第22話 10月22日

十月二十二日の水曜日。

夕暮れの時刻が終わろうとする秋の空は、つい一週間前に溜まっていた暑さを吐き出したのか、急激に気温が下がり街を取り囲む冬の前触れは上着を羽織らなければ肌寒さを凌げない。

校舎内の人気は部活に勤しんでいる生徒が殆どで、そんな一人に紛れ八重は別棟四階から校庭を見下ろしていた。

中野校舎には体育館はあるものの、校庭の広さは極々僅かで、信吾の所属するバスケ部は今も薄暗い校庭で忙しなく運動を続けている。

薄暗くなり始めた現在時刻は十七時二〇分を回った頃だ。

部活最終終了時刻は十八時半だが、ライトアップがない校庭では十七時半には部活を切り上げている。

後一〇分で終了するバスケ部を八重は、京子と言ノ葉の居る屋上四階の踊り場で待っていた。

「そろそろ行って来る。今日は俺を待たずに言ノ葉と京子の二人で帰宅してくれ」

「了解さね。八重くんさえ良ければまたいつでも来ておくれ」

京子本人曰く未だにスランプの真っ只中との事だが、最近は休む暇なく絵にのめり込んでいるので絵の完成の心配はする必要はなさそうだった。

八重は最後の挨拶を済ませると別棟の階段を下り一階へ、適当に見繕った飲み物を購入し本棟三階にある薄暗くなった教室で待機すること数分、教室の扉が開かれる。

少し茶色がかった髪に、見慣れた快活そうな瞳。

廊下で喋る信吾の声は、ここまでハッキリと聞こえてきていた。

「信吾、こんな暗くまで練習とは精が出るな」

誰も居ないと思っていた教室に入って来た信吾だが、人影のそれが八重だと分かるとあからさまに表情に影を落とす。

「……よう、どうしたんだよこんな時間まで……八重も部活に入ったのか?」

信吾はマネージャーらしき女子生徒と共に、クラスへと入って来たが、廊下で話していた声のトーンよりも明らかに声が小さくなっていた。

「部活か……それも悪くはないが、今の俺が入ると迷惑が掛かるからな、入るとしても少し後になるだろう」

「……お前の言ってる事時々意味分かんねえよ。って言うか部活もないのになんでこんな時間まで居残ってんだよ」

「分かる様に説明するのはもう少しだけ先だ。それから俺が今此処に残っている理由は、お前と話をする為だ」

実直な視線で信吾に訴える八重だが、信吾は半ば投げやりな態度で片手を振って見せた。

「わりいんだけど、俺これからまだミーティングがあるから、今日は無理だわ。また今度にしてくれよ」

誰が聞いても言い訳だと気付く事が出来る信吾の言い分に、今日の八重は決して首を縦に振る事は無い。

「ミーティングが一時間も二時間もあるわけでもないだろう?ここ一週間バスケ部のミーティングを見て来たが、平均一〇分と掛からず終わっている。それぐらいであれば俺は此処で待っている。信吾はバスケ部のミーティングが終わり次第教室に戻って来てくれれば良い。それとも俺がそちらへ出向いても構わないが?」

無言で八重を見据える信吾が言いたい事は、八重には何となく分かる。

今日は出直し他の日に、そうして先延ばしをして友人としての関係の修復を待つのも一つの手段なのかもしれない。

だが八重はそれを分かっていても、曲げる訳にはいかなかった。

無言同士で視線を交わすが、それ以上先に進まない。

「あの……」

数秒の無言の合間に、鈴を鳴らした様なか細い声が響いた。

信吾の後ろから歩みでたのは、バスケ部のマネージャーの女子生徒である。

「あの、大見八重さんですよね?全校朝礼で同学年の女子生徒を助けた……」

「……ん?キミは誰だ?」

八重は何故か彼女の顔に見覚えを感じていた。

何処かで見た……

いや、誰かに似ている?

「あっ……私一年でバスケ部のマネージャーをしてます、太田 楓って言います。お兄ちゃんが何時もお世話になってます、八重さん!」

『太田楓』それは『太田信吾』と同じ苗字で、何故か二人は明るめの髪色と纏う雰囲気がソックリだった。

「信吾……驚いたな。俺も知らない人間関係があったとは……」

八重は素直に驚いていた。

信吾に妹が居るなど、過去を知る八重も一度として耳にした記憶が無い。

「……はぁ、基本ウチの妹と俺は学校内では赤の他人同士で居るからなぁ、ただお前の事があってから妙にお前の事を紹介しろ紹介しろって、こいつがうるせえんだよ」

知る筈のない人間との邂逅。

つまり、此処にも八重がこの世界に訪れたズレが生じているということなのだろう。

「そうか、信吾が以前言っていた紹介して欲しいと言っていた女子とは身内の事だったということか。成る程それでは迂闊に紹介出来ない訳だ。」

「まぁ、他にも、紹介してくれくれって言ってる奴も、居るには居るんだが……今のお前は別に、今は何も困ってないだろ?」

「困っていたら紹介してくれるという口ぶりだな?」

「そりゃ友達が困ってたら助けるのは当たり前なんじゃねえの?」

やはり信吾は変わらない。

十七の時何度彼に助けられただろうか?

