事件編第一章 バスジャック

 二〇〇四年六月五日土曜日の朝。矢守昭平は東京八王子市郊外のマンションにある自室で目を覚ました。時刻は午前七時。携帯のアラーム音が単調に鳴り響く。

 矢守は頭をかくと、アラームを止めてベッドから起き上がった。カーテンを開けるとどんよりとした曇り空であり、お世辞にもさわやかな朝とは言い難い。もっとも、この東京でそんなものを望むというのもどうかと思ったりしているわけだが。

 机の上には昨日仕上げていた報告書が散乱しており、そこに先日行われた模擬試験の解説や答案などが紛れ込んでいる。受け持ちの生徒の成績はピンからキリまであるが、まぁ保護者との面談でそれほど苦労せずにすみそうだと言うのが矢守の感覚である。

 矢守昭平は都内にある学習塾の講師である。年齢は三十二歳。教科は数学を担当していて、塾生からはそれなりに評判がある。

 もっとも、最初から塾講師になろうと思ったわけでもなく、大学時代に個別授業のコーチとしてバイトしていた塾で何の因果か教壇に立つようになり、就職口が見つからなかったためそのまま塾に就職したという形になる。現在独身。彼女はいない。

 矢守は軽くあくびをするとキッチンで簡単な朝食を作った。トーストと目玉焼き。あまり豪華な朝食とはいえないが、食べないよりはましだろう。

 塾講師という職種上、彼の帰宅は基本的に毎晩遅い。塾は都心にあるので帰って来た時には日付が変わっていることなどざらだ。おまけに土曜日にも授業があるため、完全な週休二日制とは言いがたい。もっとも、その代わりに出勤するのは何もなければ昼頃でよく、土曜日がない代わりに一週間に一度、任意の曜日が完全休日となる。

 とは言え、模擬試験やあった直後や講習会期間中、受験直前などはそうそう昼出勤というわけにも行かない。本社での会議や研修のときも同様だ。この日も、土曜日ではあるが模擬試験直後の解説授業の準備が早朝からあるため、事実上の朝からの出勤という形になる。ただ、それでも一般的なサラリーマンに比べればずいぶんゆっくりとした出勤時間にはなるが。

 目玉焼きをトーストにはさんで食べ、その後スーツに着替えて身だしなみを整えると、もう一度机に散らばった模擬試験を眺めて指導すべきポイントをおさらいする。

 その後、その書類を手持ちのビジネス鞄に詰め込み、出勤までの時間をのんびりすごす。ここを八時に出れば、近くのバス停のバスには充分に間に合う。そこから八王子駅まで出て、都心に向かう。通勤時間はざっと一時間強。十時には塾に入れるはずだ。

 テレビのスイッチを入れるが、たいしたニュースはやっていない。もとより教育関連のニュース、特に学習塾関連のニュースなどあまり流れるものではない。今の世の中は学習塾も争いが激化していて、下手に小さな塾ではすぐにつぶれてしまう。矢守が勤務しているのはそれなりの大手校なので現状そんな心配はなかったが、地方から都心に進出してきた中小塾がいつの間にかなくなっているということなど日常茶飯事である。

 そもそも、学習塾講師というのも非常に不安定な職である。矢守は正社員で事務や保護者対応などの運営面での通常業務もこなしているが、授業だけ担当する非常勤講師が講師の大半である。彼らは契約社員で、いつ契約を切られてもおかしくない。

 そういう点で見れば自分は裕福なのかもしれないと、矢守はテレビを見ながらぼんやり考えていた。

 そうこうしているうちに、八時になる。矢守はノロノロと立ち上がると薄暗い部屋を出て鍵を閉めた。空は相変わらずどんよりしていて、今にも雨が降りそうである。天気予報では午後から豪雨になるかもしれないなどと言っていたので一応傘を持つ。

 マンションを出るまでは基本的に誰ともすれ違わない。出勤がワンテンポ遅い上に今日のように休日出勤ということもあるので、会う人間がいないのだ。ゆえに、基本的に近隣住民とは没交渉状態である。

