十三の夏
小石原淳
十三の夏 その1
※以下に書き記す物語は今を遡ること三十年近く前、一九九〇年代半ばの出来事である。スマートフォンはもちろんなく、旧タイプの携帯電話はあるにはあったが万人のツールにはなっていなかった。所持していたにしても、電波の状況によって使えなくなることもしばしばであった。
故に被害が際限なく拡大していったと言えるのかもしれない。だが一方で、たとえ現代であってもあのような被害が出る前に食い止められたかというと、確信を持って肯定することを躊躇わざるを得ない。それほど“奴”は異形の存在のように思われてならない。
~ ~ ~
夏が来れば思い出す一つの記憶が、
(
八の月のカレンダーを眺めながら、彼女は心の中、そうつぶやいた。
それは苦い、いや、痛い記憶であった。あのことを思い出すと、痛みで脳が破裂しそうになるのが、晶子の偽らざるところである。そして、そんな肉体的な苦痛以上に、精神的な苦痛を感じるのだ。夢のような、狂ったような夏の出来事……。
「ひとりぼっちの私」
意味もなく、晶子は声に出していた。
* *
「緋野山、とは、よく、言ったもの、ね」
ルミこと
「ルミ、どういう意味?」
問い返したのはルミのクラスメート、アキ。同じくオーバーペースだったとみえて、ルミの横に腰を下ろす。二人はこの春、一緒に中学生になったばかりだ。共に今年の誕生日を迎えて十三才になっている。
やっと息を整えたルミは、隣の友人に説明を始めた。
「この暑さよ、アキ。緋野山の『ひ』は火、ファイヤーなんじゃないかってこと」
そうして地面に木の枝で漢字を書く。
「それじゃあ、字が違うな」
坂道の下の方から声がした。
「兄貴、どう違うって!」
疲れと暑さでいらいらしている様子のルミは、大声を張り上げた。
それにすぐに答えようとはせずに、ゆっくりと上がってきたのはルミの兄である大沢倫。
「私が書いた字がそこから見えた訳、兄貴?」
目の前の倫にルミはかみつくように言った。
「え? 違うさ。俺が言いたいのはな、気温が高いのは『暑い』を使い、ファイヤーによる温度上昇は『暑い』でなく『熱い』を使うってことだ」
ルミから枝を取り上げると、彼は立ったまま起用に「暑」「熱」と書いた。
「だから、どうしてもしゃれたければ、『火』じゃなくて、太陽の『陽』でもあて字にすべきだな」
「もう、こんなとこまで来て、国語の勉強なんかしたくもない」
「あ、そんな口、利いていいのかな? 宿題、手伝ってやんない。帰ってから地獄の夏休みを味わうことに……」
「あ、謝る、謝ります。お兄さまは勉強もできて、スポーツもできて、文武両道、即断即決、質実剛健、えーと、他に四字熟語知らない?」
ルミがアキに尋ねる。それには答えず、倫と顔を見合わせてアキは大笑い。
膨れっ面になっていたルミも、すぐに笑い出した。
「あらあら、にぎやかね」
中年のおばさんめいた声。アキの母だ。それを支えるようにして、左横には夫――アキから見れば父親――が付いている。
「何だ、みんな立ち止まって。もうへばったのか? がんばれがんばれ」
「いえ、僕は平気なんですけど、留美とアキちゃんが」
鮫島――アキの父の叱咤激励に、倫は優等生ぶって答えた。事実、彼は優等生で、高校でもトップクラスの成績である。
「もう、疲れたよ。休もうよ」
「そんな言葉遣いするもんじゃないぞ、留美。すみません、鮫島さん」
鮫島に対して頭を下げる倫。鮫島はもったいぶったように顎髭をなでてから、
「いやいや、構わないよ。そうだな、じゃあ、この辺りで一服するか」
と言って、背中のリュックを地面に下ろした。
緋野山は、素人が登山・キャンプをするには手頃な山だと言えた。ゆったりとした傾斜が続く登山道はさほどの重装備をすることなしに、登ることができる。ただ、緋野山の坂はいたずらに長く、山頂にたどり着くにはどうしても一泊する必要があった。その辺りはよく心得られており、山の中腹には小屋が二つ、設置されている。それぞれ十人が宿泊するのに充分な広さだ。定員の関係で、休憩だけならともかく、小屋で寝泊まりするには前もって予約の必要があったが、宿泊料金は無料。
