第12話 β10月8日
同日の放課後、信吾と言ノ葉は文化祭実行委員として会合があるとの事でホームルームが終わると何処かへ行ってしまった。
かく言う八重は特に部活動にも所属していないので荷物を纏め、帰り支度が整い次第教室を出る。
ガラス張りの西側の窓から、広く茜色の空が並び冬を運ぶ風がカタリと窓を揺らす。
廊下を行く学生は、急ぎ足で駆け抜けて行く者と今日の疲れを踏みしめて帰路に着く者とがそれぞれの放課後の時間を過ごしている。
八重も後者の一人として下駄箱のロッカーの扉を開けた所で、その扉を締められた。
「京子、危ないじゃないか。ロッカーは鉄製だ。そんなロッカーに指を挟めば思春期男子はあらゆる面で支障をきたす事があると、おぼえておいた方がいい」
「どうでもいい事を……つらつらと……メールを……したんだけれど……ねえ、何で帰ろうと……しているのか……聞いても……いいかい?」
走って来たのか、京子は息も絶え絶えに怒り気味の上目遣いを八重に向けていた。
八重はメールをしたという京子の言葉を聞き、自身の携帯を確認すると、確かにそこには個人チャットで『放課後少し時間を空けてくれ』との旨が記された京子から連絡が来ていた。
「済まない、気付かなかった。『放課後待っていろ』とあるな。状況から察するにわざわざ、走って追いかけて来たのか?」
「そうさね、私は運動が苦手でねえ……無駄な階段の上り下りはしない主義なんだよ……その私を……あまり走らせないでもらえるとありがたいんだけれどねえ」
「そうか、その運動が苦手な京子が、慌てて走ってまで俺を呼びに来るとは、ただ事ではないな」
「言う程急でもないさね。それで、八重くんは付き合ってくれるのかい?まぁ無理にとは言わないけれど……付いて来てくれると私としては有り難いねえ」
やる事もなく、これから帰るだけの八重にとって、息も絶え絶えの友人からの願いを断る理由もない。
「そうだな、この後はコレと言って予定もない。それに友人の誘いを断る野暮をする気もない。何処へなりとも好きに連れて行ってくれ」
「そりゃいい事を聞いたよ、なら早速『友達』の八重くんには手伝って貰おうかねえ」
友人という言葉を巧みに利用するのは、お互い様だった。
それだけ二人の関係は密接で、密接だからそれ以上が近づかない。
先を歩く京子の背中を見つめながら別棟四階屋上の溜まり場は水彩絵の具の匂いが充満していた。
「最初に言っておくけど窓は開けないでおくれ、風が通ると筆がズレるからねえ」
「……了解した、それで?絵の方は順調なのか?」
その問いに関しては、この学校に在学する誰も知らないことだったが、八重は勝手が違う。
予め知っている事は、隠し事にはならない。
「……何でもお見通しは、あんまり面白くないねえ」
「一度通った道だ。多少人間関係が違えど、大筋は変わらない」
文化祭が二週間後に迫った現在、美術部の展示は少なくない注目を集めている。
それは『荒木 京子』と呼ばれる奇才がこの学校の美術部に所属しているからに他ならない。
「それがねえ、困った事に全く筆が進まないのさ。これがスランプっていうヤツなのかねえ、まったくどうしたらいいのやら」
少し伸びた爪でガリガリと波打つ長めの癖毛を撫で付けて、苛立ちを露わにしている所を見るに、京子は本当に困っている様子だった。
「八重くんの知ってる未来の私はどうやって今のこれを克服したんだい?」
「……あっちの歴史には、言ノ葉が居なかった。そして居なくなった者を埋める為なのか向こうのお前は絵にのめり込んでいった。俺から見るに、向こうのお前はそもそも、絵に関して困っていなかった様に思う」
八重の知る8年前の現在の『荒木京子』と言う奇才は、絵に埋没していた。
だからこそ、彼女の絵は歴代最高の出来栄えを文化祭という場を借りて披露された。
「……はぁ、そういう事かい……しかしねえ、コレがスランプなら……成る程。息をするのも苦しいわけさね」
「俺は完成しているお前の絵を知っているが、今の絵の進捗状況はどの程度なんだ?」
「……踏む行程にもよるけれど、多く見積もっても完成まで三割五分と言ったところさね」
