第27話 10月29日



十月二十七日月曜日から

二十八日火曜日と、文化祭振り替え休日期間が過ぎ去っていき

今日は十月の二十九日木曜日。

授業が終わり、いつも通りの放課後の時間に四人は恒例の溜まり場ともなっている別棟の四階にやってきていた。

特出した問題もなく文化祭が終わり、数日間は秋麗らかな日差しが、校舎の中に今年最後の温かさを齎している。

文化祭終了以後、文化祭実行委員に所属していた言ノ葉と信吾は肩の荷が降りた様子で、ここ最近は緊張感もなく時間を過ごしてるし、京子に至っては絵を描く素振りも見せなかった。

才能の無駄使いと言ってしまえば怒られるのかもしれないが、彼女自身の無駄を使っているだけ利口なのかもしれない。

時間の無駄も才能の無駄も人生を充実させるには重要な要素なのかもしれないが、勿体ないと思ってしまうのはやはり八重が凡人だからなのだろう。

極力無駄を省き最短距離で答えに辿り着く為には、日々の楽しさを削るというそれ自体が正しいか正しくないかはさておいて、何かを成し遂げる事は苦しいに違いない。

だからこそ、今の八重はこの状況に大きな違和感を覚えていた。

既視感と言って差し支えないだろう。一度見た光景をもう一度見ている様な『十月二十九日』にこの四階で四人が笑い合うという恐ろしく不自然な光景は八重の焦りを無闇に掻き立てていた。

「八重くん、どうしたんだい?深刻そうな顔さね?」

京子は心配の混じった笑顔で八重を覗き込んだが、八重の顔色は悪くなるばかりだ。

文化祭以降も、八重の記憶は未だにこの場所に滞在し続けている。それはつまり後悔だけは未だに左の目から消えていないという事だ。

『大見八重』が此処に来た理由である『硯言ノ葉』の死が、未だに八重の左目の記憶としてこびり付いている。

授業終わりの放課後の時間に、秋の終わりを知らせる早い西日が言ノ葉の黒髪を照らし出していた。

「八重くんはまだ此処に居るのかしら?私今日は先に帰ろうと思ってるんだけど?」

「今日は信吾に送ってもらってくれ。俺はこれから絵の勉強を始めようと思っている。生きていくなら何か趣味があった方が、張り合いが生まれるからな」

「そう。なら京子。くれぐれも私の彼氏をよろしく頼むわね」

何か意味を含めた言ノ葉の言葉に、京子の口角がヒクリと下がる。

「おや?聞き捨てならないんじゃないのかい?そもそもアレは八重くんの作戦さね。そろそろ言ノ葉ちゃんも気付いても良い頃だと思うんだけれどね」

言ノ葉と京子仲の良い二人はバチバチと数秒視線を交わした後、信吾と言ノ葉は揃って二人は階段を降りていく。

文化祭以降、二人の距離はグッと近くなった。仲が良いとも違うが、お互いに遠慮が無くなったのだろう。

八重は八重で、『荒木京子』との距離が近くなった。きっと二人にも似た様な事があったのかもしれない。

今日も八重は京子からの誘いで一緒に絵を描いている。

画材を用意し座る椅子を持って来て、自分のスクールバックから筆箱を取り出そうとして無い事に気が付いた。

「すまない京子、筆箱を教室に忘れてしまったようだ。取りに行ってくるから先に始めていてくれ」

急ぎ足で別棟から本棟ヘ移動し、一階を通り過ぎる途中に信吾と連れ立って歩く言ノ葉が校門から出て行くのを見たその直後――

八重は最後となるであろう。左目に痛烈な痛みを感じていた。

言ノ葉の後ろに続く様に見えたのは、黒いフードを被った男。

見覚えのある横顔は随分と痩せ細り窶れている……

あれはまちがい無く『駒沢教諭』の姿があった。

仲が良くなった二人……

特別な関係

それはつまり

「あぁ、そういう事か……」

確信し得て走り出そうとしたその時、八重は異常なまでの急激な眠気に襲われた。

「……あぁ、そうか。……俺は毎度、ここで戻るのか」

最後の後悔を忘れる事は、即ち十七歳の『大見八重』戻るという事だ。

そして今、記憶の最後のストックである後悔が失われつつある。

立ち上がれない。足に力が入らずこの状況を見ている事しか出来ない。

記憶が失われるというのはつまり、今この場に居る『大見八重』が失われ元の『大見八重』が戻って来るという事に他ならない。

だがその間にも駒沢教諭は、向かう歩幅を大きくさせ二人への距離を縮めて行くのに対し前を歩く二人は後ろから来る駒沢教諭に気付かず、楽しげな横顔が張り付いている。

声を出すか?いや、チラリと見えた駒沢教諭は手元に何かを握っていた。

今大声を出せば、信吾が駒沢を止められなかった場合誰も言ノ葉を守る事が出来ない。

それどころか共倒れになれば目も当てられないだろう。

ならどうするか?

