II

 軽やかなベルの音が店に響いた。ふわり、と花と樹の匂いが香る。

 室内には色々なものが置かれていた。大きな皮張りのソファーや装飾の施された椅子、洋風から和風まで大小様々なタンス、書き物机、ランプシェードや地球儀、小物入れといった雑貨から、壁には鏡や絵画がまでもがかけられていた。

 少女は高揚感を抑えられなかった。やっと望んだ場所に来られたような居心地の良さを感じる。見る限り、ここに置かれた物は真新しいものではない。時代を超え、人に触れ、多くの想いを吸い込んで、今は安らかに時を過ごしている。そんな雰囲気があった。

 彼女は、ガラス張りの引き戸がついたチェストの傍へ歩み寄った。その中には、美しく着飾ったお人形たちが静かに並んで座っている。ブロンドの髪を三つ編みにして田舎風のワンピースを着た女の子や焦げ茶色のつややかな髪を纏めてスミレ色のドレスに身を包んだ子、きっちりしたブラウスを着た赤毛の男の子まで個性豊かな表情が揃っている。

 ガラスでできた瞳を彼女はじ、と見つめた。窓から太陽の光が差し込み、きらりと輝いた紺碧の瞳は、何かを語りかけてくるようでもあった。

「いらっしゃいませ」

 後ろからかけられた声に驚いて少女は勢いよく振り返った。

 そこには、愛らしく落ち着いた雰囲気のお姉さんが立っていた。深緑のジャンパースカートにマスタード色のセーター、肩口で切りそろえられた髪の毛先がくるんと内側に巻いている。

「今日はお一人ですか?」と、彼女は小首を傾げた。

 一人──優しい声に胸の内がぎゅ、となって、少女の目尻に涙が滲んだ。忘れようとしていた事実が不意に溢れ出す。ママはどこ? どうして迎えに来てくれないの? 寂しい。怖い。このまま会えなかったらどうしよう。

 抑えていた感情に飲み込まれ、彼女は大声で泣き始めた。おろおろとお姉さんが慌てふためいている。それでも止まらないのだから仕方がない。よしよし、となだめるように頭を撫でてくれる彼女に甘え、少女は服にしがみついた。

「よくここまで来たねえ。偉いねえ」と、背中を叩くリズムに、温度に、安心する。

 店の奥から足音が聞こえ、また別の人が姿を現した。

 ベストを着込み、丸い眼鏡をかけた男性は少し驚いたように目を見開いた。

「これはこれは、随分可愛らしいお客さんが来たようだね」

 穏やかに微笑む彼は、少女に柔らかな視線を向けた。


「ナナちゃん、迷子になっちゃったの」

 ちょっとばかり落ち着きを取り戻し、涙声で呟く彼女にお姉さんは「大丈夫」と力強い言葉をかけてくれた。

「私たちがおうちを見つけてあげるから」

「……ほんと?」

「本当だよ。私と店長がナナちゃんの居場所を見つけてあげる」

「ママに、会える?」

 背の高い身体を折り曲げ、店長と呼ばれた男性が少女と目線を合わせた。

「僕たちがママを探すお手伝いをするよ。だから、心配しなくていい」

 うん、とナナはひとつ頷く。

 彼らの言葉は真っ直ぐで、なんだかとても温かい。初めて会ったのに、初めて会った気がしないような、なんとも不思議な感覚だ。この人たちは信じても大丈夫、とたくさんの囁き声が後押しをしてくれているような気がした。


 疲れてない? と、お姉さんはナナを店の奥に案内してくれた。そこはなんだか甘くて苦くていい匂いがして、いくつかのテーブルと椅子が並んだ部屋の壁際には、ショーケースが置かれていた。

「わあ!」と、ナナは声を上げる。

 木枠にはめ込まれたガラスケースの向こうには、色とりどりのケーキが並んでいた。真っ赤な苺が乗ったケーキに、ガトーショコラにフルーツタルト、紫色のドーム型のケーキや、つやつや光るオレンジのケーキまである。三角形のシンプルなチーズケーキはママが好きそうだ。

「どれでも好きなの選んでいいよ」

 目を輝かせるナナにお姉さんが微笑ましげな声で言った。

「うちのお店のは全部美味しいから」

 ナナは目を瞠った。どれにしようか、目移りしてしまう。うん、と彼女は心に決めて、指をさしながら振り返った。

「わかった。少し待っててね」


 猫足の椅子に座り、窓の傍に置かれた蓄音器を見つめながら足をぶらぶらさせていると、鈍色のお盆にケーキとポット、ティーカップを乗せたお姉さんが「お待たせしましたー」と言ってやって来た。

 金の縁取りがされたお皿の中心に円形のチョコレートケーキ。その上には雲のような真っ白い生クリームと何粒もの木苺が飾られている。ナナがフォークに手を伸ばそうとしたその時、ことり、とテーブルの隅に砂時計が置かれた。

「砂が全部落ちたらお茶も飲めるからね」

 さらさらと微かな音を立て、下へ下へと流れていく。ナナは顔を傾け、その様子を見上げるようにして眺めた。ランプシェードのほのかな灯りに照らされ、時折煌めく粒子は、砕かれてもなお気高さを主張する宝石のようでもあった。

 最後の一粒が砂の中に溶け、彼女はほう、と息をついた。

 お姉さんが赤みがかった紅茶を注いでくれる。カップからは甘酸っぱい春の匂いがした。

「お砂糖、欲しかったら言ってね」

 こくり、と頷いて口をつける。湯気に混じって鼻腔をくすぐる花の香りが、頭の中のイメージと結びつく。これは、お庭に咲いていた薔薇みたい。

「おいしい!」

「そう? よかったあ」

 ケーキにフォークを入れ、大きな一口を頬張る。チョコレートの濃厚な味と果実の瑞々しさ、クリームの甘さが交わって、なんとも幸せな気分になった。

 お姉さんの横で、そういえば昔はママとよく喫茶店ごっこをしたなあ、と記憶を蘇らせていると、壁を隔てた向こうから階段を降りる音が聞こえてきた。程なく姿を現した店主のおじさんは、何冊かの分厚い本を抱えていた。

「この辺りの地図、持ってきたよ」

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