第29話 止まらない涙

 私が目を覚ましたのは、カオス様の腕の中でした。優しい微笑みを浮かべ、私の黒髪を指で梳いています。艶を増した髪を弄りながら、その毛先に口付けられました。


 そんなこと、前世でもされた覚えがありません。さすがにお父様も、ここまで距離が近いことはなかったでしょう。


「レティ、君を傷つけた者は排除した。もう安心していいよ」


 排除、ですか? 王家の方々、どこまで排除なさったのでしょう。私が見た目通り6歳の子どもなら無邪気に喜びました。でも前世の記憶があるために、気づいてしまうのです。誰かが泣いたのではないか、と。


「あの……」


「僕は聞かせたくない」


 聞かないで欲しい。そう願う声に迷いました。知りたいと我が侭を振り翳すべきか、カオス様のご厚意に甘えて知らないまま過ごすか。


 見回した風景は見覚えがありました。ここは王宮内の客間のひとつですね。来客用の部屋は大きく分けて3つあります。正確にはもっとありますが、最上級のランクを冠する客間は3つでした。クリーム色の壁紙に濃色の家具は自国の貴族用で、ソファの生地やカーテン、絨毯は深緑で統一されています。


 真っ白な壁に淡色の木目家具を配置し、落ち着いた青を基調とした部屋は他国の王侯貴族へ。用意されたけれど、使われない部屋がありました。アイボリーに草木の模様が緑で薄く描かれた壁紙に、真っ黒な重厚感がある黒檀の家具。黒檀の表面には美しい宝石や螺鈿が施されています。ソファやカーテンの生地はすべて深い赤、臙脂色で落ち着いた印象でした。


 私が知る、臙脂の客間そっくりです。ぐるりと見回して、誰かが使ったのを見たことがないソファの上にいることに気づきました。


「ここは神様の客間、ですね」


「さすがによく知ってるね。レティ、神の花嫁になるんだから、君にはこの部屋を使う権利がある」


 権利はよく分かりません。ですが神様であるカオス様の許可があれば、誰も咎めることはできないでしょう。この部屋には神様、または神様が許可した者しか入れません。それは王族であっても同じでした。掃除はしなくても、常に美しく保たれる不思議な空間です。かつて王妃殿下がこの部屋を見せてくださった時も、私達は入り口から一歩も入りませんでした。


 この部屋ならば、話の内容が外へ漏れることはないと思います。だから、話せるのは、確認できるのは今だけ。緊張に渇いた喉をごくりと鳴らせば、カオス様が空中からカップを取り出されました。


 渡されたカップはほんのり温かく、甘い香りがします。温度に気をつけながら口をつけ、蜂蜜の甘さに頬を緩めました。そこで、まだカオス様の膝に乗っていることに気づきます。


「あの、降ります! カオス様」


「ダメ。僕の膝から降りる許可は出せない」


 逆にぎゅっと抱きしめられ、カップを落としてしまいました。焦った私をよそに、ぱちんと指を鳴らす音でカップが消えます。身を乗り出して見つめる先、絨毯にはシミひとつありません。


「落ち着いて、レティ」


 何もしない。君を傷つけたりしないから。そう繰り返すカオス様の声に負けて、私は彼の胸に頭を預けました。なぜでしょう、安心したから? 涙がこぼれ落ちます。


「好きなだけ泣いていい。僕が全部受け止めるから」


 そんなに優しい声で、許可を出さないでください。涙が止まらなくなります。ぽろぽろと落ちる涙を、拙い刺繍をしたハンカチで拭きながら、私はしばらく泣き続けました。

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