第33話 未来を変えるとしても

 泣き終えて、眦にキスをもらいました。腫れた痛みがすっと引いて、心地よさだけが残ります。カオス様に抱き締められたまま、私は手の中のお人形の髪を撫でました。お母様が作ってくださったお人形は、気持ちが落ち着きます。


「あの……いえ」


 何でもありませんわ。そう続ける予定だった私の唇に、カオス様の指が触れました。まるで口を噤めと指示するみたいに、1本の指が言葉を留めます。


「ねえ、お願いがあるから聞いてくれる?」


 頷くと、唇の指が離れました。なぜでしょうか、ひんやりして寂しい。無意識に自分の手で覆います。カオス様は優しい目で、私の緑の瞳を覗き込みました。黒い瞳に反射した私は、困ったような顔をしているのですね。


「僕に対して何も隠さないで。言葉も気持ちも、いつもぶつけて欲しい」


「……はしたない、ですわ」


 淑女は夫や婚約者を立てて、いつも控えた位置で微笑むもの。我が侭は人前で口にせず、絶対に男性に恥をかかせてはいけないのでしょう? 何度も繰り返し教えられた淑女の嗜みが頭を過りました。考えるより早く、礼儀作法の先生が口になさった「はしたない女性だと思われてもいいのですか?」が短く飛び出します。


「前にも言ったけど、僕は君の気持ちを読むことが出来る。でもちゃんと伝えて欲しい。レティだって勝手に心を覗かれたら嫌だろう?」


「……っ。覗く、ですか」


「レティがちゃんと伝えてくれたら、覗かないと約束する」


「伝えます」


 覗かれて困ることはありませんが、恥ずかしいです。何より、好きな気持ちが丸見えになってしまうではないですか。私が知る常識は、人間の礼儀作法でした。神様に嫁ぐなら、神様の作法に従うべきですね。ひとつ大きく息を吸ってから、きっぱりとお返事しました。


「いい子だ。それじゃあ、さきほど言いかけたことを口にして」


 カオス様は誤魔化されてくれないのですね。迷いますが、覗かれるのも困ります。緊張しながら、言葉を探しました。


「このお人形はお母様が作ってくださいました。大切にしていますが、お母様は弟を産んで2年で……儚くなってしまわれる。その記憶があるから、何とか回避したいと思ってしまいます。これは悪いことでしょうか」


 カオス様が私に記憶を持たせたまま、過去に飛ばしたのは温情です。聖女となる私に、王太子リュシアンに逆らうチャンスをくれました。復讐と呼ぶほど、私は何もできません。ただ震えて泣いただけでした。それでも、カオス様の助けがあったから今の私がいます。


 これ以上を望んではいけない。神様を私欲で動かしたら、ばちが当たるでしょう。


「悪いこと? 僕にしたら当然だけどね」


「当然、ですか」


「ああ、だって考えてみてよ。目の前に林檎の木がある。その林檎が落ちてぶつかると分かっていて、レティは林檎の下に立つ? 実の位置を確認して、横に避けるだろう。それが人の生死だったとして、避ける手段があれば助けるのが普通じゃないかい?」


 林檎が落ちる未来を知っていて、その下に立つ人を助ける。私自身は避けますが、他人を避けさせてもいいか。その迷いはカオス様自身が肯定してくださいました。たとえ未来を変えてしまうとしても、人が死ぬのを黙って見ていられないのは、当然で普通なのですね。


「お母様を助けたいのです。死んでほしくありません。弟は……お母様の記憶もなかったから」


 泣き止んだばかりなのに、私の目はまた潤んでいました。

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