第4話 γ10月1日

それからしばらくしない内に通り掛かりのサラリーマンが警察と病院へ連絡を入れ、刺されそうになった硯言ノ葉は警察へ

腕に切創を負った大見八重は病院へ応急処置を受けに行った。

二手に分かれた二人だが、偶然にもこの二人は全く同じ事を思っていた。

言ノ葉は、警察車両に揺られ見た事のない景色を眺めて思う……

そして八重は、救急車に揺られ未だ流れる血液と尋常じゃない痛みを感じながら思うのだ……

「「ああ、これは夢じゃない……」」

同じ事を思った二人だが、含む意味合いまで同じとは限らない。

彼女は、嬉しさから夢の様な出来事であるという喜びを堪能し、彼は、夢だと思っていた物が、途端に現実味を帯びた焦りを吟味していた。

二人にとってこの日はめまぐるしい一日だったと言える。

特に少年に関しては目が回る様な忙しい一日だった。

傷の手当の為に病院へ、病院まで迎えに来てくれた警察に連れられ警察署で事情聴取。

午前の部を少々した後に、昼食を取って午後の部へ。

被害届を提出しこの日の全行程は終了。

家まで送ると言われたが少年は断固拒否を貫いた。

実況見分が後日行われるらしいが、日程が定まっていないらしい。

とにかく総評するなら、学校で授業を受ける方が大分マシだっただろう。

座り疲れで凝り固まった肩を鳴らせば気味良い音が間接から聞こえて来る。

疲れた……

そう八重が呟いたのは一五時を過ぎた頃合いだ。

日が傾くのが早くなってきた十月の初日

東京都中野には秋口の乾いた北風が吹き抜ける

中野警察からだと新中野駅の方が近いのだが、この日の帰りは中野駅を選択した。

何故か?

それは当然、久しぶりのこの街を思い返す為だ。

時間を戻るなど俄かに信じ難いが、今感じている痛みは紛れもなく真実である。

目に映る全てが疑わしいが、目に映る全てが今の状況が本当だと証明していた。

見覚えのある公園に、見覚えのある住宅街。

聞こえて来る喧騒や、匂いまで忠実に再現されていると分かれば、もう信じる他無いだろう。

『大見 八重』は過去に過ぎ去った時間の全てが今此処にある事を実感する。

実感すると同時に、思い出の中にあった悔恨は、仄かな達成感と腕の痛みに塗りつぶされた。

戦場を走り回っていた『大見 八重』という少年だった彼は、高校の制服を身にまとい、何故か今此処に居る。

最後の記憶は、戦場で運び込まれた野戦病院のdead spotだった筈だ。

それが何故こんな所に居るのかは分からない。

確かに一つ言えることがあるとするなら『大見八重』を名乗っていた彼は、あの急造の野戦病院で死んだということだろう。

とは言え、両腕はあるし足も付いている。

何も触れず足もないようなアナログチックな幽霊ではない事だけは確かだ。

ただ一つ、問題があるとするなら左の目が見えない事だろう。

最前線で身体が宙に浮いた瞬間までは、左目は見えていた筈なのだが、戦場で野戦病院まで運んでくれた人物が助けに来たときには、左目は既に見えなくなっていた。

そして応急処置のかい虚しく俺は死んで……此処に来た。

言うなれば此処は過去の自分が居た場所だ。

この服装からして、今の八重は学生なのだろう。

中野駅が最寄りの学校に通い、平凡に過ごしていた過去の自分が居た場所だ。

ただ、違和感はそこだけではない。当時十七歳の八重は、左目が見えていた筈なのだが今現在、左の目が見えていない。

彼女を襲った犯人の刺突を躱した際に誤算だったのはこの左目が見えないせいもあった。だから突き出した腕を想定よりも深く切られてしまったというのもある。

中野警察から出て、中野駅に向かって歩きながら、ずっと見ていなかった携帯電話を開けば親からのメッセージが起動画面に表示され、心配の博覧会が開ける程の長文が送られて来ている。