 男やもめで結婚の兆しさえないので、田舎の実家からは結婚催促の電話がよくかかってくるが、最近では面倒になってそれらも全部無視している。何となく、このままの方がいいと判断してしまっているからだろうか。

 マンションを出てしばらく歩くとバス停に着く。平日のラッシュ時には混むのだろうが、今は矢守一人の姿しかない。

 バス停の前に立ちながら、矢守はぼんやりとしていた。このままの生活でいいのだろうかなどというありがちな考えが浮かばないわけでもないが、現状このままが一番いいのだろうという考えがすぐにそれを打ち消す。何か不満があるわけでもない。生徒にもそれなりに人気のある塾講師。仕事も順調で、どこに不満を抱える要素があるのだろうか。

 にもかかわらず、矢守は毎日を何かぼんやりとした不安を抱えて暮らしていた。まるで芥川龍之介だが、本当にそう言うしかない。どこか心が空虚なのである。

 このままこの東京という都市にうごめく一千何万人という人間の中で埋もれて終わってしまうのではないか。なるほど、そんなことを考えないこともないが、だからといってどうすることもできない。これが現実、これが社会だ。子供の頃には大人になれば何でもできるなどと考えたものだが、それが意味もない幻想であることは今では嫌というほど実感している。

 そんなことを考えているうちに、バスが来た。ドアが開き、矢守が乗り込む。若い運転手は一瞬矢守を見たが、すぐに前に視線を戻した。

 バスの中には十人前後の乗客が乗っていた。高校生や中学生らしき女学生の姿も見える。休日なのに乗っているということは部活か何かだろうか。そんなことを考えたりしたが、すぐに手近な席に座る。

 バスはすぐに発進した。矢守は鞄から書類を取り出してもう一度チェックする。八王子駅までは十五分前後。それでも、その間に見るものは見ておかなければならない。

 いつもと変わらぬ朝だった。そう、この時までは。


 異変が起こったのは、次のバス停での事だった。矢守が乗るバス停から八王子駅までは三つのバス停を通る。そのうちの一つ目で、一人の男が乗り込んできた。

 年齢は二十歳前後だろうか。パッと見た限りでは大学生という感じが強く、何が入っているのかリックサックを背負っている。だが、矢守が気になったのはその行動だった。

 なぜか妙にそわそわしており、バスに入るなりさかんに座席の方をキョロキョロ見渡している。顔色も悪く、どこか青白いというのが妥当だろうか。運転手も訝しげな表情をしたが、その若者はすぐに運転席に一番近い座席に腰を下ろした。

 バスのドアが閉まり、発車する。次のバス停までは五分もかからないだろう。八王子駅まで十分。この調子なら充分電車には間に合う。

 矢守はそう思って時計を確認した。

 その時だった。

「う、動くなぁ!」

 突然先程の若者が奇声を上げた。何事かと乗客たちの視線が若者に向く。が、次の瞬間、車内が凍りついた。

 若者は、リュックサックから刃渡り数十センチの刃物を取り出し、運転手の首に突きつけていたのである。

「おとなしくしろ! このまま黙って運転を続けるんだ!」

 突然の事態に、運転手は最初呆気に取られていたが、やがて事態が飲み込めたのか緊張した表情になる。

「き、君、いったい何を考えて……」

「黙れ!」

 若者の一喝に、運転手が小さな悲鳴を上げる。

「バス停には止まるな。八王子駅には行くな。とにかく、このままひたすら走り続けろ。バスを止めたら、その瞬間にお前を殺す」

 まったく躊躇ない発言だった。運転手が息を呑み、乗客たちは呆然とした様子でそれを眺めている。抵抗する余裕すらなかった。

 若者は乗客の方を振り返った。

「お前らも動くなよ! 逆らったら命はない!」

 そして宣言する。

「このバスを乗っ取る。付き合ってもらうぞ!」

 その言葉に、言葉をなくしていた女子高生たちが叫んだ。同時に、車内にいた男性たちが思わず腰を浮かしかける。

「声を上げるな!」

 若者……否、犯人の言葉に女子高生たちが口をつぐみ、男性たちの動きも止まった。

「抵抗するなよ。こっちは本気だ。このまま誰かを殺すことだってできるんだぞ」

 その言葉に、矢守をはじめとする男性客たちも抵抗を諦めざるを得なかった。向こうには凶器、こっちには何もない。ラッシュ時を外れているためか客そのものが少なく、男性客は矢守を合わせても四人しかいない。この人数では返り討ちになる可能性さえある。それに、何かの拍子に運転手や女性客が刺される可能性も捨てきれない。

