜の方はとても真剣でそこには照れなんて無かった。

「篠崎、お願いが有るんだ。あたし達の事を誘拐してくれない?」

 二人の瞳が近くに有るのに、真由菜から綴られたそんな言葉。真由菜はそれを言い切ってもまだ真剣な顔に、そして瞳が有る。冗談みたいな話だけど違っている。真由菜の瞳がこれは冗談ではないと語っている。

 優斗はそんな瞳をいつまでも見てられなくて離れた。そして笑う。笑顔になって真由菜の事を優しく眺めていた。

「今は駄目だよ」

「どうして? 篠崎はあたしの事をが好き……なんだよね」

「うん。そうだよ」

 フーッとため息を付いて、優斗は穏やかな表情をして話していた。

「今ではもう、あたしも篠崎の方が好きなんだよ」

「それは……素直に嬉しい」

 優斗はその瞬間にちょっと笑顔を照れくさそうにニヤつかせた。

「だったら。あたし達をあの人の所から遠ざけて!」

「けれど、それは駄目」

「解らない。どうしてそんな意地悪な事を言うの? あたしには味方が居ないの?」

 すると真由菜は首を振りながら、再び泣き声みたいになって話していた。

 優斗はそんな真由菜に再び近付くと、今度は自分の方から真由菜を抱き締めた。優しくもしっかりと。

「俺は、いつだって水浦の味方だよ」

「だったら!」

 そんな優斗の腕を真由菜は振り解こうとした。

 それでも優斗は許さなかった。

「そんな一時の考えで言われても、うんとは言えないよ。どんな事が有ったのかは知らないけれど、今日は家に帰りなよ。それでもやっぱり俺と一緒に居てくれるなら、その時は四人で世界の端っこまでだってお伴します。んで、文句ならまだ聞く人間は居るみたいだ」

 話の終わりに優斗が面倒そうな言い方をした。

 なので真由菜も気になって、優斗の視線の方を振り返る。

 そこには気まずそうにしながらも、かくれようともしないで手を振っている穂乃果が居た。

「ちょっと子供達が待ち疲れて眠っちゃったから、二人を探してたんだけど……お邪魔?」

 お茶目な表情で穂乃果がそう語ると、真由菜はブンブンと首を振った。

「今の聞いてたんだろ?」

「そんな風に思われると心外だなー。聞こえてはいたけど」

「じゃあ、穂乃果に聞いておくけど、さっきの俺の言葉は間違いかな?」

「そーだねー……シノンくんには間違いかもしれないけど、真由菜ちゃんには正解だと思うよ。私も今日は帰った方が良いと思うから。もちろん文句は無くなるまで聞くけど」

 全く悩んで無さそうな顔をしてから、穂乃果はニッカと笑って返していた。

 すると話に納得したのか、真由菜は優斗の元から離れる。

 もちろん今度は優斗もそれを簡単に許した。

 次にタンッと真由菜は足取りも軽く穂乃果へと抱き付いた。

「解った。二人共ありがとう」

 真由菜はもう涙の声は無くなって喋っている。ギュウっと穂乃果の事を抱き締めて自分の心を包んでいた。

「私も真由菜ちゃんの味方だからね」

 抱き付かれた方の穂乃果は、真由菜の事をヨシヨシをしながらも、一度優斗の事を見てウインクをした。

 それに優斗は複雑な顔をしながらも、うんと頷いた。そして二人の方へ近付くと「子供の事が心配だから」と画廊に戻ろうと云った。

 穂乃果はもちろん真由菜もそれには賛成して、三人は飲み物の事はすっかりと忘れて真っ直ぐに戻った。

 絵画教室の方に有るソファでは恵羽と乃愛が仲良さそうに並んで眠っていた。そんな二人を一度確認した真由菜が、画廊と絵画教室の間のテーブルに戻ると、そこにはもうコーヒーが用意されていた。

「と言う事で、存分に文句を聞く準備は整ってますよ」

 明るくて華やかな笑みがそこには有る。優斗と穂乃果だ。

 そんな優しさに真由菜は心が、ふっと軽くなるのを確かに覚えていた。子供達も静かに眠っているので、真由菜はずっと心に沈めていた想いを全て話す。基本的には、徹也との結婚生活の事。実はこれまであまり仲の良い夫婦とはいえなかった事や、自分を見殺しにまでしていた話しなんかを続けた。明るい事なんてあんまり無くて黒い話題ばっかりで、時折真由菜が涙を見せるのでその度に穂乃果が優しく抱き締めて聞いていた。

 どんな話になっても二人はどこまでも味方をする。でも、それは二人が味方をすると云ったからでは無くて、真由菜には悪い所が無かったと優斗と穂乃果は思ったからだった。

 真由菜はこれまでの結婚生活を本当に頑張っていた。それはミスが無い様にとの真由菜の心が有ったから。これまで徹也と続いていた事もそして、子供達が真っ当にそして愛らしく育っているのが答えでも有った。

 でも、それは他人から見ると頑張り過ぎなところでも有ったので、今の様に真由菜の想いは壊れ始めているのだった。話は三時間以上も続いて、真由菜はすっかりと文句を言い切ってしまった。

 もう今日が終わろうとしている。その時に真由菜はかなり心は軽くなっていた。これからの宛も無く、話は終わったので画廊は静かになっていた。

 穂乃果はもう文句は無いのかと言葉にはしないで真由菜に顔で示していた。

 すると真由菜からは微笑みが返る。

 優斗はもちろんだったけれど、穂乃果からでもその笑みに嘘が無い事が解った。穂乃果が真由菜と出会ってから一番の笑顔だ。

 そんな懐かしい自分の好きな笑顔を改めて確認した優斗はパシンと軽く手を叩く。

「さて、それでは帰りましょうか。送るし」

「うーん……やっぱり帰らないと駄目? 穂乃果ちゃん今日だけでも置いてくれない?」

「駄目!」

「シノンくんもそう言うし、置けないな。それに帰れない程の理由は真由菜ちゃんには無いよ。堂々としてなよ」

 ちょっと迷っている真由菜に、優斗が即答したので、穂乃果は一度安心した表情で頷いて話していた。

 するとしょうがないと真由菜は自分の帰り支度をして、子供達の方へと向った。

 優斗もそこに現れて重たい方の恵羽を抱っこした。

 恵羽は一瞬目を開いて優斗の事を確認すると、ギュッと抱き着いていた。

 乃愛の方は真由菜が抱っこをして帰る。

 穂乃果がその間にタクシーを呼んでいてくれた。なので、もう既に画廊の前にはタクシーが待っていた。

「それじゃあ穂乃果ちゃん、今日はありがとうございました」

 そのタクシーに乗り込んだ真由菜は見送りの穂乃果へと礼を云っている。

 人数的に並んで座れないので恵羽を真由菜の横に転がそうと思ったけれど、離れようとしないので優斗が格闘している。

 穂乃果はそんな風景を笑いながら反対側に回る。

「気にしないでまた文句が言いたくなったら、いつでもおいで。私もお喋りしたいから」

「まあ、文句はあまり無い様に、今度は楽しいお喋りをしましょう」

 道路側の窓を開けて、真由菜は穂乃果に返事をしていると、やっとの事で優斗が格闘に勝った。

 真由菜の左足に恵羽が抱き着いて重みが伝わった。

「じゃあ、穂乃果、こんな時間まで悪かったね」

「打ち合わせよりも楽しかったから良いよ。でも、仕事も忘れないで」

「忘れてた」

「コラー! 私達はビジネスパートナーだって事を忘れんな」

「すんません。メールします」

 今日の本来の目的をすっかりと忘れてしまっていた優斗と、本当には怒ってない雰囲気な穂乃果の会話を聞いて、真由菜が笑っている。

 そして別れもこの辺にして優斗もタクシーの助手席に座って、発進した。

 穂乃果はタクシーを見送り、暫くしてその影も無くなっても暫くその場に居たけれど、ヨシとガッツポーズをしてから店に戻った。さっきのコーヒーなんかを片付けると、今は店がもう静かになっているのでちょっと寂しくなって携帯を取った。そして自分の夫へと電話をする。深夜にも関わらず穂乃果は楽しそうにそれから会話を続けた。こちらにも確かな愛が有った。

 タクシーは街を静かに子供達を起こさない様に進んで、真由菜の家に付いた。

 支払いをしてから優斗は恵羽を抱っこする。

 その時に真由菜が優斗の顔を深刻そうに見ていた。

 けれど優斗はそれを気にしてない様に、軽く良く見てないと解らないくらいに微笑んで「よっと」なんて言いながら恵羽を連れた。

 真由菜はその優斗の事を見て、一度瞳を閉じてからタクシーを降りた。

 そこにはこれまで生活していた家が有るけれど、今ではちょっと近寄りたく無い所になってしまっていた。住宅街のこの辺りでは高層とも言える建物に進むけれど、二人は会話も無かった。真由菜がエントランスで鍵を使ってオートロックの自動ドアを開けて、エレベーターへと進む。軽やかなモーター音でエレベーターは階を進めているけれど、真由菜の心は張り裂けそうになっていた。

 徹也に会いたくない。そればかりが真由菜を包んでいた。それでも優斗は自分達が住んでる部屋の場所を知らないので、真由菜はそれを教える為にも足を進めるしか無かった。家のドアまで辿り着くと、真由菜は一旦、目を伏せて、自分の右手に有る鍵を持ち上げようとしない。怖かった。

 優斗は横でその姿を見ていたので、真由菜の肩をポンと叩く。

 真由菜はビックリして優斗の事を見た。そこには穏やかな顔しか無かった。

 優斗は真由菜の肩を叩いてから一歩進むと、西川と表札の有る部屋のチャイムを鳴らした。返事は無くてドアからは人の気配が近付く。そして鍵がカチャンと開いた。エントランスの自動ドアを開いた時に部屋にはその通知が届いていたので、徹也には解っていた。なのでインターホンは使わないで徹也はドアを開いたのだ。そこに居た徹也は酔って赤い顔をして睨んでいた。優斗が居る事は知らなかっただろうが、真由菜でも睨むつもりだったみたいで、元々気分の良い顔なんてしてなかった。

「なんだ、帰ったのか?」

 徹也は優斗の事を睨んでから周りを見渡して、真由菜を見付けると馬鹿にした様に話している。その時に優斗の事を完全に無視をしていた。

「友人とも話し合って、帰らせる事にしました。水浦、子供達を……」

 返事は真由菜が俯いてしまっているので、優斗が返していた。

 それで優斗が眠っている子供達の事を気にしてたので一応、徹也も道を譲った。

 真由菜がまずは自分の抱っこしている乃愛を連れて子供部屋へと向かう。

 その間もずっと徹也は子供の事なんて気にしないで優斗の方をずっと睨んでいた。

「妻が面倒を掛けた様で……」

「こちらこそ、お話が楽しくてこんな時間まで……」

 文面では友好的な会話だったけれど、雰囲気はとても重たくてそんな事は無かった。

「皆の事は好きにしておいても構わないが」

 冷たいばかりの音がそこには通る。徹也の言葉は真由菜の事を想っているとは優斗からは全く思えないそんな雰囲気だ。優斗は恵羽の事を抱っこしているが、徹也はそれを受け取ろうともしない。いまだに右手にはビールの缶を持って背をドアに預けて、明らかに酔っ払いの顔を優斗へと向けていた。

 そうしていると真由菜が子供部屋の方から戻って近付いた。

「ゴメンね。ずっと抱っこさせちゃって」

 それは徹也への文句でもあったのかもしれない。父親なんだから抱っこしてとの意味合いにも聞こえるけれど、当の徹也はそんな事も気にしてない。その様子に真由菜はため息を吐きながらも、気にしないようにしたのか徹也を無視って優斗へと近付く。

 乃愛よりも明らかに重たい恵羽を優斗は真由菜へと渡す。

 その時に若干眠りの浅かった恵羽がちょっとグズった。

 真由菜に抱っこされているのに、優斗の服を掴んで離さない。それを見て優斗と真由菜はクスリと笑ったけれど、徹也はうんざりと言う顔をしている。こんなところでも三人の心の違いが有る。

 真由菜が「はいはい」なんて言いながら恵羽の手を優斗の服から剥がず。予想は付いていたけれど恵羽はグズり始めて、真由菜が急いで子供部屋へと連れるけれど、さっきみたいに直ぐは戻らない。

 今度は本当に優斗と徹也の二人っきりになった。

 徹也は面倒そうな顔をして、優斗の方は見ずに真由菜の戻るのを待っていた。

 しかし優斗はそんな事は無くて、さっきまでの笑顔さえ有る穏やかな表情は無くしてしまって、徹也の事を睨んでいた。

「ちょっと、お話があるんですけど」

「はい? 私にですか?」

 不思議そうな顔をしている徹也が、その赤らんだ顔を優斗の方へ向けて話を待っている。

 しかし優斗は強く徹也の事を睨んでいた。

 話をしようとはしないでいるので徹也がふと怪訝な顔をする。

 そうした時に優斗は徹也の襟元を掴んで、自分の方へと引き寄せた。徹也の酔っ払った身体は簡単に玄関の外まで連れられると、開いていたドアを優斗が片手で閉めた。そしてそのドアへと徹也の事を怪我をしない程度だが、かなり強く叩きつける。優斗は徹也の襟元を更に締めて顔を近付ける。その顔は怒りを明らかにしていた。

