事件編第三章 猟奇殺人

 六月六日日曜日。矢守昭平は最悪な気分で目を覚ました。

「う……うん……」

 頭がガンガンと痛む。ちょうど二日酔いになったときのようだが、全身がだるく、視界もボーっとしてよく見えない。

 矢守は軋む体に鞭打って強引にその場で体を起こした。かなり薄暗くはあるが、周囲はすでに目視できるほどまで明るさが戻っている。朝のようだ。だが、外から聞こえてくる雨の音は相変わらずで、豪雨がまだやんでいない事を嫌でも思い知らせる。

 辺りを見渡すと、真っ先に柱に縛り付けられたままうつむいている須賀井の姿が眼に入った。寝るにはかなり無理のある姿勢だが、結局かなり疲労していたせいだろうか、泥のように眠っている。

 他のメンバーも寝ているようだが、全員頭から毛布をかぶっているため誰が誰なのかははっきりしない。ただ、毛布が一枚めくれており、すでに一人起きているようだという事はわかった。

 矢守は縁側に出た。相変わらずの大雨が村を濡らしている。時計がないため現在時刻は不明だが、とりあえず日中であるのはよくわかる。

「朝か……」

 と、背後で動く気配がし、藤沼が起き上がってきた。

「起こしてしまいましたか?」

「いや、普段から朝は早い。もっとも、さすがに今日は簡単に起きられなかったがな」

 と、女子部屋の障子が開いて、杏里と麻美が姿を見せた。

「おはよう」

「おはようございます」

 藤沼の挨拶に、杏里が眠そうに挨拶する。

「雨、やみませんね」

「こりゃ、災害級の大雨になるかも知れんな」

「つまり、市街地の対策が先行して、私たちの対策は後回しになる可能性が高い、と」

「……失踪して一日経っている。捜索自体は始まっていてもおかしくないが」

 藤沼が空を見ながらそう言う。

「雨宮さんは?」

「まだ寝ているみたいです」

 矢守の問いに杏里が答える。

「離れの二人はどうしたろう」

「いないということは、まだ起きていないのでは?」

 と、男部屋から呻くような声が聞こえ、やがて、のそりと気だるそうに小里が姿を見せた。

「おはようございます」

「おはよう……早いね」

 小里は欠伸しながら挨拶する。

「眠そうですね」

「夜型の低血圧でね。朝は弱くて……。それより、外はどうだ?」

 全員が首を振る。

「そうかい。ところで、土方さんの姿が見えないようだが……」

 小里が問う。他の男が全員いる以上、めくれた毛布の主は土方なのだろう。

「トイレじゃないですかね」

「トイレって……外にあったあれか?」

 この家のトイレはいったん外を出て裏手にある小さな小屋にあった。水洗式ではなく汲み取り式の古いタイプの「便所」と呼ぶのにふさわしい場所で、その分、臭いはあったが使えることは使える代物だった。その臭いも雨のせいで大分薄まっている様子である。ただ、この雨の中、一度は外に出なくてはならないという事にはなるが、距離はたいした事がないので我慢するしかなかった。

