プロローグ 大量殺人の村

 一九九四年五月三日の憲法記念日。東京都の西方、山梨県との県境付近にある小さな山村で、後に「平成の八墓村」と称される前代未聞の大事件が発生した。

 白神村。それがその村の名前である。と言っても、今のその村の名前を検索したところでこの事件の名前以外には引っかからないだろうし、いくら目を凝らして地図帳を見たところで絶対にこの村の名前は発見できまい。理由は簡単である。すでにこの村は、この世に存在しないからだ。

 その通報が管轄する奥多摩署に入ったのは、事件当夜の午前二時過ぎの事であった。それも一一〇番通報ではなく、直接奥多摩署の刑事課にかかってきた通報である。

『助けてくれ! 皆殺しにされる!』

 通報はいきなりの絶叫から始まった。

「どうしましたか?」

『お、鬼が! く、来るな! やめてくれ! 助けてくれぇ!』

 その次の瞬間だった。

『グギャァァァァァァァァァァァァッ!』

 ものすごい悲鳴が電話越しに署内に響き渡った。その悲鳴に、署内に残っていた刑事たちが電話に対応した刑事の方を見る。

「もしもし、どうしました! 何が起こったんですか!」

 刑事が緊迫した様子で尋ね返すが、電話の向こうは一転して不気味な静けさに包まれている。つながってはいるのだが、まったく音が聞こえない。明らかに、尋常ではない何かが起こっていた。

「おい、どこからの通報だ?」

 刑事課長が尋ねるが、通報相手は一切名乗っていない。すぐに誘拐事件用の逆探知機が用意され、探知してみた結果、その電話が白神村の公民館からかけられていた事がわかった。恐ろしい事に、探知に五分以上かかったにもかかわらず、電話は切られないまま静寂を保っている。

「白神村だと?」

 刑事たちは地図を出して確認する。それは、割合山に囲まれている奥多摩署からでも車で三十分はかかる場所にある、人口はわずかに二十人前後という非常に小さな村である。そんな場所なので非常の時のために一応交番もあるはずだが、この通報者はこの警察署に直接通報してきていた。もはや交番が機能していない……そんな状況になっていると考えられた。

 すぐさま奥多摩署から数台のパトカーが現地に向かった。が、村までは山道が続き、なおかつ明かりのない深夜である。道路は舗装されていない部分さえあり。刑事たちが村に着いたのは通報から一時間以上経った頃だった。

 白神村は山に囲まれたくぼ地に申し訳程度に家が建っているような場所である。山の南方に大きな川が流れていて、そこに添うような形で数件の家が建っている。ただし、村の入り口にいる刑事たちからは暗くて村の様子はまったく見えず、この村で何が起こっているのか判断しようがなかった。

 村に近づいていくと、消えかけの街灯が点滅して不気味な光景を照らし出している。この村で車の通れる道は川と人家の間を貫く道一本だけだ。そして、村の入り口には交番があるはずである。

 刑事たちは、村の入り口にパトカーを停め、拳銃や警棒で武装しながら村に入り、まずは交番を覗いた。さすがにこの交番には明かりがしっかり点いている。

 だが、その中では惨劇が広がっていた。

「ぐわっ」

 先頭にいた刑事が思わず吐き気を訴える。

 交番の中には、頭を何かでかち割られて血を室内一面に撒き散らした制服警官の惨殺死体が転がっていたのである。

「警官が殺されてやがる……」

 百戦錬磨の刑事たちにとっても、この現場はあまりにも異常だった。しかも、これだけの事がありながらこの村は不気味に静まり返っている。

 刑事たちは、思わず暗闇に包まれた村の方を見た。いくつか人家の明かりは見えるが、人気がまったくない。これだけのパトカーがサイレンを鳴らして駆けつけたと言うのに、一切のアクションがないのである。

「おい、油断するな!」

 刑事の一人が言い、全員に緊張が走る。とにかく、村の捜索が先だ。全員が足を踏み出す。

 だが、五十メートルも歩かないうちに、刑事たちはさらなる悪夢を見ることになる。

「こ、これは……」

 道路の真ん中、点滅する街灯の下に血まみれの人間が倒れている。それも一人ではない。見たところ、母親と思しき女性と小学生程度の男の子である。両者ともすでに死んでいるのは明らかだった。

 そして、その二人の死体の前にある家の玄関には、門にもたれかかる形で男が血まみれになっていた。しかも、その男は首から上がなく、その首は門と玄関の中間辺りの地点に無造作に転がっていたのである。

「何だ、これは……」

 刑事たちも唖然とするしかない。見ると、その家の玄関は開きっぱなしになっていて、中から光が漏れている。何人かの刑事が意を決して踏み込む。

 中はさらにひどい惨状だった。畳が敷かれた日本家屋の仏壇間に、頭を割られて血をまき散らかした老人の遺体が見つかり、さらに隣の部屋のコタツの近くには全身を切り刻まれた老婦人と思しき遺体が転がっていた。

