解決編第三章 イキノコリ
事務所に入ってからすでに一時間以上が経過していた。榊原の爆弾発言の余韻も冷めぬうちに、『生還者』は思わずこう言っていた。
「……あなた、正気ですか?」
「私はいたって本気ですが」
榊原は涼しい表情で言う。
「『イキノコリ』は存在しない。そんなの当たり前じゃないですか。探偵さん、あなたまさか、事件が解決できないからといってオカルトに突っ走るつもりですか?」
「私はオカルトが嫌いですし、それに荒唐無稽な事を言っているつもりもありません。あくまで事実を追及するだけです」
「その結果が、都市伝説の『イキノコリ』の力を借りることですか。……正直、もう少しまともな方だと思っていたんですけどね」
『生還者』はため息をつくが、榊原は一切顔色を変えない。
「信じないならそれも結構。ですが、『イキノコリ』は存在する。それが私の最終的に出した結論です」
「じゃあ、その『イキノコリ』が犯人だとでもいうつもりですか? 事件は『イキノコリ』の亡霊の仕業で起こったとでも?」
「いいえ。さっきも言ったように、犯人は人間です」
榊原に皮肉は通用しない。ここに至り、ようやく『生還者』の表情も真剣になった。
「そもそも、村内の名簿に書かれた名前と、白神事件で笹沼が殺した人間の人数は一致しているはずです。村民の数は二十三名で殺されたのも二十三名。名簿作成から事件までの間に村に新しく出入りした人間は存在しない。乗客たちもそれを根拠にして『イキノコリ』の存在を否定していました。この状況で、どこに『イキノコリ』の存在が生じるというんですか」
『生還者』の反論に、榊原はしばらく押し黙っていたが、やがて目の前にあるファイルに手を置いて、呟くようにこう言った。
「……確かに、この手帳の記述からは、村に残っていた名簿の人数と白神事件の被害者の数が一致する事が確認されています。一見すると、『イキノコリ』は存在しないように見えるのも無理はないでしょう」
ですが、と榊原は『生還者』が反論をする前に言葉を続ける。
「手帳の記述を見てみると、少なくとも殺された二十三名以外の人間が当時村にいた可能性が浮上するんです。今から、それを証明しましょう」
そう言うと、榊原はファイルをめくってある一節を指差した。
「問題になるのは村に入って一日目、まだ殺人が起こる前に、何人かが食料を探しに行く場面です。矢守と藤沼は下ノ倉家の敷地内である人形を発見しています」
いきなりよくわからない事を言い始めた榊原に、『生還者』は戸惑った表情をする。が、榊原はそんな『生還者』を気にする様子もなく話を続ける。
「この人形は十年前、すなわち大量殺人が起こった頃にテレビ放映されていた少女向けアニメに登場するキャラクターをモデルとしたものです。この下ノ倉家に当時いた子供は当時小学一年生の下ノ倉元太ただ一人。ですが、さすがに男の子である元太がこの人形の持ち主とは考えにくい。それに、近くの柱には元太が書いたと思しきこのような言葉が刻まれていました」
そう言うと、榊原は別の一節を指差す。
『きょうもねーちゃんといっしょにあそんだ。げんた』
「この言葉から、彼らはこの人形の持ち主が元太に『ねーちゃん』、すなわち『姉ちゃん』と呼ばれている同年代か少し年上の少女のものであると推察しました。この村の人間で条件に該当しそうなのは、隣の寺坂家にいる寺坂春則夫婦の三人の娘だけです。そして、問題の名簿にこの三姉妹の写真も写っていたという記述が手帳にはあります。写真の題名は『寺坂明日美、夜理恵、早百合進級祝い』。長女・明日美が高校生、次女・夜理恵が中学生、三女・早百合が小学生だったようですね。さすがに中学生や高校生が問題のアニメグッズを購入して小学一年生の元太と遊んでいたとは考えにくいので、ここから問題の『姉ちゃん』は三女の早百合だと彼らは判断していたようです」
「それが何だというんですか? その『姉ちゃん』が寺坂早百合だとわかったところで、『イキノコリ』の正体がわかるとは思えませんが」
一見するとまったく関係ないと思われる事を聞かされ続けて、『生還者』は苛立ったように言う。が、榊原は自分のペースを崩す事はない。
「実は、彼らのこの考え方には根本的な矛盾があるんですよ」
「……矛盾、ですか?」
榊原が何を言いたいのか『生還者』には見当もつかない。
「写真に関する記述を見ると、問題の寺坂早百合が歴史の教科書を持っていた事がわかります。小学校で歴史を習うのは小学六年生。だとするなら、この写真を撮った当時、寺坂早百合は小学六年生だった事になります」
