学区対抗戦

 家に帰ると、まずは濃い脂汗の臭いに混ざり、粗悪なアルコール臭に思わず双葉は顔をしかめた。六畳二間のこのアパートは、決して広くはない。家に入ってすぐ見える台所には、飲み散らかしたビールの空き缶が無造作にシンクに放り込まれていた。

 薄汚れたテーブルの上には、赤丸が幾重にもしてある競馬新聞と、、周りに灰を散らかした灰皿――付けっぱなしのテレビ――。そして、半裸で鼾をかき鳴らしながら眠る父親――。この時間に家に居るということは、仕事をまた辞めてきたということを告げていた。部屋の隅には、投げたままの汚れた作業着がくしゃりとしながら固まっていた。

「――…」

 別に、双葉は父親に何かを期待しているわけではない。だが、何故こんなクズゴミが息をし、生物として生きているのかが疑問だった。そして何よりも、そのクズゴミの為に、クズゴミの生活のために自分は存在し、二週間後にクズゴミが生活する金を得るために命を賭けて戦わなければならない――クズゴミの為に生かされている自分こそが、最大の疑問だった。

 何の為に自分は存在しているのか。

 それは、このクズゴミの為。

 吐き気がする、自分自身への嫌悪に、そして、このクズゴミを処理して、自らの命をも処分する勇気のない自分に。十八歳になれば親という縛りが無くなり、人並みな幸せが手に入るかも知れないという淡い期待が、それを制御しているのかも知れない。

 だが――その前に越えなければならぬ、絶対の壁――学区対抗戦。絶対に勝てぬとわかっていても、双葉には父親を殺し、自分も死ぬという選択肢が選べない。

 それは新一の存在と、次郎との未来――。人は、絶望の最中でこそ、希望にすがる。絶対の絶望の中だからこそ、針の先のような僅かな希望でも強く、そして眩く光るのだ。

 こんなクズゴミの為に出はなく、次郎のために――料理を作りたい。次郎のために部屋を掃除したい、生活を整えたい。どんなに貧乏でも、どんなに粗悪な部屋でもいい、二人で生活をして、二人でささやかな幸せを手に入れたい。

 それが叶う可能性が僅かにでもあるのなら、そんな僅かな希望があるのなら――双葉はそれを捨てることはできない。今ここで包丁を取り出し、父親の喉に突き立てるのは簡単だ、だが、それを実行すれば、僅かな希望は確実に無くなる。その事実に、双葉は耐えることはできなかった。

 そして新一――。僅かな希望を、唯一叶えることができるであろう人物。次郎だけではない、新一が居るからこそ、双葉は希望を捨てきれない。

 いつも、新一がどうにかしてきた。新一が、未来を切り開いてきた。仁美のことも、自分のことも、新一がいつも、どうにかしてきた。そういった意味では、双葉にとって新一は絶対の異性であり、抱かせろと言われれば抱かせるが、次郎とは違い、新一は恋愛対象ではなく憧れだった。むしろ、それは崇拝にも近い。

 ――新一なら。新一ならどうにかしてくれるッ。

 根拠無くそう願ってしまうことは、最早神頼み。神に対する恋愛などはない。大袈裟に言えば、双葉にとって新一とはそういう存在だった。

 こんな生活も、新一がどうにかしてくれる。学区対抗戦さえ――越えることができれば――。その後はもう、たったの三年間――このクズゴミの世話をして、十八になった瞬間におさらばすればいい――。

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