第10話

「おーい! みんな、集まってくれ。ほら! そこの3人聞いてるか?」


課長の声に美香は、花音に広げたままの傘を押し付けると、慌てて離れて行った。花音は、大切そうにそっと傘を閉じた。


「うちのエースの肥田君は、功績を認められて営業第一課に異例の配転になった。それも次長としてだ。みんな笑顔で送り出してやってくれ。


我が営業三課にとって肥田君を失うのは大きな損失だが、その穴埋めはみんなで協力してやっていこう。話はこれまで」


(二宮さん、嬉しいだろうな。好きな人が認められて! いいな~)


「ねぇ、ちょっと、二宮さんから聞いたことある? 肥田さんの事……」


真紀が聞いてきた。


「え? いいえ……」


「そうよねぇ。私もよ?」


美香も不可解そうだ。


「二宮さん、知らなかったんじゃない? ほら見て、真っ青よ」


真紀が視線をクイッと二宮紗子に向けた。


花音がトイレに行くと、二宮紗子が泣きながらお化粧を直していた。知らないふりをしようと思ったのに、鏡の中の紗子と目が合ってしまった。戸惑っていると、紗子の方から声をかけてきた。


「ごめんね。見苦しいところを見せてしまって……」


さっきの真紀たちの会話が頭をよぎって、言葉が出てこない。何を言っても失礼な気がするが、沈黙に耐えかねて言ってしまった。


「あの、肥田さん、昇進、良かったですね……」


二宮紗子は、自嘲の笑みを浮かべると、コンパクトをバッグの中に放りこんで言った。


「ぜんぜん良くないわよ」


「え?」


「金曜の夜、フラれたのよ。あの夜のにわか雨、ひどかったでしょ」


紗子は一点を見つめて悔しそうに唇をかんだ。花音があの人と出会った日だ。


「あの日、私、ブラウスだったし……、濡れると透けてくるでしょ。傘も持ってないしどうしようかと思ったわ。


彼ったら、上着もかけてくれないの。少し前のあの人だったらそんなことなかったのに……」


紗子の目にまた悔し涙が溢れてきた。かける言葉もなく花音は頷くことしかできない。


「私、あなたに早く彼氏作って結婚しなさいってばかり言ってたけど、これじゃ、格好つかないわね」


「そんなことありません。先輩は仕事が出来るし、いつも私たち後輩を気遣ってくれて、営業部で一番きれいな人です。


先輩をフルなんて見る目がないと思います。肥田さんの事なんかで挫けちゃだめです!」


日頃、おとなしい花音が思い切った事を言うので紗子は目を丸くした。


「あ、すみません。私ったら、生意気なことを……」


口にした後で花音はアワワとなった。


偉そうなことを口走った上に、営業部のエースの肥田さんを“なんか”呼ばわりしてしまった。


(どうしよ……)


「あの~、先輩、すみません。そういう意味で言ったんじゃ……」


(“じゃあ、どういう意味よ”って聞かれたらどうするつもりなの~。事情だって知らないくせに、わたしのバカ~)


「あの、本当にすみません」


「ううん。謝らないで。本当にその通りだわ。いい人だと思ってたのに……。昨夜は別れてくれの一点張りで……。昇進のことも、今朝、課長の話で知ったのよ。ほんとバカみたいでしょ? 


彼、私が入社した時から、すごく親切で優しくて、会うたびに好きなって、………すごく嬉しかったのに……ずっと夢中だったのに……。なんか首をきられるみたいに、あっさりフラれちゃった」


「あの、でも……失礼なこと言って、ごめんなさい」


「ううん。なんで伊藤さんが謝るのよ。ほんとは大したことのない男だったのよ。伊藤さんにきっぱり言ってもらって、スッキリしたみたい」


そう言って、紗子が花音の肩をたたいた時、他部署の2、3人の女子がガヤガヤと入ってきた。促されてトイレを出る時に、チラッと見た紗子の顔はいつも通りだった。

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