いつも、いつも『太田信吾』という人間は『大見八重』という頼りない人間を助けてくれた。

「すまない信吾。俺は結局……」

「なんだよ、深刻そうな顔して……どうしたんだ?」

人生の最後に、誰かを頼るならきっと八重は迷う事無く『太田信吾』を頼るだろう。

遠回りも駆け引きも、言葉の釣り合いも、友人相手にするのは意味が無い。

だから今は、思いのまま言葉にするだけだ

「頼む助け欲しい。俺には信吾……お前が必要だ」

「ちょっ!八重!お前!こいつの前でそういうこと言うなって!」

「だが!事実だ!俺にはお前が必要だ。俺には信吾しか頼れる人間が居ない。だから頼む、信吾の力を貸して欲しい」

信吾が焦り、信吾の妹である楓は何故か顔を真っ赤にして、口元を抑えていたが、八重の伝えたい事は伝わっただろう。

「お兄ちゃん!ミーティングは私が上手く誤魔化しておくから!お兄ちゃんはゆっくり八重さんの力になってあげてね!」

「すまない楓。この恩には必ず報いよう」

楓は、パッチリとウィンクを返し、八重に向かって親指をグッと立てると大きく頷いて見せた。

「じゃあ、八重さんのそれも楽しみにしてますね!お兄ちゃん、もう逃げないでちゃんと八重さんの話を聞いてあげてね!それから正直、お兄ちゃんに家でもそんな顔されてると、めっちゃウザいから」

最後の一言だけは妙に凍える響きを伴った辛辣な一言の置き土産は、信吾の精神をゴリゴリと削ったのは間違いなかった。

あらゆる部活動が終了を始め、束の間の活気が校舎内に満ちる中で、八重は言葉を切り出した。

「信吾。今日お前と京子の間にあった一年前の話を京子から聞いた。お前はその時から京子の事が好きだったのか?」

部活の終わる待ち時間の間、言ノ葉と共に別棟四階屋上踊り場に居た八重は、一年前の文化祭前の話を京子の口から聞いていた。

そして、真夏日のあの日に何が起きて急に信吾が帰っていったのかも聞いていた。

「分かんねえや……つうかさ、正直もうどうでもいいんじゃね?別にそこまで本気だったわけじゃねえし、八重がそんなに気にする事でもねえじゃん」

「それは違う。人の心は何より大切にすべきだ。それが移ろい易いものであろうと、忘れ易いものであろうと蔑ろにしていい理由にはならないし、俺はそれを蔑ろにしたいと思わない。たった一人の友人が抱いたその気持ちを、俺は決して馬鹿にする事はない」

僅かに沈み切らない薄暗闇の中で信吾の表情が歪むのが分かった。

「馬鹿にしねえって言ってもさ!俺がお前達と居るの厳しいんだわ……だってお前ら普通じゃねえじゃん。正直もう、付いていけねえよ」

「俺と言ノ葉が特異的な事は認めよう。だが京子は普通だ。繰り返しをした訳でも、未来を知っている訳でもない。普通の十七歳の少女だ。だからこそ信吾が必要なんだ」

「だから!それが俺じゃねえんだって!ああ!もう!ハッキリ言わなけりゃ分かんねえのかよ!」

それでも律儀に名前を出さないのは、信吾の理性がギリギリでそれをさせないからだ。

京子が好きで、思い出があっても届かなかった信吾の想いは、拠り所がなく浮いたまま目の前の八重に苛立ちとなって募っていく。

「それでも、俺では駄目なんだ。この場所に居るべきなのは信吾と京子、生き残った言ノ葉と十七歳の大見八重だ。俺じゃない……」

夕日が完全に沈みきりお互いの表情さえ伺えないが、声だけで何方も切迫した心情だという事だけは読み取れる。

「なんだよ……なんだよそれ!まだそんな事言ってんのかよ!そんな言い訳もう好い加減に聞き飽きてんだよ!お前はここで生きてるんだろ!十七歳でも!二十五歳でも!八重は八重だろうが!」

