解決編第四章 もう一つの物語
不意打ちだった。何の前触れもなく姿を見せたその少女に、『生還者』はただ狼狽するしかなかった。
「なぜ……どうして……どうして彼女がここに……」
その言葉に対し、不意に琴音はスケッチブックを出すと、一枚目をめくって何事かサラサラと書き込んで『生還者』に示した。
『こうしてちゃんと話すのは初めてになりますね。土方さん』
その言葉を読んで、『生還者』はビクリと体を震わす。これに対し、琴音はさらに言葉を書き記した。
『そんなに驚く事はないでしょう。私は言葉と表情を出す事はできませんが、頭の中は普通の人間と変わりありません。人並みに色々考えていますし、ツールさえあればコミュニケーションもできます』
思わず唾を飲む『生還者』に対し、琴音は容赦なく『生還者』を追及する。
『私が死んだと思っていましたか。生憎ですが、あそこは私の故郷なんです。当時三歳でしたけど、元太さんに連れられてよく遊んでいたのを今でも覚えています。そう、あなたに襲われて崖から落ちたあの時、私はあなたに見られないように近くの崖の出っ張りに着地して身を隠したんです。もっとも、あなたはあの崖の高さから私が死んだと思ったみたいですけど。まぁ、元からそれが狙いで私もあの崖に逃げ込んだんですけどね』
無表情な外見とは裏腹にどこか理知的な香りがする文章に、『生還者』は目を白黒させている。
『驚いているみたいですね。私、こんな体ですから、その分ものを考えるのは得意なんですよ。あなたは知らなかったみたいですけど、牧原中学では学年でもトップの成績なんです。人は見かけで判断すべきじゃないって事ですよ』
まさに切り札だった。『生還者』は口をパクパクさせるだけである。
「全部……知っているのか?」
『もちろん。あなたが私を殺そうとした事も、私の故郷でみんなを殺した事も、全部』
その瞬間、『生還者』は榊原に叫んだ。
「お前、最初から全部仕組んでいたのか!」
「心外ですね。彼女は私の依頼人です」
「依頼人……だと?」
「ええ。今回の事件を解決してほしい。先日そのような依頼を受けました。私はそれを遂行しただけです」
その言葉に対し、琴音はスケッチブックのページをめくって更なる言葉を書き連ねた。
『最初に言っていたはずです。榊原さんは白神事件のときの担当刑事だと。あの事件で私は一人になってしまった。それ以来、榊原さんは私の事を何かと気にかけてくれていたんです。今回の件も、救助されてすぐに相談しました』
「救助、だと?」
『ええ』
琴音は明言する。
『今回の件、最初に警察に通報したのは私ですから』
琴音の言葉に衝撃を受ける『生還者』に対し、琴音はさらに畳み掛ける。
『もうわかったと思いますが、最初に榊原さんが言った警察の認識している「生還者」は、あなたではなく私の事です。今回の事件、「生還者」は犯人のあなたと「イキノコリ」の私の二人だったんですよ』
そう言うと、呆気にとられる『生還者』の前で、琴音はあの事件での自分の役割を回想し始めた。
時田琴音は闇の中にいた。
もう何年この状態が続いているだろうか。誰とも話すことのないまま過ごした十年間。一人で、孤独で、恐ろしく暗い世界である。
十年前、あの事件がすべてを変えてしまった。あれ以来、琴音はあの空虚な村から真の意味で離れる事ができないでいる。どれだけ逃げ出そうとしても、いつの間にかあの村に引き戻ってしまっているのだ。
そんな暗闇の向こうから、いくつもの声が聞こえてくる。その声は、琴音のテリトリーに容赦なく踏み込んでくる。
そっとしておいてほしい。琴音はそう考えるが声は容赦なく近づいてくる。
琴音は目を開ける。声の主たちを確認するために。
時田琴音が目を覚ますと、雨の中、何人もの人間が心配そうな表情で自分の事を見ていた。一瞬何がどうなっているのか考えたが、すぐに自分がバスジャックに巻き込まれ、そのバスが崖下に転落した事を思い出した。
琴音は起き上がると、意思を伝えるために持っていたメモ帳を探そうとした。が、事故のせいでそうしたものはすべてなくなってしまっていた。振り返ると、今まで乗っていたバスがグチャグチャに潰れて、後部座席の方に見覚えのある男の遺体があるのが見えた。確か、後部座席の方でゴルフバッグを持っていた中年男性のはずだ。残念ながら助からなかったらしい。
幸い、自分が運動性失語症である事は、持っていた証明書などから相手にも伝わったらしい。意思伝達はイエス、ノー程度ならできるようだ。
だが、それ以上に琴音の心を重くしている事があった。この場所、この景色。琴音には見覚えがある。それは、十年前に地図から消えたはずの自分の故郷……白神村周辺の森の景色だった。心の中であの村の呪縛から逃れられないでいる琴音である。ここがあの村の近くである事は事故の直前から何となく察していた。
そうこうしているうちに、乗客たちは雨から逃れるために移動し始めた。だが、琴音は彼らが白神村に逃げ込む事を恐れていた。あの村に逃げ込んだら、何かよくない事が起こる。そんな予感がしていた。だが、この状況では他の人間に意思を伝える事ができない。
苦肉の策として、いったん集団から離れて幼い頃に遊んだ近場の洞窟に誘導しようとしたが、それも空しく、乗客たちは白神村を見つけてしまった。しかも、何の因果か十年前に自分が住んでいた村上家……かつての自宅に転がり込む事になってしまった。
その夜、具合の悪くなった琴音は真佐代と共に離れで一夜を過ごす事となった。離れにつくや否やすぐに意識が朦朧とし、気がついたのはそれから何時間か経った頃だった。幸いにも具合は大分よくなっていた。