「今日のアイツはとても可哀想だった」

 今にも殴ってしまいそうな雰囲気の有る優斗だけれど、そんな事は無くて言葉を言う時に徹也の身体をドアへと押した。

 なので徹也は持っていた缶を落とした。カランと乾いた音が広がる。

「だから? それが?」

 対している方の徹也も優斗に怯える事なんて無くて、落ち着いて冷たい目で睨み返している。徹也は優斗の手を払う事も無くて、襟元を掴まれながら冷静で居る。

「俺の所に自分を誘拐してくれと云ったんだぞ」

 優斗の怒りは消える事も無くて、更に徹也の事をドアへと叩きつける。

「好きにすれば良いさ」

 その言葉に徹也の優しさなんてものは全く無かった。冷たくてただ離すだけの言葉。

「そんな風に言わないでくれ。彼女に優しくはなれないのか!」

「お前なんかに指図されたくないね」

「頼むから彼女に幸せを送ってくれないか?」

「それはアイツ次第だな」

 二人は話し合っているけれど、その時にドアの反対側で物音がした事には気付きもしなかった。

「貴方にそれが出来ないと言うのであれば、次は有りませんから」

 優斗はやっと徹也の事を離して、襟元をポンポンと直しながら話していた。

「勝手にすれば良い」

 対する徹也の方も吐き捨てるみたいな言葉を呟いていたが、優斗はその時にはもうその場から離れて歩き始めていた。ちょっとまだ苛ついている。本当はもう一言、真由菜を安心させる事を伝えようと思っていたのだけれど、そんな雰囲気でも無くなった。

 優斗はそのまんま自分の家まで帰ったけれど。よほど怒っていたのかその帰り道がぼんやりとしている。取り敢えず今日の事は自分の良い記憶だけを残してしまおうと毛布に包まった。気分の悪い思いはバッサリと芝刈り機で切り落としてしまって、綺麗になった広場に真由菜と恵羽と乃愛の笑顔の華だけを植える様に自分の記憶を綴った。かなり難しい事でも有ったけれど、そうしていないと心がまともで居られなかった。

 それからの日々もあえて真由菜達は幸せだと思い、自分は忙しくする事にしている。カラオケ屋でのアルバイトをしながらも暇を見付けると新作を描いたりもする。そしてそれも進まない時には似顔絵屋の開店となる。もう最近になると地下の端っこの方に店を開いていたと言うのに噂が広まって客が集まる様になっていた。時には順番待ちまでする人も居た。優斗はアルバイトが休みの日に題材を探しながらも、今日も似顔絵屋を開こうと街をふらつく。

 まだうっかりしている格好だと寒いくらいの日々が続いている。今日の優斗はそんな天気予報を確認して厚着をしていたのでちょっと暑い。着ていたフライトジャケットを腕に掛けて歩いているけれど、絵の題材は全く見つからない。スランプでは無い。優斗にはこんな事が良く有るのだった。なのでその点に関しては画商の穂乃果には悪いけれど、あまり気にしない事にして地下の繁華街へと進んだ。

 自分の店のスペースを見るともう既に場所使用の予約の札が置いてあるので、そこにはお客さんが待っていた。優斗はゆっくりとしたかったけれどこんな事で客を逃がしても仕方が無いので、急いで店の準備をしてから似顔絵を描き始めた。この辺りでは有名になってしまったので他に移ろうかと考えながら描いていると、順番待ちをしている人が現れた。似顔絵の方に真剣だった優斗は、それに気付きながらも今の客の方だけを相手していた。もちろん完成した似顔絵は喜ばれて次の客へと進む。

 しかし、優斗が並んでいた客の方を見た瞬間、その表情は明らかに残念そうになった。

「お客に対しての顔じゃないよね?」

 とても良く会うばかりの人からそんな風に問われた。それは、ほぼ毎日会っている人間で、もちろん優斗の恋しい人、真由菜では無い。それは優斗の表情が物語っている。

 前島と仲原のカップルで並んで居たので優斗はこんな表情だったのだが、一応仲原の方には営業用のスマイルを送っておいた。

「だって、お客さんじゃないでしょ? 暇じゃないんだから、冷やかしなら帰って」

「つれない事を言わないでよー。俺達の仲じゃない」

「副店とは仕事の仲以上では無いですよー」

 優斗の言葉に遠慮なんてこれっぽっちも無かった。

 前島はがっくりと肩を落としてしまっている。でも、これはどちらも冗談なのだった。

 優斗の方だってそんな風には思ってないし、前島も本当に落ち込んでなんかして無い。これはいわゆるボケに対するズッコケだったのだ。

 そんな明らかに仲の良さそうな二人を見ながら、仲原が横で微笑んでいた。

「篠崎さん、今日は私達お客さんのつもりなんですよ。お喋りはしますけど」

「うーん、それは有り難いんだけど……知り合いからはお金取りたく無いなー」

「ラッキー! だったら、ただで似顔絵お願い!」

 仲原の方から注釈が有ったけれど、優斗が似顔絵の準備を始めながら話すと前島が喜んでいた。

 しかし、その横で仲原は「コラコラ」と睦まじい姿を見せていた。

 なんだかんだと文句を言いながらも優斗はさっさと似顔絵を描き始める。まだ待っているお客さんも居るから、こっちを待たせるのも悪い。そしてさっくりともう見慣れている前島と仲原を描き進めた。

「それで? 今日も二人はデートなの?」

 一応の営業トークとして優斗はいつだってこんな風に似顔絵を描きながらもお客さんと話をする。もちろん今日は普通のお客さんではないのでかなりフランクな話し方。

「そうだよ。ラブラブだから」

「帰りが一緒の時はご飯するだけですよ。副店、自炊出来ない人だから」

 どうやら今日は二人のシフトは業務終了時間が一緒だった様子。でも、そのシフトでさえ副店長の前島が組んでいるので、ある程度自分の思うまんまだ。

 十分にデートと言えるくらいで、仲原もそれなりにおしゃれをしている。

 優斗から見ると完全にデートなのだった。

「それは羨ましいな……」

 二人の笑顔を描きながら優斗は呟いていた。

 しかし、これは間違いだったのかもしれない。二人にこんな事を言えば話題は、地球を狭いと言わせるくらいに広がってしまい、似顔絵が完成したとしても終わらないかもしれない。

「ほう。面白そうな話題だ!」

 前島はそれまでよりもクシャリとしたブサイクにも思える笑顔になった。

 やはり優斗は間違えたのだったと悟った。だから、そんな笑顔を優斗は一度、似顔絵から目を離して睨んでいた。

 こんな事は再々有るので前島はあえて黙った。すると話し相手が選手交代する。

 スラッガーの仲原が代打になった。

「篠崎さんもご飯くらいなら、真由菜さんを呼べば良いのに……」

「ちょっと、今はアイツの事をそっとしておこうかと」

「それは篠崎さんの優しさ、ですよね。どうかしたんですか?」

 かなりのネゴシエーターな仲原は、会話となっている時はストレートに質問をしている。

 優斗の方も丁度、似顔絵の重要な所だったのであまり深くは考えないで答えを導いてた。

「この間、会った時に夫婦仲が悪いって聞いて」

「チャンスじゃ無いですか」

「そうなのかもしれないけど……」

「けど?」

 優斗は普通に今日の天気の話しでもしているかの様に答えていた。似顔絵の方に真剣になっているので、優斗は簡単に本当の事を話してしまっている。

 それに対して、仲原は無駄な言葉を言わないで、最小限の返事で次の優斗の言葉を引き出す様にしている。今、妙な聞き返しをしたならば優斗だってそれに気付いてしまい嘘をつくだろうとの仲原の考え。しかし、やはりそれは策略と呼べるくらいの芸当だった。

「アイツが落ち込んでる時を好機にしたくなかった。俺って馬鹿だなー」

「馬鹿じゃありませんよ。真由菜さんも篠崎さんの優しさは解ってますよ」

「だと良いんだけど……」

「真由菜さんはどう云ってたんですか?」

 もう似顔絵は完成に近付いている。今ミスをしてしまっては全てが終わってしまう。優斗は真剣だったので話の方は気になって無い。

「自分を誘拐してくれって……」

 だからこんな風に本当の事をすんなりと話してしまった。似顔絵の重要な所が完成して、仕上げに二人の顔を見た時優斗は自分が話し過ぎていた事に気が付いた。

 でも、そんな事はもう間に合わない。非常に楽しそうな前島の顔が憎い。

「それはちょっと穏やかじゃ有りませんね……私も話を聞いてみますね。似顔絵、完成しました?」

 ただ仲原だけが真剣な顔をしていて、優斗もボケッとしていたので、返事も適当に一応完成させた似顔絵を渡した。その絵を見た仲原はさっきまでの真剣な顔をすっかり消してしまって笑っている。

 だから優斗からは話も無くなってしまう。

 取り敢えず二人の料金はタダにすると前島は喜んで恋人とのご飯の為に街へ進む。

 優斗の似顔絵屋にはもう次の客も居た。仲原は自分の彼氏との似顔絵をちゃんとカバンへとしまってから歩き始めた。隣で前島が「ご飯どうしようか」なんて云っているけれど、そんな言葉に「うるさい」と返して携帯とにらめっこを始めた。返事が明らかに聞いてない適当になってしまった仲原に、前島は語りながら今日の晩ごはんはトンカツ屋にしておいた。

 仲原からの文句は無かったけれど喜んでいる様子も無いので、前島としては面白くもない。前島のダブルロースカツと仲原のヒレカツの二つの定食が到着しても、恋人の華々しい会話は無かった。

 ずっと仲原は携帯を見つめていた。

「さっきから誰とメッセージしてんの?」

「真由菜さん」

「シノくんとの事を聞いてるの?」

「うん」

「トンカツ冷めちゃうよ」

「そうね」

 前島がどんな風に聞いても仲原からの答えは考えてる様子も無くて、サクッとトンカツの衣の様に必要最低限の返事しか無かった。

 それからも仲原は携帯を手から離さず、前島がトンカツを盗んでもそんな事を怒られる事は無かった。普段の仲原ならこんな事は無い。前島がちょっとお茶目な事をするとかなりの強さで怒られてしまうのだ。

 だから前島はかなりつまらなくなってしまった。ご飯も適当に終わって、いつもだったらまだ街をブラついたりお茶をしながら喋ったりするのだったが、今日は仲原の方から軽く片手を挙げて「それじゃ」って言われてしまった。もう前島には言葉が無くなって、自分の元から離れる仲原を見る事しか出来ないでいた。

 もうそれは哀しく彼女に捨てられた人間の様だったのだけれど、別にそんな訳でも無かった。寂しい前島はすっかり暇になってしまったのである所へと進んだ。

 それはさっき通った道。前島は優斗の似顔絵屋に戻った。列までは無かったけれど、似顔絵屋にはお客さんはまだ居て、次も数分で現れていた。

 しかし、そんな事を気にしないで、前島は優斗の近くに座って静かに待っていた。

 だが、優斗の似顔絵屋は閉店時間は特に考えていない。一応場所の借りている時間は有るのだけど、優斗はそれまで開いている事は無かった。それでも普段の閉店時間まではまだかなり有る。

 優斗が前島の事を見ると恨めしそうな瞳で睨んでいる。そうなると優斗はため息を吐くしかなかった。数人の客をその状況で対応して一時間程が過ぎた。

 一度お客さんが途切れた時に、優斗はやっとそれまでは無視をしていた前島の方に近付く。

「営業妨害なんですけど」

「俺から彼女を盗っておいてよくそんな事を言えるな」

「そんな記憶は無いのですが……」

「こっちには有る。だから付き合え!」

「解ったよ、全く……」

 優斗が片手で顔を覆いながら答えたが、その返事に前島は喜んでいた。さっきまでの表情が演技の様に今はもう落ち込んでいる雰囲気は無い。

「今日は稼げたの? シノくん奢りになるかな?」

「場所代くらいにしかなってない! ワリカンだ!」

 あくまで似顔絵は趣味なので、こんな事も出来るのだが、問題では有る。

「恐いからそんなに怒らずと、穏やかにね」

 どうにもこんな悩ませるばかりの人がそこには居た。前島は穏やかな顔をしながら優斗の肩をポンポンと優しく叩いていた。

 優斗は店を片付けてから「しょうがない」と前島と一緒に街へと進んだ。

 こんな二人が揃ったって面白い話なんて無い。まあ、確かに馬鹿話ばかりなのだけれど、それは特に重要でも無くて単なる前島の酒のあてとなるだけだった。

 一方で仲原はそれからずっと真由菜とメッセージを交わして、家に帰り着いた時には電話になっていた。話し始めは別にどうって事も無い世間話だったけれど、これは仲原の話術でも有って段々と本当に聞きたい事になっていた。それはもちろん優斗との間柄で、この間の真由菜が「誘拐してくれ」と云った真相とそれからの事。