夏休みも終わりに近付いた今日、その予約をしている一組が、鮫島一家三人と大沢家の子供二人であった。
「天気、悪くなるかもしれませんね、ほら」
水筒の麦茶をあおった後、大沢倫が言った。彼の視線が向いている方へ、他の四人は目をやる。
「本当だ。雲があるな」
鮫島が言った。
その通り、かなり離れてはいるが、空に黒い雲が湧き出ていた。空全体の青さに比すれば、取るに足りない程度であっても、やはり気になる。
「雨雲らしいな……。一応、折りたたみの傘を持っては来ているが、降らないでくれるに越したことはない」
腕時計をかざす鮫島。午後三時を回ったところだった。
「よし、そろそろ出発しようか。五時には小屋に着いておきたいもんだ」
鮫島の号令で、皆立ち上がった。
休憩したことで元気を回復した様子の中学生二人は、かしましくお喋りをしながら、先頭を切って一本道を行く。
「そんなに張り切っていると、またすぐにばてるぞ」
倫が注意したが、その声には微笑のようなものが含まれている。
「いい景色。空気も味が違うみたい」
感想をもらしたのは鮫島夫人。普段の家事仕事から解放された彼女は、息を切らせながらも登山を満喫していることが、はっきりと見て取れる。久々に足を通したジーンズも、よく似合っている。
「若さを取り戻した感じだ」
鮫島の感想に妻が敏感に反応する。
「あら? じゃあ、家にいる私はおばさんだってことかしら?」
「そそんなつもりは。そう、誉めたんだよ、そう」
妻の思わぬ反論に、鮫島は急いでどもりながら言い足した。
「ま、いいわよ。ただし、もし、私が年寄りじみても、それはあなたのせいですからね。これまでほとんどどこにも連れていってくれなかった」
「分かったよ。だから、こうしてせめてもの穴埋めに、山歩きをして、自然を楽しむと言うか何と言うか」
苦笑しながら、鮫島は口をもごもごさせる。その頃には妻が笑顔になっていたので、鮫島の苦笑いは本当の笑いになっていった。
「景色がいいのに、木が邪魔になってる場所が多いわねえ」
鮫島夫人は話題を転じた。彼女の言葉のように、緋野山登山道の周囲は、緑に囲まれていることが多く、景色が開けているのはほんの一部である。それだけ、この山が深いということであろう。
「そりゃあ、考えようだな。例えば、向こうの山から見たら、無粋な登山道なんか見えない方が景色はいいに決まっている」
「それもそうね」
夫の言葉に同意する鮫島夫人。休憩後の出発からまだそんなに経っていないが、額にはもう汗が玉になってにじんでいた。
「到着!」
元気よく言ったのは、大沢倫。別に彼が子供っぽいのではなくて、へばっている妹とその友達の二人に、自分が元気いっぱいなことを見せようとしている。そんな素振りだ。
「もうだめ。くたくた」
腰砕けになるようにして、ルミは小屋の玄関先に座り込んだ。アキもそれに続く。最初の休憩からもう一度、休憩を入れたのだが、飛ばしすぎの報いは大きかったと見える。
「着いたか。ほう、他には誰もいないのか」
鮫島は感心した風。
「休憩している日帰りの人達がいるかと思っていたんだが。まあ、この方が何かとやりやすいがね」
「とりあえず、中に入ってみましょ」
夫人の方は、外見ほど疲れてはいない声で言った。
小屋と言っても全部が全部、木でできている訳ではない。そもそも、玄関の扉からして丸太小屋のそれを装っているものの、実際は金属製のドアに縦割りにした短い丸太を張り付けている代物だ。密閉性・安全性からすればこれが妥当なのかもしれないが、あまり粋ではない。
ともかく中に入って、食堂らしき一番広い部屋で五人がくつろいでいると、
何やら外が騒がしくなった。人の声がする。
「あ? やっぱり日帰りがいたのか」
鮫島が独り言のように言った。
だが、それは違っていた。鮫島らのいる小屋の扉がノックされた。と同時に、
「すみませーん」
という複数の声が。
何だろうという気持ちと面倒だなという気持ちが入り交じりながらも、鮫島は応対することにした。
「何か?」
扉を開けると、鮫島の目の前には若者――少なくとも鮫島よりは年若い七人がいた。男四人、女三人。