起き上がると、いつの間にか服が着替えさせられていて、近くで真佐代が寝息を立てていた。どうやら、この家にあった服を着せてくれたらしい。琴音は思わず自分が今着ている服を見た。見覚えがあるその服は、十年前、母である村上有里子がよく着ていたものだった。あの時母が着ていた服を今自分が着ているという事に、なんとなく不思議なものを感じていた。
雨はまだ上がる様子を見せない。だが、琴音はこの村の懐かしい雰囲気を全身で感じ取っていた。気がつくと、琴音は勝手口にあった古い傘を手にとって、そのまま外に出ていた。特に理由があったわけではない。ただ、十年ぶりに自分の故郷を一人でゆっくりと見ておきたかったというのが妥当だろう。
とはいえ、一人で歩く事に不安はあった。さすがに殺人鬼は出ないだろうが、猪くらいなら出てもおかしくないのである。琴音は咄嗟に、近くに置いてあった林業用の古びた手斧を護身用に手に取ると、そのまま村上家を出た。
雨が降りしきる中、琴音は村の中をゆっくりと歩き回る。暗闇の中ではあるが、やがて目も慣れてうっすらと景色が確認できるほどまでになっている。その光景は廃墟である点を除いて十年前とあまり変わりはなく、こんな状況であるにもかかわらず、琴音の頭にはかつての光景がしっかりと浮かび上がっていた。
一緒になって遊んでいる自分と元太を温かく見守ってくれていた駐在の妻木一郎。よくお茶をご馳走になったのをよく覚えている。寺坂家の三姉妹は憧れのお姉さんといった印象で、特に当時高校生だった三女の早百合にはよく遊んでもらったものだ。
やがて、琴音は下ノ倉家の庭にやってきた。ここで下ノ倉元太とはよく遊んでいた。この村では一番歳が近い相手で仲もよく、三歳にもかかわらず、よく森の中まで引っ張りまわされていた。
ふと下を見ると、崩れかけた人形が打ち捨てられていた。琴音はこの人形をよく知っている。早百合が自分のためにわざわざ買ってきてくれた人形で、本当にお気に入りだった。ふと近くを見ると、元太の書いた文字も残っている。
皮肉にも、あの日琴音はたまたまこの人形をこの場所に置き忘れていた。正確には次の日も遊ぼうと思ってわざと置いておいたのだが、まさにその夜、あの惨劇によって村は消滅し、元太も帰らぬ人となってしまった。古ぼけた人形ではあるが、この人形は十年ぶりに持ち主の元へと帰ってきたのである。琴音は人形をギュッと抱きしめると、服のポケットに大切にしまった。
そして、琴音はそのまま公民館の前へと移動した。あの日、琴音は他の村上家の人間と共に公民館にいた。村長だった父・村上松夫は他の家の男たちと一緒になって必死に殺人鬼に応戦したが、とてもかなう相手ではなかった。このままでは全滅してしまうかもしれない。殺人鬼がこの公民館に乗り込んでくる直前。松夫は琴音だけでも助けようと考え、彼女を公民館二階の押入れの中に隠した。琴音は恐怖で何も言えず、ただ押入れで縮こまるだけだった。
やがて、公民館は不気味な静寂に包まれた。押入れの隙間からそっと外を見た琴音の目に焼きついたのは、全身血まみれになって部屋の中央に立ち尽くす顔もわからぬ殺人鬼の姿と、その足元で事切れている家族の姿だった。その瞬間、琴音の頭の中で何かが切れ、そのまま意識を失った。
目が覚めたのは警察病院だった。そして、そのときにはすでに、琴音は声と表情を失ってしまっていた。警察と病院関係者の協議の結果、これ以上ショックを与えると彼女の容態がどうなるかわからないという事で、琴音という生存者がいた事は全面的に伏せられる事となった。以来、彼女は母親の実家である時田家に引き取られ、村には一度も足を踏み入れていない。
まさかこんな形で村に足を踏み入れる事になるとは思わなかった。そんな事を考えながら、琴音は最後に改めて村の全景を見回した。そろそろ帰らないとさすがに心配されるだろう。そう考え、琴音は再び村上家に戻る事にした
琴音は門をくぐり、村上家の敷地に入る。その手には護身用の古びた手斧が握られていた。
琴音はそのまま母屋を素通りし、奥にある離れの方に向かった。離れの勝手口の前に立つ。琴音は一刻も早く戻ろうと、勝手口に手をかけた。
その時だった。
「誰かいるのか?」
不意に後ろから声をかけられ、琴音は反射的に振り返った。
そこには意外な人物が立っていた。バスの運転手である土方邦正。彼が不思議そうな表情で琴音の方を見ていたのである。
「あぁ、君か。歩いていても大丈夫なのかい?」
土方はそう言いながら琴音に近づいてきた。琴音は知っている人間であったことに内心ホッとしつつも、何か違和感を覚えていた。だが、質問しようにも琴音にはどうしようもない。そうしているうちに、土方はさらに一歩琴音の方に近づいた。
と、そこで琴音は違和感の正体を悟った。なぜ、この男はこの大雨の中で傘もささずに立っているのだろうか。
そして、何より彼が着ている運転手の制服の所々に付着しているどす黒い液体は何なのか。
琴音の心臓が音を立て始める。が、表情がない事が幸いしてか、土方にはばれていないようだ。
「実は君がいないことに宮島さんが気づいてね。今みんなで探していたところなんだ。とにかく、見つかってよかった」
土方はそう言いながら手を差し伸べてくる。が、琴音は咄嗟にその手を払いのけると、背後の勝手口を開けた。根拠があったわけではない。ただ、かつてこの村で惨劇を経験した身として、猛烈に嫌な予感がしていた。
そして、それはものの見事に的中する事となる。
部屋の中には、首から血を流して仰向けに倒れている真佐代の遺体が転がっていたのだ。
「……見てしまったか」
不意に、恐ろしく冷たい声が響いた。振り返ると、今までの温厚な表情はどこへやら、冷たい表情をした土方が、どこで拾ったのか林業用の手斧を大きく振りかぶっていた。
「じゃあ、死んでもらおうか」
