第26話 10月26日

十月二十六日、日曜日

二日間行われる文化祭の最終日。

異様な寒さと、朝日の眩しさ……

そして異様なまでの腕の痺れで八重は目を覚ました。

そこは何時もの自室のベッドではなく、清潔とは言えない硬い床の上。

机に沿う様に暗幕が掛けられ、横たわっていた二人の空間だけ器用に覆い隠されている。

そして横には八重の腕を枕代わりに、丸まって眠っている京子が傍らで可愛らしく寝息を立てている。

「京子、起きてくれ。もう朝だ」

声を掛けてみるが京子はどうやら朝がすこぶる弱いらしく、叩けど、揺らせど『ムリャリ』とうわ言を言うだけで一向に起きて来る気配が無い。

八重は仕方なくそっと腕を頭から抜き、ポケットに入っている携帯の画面を確認すれば、時刻は朝の七時半

トップ画面に表示されていたのは『life for reversibles』に入れられていた二人からの連絡だった。

言ノ葉『バレない様に体育館の暗幕掛けといたから、起きたら体育館に戻しておいて。あと京子は今日ウチに泊まった事にしておいたから。それから八重くん、床を汚したり飲んだ飲み物は、今度から自分で片づけて』


信吾『お前のご両親に、俺から連絡入れといたから、二人ともバレない様にな』


文面から二人には随分と気を使わせてしまった事が伺える。

しかも言ノ葉に至っては、飲みっぱなしになっていたコーヒー缶と、ぶちまけてしまったエナジードリンクの処理までしてくれる徹底ぶりだ。

画面の眩しさに目を細めつつ、全文に目を通した後、顔を洗う為に三階へ降り流し台の蛇口を捻れば冷水が手をかじかませるがこの位の温度が目を覚ますのには丁度いい。

二度三度と手のひらで水を溜め、顔を荒い蛇口を止め気になっていた手のひらの文字を見る。

『後悔と絵、忘れるな』

手に書かれた文字の意味を、八重は今一度吟味する。

「そうか、俺は結局忘れてしまったわけだな……」

後悔は覚えている。

だが絵の記憶は八重の手元からスッポリと抜け落ち、黒く塗りつぶされた様な黒点だけが残っていた

「どの記憶も名残惜しかったが、結局これが一番心に来るな」

悲しみとも違う震えを押さえつけ、もう一度水を顔に浴びせ、再三となる問いに自身に答えを出した。

やるべきは全て終わっている。

この場に残した迷いはもう無い。

思考を振り払い、顔を洗い終わった八重が四階へ戻れば、そこには身体を起こし地べたにぺたんと座る京子の姿があった。

「起きたようだな、少し窓を開けていいか?」

「……ん?構わないさね」

寝ぼけ眼の京子にそう言って、窓を開ける為に触れた鉄格子から伝わる指先の冷たさが、外気の温度の低さを表しているのだと八重は思う。鉄格子をいつまでも握れば、手の内にあった温かさは失われ、その代わりに心地の良い冷たさを握らされる。

この温かさを失った時の事を八重は今でも覚えている。

零れ落ちると言うには遅く、滑ると言うにはあまりにも早すぎた最後。

今度こそはと指先から絶えず自らの生温さを感じては冷えきらない様に八重の内を冷やし指先を温めた。

「それで?この絵は?もう良いのか?」

八重は一番に気なっている、踊り場中央に据えられた絵を指差した。

「これは私の子供だよ。それも一等自慢の出来損ないの可愛い我が子さね」

京子はゆったりと立ち上がり、慈しむ様に自分の描き上げた絵に歩み寄る。

威風堂々とした立ち振る舞いは、確かな自信からくるのだろう。

「お前は発言が一々大人びているな」

「そうかい?私は余っ程、八重くんの方が大人っぽく見えてしまうけれどねえ」

「何度も言っているが、俺は大人っぽいんじゃない、子供っぽくないだけだ」

何度目となる問頭は、八重にとって譲れない押し問答でもある。

「それでも私にとって八重くんは大人さね。私達の為に譲るべきを見て、私達の先を見据えている。でもそれってどうなんだい?大人は決まって子供に対して何時も余計なお世話を焼くと相場が決まっているもんさ」

「余計なお世話か……だが、子供が間違っている方向に進もうとしているのなら、それは大人としては止めるべきじゃないのか?」

「間違えたくて間違える子供はいないさね。それが正解だと思うから子供はそこに向かって突き進む。それに子供は誰よりもやりたい事に正直なものさ。それぐらいは自称子供っぽくない八重くん自身が理解しているんじゃないのかい?」

京子は八重の言葉の本質を理解していた。大人じゃない子供っぽくないだけ。それは逆を言えば大人ぽい子供である事と同義である。

「やりたい事……その為に一枚目に描いた絵を破いたんだな。京子自身のやりたい事の為に……だがこれは、本当にこれで完成なのか?」

この作品を見たあの瞬間、八重の左目は確かに痛みを感じていた。

それは今の『荒木京子』があの頃の『荒木京子』を超えた瞬間でもある。

確かに超えた筈の『荒木京子』の絵は誰の目から見ても『未完成』だった。

「よく気付いたねえ、この中央にある余白は埋めないさね。というか、今の私では埋められないからねえ」

「何かの哲学か?すまないが、俺には作品に込められた意味までは理解できないぞ」

「違うさね、これは哲学じゃなくて常識さ。私は描ききった絵に興味はない。描いている途中が私にとっての最高で、終わった作品は白紙の紙より価値がないさね」

京子は、いつにも増した澄まし顔で、自分の描いた作品を指でなぞり、作品の中央の、不自然な空白の地点を指し示す。

「私が何故絵を描くか、それはね欲望を満たす為さ。描きたいっていう欲望を満たす為に私は絵を描いているんだよ。でもねえ、今の私じゃどうも良い絵描きにはなれそうもないのさ。何かを描きたい……何かを表現したいという気持ちが此処最近はとん、と湧かない……いや、違うさね。きっと私はもっと別にやりたい事が出来たんだろうさ」

