青色のチョーク、残り一センチ

春川

第1話

 理科室は、放課後になるといつも人がいない。


 だから静かに本を読める場所を探していた私に、先生が取引を持ち掛けた。いやまあ別に、取引と言ってもそんなに怪しいものじゃない。ただ、時間に追われて普段手の回っていない場所の掃除をしておいてくれと、それだけなんだけれど。


 六限が終わって、理科室の鍵を職員室へと借りに行く。そこで、明日使うから黒板を綺麗にしておいてくれと頼まれた。頼まれたまでは別に良い。理科室の掃除をするという条件のもと、私は教室を借りることになったのだ。


 がしかし既に荒れ果てたこの教室の黒板には、黒板消しが置かれていなかった。


 教室を借りた当初、先生は私に「手の回っていない場所の掃除を」と頼んだ。だからてっきり、教室はある程度片付いていて、多少ごちゃついている箇所を整理でもすれば良いのだと思っていたのだけど、思いのほか、というより騙されたと言っても過言ではないくらい、この教室は荒れ切っていた。


 もとより文系、しかも私立への進学希望者が多いこの学校の事である。理系科目を履修していても普段は座学ばかりで、理科室とはまさに名ばかり、先生に都合の良い書斎と化していたのだ。


 黒板消しを探して、教室の中をもう随分さまよっている。いくら汚いって言ったって、せめて黒板消しくらいは置いてあるだろう普通。掃除するための道具すら見当たらないなんて、一体今までどんな使い方をしてきたんだか。


 教室内をあらかた探し終わって、そこでようやく、この理科室の隣に準備室があったことを思い出した。というのも、準備室に繋がる扉の前にプリント類の入った段ボールが縦積みされているので、普段はわざわざ入る機会もなかったのだ。


 探し求めた黒板消しがあるかも知れない。段ボールをなんとか避けてドアを開けると、鍵はかかっておらずいとも簡単に中へ入ることが出来た。


 扉のすぐ横には棚が置かれていて、こげ茶の瓶が所狭しと並んでいる。瓶にはラベルが張られていたけれど、どれも薄汚れてよく読めない。恐らくここは薬品棚なんだろう。


 しかしそれよりも目についたのが、準備室の奥の壁にある小さな黒板だった。


 よく教室の後ろ側に小さめの黒板があるのは見かけるけれど、まるでそんな感じの小さな黒板が、ひっそりと佇んでいる。


 どうしてこんな所に黒板があるのか分からないが、黒板消しと青色のチョークが一本、その傍に置かれていた。他には何もない。ただ小さな黒板と、黒板消しと、新品のチョークが一本。それだけ。


 そうなると、ようやく黒板消しを発見して嬉しい気持ちと、もう一つ別の好奇心が沸いて出た。


 普段おとなしいとは言え、私も学生だ。そこに綺麗な黒板とチョークがあれば、何か書きたくなってしまうものである。こんな所に置かれた黒板、私以外に見ないだろうし。


 思い立っては我慢できず、チョークを手に取った。何を書こうか迷って一言だけ、元気ですか、と残す。


 誰に聞くでもない、ただその時頭に浮かんだだけのフレーズだ。黒板消しだけ持って準備室を出る。掃除をしながら、なんだかこんな子供じみた遊びを隠れてしていることが急に恥ずかしくなってしまって、その日は黒板だけ綺麗にして家に帰った。




 翌日、放課後。


 理科室に行くと、昨日扉の横に寄せていたはずの段ボールが崩れ落ちていた。中のプリントが散乱して大惨事である。はて、昨日準備室を出たときにでも倒したかしら。でも、こんな派手に崩れていたら気づきそうなものだけど。ひとまずこれらを片付けなければと散らばったプリントを手に取り、そこでもしかして、と思い至る。


 私以外の誰かがここに、出入りしたのではないか。だって、自分で倒したのならやっぱり分かるだろうし。段ボールがすっかり端に寄せられていたものだから、扉を開いたときに気付かなかったんじゃないか。それでうっかり倒してしまって、そのまま理科室を出たんじゃないだろうか。


 そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。準備室の扉を開くと、そこにはやはり昨日と変わらない準備室があって、しかしあの小さな黒板だけが昨日と違っている。


