第6話

欧風ホテルの様な落ち着いた佇まいの高層マンションの前で花音は傘を閉じた。


建物の規模から多額の資金を投じて建てた贅沢なものだと、一目で分かる。


全面ガラス張りのエントラスから見たロビーは明るく広々としていて、今、外で吹き荒れている嵐のような風雨の音も全く聞こえてこない。


なぜ、普通のOLの花音がこんなところに住んでいるのか。


花音は、伊藤不動産の創業者伊藤重松の孫娘だ。


重松は娘婿の幸次郎に伊藤不動産を譲ると政界に進出し、総理にまで登りつめた人間だ。


これは、中堅だった伊藤不動産を大企業に押し上げた幸次郎の功績も大きい。大阪から東京に拠点を移し、主要都市にビルや不動産を多数所有している。


今や、地方都市にも食指を伸ばし、ショピングモールや多目的複合施設も手掛けている。


母は花音が父の秘書になることを望んでいたが、父と折り合いが悪かった花音は、とてもそんな気になれず、自分でいくつか受け、採用された西川物産に就職した。


今でも勤務先の会社を「そんな三流会社をやめて、こっちで働け」と蔑まれる。その度に自分の選択は正しかったと思う花音だった。


ここは、父がゲストハウス用に購入したが使わずにいたもので、中央に大きなリビングがあり、パーティーでもできそうだ。ゲストルームは5つあり、バストイレが完備されている。


母の交通事故で大阪の病院に入院することになった際、ここに移り住むことになった。


「お帰りなさい。お嬢様! まあ、どうされたんですか!」


ロビーのカウンターにいた大友ルリ子が、慌てて走ってきた。


「まあ、ケガまでされて、すぐに手当てを……。連絡頂けばお迎えに上がりましたのに……」


ルリ子は、花音の幼い頃から、忙しい母に変わりずっと側にいてくれた人だ。


ルリ子の父の大友聡太は、祖父と父の運転手を務めた人で、誠実な人柄を見込まれ、一人住まいの花音をルリ子と共に見守っている。


ルリ子には娘が二人いるが、娘たちが嫁いでからは、大友と二人で自宅兼用のこのマンションの管理人室で暮らしている。


「転んでしまって、本町の駅の近くで」


花音はバツの悪そうな顔をして、エヘッと笑った。ルリ子が手際よく傷をきれいにしてくれる。


「あら、傘……」


「はい。助けて下さった人が貸して下さって……」


花音は恥ずかしそうに笑うと、今日の出来事を話した。


「まあ、お嬢様!素敵なお話ですね!」


ルリ子は花音の手当てをしながら、目を輝かせた。



ロビーから真っ直ぐ行った所にあるエレベーターホール。その角を曲がった所にある一番奥のエレベーターは、花音の自宅専用になっている。


花音がエレベーターの前に立つと、顔を認証し扉が開く。そして、次に扉が開くとチャッピーが座っている。花音を見るなり飛びついてきた。


「ただいま! チャッピー。ごめんね。遅くなって……」

 

抱き上げると、花音の顔をペロペロ舐める。


昼間はチャッピー専用のエレベーターで、2階のこの部屋と1階の大友の部屋を行き来しているので、留守中の心配事はない。


でも、ルリ子の話では、


「お嬢様が、お出かけになったときから、ずっとお帰りを待っているんですよ」


寂しがり屋のチャッピーは、花音がいないと落ち着かないらしい。


ひとしきり遊んだ後、膝のケガに気付いたチャッピーは、ルリ子が手当してくれた傷をくんくんと心配そうに嗅いだ。


「明日はママの所に行くから、お利口にしててね」


(わかってるよ)と言うように、尾をゆっくりと振るチャッピー。聞き分けがいいので余計に可哀そうだ。花音はチャッピーをキュッと抱きしめた。


落ち着いた雰囲気の広いフロアにチャッピーと二人きり……。


チャッピーがいなければ、寂しくてとても耐えられない。


花音の母は6年前、交通事故に遭い、今は三田の介護型リハビリ施設にいる。


母は、出社途中、無免許運転の車に追突され、大ケガをした。


もともと心臓が悪かった母はリハビリも思うようにいかず、落ち着いて療養できる施設を探していたところ、美しい景色の広がる三田市の介護施設を病院から紹介された。


家からは少し遠くなったが、母も花音もとても気に入っている。

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