GOOD BYE の訳し方

夢見遼

GOOD BYEの訳し方

平日深夜の東名高速は空いていた。

「熱海着いたら海に行こうか」

 声に出してみたが、答える人はいない。かわりに後部座席からがさごそと、物体が蠢く音が聞こえる。

「定番だけど海で遊んでさ、泳ぎ疲れたら温泉に入ってさぁ、たぶんデートってこんな感じだよね」

 バックミラー越しに後ろの物体を伺うと、充血しきった目がこちらを向いた。ガムテープで塞がれた部分から、くぐもった声が聞こえる。なぜだか変に気が触る。

「うるさいな」

 バッとクラクションを鳴らすと、声が止んだ。しかし、静かになるとかえって人の気配が増し、ガムテープの隙間から漏れる息遣いが生々しく聞こえる。試しにラジオをつけてみたが、軽快に流れるJ-POPはひどく不釣り合いで、無性に腹が立ったため消した。ハンドルを握り直し、エンジンの音と振動だけに集中する。周りの大型トラックは、とろとろと走る軽自動車を抜かし、法外の速度で走っていく。

「目的地まであと30分です」

 この作り物のような状況の中、カーナビの人工音声だけがまるで本物のようだった。


 兄から電話がかかってきた日のことを、今でも鮮明に覚えている。

 卒論を書き終えて、久々にサークルの飲み会に顔を出した日の帰り道。深夜0時過ぎの終電を待つ池袋のホームで、くたびれたサラリーマンや飲んだくれた大学生の烈に並んで、いつになく気分が良かった。確か卒論のストレスからの解放や、久々に会ったサークル仲間との会話が楽しくて、飲み過ぎていたのもあった。鼻歌を歌えるほど上機嫌だったのだ。

 ふとポケットに突っ込んでいたスマートフォンが細かく振動していることに気づいた。面倒だな、と思いつつ電話であることを確認すると、名前も見ずに液晶に触れる。

「もしもし?」

 兄の声だった。それだけで、ただでさえ上がっていた心拍数がさらに速まる。

「久しぶり」

「ああ、うん」

 他にも二、三言話していた気がする。それだけで嬉しくなってしまって、なぜいきなり電話をかけてきたかなんて、考える余裕もなかった。久々に声を聞けたことが嬉しくて、良かったなと思って、つまりは浮かれていたのだ。

「結婚することになった」

 唐突に耳に入った言葉に、最初は頭が回らなくて、意味を理解したら身体に血が回らなくなった。足の先まで冷たくなって、手が震えて、端末を落としそうになった。いやな汗をかき、腹の底に氷が落ちたような寒さと重さが加わる。胃液の味が舌に届く。相づちくらいはしたんだと思う。ああ、とかそう、とかは返した覚えがある。そうして適当に会話を繋いで、じゃあとか言って電話を切って、目の前で電車のドアが閉まった。

 気がついたら駅前のベンチで吐いていた。季節は冬で12月だった。下手したら死んでいたし、たぶん死んでしまっていたら良かったんだと思う。


「付き合っている人がいるのは知っていた。いつか結婚することも、当たり前のように分かってはいたつもりなんだよ。兄が結婚したって俺には何の関係もないし、幸せになれるのならそれで、と思っていたよ。思っていたはずなんだけどさぁ」

 弁明するように呟いてみる。後部座席の彼女は声を発しないものの、軽蔑の視線を投げかけているのが分かる。

「それに関しては俺は何も言えないけど、理沙ちゃんも何も言えないよね」

 高速を降り、車が少ないことを確認しながら信号で急ブレーキを踏んでみる。振動で彼女の身体が大きく揺れ、続いて咳き込む音が聞こえる。唾でも詰まったのだろうか。

 ナビは順調に道筋を辿り、目的地まで残り十分であることを告げた。下道は空いていて、このままだとあと五分も経たずに着くだろう。

「もうすぐ着くからおとなしくして」

 バックミラーに目を向けると、睨み返しながらも涙で滲んだ瞳が見えた。目が合ったような気がした。


 一人暮らしの兄に交際相手がいることは、雰囲気で察していた。五つ離れた兄は今年で二十七で結婚にはまだ早いだろうとも、考えていた。その遠い未来が突然目の前に訪れたわけだが、あの日吐いたきり、どこか上の空で実感が湧かなかったらしく、気がつけば式の段取りが決まっていて、兄や両親が忙しなく動き回るのを、ぼんやりと眺めていた。式は三月であることだけは覚えていて、他は何となく他人事だと思っていたのだ。二月に入り顔合わせの日が決まって、やっと自分に関係することだと気づいたほどで。