 恥ずかしそうに書かれた元気ですか、という文字の横。すぐ近くに、今度はがさつそうな字で、元気です、と返事が添えられていた。


 まさか、と思った。しかし現実だ。誰も見ないと思って残したメッセージに、返事が来た。


 興奮冷めやらぬまま、今度は昨日よりももう少し読みやすい字で、こう続ける。


「お返事ありがとう、よければここで、私と文通してくれますか。……いや、急に馴れ馴れしいかな。」


 迷って、けれどそのまま残すことにした。

 まさかこんな所には私以外来ないと思っていたのに、返事が来たのだ。きっと相手が私だとは分からないだろうし、わざわざメッセージに返事を残すくらいだ。もしかしたら、こんな変な文通にも付き合ってくれるかも知れない。本来の目的であった読書をすることも、もうすっかり忘れて帰宅した。


 来る翌日やはり返事は来ていて、今度はもちろんです、とだけ残されていた。相変わらず返事は短いようで、しかしこうしてやり取りするのが楽しくて仕方が無い。


 本を読むために借りていた教室が、その日からこの、秘密のやり取りのための場所に変わった。


 まるで、逢瀬でも交わしているような気持ちであった。



『いま何歳ですか?』

『十六歳です』

『じゃあ私と同い年だ!二年生?』

『うん、二年。』

『それじゃあ、敬語いらないね。』

『そうだね』

『理系と文系どっち?』

『理系』

『じゃあ、授業の時にこの黒板をみつけたの?』

『どうだろうね』

『どうだろうって?』

『秘密ってこと』

『私はここで読書してる時にたまたま見つけたんだ』

『読書が好きなの?』

『うん、好き。あなたは?本は読む?』

『あんまり。文字読むの苦手なんだ』

『なんか、そんな感じする』

『馬鹿っぽい?』

『ううん、なんていうか、あんまり繊細なことは好まなそう』

『酷いや』


 放課後になると真っ先に理科室へ向かって、メッセージを書き残しては帰宅する。


 初日に返事が来たときはいつもよりかなり早く帰宅していたし、きっとこの返事の差出人は私が帰ってから学校が閉まるまでの間にここへ来ているのだろうと思って、なるべく早めに理科室を出るようにしているのだ。


 私が読書をするために理科室を借りていると思っている先生は、私が鍵を借りた三十分後くらいにはもう鍵を返しに来るので毎度不思議そうに首を傾げたが、きちんと理科室の掃除がされているので特に何を聞いてくることも無かった。


『ごめんって(笑)でも、優しいんだろうなって思ってるよ』

『どうして?』

『こんなやり取りに付き合ってくれてるから』

『ぼくもこのやり取りは楽しいよ』

『そう?それならよかった!私もたのしい。なんか秘密が増えたみたい』

『秘密は好き?』

『うん、ワクワクする。でも、あなたがどうやってこの黒板をみつけたかは気になるよ』

『それは秘密』

『も~!全然教えてくれないんだから』

『でも、秘密、好きなんでしょ』

『そうだけどさあ!』


 誰かも分からない返事の差出人は、律義に毎日、短い返事を残してくれている。


 好きな食べ物の話とか趣味の話だとか、お互いの存在については曖昧なやり取りである。もちろん相手の事を知りたくない訳じゃないんだけれど、知ってしまったら最後、恥ずかしくてこんな文通続かなくなってしまうんじゃないかと思うのだ。

 少なくとも私はそう。何となく、残された返事から相手は男子で、ちょっとがさつな性格で、でも優しいんだろうなと思ってはいるが、当たり障りのない会話がこうして普通とは形を変えるだけでこんなにも楽しくて、それがそんな理由で失われてしまうのは惜しかった。


 そんな訳で、いつもは誰かと鉢合わせる前に家に帰ってしまうのだが。



 文通に使われている青色のチョークが、すっかり半分ほどの長さになった頃、いつもは誰もいない理科室に来客があった。


 来客というか、私が理科室の扉を開いたら、そこに居た。


 そいつは私の隣のクラスに通う野球部の男子で、それでいて私の幼馴染である。もともと学校で話すことはそう無かったけど、最近しょうもないことで喧嘩して以来余計に口を聞くことがなくなっていたのだが、それがどうしてこんなところに居る。