「書いているのは、変わらずの絵なのか?」
「……本当に何でもお見通しだねえ、あの絵はまだ誰にも見せていないのだけれど……いやはや参ってしまうねえ。まぁ八重くんが知ってるなら話は早いさね。それで?向こうの私の絵は八重くんの目からみてどう映ったんだい?」
八重は少し昔を思い返す。
あの時の衝撃とも言える芸術を……。
「俺から見たあの絵の正直な感想を言うなら、怖いとすら思った。喜怒哀楽の他に芸術という感情があるなら、俺は心底揺さぶられた。あの絵はそれ程の完成度だったと言える」
誉め殺しとも言えるが、京子にとっては正直複雑な気持ちである。
八重が今褒めているのは京子であって京子ではない。
「素直に言えば嬉しい……でも、それはそれで複雑さね。嬉しくもあるけれど……正直今の私では向こうの私を超えられそうにないからね……」
「感想など全ては俺の個人の主観だ。俺は芸術に精通している訳じゃないし、芸術において個人の意見は重要ではないだろう。それに京子が向こうの自分に勝つ必要もないように思うがな」
「それとコレは違うさね。正直に言えば私は私の絵以外に興味がないのさ。でも私の知らない私の絵を知っている人間が奇しくも此処に居る。私は私の絵に興味があるさね。その知らない私が八重くんに此処まで言わせてる。それを聞いたら俄然、向こうの私にだけは負けたくないねえ」
筆を握り気合いを入れ直す京子だが、残念ながらその気合いは空回り、一向に筆は進んでいない。
「……そうは言っても勝敗の決め様がない。絵の美醜を決めるのはそれこそ大衆の役割だ。向こうのお前の絵を知ってるのは俺しか居ない。どう足掻いても直接対決は望めないだろう」
「絵の良さなんてものはねえ、知っていて欲しい一人が知ってればいいのさ。だから私の絵の価値は八重くん、アンタが決めてくれさえすればいい。それから始めに言っておきたいけど身内贔屓は無しで頼みたいねえ」
「……ド素人の一本勝負でもいいのならそれでもいいが……本当にいいのか?俺は何も知らない。ましてや芸術など程遠い所に居た人間だ」
「構わないと言ってるさね。私の価値を八重くんに決めて欲しいって言ってるんだ、本当に鈍い人さね」
京子は会話の間何度となく手を服に擦り付け、その手汗を拭っている。
此処は風が通らない為若干暑苦しいが、それでもブレザーを一枚脱いでしまえば事足りる程度の気温でしかない。
「それで?俺に何の用だったんだ?」
「……ん?ああ!八重くんが他の話をするから忘れてたねえ、実は部活の先輩に雑用を頼まれてしまってねえ、私一人じゃあ到底終わらないさね。これを一人で終わらせたとしても私は明日の学校は筋肉痛で休む事になるだろうからねえ、出来れば手伝ってくれないかい?」
美術部の部室……と言うには開放的な四階屋上前の踊り場には、高く積み上げられた機材の山が据えられている。
コレが表す事は一つだろう。
「京子、お前……イジメ……られているのか?」
「ちがうさね」
返事が一間も置かずに返って来た事から、京子の人間関係は心配をされる程悪くないのだろう。
「そもそも美術部員が少ないさね、その数少ない先輩は自分たちの部活の出店の打ち合わせで居なくなって、手の空いている部員が私だけになってるだけさね」
「その先輩は絵を出展しないのか?」
「先輩の作品はもう完成してるからねえ、残るのは私だけなのさ」
「了解した、それでコレは何処に持って行けばいい?」
コレと言って八重の目の前のあるのは、数えきれない程の機材の山。
「体育館さね」
「……成る程」
構造上体育館は別棟ではなく、クラス教室がある本棟の四階に置かれている。
そして別棟と本棟の四階は直接繋がっておらず、一度別棟一階まで降り本棟に移動し四階へ上がらなければならない。
無論この学校にエレベーターなど存在しない。
全ての作業が人の温かみに溢れたて手運びという、現代日本に稀に見る重労働だ。
「済まない。今しがた成る程と言った手前で恐縮なんだが、俺以外の応援要請を……」
「残念だけれどねえ、あの二人には連絡済みさ」