 顔合わせの日は、無理にでも予定を入れようとしたが、兄に頼まれ仕方なく参加することになった。親も兄もそわそわと落ち着きが無く、釣られて自分も居心地の悪さを感じていた。一段と冷える日で暖房を入れたはずなのに、足の先は冷え切り、背中には汗をかいていた。温かいお茶が余計だった。

「はじめまして」

 親と一緒に居間のドアを開けて入ってきたのはパッとしない女だった。肩を越すくらいのウェーブがかかった茶髪に、右目の涙黒子、パールのネックレス。柔らかい印象で落ち着いた雰囲気を纏っていたが、計算高くずる賢そうな側面も見えて、いわゆるかわいい女の子だった。

「和弘くんとこの度籍を入れることになりました、宮本理沙です」

 鼻にかかる声。ずば抜けて美人というわけでもないが、小柄でかわいらしくて愛嬌が上手くて女の子っぽい女。兄が好いた人。兄の好みにしては意外で、もっと清純そうな人を好きになると思っていたのに。親切で不器用な兄と相性が良いとは思えない。兄がこの女を好きになったこと、そしてこの女が兄の嫁になり、生涯連れ添うことの衝撃が大きく、受け止めきれなかった。ただ、兄が幸せになれるなら、なんでも良かった。ぬるくなったお茶を飲んで、「兄をよろしくお願いします」なんて心ないことを言って、親御さんとも和やかに話をして、平穏に終わった。彼女はずっとにこにこと話を聞く、素敵な娘さんだった。

「理沙、帰りにどこか寄ろうか」

 帰り際、彼女を家まで送るとき、兄が自分には向けないような、穏やかな顔で、優しい声色で話しかけたのも駄目だった。自分の知っている兄ではなくて、好きな人を目の前にした兄のすべてが初めてで、体全身が痛くて、心臓が凍ったように冷たくなった。女が許せなかった。


 しかし、この女は想像以上にひどい女だったのだ。


 顔合わせから一週間後、家で暇していたときに彼女から連絡が来た。成り行きで連絡先を交換したことを思い出しながら、メールを開く。

「かずくんの弟くんとも仲良くなりたいなと思って、一緒にご飯でもどうですか?」

 ソファから転げ落ちた。まず兄のことを「かずくん」と書いてあることに、吐きそうになった。それは幼少の頃、自分が兄を呼ぶときのあだ名だった。次に兄の恋人と兄と三人で話すことが、とびっきりに嫌だった。兄の恋人の時点でたまらなく嫌なうえ、そもそも個人的に苦手なタイプの女なのだ。話さなくても一目で分かったし、口を開いたらもっと嫌いになった。二行ほどの文字列をずいぶんと持て余して、それでも兄に迷惑かけるのもな、となんとか返信する。

「いいですよ」

 それからとんとん拍子で話が進み、日付と場所が送られてきた。式の一週間前だった。


「お待たせ!」

 東京駅のホテルのレストランの前で落ち合った彼女は、顔合わせのときよりラフな格好で、にこにこと笑っていた。

「おまたせ。兄さんは?」

 待ち合わせに遅れてくるような性格では無いよな、と辺りを見回すも、まだ来てないようだ。スマートフォンを取り出して、連絡がないか確認する。

「かずくん?誘ってないよ?」

「は?」

 スマホを落としそうになった。彼女はおかしそうに、こてんと首を傾げる。

「今日は弘樹くんと仲良くなろうと思って、一緒にお食事しようって」

 かずくんの思い出話とか、子どものときの恥ずかしい話とかも聞きたいし?という言葉は明らかに後付けで、最初から俺が目的だったらしい。めまいがする。

「行こう?」

 ほら、と腕を掴まれる。お洒落な外装に、いかにもな赤い絨毯の上で、食事しているのは着飾ったカップルだらけだった。側から見たら俺たちもカップルに見えるのだろうか、と考えたりもして、当然、高級ホテルのフレンチレストランで食事をする気分ではなかった。