「……お前、なんでこんなとこいんのよ。」

「――ウワッ!居るなら声かけろよ、びっくりした」

「今声かけたでしょ」

「いや違うって、え?忘れ物取りに来たんだって」

「はあ?何狼狽えてんのか知らないけど早く出てってよ」

「……はあ~?何でお前にそんなこと言われないといけないんだよ。」

「ここいつも私が借りてんの、読書するために。いいから用が済んだなら帰ってよ。」


 職員室に行っても鍵が無いと思ったらこれだ。

 てっきり先生がまた鍵を開けっ放しにしたままどっか行ったんだろうと思っていたのに。なんでこいつが居るんだ。鍵誰かに貸してるなら先に言ってくれよ、なんてそんな事できっこないのに、心の中で文句をぶつける。


「……ふ~ん、読書のためね……。」

「……。何が言いたいわけ?」

「いいやぁ?フッ、読書なら図書館ですればいいのに。お前ホント人がいるとこ嫌いなんだな。」


 ああそうだ、思い出した。

 先日の喧嘩も、こいつのくだらない挑発のせいで勃発したんだったか。まったく、何処までも私をイラつかせるのが上手い奴だな。


 薄ら笑いを浮かべて、まるで小馬鹿にするような態度で私を見下ろしている。随分楽しそうにいじってくれちゃってまあ、こっちは本気でアンタに知られたくない秘密があるって言うのに。


「あ~もう分かった、何でもいいからとっとと行って!」

「へ~へ~分かりましたよぅ。んじゃ、お邪魔しました」


 ようやく理科室を後にしたそいつは、今度こそこちらを振り返ることなくどこかへ消えていく。野球部のジャージを着ていたから、恐らく部活に行くのだろう。二度と戻ってくるなと念じながら扉を閉めた。



 準備室の扉の前に置かれていた段ボールを皮切りに、理科室内の掃除は少しずつだが確実に進んでいた。


 昨日の続きを片付けて、黒板のもとへ急ぐ。準備室の扉は、あの頃よりも簡単に開けられるようになっていた。


 いつものように、黒板の上には返事が残されていた。しかしその文章はどう考えてもまだ書き途中であるのに、続きの文字が見当たらない。どうやら差出人は、返事の途中で書くのを切り上げてしまったらしい。


 どうしたんだろう、いつもはそんな事無いのに。というかいつもは、切り上げようのないくらい短い返事なんだけど、なにか書くときに迷うことがあったんだろうか。


 黒板には、返事と思われる言葉が、おれは、と残されている。


 おれは、って何だろう。おれは。その続きは、なんて書こうとしたんだろうか。いつもみたいに一言だけ返事が来ると思っていたのに、一体なんで。


 いや、待てよ。

 さっきあいつ、私が理科室に来た瞬間、凄く慌てているように見えた。あれってもしかして、この返事の差出人に会ってしまったからじゃないのか。差出人は、もしかしてあいつが来たのをこの文通の相手だと思って、その姿を見られまいと慌てて何処かへ身を隠したんじゃないか。だから、この返事の続きを書くことが出来なかった。今日私には日直の仕事があったから、いつもより来るのが遅かったし、もし差出人も、いつもより早くにここへ来ていたんだとしたら。


 なんだ、段々辻褄が合ってきたぞ。

 これってつまり、全部あいつのせいじゃないか。あいつが忘れ物なんてタイミング悪く取りに来たものだから、私が楽しみにしていた返事を見ることが出来なかったのだ。


 なにか誤解されていたら嫌だなと思って、今日のメッセージは、昨日もしかして誰かに会った?という一言にした。いいえとくれば全て私の早とちりで、この途中の返事にも深い意味はないかもしれないし。はい、とくればあなたが会ったのは私ではありませんよと訂正すればよい。緊張しながら返事を待つ。


 しかしいつまで待っても、次の返事は来なかった。





 あれからもう、一週間が経つ。

 もしかして何か気に障ることを書いてしまったかな、とか、こんな変なやり取りには飽きてしまったかな、とか考えたけれど、いくら考えても私が知っているだけの情報では答えに辿り着くことが出来なかった。それもそうだろう、期間にして一か月ほぼ毎日、わずかでも言葉を交わしていたというのに、私はまだこの人の名前すら知らない。