つまり呼んでも来なかった……或は来れなかったという事だろう。
「なら、二人以外の応援を……」
「八重くんに呼べる様な知り合いがいるのかい?」
「ふむ……成る程な、辛辣だが的を射た言葉だ」
八重の交友関係の縮図を知っているかの様に、京子は先手を打った。
京子の方がクラス内での人気も高い。
その京子ですら、八重しか雑用の手伝いとして呼べなかったと言う事だろう。
八重は途中まで取り出した携帯電話をポケットに仕舞い込み、代わりに美術部部室に堆く積まれた文化祭の機材を持ち上げる。
搬出経路は広く廊下の人通りも少ない。
作業工程において最も憂慮されるのは、道程の長さと搬出物資の重たさである。
八重は一人この何度目とも分からない階段の往復を続けていく。
だからこそ気付いたのだろう。
今この時八重の感じた既視感は『荒木 京子』のものだ。
言ノ葉の居ない未来で、京子はただ一人この道を往復していた。
何故八重は忘れていたのかとすら思う。
何時かの昔、京子は感情を灯さない瞳で額の汗も拭わず、この段ボールを一人黙々と運んでいた。
あの時の八重は、何も知ろうとしなかった。
知ろうとせず、知らなかったから、八重はその横を素通りして感慨もなく帰路に着いた。
ただそれだけの話で、ただそれだけの十七歳だった。
「コレは、きついな」
思わず口から弱音が零れた。
二十五歳の八重は自衛隊だったが、今の八重の肉体は十七歳。
鍛えてもおらず、持久力もない。
それでも付いて来ない身体を置き去りに、気持ちだけをどうにか絞り出してまた一つ荷物を抱え階段を降りる。
手で抱えた埃臭い荷物も、あの時の『荒木 京子』が持っていた荷物よりはずっと軽い筈だ。
何時かの過去、傷心を痛めつけて、痛みを紛らわしていた『荒木 京子』は誰の目から見ても明らかに異常だった。
ただそれ程までに『荒木 京子』が体験した『硯 言ノ葉』の消失は治る見込みのない傷だったのかもしれない。
八重は罪滅ぼしも出来ず、滅ぼす為の罪も此処にはない。
それでも、この無理難題を受けてから思い出すのだから、八重自身たちが悪いと思う。
ブレザーを脱ぎ捨て、それでも身体に溜まった熱が抜けなくて、シャツの袖を捲った。
何度も行き来を繰り返し、また体育館に機材を置き、屋上手前の美術部の部室に戻れば、姿勢正しく描きかけの絵に向かう京子の姿がある。
「大分疲れたんじゃないかい?少し休んだ方がいいさね」
汗をかいた八重を見かねて京子はそう切り出した。
「そうだな……」
一息着く為に八重は階段の腰を落ち着けると胸を張った美しい姿勢で絵に向かう京子の姿が目に入る。
「そういえば京子は、何故美術室で作品を描かないんだ?」
それは当然の疑問だった。
一階に美術室があるにも関わらず、空調もないただ画材などが置いてある物置同然のこの場所で、一人筆をとっている京子は奇妙に映る。
「あそこは、美術とは名ばかりの部屋さね。あそこで集中出来るなら、私は何処でも集中出来る自信があるよ」
怒っている様に京子は語尾を荒げたが、八重に美術部の実体は分からないので口を出すべきではないだろう。
八重は少し離れた所に座り直し人心地付いたが、先の事を思い出してからというもの何かが八重の中で引っかかりを作っていた。
八重の謝るべき相手は此処には居ない。
そもそも謝るべきかも分からない。
それでも、瓜二つの彼女の横顔には、あの日の面影がある事は確かだった。
「ん?どうしたんだい?そんなに見つめられても困ってしまうねえ」
「……いや、すまない。気が散るなら俺は他の場所で休憩しよう」
「いやいや、構わないさね。ほれ八重くんの分だよ」
そう言って京子はまだ冷たい緑茶のペットボトルを八重の前に置けば、結露がゆっくりと表面を伝う。
此処は四階、自販機は一番近くとも本棟一階部分にしかない。
つまり京子はこのお茶を買いに本棟の一階まで降りたという事だ。
「無駄な階段の上り下りは嫌いなんじゃないのか?」
「面倒さ、だけど必要に迫られたなら、するさね」
「……ん?買い物は俺に頼めば良かったんじゃないのか?」