警察側が両親と学校への報告を済ませてくれたらしいが、懐かしい両親の心配性は健在な様子だ。

戦場に出る前の、心が和む気持ちを思い出しつつ、返信の文面を作り送信する。

「俺は……戻って来たのか……」

誰に聞かせるつもりもなく、懐かしさから八重はそう呟いた。

「ふ〜ん八重くん、何処から戻って来たの?」

だから突如後ろから掛けられた声に振り向かざるを得なかった。

過剰な反応は彼が戦場帰りというのもあるだろうが、その声にとてつもなく聞き覚えがあったからだ。

「……キミの方が早く終わっていたんだな」

瞳は茶、髪はロングヘアーでクラスでも美人の優等生で通っていた彼女は、8年前の10月1日を境に居なくなった。

だが今は居る。

それは八重が少女を助けたから、変わった未来だ。

「そりゃそうでしょ。八重くん病院で処置受けてから、警察に行ったんでしょう?普通に考えて私の方が早く終わるんじゃない?」

「それも……そうだな。キミの言う通りだ。それで?キミは俺に何か用か?」

「あっ……いや、そのさ!とりあえずさ!私八重くんに助けて貰ったわけじゃん!……だからその、お礼というかさ八重くんに一言……」

何を話すとも決めていなかったのか、少女はドギマギと視線を彷徨わせる。

「ああ、そうか。俺にお礼を言いに来たのか?わざわざすまないな」

「なっ、なんで八重くんが謝ってるの!」

「まぁ、そうか……それは済まない事をした。本当に申し訳ない」

「だから!何で八重くんが謝ってるって……八重くん、何か変わった?」

言ノ葉から映る『大見 八重』という人物像は、昨日まで単純で下らなく取るに足らない存在だった。

いや、それは八重だけに当てはまらない。

登校時言ノ葉あの十歩目を歩いた瞬間まで全ての存在は取るに足らない存在だったと言える。

言ノ葉自身も救う事が出来ない状況は何よりもどかしく、一度目の自身の行動の真似をするだけの日々は自身の死を優先するに足る絶望だった。

だから、そんな中に突然現れたイレギュラー『大見 八重』の存在は彼女の全ての興味を惹くに充分過ぎた。

「変わったって……俺は俺だ。事態に大分混乱はしてるが、今の所は何も問題は無い」

彼の違和感に少女は直に気付いた。

大人びた横顔に、昨日までクラス内で笑い合っていた彼の面影はない。

だから、彼女はある種の親近感とも違う根拠を得た様な気がしていた。

「そうかな?私昨日まで自分の事も含めて、正直どうでもよかった。だから八重くんの事も知ってたよ。私は本当に全部知ってた。でも今日の……特に私を助けてくれた八重くんは、私の知ってた八重くんと違う。勿論八重くんは他の人とも違うんだよ?八重くんは何が違うと思う?」

確かめるとも違う、少女の縋る様な視線に八重も当然ながら違和感を覚えた。

だが根拠がはっきりとしない以上その違和感を言葉にはできない。

「さぁ、さっぱり分からないな」

「本当に分からないのかな?よく考えてみて。八重くんはなんで私を助けてくれたの?」

少女にとって、『一度目』の史実と同じ行動を取っている人間が、少女の周りの全てだった。そして昨日まで八重も確実にその一人だった筈なのだ。

しかし蓋を開けて見れば、『一度目』と違う行動を取った人間が、今目の前に居る。

「よくも分からない人間に刺されそうになっているクラスメイトが居たら、助けるのは当たり前なんじゃないのか?」

八重は言葉を選んだつもりだったが、少女の表情を確認するに、今の答えはどうも少女の求めていた答えは違ったらしい。

「うん、それはそうかもだけど、そうじゃなくてさ……うん、じゃあ聞き方を変えるね。何で八重くんはあの時私を助けられたわけ?」

数年ぶりに言葉を交わした彼女の印象は良くもなく、かと言って悪くもないが混乱している八重にとって、些かしつこいきらいがあるのは確かだ。

「技術があるなら、助けられるだろ?ただそれだけだ」

「じゃあ八重くんは、その技術を何処で手に入れたのかな?」

言ノ葉は数えきれない繰り返しの中で、ありとあらゆる人物を調べ尽くした。

それは途方も無い時間が掛かったが、終ぞ自分を助ける一助足りえないという結論に至る。

彼女は知っている。

『大見 八重』は『一度目』の時、確かに間に合わなかった。

仮に間に合ったとしても、それに足る技術も持ち合わせていなかった。

何度も繰り返した少女の考えは、半ば確信に近かったのかもしれない。

だが、彼から出た言葉は、

「……分からない」

そんな肩すかしだった。

「分からないって……さぁ!そんな事ある訳ないじゃない!だって八重くんの事でしょ!自分が一番分かってる筈よ!」

言ノ葉は同じ時間を繰り返した。

自身の最後の瞬間を知る一年間を、永遠とも思える時間やり直した。

答えが知りたいと思うのは当然の心理と言える。

感情が漏れると、言ノ葉の声が震えた。

恐ろしくて泣いているとも、嬉しく嗚咽を漏らしているとも取れるが、その本心はにしか分からない。

ただ、久しぶりに感情を表に出した事を思い出す。

「分からない……本当に何も分からないんだ……」

高校生だった八重は成長し大人になった。

そして戦場で死に高校生になった。

彼も困惑の連続だったのだ。

それでも八重が行動を起こしたのは、自身の後悔があり、たとえ夢だとしても次は絶対に一歩を踏み出したいと思う八重の意地だった。

彼女を助けた今、八重はこの場所に居る筈の自分自身すら、分からない事だらけだが、どうやら此処は現実で、『大見八重』はまだ死んでなくて、何もかもやり直せるなら、彼の苦悩の数年は一体なんだったのか……

思えば思う程、全てが虚しくなってくる。

「悪いが、明日にでも話は聞く、今日は帰らせてくれ」

「なっ!ちょっと待ってよ!明日ってそんなの……」

『来るかも分からない』

と言いかけて言ノ葉は口を噤んだ。

少女は一度目の史実から、自分の行動が『一度目』とズレる度に、何度もやり直しを強いられた。

感情のまま怒る事も出来ず、泣く事も出来ず『一度目』に自身が取った行動をそっくりそのまま真似をして、ようやく十月一日の地点に辿り着いた。

だから、少女は知らない。

今を知らない。

十月一日の早朝の瞬間から先の……刺されてから先の未来を知らない。

随分前に立っていた時間の先端に、彼女はまた戻って来る事が出来た。

『一度目』の自分の真似をするだけだった頃とは違う。

少女が今取っている行動は久方忘れていた自身の衝動によるものだ。

なればこそ、少女に明日が来る事は少女自身がよく理解している。

「なんだ?何か言いかけたか?」

緩慢な動きで振り返る八重の平坦な声が、少女に問いかける。

「分かった。じゃあ明日!学校で待ってるから!遅れずに来て。そこで今日の話の続きをするから!」

半ば強引に話を取り付け、八重は何処上の空で言ノ葉を見つめる。

「ああ、明日だな。了解した……」

八重は心底疲れたと、気怠さを隠しもせず少女へそれだけ返事を返すと、それから一切後ろを振り返る事なくその道のりを中野駅に向かって歩き出す。

少女は呆然と、彼が駅へ歩いて行く姿を見つめ、彼の背中が曲がり角へと消えて行くのを確認し……

「れっ……連絡先ぐらい……お前から!聞いて来いやぁああああ!」

乙女の複雑な心境を、一人中野の街で声高に叫んだのだった。

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