 前はそれでよかったのに、今になって後悔の念に苛まれる。


 こんなにあっさり終わってしまうのなら、勇気を出して名前くらい聞けばよかった。こんなにも夢中になるだなんて思ってもみなかったのだ。


 ああ、そうか。いつの間に私は、こんなにもあの人の事ばかり考えるようになっていたのだろう。



「ねえ、ちょっと。」

「あ?何」

「この前、理科室に居たわよね。」

「え?ウン。」

「見たの?」

「……えッ。見たって、何を。」

「何をって、……別に、何でもないけど……。」

「ハア?んじゃ分かんねえよ。忘れ物取りに行っただけだって言ったろ。授業でノート忘れたから、それ取りに行ったの。」

「じゃあ、じゃあ。誰にも会わなかった?理科室にあの日、誰か来てなかった。」

「いや別に、誰も見てねえけど……。」

「……はあ~。あっそ、じゃあもういいわ。」

「何?そんな必死になって。エロ本でも隠してたわけ。」

「あんたじゃあるまいしそんな事するわけないでしょ。」

「――はあ⁉俺だってんなことしねーよ!」


 一週間前、返事が来なくなったあの日。

 いつもと変わったことと言えば、やっぱりこいつと差出人が出くわしてしまったかもしれないことぐらいで。どうしても諦められないから、何か手掛かりがないか聞き出そうとしてみたのだけど、聞く相手を間違えたというか、何というか。


 差出人らしき人に会っていたなら隠す理由もないだろうし、きっと本当に誰にも会っていないのだろう。


 となるとそうか、やはり悪いのはこいつじゃなくて、私だったのかもしれない。


「誰かに会いたかったのかよ」

「うーん、……うん。会ってみたかったかも」

「誰に会いたかったんだよ。」

「誰……誰だろうね、わかんない」

「分からないのに会いたいのか?」

「うん……。」


 私が落ち込んでいるのに気付いて、こいつには珍しく気を遣おうとしているらしい。別にそんなことしなくていいのに。


 いつもくだらないことで揶揄ってくる癖に、本当こいつのこういう所が、私は。



 この一週間で、私は理科室に寄り付く理由をすっかり失ってしまった。もともと文系の授業しか受けていないから、当然と言えば当然だ。当初の通り読書でもすればいいんだけど、理科室にいると嫌でも返事を寄こすことの無くなったあの差出人の事を考えてしまって、つまり、ただあそこに居たくなくなってしまっただけなのである。


 部活動に参加していないから、放課後になると何もやることがない。そうやって時間を持て余している私に、先生が声を掛けたんだっけ。本は読みたいけど、あそこには居たくないし。あいつに揶揄われたのを気にしているわけじゃないが、偶には図書館に行ってみるのもいいかもしれない。


 さほど重くない鞄を肩にかけて、図書館への道を歩く。途中、汗だくになって練習に励む野球部連中の姿が目に入った。そうするとなんだか、あいつに言われたから図書館に向かっているみたいに思えて、それがなんだか凄く癪に障って、無性に腹が立った。


 腹が立ったところで、必死に球を追いかけているあいつのもとには届きようもないんだけど。


「ぼうっとしてどうしたんだよ、野球でもしたくなったのか」

「……先生」


 いつも通り、人を揶揄うための笑みを張り付けた先生に声をかけられた。

 別に野球がしたいわけでもないし、そんな理由でここに居るわけじゃないのは先生も分かっているだろう。それなのにやっぱり、いじわるなことだ。


「そういやお前、最近理科室借りにこないけど。読書はもういいのかよ?」

「ああ、もういいんです。あそこ集中できないし。」

「ええ?先生掃除してくれる人がいると助かってたんだけどなぁ。なに、何かあったの。」

「なんかあったっていうか、むしろ無かったっていうか……あ、そうだ先生、最近私以外に誰か鍵借りに来ませんでしたか、理科室の。」

「う~ん、俺が職員室いる時には誰も借りに来なかったけどなあ。いつもお前に鍵渡した後は部活の方に顔出し行ってるし。お前が鍵帰しに来るときにはいつもいないだろ。」

「確かに。先生一応卓球部の顧問でしたね。」

「おいおい、一応ってなんだよ!」


 先生はそう言って、気前だけは良さそうに、がはがはと豪快な笑い声をあげた。


 思い出したように聞いてみたけど、やはり先生も差出人らしき人物に心当たりはないらしい。そうなるともう、このまま原因も分からずに、別れの言葉を交わすことも出来ずに、このまま終わってしまうことになる。