そう言うや否や、土方は手斧を振り下ろした。驚く暇もなかった。琴音は反射的に手斧を避けると、そのまま土方の脇をすり抜けて。逃げようとした。が、その途中で転んでしまい、そのときにぶつかったのか、近くの便所のドアが開く。
だが、そこで琴音はさらに信じられないものを見てしまった。便所の中に、見たこともない初老の男の遺体がもたれかかっていたのだ。その首には紐のようなもので絞められた痕がくっきり残っており、明らかに誰かに殺されたものだった。
この男は誰? そう考える暇もなかった。即座に土方が迫ってくると、手斧を再び振り上げたのだ。
「叫ばないっていうのはいいものだな。他の連中にばれる心配がない。まぁ、とりあえず。死んでくれ」
そう言いながら、土方は容赦なく手斧を振り下ろす。琴音が避けると、手斧は地面に突き刺さった。相手は本気である。
判断は一瞬だった。琴音は即座に地面を蹴ると、そのまま家の裏にある山の方へ駆け出した。土方はのんびりとした様子でそれを追いかける。相手は山登りの経験もないであろう都会の中学生。すでに追い詰めた気分でいるのだろう。
だが、琴音はこの村の『イキノコリ』である。三歳の当時から、元太と一緒に近所の山を飛び回っていた経験もある。いわば、この辺りの森は彼女にとって庭のようなものなのだ。琴音は森に入ると、岩や茂みを利用しながら森の中を逃げ回った。
しかし、土方も琴音が予想外に森の中を動ける事に気がついたようである。少し表情を引き締めると、彼女を追いかける速度を上げた。どうも、向こうも山登りの経験があるらしい。
琴音も逃げる速度を上げた。あの男がなぜいきなりこんな凶行に及んだのかはわからない。この村の持つ血塗られた過去のせいなのか、あるいはもっと現実的な理由なのか。だが、いずれにせよ、この村唯一の『イキノコリ』として、この村の中でだけは死んでやる事はできない。
琴音は意を決して森のさらに奥へと向かった。この辺りは、地形が複雑で崖なども多く、大人たちからも入るなといわれていた場所だ。が、当時の琴音は元太と一緒にこっそりとよくこの辺を探検していた。
そして、そのとき二人である発見をしていたのだ。おそらくは、大人たちでさえ知らないであろう発見を。
琴音はある崖の前に立った。覗き込むと、高さがかなりあるのがよくわかる。落ちたらまずひとたまりもないだろう。
琴音は小さく息をついて持っていた手斧を握り締めた。こんな手斧では体格がまったく違う相手に対抗できない。が、あの様子では土方も自分を殺すまで諦める事はないだろう。琴音は逃げている間にそれだけの事を考えていた。
なら、この場を逃れる方法は一つしかない。
やがて、土方も追いついてきた。その目はギラギラと不気味に輝いており、いつか見た殺人鬼のそれと同じように見えた。
「追い詰めたぞ」
どこか冷たい声でそう言うと、土方は手斧を振りかぶった。その瞬間、琴音は身を翻して逃げようとするふりをした。土方がその後を追おうとする。
次の瞬間だった。琴音はわざとその場で躓いたふりをすると、そのまま自分から崖の方へと身を躍らせた。これには土方も一瞬呆気に取られたようで、動きが止まる。一方、琴音は即座に空中で身を翻すと、上から三メートルほど下で岩肌から突き出ている出っ張りに着地し、その出っ張りの奥にある穴に身を隠した。同時に、手近にあった岩を崖下へ突き落とす。岩が岩肌にぶつかりながら派手に落下する音が響き、やがてそれは崖の一番下でことさら大きな音を立てて止まった。
しばらく沈黙が続く。降りしきる雨のせいで視界が悪いので、相手を騙せる可能性は高いはず。相手が殺すまで諦めないなら、死んだように見せかければいい。それが琴音の作戦だった。
やがて、崖上から人の気配が消えた。とりあえず、相手は琴音が死んだと判断した様子である。目の前で崖から落ちていったのを見ているので当然といえば当然であろう。それが琴音の狙いでもあった。
もっとも、仮に上で待ち構えたとしても琴音には関係がなかった。琴音は身を隠している穴のさらに奥へと体を滑り込ませた。穴はかなり深く、どこかへと続いている様子である。琴音は、そのまま先へと進んでいった。
それからどれくらい時間が経っただろうか。穴の中を進む琴音の視界に一筋の光が差した。そちらへ向かうと、見覚えのある景色が見える。そこは、最初に琴音がみんなを誘導しようとした洞窟の入口だった。すでに朝になっているらしく、周囲の光景も薄ぼんやりと見える。
この洞窟と崖の岩肌の出っ張りの穴がつながっている。この事に気がついたのは、元太とあちこち探検しているときだった。崖の出っ張りは天気のいい日は景色が非常によく、元太と琴音の秘密の場所でもあった。今にして思えば危険であるが、元太などはよく出っ張りから崖の上への崖登りをやっていたものである。
洞窟を出た後、琴音は白神村の後方にある山林から、じっとこの廃村を見据えていた。先程の光景がようやく頭に蘇ってくる。
真佐代は喉を切られて殺されていた。便所には見た事もない男の遺体があった。それに運転手である土方が犯人だとすれば、バスの後部座席で死んでいたあのゴルフバッグの男も、実は土方が意図的に殺したのかもしれない。
だとするなら、すでに真佐代、便所の男、ゴルフバッグの男の三人が殺害された事になる。今、あの村上家には七人の人間がいるはずだ。おそらく、土方は別の場所から彼らを殺す機会を虎視眈々と狙っているのだろう。
琴音は手に持っている手斧を見た。その手斧に付着していた血が雨で流されていく。あの惨劇の際に付着したものだろう。
再び悪夢は始まってしまった。十年前と同じである。この村の殺人は、皆殺しになるまで止まりはしない。十年前に経験した悪夢が、嫌でも脳裏によみがえってくる。
