第11話夜を想う

 マリエッタが目を覚ましたのは、夜のことだった。

 マリエッタはここが何処であるのか、すぐには分からなかった。まだ夢の中にいる気がした。寝そべった視界から見える天井は木製で、天蓋の布は白色で月の透かし模様が入っていた。

 

 ——ここは仙洞門せんとうもんか。

 

 マリエッタは深く息をついた。ゆっくりと起き上がって天蓋を開けた。炎輝が、寝台の近くにある椅子に座っていた。目を硬く閉じ頭が少し右に傾いている。居眠りをしているようだ。膝の上に置かれた本が今にも落ちそうだ。

 マリエッタは本が落ちる前に拾い上げ、近くの机の上に置いた。燭台の蝋燭の炎が揺れて、炎輝は目を開けた。


「起きたか?」


「ええ。今回も炎輝が?」


「突然倒れて、心配をした」


 炎輝は、マリエッタに右手を伸ばした。優しくマリエッタの頬を包み込む。頬に当てた右手からマリエッタの体温が伝わってくる。マリエッタの温かさに炎輝は安心した。

 

「妖魔は?」

 

 マリエッタは、炎輝の右手に自分の左手を重ねた。マリエッタと炎輝の体温が混じり合う。

 

「覚えていないのか?」

 

「首を絞められて、朦朧してきたところまでしか覚えていないの」

 

 炎輝は答えることをためらった。マリエッタの頬から手を離し、顔を逸らした。

 

「君は、目が赤くなって妖魔の拘束から逃れると、一刀両断した」

 

「え?」

 

 マリエッタの戸惑う様子が視線を逸らした炎輝に伝わる。炎輝は言葉を続けた。

 

楽紅夏らっこうか氏の特徴がよく出ていた。紅茶ホンチャ老師が当主に話す、と言っていた」

 

 マリエッタはしばらく考え事をしていようだったが、思い悩むのは辞めたようだ。炎輝に声をかける。

 

「炎輝、外を歩かない?」

 

「君はまだ、寝ていなければならない」

 

 炎輝は、マリエッタに寝台に戻るように指し示した。マリエッタと炎輝は、そのまましばらく向き合っていた。炎輝は、マリエッタが寝台に移動するまでそのまま立っているつもりだ。

 やがて根負けしたマリエッタは、寝台に寝転がった。

 

「ケチ」

 

 マリエッタの子供のような反応に、炎輝は答えない。掛け布団を優しくかけて天蓋を閉じる。

 

「おやすみ、マリエッタ」




 翌朝、すっかり元気になったマリエッタは、朝食を食べに食堂に来ていた。月娥たちも朝食を食べに来ていた。盆の上にはいくつかの椀が乗っている。

 月娥の盆には、鹹豆漿シェンドウジャンだ。温かい豆乳スープである。具には、ザーサイや桜エビが入っている。皿には蛋餅ダンピンが乗っていた。

 マリエッタも鹹豆漿シェンドウジャンの椀と蛋餅ダンピンが乗った皿を取り盆に乗せた。月娥と向かい合うように座る。

 

「武術大会?」

 

 マリエッタは月娥に聞き返した。どうやらもうすぐ武術大会が開催されるため、門弟たちは浮き足立っているようだった。

 マリエッタは鹹豆漿シェンドウジャンを蓮華で掬って口に含んだ。優しい豆乳の味が口に広がる。

 

「そう。日頃の成果を発表する場よ」

 

 月娥は蛋餅ダンピンに齧り付いた。月娥の隣に朝食を手にした芳明が座った。

 

「仙洞門五氏の当主たちも来るから、みんな気合が入っているんだよね」

 

 芳名の盆には、蘿蔔糕ロウボウガオ山薬排骨湯シャンヤオパイグータンだ。蘿蔔糕ロウボウガオは大根を餅に混ぜた物を蒸しあげ、一切れづつ焼き目をつけたものだ。山薬排骨湯シャンヤオパイグータンは、豚のスペアリブと山芋のスープである。

 月娥の反対隣に高長が座った。

  

「俺たちは、親が観にくるからやりにくいがな」

 

 高長の盆には蘿蔔糕ロウボウガオ鹹豆漿シェンドウジャンが乗っている。

 

「ここでいい成績を残すと仙洞門五氏の門弟ではなくて、直系の養子になる可能性が出てくる」

 

「だから最近、みんな授業に気合が入っているのね」

 

 妖魔退治は組学習なので、組単位で授業の進捗が異なる。それなのに門弟たちは一様に浮き足立っていたのでマリエッタには不思議だったのだ。

 

「マリエッタは?やっぱり、楽紅夏氏?」   

 月娥はマリエッタに尋ねる。

 

「炎術が使えるからそうなるのかな?」

 

「あれだけ特徴を見せていたらねぇ」

 



「また、眠れない」

 

 マリエッタは、部屋から抜け出し夜の散歩をしていた。三日月の夜である。仙洞門の塀を乗り越え周辺の散歩をする。近くに大きな藤の木があった。花の盛りで薄い紫色の花びらが月夜にぼんやりと浮かんでいる。

 時折、ひらりと藤の花弁が地面に舞い降りた。

 マリエッタは立ち止まり、藤の木を見上げ来た道を戻る。

 今日は、故郷に急ぎ帰り復讐を遂げようとする思いは湧いてこない。いつも、この湧き上がる衝動を抑えるためにあちこちを歩き回る。

 仙洞門の塀に手をかけ体を引き上げ、足を乗せた。

 