「それが何かおかしいんですか。確かに小学六年生というのは思ったよりも年上ですが……そういうキャラグッズを買っていてもおかしくはないでしょう」
「まぁ、確かに小学六年生でもアニメのキャラグッズを買う子供がまったくいないとはいえないでしょうね」
「だったら……」
「ただし」
榊原は『生還者』の言葉をさえぎるように言う。
「本当に彼女が小学六年生だったらの話ですが」
一瞬、何を言われているのかわからなくなった。
「何を言っているんですか。今まさにあなたが、彼女が小学六年生だと証明したんじゃないですか」
「ええ、彼女は小学六年生でしょう。この写真を撮ったときには」
その言い方に『生還者』は引っかかった。
「この写真を撮ったとき?」
「どうも、事件の混乱で当事者の大半はこの前提を完全に忘れていたようですね」
そう言うと、榊原は決定打を放つ。
「この村の名簿が作成されたのは村上有里子が結婚した年、すなわち白神事件の五年前に当たる一九八九年なんです。白神事件が起こったのは一九九四年。ここに掲載されている写真も白神事件の五年前のものですから、一九八九年当時小学六年生だった寺坂早百合の白神事件当時の年齢は、十二歳に五年を足した十七歳、すなわち高校生という事になるんですよ」
「あっ」
その事実に、『生還者』は思わず息を呑んだ。
「問題のアニメが放映されたのは白神事件の起こった年、すなわち一九九四年です。当然、その関連グッズもこの年以降でなければ手に入れる事はできない。が、高校生の寺坂早百合がこんなグッズを買って元太と遊ぶとは考えられません。それは彼女より年上の残る二人の姉妹も同様です。そして、彼女たち以外に問題の二十三人の中で元太と同年代の少女は存在しません」
榊原は衝撃的な結論を突きつける。
「つまり、一九九四年にその年から発売が開始されたアニメのキャラグッズで元太と遊んでいた、名簿に名前が載っていない第三者の存在が浮上するんです」
『生還者』はただただ呆然とその話を聞くしかなかった。
「でも、その名簿作成以降も人の出入りはなかったはずじゃあ……」
「出入りはなかったかもしれません。しかし、出入りがなくとも村の中で人が増える事もあります」
「そんな事があるわけが……」
「例えば、出産です」
思わぬ発言の連続に、『生還者』は押し黙るしかない。
「手帳の最後の記述から、白神事件直前に村上有里子が妊娠していた事実が明らかになっています。母子手帳があった以上、これは間違いないでしょう」
「まさか、その子供が『イキノコリ』だとでも言うつもりですか? ありえない! あなたの言葉が正しいなら、有里子の妊娠は白神事件発生の直前のはず。いくらなんでもそんな短期間で子供が生まれるはずがないし、生まれたとしてもすぐにアニメキャラの人形を買うなんて事はしないはず。あまりに無理がありすぎます」
『生還者』は首を振りながら必死に否定するが、榊原は対照的にただただ冷静に言う。
「そもそも、彼女の妊娠はこれが初めてだったんでしょうか?」
「……は?」
「手帳の記述では、母子手帳の他に使い古された遊具がいくつもあったそうです。矢守たちは他の家からのもらい物と判断していますが、もしこれらが仮に、前の子供からのお下がりだったとしたら」
「一体、何を……」
「問題の名簿が作成されてから白神事件まで五年の月日が流れているんです。すなわち、この間にすでに最初の子供が生まれていても何の問題もないという事ですよ」
『生還者』は頭を殴られたような感覚に襲われた。
「す、すでに村上夫妻には最初の子供がいたと?」
「そう考えなければ例のアニメキャラの人形に説明がつきません。あの人形はその村上夫妻の最初の子供のものだった。だとするなら、その最初の子供はおそらく女の子で、名簿作成直後に生まれたとすれば白神事件当時三~五歳。年齢的にも下ノ倉元太と同年代という条件に充分合致します」
そして、と榊原は畳み掛ける。
「当然の事ながら、問題の二十三名の被害者の中にこの謎の少女の名前は存在しない。いくら名簿に書かれていなくても、殺人事件の被害者であるならば嫌でも名前は出るはず。それが出なかったという事は、この謎の少女は被害者にはならなかったという事、すなわち」
榊原は結論付ける。
「その謎の少女こそが、正真正銘、白神事件を生き延びた都市伝説の『イキノコリ』その人だったことになる」
『生還者』は何も言わなかった。いや、何も言えなかったというべきだろうか。あまりにも理解の範疇を超えた話だった。
「信じられません……」