「おい、ブラインドを下ろせ。早くしろ!」

 犯人の言葉に乗客たちは躊躇しながらも窓のブラインドを下ろす。黙って言うことを聞くしかない。

「抵抗さえしなければ俺は何もしない」

 犯人はそう言うと、運転手の喉元に刃物を突きつけた。

「このまま奥多摩方向へ向かって、そこから山梨県の県境へ走れ」

「ど、どこに行くつもりだ」

「教える義理はない。ただ、指示に従えばいいんだ」

「奥多摩方面の県境って……あの辺りは山の中だぞ!」

「お前に意見を言う資格はない。黙って運転しろ! それと、ガソリンがなくなったという言い訳は認めない。ガソリンがなくなった時点で、ここにいる全員が死ぬだけだ」

「そ、そんな馬鹿な」

「このバスのガソリンメーターが満杯なのは確認してある。変な考えを起こすなよ。もちろん、連絡するのもなしだ」

 犯人の言葉に、運転手はうなだれた。

「おい、この場にいる全員、携帯電話を出せ! 連絡されたら困るからな」

 そう言うと、犯人はリュックから袋を取り出した。逆らうことなどできない。矢守をはじめ、乗客たちはしぶしぶ携帯を取り出して袋に入れた。

「これで全部か? 残っていたら、その瞬間にそいつは死ぬことになるぞ」

 犯人はそう言って牽制する。誰も答えない。

 それを見届けると、犯人は袋を床に置き、思いっきり踏みつけた。グシャリという嫌な音がする。もうこれで携帯は使えない。

 矢守は緊張しながらも犯人の顔を見た。強がってはいるが明らかに緊張した表情である。とは言え、下手に刺激をしたらどうなるかわかったものではない。

 その上で、矢守は人質となった乗客たちを見た。自分を含めて男性四人と女性五人。女性のうち三人は制服を着た学生で、中高生に見える。三人のうち二人が同じ制服で、校章から見るとおそらくは都内にある有名私立高校の学生だろう。一人が黒い長髪の真面目そうな子で、もう一人はショートカットの茶髪のやや軽薄そうな子だった。残る一人は黒のショートカット……というよりもおかっぱの子で、他の二人に比べて若干幼く見える。たぶん中学生くらいだと矢守は推測したが、うつむいていて表情はよく見えない。

 女性のうち他の二人は成人だが、二人とも三十歳を超えているようには見えない。一人は黒縁の眼鏡をかけた陰気そうな女性で、暑くなり始めたこんな時期にもかかわらず長袖長ズボンという、見るからに暑そうな格好をしている。正直、こんな事態でもなければあまりお近づきになりたくないタイプだと矢守は思った。もう一人はそれとは正反対の活発そうな女性である。いわゆるキャリアウーマンというのが一番しっくり来る表現だろうか。上下をビシッとしたスーツで身を包み、長髪を後ろで束ねている。表情からはどこか勝気そうな雰囲気を覗かせているが、さすがにこの事態にはどうすることもできずに黙って犯人を睨んでいる。

 男性のうち、一人はゴルフバッグを抱えた中年の男。一人はスーツ姿に眼鏡のいかにも真面目そうな男で、もう一人は私服を着て髭を生やした男だ。ゴルフバッグの男はいかにもゴルフに出かけますと言わんばかりの格好をしており、白いキャップにサングラスをかけている。スーツの男は見るからにインテリめいた雰囲気をかもし出しており、同時にどことなく神経質そうな様子である。最後の髭面の男はどこかダンディな風貌を漂わせており、隣の席においてあるバッグからはカメラらしきものが見えている。ライターかカメラマンのような職業なのだろう。

