第25話 10月25日
十月二十五日土曜日。
寝不足の八重は思い思考を引きずりながら学校へと赴いた。
動く度に昨夜から飲み続けているブラックコーヒーの味が妙に胃を刺激し、今しがた飲んでいたエナジードリンクとのミスマッチなブレンドの味が口の中に広がっていく。
そういえば、あまり優等生ではなかった八重は試験期間中はずっとこんな生活を続けていた気がする。
文化祭会場になっている本棟は人でごった返しているが、機材置き場となっている別棟は人はおらず、いつも通り閑散としていた。
八重が向かうのは四階、屋上前踊り場である美術部の部室である。
「やぁ……八重くん、元気かい?」
「ああ、どうにか元気だが、京子も元気か?」
「言うまでも……ないさね……筆が……筆がぁ、踊る様さね……」
「それはなによりだな」
京子もあれから一睡もせずに絵に集中している為寝不足が酷いのか、目の下に青白いクマが出ている。
「どうだ?絵は完成しそうか?」
「まだ、時間が掛かるねえ……今日中には終わるとは思うんだけれど……」
「そうか、なら終わるまで、此処にいるとしよう」
京子はただ一言『そうかい』と言ったっきり、絵にのめり込んでいく。
今は何に気を取られるわけにもいかないのは、二人に共通した状況だった。
八重は酷い眠気が襲っても、今は眠る訳にはいかない。
この絵を見るまで眠れない理由がある。
今の八重を動かしている動機は極々シンプルで、それこそ手に書いて収まる程度の物だった。
八重は確かめる様に手に書かれた文字を見る『後悔と絵、忘れるな』
この文字の意味が理解出来る内は眠れない。
眠ればきっと、何方かを忘れてしまう。
何方かを忘れてしまえば、京子の望む答えを見失ってしまうだろう。
文化祭一日目の朝から昼。昇降口からは大きな賑わいが伝わって来るが、そんな雑音程度では八重の眠気を遠ざけるには至らない。
眠気覚ましの頼みの綱であるブラックコーヒーとエナジードリンク、それから口に爽快感を齎すタブレットだけが八重の眠気の限界を若干ながら遠ざける。
二つの足音が、四階に近づいて来るのが分かるが、誰が来るかは分かっていた。
グループ『life for reversibles』に言ノ葉からの連絡が入っていた為、八重はグループに四階に居る旨を伝えていたためだ。
「八重?って!お前どうしたんだよ!大丈夫か?酷い顔してるぞ!」
「昨日私に告白してきておいて、今日は何やってるのかと思ったら、京子の所にいるなんて良いご身分ね……っていうかアンタ本当になにしてるわけ?」
四階は京子が集中しているため、3・5階部分にいた八重の前に言ノ葉と信吾の二人は現れ、八重の顔を覗き込むと同時に顔色の悪さと疲労の色にたじろいでいた。
「……というか、なにこれエナジードリンクとコーヒー?これ八重くんが全部飲んだの?」
言ノ葉は辺りに乱立する異常なまでの空き缶の数に怪訝そうに八重を見つめる。
「八重くん、アンタいつから寝ていないの?」
八重は、重くなる瞼を遠ざける為に、手に持ったコーヒーを一啜りして、言ノ葉の質問に答えるつもりはないとタブレットを一つ取り出し奥歯でガリガリと咀嚼する。
「アンタの行動って一貫性がないのよ、だから誰も理解できないし、八重くんを見た人は八重くんの優しさを知ってる数だけ嫌になる。もういいでしょう?」
兎に角休ませる為に無理矢理に八重を立たせようとして、言ノ葉が腕を引っ張り上げると八重の手のひらに書かれた文字が視界に入る。
「後悔と絵?何この文字?どういう意味?」
靄が掛かった視界と思考で八重は手のひらに書かれた文字を隠す事も忘れ、ただ使命感から掴まれた腕を乱暴に振り解く。
「後少しなんだ……今は俺の事は放っておいてくれ」
だが更に視線をキツくした言ノ葉は八重への追求を弱める事はない。
「ねえ?この手に書いてある『忘れるな』ってどういう意味?」
「だから後少しなんだ。それまでは忘れるわけにいかない、俺は……」
起きながら魘されている八重の言葉に、言ノ葉は意味が分からないと言いたげだが、あの放課後を知っている信吾はその言葉の意味を理解した。
「八重……お前もう、忘れ……」
信吾から零れ落ちる言葉を途中で止める為に鬼の形相を浮べた八重は瞬間的に口を塞ぎに掛かった。
「こっちに来い!」
幸い、四階で集中していた京子に今の言葉は聞こえていなかった様子だが、危うかったのは間違いない。
八重は寝不足の危うい足取りで階段を降り、三階の空き教室へと二人を押し込むとその扉をしめる。
寝不足から後ろ手に閉めた扉には、思いの外力が入り、激しい音が別棟に鳴り響く。
八重は後ろ目に扉が閉め切っているのを確認し信吾へ頭を下げる。
