ANTIQUE

伊勢矢琵琶

I

 見慣れない場所に出た、と少女は思った。自分の手を握ってくれていたママの体温を感じなくなって、どれほど時間が経っただろう。

「迷子にならないようにね」と、いつも言われていたというのに。どこへ行くにも一緒だったというのに、自分は今、恐れていた迷子になっている。

 大きな目をくるりと動かして、彼女は通りを見つめた。コンクリートで舗装された道の向こうには統一性のないお店が点在していて、裏手は住宅街になっている。パン屋さんに歯医者さん、電気屋さんにレストラン。それほど遠くへ離れたつもりはないというのに、見覚えのない景色に不安になって、少女は側にあった細い街灯をぎゅっと掴んだ。


 ママは迎えに来てくれないだろうか。でも、もうずいぶん同じ場所で待っている気がする。迷子になったらどうしろと言われていたっけ。思い出せない──ぐるぐると思考を巡らせて、少女は決意した。私がママを探しに行こう。

 そうとなれば、と拳を握りしめ、少女は先を進んだ。ふと、ガラスに映った自分の姿が目に入る。花柄のくすんだピンクのワンピースと茶色のゆるやかな巻き毛。向かい風が吹いて崩れた前髪を整え、現れた瞳は強い意思をもってきらめいていた。なんだか大丈夫な気がする、と彼女は空に昇る太陽を追って歩みを進めた。


 住宅街を縫うように歩く。見慣れた我が家は見つからない。時折、街路樹からこぼれ落ちる木漏れ日に目を細めながら彼女は何かに導かれるように先を急いだ。

 あれ、と不意に少女が立ち止まる。住居と住居の間、人一人が通れそうな細い隙間に階段があった。どこに繋がっているのだろう……確かめたい! 少女は衝動的に薄暗い斜面に駆け寄り、一歩ずつ石段を下っていった。なんだか冒険しているみたいで楽しくなってきた。まるでママが昔読んでくれた絵本の主人公みたいだ。

 最後の一段を軽やかに飛び降りて、彼女は左右を確認した。右は日差しに明るく照らされた上り坂、左手には暗がりにぼんやりと光が差すようにトンネルが浮かび上がっている。所々に蔦の絡むその様に少女は無性に心惹かれた。よし、あっちへ行こう。

 小石の転がる砂利道を踏みしめ、アーチをくぐる。壁の両面には不規則に煉瓦が貼り付けられ、ヨーロッパの裏路地を思い起こさせた。ひんやりとした空気が肌に心地いい。足元にたくましく咲く草花を横目に見ながら、彼女はトンネルをくぐり抜けた。

 その先には──なんということはない、普通の住宅街が続いていた。そう易々と不思議の国に行けると思っていたわけではないが、少しがっかりしてしまう。彼女は目の前に広がる景色を眺めた。段々と坂が連なり、家々が並ぶ中で、ふと気になるものが目に留まった。

 燻んだ藍のとんがり屋根が伸びる時計台。

 遠くにそびえるその輪郭から何だか視線が外せなくなって、吸い寄せられるように彼女は坂を登った。


 白いレンガ造りの塔を首を伸ばして食い入るように見つめる。

 三階建てほどの高さがある細長い時計台はシンプルながら、文字盤はカラクリ仕掛けが施されているかのように凝った造りになっていた。本来、数字が配置されているはずの場所には一回り小さい時計が嵌め込まれ、黄金の長針と漆黒の短針がそれぞれ異なる場所をさしている。

 唇を薄く開けながら、しばらくそれに見惚れていた少女は、首が痛くなって目線を戻した。まん丸な目がさらに丸くなる。何故気づかなかったのだろう。そこには、同じく煉瓦造りのお洒落な建物があった。よく見れば、時計台そのものが煙突のように二階建てのその建物に併設されている。「ANTIQUE SHOP」と書かれた看板が下がっているが、どういう意味かはわからなかった。円形の窓の向こうには、可愛らしい花が飾ってある。何かのお店だろうか?

 中の様子が気になって、彼女は庭に敷かれた石畳の上を走り抜けた。一生懸命背伸びをしても、中を覗くには身長が足りない。ちょっと迷って、考えて、深みのある茶色のドアの前で立ち止まり、彼女はノブに手をかけた。

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