学区対抗戦

 メンバー達がそれぞれ苦悩する中、新一はこの国有数の大企業であるコウナギ物流の本社前に足を運んでいた。いろは中学との話もついたが、それはすべて前提が揃った時の話であり、まだ確定ではない。

 大きな三つのハードルの一つ目は超えたが、この二つ目が――もしかすれば一番高いハードル――いや、壁とも呼べる高さなのかもしれない。むしろ新一からすれば、三つ目が一番低く、二つ目を超えれば計画の成功は確信している。

「――…ふ――」

 その分、新一は緊張していた。何もアポイントメントを取らずに、大企業の会長と会うことなど果たしてできるのであろうか。だが、会いさえすれば――新一は二つ目のハードルを越えられるような気がしていた。

 時刻は午後十七時を少し過ぎている。ここにいるかどうかすら新一にはわからないが、まずは行かなければ何も始まることはない。

「よし――…」

 制服の襟を正すと、新一はコウナギ物流の本社へと足を踏み入れた。巨大な建物であるこのコウナギ物流の本社ビルは、巨大な生き物の口のように、新一をすんななりと飲み込む。

 両開きのガラスの自動ドアが新一の存在を感知して開く。一歩踏み込むと、ひんやりとした上品な空調が新一を包んだ。綺麗に磨かれたタイルに、自分の薄汚れたスニーカーが足跡を残さないか心配になる。中学生にはおよそ似つかわしくない場所であるが、それでも――新一は歩を止めるわけにはいかなかった。

 紺色の制服を着た受付の女性が、新一を見て一瞬目を丸くしたが、すぐに温和な笑みになる。さすが大企業の受付嬢だなと新一は思った。薄汚れた自分を見ても尚、嘘でも笑顔を作ることができるのだから。

「こんにちは。本日はどうされましたか?」

 受付嬢が優しく新一にそう問いかけた。温和そうな笑顔だけでなく、その声までもが温和だった。

「あ、あの――…」

 スポーツバッグを肩から斜めに掛けている新一は、スポーツバッグを背中側に回すと、まずは受付嬢に一礼した。頭を下げているので受付嬢の表情を見ることはできないが、きっと温和そうな笑顔を浮かべてはいても、きっとおかしな中学生が来たなと思っているだろうと新一は思った。

「自分はABC中学の者です。コウナギ会長に、お話がありまして立ち寄らせて頂きました。アポイントは取っておりませんが、なんとか――取り次いで頂けないでしょうか」

 頭を下げたまま新一はそう言った。しばらく待ってみても、受付嬢からの返答はない。恐る恐る顔を上げると、受付嬢は変わらない温和な笑顔で新一を見つめていた。新一と目が合うと同時に、受付嬢はゆっくりと口を開く。

「申し訳御座いません。コウナギは現在、こちらにはおりません。ご用件などがあれば、連絡先と共に教えて頂ければお伝えすることは可能ですが――…」

 いない――…。新一はその意味を噛みしめ、どうするかを判断する。そして、どこまで受付嬢に話してもいいのか――あまり話すぎても駄目だし、話さなすぎても伝えてもらない、又は後回しにされてしまうかもしれない――そもそも、本当に伝えてもらえるのかを判断する。

「ええでは――少し、長くなりますがよろしいでしょうか」

 新一はそう言うと受付嬢をじっと見つめた。受付嬢の眉毛がぴくりぴくりと動く。笑ってはいるが、自分をよく思っていないことは明白だった。だがそれでも――新一はここで下がるわけにはいかない。

「実は自分――来週に予定されている学区地区対抗戦に出場する身でして――」

 新一のその言葉を聞いて、受付嬢の表情が変わる。同情を浮かべるようなその悲しそうな笑みを見て、新一はやはりここで正解だと確信した。

 コウナギ物流は、政治批判で有名な企業だった。コウナギは予てよりあらゆるメディアで人工保育器の存在を否定しており、子供達の扱いについては、人工保育器の存在よりも強く批判している。

『今日、子供達が過酷な目に合っているのは、すべて人工保育器のせいである』という内容の本も出版しており、討論番組に意欲的に出演し、政治家達に直接激しい意見もぶつけている。

 今回の新一の計画には、コウナギのような大人の協力が必要不可欠だった。話さえ聞いて貰えれば、直接会ってくれさえすれば――新一は成功すると踏んでいる。そう、新一にはとっておきの切り札がスポーツバッグの中に入っているのだから。これを見てくれさえすれば、新一の覚悟も汲んでくれるに違いないと踏んでいる、確信をもっている。

「それは――…なんというか、言葉にできないほど悲しいことですねとしか言うことはできませんが――…」

 受付嬢がそこで言葉を止めると同時に、新一は後ろに気配を感じて振り返る。受付嬢の視線も同じように新一の背後へと移っていた。

「どうしたの?ボク?」

 新一の背後に立っていたのは、ショートカットの少しきつそうではあるが、整った顔立ちをした女性だった。真っ白いパンツスーツにを着こなしているが、それらよりも新一の目が行ったのは、女性の腹だった。

(妊娠している――…)

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