だから信吾はあの時諦めようと心に決めたのだ。

だが八重はそれをまた穿り返す様に、信吾へ言葉を重ねていく。

「違う、そうじゃない……俺は」

「もう、好い加減にしてくれよ……お前は年上だからそんな風に言えるのかもしれねえけどさぁ……こっちはもういっぱいいっぱいなんだよ。お前が俺の事を買い被りすぎてるだけだろ?俺は別になんもできねえんだよ……」

「だから違う!そうじゃないんだ!」

「もう放っておいてくれよ、今はお前と話したい気分じゃないんだよ……」

立ち去ろうとする信吾の進路を阻む様に、八重が前に立ちはだかった。

「待て信吾!俺の話を最後まで聞いてくれ!」

「勘弁してくれよ!お前と話していると、俺が惨めに思えてしかたねえよ……」

掴んだ腕を振り解こうと、撓らせた信吾の腕を八重は絶対に離さないと全力で握り込んだ。

「駄目だ、今日でなければ明日、明日も駄目ならその次の日も!俺は此処で信吾を待つだろう!そしてきっと同じ様に信吾は明日の明日にこの話を持ち越すのかもしれない!それはお前の為にも誰の為にもならない。先送りは結局、痛みから目を背け、痛みを明日の自分ヘ擦り付けているに過ぎないんだ。痛みを感じないようにする事を生きているとは言わない!痛みを知る事は生きる事だ。お前も俺も今を生きている筈だ!だから頼む!今、俺の話を聞いてくれ……」

「……なんだよ、お前本当に何なんだよ意味分かんねえよ……」

八重が焦っているのは明白だった。

何よりこんなに強引な八重を信吾は知らない。

「すまない、混乱させてしまっているな。だがそうせざるを得ない程、俺も焦っている」

「焦るってなんだよ……お前さっきから何も具体的な事喋ってないだろ」

「それも……すまない。だが今は喋る事が出来ないんだ」

「最後まで聞けとか言ってるくせに!喋る事が出来なら俺に何を話すんだよ!お前今言ってる事滅茶苦茶じゃんかよ!」

「だが!あの二人には信吾が必要だ!」

「だから!さっきからそうだけどさ!お前そればっか言ってるけだけで!自分の事なんも喋らねえじゃん!そんなんずりいよ……昔っからそうだったけど、最近の八重は特にひでえよ!そんなお前にどうやって俺が協力すりゃいいんだよ!」

信吾の感情と呼応するかの様に……

八重自身が立っている事が困難な程、左目が燃える様に熱い……

この痛みは、覚えている。

最後の瞬間に見た……

こちらを見下げていた染みの様な黒影が、今尚八重の瞼の裏に張り付いて八年後の向こう側から見つめている。

きっとここが『太田信吾』との関わりこそ、八重の運命の分かれ道であろう事は痛みの走る左目がよく知っていた。

激しい痛みに抗いながら、暗闇でも分かる充血した左目を無理矢理に開き、八重は信吾を見る。

「すまない……だが!これだけは言えない!だが戻って来てくれ!俺にはお前達三人がどうしても必要……なんだ……」

痛みを堪え、八重はどうにか信吾をこの場に繋ぎ止める。

「戻るって、何処に戻るんだよ」

「簡単だ……共に時間を過ごそう。一緒に昼を食べ、鬱陶しい程に連絡を取り合って、同じ場所で過ごし、笑い……泣き……喜びも、思い出も分かち合おう。そうして……お前達が大人になった時に……その横の青春に」

八重が言葉を絞り出し、信吾は信じられない物を見た。

それは暗闇の八重の目元に少しだけ光り、流れた雫が頬を伝って床へと落ちた。

「俺を思い出してくれ……」

八重が流した涙だと理解するまでに、信吾は数秒の思考が必要だった。

「八重……?何でお前が泣いてんだよ……それに、思い出してくれって、お前何処か行っちまうのか?」

「頼む……それ以上は、何も……聞かないでくれ」

痛みに耐えられなくなったのか八重は左目を抑え次第にその場に崩れ落ちて行く。

八重が抑える指の隙間からポタッ、と何かの液体が滴り落ち信吾はその液体が透明な涙でない事に気が付いた。

「八重……お前これ……なんだよこれ!血じゃねえか!おい!どうしちまったんだよ!八重!」

「最近では……珍しくもない……お前が戻らなければ、俺はずっとこんな調子だ」

八重は左目から伝った液体を手の甲で拭えば、血液で塗りつぶされた赤い一線が頬を飾っていた。


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