 当たり障りのない話をした気がする。それくらいはできた気がする。ただ特別彼女に話してやるようなことは何もなくて、味のしない高級料理を口に運びながら、早く終わらないかなと店のシャンデリアを眺めていた。女は肩出しのレースワンピースを着て、愛嬌のある笑顔で甘ったれた声で、終始一人で喋っていた。砂糖のような香りの香水は濃すぎた。兄はこの女のどこを好きになったのだろう。女の子っぽい女とは褒め言葉ではない。愛嬌があって頭が弱くて、一々の仕草が芝居がかっていて、かわいらしいが、良い子ではない。そのような形容が似合う女。

「兄とはどこで知り合ったのですか?」

 あまり聞きたくないことでも、間を保たすために聞いておく。自分と彼女の間の接点は兄でしかなく、その兄がいなければ会話のタネもないような全くの他人なのだ。本当にこの人は何を考えているのだろう。

「かずくん?かずくんとはねぇ、友達が紹介してくれて、みたいな?一緒に遊んだときに、ほら、純粋で優しくてかわいいじゃん?それで一目惚れって感じかな」

 女が蜂蜜を垂らしたような声で、かずくんと口に出すたびに鴨のテリーヌの味が死んでいった。話し方も嫌いだ。

「弘樹くんのことは、かずくんから聞いてたけどぉ、気も使えるし、モテるでしょ?頭良さそうだし、かっこいいし」

 急に自分に話題がシフトし、ワインの味も死んでしまった。たぶん高くておいしい赤ワインだったのに。

「いえ、別に。そうでも」

 え〜意外!大袈裟に驚き、ふふふと笑う動作も全部しゃくに触る。あはは、と乾いた笑いで返して、感情が全部無くなってしまった。


「あのさ、飲みすぎちゃったから、休憩しない?」

 財布を出しもしない彼女を尻目に、わずかなバイト代を出して勘定を済ませて、「そろそろ帰ろうか」と言おうとした一歩前。彼女は腕にしなだれかかり、上目遣いで、舌ったらずな声でそう言った。自分の恋人の、もうすぐ婿になる男の弟に。

 そういうことだったのか。

 無理やりに彼女をタクシーに押し込み三万円を手に握らせた。すべての辻褄が合い、高級フレンチレストランの中身を、駅のトイレで全部戻した。繰り返すが、式の一週間前だった。


「ほら着いたよ」

 辺りは暗く見晴らしも悪いが、風に運ばれた潮の匂いが鼻につく。砂浜は人の気も無く、暗い暗い夜のしじまに、寄せては返す波の音だけが響いていた。レンタカーを道路の脇に止めて、彼女の手足に巻いていた紐を外した。