八重は一度別棟一階に降り本棟四階に上がりを繰り返していた。
当然一階の自販機前は何度も通り過ぎて来た。
「私には、教室に取りにいく物が……あったんだねえ」
「それも含めて、俺に頼めばよかったんじゃないか?わざわざ、階段を降りるのは手間だろう。それにお前には絵を仕上げるという重大な任務があるんじゃないのか?」
本棟三階にある八重達の教室も、別に取りに戻るには大きな支障はない。
「うっ、うるさい男さね!人からの厚意は素直に受け取るもんだよ!」
珍しく大袈裟に言葉を荒げた京子に八重は面食らってしまった。
「……お前でも、怒るんだな」
「人を何だと思ってるんだい!本当にお前さんは人の気持ちが分からない男だよ!」
人の気持ちが分からない。
そう言われて、気付けば八重は自嘲する様に笑っていた。
「ハハッそうだな。……本当にその通りだ」
全くその通りだと思う。
人の気持ちが分かっていない、……
付け加えるなら八重は自分の事も知ろうとしなかった。
あの当時の八重が『荒木 京子』に対して一体何が出来ただろうかと考えて、結局何も出来なかった自分に気付いた。
全てを見て見ぬ振りをして、その場をやり過ごしていた。
それがあの時の全てで、それ以外には何も無い『大見八重』の実体だ。
燻られて記憶が香り、ゆったりとその実体を伴えば、京子の顔を直視する事も難しい。
「どうしたんだい?具合でも悪いのかい?」
「いや……すまない忘れてくれ」
「謝られる理由が無いねえ、それに。さっきから八重くんは思い詰めている様子さね、何を気にしているんだい?」
埒があかないと動かしていた鉛筆を置き、京子は八重に向き直る。
「俺はお前に……いや、でも……そうだな、混乱させてすまない。本当に気にしないでくれ」
ここではない、どこか。
今此処に居る『荒木京子』は、八重が十七歳の時に知っている『荒木 京子』ではない。
此処で何を吐露したとしても、今居る京子を困らせてしまうだけだ。
そう分かっていても、八重の心は晴れなかった。
「言いかけたという事は、八重くんが言うべきかもしれないと思ったという事だよ。それで誰かが傷つくかもしれないけれど、如何せん此処には私と八重くんしか居やしない。ちゃんと言葉にしておくれ。そうすれば私はちゃんと聞くさね」
「……今お前は大事な時期だ。その作品を完成させなければならない。そんなお前の邪魔をする事は俺の本意じゃない」
「何度も言う様だけれどねえ、それは私が判断する事さ。八重くんは八重くんの判断で物事を起こせばいい。そこに私が介在する余地はないさね。それに私はスランプ中だよ、どの道、絵を描けていないのに八重くんに気を使われるのも可笑しな話じゃないかい?」
八重は間を取り持つ為に、乾いてない喉にお茶を流し込む。
数秒喉を潤した後、飲み口から口を離し目を合わせない様そのまま飲み口を見つめれば、黄濁色のお茶が不規則に揺れている。
持ち手に力を加えなければ、その揺れは即座に静まり手持ち無沙汰を紛らわすには至らない。
「俺は、お前を知っていて、お前を助けなかった……」
京子と八重の関わりは、言ノ葉を助けた時から始まった。
今の京子と八重の間に、助ける助けないの話など出ていない。
だから京子はその言葉の大元が、きっと八重の元居た場所にあるのだと即座に分かってしまった。
「俺は、お前が悲しんでいると分かっていて、何もしなかった」
「……それは、助けようと思えば助けられたのかい?」
余りにも言葉足らずな八重の独り言の中に、京子は尋ねるべき言葉を見つけるのに少しだけ時間が掛かった。
「分からない。だがそれを確かめようともしなかったのは確かだ。それに、こうしてお前を手伝うまで、気付く事も出来なかったんだ。俺はいつだって、手を伸ばせる場所に居て手を伸ばさない。結局後悔をしても俺はあの一歩も踏み出せなかった」
いつもの淡々とした八重の言葉だが、京子から見えるその背中が少しだけ小さく見えるのは気のせいじゃないのだろう。