やれやれと京子は大袈裟に肩をすくめてみせる。

「勿体ないな、ここまで描ける人間は早々居ないだろう、お前はお前の才能にもう少し貪欲になってもいいと俺は思う。それは誰かが望んでも手に入らない物だろう?」

「有り難いご忠言だけれど八重くんの解釈は少しズレているねさね。私はもう紙とペンじゃ自分の欲望を満たせないのさ。きっと私が気付かない間に、表現するよりも、強い欲望を見つけたんだろうねえ……まったく筆と紙だけあれば、自分を発散出来たんだけれど……嫌さね、新しく見つけたこっちは、描くより余っ程たちが悪いと思うからね……」

自分の事の筈なのに他人事の様に言ってみせるその姿が『荒木 京子』という人間を大人っぽさ足らしめているのだろう。

「そうか、それは難儀するな。俺に手伝える事が、あればいいんだが」

「……あるさ、むしろ私のこれは八重くんにしか出来ないさね」

一歩のつま先を八重に向け、京子は握りこぶしを八重の胸元に突き出した。

「欲望をぶつける相手が紙から人に移っただけさね。ただ私の問題は紙は人を選ばないけれど、人は人を選ぶということを失念したことだろうさ。私は私だけに八重くんの欲望を打つけられたいし、私の欲望を八重くんに打つけたい。八重くんは迷惑かい?」

不安気に揺れる瞳に、八重はソッと手を添えた。

「迷惑ではないが、随分と生々しい話をするんだな。俺はこれでも高校生だ。そんな事を言われても返答のしようがない」

京子は頬に添えられた手の温度を慈しむ様に自分の体温を重ねる。

「まったく、アンタはこんな時ばっかり子供に戻る都合のいい男さね。……まぁ、いいさ。今は返答じゃなく確約を貰いに来ただけ、八重くんが約束してくれるなら私は絶対に八重くんを救ってみせる。だから八重くん。私のたった一つの願いを叶えてくれないかい? 」

それは京子が持ち掛けて来た一つの願い事。

純粋な願いが欲望という歪みになりながらも羨望を諦められなかった故の答えだ。

「私は、ずっと八重くんと一緒に居たいさね。此処からずっと誰が居なくなっても八重くんだけはずっと一緒にいたいんだよ」

向こうの『荒木京子』の絵を超える事が出来たなら、その時は八重が一つだけ願い事を叶えるという約束だったが、八重は一つだけ条件をつけていた。

「俺は言った筈だ。俺に出来る事であるなら出来る範囲で何でも叶える。だが出来ない事は叶えられない。だからすまない。その願いは俺には叶えられそうにない」

八重の言葉に、特段驚く事は無く、悲しげに笑ってみせた。

「やっぱり……そういうことさね、昨日八重くんの声が聞こえたさね……ここから八重くんが居なくなる……本当なのかい?」

笑顔ながらも不安に揺れる京子の瞳は答えを求めその瞬間を待っている。

「俺は何も変わらない。お前達のよく知る十七歳の『大見 八重』に戻るだけだ。だから何も心配する事はない。お前達はこれまでも、これからもあるべき日常の中で……」

「違うさね!私は……今の八重くんが……」

「知っている、だからこそ俺はお前と一緒にはいられない。だから他の……」

『願い』と言いかけて、八重はその続きを言えなかった。

瞳いっぱいに溜めた京子の抱えた感情の波は、今にも溢れそうに揺れていた。

「嫌さね……私は……八重くんが良いさね……なんで私達と、ずっと一緒に居てくれないんだい……」

荒木京子が望んでいるのは未来の『大見八重』であって、今の『大見八重』ではないのだろう。

そして八重はそれを知っていた。知っていたからこそ、八重は京子の願いを叶える事だけは出来なかった。

「すまないな。俺にはもう時間が無い。だが、お前達といた時間は俺にとって幸せに満ちたかけがえのない財産だ。これは嘘じゃない。俺の友人としてこの一ヶ月お前達が隣に居てくれて本当に良かった。だから、俺はこれいいんだ……でなければ、俺はきっと……」

これから八重の身に起こるであろう事象は、痛みの無い死に近い。

僅かばかりに残った残滓すら、八重の中から消え失せて、ここに残るのは今の八重ではない本物の十七歳の『大見八重』だ。

今此処に居る『大見八重』は、遠からず二度目の死を迎える事になる。

八重はそう考える程に、無性なまでに胸を掻きむしりたくなる衝動に狩られていた。

死ぬという事に痛みは無い筈なのに、生きている事がこんなにも痛みに溢れている。

「だから頼む。お前達は、ここで死んでしまった俺よりも先に行ってくれ。俺は必ず後から追いついてみせるから……」

京子が八重の懐に抱きつき、八重は優しくそれを受け止めた。

一人は愛しい相手に抱かれ、

一人は巣立っていく子供を慈しむ様に

階段下には、言ノ葉と信吾が、ひっそりと立ち二人の様子を最後まで見届けたのだった。

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