第11話
「じゃ、また後で話聞いてね」
紗子が軽く手を振って席に戻っていった。
(わたし、変なこと言ったと思ったのに、もしかして紗子先輩を元気づけられたのかな……。あの人のお陰だ、いつもの私だったら、励ますなんてできないもの)
紗子は、課長の席の近くでパソコンの入力を始めている。さっきトイレで泣いていたのがウソのように仕事に打ち込んでいた。花音も自分の席に戻って、仕事を続けた。
今日は金曜日。彼に助けてもらった金曜日。時計は4時前を差している。
(今日は、もしかして会えるかも……)
花音は少しだけ期待していた。
「伊藤さん、仕事頼める?」
吉原が書類をドンと花音のデスクに置いた。
「これをまとめて欲しいんだ。市場分析と販売実績のグラフも頼むよ」
「あ、あの……え……、わたしに……ですか?」
「うん」
「あの、でも……」
金曜日、ミスをしたのは花音だと思っているはずなのに、どうして自分に頼んでくるのか……
「ああ、先週のこと気にしてるの? あれは言い過ぎたよ。ごめんね。でも、頼めるの、伊藤さんしかいないでしょ?」
吉原の小バカした言い方にも、言い返せない花音。
「……分かりました」
「急がなくていいから、月曜日に間に合えば……よろしくね」
「月曜日……ですか……」
「うん。俺、これから出ないといけないから、頼んだよ」
その様子を見ていた紗子が
「吉原君」
「はい」
吉原は紗子に声をかけられてドギマギしている。美人オーラに押されているようだ。
「伊藤さんばっかりに言わないで、私にも言ってくださいね」
吉原は頭をかきながら出て行った。
「伊藤さん、たまには断らないとダメよ。面倒な仕事をみんな押し付けられるわよ」
紗子はざっと書類を見ると、その中のいくつかを自分のデスクに持って行った。
「あ、有難うございます」
「気にしないで……」
紗子は親しげに笑ってくれた。今まで気押されてばかりいたので嬉しい。
吉原の仕事を終えて時計を見ると、7時過ぎだった。
(あの日と同じ時間に終われた。紗子先輩に手伝ってもらえて良かった。もしかしたら会えるかも……)
急いでパソコンの電源を落とすと、帰る準備をして吉原に出来上がった書類を渡した。
「ありがとう。助かるよ。伊藤さん、これで帰るの? 俺も仕事終わったんだ。食事でもどう? いつもよくしてくれるからお礼に……」
今までも面倒そうな案件ばかり花音に回していたが、当たり前のような顔をしていた吉原。
(今更、お礼をしたいなんて……。仲のいい女の子は多いみたいなのに、どうして私を誘うんだろう……? 変なの……)
花音は、吉原の自分がイケメンなことをフル活用してるところが苦手だった。
「すみません。私、待ってる子がいますので」
「え、伊藤さん、お子さんいたっけ?」
吉原がからかうように言う。
「いえ、犬ですが……私の帰りを待っていますので……」
「へぇ~、いいね。俺も犬好きなんだ! でも、お母さんと一緒に暮らしてるでしょ。連絡入れれば少しくらい遅くなっても平気なんじゃない」
訳知り顔で言ってくるが、本当のことは知らないみたいだ。でも、気持ちのいいものではない。
「あの、母は、今、入院中で……」
「大変なんだ! どこが悪いの?」
「…………」
花音は答えたくなくて黙り込んでしまった。
「じゃあ、今は一人暮らし?」
「……はい」
答えたくないと思いつつ、答えないのもおかしい気がして、気が進まないまま返事する。
「じゃあ、今度その犬に会わせてよ」
「え? あ……、ごめんなさい。人見知りする子なので。知らない人は……」
「お前、嫌がられてるじゃん」
吉原と同期の村上亮太が助け舟を出してくれた。
「伊藤さんは、口下手なだけ。お前、分かってないね~」
(村上さんの言う通りなんです。私、嫌なんです……)
とは言えず、
「……ごめんなさい。あの、失礼します」
花音は、ペコペコと頭を下げると逃げるように退出した。あの日の時間をとうに過ぎていた。
(せっかく同じ時間に出られると思ったのに遅くなっちゃった。もしかしてと思ってたのに……)
黒い傘を持って必死に探す。人の波を縫うように、本町駅の近くを行ったり来たり、だけど……あの人の姿はなかった。
(もう一度、会いたいなぁ……)
吉原が会社から出てくるのが見えた。こちらに気づいていないようだ。花音は慌てて帰途についた。
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