「そうかい?でもそれは、その時の八重くんには出来なかったんだろう?出来るかもしれなくて、やらなかったと八重くんは言ったけれどねえ、出来てもやらない事っていうのは、そもそも出来ない事と変わらないさね。だから八重くん、アンタが気に病む必要はないよ。出来ない人間に、出来ない事を無理強いする事を私はしないさね」
京子は自身が持っていたお茶を揺らし、口を付ける。
彼女は喋った喉を潤し、豪快に口元をブレザーで拭ってみる。
「もし八重くんが許されたくて今の話をしたのなら。すまないね、私は何を言う権利も無い。私の知らない私が、言ノ葉ちゃんの居ない未来でどうなったのかなんて正直考えたくもないさね。だけど今の私が居るのは八重くんのおかげさ。言ノ葉ちゃんが危ない時に八重くんが一歩を踏み出したおかげで、私はこうして人生初のスランプに陥ってるのさ。全く、それだけは忘れないでほしいもんだよ」
心底楽しげに、話してみせる京子の表情は、絵を描けないスランプで苦しんでいる様には到底見えなかった。
「八重くん、アンタは此処に来て少なくとも、踏み出せなかった二歩分の活躍はしてるさね。それは踏み出さなくとも、誰からも責められない事なのに、八重くんは自らその一歩を踏み出してみせた。帳消しにするには些か八重くんの踏み出してくれた一歩は、私にはお釣りが来ると思うけれどねえ」
励まされているのだと、八重は遅まきながら気付く。
考えてみれば、京子はずっと言葉を選んでくれていた。
八重の手に持つ、間をつなぐ為のお茶も残り僅かだが、そのお茶は間をつなぐ事に使う必要はないだろう。
「京子……」
「なんだい?」
八重は感謝の念から自然に口元が綻んだ。
「ありがとう」
最後に付け足した言葉は、口に出さなければ伝わらないだろうと知っていたが、改めて口に出すのは照れくさいと八重は感じていたが伝えずにはいられない。
だから顔は見せない様に、その熱を身体から吐き出す為に八重は手元にある最後のお茶を飲み干した。
だから、気付くのが遅れたのだ。
「どうした?顔が赤いが、熱でもあるのか?」
京子の顔が熟れた林檎の様に紅く色づいている事に……
「バッ馬鹿いってんじゃないよぅ!ほれ!さっさと運んでくれないかねえ!今日中に終わらないじゃないかい!」
京子に追い立てられ八重は荷物を持ち、その階段を降りていく。
八重が居なくなったのを確認して、京子は筆を取り未完成の絵と対峙して、その筆先を地面に向けたが、渦巻く心中の感情に筆が震えていた。
「いやだねえ……なんなんだい」
今までに感じた事のない脈打つ鼓動を抑える術を京子は知らぬままに、この歳まで過ごして、この熱がどうにもならないと項垂れるように地面を見る。
今の自分の顔は誰にも見せられないだろうと京子は思う。
「全く、人から得意を奪うんじゃないよ……」
『荒木京子』は、色を塗るのが得意だった。
人間関係も、人の顔色も、自分の感情も、あらゆる色を塗ってきた。
今日の日まで京子に塗れない色などなかった。
絵の邪魔となるこの感情を、心底煩わしと感じるが、何処か心地よく感じている自分に気付き、それをまた煩わしいと感じる。
最初は、なんとなくフワリとした言葉だけだった筈なのに、気付けば感情の深みに嵌っていた。
塗りつぶせなかった色が、誰から発せられた色かなど分かっている。
何処かに落とし込めるまで色を薄めようとして、途中まで飲んだお茶を一息に飲み干し、咳き込んで、無理矢理にでも口を付けるがその色が消える事は終ぞない。
「コレは……私はしてやられたということなんだろうねえ……全く厄介だねえ」
京子の感情は否応なしに、今しがたまで居た人物を追い、そこにあった彼の影を見てまた京子の中で知らない色が、より光沢を増していく。
「これじゃあ、本当に描けそうにないじゃないかい……」
窓の外に見える夕焼けは、もうすぐ薄暗闇を連れて来るだろう。
そして薄暗闇に目が慣れた頃、きっと彼はまた此処にやってくる。
ほんのり色づいた頬の赤さを誤魔化そうとしてどうにもならない事を悟り、京子は気付かれまいと階段の灯りを落としたのだった。
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