 仲原はそれが聞きたくて彼氏の前島を無視ってメッセージをしていたのだ。そして電話になった今にはもうこれまでの事を聞いていた。

「それで、真由菜さんはどうして誘拐なんて云ったんですか?」

『篠崎、そんな事まで話したの……?』

 電話の向こうの真由菜はちょっと呆れた様な話し方にさえなっている。それは当然とも言えて、そんな細かい事までも仲原に話しているのかと思うと、優斗の軽さが気になるからだ。でも、そんなのは真由菜の心配でしかなかった。

「それはもう! 私、CIAなもんで尋問しました」

『アイツ……ヘボだなー』

「いえ。私の尋問術が勝ってるんです。真由菜さんからも細かい話を聞けてますし」

 それに対して真由菜からの返事は無かった。

 自分でも仲原に全てを話している事を思ったから。優斗もこんな風に話してしまったのかと納得もしていた。更にそれと一緒に、まあ仲原ならば真意を話してしまっても構わないと真由菜は思っていたのだ。つまりは仲原も敵では無くて自分の味方と信じた。

『それで、その優秀な捜査官さんは、あたしにどんな事を聞きたいの?』

「それは、もう尋問しなくても話してくれるって事ですか?」

『うん。そうだね。彩花ちゃんはあたしの想いを、面白可笑しく聞くんじゃ無いって思ったから』

「そうですよ。私は真由菜ちゃんの害にはなりません。けど一つ覚えといてほしいのは、篠崎さんの為にも働きますから」

 真由菜はその時、空を見ていた。

 もう深い闇になって綺麗な星が閃いている。そこは真由菜の家のベランダで子供達は既に部屋で眠っている。

 そして徹也は居なかった。

「うん。解ってるつもり。それで良いよ」

 ちょっとだけ星を見て考えた真由菜は、ストンと語っていた。

『真由菜ちゃんは篠崎さんの事が好きなんですか?』

「好きだよ」

『それは旦那さんよりも』

 とても星が綺麗で真由菜は携帯片手にずっと眺めていた。だからなのか話し難い事も素直に言える様な気がしていた。

「そうだね。だから誘拐してって云ったんだし」

『それで一度家に戻って見て、今はどうですか?』

「好きはそう簡単に消えないよ。って言うよりも旦那への愛が無くなってる。ちょっとグチになるけど聞いてくれるかな?」

 真由菜はこれから話す事が、綺麗な星に勿体無い気がして部屋に戻る。そしてゆっくりと話す為にビールでは無くて、暖かいコーヒーを用意した。

『もちろん話してくれるなら、聞きたかった事なので!』

「では。旦那はもうあたしへの愛なんて無くなってるの。って言うより元から無かったのかも。そんな事に気付いて無かった自分は馬鹿だよね」

『馬鹿って事は無いんじゃ無いですか。それよりも本当に元から愛されて無かったんですか?』

 もう話してくれると思っているので、仲原の方も遠慮なんてしない。簡単に聞いていた。

 それでも真由菜は困った顔なんてしないでちょっと微笑んでさえ居た。

「今、思うとねー。言葉では愛してるって聞いてたんだけど……違ったんだ。篠崎から一緒の事を言われるまで気付きませんでした。彩花ちゃんも良く考えないとだよ」

『それは気を付けないとですね。でも、それって真由菜さんが篠崎さんを好きだからってのも有るんじゃ無いですか?』

「うーん……確かにそうかも。今になるとあたしは旦那の事をあんまり好きじゃなかったのかも」

『それは云っちゃ駄目でしょ』

「駄目だけど、本当にそうだから。結婚した時は年齢的にも焦ってたのかな」

 もう真由菜はコーヒーマグを片手に、クスクスと自分の馬鹿さ加減に笑っている。

『だから、もっと好きな人に誘拐でもされたいと……?』

「そうだね。うん。ちょっと旦那と喧嘩しちゃって、それでこれなら篠崎と一緒に居たいなって」

『今はどうなんですか?』

「そこなんだよね! 問題」

『と、言いますと?』

 急に真由菜が声のトーンを上げるので、仲原は明らかに首を傾げているのが解る答え方をしていた。

「篠崎と旦那が二人で話してるの、あたし聞いちゃったんだよね」

 それは真由菜を送った帰りに優斗が徹也の事を脅した時の事だ。

 真由菜はあの時、乃愛を子供部屋へと連れて直ぐに戻ったので、ドアがしまった時には玄関まで戻ったのだった。それからの話も玄関ドア越しにずっと聞いていた。

 真由菜はその一連の話を仲原へと伝えた。ちょっと優斗の格好良い場面でも有るから女の子二人の会話はわあっと華やかになる。

『それは……篠崎さん、格好付けてますねー』

「でしょー。アイツも馬鹿だよね」

『でも、真由菜さんはそんな篠崎さんの事を、まんまと格好良いと思ってますよね』

 そんな仲原の言葉を聞いて真由菜はコーヒーで咽ていた。

「まあ、そうなんだ……良くわかるね」

『私、FBIでも有るんで』

「その時ね……やっぱりあたしは好きな人は結婚している相手じゃないと改めて理解したの」

『それは、篠崎さんということですよね?』

「うん。あたし、アイツの事が好き」

 真由菜はすんなりとこんな言葉を仲原へと云っていた。

『やー素敵デスね』

「もうとことんまで言うと、こうなってみて、あたしはずっと篠崎の事が好きだったんだなって再確認しちゃった」

『篠崎さんの格好良い台詞を聞いてしまって?』

「格好良いと思ったあたしも馬鹿なんだけど」

『馬鹿は悪い事ばかりじゃ無いですよ。私の彼氏は度を超えてますけど』

 二人の電話にはもうキャハハハッという笑い声が華やかに広がっていた。一通り笑い終えると真由菜も仲原も真剣な顔になった。

 仲原は今、楽しい会話をする為に電話をしているのでは無い。

 そして真由菜も自分の心に落ちている文句を仲原に云ってしまおうと思っていた。

 なので笑いはそれまでにする。

「だけどね。そんな事があったのに旦那は今日も帰らない。あたしも愛想つかされたのかな?」

『そこまで深い事は独身の女で有る私には全く解りませんよ。それよりも真由菜さんの心の方が重要なんじゃ無いですか?』

 真由菜は寂しそうな声になった。もしかしたらあの一件で徹也が今までとは違った人間になるかもと言う願いが有った。でも、そんな風には思えない事が続いている。徹也はあれからも家にあまり寄り付かず、子供の事も気にしないのはもちろんで、更には真由菜との会話も減っていた。だから真由菜はもう最近落ちるばかりで、心は優斗の居る部分が増えている。

 そしてそんな言葉を聞いた仲原も真剣な顔になって、勉強机の椅子に座るとどこも見てはいないけれどじっと目の前を睨む様に話していた。

『そうだね。あたしの心は篠崎の事が好きって云ってる……』

 電話からはそんな真由菜の呟きの様な言葉が聞こえた。

「それならその方向で考えてみるのも間違いじゃ無いと思いますよ」

 仲原は真由菜の言葉を聞くと、ちょっとにこやかになった。そして椅子でくるくると回りながら、これまでより軽く話していた。

 でも、それはあえてだった。重たい事を話しているのは仲原自身でも解っているので、言葉だけは軽くしていたのだった。

『うん。ありがとう。あたし、ちょっと真剣に旦那と話してみるね』

「そうですね。健闘を祈ります。どっちに転んでも」

 そんな風にして仲原は電話を終わらせた。随分年の若い自分がかなり勝手な事を云っていた気もするけれど、間違った事は話してない。そう思ったから妙に清々しい思いが有った。全く前島の事なんて忘れているけれど、そんな事さえも気にはならなかった。

 次の日もバイトだから優斗にこの事を話そうかと考えながら、電車でカラオケ屋の方へ向った。けれど、考えって居ると仲原は昨日の電話の事を優斗には話さないでおこうかと思った。どうにもこの話を云ってしまっては優斗に良い事ばかりになってしまうから。安全な道ばかりを進ませてもしょうが無い。優斗も子供では無いのだからこのくらいの事は通り越さないと駄目だ。仲原は自分の方が若いと言う事を忘れて、そんな風に自分の結論を付けた。

 そう思いながら歩いているとカラオケ屋に付いて「おはようございます」と挨拶をしながら店を進む。すると誰かに見られている視線に仲原が気付く。その視線は前島からだった。

 今日は一番に店に現れて仲原の事を待っていた前島は、箒を持ちながらも掃除はしてない。ずっと仲原の事を睨んでいた。

「晴れやかにしているのが俺からは憎らしいよ」

 呟いているのに確かに聞こえる。そんな前島のグチに仲原がため息を吐いて近付いた。

 それまでは前島が仲原の事を睨んでいたのに、もうそんな立場はガラリと代わっていた。今は仲原の冷たい瞳を前島に向けてしまっていた。

 すると前島はシュンとなってしまっている。それは二人の力関係までも表している。

「言いたい事が有るんならハッキリ云って」

「だって……」

 ふてくされた前島が仲原に睨まれながら、ブツクサと云っている。もうそれは前島が子供みたいに見えていた。

「昨日ほっとかれたから拗ねてるんでしょ……全く子供なんだから」

「だって、デートしてたのにアヤちゃん俺の事を無視すんだもん」

「ちょっと真由菜さんの事で忙しかったの」

「それは解ってるけど、寂しいじゃんか。ちょっと拗ねたいんだよ」

 この二人はまだ仕事なんて始めて無い。しかし、今の責任者は前島なのでその事を怒られたりはしない。

「ハイハイ、甘えたいんでしょ。でも、仕事もしてよね」

 副店長がアルバイトに怒られてしまった。

 なので前島は掃除を始めるけれど、仲原も店のエプロンを付けるとそこに戻って、二人で仕事をし始めた。

「それで? 真由菜さんの方はどうなってんの?」

「それがね。篠崎さんの方に光明が有るんだ」

 仲原もこの話をしようと思っていたのだ。なので一応、二人は仕事の掃除をしながらも話を続けた。

 昨日の真由菜との電話の事を仲原が前島へと話す。別段、かくす事も無く真実を淡々と説明をしていた。その状況に前島は優斗に良い事ばかりの様な気がして喜んでいるが、仲原としては真由菜の幸せを一番に考えたいと思っているので、悩む所でも有った。

 やはり本人同士が好きだったとしても、まだ真由菜は人の妻なのだ。そんな人と誰かを付き合わせると言うのは慎重にもならざるを得ないと仲原は考えていた。

 随分とゆっくりと掃除を進めている。店は開店していて休日なのでそれなりに客は居た。でも、既に店では二人が付き合っている事を周知されているので、余程忙しくないとこんな事でさえも暖かく見守られ許されてしまっていた。

 すると、前島達はそれまでずっと話をしていたのにそれを辞めて、真剣に掃除をしているフリを始めた。それは二人から有る人物の姿が見えたから。カラオケ屋の偉い人なんかでは無い。そこに居たのは優斗だった。

 もちろん優斗もこの日、普通にバイトが有って仕事をしている。優斗は今までキッチンの方に居てフードメニューを作っていた。そっちの仕事が終わったので、二人の居る所に現れた。

 そんな優斗を見て、前島達は掃除をしながら優斗の視界から離れる様に逃げた。

 そんなおかしな二人の姿を、優斗は不思議そうに首を傾げているだけだった。

「シノくんにはこの事どう話すつもりなんだよ」

 逃げた所でかくれ、優斗を確認した前島が仲原へと話していた。

 その仲原も優斗の方を気にしている様子。

「うーん、それはまだ話さない方が良いかと思うんだけど……」

「俺、黙っとく自信無いかも……」

「馬鹿だからねー。話しちゃったら別れるよ」

「どうにかシノくんには言いません!」

「頑張りな!」

 二人はそんな約束をしていた。それからはサボりばっかりをしてないで、仲原も前島だって普通に仕事をする。でも、それは仕事と言う面だけで、仲原は優斗と話す時にちょっとよそよそしくもあった。

 そして前島に至っては優斗と雑談をする事は出来ずに業務連絡ばかり。仕事が暇になった時に優斗から前島に一つ冗談でも話してみようかとするけれど、その時に前島は理由も無く逃げてしまうのであった。

