第9話

今日は月曜日。


また一週間、家と会社の間を行ったり来たりする平凡な毎日が始まる。


休みの間、花音は金曜日の雨の日の出来事を繰り返し思い出していた。


あの日から、いつもの景色が違って見える。何もかもが美しく、何もかもが楽しくて幸せな気持ちでいっぱいになってくる。


(あの素敵な人に、もう一度会いたい!)


優しい声、綺麗な笑顔、自分が濡れるのも構わず傘をさしかけてくれた優しい人。花音の脳裏をキラキラ輝いて駆け巡る。


花音の家は中津駅の近くにあり、通勤はOsaka Metro御堂筋線を利用している。


梅田、淀屋橋と乗り、普段は本町駅で降りる。


が、あの人に会えるのではと期待して、今日は手前の淀屋橋駅で降りた。階段を上がって御堂筋へ出ると、大会社のビルが軒を連ねている。


花音の勤める西川物産は、三友商事の横にある道を入って10分ほど行った所にある。


キョロキョロと探しながらゆっくり歩いていたが、すぐに会社に着いてしまった。


「どうしたの? その大きな傘……。それ男物じゃない」


職場に着くと、同僚の佐藤真紀が不思議そうに聞いてきた。


「金曜日、会社の帰りに雨に降られてしまって、急いで走ったら転んじゃって……通りすがりの人が傘を貸してくれたの、それで……」


「え? それ誰? この会社の人?」


「それが分からなくて……」


「名前聞かなかったの?」


「ええ……」


「それじゃ、全然わからないじゃない」


「ふうん。ね! 伊藤さん、その傘、見せてよ」


「え? あ、でも……」


花音はとっさに嫌だという言葉が出ず傘を握り締めたが、真紀は奪い取るように傘を掴んで広げた。


「へぇ、これ、結構するんじゃない?」


「え?」


「高そうな傘。こんなのくれるなんて、気前がいいよね」


「え、ええ」


「ん? でも、名前も何もわからないのに、どうやって返すの?」


「あ、ほんとは返さなくてもいいって、言われたんだけど……、きちんとお礼を言いたいから」


「ふーん。どんな人だったの?」


「え、や、転んで、慌ててたし、痛かったし、よく覚えてないの」


花音は思わずウソをついてしまった。でも正直に言ったら、からかわれるのは分かり切っている。


「え~。そんなはずないでしょ。イケメンだったんじゃないの? なんか嬉しそうだもん。教えてよ~」


遠慮なく質問してくる真紀に花音はタジタジになった。


「どうしたの男物の傘なんか広げて」


山野美香だ。


「おはよう。美香ちゃん、これ見てよ。いい傘でしょう?」


「ほんとだ。高級品ね」


値踏みするような目で美香が見る。


「金曜日の夜、伊藤さんが男の人にもらったんだって」


「は?」


佐藤真紀の言葉に美香が首を傾げた。


「金曜、急に雨降ってきたでしょ。その時に貸してもらったのよね?」


「え? ええ……」


「どんな人?」


「それが見てないって言うのよ。そんなんあり得る~?」


「ない」


「ほら! 伊藤さん、ないって! 教えてよ!」


花音は言葉に詰まって、固くなってしまった。


「良かったじゃない。わたしなんて、彼と食事に行ったんだけど、どっちも傘持ってなかったから、二人とも濡れネズミになったわ」


「あんたたち仲いいよねぇ」


美香は他部署の彼と付き合っていて、もうすぐ結婚という噂も聞く。


「まあね。あら、これ見て。黒かと思ったら濃紺だ。ほら、光の加減で……へぇ……」


(ほんとだ!)


花音は目を丸くした。そして、あの人らしい傘だと思った。


黒だと思っていた傘が紺色だったというだけで、あの人の新しい何かを見つけたような気持ちになった。それだけでウキウキしてくる。


「ねぇ、どんな人だったの教えてよ! ねぇ!」


「教えて欲しいよねぇ」


美香も真紀も、直球で聞いてくるので花音はタジタジとなってしまった。

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