「あの、今日、こちらでお泊まりの方ですか?」
一番前の男が言った。見たところ、この男が七人の中では年長者らしい。髪は長くぼさぼさで、がっしりした身体。ちょっと年齢の想像がつかない。
「そうですが、あなた方は?」
「申し遅れました、私は
口を閉ざした宮田。態度からして、実際に見てほしいということだろう。鮫島は中の四人に、もう一つの小屋の様子を見ることを告げた。
「私も行きます」
と言ったのは鮫島夫人。彼女の方は、隣の小屋がどうこうより、夫が知らない人達とどこかへ行くことを危惧したのかもしれない。
「あれです」
十数メートルほど行ったところで、宮田が指差したその先は、鮫島達が今夜泊まる場所と同じ形の小屋があった。
が、少し、違う点もある。窓ガラスが一枚、割れているのだ。
「あの窓は?」
さすがに訝しく思い、鮫島は身を乗り出した。
「何だか分かりません。我々が来たときには、すでに割れていたんです。あそこのガラスだけじゃなく、裏側のガラスも何枚か割られていて、かなりひどい有り様です。でも、それだけなら何とか寝泊まりできないこともないと考えたんですが、中を見て愕然としました」
宮田ら七人は、中に入っていく。わずかに躊躇してから、鮫島は夫人と共に続いた。
「泥だらけ……」
宮田に説明されるまでもなく、中の異変は分かった。床には泥の足跡がたくさんある。日差しのせいか乾いてはいるが、そんなに古い物ではあるまい。
「誰かが忍び込んだ?」
「そうらしいんです。何かが盗まれたとか、そういう形跡はないみたいなんですけれどね。庭にある水飲み場の蛇口が泥だらけでした」
「空き巣狙いかな? 我々が見た方は何の異変もなかったようでしたが」
「そちらさんは全くの無事? ということは別荘荒しが間違えて入ったのかもしれませんね。金目の物が見当たらず、山小屋だと気付いて退散した……」
「係の人は、何も言ってなかったですか」
「係と言いますと、小屋の管理をしている? ええ、何も言っていませんでした。いつもの通り……あ、私、ここは三度目なんです」
宮田は予約した証となるカードを取り出した。
「職務怠慢だな。小屋がこんな状態なのに放って置いた上、人に貸すなんて」
憤慨する鮫島に、宮田が話しかけてくる。
「そこでお願いなんですが……。あの、お名前は?」
「あ、鮫島です、鮫島
こちらがまだ名乗っていなかったことを思い出し、鮫島は少し慌てた。妻と一緒になって頭を下げる。
「鮫島さん、厚かましいお願いなんですが、今夜はご一緒させていただけないでしょうか?」
それを聞いて、鮫島は相手の用件に合点が行った。
「そうですねえ……。確かに、こんなところに泊まる気はしませんな。いやいや、泊まれるもんじゃない」
「でも、あなた」
夫人が横から口を挟む。
「人数の問題がありますよ。私達の方は五人、こちらの皆さんは七人いらっしゃるから、足すと十二人になって、定員より二人、多くなってしまう」
細かい言い方の鮫島夫人。その口調には、よく知らない人と同じ屋根の下で寝泊まりしたくないという気持ちがあるのかもしれない。
「いえ、私やこの
宮田は言い被せるように、横にいた青年の袖を引っ張った。青年は二十歳ぐらい、ひょろっとやせているがごつごつした手をしている。
「お願いします、奥さん。屋根さえ貸していただければ、充分です。それにこうでもしないと、みんなを連れてきた私の立つ瀬がなくなるもんで……」
宮田は腰を折り、頭を深々と下げた。
「ああ、いや、そんな、顔を上げてくださいよ。分かりました」
「でも」
鮫島が申し出を快諾したのに対して、不満そうに言ったのはまた夫人だ。
「何を言ってるんだ。考えてもみなさい。予約を申し込んだ順番で、たまたま私達はあっちの小屋が割り当てられたが、ひょっとしたらこちらの小屋だったかもしれないんだ。そうだったらどうしたね? 私達だってお願いするより他にないだろう」
夫に言われて、夫人はようやく納得できたらしく、黙ってうなずいた。
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