「今だけは何も言わないでくれ。信吾……頼む」
「ねえ!どういう事!八重くんちゃんと私にも分かる様に説明して!」
言ノ葉は八重の腕を掴み彼の身体はこんなにか細かっただろうかと思う。
それは今の寝不足の彼の頼りない姿がそう思わせるのか、それとも最も別の要因がそうさせるのか……
八重が此処に居るのに、不安を拭えない言ノ葉はただ縋り付く事しかできなかった。
「どういうことなのよ!八重くんは私を守ってくれるんじゃないの?」
「お前はもう大丈夫だ。だから、俺はもう直きに此処から居なくなる。今の俺が覚えているのは、何故此処に戻って来たのかという事と、京子の絵の内容だけだ。だが、それもいつまで覚えていられるか分からない」
「私が大丈夫ってなに?八重くん、なにをしたのよ?居なくなるって一体どういう意味よ!」
それでも取りすがる言ノ葉と諦めた様な信吾に、八重は微笑みを返す。
「何も心配する必要はない。あるべき物はあるべき場所に戻るんだ。誰のせいでもないだろう」
「そんなの納得いかないわよ!」
言ノ葉が何かを言い掛けたその時、ピイポンパンと呼び出しのチャイムが鳴り響く。
『文化祭実行委員、硯言ノ葉さん、並びに太田信吾くん、大至急第一会場設営までお戻りください。繰り返します……』
「呼ばれているな。お前達はお前達にはお前達のやるべき役割がある。そして俺は俺の……最後の役割を果たす」
決意を宿した瞳の八重を前に二人は何も言う事が出来なかった。
止める事も進める事も、勇気づける言葉さえも、今の八重に掛ける言葉が見つからない。
八重が3・5階の定位置に戻って行くのを、二人はただ黙って見送る事しか出来なかった。
眠気と身体のダルさは時間を追うごとに厳しさを増していたが、戦場で感じた寒さに比べれば耐えられないもではない。
昼も取らず、黙々とその場に座り眠気を遠ざけ続けていれば気付けば夕方になっていた。
夕日の赤が歪みを帯びて八重の瞳映った頃、京子はもう描く場所がないと筆を置いた。
「……ようやくできた、さね」
感嘆と疲れ、そして充足感に支配された脱力が京子の背中を象っている。
待っていた呼び声に、手に持っていた最後のエナジードリンクをひっくり返し、廊下を汚すが今は掃除より優先すべき事がある。
「……ついに終わった……のか?」
この世界で唯一の約束。八重は手の平に書かれている文字を今一度確認する。
「遂に終わったさね……見ておくれ八重くん。これが向こうの私を超える作品さね……」
双方、死力を尽くした不眠という精神の削り合いには意味があった。
夕日が赤いにも関わらず、顔色の悪さが互いに際立つのは執念の為せる奇跡だ。
ヨタつく足下で、確実に階段を上がって行き、京子の隣に立ち並ぶと、淡い青の疼痛が左の瞳に刺し込んだ。
前々日に見た作品には感じなかったこの痛みは、間違いなく、彼女が知らぬ向こうの彼女を超えた証でもある。
だが何より、八重が今まで見たどの作品より京子の描いた目の前の作品は、美しく輝いていた。
ああ、これはどうして……
全くどうして、八重が後悔を残すまでもない……
絵の優劣を決めてしまうには惜しいと思わせる。
記憶にある『荒木京子』の絵と
今目の前にある『荒木京子』の絵
前回の荒木京子の絵が一変の曇りのない美しさであるなら
目の前のこの絵のは、雑多な汚さが目立つ人間臭さが際立っている。
人と人との関わりが入り乱れる孤高の天才とは程遠い、親友の存在価値を証明する為に注がれた心血は、間違いなく綺麗な色ではないのだろう。
足掻く為の絵、それが『荒木京子』が唯一見つけた答えだ。
「ああ、そうか。お前はちゃんと抗ったんだな……」
期せずしてその言葉が出ていた。
比べるべくもない。来るべき時間の中でたった一度のチャンスをものにして見せた『荒木京子』は抗い損ねた今の『大見八重』とは雲泥の差だ。
だから、八重の浮べる表情からきっと答えは問われるまでもない。
「フフッ……やったさね……」
京子はそう言った瞬間緊張の糸が切れた様に八重に撓垂れかかり、八重は間一髪の所で京子を抱きとめた。
見れば幼子の様な寝顔で静かに寝息を立てている。
次いで八重も自分の視界が揺らぐのが分かった。
抱きとめた京子を傷つけないよう、壁にもたれ掛かり、ゆっくりと地面に腰を落ち着ければ、忘れていた怒濤の眠気が襲って来る。
だがもう抗う必要もない。
たとえ忘れてしまっても、ここでの勝敗だけは覚えている。
最後の戦いを終えた八重はゆっくりと受け入れる様に重い瞼を閉じたのだった。
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