僕氏

平賀・仲田・香菜

僕氏

「今日は大活躍だったじゃないか」


 背後からからかうような声が聞こえる。僕は振り返らず、背中で彼の声を聞く。


「ああいう時は真っ先に俺を頼っていたお前なのにな。心境の変化でもあったかい?」


 僕が返事をしないでいると、彼は続けた。


「クラスの皆、驚いていたぜ? いつも下を向いてウジウジしているお前が、球技大会で大立ち回りだ」


 いやに間延びしながら、人の恥を逆撫でして此方の苛立ちを誘うかのように彼は喋り続ける。


「確かにあのファールはワザとだったろうさ。でもまさか、ファールした奴だけでなく、それを見て笑っていた奴らまでぶん殴るとは思わなかったね」



 呵呵大笑 、といった様子が背後に感じる。


「どうしたんだよ」


 空気が凍る。冷たく、抑揚のない彼の問いかけは、僕と彼を挟んだ空間に溝を作ったように感じた。


「どうして呼ばない、どうして頼らない」


 彼は続ける。


「もう俺は必要ないのか?」


 一抹の寂しさを含んだ言葉、ほんの僅かではあるが確かにそう感じた。自信に溢れ、自らが正しいと疑わない普段の彼からはとてもじゃないが想像できなかった。


「なあ、小さい頃からずっと一緒だったじゃないか。ムシャクシャして学校の窓を叩き割った時も、煙草も酒も、傘や自転車を盗んだのも、死にかけの猫を無視したことも。全部だ」


 彼は震えていた。背を向けている僕はその様子をこの目で確かめたわけではないが、彼のことならば手に取るようにもわかった。その声もどんどん小さくなる。


「全部、俺がやった」


 最早、彼の声は聞き取ることも容易ではないほどに小さかった。


「俺が最低な人間だから、もう必要ない、ってことか」

「違う」


 僕は答えた。決して振り返らずに。


「君は、君だって、僕じゃないか」


 解離性同一性障害。二重人格と言った方が伝わるだろうか。

 彼は、僕のもう一つの人格である。時々、僕が寝ていると彼は夢の中で話しかけてくる。夢故に、何を話していたかはいつもすぐに忘れてしまうが、僕の中に、確かに存在する彼と会話したことはしっかりと記憶している。


「俺は外に出てくる度に最低なことしかしないから。お前にとっては目の上のタンコブみたいなものだろうから」


 むしろ頭の中のタンコブかもな、などと軽口を彼は叩いた。僕が反応して、少し安心したのかもしれない。


「違う」


 僕は否定した。


「君が悪さをしていたんじゃない。僕がやろうとしたことを君が代わりにやってくれていたんだ」


 僕は彼が言う在り方を否定した。


「僕が、罪の意識に悩まないようにだ」


 僕は、はっきりと、伝わるように、声を荒げるようにして言った。


「だから本当は、君は最低な奴なんかじゃない。本当は、とても優しいんだ」


 そして、僕は彼に告げた。


「その優しさに甘えちゃいけないと思った。僕の罪は僕のものだ。誰にも渡しちゃいけない、僕が一人で背負うんだ」


 彼は今、どんな顔をしているだろうか。僕がこんなことを言ったのは初めてだから、よく知る彼でも想像ができないでいた。


「ーーじゃあ、俺はもう出てこなくても大丈夫だな。いずれお前の中からも俺は消える」


 人格が消えるとは、彼にとっては死なのだろうか。その心持ちまではわからない。ずっと一緒だったのにわからないことだらけだなと、僕は泣きそうにもなった。


「君が初めて出てきた時を覚えている?」

「確か、八才の時だ。虐められて、万引きを強要された時に俺は産まれた」

「違う」


 これまでの人生でここまで強い否定をしたことがあっただろうか。僕は否定した。


「あれは僕がやったんだ。自分の罪に耐えられなくて、辛くて、辛くて、苦しくて。涙に溺れそうな僕の手を取ったのが君だ。そして、僕の罪を君が背負った」

「……思い出してしまったのか」

「自らが犯した罪でさえ君に押し付けていたんだ、僕は。最後だから、謝りたい。ごめん」


 いいよ、返ってきたのは軽い言葉だった。さらに彼は続けて言った。


「もう言いたいことは無いな? じゃあ、俺は消える。最低な俺のことは忘れな。いつも通り、ここでの話は全部忘れるんだ。俺の存在ごと忘れてしまえばいい」


 僕は震える声で応える。


「忘れるわけないだろう……! お前を、俺が!」


 僕はもう震えて、泣きながら彼に告げる。


「お前は人間だ、だから、きっと生まれ変わる。輪廻転生でもいい。いつかまた、世界に出てくる。そうしたら、僕が探し出す。そうしたら、また、友達になろう」

「また?」

「また」

「そうか、また、か」


 背後からくつくつと笑う声が聞こえる。


「じゃあ、今度こそさよならだ。俺は消える。別に、本当に、忘れてもかまわないからな」


 息を呑む音が聞こえた。彼は、言った。


「またな」


 僕は振り返った。誰も、何もなかったことを確認して、僕は夢から現実にゆっくりと覚醒していくことを感じた。


 ※※※


 深夜、僕はベッドの上で目覚めた。寝苦しかったのか、毛布は足元に蹴られて丸まっていた。寝汗の酷さもそれを物語っているようだった。

 僕は、水分が足りずふらついた足取りで洗面所に向かい、顔を洗った。

 顔を上げて鏡を見ると、いつも通りの顔が写っているにも関わらず、どこか物足りなさを覚えた。


「忘れるわけがないだろう」

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僕氏 平賀・仲田・香菜 @hiraganakata

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