 なので優斗はその日はずっと首を傾げながらも過ごしてバイトを終わらせる。

 優斗もあまりずっとはシフトを組んで無いので、開店から居ると夕方にはかなり自由な時間が有る。こんな時には似顔絵屋を開いたりもしているが、今日は場所の予約もしてなかったので本業の方へとシフトする。

 とは言え今は絵画コンクールも無く、新たな作品を注文されている訳でも無い。なのでインスピレーションの開拓だ。優斗は街をフラつく。

 自分の育ったとは全く違う街。都会でそしてもう夏も遠くないと言うのに、まだ暑くならない。そんな風景は優斗の心に新たな命を落としている。

 優斗はこの所イメージには困って無かった。まあ、問題はそれを実際に絵にする事だったのだけど、それもあのレイトリーから困ってはいない。かなり調子は良いのだ。そんな事も有るから優斗はのんびりとこんな事をしていられる。本当にあれからスランプが続いていたのだったら、それこそバイトなんてのもしている暇なんて無い。

 優斗は時折、自分の納得する作品を描いては呑気にしていた。今日もスマホのカメラで街を撮影しながら散歩をしている。街角に居た黒猫をフレーミングして写真を撮ろうとした瞬間だった。優斗のスマホから今ではもう懐かしいヴィジュアル系ロックバンドの軽快な音楽がなった。

 それは真由菜も共にファンの、今でも活動しているバンドで、優斗も影響されて好きになったのだが、それを着信音にしていた。クセも有ると言われるヴォーカルの歌声が響いたので、その瞬間に猫は驚いて逃げてしまっていた。

 優斗はちょっと残念そうに逃げる猫を見ていたが、仕方が無いと音を鳴らした人間を確認する為に画面を見た。タイミングを考えない人間。そんな人間からの電話だった。優斗は無視も出来ないからその電話を受ける。

 穂乃果のうるさい声が、数メートル周辺にまで聞こえた。

 日々が過ぎている。もう真由菜が仲原と話してから結構な日が過ぎている。それでも真由菜達はずっと三人で暮らしを進めていた。

 徹也の姿はそれっきり無いのだった。真由菜から話したい事が有ったからと言え、それを徹也にメッセージで知らせてもそんなのに応えてくれもしない。だからと云って真由菜もずっと落ちている暇なんて無くて子供達の用事をしていると、日々なんて簡単に過ぎてしまっているのだった。

 この頃は優斗とも会っていない。会ってしまったならもう次は離れたく無いと思ってしまうだろうから。でも、それに困るのは優斗のなのかもしれないと考えると、今は会わないと言う結論になっていた。

 今日も三人で晩ごはんを囲んで楽しくしていた。

「みんな笑っている日が続いてるね」

 隣からそんな事をすんなり言われた。それは恵羽からの言葉で、別に子供だからの素直な言葉だ。

 見ると乃愛の方もそう思っているみたいで、ニッコリと姉の顔を見ていた。

 しかし、その時真由菜は直ぐに「うん。そうだね」とは返せない。少しだけ二人の子供の事を眺めていた。自分達の母親が返事をしないので二人が不思議そうな表情になり始めたのでやっと真由菜は標準に戻った。ちょっと頑張って笑顔をつくると恵羽のあたまをグシャグシャとしながら適当な返事をする。しかしこの平穏が徹也が居ないからと言う事は子供達は解って云っているのか真由菜には知れない事だし、直球に聞ける筈も無いから取り敢えずどうしてだろうなんて事からは離れて三人で晩ごはんを楽しんだ。ずっと子供と真由菜だけの生活。それなりに穏やかでとてもスムースな日々が続いているがもしもう一つ付け加える事が出来るのならばこの場所に優斗が居たら良いのに。それは真由菜の心だけでは無い筈と思っていた。恵羽も乃愛だってかなり優斗と仲が良いきっと家族にだってなれる筈。もちろんそこにはちょっとした喧嘩やぶつかり合いなんてのも有るんだろうけれどそれだって家族としての付属品だ。今はそんな事にもならないのだから徹也と子供達はもう家族とは言えないのかも知れない。子供達は徹也が居たとしてもあえて無視をしている。もし「遊んで」なんて云っても徹也は子供に付き合う筈なんても無い。それで徹也が怒ってもちゃんと教育なのだったら別にそれでも良いのだろうに確実にそんな事にはならないだろう。もちろんニュースなんかで観るような虐待にはなりはしないだろうが徹也は自分の都合で怒るだろう。だから真由菜も既に徹也に良い父親になってもらう事なんて諦めてしまった。そして今は夫婦で居ることも諦めてしまいそうになっている。もう真由菜の所には徹也への愛なんて無い。それでも真由菜が今夫婦で居るのはただ流れだけなのかもしれない。だからそんな所に優斗と言う愛している人間が居たら真由菜は子供だけを連れて他の全てを捨てたってそちらを選びたいと思っていたのだ。そんな風に子供と遊びながらも用事を済ませると残りは二人を眠らせるだけになるけれど恵羽達はそんな事に苦労をする事も無い。子供部屋に連れて二人を並べて横にさせると「おやすみ」と言うだけで終わってしまう。簡単な事だ。でもそれで終わるんだろうけれど真由菜は暇を見付けては子供達がちゃんと眠ってしまうまでその横に居る事が多い。

 特にこの頃は常々となっている。今日もそんな風に真由菜が子供達の素敵な顔を見ている時だった。玄関からガチャンとそのドアが時間も考えずにうるさい音で開いて閉まる。

 それまでは静かないつもの夜だったので真由菜は驚いたけれど、それと一緒に心では想いが浮かんでいた。これからちょっと徹也と話をする。とても恐い話だ。なので真由菜は一度考えてしまって恵羽と乃愛の顔を順に見た。もう眠っているだろうと思っていた二人は目を開いて真由菜の事を見ている。音に驚いていたのは真由菜だけでは無かったみたい。二人の事を見ていると不安になりながらでも頑張らなければと言う思いが真由菜の心に積もり始めた。

 するとその瞬間に真由菜の手が繋がれた。それは恵羽と乃愛だった。手を繋ぐと一度ニッコリとしてから二人は目を閉じた。すると、もう眠かったのだろう直ぐにスヤスヤと夢の世界への旅を始めた。しかし、真由菜はその二人の手から勇気をもらえた気がして二人のホッペにキスをする。エンジェルスマイルがひらりと見えた様な気がしたので、真由菜は重い心なんて無くなって、子供部屋を離れる。

 ゆっくりとドアを閉めた時にはもう真由菜の顔は既に真剣で強い表情になっていた。真由菜がリビングの方にまで移動すると、そこでは徹也がスーツのジャケットを適当にソファに掛けて冷蔵庫に向かっていた。

 真由菜が現れた事に気づいた徹也は振り向くと、その手にはビールの缶を持っていた。一度、真由菜の事を睨んだけれど、それだけで視線を合わせる事も無くスタスタと前を通り過ぎてソファに座った。

 全く言葉も無かった事に、まあそうだろうと真由菜は思ったけれど、それで怖じける事も無く徹也の方に近付いた。

「ちょっと話が有ります」

 真由菜はソファにドカッと座っている徹也に向かい合う様に正面に直った。

 そんな様子だったので徹也は今開けようとしていた缶ビールを持ったまんまでため息を吐いた。

「疲れてるんだ。今度にしてくれないか」

 そう云って徹也は缶のプルタブをプシュっと開いた。

「真剣な話だからビールも無しで、今からお願いします」

「うるさいな。解ったよ。でも、簡潔にな」

 半分だけ開けられた缶ビールをテーブルに置いた徹也は気分を害しながらも、やっと真由菜の方を見ていた。

「あたし達の関係はもう壊れてるよね」

「壊したのはそっちの方じゃ無いのか?」

「そんな事ない。貴方が家庭も顧みないから……」

「俺には仕事が有るんだ。暇な主婦なんかとは違うんだ!」

「主婦になれって云ったのは貴方でしょ! ……違う喧嘩をしたいんじゃない」

 徹也からの文句に言い返していたけれどそれに首を振って真由菜は自分を落ち着けていた。

「喧嘩をする訳じゃ無いんだったらさっさと要件を言えよ。まあ、予想はついているけどな」

 ちょっと俯いてしまっている真由菜に対して、徹也はどこまでもふてぶてしい雰囲気で腕を組んで睨んでいる。

「貴方の言う通りな所も有る。確かにあたしも夫婦と言う関係を壊していた」

「そうだろう。自分でも解ったか」

「でも、貴方もそう言うなら、やっぱりあたし達の関係は完全に壊れてる」

「まあ、そう言う事になるな」

「もうあたし達には別れる道しか無いのかな?」

 その言葉を言う真由菜の元には涙が有った。

「離婚したいんならそう言えよ。それが望みなんだろ?」

「違う。貴方とせめて普通の家庭になれるならそれだって望んでる」

「嘘付くなよ。アイツの事が好きなんだろ?」

 それは優斗の事だ。徹也もそのくらいの事は解っている。

「はい。あたしは篠崎の事が好きです。でも、だからと言え貴方との生活も簡単には捨てられない。今はまだ夫婦なんだから」

 涙を浮かべながらも凛として真由菜は語っていた。

「綺麗事ばかりを並べるなよ」

 呆れているばかりの言い方がそこには落ちてる。徹也からは冷たい言葉だけが落ちている。

 とてもこれは良い話し合いとは言えない。全くの喧嘩とも言える状況になっていた。

「綺麗事じゃないの。あたしはこんな風になってもまだ普通の家族で居られるならそれでも十分幸せなんだよ。でも、もう叶わないんだったらもう貴方とは別れる」

「一度は逃げようとしたんじゃ無いか」

「そう。貴方も知っている通りあたしはこの間、篠崎に自分達を誘拐してとお願いした。それで貴方はどうしようと思っているの? 言われたでしょ? 貴方が家庭の事を思わないと駄目だって!」

 真由菜はあの時ドアの反対側で聞いていた事を素直に話した。

「アイツの云った事なんてもう憶えてない。俺は自分の思う通りにする。これまで通りだ。それが駄目だって言うんなら勝手にしろ!」

 さっきまで怒っていた筈の徹也だったのに、この言葉はちょっと冷たい。

「貴方はそれで良いの……?」

 真由菜の方は真っ直ぐに徹也の事を見つめて怖い目をしているけれど、明らかにその声は涙に潰されていた。

「しょうがないだろ……それが運命なのかもしれないのだから」

「あたし達は居なくなるんだよ」

「別に気にしない。だが、お前に本当にそんな覚悟が有るのならだけどな。酒を飲む気分でも無くなった」

 すると徹也が半分だけ開けた缶ビールを置いて、リビングから離れようと足を進めた。そんな言葉だけを残して徹也がリビングから離れた。

 残された真由菜にもう強さなんて無かった。ずっと頑張って自分の意思でそうしていたのだったけれど、今はとても「怖かった」と言う想いばかり。確かに涙が流れてそれを両手で覆っているけれど、これは怖かったからでは無い。徹也の事が可哀想に思えたから。結婚までした人なのに心が解らなくて泣いているんだ。

 真由菜は暫く泣いてから子供部屋に向かい、二人の顔を見ているうちに眠ってしまった。次に気が付いた時にはすぐそこに乃愛の顔が有った。でも、母親が居たから喜んでいる表情では無い。透き通る様な瞳で心配しながら乃愛が真由菜の事を眺めていた。

「ママ、泣いてたの?」

 昨日の事を知っているかの様な言葉に真由菜はビックリしたけれど、うんうんと横に首を振った。すると「良かった」と乃愛とは反対側から微かな声が聞こえた。

 今の真由菜の背には暖かい物体が有る。それはいつもならまだグッスリと夢の世界の筈の恵羽だった。恵羽はコアラの子供の様にギュッと真由菜に引っ付いていた。そんな恵羽のへと真由菜は仰向けになりながら手を伸ばす。

 そうしたらさっきまで横で眺めていただけの乃愛も反対側に引っ付いた。真由菜は今の時間がとても尊い様な気がしていた。それからもずっとそのまんまで居た。

 世界はとても静かで街にはもう三人しか居ない様な気がする。どこかで水がぶつかる音さえも聞こえていた。ポツリポツリとぶつかっては弾けるそんな音。オルゴールのような可憐で美しいメロディがなっていた。随分とゆっくりとした時間を過ごしてから、真由菜はやっとの事で起きる事にした。でも、子供達には「まだゆっくりしても良いよ」と云って自分だけでリビングへと向った。

 まだ徹也が居たのならまた暗い話になってしまうかもしれないから。昨日は徹也も納得してくれたのかもしれないけれど、もう気がかわっているかもしれない。そうなったら本当に喧嘩になる事も有り得る。だったらそんな親を子供達へと見せたくも無い。

 ヒタヒタと廊下を進んでリビングへと辿り着いた。そしてドアを開く。そこには誰も居なかった。家のどこを探しても徹也の姿は無かった。もう普段なら仕事の時間なので当然なのかもしれなかった。でも、言葉の一つでも置いていても良いのにメモや携帯のメッセージすらも無かった。