失われて行く思考の欠片が、最後の崩落を迎える前に……

何時か見た、この後悔を信吾にも背負わせてしまう訳にはいかない。

「これしか、手はないか……」

八重が見たのは、かろうじて震える手で持った携帯だ。

思い出も会話も、写真も全てが詰まった思い出の箱。

だが……

そう『だが』だ。

一ヶ月という連ねた時間が『大見八重』の一生と比べるべくも無く大切になってしまったという事実は自分に嘘を連ねたところで、今更隠せる事じゃない。

しかし、今を生きているのは三人だ。

その中にこの『大見八重』の居場所はない。

居場所のないこの場所で新たな後悔を抱えてしまうぐらいなら、諦めの悪い八重はその最後の可能性に掛けるしかない。

最も単純で簡単な発想だ。

忘れてしまったのなら、思い出せばいい。

消えてしまうなら、継ぎ足せばいい。

『大見八重』という穴の空いた容器に、『今』というこの一瞬を補える暇さえあればそれでいい。

最後の欠片を手放したのなら、他の欠片で補えばいい。

それがたとえ、この『大見八重』の大切を壊してしまう結果になったとしても、手放す為の一欠片を八重はもう既に三人から貰っているのだから。

記憶の逆流の条件は、現状を『手放す』事だ。

だからこそ『太田信吾』との仲を手放したままにしていた八重は、常時記憶の洗礼を受け続けて来た。

三人との一ヶ月の生活の中で八自然に手放した『大見八重』の八年間の記憶の欠片。

それは『荒木京子』と『硯言ノ葉』そして『太田信吾』が『大見八重』に与えてくれた生き残る為の未来。

その一欠片を、今此処で返す時が来た。

八重は左目の疼きを感じながら携帯の画面を開き、そのグループ名を表示する。

数多く、無数の温かな輝きに満ちた四人だけの思い出の所在が八重の最後の切り札となる。

画面の向こうにある三人と八重を繋ぐ大切な八重の繋がりで、八重が決して手放したくないと思っている四人で居るための証。

命と同じ程、大切な命を守る為に、今……

「ありがとう」

一言の逡巡と躊躇いの後、八重はそのボタンを押した。

『life for reversibles』大見八重が退会しました。

凄まじい左目の激痛と共に左目から血液が噴出する。

同時に思い出すのは、一番最初に手放した記憶。

つまり、硯言ノ葉を助けた際に抜け落ちた記憶だ。

淡い感情と共に想起されるのは、当時十七歳の『大見八重』好きだった人物の名前。

「すずり……言ノ葉……そうか、俺は好きだったのか……」

僅かに灯る最後の種火が消えない内に、八重は力を込めて、その人物を目指す。

直に見つける事が出来た。何も気付かず前を歩く言ノ葉と信吾は後ろに近づく人物に気付いていない。

一歩、息も絶え絶えにその距離を詰める

二歩、その男は狂った様にニタリと笑った

三歩、それは鈍色に光る人の命を奪う鋭さを持った代物だ

四歩、止めるにも手段が無い、八重が覚えているのは彼女の名前だけ

五歩、戻した筈の記憶がまた欠けていく

六歩、記憶にある皆の思い出の中にその答えはある

七歩、忘れてはならない

八歩、好きだった彼女名前だけは……

九歩、当時好きだった彼女は、あの時、目の前で刺された

十歩、だから今度は、無力でも前に出ると誓った

あの十月一日の早朝に戻った訳は、きっとこの時のためだった。

狂わせた時間は今、正常に戻ろうとしている。

あの戦場に向かうための理由が今もまだここに燻っているのなら、きっとこれは自分自身の為の行動でもあるのだろう。

決して良いとは言えなかった八重の人生に胸を張れるまでにしてくれた友人との繋がりを失ってしまうぐらいなら……

今、険しい一歩を踏み出すとしよう。

『なぁ俺?今も昔も変わってないって、お前と俺の一番付き合いの長い友人からもお墨付きを貰ってる。だから、いいよな?ここが最後の俺の役目でも』

あの頃の臆病な自身に尋ねてみても返事がなくとも、後悔を知っている今の八重は間違いなく今の『大見八重』の延長線上にいる『大見八重』に違いは無い。

『俺はお前で、お前は俺だ。あの時の後悔をずっと忘れられなかったあの時の俺が今のお前にしてやれる事……』