雷鳴が鳴り響く中、琴音は死に近い場所にあるこの村を見下ろしていた。このままでは村にいる人間は皆殺しになってしまう。だが、このまま村に帰っても、犯人に自分が生きている事を知らせてしまうばかりか、疑心暗鬼になっている残った面々に疑われかねない。それ以前に、犯人に死んだと思われ、一人村から脱出した自分だからこそできる事があるはずである。
琴音の視線は、村を流れる川の上流に向いていた。この川の上流にダムがある事は村にいた当時から母親たちがよく話題にしていた。当時三歳の琴音には何の事かわからなかったのだが、なにやら凄そうなものがあるという事で、一度元太と二人で探検しにいった事がある。結果、上流にそびえ立つ巨大なダムを実際にこの目で見ることはできたものの、行き着くまでに三日ほどかかってしまい、心配をかけさせた村の人間からは後々大目玉を食らう事になってしまった。もっとも、当時のダムの職員のとりなしでかなり寛大な処置がとられたと記憶している。
この状況で助かる方法は、もう上流にあるそのダムに助けを求める他ない。もちろん、行き着くまでに自分が倒れてしまう可能性もある。だが、やるしかない。琴音は手斧を握り締めると、十年前の記憶を頼りに、ダムの方向へと足を向けた。
それから一日が経過していた。琴音は森の中をひた走っていた。
息は乱れ、手斧を持つ手も雨で濡れて滑りやすくなっている。ダムへの道は想像以上に困難を極めた。十年前と違って豪雨が降っており、体力が削られる中での前進だった。
夜になると進むことができないので手近な洞窟に身を隠して休息し、それでも少しずつダムの方向へと進んでいた。すでに周囲は薄暗くなり始めており、二度目の夜が訪れようとしている。
しかし、そんな事を気にする様子もなく琴音は走り続ける。なぜなら、待望の目的地がすぐそこに見えているからだ。小さい頃は圧倒的な壁にしか見えなかったダムが、琴音の目の前に再び姿を見せていた。
琴音は手元の手斧を握り締めた。森の中を進む際に障害物の排除などでこの斧は万能の活躍を見せていた。
やがて、琴音は草を掻き分け、ダムの制御室の入口となっているドアの前に立った。この豪雨である。一人ぐらい職員がいるだろうという予測が琴音にはあった。
だが、こればかりは琴音の予想が外れた。ダムのドアは硬く閉ざされ、制御室からは明かりらしきものは見えない。さらに、ドアの前にある駐車場らしき場所にも車は一台も停まっていなかった。どうやら誰もいないようだ。琴音は一瞬心が折れそうになった。
が、ここで諦めるわけにはいかない。自分には、村にいる乗客たちの命もかかっているのである。琴音は今まで使い続けてきた手斧をしっかり握り締めると、制御室のドアノブに叩きつけた。最初はびくともしなかったドアノブだが、何回か叩いているうちにやがてバキッという音がし、ゆっくりとドアが開いた。同時に、手斧も限界がきたのか、途中でへし折れて地面に落ちる。
制御室に入ると、室内はいくつもの機械でいっぱいだった。とりあえず電気を点けると、何日かぶりの人工の光が琴音を照らした。
室内を見渡すと、この近辺の地図が壁に張り付けられていた。白神村の名前は載っていなかったが、このダムのさらに上流にここより大規模なダムがあるのが確認できる。どうやら、ここはそのさらに上流のダムからの遠隔操作で運転されているようで、ダム決壊の恐れがあるような非常事態でもない限り職員が来る事はないらしい。それがこの大雨にもかかわらず職員がいない理由だろう。
だが、逆に言えばその上流のダムには職員がいるのだ。そこと通信ができれば、外部と連絡ができる。しかし、問題は琴音が喋る事ができないという点である。これゆえ、電話や無線といった手段では事態を伝える事ができない。誰かがここに来るまで状況を伝達できないのだ。
ともあれ、自分がここにいる事を外部に伝えなければ話にならない。琴音は内心必死になりながら周囲を見渡し、何かないかと室内を探し続けた。すでに体力は限界にきているが、ここまで来て倒れるわけにはいかない。
やがて、琴音はあるスイッチを見つけた。ダムが決壊などの非常事態に直面した際に押すスイッチである。少なくとも、これで誰かはダムにやってくるはずだ。琴音は一瞬ためらったが、そのスイッチを押した。とたんに室内に警報が鳴り響き、設置されていた赤いサイレンが回転した。
さらに、琴音は念には念を入れ、室内に設置されていた直通無線のスイッチを入れた。言葉を発する事はできないが、これで管理している上流のダムにも、ここに人がいる事を伝える事はできる。
『おい、誰かいるのか!』
スイッチを入れるなり、そんな声が琴音の耳に飛び込んできた。何日ぶりかの外部の人間の声である。それで、琴音の気が一気に抜けた。その場にへたり込むと、スイッチを入れたまま無線を床に落とし、いつしか気を失っていた。
「……かり……しっか……しっかりしろ!」
気がつくと、誰かが琴音の肩を揺さぶっていた。うっすら目を明けると、作業服を着た初老の男が琴音の目の前にいた。
「君、しっかりしたまえ!」
琴音はぼんやりと周囲を見渡す。見ると、別の作業服の男たちがさらに二~三人おり、制御室の機械をチェックしている。警報はすでにやんでいた。
どうやら、上流のダムから職員が駆けつけたらしい。それがわかった瞬間、琴音は自分が再びあの村から助かったという事を実感するに至った。
「気をしっかり持て! 大丈夫か?」
作業員はそう言いながら琴音を揺さぶり続ける。と、琴音のポケットから何かがずり落ちた。それは、運動性失語症である事を示す証明書だった。念のためにあの離れを出るときに持っておいたのである。
それを見た作業員の表情が変わった。一瞬、信じられないという表情でまじまじと琴音を見ていたが、やがて思わぬ言葉を発した。