 昨日の徹也の優しさはやっぱり間違いだったのかと真由菜が思ってため息を吐いた時、リビングに恵羽と乃愛が現れた。もう二人も保育園へと向かわないと間に合わない時間になっている。だから二人が心配そうな表情をしていた。でも、そんな子供達に真由菜は笑顔を見せた。

「今日は保育園をお休みしようか」

 そう言うと恵羽が不思議そうな表情になったけれど、乃愛の方はにこやかになって真由菜の足に引っ付いた。

「ママ、どうしたの?」

 恵羽がまだ不可解な顔をしていた。

「ちょっと、ママ、おっちゃんに会いたくなって」

 真由菜は乃愛の事を抱っこすると恵羽も呼ぶ様にもう片手を伸ばした。

 すると恵羽も意味は解らなそうだったけれど、やっと笑顔になって真由菜へと飛び付いた。

 真由菜は「よっこいしょ」と二人を抱っこするけれどちょっと重たかった。

 意味も無く保育園をサボれる様になって、更に優斗と遊べると思った子供達は存分に喜んだ。普段よりゆっくりとしている朝ごはんを済ませると三人はちょっと重めの荷物を持って家を離れた。しかし、真由菜はもう帰らないつもりで居たのは誰にも言わない。

 深々と玄関ドアに向かって礼をしてから真由菜は歩き始める。もう振り返る事なんて無い。季節は着実に華の時期になろうとしていた。もう南の方では桜も終わっている。

 優斗は画廊で穂乃果と一緒に打ち合わせをしている時に真由菜からのメッセージを受け取った。単純に「会いたい」と言うだけだったのでバイトも休みな今日は都合が良いと思った。それに真由菜に報告したい事も有ったから。

 若干今日はテンションの高い穂乃果がウザかったけれど、優斗は真由菜が訪れる事を伝える。

 すると穂乃果が踊ってそれを了承していた。

 本当に優斗はそんな姿を見ては呆れるばかりだ。それからもアホになってしまっている穂乃果とどうにか打ち合わせをしながら真由菜の事を待った。

 正直こんな穂乃果と、そして真由菜の方から会いたいと言うので喜んでいる優斗なので、打ち合わせなんて全く進まなかった。

 そうしていると家から寄り道もしないで進んだ真由菜が画廊へと着いた。

「ヤッホー! マユナちゃーん。元気?」

 その姿をまず見つけたのは穂乃果で優斗との打ち合わせなんて、ポイッと投げ出して真由菜に走り寄っていた。

 その姿に流石に恵羽と乃愛が一瞬ビビッて居たけれど、こんな人だと言う事をもう十分に知っているので次には笑っていた。

 どちらかと言うと一番呆れていたのは優斗だ。

「うん。穂乃果さんも元気そうで」

「おばちゃん、こんにちは」

「クッキーのおばちゃんだ」

 その様子を見ている真由菜も笑顔になっていた。因みに恵羽が普通に挨拶をしていたけれど、乃愛からしたらクッキーの印象が強いらしくてそんな呼び方をされていた。

「おー乃愛ちゃん! 今日もクッキー有るんだ。シノンくん悪いけど子供達の飲み物買っておいでよ」

「んっ? さっき冷蔵庫にいつものみかんジュース有ったぞ?」

「細かい事は気にしなくて良いだい。それとも買えないってのかい?」

「ハイハイ……解りましたよ……」

 優斗は穂乃果のおかしな理屈には勝てない様子。

「じゃあ、子供達と私はクッキー片手に待ってるからマユナちゃんも付き合ってあげてね」

 その時に穂乃果は真由菜の事を真っ直ぐに見て、優しい視線を送っていた。

 穂乃果のその優しい策略で優斗と真由菜は画廊を離れる。ショーウインドウから見える三人はもうクッキーを持ってニコニコとしている。でも、恵羽と乃愛の元にはやはりみかんジュースがまじめに有る。

 それでも優斗は文句も言わずに子供達に手を振ってから歩き始めた。

「それで? 今日はどうしたの?」

「あれっ? あたしって普通じゃない?」

 急に優斗は昨日の事を知っているかの様に言うので、真由菜が自分の顔に手を当てながら返答していた。まだ冗談半分で真由菜も返せてる。

「俺はストーカーだからそんな事は直ぐに解かるのだ。諦めて白状しろ!」

「だったら、どうしてなのか当てたら?」

「すんません。嘘です。ホノカがあんな事を言うのは理由が有ると思ったんだ。水浦がおかしな表情でもしたのかなって……違ったか?」

 優斗は真由菜の正面に移動してから、若干楽しそうにも綺麗な礼をしてあやまっていた。優斗は穂乃果の傍若無人な言動に理由が有ったと思っていたのだが、間違えたと思ってくるりと直って再び歩き始めた。

 でも、それに対する真由菜からの返事は無くて、優斗は「どうしたのか」と振り返ろうと思った時だった。

「振り返らないで!」

 真由菜がそんな事を言うので、優斗は回し始めていた首をスチャっと戻してまっすぐ前を向いた。

 ちょっと真由菜の声が潰れている。そして真由菜が優斗の服の裾をちょこんと掴んでいた。

「辛い事でも有ったん? 言えば良いのに」

 驚いたのを一つ呼吸を吐いて優斗は穏やかに言葉を綴った。真由菜の味方になりたい言葉。泣いている人をなだめたい。それが叶うのかは優斗には解らないけれど他に方法も無い。

「今はちょっとだけ泣かせて」

 そんな言葉が真由菜から聞こえると優斗の背には重みが伝わる。

 真由菜が優斗の背に縋り付いて、音では表現出来ないくらいに泣いていた。

 優斗からはその重みがとても愛しいのに軽くさせる事が出来なくてもどかしい。それでも真由菜は泣き続けている。住宅街のちょっとだけお店が並んでいる静かな場所に哀しい声が転がっている。そんな真由菜の泣き声を優斗はいつまでもただ黙って聞いておく事は出来なかった。

 一歩、足を踏み出す。スッと背に有った重みが無くなった。すると優斗は振り返った。そこには泣きながらも驚いている真由菜が居る。とても恋しい。

「泣いたら良いよ」

 そう言うと優斗は両手を広げた。ニコッと敵では無い表情を浮かべて。

 涙で雨に降られている瞳で真由菜が優斗を見ると、俯き掛けたけれどもう一度その自分の力になってくれる人を眺めた。そうしたら真由菜も恋しくなったみたい。

 次の瞬間には真由菜も自然に優斗に近付く。優斗の腕に包まれると真由菜は再び涙を流したけれど、それは冷たいばかりではない。

 その時の優斗は心が痛くなる程に恋しさを憶えていた。二人は暫くそのまんまで居た。真由菜が泣いているのを優斗が抱き締めて。時折通る人からはどうしても注目されるけれど、それを気にしない様にしていた。

 十分程で真由菜はだいぶ落ち着いて、まだ鼻をグスグスと鳴らしながらも涙を無くしていた。なので優斗は真由菜の背をポンポンと叩いていた。

「ありがと……ちょっと落ち着いた……」

 そうは云っているけれど、優斗の見た真由菜の目は真っ赤で今にもまた涙が流れそう。

「そっか、だったら一度場所を移動しようか」

「うん……通る人に見られてるからね……」

 それは真由菜も解っていたみたいで、優斗に抱き着きながらも照れくさそうにしていた。

「そっちは顔も隠れてるだろうけど、俺はバッチリ確認されてるんだぞ」

 ちょっと泣き顔から離れられた様な気がしたので、優斗は言葉をおちゃめにした。

 おかげで真由菜の元にも面白さが戻った様子で、優斗のすぐ側でクスクスと笑っている。

 その近くの表情を見た優斗は泣いている真由菜も可憐だけど、やはり笑顔の方が似合うと思った。

 どうやら穂乃果の思う通りなりながらも二人は話をしようと公園の方へと移動した。今日はどんよりとした天気だったのが幸いしたのか人の姿はあまり無い。それでも人の少ない方へと歩いて、優斗が地面に座ると真由菜も並んだ。

 その距離は明らかに今までよりも近い。

「ホノカちゃんにはあたしが普段とは違うって解ったんだね。演技はヘタクソみたいだ」

「そうだな。でも、俺も水浦が元気が無い様な気がしてた。フッとだけど」

「だったら、あたしの演技も捨てたもんじゃないか」

 今度はケラケラと真由菜が笑った。

 もう随分と涙を忘れてしまったみたいだけど、それは真由菜が演技をしているのかもしれない。優斗はそう思っていたけれど、話を聞きたくもあった。

「それで、泣いた理由なんだけど……」

「うん。話さないと、だね……」

「話したく無いんだったら、聞かないけど」

「聞きたいんでしょ? それに話しておきたい」

 真由菜にはまだその時までは笑顔が有った。けれど、次の瞬間には無くなって哀しそうな表情になってしまった。

「また泣くの?」

「もう泣かない。だから聞いてね」

 その言葉を証明するみたいに真由菜がニコッと笑った。そしてそれから昨日、徹也と話した事を優斗は聞いた。全ての事をしっかりと一言づつ真剣に。

 優斗はそんな真由菜の哀しすぎる悲劇を真っ直ぐに聞いていた。そんなに時間は掛かって無い。真由菜は物語でも話している様に淡々と綴ったので数分で話は終った。ずっと黙って聞いていた優斗は話が終わると隣の真由菜の事を見つめた。

「それは辛かったね」

「うんうん。別に良いんだ。自分でもこうなるって解ってたから」

「それで俺に出来る事は有る?」

 優しいばかりの顔を真由菜が眺めていた。その瞳は思い付いた事が有るみたいだ。

「もう一度、篠崎にお願いしたい。あたし達を誘拐して」

 それは前に断われたことだったけれど、真由菜が改めて言葉にしていた。

 すると優斗は立ち上がって遠くの空を見た。

「解った。逃げよう」

 そう言うと優斗は振り返って、まだ座っている真由菜へと手を伸ばした。真由菜がとても嬉しそうに笑った。優斗の言葉がその手が本当に嬉しかった様だ。だからニコリと笑って優斗の手を取っていた。

 そして二人は若干忘れがちだった飲み物を買う為に自販機へと向った。元々画廊からだったら公園よりも自販機の方が近い。かなりの遠回りだった。

 けれど、そんな遠回りのおかげで心は近くなった。

「逃げるって云ってもどうするの? 篠崎はバイトも、仕事だって有るでしょ」

 自販機までの道で考えていた事を真由菜が帰り道に話していた。

 そんな疑問に優斗は困る事も無い表情をしていた。

「ちょっとそれには良い事が有るんだ」

「因みにあたしはもう帰らないつもりで荷物もまとめてるんだけど」

「今日はバイトがラストまでなんだけど……まあ、手は有るか」

 そんな風に話していると画廊に着いてしまった。そんなにも近いんだ。

「もー、おっちゃんどこまでお買い物してたの?」

 クッキーの欠片をホッペに付けている乃愛が怒っていた。

 でも、その横ではまだ恵羽と穂乃果がクッキーを頬張っている。

「ゴメンネーちょっとママと話てたから」

「それで? 話は良い様に進んだの?」

 その時、優斗は穂乃果に向かって笑顔を見せた。

「それで天才画商の穂乃果さんにお願いが有るんだけど……」

「そんな風に言われるといっそ恐いな……」

「ちょっとこの娘達三人を明日まで預ってくれないか?」

 さっきの雰囲気は無くして優斗は困りながら話している。

「別にそんな事は構いません事よ」

 難しいだろう願いなんてのはもう無い。穂乃果がちょっと首を傾げながら意味が解らない風にしてたのに、それ以外に疑問も無い様子ですんなりと了承していた。

 それはクッキーを片手に気にもしてないみたいだった。そして穂乃果は楽しそうに子供達と「今日はお泊りだ」って喜んでいる。明らかにイベントになってしまったので、もちろん恵羽と乃愛も喜んではしゃいでしまっている。

 そんな事だから真由菜だけそのテンションに取り残されて、ポカンとして穂乃果と子供達の三人を眺めている。するとそんなただ眺めているだけの人間になっている真由菜の肩にポンッと優斗が手を置いた。

「心配する事なんて無いよ」

 すると真由菜は優斗の方を向いて潤んだ瞳ながらも笑顔になって頷く。それは一瞬の事で真由菜が直ぐに振り返って穂乃果達の方へと進んで、その楽しそうな話に加わった。

 優斗はもうバイトの時間が近付いていたので、その話にはあえて加わらずに穂乃果に「三人を頼む」とだけ云って画廊を離れた。

 その日優斗はいつもよりバイトを頑張った。最近良い事ばかりが有るのでとても心が軽い。そんな時の「おはようございます」の言葉もとても明るい。そんな風に仕事をしていると仲原がちょっと不思議そうにしていたけれどシフトの関係で一時間程しか優斗と仕事をしなかったので、それを聞く暇も無かった。そしてそれは前島も気付いてはいたのだったが、その日は週末と言う事も有って夕方から店は混み合い仕事が忙しかった。