きっとあの頃の俺なら、これから来る未来に顔を顰めて受け入れたのかもしれない。

俺がそうだった様に、此処にあるべき傷を知らない『大見八重』は『青春』を知らないが故にきっと後悔をするのだろう。

『知ってたさ、だから俺は今此処に居る。だからこれが終わった後はお前に返すさ』

最後の一歩を踏み出した途端、焼け付く様な痛みが腹部をじんわりと伝わって来る。

命を絶つ鋭さが言ノ葉に触れる刹那に、八重は突き飛ばす様に合間に割って入った。

だからこそ、彼女は無傷で八重の腹部には一本の鋭さ今も突き刺さったままになっている。

「言ノ葉……すまない……また……擦りむかせてしまったな……」

「あっ……え?なんで、やえくん……?」

何が何だか分からないと、混乱していた言ノ葉は八重に突き刺さったままになっている一本を見て現状を理解した。

「あっ……あぁ!何で……?駄目だよ!駄目だよ!八重くん!こんなの!私……そんな……」

腹部を刺されたままに、掴み掛かろうとする駒沢教諭の腕を強引に振り払い八重は言ノ葉を駒沢教諭から庇う様に立ち塞がる。

ギラギラと光を失わない駒沢教諭の狂気を宿した瞳は、自身の思い通りにならなかった結果と八重の乱入によって更に激しさを増していた。

「まだ……だ!信吾!駒沢を押さえ付けろ!」

八重の叫びに、駒沢教諭は奇声を上げて更に前に踏み出し拳を振り上げた瞬間、状況を理解した信吾は既に駆け出していた。

「尻軽女がァ!お前が!俺を裏切ったんだ!」

くぐもった唸りと共に言ノ葉目掛けて振るわれた駒沢教諭の拳を、信吾は真正面から受け止めると、信吾はこれ以上ない冷ややかな視線のまま、全体重を乗せて駒沢教諭をアスファルトの地面に叩き伏せた。

地面に押さえ込まれた駒沢教諭は、一回り身体の大きい信吾に押さえられている為に、身動きが出来ないが、それでも拘束から抜け出そうと暴れ回っている。

「アンタ何してんだよ……」

淡々とそれでいて悲しげな信吾の口調に、駒沢教諭は次第に冷静さを取り戻し、野次馬が四人五人と集まった頃には、踞って泣くばかりばかりとなった。

押さえ付けていた信吾は、騒ぎに駆けつけて来た教員数名に駒沢教諭を引き渡し、壁にもたれ掛かる八重に駆け寄って来る。

「八重……これでいいんだよな?」

「あぁ、これでようやく……終わった。……これで、俺は終わる事が出来る……」

寒さと暗さが同居する視界が鎌首をもたげゆったりと八重を眠気に誘えば、八重は立っていれないと地面に座り込む。

何やら叫ぶ言ノ葉の声が聞こえるが抗い難い眠気は聞こえる筈の声すらぼやけていく。

「済まないな。やはり消えると分かっていても消えたくはないものだ。……お前達と、もっとずっと一緒に居たかったが……ここまでだ」

左目から流れる流血が完全に止まり、その痛みも徐々に引いて行くと八重の感覚に残されたのは、腹部の痛みと多量の出血による不快感だけだ。

やがてその不快感は目眩へと変わり、混濁していく八重の意識は限界が近い。

「今だから言えるが……お前達にはずっと感謝の日々だった……楽しかった……」

「おい!しっかりしろよ!おい!八重って!」

一際大きな声は間違いない、信吾のものだろう。

その声の主の頼もしい身体を、最後の力で強引に引き寄せる。

「信吾、教室での約束を……覚えているな?俺の居なくなった後、二人の……これからをお前に任せた。……出来れば、十七歳の俺の事も……よろしく頼む」

八重が残した最後の願いは、掠れた声を伴って信吾の耳朶を打つ。

「お前は何時も、他人の事ばっかじゃねえかよ……」

「そう……そうかも、しれないな。だが……俺は、友人のお前に頼みたいんだ。頼まれてくれるか?」

八重には似合わず、強引でいて弱々しい声に信吾は安心させる為にも、目一杯の力で八重を抱きしめた。

「……分かった、俺はずっと……お前の友達だ!」

信吾の腕の内で事切れるかの様に、ゆったりと瞼が降りると同時に、八重の視界は何時かの懐かしい黒一色に染まっていった。

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