「そういえば、あれからトイレに行っている暇もなかったからな」

 藤沼が難しい表情で言う。

「こんな生活で、このままいつまで持つか……」

「まるで漂流ですね」

 そうこうしている間にも雨の勢いは増している。一度は鳴り止んだ雷らしき音も時々聞こえてくる。

「状況はむしろ悪化している」

 朝から重苦しい空気がその場を飲み込む。

「……あの、宮島さんたちの様子を見に行った方がいいと思うんですが」

 と、そんな空気に耐えられなくなったように、杏里が提案した。

「そうだな。あの子の様子も気になるし、できる限り全員でまとまって行動した方がいいかもしれない」

 藤沼がそれに賛同する。

「では、行きましょうか」

 矢守の言葉で、その場にいた五人は渡り廊下を伝って離れに向かう。離れの扉の前に立ち、藤沼が軽くノックする。

 だが、扉の向こうから返事はない。

「まだ寝ているのか?」

「でも、宮島さんはずっと起きているって言っていたはずだが」

 小里が首をかしげる。

「これだけ色々あったら寝てもおかしくないと思います」

 杏里が呟く。

「ねぇ杏里、もう部屋に帰ろうよぉ」

 気味が悪くなったのか麻美が情けない声を出す。が、藤沼はそのまま扉を開けようとした。

「ん?」

 が、扉が開かない。

「何だ? この扉、鍵がかかるのか?」

「つっかえ棒か何かじゃないですかね?」

 矢守が自分の推測を述べる。

「確かに、見ず知らずの人間と同じ屋根の下で寝るんだ。それくらいしてもおかしくはないが」

 小里はそう言ったが、どうも何かおかしいと心の中では思っている様子である。

「出入口はここだけか?」

「いえ、外に通じる勝手口があったはずです」

 矢守が答える。

「念のために、そっちも確認してみるか。中で倒れられていても困る」

 そう言うと、藤沼は踵を返して正面玄関に向かった。離れの勝手口にはいったん外に出て裏手にまわる必要がある。ちょうど、便所がある小さな小屋もその辺りにあったはずだ。

「ぜ、全員で行くの?」

 麻美が不安そうに尋ねる。

「いや、男三人で充分だろう。君たちは部屋に戻っていなさい」

 藤沼の言葉に、女子高生二人はホッとしたような表情をする。何だかんだ言って、この豪雨の中で外に出るのは嫌なのだろう。

 矢守たち三人は玄関から傘を差して外に出た。激しい雨が傘を打ちつける。

「そう言えば、土方さんの姿も相変わらず見えないな」

「やっぱりトイレじゃないですか? 他に行くところもないですし」

「一応、便所に声をかけておくか」

 そんな問答の末、三人は村上家の裏手に回った。右手に便所がある小さな小屋。左手に渡り廊下があって、正面に離れがある。その離れに小さな扉がついていて、それが勝手口だった。

「じゃ、とっとと済ませるか……」

 小里がそう言って前に進もうとする。矢守も特に何も考えることなく、そのまま一緒に続こうとした。

 その時だった。

「待て!」

 突然、藤沼が鋭く叫び、小里の肩をつかんだ。

「な、何だ?」

「この臭い……」

 藤沼が厳しい表情で言う。

「臭いって……」

 残り二人も臭いを嗅ごうとする。何しろこの豪雨で多少の臭いはすべてかき消されてしまっている。しかし、それでもかすかに漂ってくる独特の臭いが、二人の鼻を刺激した。その瞬間、残る二人の表情も変わる。

「こ、これは……」

 その臭いを、二人とも嗅いだ事があった。それもごく最近……具体的には昨日、この村に来たときにである。

 三人はそのまま互いに顔を見合わせ、臭いのする方向を見た。右手にある便所……その臭いは、かすかにではあるが間違いなくその中から漂っていた。扉はしっかりと閉じられている。

 判断は一瞬だった。藤沼は便所の方に歩み寄ると、一瞬ためらったような素振りを見せたが、次の瞬間には勢いよく扉を開けた。

 その直後、三人の顔色が変わった。

「う、うわぁぁぁぁぁぁぁ!」

 矢守は思わず絶叫し、傘を放り出してそのまま地面に尻餅をついた。たちまち全身がずぶ濡れになるが、そんなことを気にしている余裕は一切ない。残る二人は、逆にその場に硬直し、顔を真っ青にしながら中にあるものを見ていた。

「な……な……な……」

 壊れた人形のように「な」を連呼しながら、小里は震える手で中を指差す。藤沼は逆に声を出す事すらできないようで、その場に呆然と棒立ちになっている。

 便所の中にあったもの……それは見覚えのある制服できちんと身を包んでおり、汲み取り式便所のある小部屋の壁にもたれかかるように座っていた。その床は昨日見たそれとは違って真っ赤な血で染まっており、足の踏み場がない。間違いなく人間の死体であった。

 そして、それは明らかに自殺や事故死ではありえなかった。なぜなら、その死体は……

「く、首が……首がない……」

 小里が呻くように呟く。

 そう、その死体は首から上が一切なかったのだ。だが、その死体が着ている制服から考察すれば、それが誰なのかは一目瞭然であった。

「ひ、土方さん!」

 バスの運転手の制服を着て事切れていたその死体は、明らかに土方邦正運転手と見て取れるものであったのである。

「そ、そんな。どうして土方さんが……」

 そう矢守が言った瞬間、藤沼がハッとしたように離れを見た。

「い、いかん!」

 藤沼は離れの勝手口に駆け寄る。それを見て、矢守も最悪の状況に思い当たった。

 状況から見て、土方運転手は間違いなく他殺である。となれば、返事のなかった残り二人もどうなっているのかわかったものではない。矢守と小里も後を追った。

 藤沼が勝手口に手をかけると、勝手口は何の抵抗もなく開いた。中を覗こうとする。が、その瞬間、離れの中からムワッとあの金属臭……すなわち血の臭いが漂ってきた。

「宮島さん、大丈夫ですか!」

 小里が叫ぶが、返事はない。やがて、目が慣れて薄暗い部屋の様相が明らかになってきた。

「ぐ、ぐわっ!」

 その瞬間、小里はそう呻き、そのまま顔を引っ込めるとよろめくように壁にもたれかかり、その場で吐く素振りを見せた。が、何も食べていないため口からは何も出てこない。とにかく、それくらい室内は異常な状況を呈していた。