「変態!最悪!離して離して!触らないで!帰して!」

 ガムテープを外すと一気に喋り出した。甘ったるい声も耳について嫌いだったが、叫び声も超音波のように高くて嫌いだった。一つ発見だ。

「うるさいな」

 髪を引いて車から引きずり降ろす。

「ここどこなの!?」

「だから熱海だって」

 理沙ちゃん、話聞いてた?と暴れる女の手を引く。女は持ちうる限りの全力を出して殴ってくるが、手首を掴んで絶対に離さない。

「結婚式の前に逃げるとかドラマチックで良いね、とか言ってたじゃん。だからほら、不倫って言ったら熱海でしょ」

「嫌だ!離して!」

 砂浜は革靴では歩きづらい。諦めて靴と靴下を脱いでいる間も彼女は騒いでいる。彼女はとっくに裸足だった。そういえばホテルで脱がせたまま置いてきたんだっけ。

「前回は逃げられたから、今度こそやろうと思ったのに!気付いたら縛られて車に乗せられて、誘拐じゃん、こんなの!有り得ない!ケーサツにツーホーするから!」

 彼女は引き摺られ、砂浜に足を取られながらも必死にもがく。砂浜に線が残る。彼女に二回目を誘われたときから、この計画を立てていた。散々飲ませ、泥酔した彼女のグラスに睡眠薬を溶かした。あとはホテルに連れ込むと言いながら、借りてあったレンタカーに彼女を押し込み拘束すると、熱海まで走り出す。真夜中の高速で車の中は見えないし、仮に彼女の目が覚めたとしても、起き上がれないように四肢を縛れば、バレることはない。人生の終わりがこんなにあっけなく、さらにはこの女と一緒であることは釈然としなかったが、人生なんてどうせ報われないから、いつ終わってもよかった。この女も巻き込めるのなら、上々だ。

 どうせ死ぬしかなかったのだ。

「待って!どこいくの!?そっち海だよ!」

「結婚式の前に、他の男とどこか行きたかったんでしょ?そういうのね、駆け落ちって言うんだよ」

 知ってた?という意味を込めて首を傾げると、信じられないという顔で返された。俺もお前が信じられないよ。

「違うもん!だって面白いかなと思って」

 首を振りながら彼女は踏ん張る。どうにか彼女を引っ張りながら、海の方へ向かう。貝殻やガラスの破片を踏んだのか、足の裏がひりひりと痛い。

 波が足先に触れた。春と言えど三月の夜はまだ肌寒く、海は冷たい。

「ねぇ、なんで!?思ってたのと違うんだけど!つめたっ!え?何する気?」

 彼女はまだ喚き立てている。夜通しの運転で寝不足の頭に響くが、もう今更気にもならない。甘い香水の香りが潮風に流される。

「思ってたのと一緒だよ。結婚式前に新郎の弟引っかけてさ、やることなんて一つでしょ。春の海なんて、理沙ちゃんが好きそうじゃん最高にロマンチックで」

 心中するんでしょ?

 彼女はようやく事態を察したようで、ふるふると首を振った。波は膝まで来ている。ズボンが肌に張り付いて気持ち悪い。

「違う、違うよ!離せこの変態!離して!離してよ!」

「そうだよ」

 とうとう腰まで浸かった。足下が覚束なくなる。彼女は抵抗しているうちに、バランスを崩し前に倒れ込んだ。上半身をびしょびしょに濡らし、髪が顔に張り付いている。それでも彼女の手を強引に引くと、抵抗はやめた。じゃぶじゃぶと波の音だけがうるさい。

「何!?怒ってるの!?謝るからさ!こんなのやめようよ!結婚式明後日だしさ!戻ろうよ!」

「お前、新郎の弟に手を出して、まだ結婚する気だったの!?」

 頭が痛い。彼女は何が悪いのか分からない、という顔で場に合わず、きょとんとしている。

「だって、ドラマとかでよくあるじゃん。ちょっと遊んだだけじゃん!違うよ!ガチじゃないって!勘違いすんなよ変態!」

「は?勘違いも何もしてねぇよ、一回黙れ!」

 まるで見当違いなことを言う女に腹が立ち、頭を押さえて沈めた。忙しなく泡が吹き出し、波面が白く濁る。一度沈めるとさすがに女も大人しくなり、咳き込みながら付いてくる。

「ねぇ、このままどうするの?もう寒いよ。死んじゃうよ。何でこんなことするの?」

 青くなった唇を震わせて、至極当然のことを言う。この女はまだ状況が分かってないらしい。

「死ぬんだよ。心中だって言ってるじゃん」

 苛立ち混じりに返すと女はぽろぽろと泣き出した。髪は張り付いてるし、メイクも落ちてしまって、なんともひどい。

「いやだよ、死にたくないよ!戻って!わたしが悪かったから!理沙が悪かったから!もうこんなことしない!」

「もう、じゃないんだよ。一回でもこんなことした女と兄さんが結婚するのが嫌なんだよ」

 だから一緒に死んじゃおうよ、ねぇと声をかける。胸まで浸かって、足が付くのも限界になってきた。服が水を吸って、身体全体がやけに重い。彼女は首まで浸かっている。胸元の小さなハートのネックレスだけが浮いていて、なんだか滑稽だった。

