第21話 10月21日

十月二十一日、火曜日。

信吾を除いた三人は、別棟四階の踊り場から見える夕日を、何をする訳でもなく眺めていた。

秋という事もあり、学生の一日を終わらせる夕暮れは心無しか早くやってくる。

隣にいる言ノ葉は、飲み終わったストローを何度も奥歯で噛んでは、空になったコーヒー牛乳の紙パックを膨らませたりと、手持ち無沙汰を誤魔化しているが、八重は正直な所、何もしない時間が嫌いではなかった。

いや、この時間に関しては好きだと言っても過言ではない。

何もする事がないという事は、なにも起こっていないという事だ。

何も起こっていないという事は、即ち平和であるという事だ。

そして、八重は平和が好きだった。

悪くないと、そう思う。

小銃を抱えて追い回す事も、追い回される事もない静けさは、何よりも八重にとって贅沢な平和そのものだった。

「これが、青春か……」

八重が夕日を正面に見据えながらそう言うと、言ノ葉かったるそうに口に咥えていたストローをタバコの様に指に挟み込む。

「ずっと黙り込んで何を言い出すか思えば、こんなのが青春な訳ないでしょ。そんな事言ったら隣に住んでる山本のお爺ちゃんとお婆ちゃんだって青春してる事になるわよ」

ただ一人、暇という不満を露わにしている言ノ葉だけはなにもしていないこの状況が気に食わないらしい。

物には好き嫌いがある様に、この平和にも好き嫌いが分かれるのだろう。

そして、もう一人。

画材に向かいながらも、全く筆の進まない京子が二人の会話を聞いて、睨み合っていた描きかけの絵から顔を上げた。

「ねえ八重くん、青春てなんだろうねえ。私にはトンと理解できないんだよ」

京子の言うそれは思春期特有の悩みと言った所だろう。

だが、そもそも京子がそんな事で悩むのが珍しい。

ただ、京子が悩んだとしても、答えを求めている内は答えが出ないのが青春である。

そして歳を取り、あの頃はと振り返った時にこそ、青春という答えは見えて来るのだ。

「答えを知りたい時に答えを知る術がないのが青春だ。きっとこの日々を終えた後、日々の忙しさの間に思い出すこともあるだろう」

「……そうかい?じゃあ、八重くんの青春はなんだったんだい?」

「俺の青春か……そうだな……」

目の前で沈んで行く夕日を見ながら朧げに思い出す八年前の記憶は穴だらけだが、まだしっかりと覚えている。

「一言で言えば繰り返しだろう。意味のある事も、意味のない事も、同じ事を、同じ様に、繰り返した日々だった」

思い出すには、退屈で、捨てるにはあまりに感慨深い、誰に共感出来る事もない八重の青春だ。

「アンタの青春、退屈そうね」

言ノ葉が一笑符にするのも頷ける。

京子は聞いた手前気を使ったのか何も喋らないが、表情から察するに概ね同じ結論なのだろう。

「退屈だったのは事実だ。信吾や京子の様に部活に打ち込む事も、言ノ葉の様に抗いたい困難があった訳でもない。山もなく谷もない、平穏と言えば聞こえはいいが人様が聞けばきっと退屈という言葉がしっくりくるんだろうな」

ハラリと落ちる秋喰いの風の行く末を窓の外で見送りながら、誘導される様にクラブ活動に勤しむ生徒の中に信吾の姿があった。

そして、隣に居る言ノ葉も八重の視線の先に信吾を見つけた。

「八重くんと太田くん、今も昔も仲良かったの?」

「ああ、仲は良かったさ。信吾は退屈な俺の青春の中でも信吾は俺の特別名存在だ。アイツだけは退屈な俺と共に時間を過ごしてくれた唯一無二の友人だった。今も昔もアイツだけには借りを作ってばかりだ」

視線の先で今まさに懸命に汗を流す彼の姿は、何時見ても八重には眩しく見える。

思い返せば幾らでも信吾へ礼を言う理由を並べる事が出来るが、いざ八重が礼を言えばきっとそれは違うと照れながら否定するに決まっている。

知っているのは八重だけだが、それが八重にとってはもどかしくもある。

「言ノ葉や京子からすれば、信吾は騒がしくて落ち着きのない奴に見えるのかもしれないが、アイツは真っ直ぐに人に向かう事が出来る人間だ。それは誰にも得難い才能で、こと俺には絶対に出来なかった事だったのは間違いない」

