第8話 赤坂渉の場合 <契約>
時間は午後三時頃。俊輔と別れた渉は母・景子とともにいた。
暗くなるのが早い季節、曇天の隙間から見える空が夕日でうっすらと明るいだけだ。ひんやりと冷たい風が自由に走り抜けていく。
渉は景子の背中を見失わないように少し後ろを歩いていた。
母に声をかけることもなく、また息子に声がかかるわけでもなく、親子の会話はなかった。こつこつと景子のヒールの音だけが寒そうに響く。
目的地はすぐそこなのに足があまり前に進んでいる気がせず、やけに道のりが長く感じた。
やがて、無機質な都会では珍しい緑が生い茂る庭に囲まれた古民家が見えた。
五色学園から西へ十分ほど歩いた場所にある古民家カフェ・芦花だ。
学校で働く職員も利用しているこのカフェは、昭和の雰囲気が残る古民家を改装してできた趣のあるカフェだ。
今日はレトロな雰囲気にはそぐわない、黒塗りの高級車が駐車場に停まっていた。
渉は無意識に眉根を寄せていた。この車を見ると気持ちが落ちていくのがわかる。
景子が先にカフェの木製のドアを開けた。からんからんとドアベルの音が響く。
渉は母に続き店内に入るといらっしゃいませ、と落ち着いた女性の声がかった。
ノスタルジックで温かな雰囲気の店だ。手狭な店内で席は十席にも満たないが、センスの良い重厚な色の木製のテーブルや椅子が配置され、ジャズの曲が小さく流れていた。
テーブルの上には丸みを帯びた文字のメニュー表や、使いこまれた生成りのシュガーポットが専用のスプーンをくわえ鎮座していた。
午後のティータイムの時間なのに、珍しく客はまばらだった。
コーヒーの豊かな香りが渉の鼻腔をくすぐる。何度訪れても体中がほんわかするような優しい気持ちになる香りだ。
しかし、車の持ち主であり、何度か会ったことのある男の姿が視界に入るとその思いは泡と消え、胸の内で溜息を零した。
「赤坂さん、こちらです」
男がすくっと立ち上がり名前を呼んだ。
三十代前半くらいだろうか、上背があるスーツの上からでも分かる立派な体躯の男だ。
見知った顔に気が付いた景子が、真っ直ぐ彼のいる席へ向かった。
「お待たせいたしました。片倉さん」
「いえ、とんでもないです。お忙しい中、ご足労いただきありがとうございます。渉くん、こんばんは」
「……こんばんは。片倉さん」
「どうぞおかけください」
席を進められて渉は大人しく座った。
この店の主人である年配の女性が店のカウンターから出てきて、お盆に載せたおしぼりとお水を人数分サーブしながら、顔見知りである景子に挨拶をする。
「いらっしゃいませ、理事長。ご注文はいかがされますか?」
「コーヒーを三つお願いね。ここのコーヒーはおいしいですよ。ウチの先生もよく来るみたいで」
「そうなんですね。それは楽しみです」
女主人が注文を取りカウンターへ戻っていった。片倉と景子が和やかに会話を始めると渉は片倉をこっそりと盗み見た。
景子の前に座った片倉宏典は渉の『ニューワールド』を商品化したデータマーク社の社員だ。『ニューワールド』チームのリーダーであると最初に紹介された。
初めて会った時から高校生である渉に対し丁寧に接してくれて、落ち着いた誠実な雰囲気を持っていた。
きっとこの関係じゃなかったら信頼できる大人として仲良くなれただろうな、と渉は思う。
今日はもう一人『ニューワールド』のメインプログラマーとして動いていた女性社員が来る予定らしいのだが姿が見えない。片倉と景子の会話を聞いているとどうやら渋滞に巻き込まれ、こちらに来るのが遅れているということだった。
注文のコーヒーが届けられると和やかな雰囲気が一変し、ぴんと張り詰めた空気に変わった。
「渉くんが制作した『ニューワールド』ですが、かなりの反響を呼んでいます。お蔭様で弊社も売上が大幅に伸びました。渉くんのおかげです」
片倉が渉達の様子を窺いながら話を切り出した。
「お役に立てているのなら光栄です」
「こちらこそありがとうございます。今日の打ち合わせ内容は赤坂さんに連絡差し上げた通り、契約更新についてです。『ニューワールド』が弊社と契約としてまもなく一年が経ちますので」
「そう。もう一年経ったのね」
ええ、と片倉は景子の言葉に軽く頷いた。
「そこでこちらから契約更新に伴い、提案させていただきたいことがあります」
肩がぴくりと反応した渉は何だろう、と訝しげに片倉を見た。
彼はテーブルの上に予め置いていたクリアファイルに閉じられた書類を取り出し、テーブルの上に広げた。
その書類は『ニューワールド』を商品化した際、一番初めに締結した許諾契約書だ。締結の日付は一年前でもうまもなく契約期間が切れる。
「これは前回の契約書で次の契約の下地になるものです。契約終了まで後一か月しかないのですが、二点提案があります」
「伺いましょう」
「ありがとうございます。一点目は単刀直入に申し上げますと『ニューワールド』の著作権を弊社に譲渡していただきたいのです」
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