「くそっ! 生き残っている人間を探せ!」

 刑事たちは慎重にしながらも暗闇に包まれた村の捜索を続ける。だが、見つかるのはどれも無残に殺された村民の遺体ばかり。その数は十体どころではない。村人全員が殺されていたとしてもまったくおかしくない数だった。

「冗談じゃないぞ!」

 もはや、残る捜索先は村の中心にある公民館だけだ。通報もここからだったようだが、今この公民館からは明かりが点いているにもかかわらずまったく音がしない。刑事たちは、拳銃を確認すると公民館に突入した。

 公民館は二階建てで、一階のロビーと思しき場所には三人程の惨殺死体が無造作に転がっている。そのうちの一人は受付近くの黒電話の近くに倒れており、受話器を握り締めたまま全身を切り刻まれて事切れていた。電話は今も通じている。おそらく、この向こうで奥多摩署に残った刑事たちが固唾を飲んでここにいる刑事たちからの報告を待っているはずだ。

「残すは一ヶ所……」

 刑事たちは二階を見上げた。ロビー横の見取り図を見ると、二階はこの公民館のメインとなる大部屋らしい。刑事たちは階段を上がり、拳銃を構えながら大部屋に入った。

「ウッ!」

 その瞬間、刑事たちに緊張が走った。

 部屋にはさらに数体の惨殺死体が転がっている。そして、その遺体の傍、すなわち部屋の中心に、蛍光灯を見上げるような姿勢で血まみれの斧を持ち、全身に返り血を浴びた三十歳くらいの男が放心したように立っていたのだった。

「動くなっ!」

 刑事たちが叫び、その銃口をいっせいにこの男に向ける。男は緩慢な動作で刑事たちを見やった。

「警察だ。これは、お前がやったのか?」

 先頭の刑事が尋ねる。これに対し、男はしばらく無表情のまま刑事を見ていたが、やがて小さく頷いた。

「それを捨てろ!」

 別の刑事が叫ぶ。男は、緩慢に手を上げて持っている斧をジッと見ていたが、しばらくすると面倒くさそうにその斧を血まみれの畳に放り投げた。斧はサクッと音を立てて畳に突き刺さる。

「確保!」

 その瞬間、刑事たちが男に殺到した。


 ……死者二十三名。村民の大半が皆殺しにされたこの事件により、白神村は地図上からその姿を消した。後に「白神事件」と呼ばれるようになったこの事件は、あまりの残虐さから「平成の八墓村」という悪名を授かる事になる。

 現場で刑事たちに逮捕された男……すなわちこの大量殺戮を行った犯人は自分の罪をほぼ全面的に認め、裁判の末に死刑判決が下されることとなった。男は今でも東京拘置所の死刑囚独房に収監されており、法務大臣による死刑執行へのサインを待っているという。


 ……だが、この事件は村民皆殺しという犯罪史上類を見ない結末と、人がほとんど立ち入らない山間部の村で起きたという特異性ゆえに、いつしかよからぬ噂話が人々の間で語り継がれるようになっていく。それは一つの都市伝説として、様々な形に姿を変えながら伝播していき、やがて一つの噂が流れる事となった。

 いわく、村民が全滅したとされる白神村には、自分が死んだ事すらわかっていない『イキノコリ』の人間がいて、今でも白神村に出没している、と。


 事件後、白神村は廃村となり、誰もいなくなったこの村は、村に通じる道が柵によって完全封鎖された。だが、オカルトマニアたちにとってここは絶好の心霊スポットであり、『イキノコリ』の噂もあって無許可でこの村に入る人間が後を絶たなかった。

 しかし、事件から数年後に起きたある一件で状況が一変する。あるオカルトサークルに所属する大学生四人組が、この村に向かったまま行方不明になってしまったのだ。後に、村に隣接していた川の下流域で四人の乗っていたライトバンが発見されて中から彼らの溺死体が見つかり、この事件は単純に運転ミスで車ごと川に転落したものと結論付けられるのだが、この一件はオカルトマニアたちを震え上がらせるのに充分過ぎるほどの効果を持っていた。そして、やがて『イキノコリ』の噂は少し形を変えて語られるようになっていった。

 すなわち、全滅したとされている白神村には殺人鬼から逃れた『イキノコリ』が今も住んでおり、事件によって精神崩壊したその『イキノコリ』は誰もいない村を守るために、村に近づく人間を殺しているのだ、と。

 後に、この村に続く唯一の経路である封鎖された道も大規模な土砂崩れで完全崩壊を喫し、それ以降、この村は真の意味で外界から隔絶される事となる。だが、それがこの村の恐怖性を高める結果となり、今や誰も行く事ができなくなったこの村の噂だけが一人歩きするようになっていった。


 そんな中、皆殺し事件からちょうど十年経った二〇〇四年、この白神村の恐怖を改めて世に知らしめる事件が発生する。

 後に『イキノコリ事件』と呼ばれる事になる事件である。

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