「君、もしかして村上琴音ちゃんか?」
その言葉に、琴音自身も驚いていた。今、この作業員は自分のことを村上琴音と言った。自分の事を知っていただけでも驚きだが、この男は自分の旧姓を知っていた。つまり、村に住んでいた頃の自分を知っていた事になる。
だが、その理由を作業員はすぐに明かした。
「覚えていないかい? 君が友達と一緒にこのダムに来たときに対応した……」
それで思い出した。目の前にいるこの男は、元太とダムに来たときに村のみんなに一緒に謝ってくれたダムの職員である。あれから十年が経つが、まだこのダムに勤務していたようだ。
「いや、驚いた……。あの事件で全員死んだって聞かされていたから……。まさか生きていたとは。それにしても大きくなったもんだ」
職員はしみじみとそんな事を言っているが、今はそれどころではない。琴音は最後の気力を振り絞りながら、職員に書くものをジェスチャーで要求した。相手も琴音が何を求めているかわかったようで、手帳とボールペンを差し出す。琴音は必死にボールペンを握って、文字を手帳に書き殴った。
『白神村でまた大量殺人が起こっています。被害者は先日行方不明になっているはずの八王子の都バスの乗客たちです。犯人はバスの運転手です。急がないと、皆殺しになってしまいます。お願いです、助けてください』
その文字を見た瞬間、職員の顔色が変わった。
「何だって? これは本当なのか?」
確かに、にわかには信じられない話だ。だが、琴音は最後の力を振り絞って大きく頷いた。
職員にとっては、それで充分だった。
「……おい、警察に連絡しろ!」
その言葉を聴いた瞬間、琴音の意識は再び深い闇の底へ沈んでいった。
琴音が意識を取り戻したのは、十年前と同じく、警察病院のベッドの上だった。時刻を見ると六月八日火曜日の夕方……つまり、ダムに到達してからほぼ一日が経過していた。
琴音が目を覚ましたという知らせが伝わったのか、それからしばらくして何人かの刑事が彼女の病室にやってきた。琴音としては、何よりもまず村の状況が知りたかった。筆談用のスケッチブックが置かれ、早速琴音はその事を尋ねた。
だが、刑事の口は重かった。
「残念だが、我々が村に踏み込んだときには、すでに生存者は誰もいなかった。あったのは大量の死体だけだ」
捜査主任らしい大迫という刑事はそのように話した。その瞬間、琴音は思わず天井を見上げていた。間に合わなかった。またしても、自分の故郷が大量殺人の舞台と化してしまった。それが琴音の第一印象だった。
『犯人は捕まったんですか?』
琴音はそうスケッチブックに書いた。せめて犯人が捕まってくれないと、悔やんでも悔やみきれない。だが、大迫刑事は首を振った。
「それが、犯人が誰なのか、まったくわかっていない状況でね」
それを聞いて、琴音は思わず言葉を書き殴っていた。
『犯人はバスの運転手です。私を襲ったのは土方邦正という男です』
ところが、大迫刑事は思わぬ事を言った。
「確かに、あのバスの運転手は土方邦正だ。だが、彼が犯人という事は絶対にありえない」
『どうしてですか』
「彼は被害者の中で最初に死んでいるからだ」
琴音は内心呆気にとられていた。
「現段階では簡単な検視の報告だがね。土方邦正の遺体は現場となった村の便所の中で見つかったが、その死亡推定時刻は他のどの遺体よりも早い。遺体が本人のものである事は指紋で確認済みだ。彼が犯人とは考えられないんだよ」
琴音はわけがわからなかった。自分を襲ったのは間違いなく土方邦正である。その土方が最初に殺されているとはどういう意味だろうか。なら、自分を襲ったあの土方は何者だというのだ。
そう考えたとき、大迫刑事の言葉が一つ引っかかった。
『今、土方運転手の遺体は便所から見つかったと言いましたね?』
「ああ」
『その土方運転手の写真はありますか?』
大迫刑事は訝しげな表情をしたが、しぶしぶ一枚の写真を取り出した。
それを見た瞬間、琴音は凍り付いていた。そこに写っていたのは琴音の知る『土方邦正』ではなく、あの時便所の中にいた、誰ともわからぬ初老の男だったのである。
その瞬間、琴音にもおおよその事情が理解できた。あの『土方邦正』は偽者だったのだ。便所の中にあったのが本物の土方運転手の遺体で、自分を襲ったのは土方運転手を名乗る別人だったに違いない。だが、もしそうだとするなら、あの『土方邦正』が誰なのか、自分にはまったくわからない事になる。
琴音は目の前の大迫刑事を見た。どうも、この刑事は自分の証言をあまり信じていないようである。このまま事実を話しても信じてくれないかもしれない。それどころか、自分はあの村から唯一の生存者であり、しかも十年前の『イキノコリ』でもある。ある意味、最大の有力容疑者なのだ。この刑事にとって見れば、同じ村で起こった二度の大量殺人事件で二回とも生き残った自分に対していい感情を持っているとは思えない。
このままでは犯人を追い詰めるどころか自分が犯人にされてしまう。そう考えた琴音は、ある事を思いついた。
『すみませんが、ある人を呼んで頂きたいのですが』
「両親でも呼ぶのか? それとも弁護士か?」
大迫刑事の言葉に、琴音はこう書いた。
『品川で私立探偵事務所を開いている、榊原恵一という方です』
「久しぶりだね」
病室に入ってくるなり、榊原はそう呼びかけた。年季の入ったよれよれのスーツにネクタイを締め、一見するとくたびれたサラリーマン以外の何者にも見えない。だが、この男がかつて警視庁で最も検挙率の高い捜査班のブレーンをしており、今では日本でも一番有能な私立探偵と称されている事を、琴音はよく知っている。