 部屋の中央にある小さな机。そこに何かがチョコンと乗っている。それが何か気づいた瞬間、矢守は一瞬気が遠くなりそうな気がした。

「宮島さん!」

 藤沼の叫びで気を失うことだけは回避する。そして、それをもう一度はっきりと見てしまった。

 机の上に乗っていたのは、恨めしそうな顔でこちらを見ている生首……昨日まであれだけ元気だったはずの、宮島真佐代の生首だったのである。まとめてあった髪はばらけ、乱れた長髪が汚らしく顔にへばりついている。それはあまりに異様過ぎる光景であった。

「そ、そんな馬鹿な!」

 あまりの異常事態に、藤沼は思わずそう叫んだ。そして、矢守はすばやく部屋の中を見渡す。彼女の胴体らしきものは存在しない。それに、あちこちが血で汚れているこの部屋であったが、ここにいるはずのもう一人の人間……時田琴音の姿が見えない。

「琴音ちゃんは?」

 その言葉で、藤沼も琴音がいないことに気がついたらしい。

「探すぞ!」

「で、でもどこを?」

 藤沼の言葉に、矢守は聞き返す。正直なところ、まったく当てがない。

 だが、この惨状である。残る琴音が無事であるとは誰も考えなかった。

「くそっ、何がどうなってやがる!」

 小里は中を見ないようにしながら吐き捨てる。

 そう叫びたいのは矢守も一緒だった。状況が状況であるから矢守もある程度のことは覚悟していた。とはいえ、その覚悟は助けが来なくてどんどん衰弱していくとか、そういった類の事に対する覚悟である。いくらここが以前大量殺人の起こった廃村だからといって、まさか目の前に本当に他殺死体が出現するなど想像すらしていなかった。しかも、十年前の惨劇と同等の非常に残虐な死体である。

 そして、その瞬間、矢守はさらに恐ろしいことに気がついた。他殺死体……ということは当然、こんな事をしでかした恐ろしい殺人鬼がどこかにいるはずなのである。そして、この村に自分たち以外に人がいるはずがない。ということは……。

 その場にいる全員がそのことに気がついたのだろうか。矢守、藤沼、小里の三名は互いの顔を恐る恐る見比べる。まるで、何かを恐れているかのように。

「……冗談じゃねぇぞ。こんなところでクローズドサークルなんかやっていられるか!」

 小里が叫んだ。

「クローズドサークル?」

 矢守が尋ねる。

「ミステリー用語だよ。簡単に言えば、絶海の孤島とかそういう類の閉ざされた空間内において発生する事件の事だ」

「くだらないな」

 藤沼が吐き捨てるが、小里は食い下がる。

「だが、この村にいるのは俺たち十人だけだ。とすれば、こんな事をやらかした犯人も……」

「馬鹿げている!」

 藤沼は小里の言葉をかき消すように叫んだ。小里は押し黙る。

「そもそも、我々は全員初対面のはずだ。どこに殺人が起こる要素があるんだ!」

「だけど、実際に起こっているんだ! 目を逸らすなよ!」

 あまりの事態に、両者とも気が立っている様子だ。

「……『イキノコリ』よ」

 と、突然背後から声がかけられ、三人は振り返った。そこには、傘を持って立つ憲子の姿があった。

「あなたは……」

「フフフ……やっぱり『イキノコリ』はいるのよ。『イキノコリ』が怒っているのよ」

「黙れ」

 藤沼が怒気を含んだ声で言う。が、憲子は乾いた笑い声を上げながら話をやめない。

「村に勝手に入ってきた私たちを『イキノコリ』は許さない。そうよ、これは『イキノコリ』の……」

「黙れと言っている!」

 藤沼が爆発した。一瞬、その場を沈黙が支配する。

「……とにかく、琴音ちゃんを探さないと」

 気まずい空気の中、小里が提案した。

「でも、どこを?」

「そう遠くには行けないと思う。とにかく、この辺りを手分けして探すんだ」

「ですが、バラバラになって殺人鬼に襲撃されたら……」

 矢守が発言する。

「じゃあ、彼女を見捨てるというのか!」

「何の考えもなしに動くのは危険すぎるといっているんです! とにかく、まずは行動の指針を決めないと!」

 矢守も苛立ったように言う。想定外の事態に、全員の気が立っていた。

「……いずれにせよ、他のメンバーにも知らせておかないとな。話はそれからだ」

 藤沼の言葉で、ひとまずの行動指針が決まった。重苦しい空気の中、雨は一向にやむ気配を見せなかった。

 十年の時を経て、惨劇の幕が再び開いたのである。

 

