第32話 見えにくい優しさ
本当は言い切れるほど覚悟はありません。目の前に投げ捨てられた食料を、咄嗟に手に取るでしょう。お腹が空いていれば、匂いに釣られると思います。ただ……口に出来るか。そこがカオス様の残された最後の罰でした。
砂や土がついた食べ物を口に運ぶことが出来れば、リュシアン様は生き残れます。それは心からの反省を表す意味で、他人への感謝を覚える行動のひとつでした。彼が新しい人生を歩み、生きていこうとするなら……他に残された手段はないのです。
「私が同じ立場なら、食べて生き残ります。その上で謝罪を考えますわ」
同じ立場で、もし今の私のように前世の記憶があれば……どんな手を使っても生き延びます。生きることは苦しいでしょうが、苦しみこそが贖罪なのですから。罪を贖うことは簡単ではありません。あの方が王族のまま私に賠償しようとすれば、心からの謝罪とは言えませんでした。支払われる金銀や宝石がどれほど高額で素晴らしい物であって、国民から得たお金を使うのですから。
あの方が苦労し、白い手を土に汚して育てた野菜のひとつでも、私にとっては謝罪になりえます。貴族として得た収入で何かを渡すのではなく、苦労して必死に得た物を差し出してくだされば……心は伝わるでしょう。ご自分で理解し、私達に示すことがあの方の贖罪でした。
いつか、そんな日が来ることを祈るだけです。プライドが高く王太子殿下として生きてこられたリュシアン様にとっては、きっと死ぬより辛い選択でしょうけれど。
「そうだね。君はそう答えると思った」
カオス様は私の黒髪にキスを落とし、ぎゅっと抱きしめてくださいました。逞しい胸に顔を埋め、百合の香りを胸いっぱいに吸い込みます。神様は非情であり、同時に慈悲深い。両方を同時に私に示したのは、この方なりの誠意でしょうね。
神の妻となる私へ、覚悟を促しておられるのです。
私が受けた心の傷は、私にしか見えません。婚約者に裏切られ、新しい女の腰を抱いた婚約者に首を落とされるなんて――経験しなくては痛みも悲しみも理解できないでしょう。外から見て、話を聞いて同情する人はいても、己の痛みとして感じることはありません。
受けた痛みを感じながら許せるなら、今後カオス様が同様に裁くお話にも冷静に対応できると思うのです。それこそが公平であるべき神の視点でした。私に欠けている部分ですね。
「リュシアン様に、カオス様のお優しさが伝わるといいのですが」
恨まれることもあるでしょう。神の視点は人間には遠い理想論でした。そこまで人という生き物を愛し許せるのか――問われたら誰もが黙り込む状況です。
「リュシアンに「様」は要らない。君は王族より立場が上なのだから」
ほら、やっぱり優しいのです。やきもちを焼いた子どもみたいな言葉を使いながら、あなたは誰よりも気遣える方です。彼はもう王族ではないのだから。本当はこう告げるべきなのに……置き換えをなさるのですね。
誰かを貶めることは簡単ですが、カオス様はそんな卑怯な手は使わない。それがとても嬉しくて、私は「はい」と頷き返して、少しだけ泣きました。
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