学区対抗戦 最終日
学区地区対抗戦当日早朝四時──。新一は仁美の家近くに着くと、ため息に似た大きな深呼吸をし、母親を殺害したことを思い出して、もう後には戻れないんだぞと何度も心の中で反復した。
仁美の家の正面ではなく、学校とは反対側の少し先の路地で待機をする。時間までは恐らくあと三十分。身体をほぐしながら仁美が出てくるのを待つ。仁美を見送った後に、新一は最後のハードルを超える──つまりは、計画を実行する。
それは、新一の中では最も簡単であり願いが叶う──低いハードルだった。ここまでのハードルはすべて超えた。油断せずにこのハードルもクリアすれば、自分の作戦は成功するであろう──。新一はそう確信している。
──油断はない。
新一は制服の内ポケットに忍ばせた折り畳み式のナイフを服の上から確かめると、再び深呼吸をした。基本的には素手ですべてを行う決意をしていたので、この胸に入っているナイフはあくまで緊急用のお守りである。
もう、後戻りをすることはできない。あの日あの時、母親を殺したその瞬間からもう後戻りはできない。シラキを信じるしかないし、信じているが、瑞樹はすでに海外に送った。もしも母親の死体やあの男の死体が発見されて拘束されたとしても、自分が拷問処刑されるだけで済むだろう。殺人犯は海外へ逃げても手配をされるが、連帯責任としての刑罰は、この国特有の法律だ、海外では通用しない。
学区対抗戦が始まるまでに──あと七時間ほどを逃げ切り、学区対抗戦が始まってしまえば、もう何人たりとも対抗戦を止めることはできない──無効試合にもできない、その布石もすべて打った。
──仁美。
新一は、心の中で仁美を描いた。もう、抱き合うことも──ゆっくりと語らうことすらもできない。今日、すべてが──終わる。
後悔はない、後悔などないと何度思っても、やはり心の底に残るのは、仁美の姿だった。
「──…ッ」
まだ朝方の薄暗い中、仁美の家の玄関が開く。新一はそれを見るとさらに身体を引っ込めて、本当に僅かな隙間から仁美の姿を覗った。仁美は玄関を閉めると、外に敷いてあるドアマットの下に何かを隠す。──自宅の鍵だ。新一は過去にそのことを仁美から聞いたことがあった。今でもそれは実践されており、最悪無理やりに侵入をするという事態を避けられたことに少しだけ安堵する。
だがすぐに気持ちを引き締めて、油断など一瞬もしない。限りなく完璧に、限りなく静かに。すべてを今日で終わらせるのだ──。
仁美はゆっくりと学校方面へと歩き出して行った。新一が時計を確認するとまだ時間は四時二十分──学校までは十五分も掛からないだろう。新一が仁美を呼び出した時間は五時である。約束の時間よりもかなり早く学校へ到着するだろう。
(仁美──…すまない)
徐々に見えなくなっていく仁美の姿を見送ると、新一は斜め掛けしたスポーツバッグから黒いパーカーを取り出して着ると、フードをすっぽりと被る。制服の上からパーカーを着たので少し動きにくかったが、肩を回すと問題なく動けたので、大きめのパーカーにして正解だったと思った。今は、そんな小さな成功すら嬉しく、思わずにやりと口元が緩む。
周囲を気にしながら仁美の家の玄関に近づく、周囲には気配はない。一気に玄関へと到着すると、ドアマットを足でずらし、鍵を確認して拾った。仁美の自宅からは物音ひとつしない。すぐに鍵を差し込んでゆっくりと回すと、音もなく滑らかにすとんと解錠する。ドアもまたゆっくりと開き、中へ侵入するとドアを閉めて、後ろ手に施錠した。
「──…」
何も音はしない。薄暗い廊下を越えて、リビングルームへ出る。がらんと静まり返ったリビングルームには誰もおらず、電子時計の光がやんわりと四時二十五分を告げていた。
──上か。新一は階段を探し出して、音を立てないように階段を上がる。上がった先には二つのドアがあり、そっと近づくと中から小さく鼾が聞こえる部屋の前に立つ。
(ここか──)
新一は再び大きく息を吸って整えると、ゆっくりとドアノブを回して部屋へ入った。部屋の中は、新一が嗅ぎなれない野生動物のような臭いが充満していた。生臭いが──魚の臭いではない、汗や脂の臭い。部屋の中には大きなベッドと小さな箪笥しかなく、その上で横向きに裸で寝ている肥満体系の男がいる──。それは、仁美の義父であることに違いなかった。一度だけ新一は仁美の義父を見たことがある、車で、学校に仁美を迎えに来た時に見た──その顔と相違はなかった。少し、あの時よりは肥えていたが。
「──…」
新一は、軽く部屋を見渡しただけでそれ以上はもう見ようとは思わなかった。部屋の壁中に、仁美が凌辱されている姿をプリントされた紙がたくさん貼られていたからである。見るに耐えない、新一は強く拳を握り、身体の内側からせり上がってくる感情でぶるぶると震えた。
怒りが──身体を支配する。単純な怒り、殺意、憎悪。それらの感情が新一を支配しきると、ベッドの上で眠り男の髪の毛を掴んで引き上げ、すぐさまに首を締めた。裸締め──いわゆるチョークスリーパーである。
「うう──…ぐぅぅ」
仁美の義父は唸った。新一の強靭な力で締められた気管からは声を出すことはできず、呻くことしかできない。何も理解できないまま、仁美の義父は身体を動かしたり、新一の腕に爪を立ててぎゅうと掴んだりしたが、微塵も緩まなかった。噛みつきをしようにも、技が綺麗に決まりすぎていて顎をこれ以上引くことはできない。今度は新一の目を抉ろうと後ろに手を回したが、新一はすぐに頭を下げて上がっている手の逆側の耳に頬をつけた。
「お前が仁美にしたこと、償ってもらう」
新一は低い声でそう言った。その一言で仁美の義父は正体が誰なのかわかったが、喋ることも、抵抗することも──当然、懐柔することもできない。
「──やめて欲しいだろ?離して欲しいだろう?」
新一の言葉に、仁美の義父はゆさゆさと身体を揺さぶるように頷き、同意する。離してくれと懇願するように「うう、うう」と唸る。
「駄目だな。仁美が嫌だっていっても、お前はやめなかったろう?」
新一はそう言うと同時に更に力を加えて首を締めあげた。後頭部においた手も、思い切り前に押し出す。
「ふしゅぅぅぅぅ」
仁美の義父が息を吐きだすと同時にこれまで抵抗していた力が薄れ、だらりと両腕が垂れた。新一は演技ではなく気絶した──いわゆるオチたと確信したが、その腕を緩めないまま、更に力を込めて、今度は捻りを加える。
みしりと骨が軋む音がしたが、更にそれを続けた。首の骨を折るつもりではいたが、明確にどうすれば折れるのか新一は知らなかった。ひたすらに力を入れて、首を捻り続けた。やがて、新一が力尽きて裸締めを解くころには、仁美の義父の首はあらぬ方向へ伸びて曲がり、口端には蟹のように泡が溜まっている。
誰が見てもわかる。仁美の義父は絶命していた。新一はその姿を確認すると、スポーツバッグの中から折りたたみ式の鋸を取り出す。そして、その鋸を仁美の義父の首に押し当てると――左手で顔面を固定しながら、ゆっくりと轢いた。
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