「じゃあ、ひろきくんだけが死ねばいいじゃん!わたしは死にたくないもん!いやだ!帰してよ。てか死ぬ必要無いじゃん!かずくんだって悲しむよ!」

「黙れよ」

 もう一度頭を沈める。今度こそ殺してやる勢いだった。お前、どの立場で言ってんの?

 再び浮上した頭は妙に静かになっていた。

「理沙ちゃんもさ、やっちゃいけないことしたじゃん。このままだと兄さんと結婚した後もさ、同じことするでしょ?それ良くないじゃん?兄さんが優しい人って知ってるはずじゃん。だから死んじゃおうか。ねぇ?」

 優しく語りかけてみる。彼女はどこを見ているのか分からない。

「変態。サイコパス。頭おかしい。犯罪者」

 涙声でぶつぶつ呟いているのが聞こえる。ここまで馬鹿だと一周回ってかわいいのかもしれない。

「ブラコン」

 その声に立ち止まった。

「そうだよ」

 それだけはその通りだった。

「ひろきくん、可哀想だね」

 彼女は空いた手で俺の頬を撫でた。

「わたしもこんな頭おかしい男に騙されて可哀想だけど、ひろきくんも変態で可哀想だね、ついでにかずくんも可哀想。こんな男が弟で、こんなわたしが嫁で」

 誰も幸せにならないよ、やめようよ、と彼女はしおらしく呟いた。濡れた肌に風が当たって冷える。

「大学卒業したらさ、兄さんに言わないまま、地方に就職して縁を切る予定だったんだよ。俺だって、自分が気持ち悪いこと充分に分かっていたし。予想外の事態が起きなきゃ、上手くいくはずだったんだよ。こんなバグ起きなきゃさ」

 だからさ、もう死ぬしかないじゃん。でも理沙ちゃんだけが悪いわけじゃなくて、同じようにかずくんを好きな俺も悪いからさ。一緒に死ぬんだよ。

予想外の事態を起こした張本人は、黙って聞いている。

「なんで俺に手を出したの?」

 俺は首スレスレで、理沙ちゃんは唇にちゃぷちゃぷ波が当たっている。ここまで来たら最後。

「好きだったからだよ」

 理沙ちゃんはこっちを見た。

「かずくんも好きで、ひろきくんも好きになっちゃったからだよ。一目見て好きになった。一目惚れだよ。だってかずくんもひろきくんも、好きな顔だったんだもん。顔似てるから当たり前だよね。性格は違うけど、どっちも好きなんだもん」

 臆することなく言い切った。

「最悪」

「そうだね」

 会話が途切れた。

「ひろきくんも好きって言ってみればいいじゃん」

「理沙ちゃんって馬鹿だね」

 途端、振り向いた理沙ちゃんに頬を思い切り叩かれた。脳が揺れる。まだこんな力残ってたんだ。

「理沙ちゃん、何」

「馬鹿はひろきくんでしょ!?じゃあ何?言えば良いじゃん!こんな、海まで来てさ、わたしと死んじゃおうとか言ってさ!わたしは言ったもん!最悪って分かってたけど、好きだったから、好きって言ったもん!ひろきくんも言えば良かったじゃん!馬鹿でしょ!」

「言えるわけあるかよ!」

 喉が引きつった。

「実の弟がさぁ?兄に対して本気で好きでしたなんて、言えるわけないだろ!?言ったところで、どうするわけ!?そりゃ理沙ちゃんはすごいよ、言っちゃうんだもん。普通駄目だから!あり得ないから!」

「勝手に死ぬよりマシじゃないの!?かずくんにお別れもしないでさ!?理沙みたいに言ってみれば良いじゃん!それで最悪でも死ぬよりマシだもん!理沙はひろきくんが答えてくれないって分かってても、最悪って分かってても、好きって言ったし、好きになってくれるようにって思ってたもん!ひろきくんの意気地無し!それで死ぬっての!?」

