テーブルの上に数冊の本を広げる。地図と聞かされたそれは、中を開いてみるとアルバムだった。白黒やセピア、カラーなど、多種多様な色合いで撮られた写真には何気ない街の風景が収められている。

「この中に見覚えのある場所はある?」と、店主さんはナナに尋ねた。

 椅子から身を乗り出して、ページを見下ろす。

 この駅は、見たことがない。このおうちも、このお店も、この桜並木にも覚えがない。あ、ワンちゃんが写っている。かわいいな。

 瓦屋根の立派なお屋敷や鮮やかな花壇が並ぶこぢんまりとした家。何度ページをめくっても、懐かしい景色には出会えなかった。

「──あ」

 古びた表紙のアルバムの真ん中辺りで、ナナの手が止まる。

「ここ」と、彼女はモノクロの公園を指さした。「ここ! ママと一緒に行くところ!」

 かくれんぼしたり、おままごとをしたり、ブランコやシーソーに乗ったり。ようやく見つけた馴染みの場所に嬉しくなって、ナナはがたがたと椅子を揺らした。

「ナナちゃん、危ないよっ」

「そうか、ここか……」と、店主さんが思案する。「六丁目の辺りだな。ここならそんなに遠くないはずだ。歩いてじゅうぶん行ける距離だよ」

「本当ですか?」お姉さんが明るい顔になった。「よかったね、ナナちゃん! ここから近いって。あ、じゃあ私、今から送ってきますよ。暗くなる前に行った方がいいと思うし」

「うん、そうだね。じゃあ、詳しい地図を渡すから、よろしく頼めるかな?」

「はい。任せてください」


「お待たせー」

 ホウキの転がるお店の前でお姉さんを待っていると、彼女は何やら年代物のトランクを持ってやって来た。

「じゃあ、行こうか」

 差し出された手を握って、歩幅を合わせてついていく。じんわりと熱の伝わる手のひらがとても心強かった。

 トンネルを抜けて、線路沿いの道を行く。メモを片手に辺りを見渡すお姉さんを見上げながら、ナナはどうにも気になっていた質問を投げかけた。

「そのカバンにはなにが入ってるの?」

「ん?」と、彼女が小首を傾げる。「何も入ってないよ、今は」

「なにも入ってないカバンを持ってるの?」

「うん。そうなの。でも、これから入れるものが見つかるかもしれないから」

「ふーん」

 ナナはよくわからない、といった面持ちで再び前を見つめた。

 角を曲がって、しばらく行くと、寂れた商店街に出た。

「この辺りのはずなんだけどなあ」と、お姉さんが頭を掻く。「ナナちゃん、どこか知ってる場所はない?」

 ぽかん、と口を開けてナナは彼女を見つめた。そうは言われても、こんなところへは来た覚えもない。両側に並ぶお店はシャッターの閉まった場所も多くあり、飲み屋さんや洋服屋さん、カラオケと辛うじて読める塗装の剥げた看板を掲げるお店もあった。半ば困り果てたとき、ナナの足が不意に止まった。

「あそこ」

 隅にぽつん、と佇む喫茶店。メニューが書かれた黒板が立てかけられたそのお店には覚えがあった。

「あそこ、ママと行ったことある!」

「本当に? じゃあ、やっぱりこの辺りであってるんだ」

 ナナの脳裏に記憶が蘇る。わくわくとした様子のママに抱えられながら、軽快なベルの鳴るドアをくぐったこと。メロンソーダを飲むあのにこやかな笑み──そうだ。ここから我が家はすぐそこだ。

「こっち!」

「あ、ナナちゃん、ちょっと待って!」

 繋いだ手を解いて駆け出して、彼女は道を縫うように急いだ。ここを真っ直ぐ行って、あの角を曲がる。そしたらすぐに、あった!

「お姉ちゃん、見て見て!」

 息を切らして追いついた彼女に、ナナは軽やかに飛び跳ねながら写真に写っていた公園を示した。モノクロではない、原色に彩られた遊具で今も子供たちが遊んでいる。

「あぁ。本当だ。やったね、ナナちゃん! おうちはこの近く?」

「うん! こっち!!」

 お姉さんの手を引いて、横に伸びる道へ入る。

 緩やかな坂の少し先、軋む音を立てる門の前にトラックが停まった家があった。業者の者であろう数名の男性が荷物を運び、そのうちの一人が中年の女性と話し合っている。帽子を外した彼が会釈し、運転席に乗り込むと、彼らはエンジンをふかして排気ガスを巻き上げながら去っていった。

 しばし車の後ろ姿を見送っていた女性が、家の中へ戻っていく。

「……ママだ」と、ナナは呟いた。「ママだ……ママだ! ママー!!」

 やっと見つけた。やっと会えた。久しぶりに、姿が見れた。もう一度、抱きしめて。一緒に遊んで。笑いかけて。そうしたら、きっとこの寂しさもどこかへ行く。

 泣き出しそうな笑みを浮かべながらナナは愛しい我が家へと走り出した。



 玄関の戸を閉め、彼女は息を吐いた。とりあえずは、ひと段落と言ったところか。

 必要なものを運び出し、ずいぶんすっきりした我が家を見渡す。幼い頃からここで育ってきた彼女にとって、この家は大変思い出深い場所だった。柱の傷や黄色味がかった畳、剥がれ落ちたタイルまで、そのすべてが家族と過ごした数多の記憶と繋がっている。

 しかし、老朽化が進み、段々と年老いていく両親や自分のことを考えると、急な階段や滑りやすい浴室などに不安を感じ、長い話し合いの末、立て直しをすることになった。

 落ち着いて部屋を巡っていくと、数十年の思い出が波のように押し寄せ、リフォームだけでよかったのでは? という考えにもなってくる……いや、と彼女は頭を振った。これでよかったのだ。これで。

「さてと、あとは大物だけだな」

 家を壊そうと手持ちの品を整理するうちに、予想外に膨大な量の品物が出てきたことには驚いた。いつの間に私たちはこんなに物を溜め込んでしまったのだろうか。

 押入れや棚に仕舞い込んだ分は処分した。しかし、まだ倉庫と化している屋根裏と庭に据え置かれた物置の片付けが終わっていない。後回しにしていたツケがやってきただけなのだが、今や開けるのも恐ろしい。

 大きなため息をひとつ吐いて、彼女は窓の外にあるサンダルをひっかけ、裏庭へと出た。ローズヒップやミニバラの低木を横切り、何が出てくるかわからない四角い箱を見上げる。

「……やるか」と、腕まくりをした瞬間、チャイムが鳴った。

 こんな忙しいときに誰だ、と眉を潜めて玄関に向かう。門の前に立っていたのは、おそらくはまだ学生であろう若い女性だった。深緑のジャンパースカートにマスタード色のセーターを着た愛らしい少女が、背筋を伸ばしてお辞儀をする。

「はいはい、何でしょうか?」と、門を開ければ「突然申し訳ありません」と、彼女がポケットから名刺を取り出し、丁寧にそれを差し出した。

「私、この近くのアンティークショップで働いている者です。よろしければ、お宅にある品を買い取らせていただけませんか」

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