 それから数十分後、生き残った七人の人々は、前日集まって話をした部屋に集合していた。

 すでに、土方邦正、宮島真佐代両名が惨殺死体となって発見され、時田琴音が行方不明となっている事については全員に告げられていた。もっとも、実際に死体を見た矢守、藤沼、小里、憲子に対し、杏里、麻美、須賀井の三名は未だにその事実を実感できていないようだ。

「何で……何でよ……私たち、ここにいれば助かるんじゃなかったの……何で殺人鬼に襲われなきゃならないの……」

 麻美が頭を抱えながら呟く。その言葉に対し、誰も答えようとしなかった。

 誰もが同じ気持ちなのだろう。正直なところ、こんな状況でありながらも、雨がやめばいずれは助かるという希望めいたものを各々が抱いていたのは事実だ。だが、この殺人劇により状況は一変した。本格的に命の危機を感じる事になったのである。

「……嘆いている暇はない。状況を確認し、すぐに行動に移す必要がある。でないと、我々の命も危険だ」

 ただ一人、藤沼はあくまで冷静に告げた。もっとも、これも表面的に過ぎないのかもしれないが、それでもこの状況では充分頼りになる。

「前提として、村から脱出するという方法は取れないという事でいいんですよね」

 矢守が確認する。

「ああ。殺人鬼からは逃れられるかもしれんが、今度はこの雷雨でどうなるかわからない。助けが来るかわからない状況で、何の装備もなしに村から出るのは自殺行為だ」

「つまり、何人殺されようが逃げ出す事はできない。くそっ、本当にクローズドサークル以外の何物でもないな」

 小里が吐き捨てた。

「本当にあの二人は死んでいたんですか?」

 杏里が唇を噛み締めながら尋ねる。

「残念だがまず間違いない。土方運転手は首から上を切断されていたし、宮島さんは逆に生首だけしかなかった。あれで生きていられる方がどうかしている」

「土方運転手は首から上を切断されていたそうですが……間違いなく本人なのですか?」

 杏里が引き続いて質問する。

「服装は間違いなく土方さんが着ていたバスの運転手の制服だったし、あの死体は間違いなく男性だ。ここにいるのは十人だけで、そのうち消えた男が土方さん一人だけである以上、あれは土方さんと見て間違いないだろう。そうでなかったとすれば、我々以外の第三者がこの村に潜伏していた事になるが……」

 全員の頭に『イキノコリ』の噂が浮かぶが、その事はとりあえず脇において藤沼は話を続けた。

「状況を確認しておこう。二人の死は明らかに他殺だ。どう考えても首が切断されているあの状況で自然死とは考えにくい。つまり、少なくとも二人は誰かに殺害されたという事になる」

「誰かって……」

 その言葉に、全員が周りの人間を不安げに見渡す。

「考えられる可能性は二つだ。一つ目は我々以外の外部の人間が二人を殺害したというもの。しかし、この可能性はさっき小里さんが言ったように相当低いと言わざるを得ない。そして、もう一つの可能性は……」

「我々の中の誰かがあの二人を殺した……だな」

 小里が引き継いで言う。全員がその場にうつむいた。誰もが考えていた事とはいえ、直接口に出されて言われるとその重みはまったく違う。

「無駄だとは思うが聞いておく。この中にあの二人を殺したと自首するやつはいるか?」

 藤沼が問いかけるが、誰も手を揚げようとしない。

「……ま、予想通りだな」

 小里はそう言ってため息をつく。

「いるわけがないですよ。だって、私たちはこの事故で初めて出会ったんですよ。そもそも動機が出てくるわけがないじゃないですか」

 杏里が必死に反論する。

「そんな事はわかっている!」

 藤沼が苛立ったように言う。

「だが、実際に事件が起こっている以上、一刻も早く犯人を突き止めなければいけない」

「あなたは、私たちの中に犯人がいると思っているんですか」

 杏里が非難するように言う。

「言ったはずだ。あくまで可能性の一つだと。そして、可能性がある以上、我々はそれを検証しなくてはならない」

「でも……」

 杏里が何か言おうとしたとき、矢守がそれを止めた。

「感情論で話しても埒が明きません。ここは、冷静に客観的事実に基づいて検証すべきです。我々の中に犯人がいるのか。少なくとも、その可能性がないとわかれば、対応策も出てくるはずです」

「……そうだな」

 藤沼は矢守の意見に同意した。

「よし、では状況をまとめてみることにしようか」

 藤沼の言葉で推理が開始される。

「先程も言ったように、土方さんと宮島さんは殺害、時田琴音が失踪中だ。殺された二人は間違いなく他殺。土方さんが便所、宮島さんが離れで見つかっている。土方さんの首と宮島さんの胴体は行方不明だ」

