03 私は全く興味ない

 夜行志貴は、ヘタレのアホである。

 という認識は、シキと関わるようになってから、日に日に濃くなっていく。


 彼を初めて見つけたとき、私はとんでもない宝物を見つけてしまったと、興奮と感動で抑えきれない喜びを感じたものだった。

 今では偶に、何故私はこんなアホしか使役鬼にできないのだろうと嘆きたくなる瞬間がある。

 それでもやはり、私にとって、シキは何者にも代えがたい宝物であることに変わりはないのだ。




*****




 鬼学きがくの徒、という集団がある。

 その集団がいつからあるのか定かではない。

 古くは巫覡や陰陽師、あるいは現代では霊能者など、そんな風に呼ばれることもあるようだ。


 鬼といえば、肌が赤か青などで角があり、虎革の腰巻きで金棒を持っている。

 そんな獄卒のイメージが一般的だろうか。


 遥か昔、通常の人の領域では計り知れないほどなんだかよくわからないもの、得体の知れないものを『鬼』と呼んだ。


 それは、日常から切り離された恐ろしいもの、力強いもの、畏れ多いもの、強大なものなどで、妖怪、霊、神から修験者、盗賊なども広義には鬼に含まれる。

 今よりもっと信仰が根付いていた時代、こうした鬼は忌避すべき悪いものであると同時に、畏敬すべきいものでもあった。


 嘗ては理解できない『何か』であった鬼も、科学という信仰を得た現代においては、昔よりもずっと説明のつく存在にはなっている。

 とはいえやはり、計り知れない部分は大きい。

 概念があり、現象が見られ、確かに存在は確認されているが、それがどういったものかわからない。

 それを探究する者たちは、自分たちの標榜するものを鬼の学問だとした。


 鬼が法則をもった現象だと解析されてから、鬼に対する知識は鬼学と呼ばれた。

 鬼学を扱う者は、鬼学の徒と自らを名乗るようになっていった。


 鬼学は、まだ歴史の浅い学問だ。ほんの六十年前に、その理論が提唱された。

 人が、肉体と魂で構成されているなら、肉体を司る元素のように、魂を司る何かがあるのではないかという研究が始めだとされている。


 今現在においても魂について解明はされていないが、人の人格や理念の根幹となる『感情』が、目に見えぬ形でこの世界に漂い、存在しているということは明らかになった。

 視えず触れられず、よくわからないが存在する『鬼』の最小単位という意味で、それは鬼素きそと名付けられている。


 感情は、ヒトから作り出され、排泄される。その排泄物が鬼素である。

 好き、嫌い、楽しい、苦しい、怖い、不思議、欲しい、といった様々な感情も、永遠に続くわけではない。

 ある程度のところまで溜まると、不要なものとしてヒトの外へと排出される。


 この国では、他人の考えを推し量ることを空気を読むというが、それは強ち間違っていない。

 鬼素はヒトに視えず触れられぬものとされているが、ある程度の濃度があればなんとなく感じるくらいのことはできる。

 即ち、相手がどういった鬼素を放出しているのか――それを感じて読み取ることこそが、他人の感情を推し量り『空気を読む』ということなのだ。


 一般的に、人がマイナスの感情と思うものは重く、下に下に落ちて、溜まっていく。

 逆に、プラスの感情は浮遊して拡散する。


 快の感情を『明鬼素めいきそ』といい、不快の感情を『陰鬼素いんきそ』と呼ぶ。

 明鬼素はいずれ拡散して消滅していくが、陰鬼素は下に溜まり、放っておけばやがてヘドロのように澱んで、凝集する。


 凝集し、固定化したそれは、『たまご』という。文字通り、孵化するからだ。

 蛋は、ヒトに寄生する。ヒトの感情――殊に欲望を喰らって、肥大化する。

 欲望を喰われると、ヒトはいつまでもその欲求が満たされず、不快の感情だけを募らせていく。


 例えば、食欲を欲する蛋がヒトに寄生したとしよう。

 ヒトが空腹という不快感情を抱いても、通常これは、食事をすれば満腹という快感情に変わっていく。

 ところが、寄生した蛋は食べたいという欲求を喰ってしまい、いくら食事をしても空腹の不快感情から抜け出すことができない。

 空腹がずっと続くというのは、ヒトの精神も徐々に狂わせていってしまうことは想像に難くない。


 不快の感情が閾値を超えた時、蛋は孵化して、ヒトは不快感情に捉われ理性を失った『人鬼ひとのおに』と化す。