「それはやだな……。」

「ええ、何が。」

「やっぱり、理科室の鍵貸してください。ちゃんと掃除しますから」

「それは別に良いんだけどさ、何、落ち込んでたんじゃないのきみ。」

「えっ。落ち込んでるように見えましたか?」

「うん、そうとしか思えなかったけど。」

「……じゃあ、それにケリをつけてきます」

「そ?まあよく分かんないけど、頑張ってね~。」


 かろうじて科学教師らしさを演出している白衣のポケットの中から、がさごそと理科室の鍵を取り出して私に手渡す。この先生がそこまで分かり易かったと言うのなら、まあ鈍感なあいつが私に気を遣おうとしたのも頷ける。


 もう、あいつに気を遣われるほど落ち込みたくない。勇気を出して、理科室へと踵を返した。



 一週間とちょっとぶりに入る理科室は、たかが一週間でも毎日通っていたせいで随分と久しぶりな感じがした。そう言えばまだ、教師用の大きな机の上が片付けの途中だったんだ。ここも後で掃除しよう。そんなことを考えながら、準備室に向かう。


 久しぶりに感じても、ここへ来てからやることは、もう体が覚えていた。散々落ち込んだのだ、今更どうなろうと覚悟はできている。



 意を決して扉を開くと、見慣れた準備室の景色が広がっていた。だが一週間ぶりにここに来て、一つ気づいたことがある。


 準備室の扉を開いて左手には薬品棚があり、その奥に黒板が置かれているのだが、扉の右手側には小さな窓があったのだ。


 いつも一目散に黒板に向かってしまうので、扉に隠れがちなこの窓には気が付かなかったが、そうか。いつもこの準備室の中に微かに差していた西日の出どころは、こんなところにあったというわけだ。


 埃のかぶった窓の表面を軽く払って、外を見渡す。すると、そこからはグラウンドを一望することが出来た。夕日の落ちる校庭は思ったよりも雰囲気があって、案外こんな所にも穴場があるもんだなと思った。


「もしかしてこんなに景色のいい場所だから、あの人はこの場所に来たのかな……。」


 とうとう最後まで、どうしてこの黒板に辿り着いたのか教えてはくれなかったかの人は、今頃どこで何をしているのか。


 ぼうっと校庭を眺めていると、さっきまでは必死にボール拾いをやっていたあいつが、今度はバットを握ってバッティングの練習をしているのが見えた。スポーツなんてやったことのない私には分からないが、あんなに必死に打ち込めるものがあることが、今はちょっぴり羨ましい。


 バットを振りかぶる直前、ふいとこちらに視線を投げたあいつと目が合った。私に見られているなんて思わなかったのか、かなり動揺したようで、投げられたボールは打ち返されることなくあいつの頭をポンと叩いた。思わず吹き出すと、悔しそうな顔で何かを言ってくる。


「こ、っち、見、る、な……ははっ、あいつ。ミスったからって恥ずかしがっちゃって。」


 大層赤い顔で、そいつは今度気まずそうに目を逸らした。は、良いザマだ。散々私の事揶揄ってきたんだから、あれくらいの恥をかいてようやく釣り合いがとれるってもんだろう。


 窓横に寄せられていたカーテンを引っ張って、準備室の中を隠すようにあいつに背を向けた。暫くたって、ようやく顔をあげて黒板を流し見る。


 黒板の上が文字でいっぱいになる度に消して、また新たに文字を綴ってきた。始めの頃より随分、黒板には使われた跡が残っている。せめて最後に、ここで私とやり取りをしてくれたことへの感謝を残そうと、もうかなり短くなってしまったチョークを手に取った。文字を辿って、最後に書かれた返事を見つける。


 そこには、もう暫く来ていなかった、私へのメッセージが書かれていた。


『返事、遅くなってごめん。それから、嘘をついてしまって、ごめんね。』



 嘘をついてごめん。

 嘘って、一体何だろう。


 同い年ってこと?それとも、理系ってことだろうか。でも、そんなのわざわざ、返事をためらう程の内容じゃない。一週間何の音沙汰もなくて、それから謝るのに、まさかそんな内容ってことはないだろう。だとしたら。