十年前の事件の後、行き場をなくした琴音に対する後処理をやってくれたのがこの榊原という男だった。その際「困ったときは何でも言ってくれ」と約束してくれた事もあり、それ以来つらい事があるとよく相談に乗ってもらっている。
後に刑事を辞めて私立探偵になったが、それからも日本犯罪史に名を残すような数々の大事件を次々解決し、警察からの信頼も高いという。何しろ、辞めなければ警視庁捜査一課の課長になっていたのは確実とまで言われる男だ。その推理力は高く、警察が彼に難事件の解決を依頼する事も多いらしい。現に、先程の刑事も榊原の名前を出したとたんに押し黙ってしまった。
『お久しぶりです』
「今回は大変だったね。まさか、君がまたあの村の『イキノコリ』になるとは」
榊原は辛そうな表情で言うと一瞬目を伏せたが、すぐに本題に入った。
「……それで、私を呼び出したのはなぜだね?」
『あなたに依頼をしたいのです』
琴音は単刀直入にスケッチブックに書いた。
「依頼ね。内容によるが」
『今回の事件の真相を明らかにしてもらいたいのです』
そう前置きすると、琴音は必死にペンを動かして、自分が経験した事をすべてありのままにスケッチブックに書き記していった。もちろん、土方を名乗る男に襲われた事や、その『土方邦正』が偽者だった事もである。
「……なるほどね」
榊原はそう言うと、腕を組んで何やら思案し始めた。
「これは少々厄介な依頼になるな」
『信じてもらえませんか』
琴音の記述に対し、しかし榊原はあっさりとこう言った。
「いや、君の話は充分信頼に足るものだと私は判断している。一応、ここに来るまでに一般公表されている事件の概要は調べてきたが、それに対する私の見解と君の証言は一致している」
榊原はそのような事を言うと、そのまま眉をひそめた。
「問題はその偽の運転手の正体だ。名前もわからないとなると、これを探すのは骨だぞ。何でもいい。手がかりはないのか?」
『私、その偽者の顔を描けます』
そう書くと、琴音はスケッチブックをめくって、何やら人の似顔絵を書き始めた。しばらくすると、一人の男の顔がスケッチブックに出来上がった。
「うまいな」
榊原が最初に漏らした感想はそれだった。
『長年これで会話していますから。一応美術部所属ですし』
「なら、この顔は信用できるな」
そう言うと、榊原はスケッチブックの顔をジッと睨んだ。
『それで、依頼の方は?』
「……いいだろう。今回の依頼、引き受けることにしよう。私にとってもあの村で起こった事件は無関係ではない」
榊原はそう言うと、スケッチブックの顔が描かれたページを破り、折りたたんでポケットにしまった。
『よろしくお願いします』
「あぁ。君は少しでも早く回復するように。では」
榊原は、部屋を出て行った。琴音はスケッチブックを傍らに置くと、祈るように手を合わせた。
病室を出た後、榊原は警察病院の廊下をゆっくりと歩いていた。受付の辺りまで来ると、先程琴音に尋問していた大迫刑事が不機嫌そうな表情で立っていた。
「終わりましたか?」
「ええ」
「それで、彼女はなんと?」
「事件の真相を解明してほしいと依頼を受けました」
大迫は苦虫を潰したような表情をする。
「まったく、あの子が言ったのが他ならぬあなたでなければ、容赦なく締め上げていたところですよ」
「で、警察はやはり彼女を?」
「何しろ唯一の生き残りですからな。ただ、正直疑いは半々です」
意外な言葉に、榊原は眉をひそめた。
「実は、発見された遺体の中には今日の早朝に殺されたと思われるものがあったんです。これに対し、あの時田琴音という少女がダムで保護されたのは昨晩の深夜十一時前後。つまり、その遺体は彼女が保護されて以降に殺されたという事になります」
「時間が合わないという事ですか」
「そもそも、あの村から彼女の体力で雨の中をダムまで行き着くには、道を知っていても丸一日はかかります。つまり、彼女が村を出たのは最低でも一昨日の夜。一方、村の遺体の大半は昨日のうちに殺されたと見て間違いないなさそうです。ここでも時間の矛盾が出てしまうんですよ。私の直感ではありますが……あの子はおそらく白ですな」
榊原は黙って大迫の隣の壁にもたれかかった。
「彼女の通報から警察の突入までタイムラグがあるようですが」
「あの時はまだ雨も降っていて、しかも夜間でしたから捜索は危険と判断されたんです。さらに言えば正規の入口が崖崩れで崩壊していた事から進入方法の検討にも時間がかかって、結局実際に警察が村に踏み込んだのは本日午後一時前後でした」
そう言ってから、大迫はこう聞いてきた。
「で、どうなんですか」
「どう、とは?」
「あなたの事です。ある程度の考えは持っているのでしょう」
「まだ依頼を受けたばかりですよ」
「それでもです」
榊原はため息をつくと、ポケットから先程の似顔絵を取り出した。
「何ですか、これは?」
「彼女いわく、自分を襲った『土方運転手』との事です」
大迫は眉をひそめた。
「これが、ですか?」
「やはり本物の土方運転手とは違いますか」
「ええ。ですが、その本物の土方運転手の遺体も村から見つかっています」
「そうですか。となる、やはり……」
榊原はそう呟いて何やら考え込んだ。
「榊原さん、あなたは彼女の言葉を信じるんですか?」
「信じない理由もありません」
「あなたが彼女の知り合いだから信じたいと思っているだけではありませんか?」
やや意地悪な大迫の問いに対し、しかし榊原は黙って首を振った。
「残念ながら、私は依頼を遂行するに当たっては、友人だろうが誰だろうが理論的に説明できる事しか信じないことにしています。犯罪捜査に私情は禁物ですから」
そう言うと、榊原は大迫の目の前を通り過ぎながら衝撃的な言葉を告げた。
「そもそも、事件の概要を見た瞬間から、私も運転手が怪しいとは少なからず思っていましたしね」