 そこに若いバスの運転手と、バスジャックを起こした犯人。いずれにせよ、この十一人でバスと運命を共にするしかない。矢守は覚悟を決めた。

 そんな車内の様子が一切外に伝わることもなく、バスは走り続ける。本来停車するはずだった八王子駅の目の前を通り過ぎ、バスはそのまま街の外の方へ走り抜けていく。

「き、君! いったい何が目的なんだ!」

 運転しながら運転手が上ずった声で言う。

「黙って運転しろ」

「目的がわからないと対処しようがないじゃないか! せめて目的地を教えてくれ!」

 運転手は必死に言うが、犯人は取り合わない。

「言った通りにしろ。奥多摩にある山梨県との県境まで走れ。でないと……」

 そう言って運転手の首筋に刃物を突きつける。

「わ、私を殺したら誰がバスを運転するんだ」

「そんなこと知ったこっちゃない。そうなったら、このバスが事故って全員お陀仏になるだけだ」

「正気か」

「それ以上喋るな。本当に刺すぞ」

 刃物が運転手の首筋に強く当てられる。それ以上、運転手は何も言えなくなったようだ。

「車内無線は?」

 運転手は黙って顎で示す。犯人はそれを確認すると、コードを躊躇なく刃物で切断し、役に立たなくなった無線機を客席の床に放り投げた。

「お前」

 不意に犯人は三人いる少女のうち、中学生らしい少女を刃物で指名した。

「こっちに来い」

 少女はしばらく躊躇していたようだが、そのまま立ち上がって前に出た。そこで初めて表情が見えたが、恐怖のあまりか彼女には表情らしいものが一切浮かんでいない。矢守は何となくその表情に違和感を覚えたが、そうこうしているうちに犯人は彼女を一番前の席に座らせると、刃物を首筋に突きつけた。

「妙な真似をするとこいつの首が血まみれになる。変な事は考えない事だな」

 もはや、八方塞だった。


 事件発生から三十分が経過した。バスはすでに八王子市街を抜け、奥多摩のある北西に向かって走行している。だんだん街並みも八王子市街に比べて建物が減ってきており、車道を走る車も少なくなっているようだ。あと数十分もすれば、このまま東京西部の山地に突入することになるだろう。

 車内は重苦しい雰囲気に包まれたままだ。あれから一切変化はない。乗客たちはみな一様に押し黙り、一番前の席では犯人が中学生らしい少女を盾に客たちを牽制している。誰も知らないところで、事態は着々と進行していた。

 矢守は改めて乗客の様子を見回した。残された女子高生二人組は互いに肩を寄せ合って震えており、スーツを着た眼鏡の男は苛立ったように爪を噛みながら犯人を睨んでいる。ゴルフバッグの男は途方にくれた様子で運転席の方を眺めており、髭面の男は険しい表情のまま正面を見据えている。成人女性二人のうち、陰気そうな女性はうつむきながら何やらブツブツ呟いていており、もう一人は相変わらず敵意のこもった視線を犯人に向けていた。首に刃物を突きつけられた中学生の表情に変化はなく、相変わらずの無表情だ。それどころか声すら一切出さない。いきなり非日常に放り込まれて感覚が麻痺しているのか。

 バスは何事もないようにひた走る。とはいえ、このまま外にばれずにすむとは思えない。いずれこの乗客たちがそれぞれの出勤・通学場所に来ないのを関係者が不審に思うだろうし、バス会社も突如消えたバスのことを怪しむはずだ。だが、だからといってこのバスがどこを走っているのかなど、すぐにわかるわけがない。まして、自分たちが人質になっている事がわかるのはいつの話になる事か。

 そんな事を矢守は考えていたが、やがて正面の窓から見える景色が徐々に緑が多くなってきた。市街地を抜け、いよいよ東京と山梨県の県境、奥多摩の山林地帯に入るのだろう。ここまで来るとバスの周囲に他の車の姿も見えない。それどころか、どんよりと曇っていた空模様はいつしか本格的に暗くなり始めており、いつ雨が降り始めてもおかしくない状況だった。