「しかし、論理的にはその可能性しかないと私は判断しています。さて、こうなると次の問題はただ一つです。すなわち」
榊原は容赦なく告げる。
「『イキノコリ』とは、一体誰なのか」
『生還者』は息を呑んだ。
「わかるんですか?」
「ここで再び先程の人形に話を戻しましょう。あの人形のあった場所には『きょうもねーちゃんといっしょにあそんだ。げんた』という下ノ倉元太の書き込みがしてありました。矢守たちはここから寺坂早百合が『ねーちゃん』だと判断したわけですが、先程の推理が正しいならこの考えは根底から覆る。名簿に名がない以上、『イキノコリ』が生まれたのは一九八九年から一九九四年までの五年間。いずれにせよ、最大でも五歳です。一方、白神事件当時の下ノ倉元太の年齢は小学一年生ですから六歳~七歳。どちらにせよ、元太の方が年上です。にもかかわらず、彼は自分より年下の『イキノコリ』の事を『ねーちゃん』と書いているんです。矛盾が出てしまうんですよ」
『生還者』はゴクリと唾を飲み込んだ。もはや、何がどう展開していくのか、まったく予想がつかない。
「こうなると、前提から疑ってかかるしかありません、すなわち、『ねーちゃん』は本当に『姉ちゃん』の意味なのか。『姉ちゃん』でないなら、『ねーちゃん』とは何を意味するのか。色々考えてみましたが、書いたのが小学一年生である以上はそれほど難しい話ではないはず。だとするなら、考えられる可能性としては『イキノコリ』の本名をもじったあだ名のようなものではないかという事です」
「あだ名……」
その言葉に、『生還者』の何かが引っかかった。が、それが何なのかはっきりする前に、榊原がその答えに切り込んでいく。
「『イキノコリ』が村上家の人間だとすると、当然その名字は『村上』ですが、この名字から『ねーちゃん』というあだ名を作るのは難しい。となると、あだ名の由来は名字ではなく名前の方にあると考えるのが妥当でしょう。それを踏まえて『イキノコリ』の条件を列挙していくとこうなります。まず性別は女性。次に、事件当時の年齢から考えて、十年後である現在の年齢は十歳以上十五歳以下。あだ名の件から名前に『ね』の文字が含まれている。そして、あれだけの惨劇を経験しているのだから、精神的にかなりのショックを受けてそれなりの後遺症が残っている可能性が高い」
そして、榊原は唯一つの正解へと論理を進めていく。
「以上の条件に一致する人間が、実は今回の事件の関係者の中に一人存在するのです。あなたにも、その人物が誰なのかすでにわかっているとは思いますが」
「まさか……」
『生還者』は動揺した。だが、そう考えれば何もかも辻褄が合う。そして、榊原は間髪入れずにその名を告げた。
「時田琴音。彼女こそが、あの白神事件における正真正銘の『イキノコリ』です」
『生還者』の頭に、あの喋れない少女の顔が浮かんだ。
呆然としている『生還者』を目の前にして、榊原はただひたすら己の論理を前へと進めていく。もはや、『生還者』にこの男を止める事はできない。
「時田琴音は『イキノコリ』の条件にすべて合致するんです。彼女は中一年生、すなわち十三歳。年齢的にも問題はありません。また、彼女の名前は『琴音』ですから、『ねーちゃん』というあだ名にも矛盾はない。それに、運動性失語症は精神的なショックが原因となっている事が非常に多い。幼い頃に家族を含めた村民全員が自分の目の前で殺害されるという経験をしていたとすれば、そのような後遺症が残ったとしてもなんら不思議はありません」
「彼女が……『イキノコリ』だと?」
『生還者』はかろうじてそれだけ言った。
「彼女が『イキノコリ』だとするなら、彼女の行動で納得できる事もあります。手帳によれば、彼女は村に行き着くまでに突然集団を離れ、洞窟を発見しています。偶然のようにも見えますが、彼女が『イキノコリ』だったとすれば、幼少期の記憶からあの洞窟の事を知っていた可能性が高い。もしかしたら、あの忌まわしい村に行きたくないがために、誰かが村を見つける前にみんなを洞窟に誘導しようとしていたのかもしれませんね。もっとも、この辺りは想像ですが」
と、ここでようやく『生還者』はショックから立ち直って反撃を開始した。
「ちょっと待ってください。だとするなら、あのバスには白神事件の関係者が集まっていた事になります。『イキノコリ』の時田琴音、ライトバン事故の生存者である雨宮憲子。その二人を乗せたバスがたまたま事故を起こしたのが白神村のすぐ近くだった。あまりにも偶然が重なりすぎていませんか?」