その言葉に、大迫は思わず、榊原の方を見やった。
「何ですって?」
「さて、私はここまで手札を明かしました」
そう言うと、榊原はその場で立ち止まって大迫の方を振り返った。
「そろそろ、そちらも手札を見せてもらいたいのですがね」
「……何の話でしょうか?」
「まだ何か隠している事がありますよね。事件に直結する何かを」
何気ない口調ではあったが、榊原の言葉に大迫は愕然としたような表情をしていた。
「どうしてそれを?」
「さっき、『村の遺体の大半は昨日のうちに殺されたと見て間違いないなさそうです』と言っていましたよね。この短い時間にそれだけの事がわかるのかと少し疑問に思いました。そう断言させるだけの何かを警察は握っている。そう考えたまでですよ」
「……さすがに、何でもお見通しですね」
大迫は首を振ると。懐からビニールに入った手帳のようなものを取り出した。
「乗客の一人が持っていた手帳です。ここに、事件当時、あの村で起こった出来事の記録が書かれていました。より正確には本日午前一時を過ぎた辺り、生存者が残り四人になったところまででしたが」
「……なるほど。そこに事件の具体的な推移が記されていたと」
「ええ」
「見せてもらう事は?」
「駄目だ、と言ってもあなたの場合は無駄でしょうね。見たいなら、後で署にいらしてください。それが最大限の譲歩です。」
そう言って大迫は手帳をしまう。が、榊原はさらに突っ込んだ。
「……その手帳、いったい誰が持っていたんですか?」
「言ったはずです。乗客の一人ですよ」
「その乗客は誰ですか?」
その言葉に、大迫は押し黙った。榊原は続ける。
「正直なところ、これだけの大事件を起こした犯人がそんな証拠を残している事に疑問を感じるんですよ。警察の突入まで時間はかなりあったはず。自分の不利になるような証拠は排除しておくのが犯人として当然の行動です。にもかかわらず、警察の手元にはそんな重要証拠がある。それが少し気になりましてね」
大迫はしばらく答えなかった。榊原は黙って返答を待つ。
それからどれくらい経っただろうか。急に大迫は何かを決意したかのように顔を上げると、声を潜めながらこう告げた。
「実は、これはマスコミにも公表していませんが……あの村からの『生還者』はあの子以外にもう一人いるんです。いや……正確にはもう一人いた、と言うべきでしょうか」
その言葉のニュアンスに、榊原は何か感づいた様子だった。一方、大迫は壁から背を離すと、病院の奥へと体を向ける。
「特別です。ついてきてください」
榊原は無言で大迫の後に続いた。二人はそのまま地下へ向かうエレベーターに乗ると、病院の最深部へと向かう。榊原も刑事時代に同じような場所によく来た事がある。遺体安置室。大迫はそこへ向かっているのだ。
「ここです」
不意に、大迫は一番奥の部屋の前で立ち止まった。前に立っている警官に軽く手を上げると、そのまま中に入る。榊原も一礼して中に入った。
中には一人の男が横たわっていた。一瞬、村で回収された遺体かと思ったが、それにしてはやけにきれいである。大迫は黙って男の顔にかけられた布を取り払った。
そこには、三十代前後の男が安らかな顔で目を閉じていた。
「彼は?」
「今朝、増水した多摩川の支流に流されている男が発見されました。パトロールしていた警官が救助して、すぐさま病院に搬送されたんですが、残念ながら本日正午頃に警察病院で亡くなりました」
「身元は?」
榊原の問いに、大迫ははっきり答える。
「運転免許証を持っていましたよ。小里利勝。名刺によれば、職業はカメラマンのようですね。死因は出血多量による機能不全です」
「出血多量?」
大迫は黙って隠してあった右腕の部分の布を取り外す。彼の右腕は根元からばっさり切断されていた。
「殺人鬼にやられたようです。後であの子にこの男が村にいたかどうかの確認をしてもらわなければなりませんが……ほぼ間違いないでしょう。まぁ、村の遺体と違ってバラバラになっていないだけましですか。どうやら、襲われた直後に川に転落して流されたみたいですね。こんな状況で、警察に救助されるまで生きていた彼の執念も凄いですが」
榊原は改めて合掌すると、彼の顔にそっと布をかぶせ直した。
「要するに、問題の手帳は彼が?」
「ええ。懐に大事そうに持っていました。彼は救助された直後に白神村で大変な事が起こっているとうわ言のように言って意識を失いました。それで、もしかしたら先に救助されていたあの子が言っていた、白神村の事件の関係者ではないかと我々も判断したんです」
「彼はそのまま?」
「いえ、死の直前に一瞬だけですが意識を取り戻しましてね。駆けつけた我々警察陣に対して、必死に残った方の手でこの手帳を手渡したんです。『これを頼む。あいつを捕まえてくれ』。それが彼の最後の言葉でしたよ。私が手帳を受け取った直後に、そのまま電池が切れるかのように亡くなりました」
榊原は黙ってこの男の亡骸を見下ろしていた。自分の命と引き換えに、事件解決に役立つ重要な証拠を守りきったのである。榊原は、彼に対して敬意を表する黙礼をした。
それが終わったのを見ると、大迫は榊原を見やった。
「我々の持ち札はこれだけですよ。さて、どうしますか?」
それに対し、榊原の答えは簡単だった。
「調べて考えるだけです。それが探偵ですから」
そう言うと、榊原はそのまま身を翻し、遺体安置室を後にしたのだった。
それから数日が経過していた。この間に、村で発見された遺体の死亡推定時刻から、生き残った時田琴音に犯行が可能か否かを警察はより具体的に検証した。が、結果は『犯行不可能』。時田琴音は正式に容疑者から除外された。
