第10話 黄木藍子の場合 <日常>

 タクシーの車窓から見えた風景は、海を挟んだ向こう側にある見慣れた高層ビルの群れ。

 今日は雲の多い冬空でいつもよりビル群のきらめきが霞んでいるように感じるが、ああ、日本に帰ってきたなぁ、と感じていた。

 黄木藍子おうきあいこはバレッタでまとめていた長い髪をほどき、タクシーの後部座席に背中を預け、鞄からスマホを取り出した。時間を確認するとまもなく十二時半になるところだった。


 一週間ほど海外へ出張していたが先ほど羽田空港に到着した。気持ちはすぐにでも自宅に帰りたかったが、この後打ち合わせが入っている。

 アラサーになり体力がなくなってきてるのに人使いが荒いよ、と藍子は心の中で愚痴った。

 約束の時間は午後三時頃だが、チームのリーダーである同期の片倉と一緒に打ち合わせに入るので、事前にコンセンサスを取ろうと打ち合わせの一時間前にスケジュールを組んだ。

 スマホのアプリで到着時間を調べると余裕で間に合うようだ。空港のカフェにでも入ればよかったかなぁ、と少し後悔をした。


 藍子はスマホを操作し別のアプリを起動させた。オンラインゲームの『ニューワールド』だ。ログインするとスマホの画面には一人の女性キャラクターが現れた。名前はレモン。藍子のアバターだ。


 そう言えば、バトルイベントに一緒に出ようと約束してたんだっけ。


 藍子はふと気づき、ステータス画面で確認すると確かにスケジュールに入っており、今まさにイベント中だった。とりあえずバトルイベントを観戦してみる。

 あー、しまったなぁ。でも、このバトルイベントは参加しているアバターたちのレベルが低いし、私だったら秒でヤレるから大丈夫でしょ、と藍子は楽観視しバトルが終わるのを見届けた。

 藍子はチャット機能を呼び出して、軽快に指を動かし文字を打ち込んだ。



 @レモン

 遅いじゃん。二人とも



 @ブルーベリー

 レモン!



 @レモン

 さっきのバトルイベントに時間かけすぎじゃね? マジヤバイんだけど



 藍子がバトル時間を確認すると予想を大幅に超えていて、自分と力量の差がまだあるなぁと感じていた。

 けれども、このチーム・ビタミンという五人組のバトルパーティーから抜ける気は一切ない。イカレ具合が最高に楽しい仲間達と過ごす仮想現実の世界は藍子の日常を彩ってくれていた。


 スマホを操作する手が止まらない。仲間の会話に思わずふふっと笑ってしまった。

 何気なく顔を上げると、タクシーのルームミラー越しに運転手と目が合ってしまった。

 恥ずっ、と藍子は慌てて顔を背けた。その時はたと気が付いた。

 車窓から見える風景がおかしい。車がひしめき合っている。よくよく見えると車列はさっきからゆっくりとしか前進していない。


「あの、もしかして……渋滞ですか?」

「そうですねぇ。この国道はこの時間帯になるとよく混むんですよ。今日は一層酷い」


 は? と藍子は目が点になった。


「え……あの、もう少ししたら解消されますよね?」

「この渋滞の様子じゃあ、いつ解消されるか分かりませんねぇ。急いでるところすみませんね、お客さん」

「う、うそぉっ」


 一瞬で血の気が引いた。だって、今日は結構大事な打ち合わせの日。

 ショックを受けてる場合じゃない。

 先に到着するであろう同僚のアドレスを呼び出し、運転手に断りを入れてから通話ボタンを押した。

 遅れるわけにはいかないのにこういう時に限って……!

 藍子はぎゅっと唇を噛み締めた。

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