「なら、偶然ではなかったと考えるべきです」
『生還者』の反論を、榊原は簡単に抑える。
「そもそも、犯人グループ、すなわち『孔明』と柴井があのバスを狙った理由は何なのか。その計画性から見るに、適当なバスを選んだとも思えない。そして、柴井はライトバン事故で娘を失った事が原因で人生が狂い、犯行に加担するまでに追い詰められた。だとするなら、少なくとも柴井は自分をこんな目に遭わせた元凶に復讐したいと思っていたはずです。もし、あのバスを選んだ理由がその復讐のためだったとすればどうでしょうか」
『生還者』は口ごもる。それを見て、榊原は確信めいた口調ではっきりと言った。
「柴井があのバスを選んだのは、おそらくは雨宮憲子が毎日あのバスに乗っているのを知っていたからです。彼にとって、あの事故で唯一生き残り、今ものうのうと生きている雨宮憲子の存在は我慢ならないものだったのでしょう。だから、彼女が毎日乗っているバスに標的を定めた。『孔明』としてはどのバスであっても計画は変わりませんから、標的の選別は柴井に任せたのでしょうね」
「その推理が正しいという証拠は?」
「柴井がわざわざ娘の写真や当時の新聞記事が貼り付けられた手帳を持ってバスに乗っている事です。そんな覚悟でもない限りは、普通はバスジャックにそんなものを持ち込まないでしょう」
「じゃあ、時田琴音がバスに乗っていたのも偶然ではないと?」
「柴井は雨宮憲子が毎日乗っているバスを標的に狙った。では、雨宮憲子はどうして同じバスにばかり乗っていたのか。これは想像ですが、もしかしたら雨宮憲子は時田琴音が『イキノコリ』ではないかと疑っていたのではないでしょうか」
理路整然とした回答に、『生還者』は口を挟むことができない。
「彼女は『イキノコリ』の存在を信じ続けていた。つまり、長年にわたって事件を調べ続けていた可能性が高い。私でも情報さえあれば時田琴音の存在にたどり着けたんです。いくら謎の存在とはいえ、日本に生まれた以上は必ず戸籍にその名前が載っているはず。要するに本気で調べれば、二十四人目の存在にたどり着くのはそう難しい事ではないんです。さらに言えば、彼女の職業はオカルト誌の編集者。『イキノコリ』の正体はかなりのスクープになります。これらの事から考えるに、彼女は時田琴音が『イキノコリ』ではないかと疑って、毎日のように尾行していたのではないでしょうか。だからこそ、彼女は毎日時田琴音と同じバスに乗っていた」
そう言って、榊原は小さく微笑む、
「どうですか。こう考えれば、あの三人があのバスに乗り合わせたのは偶然ではなくなります」
「……では、彼らが白神村に逃げ込んだのも偶然ではないと?」
「当然でしょう。少なくとも、柴井は自分がなぜあのバスを標的にしたのかを『孔明』に話しているはず。必然的に、村の場所なども話していた可能性が高い。須賀井の指示で村の近くに接近できた事はさすがに偶然でしょうが、事故を起こす場所をあえてあの場所に選んだのは必然だったと思います。乗客全員を殺すという目的から考えれば、森の中に留まられるよりも、廃墟のような隠れ場所や凶器が多数存在する場所の方が、犯行の際に都合がいいでしょうから。それに、『イキノコリ』なんて不気味な噂がある村なら、乗客たちも疑心暗鬼に陥りやすく、犯行はさらに楽になる。思えば、犯人……『土方邦正』が事故現場から目印をつけるという形で全員を村に行き着くように誘導していた節もありますね」
榊原は『生還者』を見据えた。
「要するに、何もかもが必然だった。ただし、柴井はあくまで雨宮憲子が同じバスに乗っているから狙っただけで、時田琴音が『イキノコリ』かもしれないという事まではさすがに予測できていなかったはずです。当然、これは彼から話を聞いていた『孔明』も同じでしょうね」
そして、榊原は宣言する。
「そして、この事こそが、犯人……『孔明』にとって最大の致命傷になるんです」
「……それが、あなたの言う『切り札』ですか」
ようやく、話が最初に戻ってきた。だが、それでもなお、榊原の言葉には不明瞭な事が多い。そして、それは『生還者』に付け入る隙を与えているという事でもある。案の定、『生還者』は榊原に対して反論する。
「時田琴音が『イキノコリ』……確かに驚くべき事です。素直にそれは認めましょう。でも、だから何なんですか。確かにそれは今までの事件の見方を根底から覆す事かもしれませんが、彼女が『イキノコリ』だとわかったところで、『生還者』が犯人だという直接的な証拠にはなりえません」
そう言ってから、『生還者』は鋭い口調で断言する。