 バスの中に会話はない。何か話した瞬間、犯人が逆上するのを皆恐れているのだ。犯人も一切話す様子がなく、バスジャック発生からかなり時間が経ったこの段階にいたっても、この犯人の目的がまったくわからない。それが矢守にとっては不気味だった。

 矢守は今一度犯人の様子を観察した。乗車してきたときも感じたとおり、年齢は二十歳を過ぎたばかりではないだろうか。近頃は犯罪の低年齢化が叫ばれているとどこかのメディアが言っていた記憶もあったが、それにしてもこんな若者がいったいどうしてバスジャックなどという事をやろうと考えたのか、矢守にはまったくわからなかった。

「……おい」

 と、不意に犯人が運転手に話しかけた。

「な、なんだ。君の言うように、山梨県との県境に向かっているぞ」

「山梨県の県境に着いたら、そのまま丹波山村を目指せ。嫌とは言わせない」

「丹波山村?」

 運転手は思わず聞き返した。

 矢守はしばし考える。確か、丹波山村は東京の奥珠と隣接する山梨県北部の村だったはずだ。とはいえ、取り立てて有名な村と言うわけでもない。どうしてこの犯人がそんな村を目指しているのかさっぱりわからない。

「どうして丹波山村に向かうんだ?」

 運転手が尋ね返す。が、犯人は目を細めると、

「質問は許さない。黙って言う事を聞いていればそれでいい」

 と言って、運転手を睨んだ。運転手もそれ以上聞けない様子で、再び運転に集中する。

 と、その時フロントガラスに水滴がついた。そして、それは次第に数を増していく。雨が降り始めたのだ。それも、かなりの土砂降りで、路面があっという間に濡れていく。視界も猛烈な大雨によってかなり悪くなってきていた。おまけに、時々ではあるが雷の音まで聞こえてくる。

「チッ」

 犯人が舌打つのが聞こえた。

 道はどんどん細くなり、舗装こそされてはいるが何度も曲がりくねり、うっそうとした森が広がっている。右手にはコンクリートで舗装された山肌が迫っており、左側のガードレールの向こうは切り立った崖になっていて、土砂降りと雷もあいまって必然的にバスの速度も遅くなってしまう。その景色は、もはや人がいるような景色ではない。完全に奥多摩の山間部に入ったようだ。

 午前中だというのに空を覆う黒雲の影響でまるで夕方のように暗い。バスもすでにヘッドライトを点けているようだ。いくらなんでも、少し尋常ではない雨足である。疾走するバスの中だというのに、雷鳴が車内にまで響き渡ってくる。視界もますます悪くなっており、ライトを点けているにもかかわらず豪雨で数メートル先がまったく見えないほどだ。曲がりくねった道だけに、一歩間違えれば即座に崖下に転落しかねない。それだけに、バスジャックの恐怖以前の問題として崖から転落すまいと運転手も真剣だ。

 だが、そうすると速度は見る見る落ちていく。

「何をやってるんだ! スピードを上げろ!」

「無茶言うな! バスごと転落してもいいのか!」

 苛立った犯人に対し、運転手は叫ぶように反論する。

「お前こそ、殺されたいのか!」

「ふざけるな! ここで私に何かしてみろ! ハンドル操作を一瞬でも誤ったら、私どころかここにいる全員が死んでもおかしくないんだぞ!」

 犯人も必死だが、運転手も必死である。

「てめぇ……」

「頼むから話しかけないでくれ! 無事に丹波山村に着きたいんだったらな! どうしてもスピードを出すというなら、ここで他の乗客を全員下ろしてから勝手にやってくれ!」

 運転手はもはや人質がいる事など忘れている様子だった。運転手の剣幕に、さすがの犯人も口を閉ざす。目の前のフロントガラスの前に広がる光景に、犯人も息を呑んでいた。確かに、この天気は普通ではない。集中豪雨か何かとしか思えないのだ。