 満たされない欲を抱えて理性を失ったヒトは、欲求を満たすためだけに本能的に行動するようになる。


 食欲を満たすために、他人から奪って食う。

 場合によっては、自分あるいは他人を喰らう獣にまで堕ちる。

 人鬼は、周囲を巻き込み自分や他人を害しながら、猟奇的な自殺者や犯罪者と成り果ててしまうのだ。


 鬼学の徒は、澱みや蛋を除去し、ヒトが鬼に寄生されることを予防しようとした。

 しかしヒトの目に鬼素は視えない。

 あくまでも、石鹸で手を洗って微生物を体内にいれないようにしましょう、という程度のものでしかない。


 体内の微生物が宿主に不利益を齎して初めて病気に罹ったことが判明するように、鬼化して理性を失くすことで初めて、ヒトは人鬼の存在を知ることができる。

 しかしその時には、既にヒトの手でどうにかできる状態ではない。

 病気なら薬や手術で治すことができるが、巣食ってしまった蛋や孵化した鬼に干渉する術を、ヒトは持っていないからだ。


 澱みを消す鬼械、鬼素の性質を変える鬼械など、多くの予防鬼械が作られていったが、これらが本当に鬼を駆除しているのかどうかすら、ヒトは視て確かめることができなかった。


 そんな折、一人の鬼学者が鬼を支配下に置くことに成功した。

 それは、鬼学という誰でも修めることのできる学問とは違い、嘗て陰陽師や霊能者と呼ばれた能ある者が感覚的に会得していた『式神』といわれる術を学問に落とし込み、再現したものだった。


 宿主が弱ければ常在菌でも感染して発病するように、鬼に寄生されて理性を失うのは、欲求に対しヒトが脆弱であるからだと、その鬼学者は気付いた。

 もしも理性を強く持ち、鬼に欲望を喰わせ続けることができるのであれば、餌を与えて飼い慣らすこともできる。


 先の例で言えば、どれだけ空腹を感じても我慢することができる、或いは常に満腹感がある――そんなヒトとして規格外な心を持つことができれば、鬼が幾ら欲望を欲しようと関係ない。

 そこに契約という楔を打ち込み、鬼を縛ってしまう。

 鬼に呑まれない程の特殊な強い自制心を持つ者は、鬼を遣い、鬼にぶつけ、鬼を屠ることができるようになる。


 それが式神――使役鬼しえきを遣い、鬼を駆除することの始まりだった。


 新しい発見は、鬼学の徒にとって大きな転換点となった。

 科学と鬼学を融合させ、理論や鬼械を生み出す『さとき者』。

 自らの強い心を餌に、鬼で鬼を制する『つよき者』。


 鬼学の徒は二派に分かれたが、鬼をり、鬼をくだすことが鬼学の至高であることは、両者の共通理念である。

 賢き者たちは豪き者たちのために研究と開発を行い、豪き者たちは賢き者たちのために前に立って戦うことを選んだ。




*****




 とまあ、小難しい話は鬼学史の教科書に載っているから、興味があるなら読んでみればいい。

 私は全く興味ない。

 自分の興味のある範囲のことしか知らないし、それ以上を知りたいとも思わない。

 私が興味を持つのは、私と私の使役鬼のことだけだ。


 私は、賢き者の家に生まれた。

 母の生家は、度々著名な鬼学者を輩出することで、その筋では結構有名な家だった。

 ただし、母自身は鬼学の徒ではない。

 父が鬼学者だったらしいが、幼い頃に両親は離婚しているから、父のことは顔すらよく知らない。

 一族は当然、私も賢き者として育てるつもりだったようだが、一つ誤算があった。


 私は、豪き者の資質を持っていたのだ。

 ただし、単なる豪き者ではない。

 つよ過ぎて、鬼に近寄っただけでも消滅させてしまう体質の、なくす者という異能だったのだ。


 鬼学の徒の最終的な目的は鬼を滅ぼすことかもしれないが、同時に彼らは敬虔な学問の信徒でもある。

 自分たちの研究、研鑽の結晶である鬼を、片っ端から消していく私を邪魔に思わない筈がない。


 彼らは私を目の敵にし、嘲り、蔑ろにした。

 幼いうちに親から離され、母の実家である大きな屋敷の片隅の座敷牢のような場所で、誰にも顧みられることなく十年を過ごした。

 そんな悲惨な幼少期を過ごした私は、いつからかある決意を胸に秘めるようになる。


 いつかきっと、私に消し飛ばされたりしない、とんでもなく豪い鬼を探し出して従わせる。

 そんで、私を貶したり蔑ろにしたりした奴ら、全員纏めてぶっ潰す!!