「何しろ、彼女は事件二日目……全体から見れば三番目にバラバラにされて殺されているんです。こう言っては何ですが、死んでいる以上、彼女が事件の突破口になる事はありえない。つまり、あなたの推理は全部無駄だったという事です!」
『生還者』の興奮気味の言葉に対し、榊原はしばらく黙ってその言葉を吟味しているようだった。が、やがて静かに反論を開始する。
「……その言葉に答える前に、一つはっきりさせておきたい事があります」
「何でしょうか」
「他でもない。時田琴音の遺体に関してです」
そう言うと、榊原は手帳の記述の中で、時田琴音の遺体が発見された場面を開けた。
「記述によると、時田琴音の遺体は残る七名が一階の部屋で事件の検討をしていたときに発見されました。遺体は胴体と切断された頭部のみ。胴体部分はセーラー服を着ており、頭部は顔面をズタズタにされていて顔の識別は不可能でした。ただ、この時点で生存が不明となっていた女性陣は宮島さんと時田さんの二人だけ。このうち宮島さんの生首はすでに発見されている事から、明らかに女性のものと思われるこの首の主は時田琴音と判断されました。さらに、この首と胴体の切断面が目測ではあるにしても一致した事も、この説の正当性を補強する事になります。以上が、手帳の記述に見る三件目の時田琴音殺しに関する流れです。どう思われますか」
「どうって……」
いきなりそんな事を聞かれて『生還者』は戸惑う。が、榊原はこう続けた。
「私にはとても不自然な遺体発見に思えてならないんです」
その言葉に、『生還者』は警戒を強めた。先程から、この男はこうして何度も事件の様相をひっくり返し続けている。
「まさか、頭部がズタズタだったから身元が正しいかどうかわからないとでも言うつもりですか」
「まぁ、それもないとは言いません。細工をしてあった『土方邦正』を除いて、他の遺体がこれ見よがしに頭部によって身元がはっきりするようにしてある中で、彼女の遺体だけわざわざ頭部を傷つけているのですから。ですが、私はもっと根本的におかしな部分があると思っているんです」
はたして、榊原は時田殺しに関する矛盾を指摘し始めた。
「いいですか。この遺体は胴体と頭部だけで、胴体はセーラー服を着ていた。この時点ですでにおかしいんです」
「どこがですか。彼女がセーラー服を着ていたのは間違いないでしょう。手帳にもそう書かれているんじゃないですか?」
「ええ。確かにバスの時点、さらには村に逃げ込んだ時点で彼女がセーラー服を着ていたのは間違いありません。ですが、我々は根本的な事を忘れているんです。すなわち、そもそもなぜ彼女たち二人はこの状況下でわざわざ離れで寝る事になったのか」
いきなりそのような事を聞かれて、逆に戸惑ったのは『生還者』の方だった。
「なぜって……」
「手帳の記述によれば、それは時田琴音が熱を出したせいだそうです。あの状況ですから原因がわからない上に、彼らがいた部屋に比べて離れはまだ乾燥していた。隔離と体を湿らせない目的で、看護師の宮島さんが付き添う形で二人はあの離れに行く事になった。これがそもそもの発端だったんです」
榊原の話にはまったく方向性が見えない。遺体の不自然さの話をしているはずなのに、いきなり二人が離れにいた理由の話になっているのだ。普通の人なら、首を傾げてもおかしくない論理構築である。
だが、当の『生還者』はというと、なぜかその表情が少し歪んでいた。そして、それを見逃す榊原ではない。
「ええ、おかしいんですよ。この状況下で体調不良の原因として真っ先に疑われるのは衣服が濡れた事による体温低下、もしくはそれに伴う風邪です。当然、看護師の宮下さんがそれに気づかないはずがない。だったら、宮下さんが真っ先にするであろう事があります」
「何なんですか」
顔を歪めながらも、『生還者』は強気に尋ねる。が、榊原の答えはシンプルだった。
「着替えです」
その答えに、『生還者』の顔色がますます悪くなる。
「記述ではそれぞれが衣服を一応乾かしていたようですが、あの状況で完全に乾いたとも思えない。衣服が乾ききらず、一番体力がない時田琴音がダウンした。そう考えるのが妥当でしょう。事実、月村杏里は後に衣服を乾かさなかったのが原因で低体温症に陥っています。原因が湿った衣服であるのは明白。そして、その衣服を着ている限りは回復もありえない。なら、対策は一つだけ。乾いた服に着替える事です」
「乾いた服なんて、そんなものがあるわけが……」