「死因はわからないんですか?」

 矢守が尋ねる。

「両者とも残っている部位から死因らしきものは見つかっていない。死亡推定時刻もよくわからない。看護師の宮島さんならわかったかも知れんが、彼女自身が殺されてしまっているからな」

「いずれにせよ、犯行は我々が寝ている間に行われたと考えて間違いないな」

 小里が言う。

「問題は、誰がやったかだ」

 藤沼が告げる。

「『イキノコリ』よ。『イキノコリ』が私たちを……」

「あんたは黙っていろ!」

 藤沼が憲子を叱り飛ばす。

「……ねぇ、さっきからなんで黙ってるのよ」

 不意に麻美が暗い声で言った。

「どうせこいつしかいないじゃないの。何でみんな何も言わないのよ!」

 麻美はそう言いながら、須賀井を指差す。

「お、俺かよ」

「そうよ! 大体、あんたはそもそも刃物を持ってバスジャックを起こした男なのよ! 真っ先に疑われて当然じゃない!」

「冗談じゃねぇ!」

 須賀井は顔を青くして否定する。

「そうですよね。自分を拘束する客たちを殺して罪を逃れようという、わかりやすい動機もありますし」

 杏里も頷く。

「馬鹿言ってんじゃねぇ! この足でどうやって人殺しをやれってんだよ!」

 須賀井は自分の足を示す。

「そう、こいつは足を骨折している。人を殺してその首を切断する……かなりの力仕事だ。足を骨折している人間にできる犯行じゃない」

 藤沼が苦々しそうに言う。

「その骨折自体嘘かもしれないじゃない!」

 麻美がヒステリックに叫ぶ。

「治療をしたのは宮島さんだ。だとするなら彼女の治療も嘘という事になるが」

「それ以前に、怪我していなかったらとっとと逃げてるよ!」

 須賀井は必死に言い訳する。

「それに、我々もその辺りのことはちゃんと警戒していたつもりだった」

「は? どういう意味よ?」

 麻美が藤沼に噛み付く。

「この状況下で、バスジャック犯を野放しにするような事はしないということだ。私たちは、昨日の就寝前にこいつを柱に縛り付けている。もちろん、手の紐を解くような事はしていない。朝起きた時に見たが、こいつの拘束は一切解けていなかった」

「殺された土方さんが解いた可能性はないのですか?」

 杏里が尋ねる。

「解いたとして、どうやって縛り直す。一人じゃ無理だ。そもそも土方さんがそんな事をする理由もない」

 小里があっさり否定する。

「じゃ、じゃあ……このバスジャック犯にだけは犯行が不可能だったというわけですか?」

 杏里が戸惑ったように言う。

「そうでなければ、私がこの男をこの場で野放しにするわけがないだろう」

 藤沼が須賀井を睨みながら言った。須賀井はふてくされたようにうつむく。

「……蒸し返すようですけど、第三者の可能性はないのですか?」

 矢守がふと尋ねた。

「君まで『イキノコリ』の話を信じるのかね?」

 藤沼が胡散臭そうに尋ねる。

「いえ、そうじゃなくて、確か一人死んでいると判断された乗客がいたはずです。あの乗客が実は生きていたという可能性は?」

「ああ、後部座席で死んでいた男のことか。確か柴井とかいったか」

 藤沼は生前の宮島から受け取った手帳を取り出して言う。

「残念だが、それは無理だ。宮島さんがしっかり脈を見ているし、何より柴井は事故の衝撃で下半身を潰されていた。車体にしっかり挟まっていて死体を引きずり出すことさえできなかったんだ。あの状況で生きているとは思えん」

「となると、結局話は振り出しか」

 小里がため息をつく。

「状況的に、俺たち以外にこの村に人が侵入できる可能性は皆無だ。柴井という客ならその可能性もあったが、今の話でそれも否定された。となると、やはり犯人はこの村の中にいた十人のうちの誰かということになるが……」

 また重苦しい雰囲気がその場に漂う。

「一応聞くが、アリバイのあるやつは?」

「殺害時刻がわからないのに、アリバイも何もないだろう」

 小里の問いに、藤沼が告げる。

「では、逆にあの犯行が可能だった人はいるでしょうか?」

 唐突に杏里が発言した。

「どう言う事だ?」

「問題は、この母屋から離れに通じるドアがつっかえ棒で封鎖されていた事だと思います」

 あの後、現場を確認した結果、離れの母屋側のドアにはやはり内側からつっかえ棒がしてあった。

「あれをしたのは宮島さんという事でまず異論はないと思いますが」

 全員が頷く。それについては特に反対意見はなかった。

「だとするなら、犯人は勝手口側から侵入して犯行を行った事になります。つまり、犯人はどうしても外に出る必要がある。それ以前に、土方さんは外にある便所で殺害されているので、犯人が外に出たのは間違いないと思われます」