 いつの間にか、このバスの命運は犯人ではなく運転手が握る格好になっている。だが、犯人はそれが気に入らないらしくわめきたてた。

「知ったこっちゃねぇ! おい、こいつの命がどうなってもいいってのか!」

 そう言いながら、少女の喉元に刃物を突きつける。が、バスの運命を握っている運転手も必死だ。

「そんな事は問題じゃないだろう! スピードを出したら間違いなく事故を起こして、君も含めた全員が死ぬ。わからないのか!」

 運転手と犯人の口論に、矢守は危うさを感じていた。運転手の言っている事は正論だ。だが、これ以上犯人を刺激したらどうなるかわかったものではない。とはいえ、犯人の要求に従えば事故を起こすのは確実である。なんともいえないジレンマがバスの車内を満たしていた。他の人質たちも固唾を呑んでこの口論の行く末を見守っている。

 そんな中、引くに引けなくなった犯人が激昂した。

「そうかよ! じゃあ、こいつの命はどうでもいいってことだな!」

 そう言うや否や、犯人は少女を押し倒すと、刃物を振り上げた。

「よ、よせ!」

 ミラーを見ながら運転手が叫ぶ。

「じゃあ、さっさとスピードを上げろ!」

 運転手が苦渋の表情を浮かべるのを、矢守はミラー越しに見た。

「……どうなっても知らないぞ!」

 運転手はそうほとんどやけに近い声を上げると、アクセルを踏んだ。直後、エンジンが唸る音がし、バスの速度が上がる。豪雨で視界がほとんどない中、運転手は必死のハンドル操作で連続カーブが続く山道を走り抜けていく。もはやそれは普通の運転ではなく、カーブ地点ではほとんどドリフトターンのような形になっている。タイヤの甲高い音が雷鳴に混ざり、必然的に、バスの内部は大きく揺さぶられ、乗客たちが声を上げる。

「動くな! 静かにしろ!」

 犯人が叫ぶが、その犯人自身立っていられない状況だ。それでも、バスの速度は時速六十キロまでくらいしか上がっていない。何としても崖に落ちないために必然的に右手の山肌側による形の運転になっているため、近寄りすぎてバスの側面が山肌にこすれる場面が何度もあった。また、突き破りこそしなかったものの、左手のガードレールにも何度か接触する。内部からはわからないが、外から見ればこのバスの側面はボロボロになっているのではないかという事が容易に想像できた。

「う……う……」

 と、呻き声が車内に響き渡った。見ると、女子高生二人組みのうち真面目そうな方が気持ち悪そうな表情で口を押さえている。無理もないといえば無理もない話で、これだけ揺さぶられている状況で車酔いをしたのだろう。

「い、いい加減にしてくれ!」

 と、不意に意を決したかのような大声が上がった。見ると、スーツを着た眼鏡の男性が鋭い視線を犯人にぶつけている。

「こんな無謀な運転がいつまでも持つか! バスの速度を抑えろ!」

「死にたいのか!」

 犯人は男の方を見るや、刃物を持って近づこうとする。が、揺さぶられる車内では満足に歩く事すらできない。それを見て、スーツの男は続けた。

「あんた、こんな事して何が目的だ!」

「人質の立場を忘れてるんじゃねぇよ!」

 犯人が激昂し、人質の少女を引きずって男の元へ向かおうとした。

 まさにその瞬間だった。

「くそっ、しまった!」

 運転手が絶叫した。その瞬間、矢守はフロントガラスの向こうにガードレールが迫っているのを見えた。右への急カーブで、ついに運転手がハンドルを切りそこなったのだ。それでも運転手は慌ててハンドルを大きく右に切るが、その瞬間、バスは濡れた路面で横滑りをはじめ、猛スピードで左側面からガードレールに突っ込んでいく。

「だ、駄目だぁ!」

 運転手の絶叫で、車内がパニックになる。が、それも一瞬の間だった。

 次の瞬間、バスは横滑りしながら左後方からガードレールを突き破り、そのまま宙に飛び出した。

 一瞬、無重力のような感覚がバスの中を襲う。が、直後、バスはそのまま崖下へと転落していき、強烈な衝撃が車内を襲った。ガラスが割れ、バスを構成する金属がグチャグチャになっていく。

「ぐぁ!」

 矢守は思わず悲鳴を上げたが、すぐに激しい衝撃が体中を襲い、そのまま何がなんだかわからなくなってしまった。

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