「事件後、乗客たちが、犯人が犯行時に服を着ていたかどうかを議論する場面があります。あの雨の中で犯行を行うには必ずずぶ濡れにならざるを得ず、また返り血を浴びざるを得ない。ゆえに犯人は必ず服を着替えているという理論です。その後、寝室の部屋に元々あった衣類が一組なくなっているのが確認され、犯人はこのなくなった衣服を着て犯行に及び、犯行後にまた元の服に着替えたという結論が導き出されました」
ですが、と榊原は続ける。
「もし、このなくなった衣服を使ったのが犯人ではなかったとすればどうでしょう。犯人が『土方邦正』と入れ替わった『孔明』だとするなら、あの場からわざわざ衣服を調達する必要はない。宮島たちの殺害は運転手の制服で行い。返り血を雨で洗い流した後、その制服を本物の『土方邦正』の遺体に着せ、自身は『土方邦正』と入れ替わる前に本来着ていた服に着替える。後は、雨の当たらない便所内で首を切断すれば、雨に濡れずに犯行は可能です。土方の遺体は死んでからかなり経っていますので、返り血の心配はしなくてもいい。こう考えると、なくなった衣服を使ったのは犯人である『孔明』であるとは考えにくいんです。では誰が使ったのか」
榊原は正解を告げる。
「この場合、一人しか考えられません。時田琴音の介護をしていた宮島真佐代です。彼女は時田琴音を回復させるために、ずぶ濡れの衣服を着替えさせようとして、みんなが寝静まった後に寝室から衣服を持ち出した。犯人が着替えた可能性がない以上、そう考えるのが妥当です。この時点で殺人は起こっていませんから、一人で動いた事については何の矛盾もない。元々は廃村にある衣服という事で着るのに躊躇していたようですが、彼女の命にかかわるかもしれない以上、そんな事は言っていられません。あの状況下で衣服を乾いたものにするのは、医療関係者として当然の行為です」
そして、榊原はゆっくりと論理を帰結させる。
「もうわかったはずですね。宮島さんは時田琴音を別の衣服に着替えさせていた。村上家に中学生はいませんでしたから、当然家にあった衣服にセーラー服はない。つまり、時田琴音がセーラー服を着ているはずがないんです。にもかかわらず、問題の遺体はセーラー服を着ていた。セーラー服を着ていたからこそあの遺体は時田琴音のものだと判断されたのですが、真相はまったく逆だった。セーラー服を着ているからこそ、あの遺体は時田琴音の遺体ではありえないのです」
だが、『生還者』は苦虫を潰したような顔で、反論を試みる。
「ちょっと待ってください。じゃあ、その時田琴音の遺体は誰の遺体だったんですか? あの時点で生きていることが確実視されていたのは七人。当然、遺体の主は残り三人の誰かで、その三人の中で女性は宮島さんと時田さんの二人だけ。そして、宮島さんの生首がすでに発見されている以上、明らかに女性のものであるもう一つの遺体は時田琴音のものでなければならない。簡単な論理的帰結ですよ。いくら衣服が怪しかろうが、この論理は覆らないはずです。あの遺体が時田琴音のものでないというなら、まずはこの論理に反証してくださいよ」
だが、これに対しても榊原はよどみなく持論を展開する。
「ポイントは、二人の女性の遺体が同時に発見されたというわけではない事。そして、雨宮憲子の遺体発見場所です」
「雨宮憲子?」
なぜこの場面でいきなり彼女の名前が出てくるのかわからず、『生還者』は困惑する。
「雨宮憲子の遺体が発見されたのは村上家の離れの勝手口の前でした。遺体には動かされた形跡はない。つまり、犯行現場もここだったわけです。そこで疑問が一つ。なぜ、彼女はこんな場所で殺されたのか。もっと言えば、彼女はなぜこんな場所にわざわざ来ていたのか」
「その理由がわかるというのですか?」
「もちろん」
自信ありげに言うと、榊原はさらなる推理に踏み込んでいった。
「そもそも、さっきも言ったように雨宮憲子は時田琴音が『イキノコリ』ではないかと疑っていたはずです。だからこそ彼女を尾行してあのバスに乗っていたと考えられるわけですから。一方、彼女はこの事件が『イキノコリ』によって行われていると信じていた。つまり、彼女の中では時田琴音は『イキノコリ』であり、『イキノコリ』はこの事件の犯人である、ゆえに時田琴音はこの事件の犯人であるという三段論法が成立していたと考えるべきです」
「ですが、時田琴音はすでに殺されてしまっている」
「ええ。でも、彼女の中で時田琴音イコール犯人の考えは簡単に覆す事はできない。だから、彼女もこう考えたはずです。本当に時田琴音は死んでいるのか、と。そして、彼女はそれを確かめるために離れに行き、そこで殺されたと考えるべきでしょう」