「そうか……この雨で外に出たとすれば、それなりの痕跡が残るはずだ」

 小里が納得したように言う。

「でも、この雨ではその痕跡も……」

「犯人の側にという事だ。あれだけ派手な事をやったのなら、犯人側にもそれなりの痕跡が残るはず」

「痕跡って何よ?」

 麻美が藤沼に尋ねる。

「殺害そのものは離れや便所などの室内で行えたとしても、切断した死体の一部が現場にない以上は外に持ち出したことになる。土方さんの頭部はともかく、宮島さんの胴体を運ぶには傘なんか差してやるわけにもいかない」

「そ、そうか。犯人は絶対に濡れてしまうんだ」

 小里がハッとしたように言う。

「つまり、犯人は濡れている?」

「現に、便所に行く途中に襲われたと思しき土方さんの遺体の制服はぐっしょり濡れていた」

「確認したの?」

 麻美が気味悪そうに聞く。

「やりたくはなかったがな」

「でも、だとすればこの中に該当者はいません。確かに少しぐらいは湿っていますけど、あの犯行をやったとなればそれこそ全身水浸しになっているはず。そこまで服が濡れている人間なんて……」

 矢守は周囲を見渡しながら確認する。全員前日着ていた服とまったく変化ない。当然と言えば当然である。

「と言うかよ、話は変わるけど、首を切るだの何だのやっていたら相当な返り血があるはずじゃねぇのか。この中にそれを防げるやつはいるのかよ」

 不意に須賀井が無愛想に尋ねた。その言葉に、全員が須賀井を振り返った。

「な、何だよ」

「そうだ、返り血の問題を忘れていた」

 藤沼が言う。

「現場の状況から考えても相当な出血があったのは間違いない。となると、どうやって返り血を防いだのかも問題だぞ」

 沈黙がその場を支配する。

「……この天気では濡れてしまうことくらい、犯人だってわかるはずだと思います。だったら、当然対策はしているはずじゃないんですか? ……仮にこの中に犯人がいればの話ですけど」

 杏里がおずおずと言う。

「対策というと?」

「服を着てやる必要はないわけですよね。だったら、犯行は全裸でやったとすればどうでしょうか?」

 全員がギョッとしたように杏里の方を見る。

「全裸の人間が三人を殺して遺体を切断か……想像したくない光景だな」

「でも、それなら服は濡れずにすみますし、返り血も帰りに雨に洗い流してもらえば残りません。帰ってから毛布で体を拭けば……」

「無理だ」

 小里が断言した。

「雨による体力の消耗をなめるな。今降っている雨は六月上旬の山間部の雨。通常の雨に比べて温度も低いし、この集中豪雨では体温低下もいっそう激しくなる。服を着ている状態でさえ俺たちは追い詰められていたんだぞ。まして返り血が完全に消えるまで雨に当たり続けるだと? すべてを成し遂げる前に寒さで倒れるのがオチだな」

「となると、少なくとも服を着ていたのは間違いないか」

 藤沼が考え込む。

「……だったら、この家にある服を使ったと言うのは?」

 と、矢守が何かを思いついたように言った。

「確か、この家にも服そのものはありましたよね。さすがに着る気にはなれませんでしたが」

「ああ、ここを調べたときに……そうか、あれを使えば」

「調べますか?」

「もちろんだ」

 服があったのは奥の寝室らしい部屋である。単独行動は危険なので全員で移動し、中を確認する。

「……ビンゴだな」

 調べていた小里が報告する。

「最初に調べたときにあったはずの服が一着なくなっている。念のため聞くが、この中でここの服に手をつけたやつはいるか?」

 手は挙がらない。

「となると、服を持ち出したのは犯人か」

「雨と返り血対策と見て間違いないと思います。犯行時はその服を着て、犯行後に戻って来たときに元々着ていた服に着替えた」

「つまり、濡れた形跡と返り血の痕跡から犯人を特定するのは無理と言うことですか」

 杏里が少し残念そうに言う。

「いや、少なくともこれで、犯人が雨や返り血の対策をしたことがわかった」

 元いた部屋に戻り、藤沼が告げる。

「どういうことですか?」

「つまり、犯人はそうせざるを得なかった人間。犯行後に自分の服が濡れていては困る人間だ。百歩譲って、もし雨宮さんが言うように万が一『イキノコリ』が犯人だとするなら、そんなことをする必要性はまったくない」