 私を怖れ、嫌悪する人々しかいない暮らしの中でも、たった一人だけ私の味方になってくれた人がいた。

 ほんの短い間しか一緒にいられなかったけれど、その人は私に大きな希望を与えてくれた。

 いつかこの窮屈な場所を抜け出し、私の側にずっといてくれる、私だけの使役鬼を手に入れることができると教えてくれた。

 その言葉を支えに、私は十年間も折れることなくやってきたのだ。


 そして、あのときの言葉の通り、私は私だけの夜行志貴たからものを見つけた。

 図体がでかいだけで、腕力もないし体力もないし、強くもなんともない。

 ヘタレだしアホだし、私がいないと人鬼の駆除一つ自分ではできない。

 だけど、本当はとても強くて優しい、私だけの使役鬼。


 契約上は、単なる対等な存在としてお互いを利用するパートナーでしかない。

 でも、私はシキに対してそれ以上の役割を求めてしまっている。


 本当は、それ以上を求めてはいけないことくらいわかっている。

 それでも求めずにはいられない。

 誰からも必要とされずに一人ぼっちだった私に、初めてずっと側にいると誓ってくれた人だから。


 契約を盾に取り、私は彼を縛り続ける。

 少なくとも、彼が私を必要としている限りは。


 シキは、誤解を受けやすい。

 自らを犠牲にして、自分から誤解を受けにいっていると言っても過言ではない。

 それは、彼が優しすぎるからだ。


 誰かが傷付くくらいなら自分が傷付いた方がマシだと豪語して、シキはいつも誰かのために動いている。

 自分のことなど、あまり考えていないのかもしれない。


 そんなシキが誇らしくもあり、同時に腹立たしくもあった。

 私の一番大切な存在が、一番自分を蔑ろにしているのだから。


 シキはもっと評価されるべきだ。もっと認められていい筈だ。

 彼のことを知ろうともせず噂に怯えるだけの周囲の人たちに、もっと彼のことを知ってもらいたい。

 なにより、シキ自身がもっと自分を認めてあげるべきなのだ。


 だけど、私にはその方法がわからない。

 私の大切な存在は、こんなにも素晴らしいのだと声を大にして言いたいのに、現状それを肯定する人間が私以外にいない。


 私とシキは、一年前にあった事件をきっかけに、生徒会執行部を介して知り合った。

 その生徒会から次期執行役員として指名を受けたとき、私は迷わずシキを生徒会長に推した。


 観識学園の生徒会執行部は、少しばかり特殊な位置にいる。

 生徒に関することは全て生徒会が責任を持って対処し、学園の教職員と雖も生徒会の方針に口出しすることはできない。

 いわば、学園のヒエラルキーの最上位に位置するのが生徒会執行部であり、その中でも頂点にいるのが生徒会長という肩書なのだ。


 学園のトップにシキを据えて、彼に対する誤解を解く。

 同時に、彼のことを多くの人に知ってもらい、賞賛してもらう。


 そんなふうに考えていた時期が、私にもありました……。





 

 何がどうなって何処で間違ってしまったのか、一般生徒の間で誤った情報が定着してしまったのは完全な誤算だった。

 生徒会執行部が閉鎖的な組織で、内情がわかりにくかったこともあるだろう。

 シキに関する例の噂が、収集のつかないくらい拡がってしまったこともあるかもしれない。


 ――生徒会長は桃山有翔理であり、夜行志貴は生徒会長のペットである、と。


 そんな噂が耳に入ったときは、さすがに頭を抱えてしまった。

 だけど……うん。


 シキが私の言うことを聞いて、私だけを守る忠実な犬ペットなんて呼ばれているのも悪い気はしない。

 だから、まだ少しだけこのままでいいかなぁなんて、悪魔な私は思っているのだ。





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予告は予告なく変更されることがあります。ご了承ください。

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