「どうして離れに行くんですか。そこにあるのは宮島真佐代の生首だけでしょう」
「だから、それを確認しに行ったんです」
『生還者』は呆れたように首を振る。
「言っている意味がわかりません。時田琴音の生死を確認するために、どうして宮島真佐代の生首を確認しに行くんですか?」
「簡単ですよ。そこに今も宮島真佐代の生首があるのかを見に行った。それだけの話なんです」
そして、榊原は結論を叩きつけた。
「要するに、雨宮憲子は二階で発見されたという『時田琴音』の遺体が、実は宮島真佐代の遺体ではないかと疑っていたという事です」
その瞬間、『生還者』は思わず押し黙った。
「簡単な理屈です。あの時点で生死不明の女性は時田琴音と宮島真佐代の二人だけ。そして、二階の遺体が時田琴音だと判断されたのは、もう一方の宮島真佐代の生首が発見されていたから。しかし、雨宮憲子の考えでは時田琴音は生きている。にもかかわらず、発見された遺体は女性のもの。だとするなら、その遺体は宮島真佐代のものではないかと疑っても不思議ではない。つまり、犯人は離れにあった宮島真佐代の生首をズタズタにし、改めて二階に放置する事で同じ生首を二人の人間に見せかけていた可能性が浮上するんです」
『生還者』は青ざめながらも、しっかりと首を振った。
「ありえない。そもそも二階の遺体の首と胴体の切断面は一致していたはずです」
「一致するのは当然。胴体も首も、元々宮島真佐代のものなんですから」
「でも、遺体にはセーラー服が……」
「言ったでしょう。あの状況で時田琴音がセーラー服を着ているのは不自然すぎる。あれは宮島殺害後に脱いであったセーラー服を犯人が着せたものです」
「馬鹿な。いくらなんでもサイズが……」
「着せるのは遺体。多少の無理をしても遺体は文句を言いません」
「でも、外見的には怪しまれますよ」
「だからこそ、二階の遺体には手足がなかったんです。胴体だけなら、成人がセーラー服を着ていることに対する違和感も少なくりますからね」
すべての事象が意味を持って連なっていく。そしてそれが、『生還者』の言い訳を木っ端微塵に打ち砕いていく。
「じゃあ、何ですか。犯人が本当は生きている時田琴音が死んでいるように偽装したってわけですか?」
「いえ、少なくとも犯人は時田琴音を襲撃しているはずです。生かしておく理由がありませんからね」
「それなら彼女の遺体をそのまま使えばいいでしょう」
「犯人もそうしたかったはずですが、それができない状況に陥ってしまったと考えられます。おそらく、時田琴音の遺体が回収できない状況になってしまったのでしょう。例えば襲撃の際に逃げていた彼女が崖下に落ちたとか、川に落ちたとかですね。これらは想像にすぎませんが、犯人が遺体を偽造したとするなら、可能性はこれしかありえません」
「だったら、むしろ犯人としては彼女が生きていると思わせた方が、自分に疑いがかからない分都合がいいはずです。にもかかわらず、遺体を偽造してまで彼女の死をわざわざ乗客にお知らせして、彼女の疑いを晴らそうとするなんて、行動が矛盾しています」
「いえ、犯人としては逆に彼女の死亡をはっきりさせておかないとまずい事になるんです」
重苦しい沈黙がその場を飲み込む。
「どういう意味ですか」
「犯人である『孔明』にとって一番困るのは、あのまま残った人間が結束して、救助までに一切の隙を見せなくしてしまう事です。あの状況で乗客たちが結束できなかったのは、誰が犯人かわからないという疑心暗鬼が互いの中にあったからです。もし、時田琴音が犯人であると確定してしまうと、その疑心暗鬼がなくなってしまう。全員が時田琴音に対抗するという同じ目的で一致団結してしまいかねないんです。だから、犯人としては何が何でも殺害された人間の遺体を彼らの前に示し続けなければならなかった。当然、何らかの事情で遺体がなくなってしまったとしても、その条件は変わらなかったんです。だから、犯人としては遺体を偽造しても時田琴音の死を残りのメンバーに示す必要があった」
榊原は一度息をついで、話を再開する。
「一度時田殺害の流れを整理してみましょう。あの夜、犯人は『土方邦正』の遺体を便所に設置し、そのまま離れを襲撃した。ところが、宮島真佐代はすんなり殺害できたのに対し、時田琴音の殺害に予想外に手間取ってしまった。さっきも言ったように、彼女は『イキノコリ』である公算が強い上に、現場となった村上家はそもそも彼女の生家です。土地勘があるわけで、手こずるのは当然でしょう。それでもどうにか追い詰める事はできたが、その際彼女の遺体が何らかの理由で回収不能な状況になってしまった。しかし、先程の理論から彼女の遺体が発見されないのはまずい。苦肉の策として、犯人は宮島真佐代の遺体を時田琴音の遺体に見せかける事にした」