「つまり……」

「わざわざ犯行の痕跡を隠そうとする人間。そんな人間は、今この場にいる人間以外いないだろうな」

 藤沼は断言する。

「この中に犯人がいる可能性が高くなったという事だ」

 その事実に、全員の表情がまた暗くなった。

「……可能性はまだあると思う」

 憲子が不意に発言した。

「何だ? まだ『イキノコリ』が犯人だとでも言うつもりか?」

 藤沼が不機嫌そうに言う。が、憲子は不気味に笑いながら続ける。

「『イキノコリ』は別にして、あからさまに怪しい人間がいる」

「何だって?」

「たった一人、意味ありげに消えたあの子よ。時田琴音」

 思いの他まともな発言に、全員が押し黙った。

「殺人現場から一人消えた人間である以上、疑うのが普通だと思うわ」

「中学生の彼女がこんな犯行を起こしたと?」

「犯罪は低年齢化していると聞いているわ。西鉄バスジャック事件や神戸の事件、コンクリート詰めの殺人なんかがあったと思うけど」

 さすがにオカルト誌の編集者だけあって、その手の事件には詳しいようだ。

「ふん、どっかの犯罪学者によれば、統計的にはあまり変化していないらしいがな。あんたらみたいなマスコミが面白おかしく騒ぎ立てているせいだとよ」

「そんなことは今関係ない。とにかく、時田って子の行方がわからない以上、彼女が殺人をやっている可能性も捨てきれないと思う」

 小里の皮肉を軽く流して、憲子は自分の意見を述べる。

「だが、あの子の体調の悪さは本物だった。それは宮島さんが確認している」

「本人が死んでいる以上、確認しようがない」

 憲子がせせら笑いながら言う。

「私は『イキノコリ』の存在をあきらめたわけじゃない。けど、それでも警戒くらいはしておいた方がいいと思う。それに、この中に犯人がいるって考えるよりはずっとまし」

 あくまで憲子は楽しそうに言う。

「だが、消えた服についてはどう説明する?」

「いくらごまかす必要がなくても、来ている服が血まみれになるのは避けたいと思うのが人間だと思う」

 憲子はあっさり反論する。

「意外だな。くだらんオカルトめいた事ばかり言っているから、突飛な思考を持っているものと思っていたが」

「オカルトだからこそ論理的な思考は必要」

 藤沼と憲子は睨み合った。

「……とにかく、可能性は二つ。消えた時田琴音が犯人か、あるいはこの場にいる誰かが犯人か、だ。どちらを採用するかで今後の方針も変わるぞ」

 小里が厳しい表情で言う。

「この中に犯人がいるとは思いたくないですが……」

「だが、もし本当にいるとすれば、そう考えるのは犯人の思う壺だ」

 矢守の言葉を、藤沼は容赦なく切り捨てる。

「あの……憲子さんに賛同するわけじゃないんですけど、本当に『イキノコリ』の可能性を考えなくてもいいんでしょうか?」

 と、突然杏里がそんなことを言い始めた。

「噂話に振り回されるべきではないと思うけど」

 小里が不服そうに言う。

「でも、状況が状況ですから最悪の場合の事は考えておくべきじゃないでしょうか。それに、いくら調べたといっても、私たちでは限界があります」

「では、百歩譲って『イキノコリ』がいたとして、どうして我々を殺そうとするんだ?」

 藤沼がイライラした様子で尋ねる。

「理由なんかいらないわ。言ったでしょう。『イキノコリ』はこの村を荒らされる事を嫌う。闖入者の私たちを狙って当然」

「それはあくまで噂に過ぎない。誰かが本当に『イキノコリ』に出会って話を聴いたとでも言うのか?」

 憲子の問いに対し、藤沼が皮肉めいた口調で尋ねる。

「そもそも、この名簿から『イキノコリ』がいない事はすでに証明した。この話そのものが堂々巡りだ」

 小里が昨日見つけた名簿を出しながら言う。

「状況が変わっています。昨日は興味本位程度でしたが、今は命にかかわりかねないんです。真剣に検討すべきかと思いますが」

 杏里が提案する。

「これ以上疑心暗鬼になるような事を検討しても無意味だ!」

 藤沼がそう言ってはねつけようとした時だった。

 ドン、という音が突然頭上から鳴り響いた。

「え……」

 麻美が怯えた様子で頭上を見上げる。それに合わせるように、他の面々も天井を見上げた。

「今の音は……」

「二階だ」

 男性陣が顔を見合わせる。

「鼠の音……にしては大きすぎるな」

「誰かいるのか?」

「まさか。全員この場にいるんですよ」

 胸騒ぎが大きくなっていく。

「……おい、昨日二階は調べたか?」

「階段周辺の部屋を軽く見ただけですね。一階より雨漏りがひどくて、ところどころ廊下が腐ったり瓦礫でふさがっていたりしましたから、奥の方までは確認できていないはずです」