また、手帳の記述から犯人が乗客を欺くために琴音の遺体を偽造していた事も、この時点で明らかになっていた。もちろん、これは犯人が琴音の事を死んだと思っていたからこその偽造であったはずで、生きているとわかっていたらあのまま琴音という重大証人を生かしておくはずがない。つまり犯人としては琴音が生きているとは現段階でも思っていない事になる。
彼女の証言から村に逃げ込んだ人間のリストも作成され、遺体の身元も次々と明らかになっていった。犯人らしき人間が村から見つからない以上、犯人が警察の到達前に自力で村から脱出をしたのはほぼ確実である。となると、時田琴音が生きている事がばれれば、彼女を殺しにくる可能性も捨てきれない。警察は、彼女の生存をマスコミには公表しない事にし、十年前同様、『生還者』がいた事は公には伏せられる事になった。つまり、村からそんな少女の遺体は見つからなかったため、彼女が村にいた事を警察は把握していないという扱いである。これなら犯人から見てもなんら矛盾はなく、怪しまれる事はない。
だが、それは彼女の重要証言である「土方邦正を名乗る犯人の似顔絵」を公表できないという事でもあった。このため、警察と榊原は極秘裏にこの似顔絵の主を探す必要に迫られた。何しろ、顔以外は名前も何もわかっていないのである。そもそも東京に住んでいるかどうかもわからない。その上、いくら琴音の絵が上手とはいえ、根拠となるのはあくまで素人の絵。捜査は長期化の様相を呈していた。
だが、六月十三日の日曜日。警察病院を訪れた榊原は、やってくるなり数枚の写真を琴音に突きつけた。
「単刀直入に聞く。この中に見覚えのある人物はいるか?」
琴音は内心戸惑っていたが、とりあえずその写真を見る。その瞬間、琴音の頭の中は真っ白になった。
琴音の指は、自然とある一枚を指差していた。
「やはりこいつか」
榊原はホッとした表情で呟いた。琴音はスケッチブックで質問する。
『どうやって突き止めたんですか?』
「犯人の行動と手帳の記述。そこから考えて、いくつかヒントはあった。手帳に記されていた柴井の手帳の記述から犯人は奨励会に所属していた経験があり、なおかつ似顔絵から男性であることは明白。だから、まずは奨励会の記録を当たる事から始めた。そして、その中で事件が発生した六月五日から八日にかけて行方がわからず、なおかつそれ以降に都内もしくは山梨県内のどこかの病院に入院している人物をピックアップした」
病院という言葉を聞いて、琴音は首をかしげた。それを見て、榊原は琴音が何を思っているのかすぐに察したらしく、すぐに言葉を重ねる。
「いくら殺人鬼とはいえ、あんな廃墟同然の村に三日間もいたんだ。ろくに食べ物もない上に、降りしきる雨で体も濡れていたはず。それに、脱出するには山越えをしなければならない。この状況では体力も限界だろうし、おそらく脱出後にどこかの病院に駆け込んでいると考えた」
榊原ははっきり告げる。
「結果、その男がヒットした。奨励会の出身者で、事件期間中にアリバイがなく、事件が終結したまさにその日に青梅市内にある某病院に駆け込んできた男だ。なかなか大変な人探しだったよ」
簡単そうに言っているが、そう簡単にできる事ではない。それだけでも、この男が見た目に反して相当優秀な探偵であることは明白だった。
「さて、ここからどうするかだ」
と、榊原はそのような事を言った。
「現在のところ、その男はこの事件の舞台から去っている。残念ながら、根拠となる証拠が君の証言だけでは、この男を再び事件の表舞台に引きずり出す事は至難の業だ。警察としても、任意同行をするくらいしかできないだろうが、自分が警察にマークされたと知ったら、この男は間違いなく逃亡する。とはいえ、このままでは埒が明かないのも事実。何としてでも、こいつを事件の舞台へ引っ張り出す必要がある」
『どうするんですか?』
琴音の問いに、榊原ははっきり言った。
「私がこいつと直接対決をする」
その答えは、琴音もある程度予想していたものだった。
「現状では警察が動くと逆効果にしかならない。したがって、やるなら一般人の私がやる他ない。だが、生半可な論証では逆に逃げられてしまう。こいつを追い詰めるには、警戒を抱いていない現段階の一度の勝負で完膚なきまでにやつの犯行を暴ききるしかない。チャンスは一度。失敗したらその時点で我々の敗北だ」
榊原はそこで困ったような表情をした。
「問題はやつを私の前に引っ張り出す方法だ。推理をぶつけるまで、やつに私に対する警戒を抱かせたくない。これについてはこの後具体的に考えるつもりだが……」
と、そこで琴音が榊原の言葉をさえぎるように言葉を書き記した。
『私がこの男を榊原さんの事務所におびき出します』
その言葉に、榊原は少し驚いた様子で琴音を見た。
「いや、しかし……」
『お願いします』
そう言って、琴音は決然とした様子の文字ではっきりと書いた。
『私も、この男だけはゆるせませんから。ぜひともお手伝いしたいんです。大丈夫です。お医者さんの話だと、明日にでも退院できるそうですから』
榊原は最後まで迷っていたようだった。が、最後には小さく頷いた。
「……わかった。後でこいつの住所を教える。どうやっておびき出すかは、私はあえて聞かない。ただ、無茶だけはしないでくれ」
それからと、と榊原は続けた。
「協力してくれるというなら、もう一つ頼みたい事がある」
『何でしょうか』
榊原はこう言った。
「この男を追い詰める切り札の役割を、君に頼みたい」
こうして、二人の間で犯人……『孔明』を追い詰める算段が検討される事となった。
そして三日後……榊原は自身の事務所で、琴音が独自に出した手紙でおびき出された、写真に写っていた『生還者』と顔を合わせることになったのである。
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