 かずくん、可哀想じゃん。

 この言葉で何かが吹っ切れた。今、誰がどれだけ可哀想なんだろう。理沙ちゃんが嫁なことも俺が弟のことも、嫁と弟を同時に失うことも、誰よりも兄さんだけが可哀想だった。せめて、あなたの弟と嫁はこんな人間で、だからさよならくらいは言えば良かった。

 思い出が走馬灯のように脳内を巡った。必要以上に喋ることはなかったけれど、聞き上手で話を聞いてくれた。歳の離れた兄弟だったからか、うんと優しくしてくれて、面倒も見てくれた。柔らかく慕う気持ちが恋愛感情だと気づいたのは、いつからだろう。そんな自分が吐き気がするほど嫌いで、どうしようもなくて、駄目だった。穏やかな家庭の中で自分だけが異分子だった。何も知らない兄さんが、何も気づかないまま優しくしてくれるのが痛くてつらかった。それでもちょっとした気遣いに、からかうように頭を撫でる大きな手に興奮していたのだ。狂おしいほど俺だけが好きだった。でもやっちゃいけないことだから、気持ち悪いから、だから死ぬしかないと思っていたのだ。

「さよならって、兄さんに言わないといけなかったね」

「さよならじゃないでしょ」

 海には月が揺れていた。理沙ちゃんは俺の頬を両手で挟んだ。理沙ちゃんの目は真剣に真っ直ぐ俺の目を見据えていて、揺れているのは俺だった。空を見上げると、雲の隙間から満月が見えた。なんだかどうでもよくなってきた。

「ねぇ、I LOVE YOUは月が綺麗ですね、だけどGOOD BYEは何て言うんだろうね」

 彼女もつられて月を見上げた。

「分かんないよ、そんなの。けど、今のひろきくんが言わなきゃいけないことなんて、それこそ」

 理沙ちゃんは笑った。

「愛してる、に決まってるじゃん」

 一緒に最悪になろうよ。

 びしょ濡れで月の光を反射した理沙ちゃんの笑顔は、今までで一番かわいく見えた。


「はぁ〜めっちゃ濡れた!本当に死ぬかと思った!風邪引いたらどうするの!?」

 陸に上がっても理沙ちゃんはうるさくて、車のシートに座ったままドアを開け、足を振って砂を落としていた。

「かわいこぶってる理沙ちゃんじゃなくて、今の理沙ちゃんの方が好きだよ」

 気の抜けた俺は濡れたままシートに座り、背もたれに体を預けていた。

「ひろきくんなんか、もう大嫌いだから。今更言ったって絶対いや!ひっどい!かずくんの方がよっぽど良いもん、かずくん一生大事にするもん。あ〜ひどい目合った!やっぱりかずくんが良いな」

 理沙ちゃんは死にかけたにも関わらず、すでにいつも通りの調子に戻っていた。空は明るみ、海は光を照り返している。

「俺も理沙ちゃんのこと大嫌いだし、兄さんのことが好きだよ」

「一緒だね」

「あはは、最悪だ」

 指の先の水滴をぱっぱと払って、理沙ちゃんはシートから身を乗り出した。彼女の濡れた髪が首にかかる。

「結婚式さ、明日じゃん?今日は空いてるから、かずくんに最悪しちゃえば?」

 これでおあいこってことにしない?きょとんと首をかしげる仕草も、すっかり馴れてしまった。なるほど、中身を知ると魅力的に見えるかもしれない。

「おあいこじゃないでしょ」

 海鳥の鳴き声が聞こえる。朝焼けが眩しくて目を細めてしまう。

「どれだけ最悪でも死ぬよりマシだしさ、やっぱりグッドバイじゃなくてさ」

 柔らかくて熱い指が、冷え切った唇に触れた。

「アイラブユーでいいんだよ」

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GOOD BYE の訳し方 夢見遼 @yumemi_ryo

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