「それって、八重くんが知ってる私が居ないでの話かしら?」

言ノ葉がチラリと後ろに居る京子へ視線を飛ばす所を見るに、どうやら八重の言いたいとしている事に感づいたらしい。

「その通りだ。お前の居ない場所、時間で、信吾は俺に出来ない事をした。それは俺だけが知っているのが惜しいと思う程の大きな成果だった様に俺は思う」

八重は、見つめていた窓から離れ、階段中央踊り場へ視線を移せば、今尚絵の作成に心血を注ぐ京子の姿があった。

そう、この時期このタイミングで『太田信吾』と『荒木京子』は晴れて恋仲になっていた筈なのだ。

だがどうだ?現在こうして『荒木京子』は八重と言ノ葉を含めた三人で四階屋上踊り場に居て、絵を描いている。

これは言ノ葉が生き残り、そして八重が居るからこそ変わってしまった未来だ。

そして、太田信吾の望みを潰してしまった未来でもある。

「八重くんが何を言いたいのか何となくだけど分かった。でもそれって……」

「そんな事は、分かっている」

言ノ葉が言葉の続きを吐き出す前に、八重は自らの中に蟠った言葉を被せる事で答えとした。

その言葉を、『硯言ノ葉』の口からだけは言わせる訳にはいかなかった。

だからもう一度念を込めて呪い用にその言葉呟いた。

「分かっている……そんな事、分かっているんだ」

八重は期せずして、言ノ葉の生き残りたいという望みを叶えてしまった。

それは自身の後悔という望みであったのは間違いない。だが期せずして在るべき『太田信吾』の来るべくして得られた筈の望みを消してしまったのもまた事実だ。

「俺自身が望んで得た結果に対して、次に俺が選べる選択肢を持ちえていない。……きっと、この考え自体が俺自身を自分勝手と言わざる得えない考えなんだろう」

八重は自身の望みから、硯言ノ葉を助けてしまった。

その事に関しては悔いも後悔もない。

だが、助けた事によって、信吾の望む形になっていない現在にどうにもならない焦燥感を感じているのは確かだった。

「人は自分勝手の積み重ねを繰り返して、人生を謳歌すると知っていた筈なんだが……どうも、俺はうぬぼれが過ぎたらしい」

それまで黙って話を聞いていた京子は珍しく進んでいた筆を置き、八重の発言を呆れた様に鼻で笑ってみせた。

「それじゃあ八重くんは、退屈そうじゃないかい?」

「何故、そう思うんだ?」

「だってそうじゃないかい?聞いてた所八重くんは人の事ばかりで、自分の事をなに一つもしてないじゃなかい。それじゃあ一体誰の為の青春なのかわからないじゃないかい?」

澄んだ青い空を見て、きっと人は青という色を知る。

今歩く、空の色に届くまでの空間を歩く三年間は、通った道順の色を見つける事も出来ないのだろう。

通った後に振り返った時、人はその色をようやく知る事が出来る。

きっと青くて澄んだ春の色を、人は青春と呼ぶのだろう。

「そうか……俺は退屈だったのか」

青春を過ぎて息絶えて、巡り巡って此処に来て、ようやく自身の目的がハッキリと見えた気がした。

「八重くん笑ってるの初めてみたかも」

「おや?本当だね。こりゃ珍しいもんが見れたさね」

二人に指摘されて八重は今自分がどういう表情を浮かべているのか理解した。

「そうか?お前達の前で笑うのはこれが初めてじゃないと筈だが」

「なんていうか、嬉しそうに笑う八重くんを初めて見た?って言うのかな?上手く言えないけど、そんな感じ」

言ノ葉の言葉に、コクコクと京子は肯定の頷きを継ぎ足してくる。

それを見た八重はただ、「そうか」と短く一言返し、無くしていた宝物を見つけた少年の様に笑って見せたのだった。

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