榊原は推理を続ける。
「まず、犯人は宮島の遺体を二階に運び上げ、そこで彼女に宮島が着せ替えておいた時田琴音のセーラー服を着せた上で全身をバラバラに切断した。そして手足を隠し、首だけを元の離れの上に設置。それが発見される事で、宮島真佐代はすでに死んだという認識が残りの乗客たちの間に共有された。当然、遺体など二度と見たくないから離れは封鎖され、これ以降宮島の遺体を見ようなどと考える人間はいなくなる。犯人はそれを逆手にとって、隙を見て宮島の頭部を回収すると二階に侵入。あとは回収した宮島の顔面を傷つけて本人とわからないようにした上で放置し、遺体を発見させれば、その遺体は時田琴音と判定される。これが、初日夜の犯人の動きだったと考えられます」
榊原は『生還者』を見やった。
「もうわかりますね。雨宮憲子はなぜあの場所で殺害されたのか。彼女は離れで見てしまったんですよ。本来そこにあるはずの宮島の生首が存在しない事を。トリックがばれた以上、犯人が残り三人に先駆けて彼女の口を塞ぎにかかったのは当然といえるでしょうね」
榊原の言葉が終わると、『生還者』はしばらくジッと黙っていたが、やがてゆっくりとこう言った。
「……それで?」
その言葉に、榊原は無表情に『生還者』の方を見るが、生還者は容赦なく言葉を続けた。
「それで、これがどうかしたんですか。確かに、今までのあなたの推理は驚くべき事ばかりです。時田琴音が『イキノコリ』だった事。時田琴音の遺体が本人ではなかった事。でも、何度も言っているように、だから何なんですか。結局時田琴音が死んでいるという事実は変わらない。さっきから言っているように、私が求めているのは犯人を示す決定的な証拠です。あなたは『イキノコリ』がそれを示すと言った。今ここで、それを示してくださいよ」
だが、榊原はそれを聞いて、なぜか静かに笑った。
「あなたこそわかっていますか。なぜ、私がこんな話をしたのかを」
「……どういうことですか?」
「あの遺体は時田琴音ではなかった。これが大きな前進である事をあなたは理解していますか。他でもない、今まで『死亡』が確実とされていた時田琴音の生死に、大きな揺らぎを生じさせる事実なんです。何しろ、肝心の本人の遺体は見つかっていないのですから」
「……いや、だってあなた、さっき犯人は時田琴音を殺したって言ったじゃないですか。だからこそ、あの偽造が行われたって」
「時田琴音の遺体の偽造は、犯人が時田琴音の殺害を実行した明白な根拠でしょう。いや、犯人が時田琴音を間違いなく殺害したと『信じていた』という根拠ですかね」
「……今、何と言いましたか。『信じていた』?」
その言葉の持つ意味に、『生還者』の表情が歪むのを榊原は見て取っていた。
「遺体の回収が不可能だった。これは言い換えれば、犯人は遺体の生死についてちゃんと確認できていない。あくまで犯人の主観で時田琴音が死亡したと判断してあの偽造工作を行った事を意味しています。つまりここに……」
と、そう言いながら、突然榊原はゆっくり立ち上がった。
「一つの希望が生じる事になる」
そして、榊原は決定打を『生還者』に叩きつける。
「……そろそろいいですよ。出てきてください」
突然、榊原は部屋全体に響くような声でそう告げた。自分に対してではない。では誰に。『生還者』の頭に嫌な予感が浮かび上がる。
その瞬間だった。隣の給湯室から急に一つの影がゆっくりと姿を見せた。そして、その陰の正体を見た瞬間、『生還者』は一気に顔を青ざめさせて思わずソファから立ち上がっていた。
「そ、そんな……そんな馬鹿な!」
狼狽する『生還者』に対し、榊原はひたすら冷静に、淡々と告げる。
「自己紹介は不要でしょうね。何しろ、あの村ですでに顔合わせをしているはずですから」
そして、そのまま影の正体を告げる。
「改めてご紹介しましょう。あの村の『イキノコリ』にして、犯人……いや、『あなた』を追い詰める決定的な切り札でもある最重要証人、牧原中学一年の時田琴音さんです」
その紹介に対し、影……時田琴音は、相変わらずの無表情のまま、ジッと目の前に居座る『生還者』……否、彼女の前では『土方邦正』を名乗っていた男を見据えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます