第9話 赤坂渉の場合 <抵抗>

「え……?」


 何を言ったの、この人は?

 これまで大人しくしていた渉だったが思わず声が出てしまった。

 動揺を隠せない渉は隣にいる母の様子を伺うが、渉と違い景子は何の反応も示していなかった。


「今まで弊社から毎月ロイヤリティをお支払いさせていただいていますから、譲渡となると利益が不利になってしまうことは重々承知しております。そこで二点目です」


 片倉はテーブルの上にある先に出ていた書類を下げ、彼の手元にあった大きめのタブレット端末からファイルを呼び出した。

 タブレット端末の画面には『ニューワールド』の利益についてのグラフが表示されていた。


「『ニューワールド』が今後生み出す利益を試算させていただきました。こちらがそのグラフです。この試算と毎月のロイヤリティを補うという観点から、譲渡の際にお支払いさせていただく金額は契約締結時の最低保証許諾料の三倍を提示します」

「そのタブレット見せていただける?」


 景子は片倉からタブレット端末を受け取り、資料をじっくりと読み始めた。

 渉はそんな大人のやり取りを見て、喉の奥がからからに乾く。喉を少しでも潤したくて、手近にあるサーブされた水ばかりを飲んでしまった。

 けれど、喉の渇きは癒えない。

 しばらくして景子はタブレット端末から目を離した。

 ことりと静かにテーブルに置く。その行動だけで渉と片倉を注目させるのには十分だった。


「……息子がこの歳で世間に認められたことは、母親としてとても誇りに思います」

「母さん……」

「確かに『ニューワールド』は利益を生み出した良い商品だったのかもしれません。ですが、これまで夫婦で育ててきたこの子の未来は官僚なんです。プログラマーやシステムエンジニアのような情報技術者ではありません。ただでさえ、この子は優秀な兄に追いつくことが大変なのに、『ニューワールド』にかまけている暇はありません」

「では……」

「御社の提案を受け入れましょう。この子にとっていらない物ですから。いいわね、渉」


 渉ははっと息を飲んだ。

 そして、すっかり空っぽになったコップをぎゅっと握りしめた。


 ああ、無くなるんだ……と渉は思った。

 大切なものはいつだって他人に決定権がある。

 いつものこと。いつものことだから……こんなことには慣れている。

 どうってことない。

 仕方ないですね、母の言う通りにします、とへらりと笑ってしまえばいい。

 どうってことないはずなのに……胸の奥がざわざわして、全く落ち着かない。


「ありがとうございます、赤坂さん。話が早くて助かります」


 片倉は景子の承諾の返事に、あからさまにほっとした表情を浮かべた。


「ただね、片倉さん。譲渡の条件をもう少しお話しなければなりませんわね」

「お考えをお聞かせいただけますか?」

「ま、待ってください!」


 気づけば渉はがたりと立ち上がり、言葉を発していた。


「渉?」


 思いの他大きかった声に片倉は目を丸くし、景子は怪訝な表情で渉を見ていた。


「あ……あの、その……待ってもらえますか? 『ニューワールド』は僕が作ったものです。その……やっぱり愛着みたいのがあって。急にそんな話をされても、困るっていうか……」


 渉は自分が大人の前でこんなことを話し出すとは思わなかった。

 主張することが苦手なのに……と渉自身もその行動をしてしまった状況に驚きを隠せなかった。

 ただ、『ニューワールド』に対して思っている以上に愛着があったんだと改めて認識した。


「渉、何を言っているの? あなたにはもういらないものなのよ」


 低い母の声に渉ははっとした。

 渉が母を恐る恐る見ると目をきっと吊り上げ、体をかすかに震わせていた。

 渉は自分が誰に抵抗しているのか、急に冷静に見えてきた。

 片倉に視線を移すと困ったような視線にぶつかった。

 今、自分はわがままを言っている。迷惑をかけてしまっている。渉は嫌な汗がつうっと流れた気がした。

 嘘でしたって、そう言って笑って済ませばいい。

 他人に決定権があることはいつものことじゃないか。

 渉は自分自身にそう言い聞かせようとした。しかし、なぜか踏ん切りがつかない。

 冬の大気のように凍てついた雰囲気が漂う中、渉は唇を嚙み締めた。


「……ごめん、母さん」


 渉は駆け出していた。

 二人の視線を振り切って、店のドアを乱暴に押し開けて外へ飛び出した。からんからんとドアベルの音が激しく響いた。


「待ちなさい、渉!」


 勝手に出て行った息子の背中に母の声が届く。けれども、その足が止まることはなかった。


 渉はがむしゃらに走った。

 すっと冷たい風が頬を滑り、吐く息がただただ白い。


 自分はなんだかおかしい。

 いつものこと。いつものことじゃないか。

 なのに、どうしていつものように出来なかったんだろう。

 こんなことには慣れている。いつものように諦めればいい。

 それなのに、どうしてあんな事を言ったんだ?

 どうして母に抵抗した?


 渉は走っているのに頭の中がすっきりせず、むしろどんどん靄に包み込まれていくような感じがした。

 辺りは陽が落ちて暗くなり始め、少し雪がちらついていることが街灯の光で分かった。

 雪は徐々に強く降り始め、やがて渉の姿を霞ませると後から後から自由に舞い落ちた。


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