 おれもこのやり取りは楽しいよ、とか。

 嘘だったのは、そんなところだろうか。


『無理に付き合わせてしまって、こちらこそごめんね。いつもお返事ありがとう、楽しかったよ』

『違うんだ、無理に付き合ってたわけじゃない』

『嘘ついたんじゃないの?』

『ごめん、嘘はついた。でも、楽しかったのは本当。』

『そっか、それならよかった。でも、嘘って何のことなの?』


 久しぶりにまたこの理科室でのやり取りが始まったというのに、いつまで経っても楽しいどころか苦しいばかりで、今度はいつまた返事が来なくなるのか、とかこの人は一体なにを嘘だと言っているのかとか、そんな事ばかり考えてしまう。


 覚悟を決めたと、思っていたのに。名前なんて、怖くて聞けなくなってしまった。


『別に、大したことじゃないんだ』

『一週間、返事くれなかったじゃない』

『それは、ごめん。きみに伝える覚悟が出来なかったんだ。今もまだ、ちょっと怖い』


 僅かに震えた文字が、彼の心境を切実に語っているようだった。でも、このやり取りが楽しかったことは本当だと、彼がそう言ってくれたのだ。それならもう、思い残すことはない。


『私も、本当はこのやり取りが楽しくなかったって言われたらどうしようって、ずっと怖かった。でも、きみが楽しかったのは本当だって言ってくれたから、今はもう、何も怖くないよ。』


 嘘偽りのない本心だった。

 一か月、彼のおかげで本当に毎日楽しかったのだ。結局名前は聞けなかったけれど、でも、それでいい。


『返事、待ってます。』


 きっとこれで、最後なんだろうなと思った。






『ありがとう、きみが優しい人で良かった。おかげでようやく、決心がつきました。』


 翌日黒板を見ると、彼には珍しく長い返事が来ていた。返事が返ってきたことへの安堵と、彼の決意に対する緊張とで、心臓はとっくに張りつめている。

 それから。


「明日全部、伝えます……?」


 ガラガラ、と。理科室の扉が開く音がした。


 返事から察するに、今日、ここに差出人が来るのだろう。この黒板を見つけた訳も私についた嘘も、全部抱えて私に会いに来るのだ。


 今までここに通っていたことを示すかのように、差出人は迷わず準備室へとやってきて、その扉に手をかける。


 恐る恐る顔をあげるとそこには、野球部のジャージを着たあいつが立っていた。


「あのさ、えっと……。」



 嘘みたいに赤い顔をして、そいつは頬を掻く。


「……見た?」

「え、見た、って何を……。」

「何をって、いや別に、何でもないけど……」

「は、はあ?それじゃ、……そんなんじゃ、分かる訳ないでしょ」

「いや、あ~ウン、そうだよな。あの、さ。ちゃんと言うよ。その」


 今度はまっすぐ私の目を見つめた彼が、深呼吸してこう続けた。


「あの返事書いてたの、俺なんだ。」

「……ほんとに?」

「わ、わざわざ嘘つかないだろ!」

「それは……あ、じゃあ、嘘って結局何のことよ」

「……俺、ノート取りに来たって言ったろ。理科室でお前と会った日に……」

「ああ、確かにそんな事言ったかも」

「だからその、つまりそういうことだよ!」

「……。いや、分かった。あんたが返事の差出人だったってことは分かった。――でも結局、ここに来たのは何でなのよ」

「お前、見ただろ。準備室で俺の事」

「え?まあ見たけど」

「だから!俺も見えたの!お前がここに居るの」

「いや、私が見えたからって何で……。」

「そ、そんなの決まってんだろ!お前が好きだからだよ!」



 青色のチョークが、もう残り一センチほどになった頃の出来事だった。


 返事待ってる、と言い残して、あいつは準備室を後にする。


 この僅かなチョークが無くなるまでに私は、あいつにこの返事を出さなくちゃいけない。



 本当、こいつのこういう所が、私は。

 昔からずっと、嫌いになれないままでいる。

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青色のチョーク、残り一センチ 春川 @harukawa_paku

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