 そして時間は流れて優斗はバイト終わりに普段よりも丁寧に「お疲れ様でした」を言うと直ぐに自分の部屋に戻って休んだ。

 この日は絵の仕事は打ち合わせくらいで全く描いてない。しかしこんな日が有ると急に絵を描きたくなる。

 その頃、真由菜は子供達の眠った部屋で穂乃果とバーみたいなカウンターに座っていた。そこは穂乃果の部屋でキッチンカウンターだったけれどかなりオシャレにしていてそんな所にまでセンスが有った。もちろんこんな状況にはお酒が付いている。カウンターにはそれなりに高い筈のワインが雑に開けられてグラスが二つ並んでいる。

「そっか、シノンくんの方を選んだんだ」

 普段の明るいばかりの穂乃果なんてそこには居なかった。落ち着いた優しい人になっていた。

「どちらかと言えば、捨てられたから逃げたのかも」

 真由菜はクスッと笑って自分の事を馬鹿にする様にしていた。

 けれど、そんな姿を見た穂乃果がちょっと恐い表情をしていた。普段だったら一緒に笑う筈の人間が今は真由菜の事を睨んでいる。

「そんな風に本当に思ってる?」

「本当に捨てられたんですもん」

「そっちはこの際しょうが無い。そうじゃなくてシノンくんの方。好きなんでしょ」

「うーん……言わないと駄目ですか?」

 笑顔を残しながら真由菜は困った顔をしていた。

 穂乃果の方はずっと真剣な瞳をしている。

「もちろん聞く」

「嘘です。篠崎の事がとても好き」

 その真由菜の言葉を聞いた瞬間に穂乃果が再び優しい瞳になった。

「それなら良いよ。私達は味方するから」

 ちょっと真由菜は達と云ったのを気にしたけれど、その時には穂乃果にワインを注がれたので消えてしまった。

 ワインボトルが綺麗に空になってしまった頃、ずっと普段とは違った穂乃果が潰れて眠ってしまった。どうやら明るさの無い穂乃果は酔っている証の様だ。真由菜はそんな人に有り難さを覚えながら毛布を掛けると窓からの風景を眺める。

 画廊の二階に有る部屋はそんなに眺めは良くない。けれど今の真由菜からはとても素敵な夜景に思えた。まるでcinonの絵の様だと思う程に。でも、優斗の作品には今の所、夜景なんてものは無い。それは暗さが表現されている絵を優斗が好まないから。それでも真由菜は今の窓からの風景が綺麗な絵に思えたから持っていたスマホで写真を撮った。

 綺麗な夜景は写真に残されようと現実ではいつまでも残らない。段々と闇は深くなったと思えばそれは次には明るくなった。毎日同じ夜景も朝も無かった。

 新しい朝に優斗は昨日バイトで深夜に帰ったのに、空気の冷たい頃には自分の部屋を離れていた。街では丁度、通勤ラッシュが終わろうとしている。優斗はバスで穂乃果の画廊を目指していたけれど、これは元々の今日の予定で真由菜達が居るからでは無い。

 でも、画廊に着いた時に普段とは違う喜びが有った。恵羽と乃愛の笑顔が画廊にはどの絵にも負けないで輝いていた。そしてもちろん真由菜の笑顔も。しかし、穂乃果の表情は優斗の瞳には映ってない。

「それでは逃げましょうか」

 優斗は簡単にそんな事を云っていた。無視されていた穂乃果がちょっと怒っていたけれど、そんな事も忘れるくらいに驚いた表情をした。

「逃げるってもしかしてマユナちゃん達も連れて東京に向かうの?」

「そうだけど? 問題有る?」

 どこまでも簡単そうに優斗が返事をするので穂乃果が「うーん」っと腕を組んで唸り始めた。しかしそんな二人とは違って真由菜の方は意味が解らずにただ聞くだけになっていたみたい。

「確かに問題は無い……な。そんじゃダーリンに連絡しとくわ」

 結局は穂乃果もあっさりと話題を終わらせてしまった。

 なので子供達も穂乃果の作った朝ごはんを済ませて、荷造りも整えて居たので穂乃果に見送られてみんなで画廊を離れる。取り敢えず駅へと向かう道で、子供達が今日も休みで更に優斗も居るからはしゃいでいる。しかし、真由菜がまだ難しい顔をしていた。

「さっきのホノカちゃんとの話ってどういう事? 東京って?」

「ホノカから聞いてなかったのか……」

「適当にあたしの話をしたけどホノカちゃん潰れちゃって」

 すると優斗は真由菜の言葉を聞いて笑い始めた。

「酔った方が真面目だろ」

「うん。それは思った。ってか話を逸らすな。東京は?」

 あまりに優斗が笑っているので真由菜が怒った。楽しいのにって思う優斗はちょっとふてくされて真由菜の言葉を考えた。

「東京? それは日本の首都だよ。そんな事も知らんの?」

「そうじゃなくて……」

 真由菜の方は優斗の冗談に呆れてしまっていた様子で視線が厳しい。

「悪かった。実は俺が東京に用が有るんだ。そのついでに三人を誘拐します」

「あたし、チケットなんて無いよ」

「そのくらい買うから。誘拐の必要経費だ」

「良いの……かな?」

「気にすんな!」

 ちょっと真由菜が悪いなっと言う顔をしていたけれど、次の瞬間「うん!」とハッキリ言葉にして頷くと迷いを消したみたいに笑っていた。

「解った。甘える。けど、用事って?」

「ちょっとあの、ひまわりれいとりーが賞を取って」

「本当に!」

 ワッとビックリした様に真由菜がボリュームをあげた。

「うるせえな。そんな事、嘘付いてどうすんだ」

「ビックリしたー。マジで?」

「だから嘘じゃないって」

 真由菜が難しい顔をしながらも驚いているのか、自分の足元を見ながら歩いていた。するとさっきの声を聞いて気になっていた人物が居た。それは恵羽と乃愛だった。

「ねえ、あの絵がどうかしたの?」

 美しくてまだ弱いばかりの瞳がそこには居た。乃愛が難しそうな顔をしている横から恵羽が素直に聞いていた。恵羽は気になる事は直ぐに言葉にしてしまうのだが、一方の乃愛は自分でとことんまで考えてしまう。

 すると真由菜がそんな二人と視線を合わせていた。

「おっちゃんのひまわりをみんなが綺麗だって有名になってるんだ」

 ちょっとそれだけでは解らなかった様子の二人だったけれど、それからも真由菜が説明すると理解出来たみたいで「ワー」っと騒ぎそうになったが、その時にはもう電車だったので静かに恵羽と乃愛が驚いていた。

 優斗へ一応「おめでとう」と二人は云っていたけれど、どちらかと言うと自分達が喜んでいた。それから子供達には飛行機で東京に向かう事を伝えるとディズニーランドやスカイツリーなんて騒ぐが優斗がちょっと苦々しい顔になる。

 一応、優斗は授賞式などの予定での上京なので、そんなレジャーの予定は無い。だからちょっと困ったので真由菜がその優斗の表情を読んで「有りません」と数々の子供からの要求を却下していた。次々と遊び場所やら聞いた事の有る東京の名所を子供達は言うけれど、真由菜からの返答はノーばかりで段々と恵羽と乃愛がふてくされ始めたけれど、運も良くその時には空港に着いたので飛行機を見てそんな不服は忘れてしまったよう。

 優斗はサクッと平日で比較的空いていた飛行機のチケットを買って、時間に余裕が有るので展望デッキで子供達を喜ばせようとした。飛行機を見て子供達が「キャーキャー」と騒いでいる。そこにはこっちも子供みたいに優斗が一緒になって騒いでいた。優斗が子供達と本当に仲良くなって親子みたい。どう考えても周りに居る人達からはそう思われているだろう。真由菜はそう考えると自分もその仲間になりたかった。徹也とは叶わなかった家族が手を伸ばせば直ぐそこに有る気がして。優斗とだったらそんな事が簡単に叶ってしまう。真由菜はそんな自信みたいな想いを持っていた。そうして三人の方を眺めていたけれどずっと心は遠くに有って、気付いた時には優斗がそして恵羽も乃愛さえもが自分の方を見ていた。不思議そうにちょっと心配している眼だったので真由菜は微笑んだ。直ぐ近くに有る幸せを掴もうと迷っている自分に言い聞かせた。

 随分と騒いでいた子供達だったが肝心の飛行機に乗ってしまったらその疲れからなのかストンと眠ってしまった。しかし、それは子供達だけではなくて昨日夜までバイトをしていた優斗も静かな時間に眠っていた。

 席は乃愛が優斗の横を強行奪取していた。なので乃愛の姿は優斗の膝に有る。そして残りの恵羽は真由菜が抱っこしていた。なので優斗も真由菜の隣だって空席になっていた。自分も昨日は穂乃果と飲んでいたので若干眠たかった真由菜は眠ってしまうかと思った。窓の外を見ると雲しか見えない。つまらない。真由菜はそう思ったのでやはり眠ろうと思ったけれどその時に一つの閃きが有った。真由菜は恵羽を抱っこして立ち上がると一個前の席へと移動した。もちろんそれは優斗の隣。ちょっとした真由菜のおちゃめ心だ。二人掛けの席に四人はちょっと窮屈にも思えたけれどみんなの心臓の音まで聴こえそうでほっこりとした。すると真由菜もすんなりと眠ってしまった。コテンと真由菜のあたまが優斗の肩に寄り掛かった。

 するとため息の音が聞こえた。それは寄り掛かられた方の優斗で肘を付いて眠っていた筈なのに目は開かれていた。すると「これじゃ眠れないやんか……」ポトリと呟きが時速数百キロの空間へと転がった。

 三人は東京へ到着するまで起きなかった。まずはキャビンアテンダントの着陸の知らせで真由菜が起きると直ぐに自分の席に戻った。そんな真由菜は自分が優斗に寄り掛かって眠っていた事は知らない。もちろん優斗がずっと起きていた事も知らずに妙にスッキリと眠れたと思っていた。

 そして飛行機の規定から子供も離着陸時には席に座らせる事になっているので、真由菜は恵羽をそして今起きたフリをしている優斗は乃愛を隣に降ろした。すると乃愛は直ぐに起きて優斗へと笑顔を送ったけれど恵羽の方はそれからもグズグズと眠たそうにして完全に起きた時にはもう到着ロビーだった。

 そこで子供達は東京の恐ろしさを思い知っていた。あまりにも人の数が多い。それに驚いた。無論優斗は東京へ訪れる機会も多くてこの程度なら慣れている。そして真由菜も東京は知らないが他の都会にも住んだ事が有ったのでその点は一応心配は無い。ガヤガヤとしているロビーでボケーと眺めているばかりの子供達を面白そうに真由菜が見ていると優斗が誰かの事を探していた。

「見付けた」

「ん? 誰を?」

 周りには近付く人も居ないけれど、優斗がそう云ったのに気付いた真由菜がはてなマークで辺りを観察する。見渡す限りの人混み。これは本当にゴミだ。

「目印。見つけやすくて楽だ」

 優斗はそう言うと手を振った。その優斗の視線には明らかに周りの人達よりも背が高い男が居るくらい。それなので優斗の呼んでいる誰かを真由菜が探しているとその背が高い男が近付く。あまりにも高いので恐怖さえあるほど。しかし、その男は無表情で四人の方へズンズンと進んだ。

「すいません。睨んでたとかじゃなくて、背が高いからつい見ちゃっただけで。えっと、悪気は全く有りませんので……ゴメンナサイ!」

 あまりにも驚いていたみたいで真由菜がずっとその背の高い人の事を見ていた事を訳も解らずに詫びていたけれど、これはやはり都会に恐れていた事でも有ったみたいでテンパリぶりが優斗からは面白かった。

「こちらも驚かせてごめんなさい」

 見た目の威圧とは違ってその言動はとても弱々しく、今も男は怯えている様にさえ思えた。

 すると優斗はその男の肩をバシバシと叩き始めた。

「尚良さんお久しぶりー」

 その人物は穂乃果の夫にして有名画廊の経営者。三代目と言う点は有るけれど、その実力も確かで優斗程度の若手画家が気軽に話せる人物では無い。しかし二人はそんな細かい事を気にしている雰囲気すら無い。穂乃果も居る事からの友人関係がそこには有るのだった。尚良の歳格好は穂乃果よりはちょっと若い。実際優斗よりも年下なので気弱な尚良はペコペコしている。穂乃果から聞いていた印象だともっとしっかりとした年上の人を想像していたのだろう真由菜がポカンとまた尚良を眺めている。