 矢守が緊張した表情で言う。

「……ということは、二階に誰か潜んでいる可能性もあるわけですよね?」

 杏里が小さな声で確認する。

「どうしますか?」

「確認するしかないだろう。放っておくわけにもいかないし、この状況ではすべての場所を確認すべきだ」

 小里の言葉に、誰も反対はしなかった。

「俺と矢守さんで行こう。藤沼さんは万が一のときのためにここに残ってもらうという事でどうだろう? できれば全員で行くのが望ましいが、そういうわけにもいかないだろうし」

「そうだな……」

 結果、傘で武装した矢守と小里が、懐中電灯を持って二階の様子を見てくることになった。

「階段は、渡り廊下のすぐ横だったな」

 離れへ続く渡り廊下のすぐ傍らに、二階へと続く階段がある。かなり急な角度で、なおかつただでさえ雨漏りがひどい。昼間だというのに窓がないためか薄暗く、懐中電灯の明かりさえ心細い。

「行くか」

「ええ」

 矢守と小里は互いに頷き合うと、ゆっくり階段を上っていった。一歩踏み出すごとにギシギシと嫌な音が鳴り響く。

 やがて階段の上に到着する。そこには何ともいえないよどんだ空間が広がっていた。左右にいくつか襖で閉ざされた部屋。廊下のあちこちが見るからに腐っており、さらに奥の方は瓦礫で進むことも難しそうだ。

「こんな状況だったので、手前のいくつかの部屋しか調べていません」

「とりあえず、その部屋を調べてみるか」

 二手に分かれて手前にあるいくつかの部屋を調べていくが、特に異常はない。

「異常なし。となると残るは……」

 階段の前で合流した二人は廊下の奥の方を見た。この先は誰も行った事のない領域である。

「足元、気をつけろ」

 そう言うと、小里が先陣を切る。矢守も唾を飲むと後に続いた。廊下の腐っている部分を避けながら、瓦礫のある場所までたどり着く。

「どうやら、無理をすれば通れない事もなさそうだな」

 瓦礫を確認しながら小里が言う。二人は瓦礫を乗り越えると、廊下の先に進んだ。そこにはいくつかの部屋がある。手前から調べていくが、特に変わった部屋はない。

「残るは……」

 そこは、廊下の突き当たりにある部屋だった。残るはこの部屋だけであるが、襖がまるで壁のように二人の前に立ちふさがっていた。

「確か、この部屋がさっきまでいた部屋のちょうど真上ですよね」

「ああ」

 そう言いながら、小里は襖の取っ手に手をかけようとする。が、その手が急に止まった。

「どうしました?」

「この臭い……」

 元から漂っている生臭い空気に紛れて気がつかなかったが、注意してみるとかすかにこの襖の向こうから明らかに異質な臭いが漂っているようである。そして、それは朝から嫌というほど嗅いできたあの不快な金属臭そっくりで……。

「覚悟を決めた方がよさそうだ。開けるぞ、いいか?」

 小里が確認する。矢守はしばらくためらっていたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。黙って頷いた。

 その瞬間、小里は襖を一気に開け、懐中電灯の光を室内に照らした。

「ぐっ!」

 その瞬間、小里は呻き声を上げ、矢守は小さく声を上げながら思わず口を両手でふさいだ。

「なんてこった……」

 小里が呻くように呟く。

 室内は惨劇の様相を呈していた。

 部屋は天井板が崩落し、その上には梁が張り巡らされた天井裏の様子がはっきり見えている。崩落した天井板があちこちに散乱し、まるで地震でもあったかのような惨状であった。

 しかしそれ以上に異様なものが懐中電灯の光の中に浮かび上がっていた。床に散乱する瓦礫の中央。そこに無造作に置かれた一つの物体。それは……

「どう見える……」

 苦しそうな表情で小里が尋ねた。矢守が答える。

「見たところ……胴体です……」

 それは、明らかに人の胴体と思しき物体だった。手足と首は切断され、胴体部分だけが無造作に置かれている。明らかに女性の胴体で、しかも着ている服はどう見ても中学生のセーラー服である。

「琴音ちゃん……か?」

「おそらくは」

 失踪していたと思われていた時田琴音。その遺体が、あろうことか二階から見つかったのである。

「と、とにかく皆に知らせないと」

 そう言って部屋から出ようとした矢守の足に、何かが当たった。

「え?」

 思わず目がその物体を追う。そして、それに気がついた小里がその物体を懐中電灯で照らした……いや、照らしてしまった。結果、矢守はそれをまともに見ることになってしまった。

「う、うわぁぁぁぁ!」

 矢守の絶叫がその場にほとばしる。小里も呆然とした表情でその物体を見ていた。

 ボールのように部屋の隅に転がっていた物体……それは、髪をショートカットにした女性の頭部だったのである。

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