「そこで何をしている」

 

 塀のすぐ下にこちらをまっすぐと見上げている炎輝がいた。手には燭台。優秀な門弟が当番として行う夜の見回りの最中だった。

 

 まさか、炎輝がいるとは思っていなかったマリエッタは、驚いて呼びかける。

 

「炎輝?」

 

「夜間は外出禁止だ」

 

 しかめっ面の炎輝が塀の上にいるマリエッタを注意した。炎輝の長い黒髪が月夜に反射して艶かしい。

 

「眠れないから散歩をしていたの」

 

 音もなくマリエッタは塀から飛び降りる。着地も音がくふわりと舞い降りる。

 

「何かあったのか?」

 

「何もないわ」

 

「なら何故?」

 

「何も。悪夢を見るだけ」

 

 マリエッタが強情に何も話さないことに炎輝は、苛立った。なぜ、自分がこんなにも他人に対して苛立っているのか炎輝にはわからない。

 

「規律違反だ、罰は受けろ」

 

 炎輝の情も涙もない言い方にマリエッタは反論をした。

 

「何も遊びに行っていたわけじゃないんだし、いいじゃない」

 

 対して炎輝は無常であった。

 

「例外は無い」

 

 炎輝は、これ以上マリエッタと取り合わないことにした。踵を返しマリエッタに背を向ける。炎輝の長い黒髪が弧を描いた。

 

「ここには炎輝と私しか居ないんだし、炎輝が黙ってくれていたらいいんだよ?」

 

 考えを曲げる気はないのか炎輝は、宿舎に向けて歩き出した。羽黒辰はぐろたつ氏の黒色の装束が闇に紛れる。

 

「あ、ちょっとぉ!」

 

 マリエッタは立ち去る炎輝の背中に声をかけたが、炎輝が振り返ることはなかった。

 



「マリエッタ・ドロリナ、夜間外出禁止の規律を破ったため、罰として六角堂で書庫の整理を命じる」


 翌朝、マリエッタは全門弟たちの前で、李書維から無常にも罰則を告げられた。


「あいつめ……告げ口したわね」

 

 

 

 授業が終わった六角堂で、マリエッタは炎輝に詰め寄っていた。マリエッタが六角堂へ向かった時、すでに炎輝がいつもの位置で本を読んでいた。

 

「ちょっと!黙っていてくれてもいいじゃない」

 

 マリエッタは感情が昂ると空色の瞳が星のように煌めく。美しい輝きに炎輝は、マリエッタの瞳をじっと見つめる。

 

「規則は規則だ」

 

「この石頭!」

 

 炎輝はマリエッタの子供のような悪口にため息をついた。

 

「早く片付けろ。日暮れまでに終わらないぞ」

 

「手伝ってくれるの?」

 

 マリエッタの甘えた声を炎輝は無視した。本の続きを読み始める。

 炎輝のつれない態度にマリエッタは、肩を落とした。

 

「そんなわけはないわよね。……なんでずっと見ているの?」

 

 マリエッタは、イヤイヤ本を片付け始めると背中に強い視線を感じる。

 犯人は炎輝しかいない。

 マリエッタが振り返ると、炎輝が尋ねてきた。

 

「昨日は?」

 

「何が?」

 

 炎輝の短すぎる言葉にマリエッタは聞き返した。いつも炎輝は言葉が足りないと、マリエッタは思う。

 

「悪夢は見たのか?」

 

「ええ、もうバッチリ」

 

「そうか」

 

 炎輝はマリエッタに使えそうな護符はないか懐を探る。

 取り出した札を見てマリエッタは答えた。

 

「呪いの類は効かないわ。色々試したけれど。見ないようにするには記憶を消すしかないわ」

 

 かつての生活を夢見るのは辛かった。たいてい悪夢で、牢屋に入れられるまでか、拷問にかけられる前だったり、処刑直前だったりと、バラバラではあった。

 あまりに魘されるので、両親が医者に見せたが怪しい薬を処方されただけだった。

 薬は全く効かなかった。余計に体調が悪くなっただけであった。

 緋国に来てから、マリエッタは悪夢除けの護符や厄災除けの護符などを試したが全く効かなかった。

 

「過去の記憶を夢に見るのか?」

 

「鮮明にね」

 

 夢を見ているときは、本当にそこに自分がいるような感覚がするほど鮮やかであった。

 同じことを繰り返し、繰り返し。

 

「それは、お前がこの国に来たことと関係があるのか?」

 

 マリエッタが一番触れられたくない、心の柔らかい部分を炎輝が踏み抜いた。

 まだ、誰にも触られたくない事だ。

 マリエッタの瞳が業火のように煌めく。

 

「炎輝、手伝わないなら出ていって」

 

 マリエッタからの強い言葉に、炎輝はたじろいだ。

 懇願するように名前を呼ぶ。

 

「マリエッタ……」

 

「出ていって」


 マリエッタのひどく冷めた声がしたかと思うと、次の瞬間には炎輝は、本を片手に六角堂の入り口に立っていた。すぐ目の前で六角堂の扉がぴしゃりと、閉まる。

 引き戸を開けようと手をかけても、何かに抑えられているのか扉は、ぴくりともしない。

 

 炎輝は、マリエッタの術によって六角堂から締め出されたのであった。

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