 そして人見知りの乃愛はもちろんだったが、普段はそんな事を気にもしない恵羽だってその背の高さに驚いているのか二人共真由菜にかくれてしまっていた。

「真由菜さんですよね。妻から話は聞いてます」

 尚良の話し方はやはり弱々しいがその言葉はとても丁寧だった。あの穂乃果とは真逆に思える程に。

「いえ、すいません」

 真由菜がまだ驚いているのかどうしてかあやまっていた。親子三人共がビビッてしまっているので尚良が取り敢えずちゃんと話せそうな優斗の方を向いた。

「それで、篠崎さん。これからどうするんですか?」

「それがね……考えて無いんだ」

「ウチの妻みたいな事を言わないでください」

「取り敢えず逃げる為にこんなところまで連れちゃった」

「それも聞いてます……一応、泊まる所は取ってますから移動しましょう」

 どうやら尚良は仕事ができる方らしくて今朝、急に穂乃果から連絡が有っただろうに優斗も考えて無かった真由菜の細かい手配もしていた。

 それは今居る空港からの移動方法だってそうだった。ターミナルの車寄せには普通のタクシーと離れてバンタイプの多人数用の車が待っていて尚良が呼ぶと皆の所に近付いた。そのタクシーには三列目シートに真由菜達三人が並んで座る。優斗と尚良は並んで二列目に座った。一応画商と言う事も有って尚良が今回の授賞式のスケジュールを芸能人のマネージャーの様に優斗に伝えていた。

 その間も車は細い首都高速道路を走る。時折テレビ等でも有名な建造物が見えて外を見ていた子供達が騒いで真由菜に確認しようと聞く。けれど真由菜も東京なんてほとんど知らない土地らしくハッキリとそうだとは言い切れない様子。優斗に聞こうとしてもまだそちらは仕事の話をして真剣だったので窓の外も気にしている様子は無い。しかし、そうしていると尚良が子供の声に気付いて優斗にスケジュールを話す合間にガイドまでし始めた。

 観光バスの様になったタクシーは走り続けて目的地に着いた。そこは綺麗で高級そうな画廊だった。ビルの一階に位置していて恐らく上の方は賃貸住宅となっているのだろう。良く見ると穂乃果の画廊と名前だけは一緒になっていた。なので真由菜がこれが話に聞いていた尚良の画廊と理解して驚きながらもそこに向かうのだろうと店を観察している。しかし尚良と優斗はそんな画廊の方には進まずに横のエレベーターへと進んだ。まだ優斗達は難しそうな話をしているので真由菜が黙って二人を追う。子供に至ってはひみつ基地でも見付けたみたいに喜んでいた。

 到着した二階には綺麗なロビーが広がっていた。そこにはカウンターこそ無いけれど、恐らくコンシェルジュと思える人間が居る。真由菜がこれまで見たことも無かったくらいの高級住宅だ。

「ちょっと篠崎、あたし達場違いじゃない?」

 優斗は普段通りなラフな格好。真由菜と子供達も別にお洒落をしている訳でも無い。唯一尚良がスーツを着ていた。なので場に合っているのは尚良だけとなっている。

「普通の住宅なんだからジャージでも良いんだから気にすんな」

「篠崎さんは良く汚れたジャージで彷徨ってますよね」

「オーナー的に駄目なのか?」

 次から次へと優斗と尚良の会話に真由菜が驚いていた。店だけでなくこのビル全てが尚良の持ち物らしい事がわかるとピョンと跳ねてみたりしている。

 だがしかし、この建物は受け継いだのでは無くて画商で普通に稼いだのだ。そこには穂乃果の手腕もふんだんに含まれている。人は見かけに寄らない。そんな穂乃果の実は仕事が出来る人間なんだと言う事実にすら驚いている真由菜が居るので、それはもう優斗は笑っていた。

「じゃあ、篠崎さんはいつもの缶詰部屋で。真由菜さん達はこっちを」

 尚良がそう云って、優斗と真由菜に鍵を渡した。もちろん優斗は時折この高級住宅を利用している。随分と常連なのだ。

「あのー、穂乃果ちゃんの旦那さん、あたし勝手に泊まっちゃって良いんですか?」

 それでもまだ謙遜している真由菜が居て困りながら尚良に聞いていた。

「その部屋はお客さん様にリザーブしてるんですよ。缶詰も両方共、妻のアイディアですけど」

「穂乃果に借りると思ったら気が楽だろ?」

 尚良が説明していると横で優斗は笑っていた。

「そんな事……ちょっと有るかも。でも、流石に」

「妻から真由菜さん達をもてなす様に言われてますから。夕食も御馳走しますし」

「穂乃果も時には気が利くじゃないか!」

「伝言としましてシノンくんにはハンバーガーで、真由菜ちゃんにお酒、子供達に思う存分美味しいものを、って云ってました」

 それはそのまんま穂乃果の言い方を真似していた。すると恵羽が喜んで飛び跳ねていた。さっきよりも随分と尚良に恐がってない。そして乃愛もニッコリとしてもう真由菜にかくれても無かった。どうやらタクシーでのガイドが好印象で話し方の優しい所も有って二人とは打ち解けそうなのだった。

「奴め! 所属画家を軽く扱ってやがる」

「まあ、半分は冗談ですからオモテナシますよ」

「オモテナシ?」

「オモテナシ!」

 優斗は掌を合わせて言うと、尚良が斜め四十五度で返していた。

「じゃあ、今日の所は荷物置いて晩ご飯にしようか? 仕事も無いよな?」

「そうですね。篠崎さんには明日働いてもらいますので今日は三人をゲストに遊びましょう!」

 と言う事になって尚良の案内で、まずは子供達も興味が有るので優斗の缶詰部屋へと向った。そこは広さはそれなりながらもアトリエ部分に十分なスペースを取っていてワンフロアに一緒だろうと思われる部屋が並んでいる。

「他も使ってるのか?」

 明らかに空き部屋とは違う人の気配に気付いた優斗は尚良に聞いた。この並びは普段は結構静かでガランとしている。時期によっては全て人が居ない事も有る。

「おかげさまで人気物件となってますね」

 尚良の説明によると今は他の全てが埋まっているとの事で優斗は「へー」なんて云って普段自分が使っている部屋を慣れた様子で荷物をボンッと手荒ながらも投げていた。

 そして次は真由菜達の部屋に向かおうと優斗は乃愛を抱っこして恵羽と手を繋いでいた。その姿に尚良が「仲が良いですね」なんて云ってエレベーターへと向かう。

 真由菜は優斗達を見てクスッと笑っていた。心がとても穏やかで居る。これが自分の望んでいた幸せなんだと真由菜は再認識していた。エレベーターで向ったのはこのビルの最上部。ドアが開くとそこにはドアなんて無かった。尚良はエレベーターで鍵を使ってから階数ボタンを押していた。どうやらその階へは鍵を使わないと駄目ならしい。部屋を見た瞬間のリアクションはそれぞれだった。

「ひろーい!」

 まずは恵羽が優斗から離れて走り始めた。

「のあちゃんも」

 すると乃愛も走りたいのか優斗に抱っこされているのに暴れ始めた。優斗はそんな怪獣を野に離した。

 子供達がかけっこするくらいの広いリビングルームが有った。優斗は驚く事も無くはしゃいでいる二人の事を眺めながら、横に有ったソファに座る。そして優斗は勝手を知っているらしくそこに有ったリモコンを取ると操作をした。すると装飾されていた壁が横にスライドして映画のスクリーンかと思える程のテレビが現れた。

 もちろんそんな事に恵羽と乃愛が驚いて更に騒いでいた。

 もちろん案内した尚良はこちらも驚く事は無く微笑んでそんな優斗達を眺めている。

 しかし一番驚いていたのは子供達ではなくて真由菜だった。エレベーターから一つドアを開けたそのアホみたいな空間に呆気に取られているのかその場で立ち尽くして、言葉すらも発して居ない。徹也もかなりの高給取りで家は豪華な方だった。でも、この部屋はレベルが違っている。真由菜はポカーンとしていたが急に首をブンブンと横に振った。

「ずっとそうしてると吐くぞ」

 真由菜の首振りはみんなが心配するくらいに続いたので、優斗は注意をした。

 すると真由菜がやっと首を振るのを辞めて優斗の事を睨んでいる。しかし次には尚良の方に視線を傾けた。

「こんな部屋は使えません! もっと普通の所は無いんですか?」

「うーん……でも妻がこの部屋をって」

 真由菜が尚良の事を困らせていた。申し訳なさそうな顔をして徹底的な拒否の言葉を次々と投げている。気弱な尚良は段々と身を屈めて今ではもう真由菜の方が背が高くなっている程だった。

 二人の姿を優斗は恵羽と乃愛の三人は楽しそうに眺めている。三人が仲良くソファに座って笑ってた。暫く真由菜の謙遜を聞いていたが尚良が可哀想になったので、優斗は携帯を取り出して今の状況の張本人へとダイヤルした。

「愛しの旦那が困ってるから説明したら?」

 スピーカーモードでの電話だったので、優斗は普通に喋った。真由菜と尚良もそれに気が付いて振り返る。すると優斗は真由菜の方へ携帯を向けていた。若干真由菜の言葉が聞こえていたので電話の向こうの穂乃果だって状況は理解出来ていた。

『マユナちゃんさー。今回は私の友達で、シノンくんの重要なゲストなんだから、その部屋を自由に使ってよ』

「だってこの部屋、豪華過ぎるよ。もっとどっかの会社の偉い人とかが使うんじゃないの?」

『そうだよ。普段はウン千万の絵を買ってくれるお客さんのゲストルームなんだ。賃貸じゃないんだよ』

 この部屋はそんなゲストの為の特別な所だった。別に金持ちの下品な趣味の為の物件では無い。飾られている絵画はもちろんその調度品まで、穂乃果と尚良のセンスで高級な物ばかりを揃えている。こんな部屋に通されるゲストはお客としても特別な存在ばかりなのだ。

「あたし達なんて旦那からの逃亡者なんだからこんな所に居ては駄目だって!」

『アハハハ! 今のマユナちゃんの状況ってそうなんだ』

 電話の向こうでは爆笑している穂乃果がいた。

 けれどその電話を持っている優斗は顔を伏せて真由菜にバレない様に笑っていた。

「そうなるとあたしは思ってる。雨風しのげるだけの程度で有り難いかと」

『てっきり私はシノンくんと愛の逃避行をしているのかと』

 結構会話が下世話なので尚良が気を聞かせて、子供達を違う部屋を案内していた。こんなところまで尚良は良く教育されているが、それは元からで穂乃果の活躍は無いのだろう。

「そんな事はっ……無い、とは言い切れないかも」

 再び穂乃果の爆笑が携帯から聞こえる。

 けれど今度の優斗は再び伏せては居るけど、こちらは笑ってなくていっそ喜んでさえいる。今は優斗は顔を見せては居ないがきっとアホな顔をしているだろう。

『まあ、今のマユナちゃんの立場はどうでも良いとして、その部屋は自由にしてね』

「そんなの悪いよ」

『どうせ今は重要な取引ないし、気にしないで私からのプレゼントだと思って』

「うーん、どうしたら良いんだろう……?」

 真由菜がとても困って周りをキョロキョロとしてしまっている。

『もう私が考えた事なんだからウダウダ言わない』

「じゃあ取りあえずはお邪魔します……でも本当にお客さんとかがいたら云ってね」

『そんなの居ねえって!』

 ガハガハと穂乃果が電話の向こうで笑っていた。やっとの事で真由菜も納得はして、ないが、了承したので穂乃果に散々ありがとうの言葉を並べた。しかし真由菜はそれだけでは気が悪くて子供達と探索をしていた尚良の方へ移動する。

「穂乃果ちゃんの旦那さん、本当に申し訳有りませんが、お客さんの居ない間ちょっとお部屋をお借りします」

「どうぞ! 妻からの言い付けなので自分には異論有りませんよ。お客さんは居なくは無いんですけどね」

 穂乃果が嘘を付いていた事に気が付いて、真由菜は振り返ったけれどその時にはもう優斗が適当な挨拶をして電話を切っている所だった。優斗が「どうしたの」って聞いているけれどもう真由菜も穂乃果の事を解っているので肩を落とすだけにした。子供達はまだ部屋を探索していたけれど段々と元気が無くなると真由菜の元に近付いた。

「ねえ。ママ……」

 恵羽が話そうとした時に隣の乃愛のお腹がくぅーっと鳴った。それだけで恵羽の言いたい事が解ってしまった。二人はお腹が空いたみたいなので話もこの辺にしてご飯にする事になった。

 尚良の案内で近くの高級レストランへと向った。それはあまり子供向けでは無い。しかしそこにはちゃんと尚良がこの店を選んだ理由が有った。週に一度だけビュッフェになっているのだった。そこにはこう言う時に付き物の真剣な目付きのおばちゃんは居なかった。

「基本的に招待だけになって居るんですよ」

 とてもの解り易いとしか言えない事を尚良から言われて今回は真由菜も納得していた。けれどそんな時にはもう子供達は優斗に連れられて料理を選んでいた。

 こんな風に真由菜の徹也からの逃走はかなり優雅に進んでいた。ごはんはとても美味しくて、穂乃果から提供された部屋は快適以外の言葉は無い。もちろん子供達は楽しそうに笑っていたばかり居る。そして今の真由菜の近くにはもう愛しい人となっている優斗が居た。それはとても嬉しい事なのだ。

 真由菜がそんな風に思っている時に優斗も幸せだった。今の状況がいつまでも続けば良いとさえ思ってしまう。確かにまだ自分達の進む道は険しさも有る。だから簡単に考えてばかりも居られないので次の事を考える。もちろん今は誘拐にしかなってない真由菜と徹也の事も重要。しかし、優斗には他にも今回の受賞の事や他の作品の進行も忘れてはならない。実はcinonには一つの依頼が有って条件は無く最新作を自由に描いたものを買いたいと言う事だった。これは逆に難しい。題材やコンセプトが有れば考えもまとまるだろうに。なので優雅な真由菜達とは違って優斗は時折難しい顔をして、この誘拐旅行を過ごしていた。

 そして受賞式典の日になる。一応優斗はコメントや質疑応答なんかを予め考えていたが、それは面白くもない定例文みたいになっている。これはcinonのキャラでは無かった。優斗は穂乃果との話し合いで画家cinonは明るい人間と言うキャラ設定がされていた。まあ、もちろん主に考えたのは穂乃果である。それだから授賞式会場まで尚良の運転する車でも優斗はまだコメントなんかのシュミレーションをしている。

 車には真由菜も子供達も居るけど、いつもみたいに遊んでいない優斗だった。それはちょっと絵を描いている時と似ている。言わば今は篠崎優斗では無くてcinonになっているのだ。だから子供達は少しつまんないそうにしながらも優斗の真剣さを邪魔をしてはならないと解ってるみたいで静かにしていた。

 授賞式会場はかなり有名なホールで芸能人の結婚式やテレビの歌謡祭なんかをしている所。受賞した数点の作品が並んでお客さんもどっさり。優斗と尚良はそんな所に慣れている様で飄々として時折知人なんかと挨拶をしている。しかし、それと一緒に紛れ込んでいる真由菜達がちょっと浮いている気もする。子供達はもちろんなのだが真由菜も普段着。それでも綺麗めの服を選んだのに周りに居る人達はそれ以上にゴージャスだ。

 優斗は真由菜達に合わせているのかキャラなのか随分とラフな格好をしているのが唯一の救い。あまりのお祭り騒ぎに恵羽のはポカンとしていたけれどまだより幼くて意味の解ってない乃愛の方は楽しそうにしていた。用意されている軽食を取って、ジュースまで持っていた。十分にお祭り会場になっていた。

 ある程度時間を潰すと優斗は運営の方から呼ばれて、受賞者として挨拶するので舞台の方に移動する様に言われた。

「三人はどうする? 舞台近くで俺の勇姿を見てるか?」

 ちょっと普段よりも格好付けている優斗だ。これがcinonとも言える。

「うーん。この場は居づらいし……」

 もちろんどこに居ても良いと言われた真由菜だったけれど、自分達の浮きっぷりから逃げようと関係者が見ている舞台の横のあまり目立たない所へと移る事にしたみたいだ。この時も乃愛はケーキをお皿に取ってみんなから置いてけぼりをくらいそうになっていた。

 そんな姿を会場のドアの所から睨んでいる人物が居た。授賞式は淡々とそして優麗に進んでいた。次々と各賞の受賞者が紹介されて挨拶をしている。でも、こんなのは前座にしか過ぎない今回の主役はcinonなのだから。これまでは佳作だったり審査員賞ばかりが続いている。でも、本賞はcinonのひまわりれいとりーが取っている。

 優斗はそんな重要な賞を取ったって言うのに紹介される順番を待っている今だって、普通の顔をしている。普段と違うのは子供達と遊んでいない事くらい。ちょっと真面目な顔をしている。しかしその優斗からちょっと離れた所から眺めていた真由菜がさっきの恵羽の様にポカンとしていた。単純に優斗が賞と言うので多くの受賞者の一角と思っていたのにメインになっている。聞いてない事からのポカンだった様子。

 やっとそれまでの受賞者の紹介が終わって司会者が間を持って今回の本賞の紹介を始めた。まずは絵の説明からなのだが準備として優斗が舞台袖に呼ばれた。それまではちょっとざわめいていた会場も静かになって誰もが真剣になっている。そこでcinonが呼ばれた。なので優斗は堂々と舞台袖から姿を現して会場の方に手を振りながら歩いた。ちょっと普段の優斗とはこんな所も違う。そしてマイクに向かって受賞の挨拶の予定。だったけれど優斗はマイクのところまで辿り着くとまずはガッツポーズをした。その姿で一度会場華やかに笑う。

「えーっと、素直に今回の受賞は嬉しいです。でもcinonはこんな所で終る様な画家じゃ有りません。まだ進む道は遠いんです。必ず走破します。皆さんはその一歩目に立ち会えた証人ですので、これからの話題にしてください。それではどうもありがとうございました」

 こんな挨拶だったので会場はシーンと鎮まり帰った。普通なら謙遜をして受賞のお礼ばかりを言う場面なのだからそれも頷ける。そんな時に会場の片隅の関係者が集まっている方からクスクスと軽やかな笑い声が聞こえた。

 それは真由菜だった。優斗は誰よりもその姿を見付けてにこやかに笑う。そうしていると会場は笑い声が伝染して次第に拍手が鳴り始めた。

「自信の有る挨拶ありがとうございました」

 場を改める様に司会者が授賞式を進行したが、それからお偉い人からのコメントなんかは拍手と笑い声で若干消されていた。

 そんなほんわかとした会場である男が「チッ」と云っていた。その男は優斗の演説を睨みながら見ていて賞状等を貰っている今も苦々しい顔をしていた。

 優斗は笑顔で関係者の祝福や副賞を受け取って、その度にガッツポーズやオーバーなリアクションをするので会場はもりあがる。そしてお硬い部類のお偉いさん達が怪訝な顔をしている時にやっと優斗の出番は終わった。

 それで舞台から降りたがもちろんそこでも祝福の言葉は有ったけれど、優斗はそんなのは適当にあしはらって真由菜の方に近付いた。そこにはひまわりの笑顔が三つ並んでいた。

「俺の挨拶どうだった?」

「篠崎っぽく無い。けど、面白かったよ」

「おっちゃん格好良いねー」

「乃愛ちゃんも笑っちゃったー」

 微笑ましい四人の姿がそこには有って、周りの人達は事情も知らないがそれさえも祝福していた。

 その時に真由菜の事を見付けたずっと優斗の事を睨んでいた男が歩き始めた。進んでいるのは優斗達の居る方向。段々と歩速は上がって周りの人と違う雰囲気にざわめきが灯る。もう既に走り始めた男に会場は不審者として扱う様になって司会も滞ってしまった。会場関係者が男を停めようとするが、届かずにやがて恐怖によって優斗達のところまで人垣が割れて道ができた。

 そして優斗はその男を確認した。向かい合っていた真由菜は背を向けている格好になるのでまだ気付かない。なので優斗は真由菜と子供達を守る様に一歩進み男の進行方向に立ちはだかった。男は右腕を振り上げると優斗の事を殴った。一瞬の出来事に真由菜は訳も解らずに気付いた時には、優斗が殴られて自分の足元に倒れた。優斗は殴られた頬を手でおさえながらも男の方を睨み返す。真由菜が手を貸してくれる。

 しかし優斗は起き上がると一緒に真由菜の事を守る様に抱きしめた。ずっと意味も解らなかった真由菜だったけれど振り返った時に自分の責任で今優斗が殴られた事を知った。

「どうしてそんなに楽しそうなんだよ」

 そこには怒りを湛えた徹也が居た。でも、優斗がその姿を見ると瞳からは涙を流して真由菜の事だけをずっと見つめている。

 今の徹也はとても哀しい顔をしている。それは真由菜も今まで見たことも無かったのだろう。対面している真由菜はこれまでに無い程に驚いてしまっている。

 急に今日の主役を殴った人間が現れたので、会場は騒然となっていた。ザワザワと騒ぎが広がるとどこからともなく警備員が集まって徹也の事を囲っていた。しかし、その警備員に対して優斗は片手をヒラヒラと振って「捕まえなくても良い」と示していた。

 なので警備員が睨むなか、徹也と真由菜が向い合って居る。

「なんで……どうして、殴るんよ!」

「そんなつもりなんて無かった……だけどな……子供達と……そして、笑っているマユナを見たらどうしてか悲しくなって……気付いたら殴っていた」

 優斗は起き上がると、反対に徹也が顔を手で覆って泣き崩れる様に膝を付いていた。

「そんな八つ当たりをせんといて! 貴方が全て悪いんでしょ!」

 今までの鬱憤を晴らすように真由菜がこちらも涙を流して、優斗の隣で叫んでいた。

 すると子供達はそんな自分の親を見ると怖がる様に見ている。だから優斗は恵羽と野愛のあたまに手を伸ばした。その時に野愛の泣きそうな瞳がこちらを向いているのに優斗が気付くとフッと笑った。

「別に俺は殴られても当然ですから構いませんよ。でも、残念ながらもう水浦の事は渡しません」

 野愛から徹也の方へと優斗は向き直り真剣な顔で話した。

「解ってる……良いんだ。一言恨み事でも云ってやろうと思ってこの場所を訪れたんだけど、こんな場面を見せられた。これがマユナの叶えたかったことなんだろう。違うか?」

 始めは自分の方を見ていた徹也だったけれど、次第に真由菜へと視線が移った事を優斗は理解すると黙って質問を答えるべき人間を見た。

 恐らくは優斗の受賞を知って徹也はそこに真由菜も居るはずと場所を突き止めたのだろう。それなのにこんな事になるとは誰も想像していなかった。

 優斗だってこんなところまでは徹也も現れないと思っていた。しかし、それは違った。実際の所、真由菜の事を優斗は徹也から逃げさせる事は出来なかったのだ。

「そうだよ。貴方でもこんな幸せを作ることが出来たんじゃないの?」

「俺じゃ叶わなかったさ……だから悔しくなったんだ……。今の方がマユナが幸せそうで……」

「そう。あたしは今幸せだよ」

 その時に優斗の腕は真由菜に掴まれていた。そして恵羽と野愛も引っ付いている。

「俺ならもう姿を表さないから安心しなよ」

 徹也が深く項垂れたように礼をして居たので優斗も返していた。そんな事で徹也が警備員に囲まれ退場すると、騒ぎは有ったけれど授賞式は取り敢えず終わった。

 やっと堅っ苦しい雰囲気から逃れられた優斗は三人を連れて、会場から近くの公園に移動して伸びをしていた。あっちでもこっちでも公園ばかりなのだが、それは恵羽と野愛からの要望でも有った。

 穂乃果の画廊の事から子供達は公園で遊ぶ事がブームになってしまって、事あるごとに要望が有った。なので、今回も尚良に公園の場所を聞いて四人でのんびりと過ごす算段になった。

 恵羽と野愛は手をつないで別に穂乃果の画廊の近くの公園とさほど変わらない所なのに楽しそうに走って既に遊び始めている。

 優斗はそんな姿を微笑ましく眺めながらも、さっきからずっと冴えない表情の真由菜の事を見た。

「今、間違った選択をしてるって思ってる」

「そんな事は無いけど……」

 真由菜の表情は晴れなかったのを、優斗はちゃんと見ていた。

「間違ってるのかもしれないよ」

「そんな事言わんといてや」

「でも、間違いでも、偶然でも、奇跡でも、嘘でも、夢でも、俺はこれで良い」

 優斗はそう言うとパタリと芝生へと転がった。まだお昼を過ぎたばっかりの空がやけに青い様な気がする。

「そうかもね。詐欺でも、脅迫でも、誘拐でも、殺人でも、今があたしも良い」

「穏やかじゃないな」

 ちょっと優斗は呆れているとトスンと真由菜も横に転がった。

 すると子供達が駆け寄ってくる足音が聞こえて次の瞬間に優斗は痛みを憶えた。それは恵羽が優斗にダイビングをした重みによって生じさせた衝撃だった。

 若干痛がりながらふと横を見ると真由菜も野愛におんなじ事をされていた。真由菜が痛がっているので優斗は自分の事を棚に上げて笑ってしまった。すると一瞬膨れた真由菜の顔が一緒になって笑う。そんな感染力は強くて、恵羽そして野愛までも笑い始めた。

「ちょっと幸せ過ぎて死にそう」

 笑ってたのに今はそんな事を語るのか。

おわり

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ストーカーな浮気純愛恋 浅桧 多加良 @takara91

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