第23話 私の名を呼ばないで

 ごとごと揺れる馬車の中で、ふと気になりました。お父様はなぜご自分でお迎えに来なかったのでしょうか。王宮はさほど遠い場所ではありませんし……それに、この馬車やたらと揺れますね。


 カーテンが引かれた窓の外が気になります。侍女らしき女性が1人いますが、問題ないですよね。窓の外を見たいだけですもの。立ち上がろうとした私に、その侍女は柔らかく言葉を掛けてきました。


「お嬢様、揺れますのでお座りください」


「少しだけ外を見たいのよ」


「もう着きます」


 そう言われると強行突破しづらいですね。お人形を先に座らせて隣に自分が座るときに、よろめいたふりで窓に手を掛けます。そのまま椅子によじ登るフリで外を覗きました。


 一瞬だけでしたが、建物が見えません。王宮周辺は建物ばかりのはずで、馬車の窓から空はほとんど見えないはずです。ドキドキしながらベンチタイプの椅子に座り直し、隣のお人形を抱き寄せました。


 前世の記憶を総動員します。公爵家の屋敷から王宮までは半刻ほど。走った時間は四半刻でしょうか。王都の周辺で馬車の通れる道が整備され、建物がなく空が見える場所……。


「あのっ」


 酔ったと言って外へ出て逃げよう。そう考えた私より早く、馬車が止まりました。やっぱり、予想した場所みたいです。私は馬車の中を一番奥まで移動しました。椅子の上をお尻をずらして移動し、お人形をしっかり抱き締めます。


 扉がノックもなく開き、顔を見せたのは予想通りの人物でした。


「よく来たね、待ってたよ……レティシア」


「っ……」


 声は出ません。喉の奥に張り付いた悲鳴を飲み下し、心の中で叫びました。助けて、カオス様。怖い、嫌だ、この人に触られたくない。ぎゅっと目を閉じて、体を出来るだけ小さく丸めました。震える指が人形の服に食い込みます。爪が痛いのに、それより怖さが強くて、ただ恐ろしい。名を呼ばないで、来ないで、私を見ないで。


 ふわりと私の体を包む温もりに驚いて、ゆっくり目を開けました。百合の香り、ほっとして体の強張りが解けていきます。


「君はレティシアの何? 勝手に触れないでくれ、彼女は王太子である僕の妻になるんだぞ」


 聞こえた声に肩が震えます。涙が滲んで、もう耐えられないと思った私の耳を優しく塞がれました。顔を上げた私の目に映るのは、カオス様の黒髪と優しい微笑み。まるで空間を切り離されたようで、安心して目を閉じました。


 見たくないものは見なくていい。聞きたくない言葉は防いでくれる。私はカオス様に守られても許されるのです。もう嫌なことは我慢しない。それが新しく生きる私の覚悟でした。カオス様はそれを認めてくれるのです。人形の服を握る指を緩めて、カオス様の黒髪を一房掴みました。


 塞がれた耳は言葉や音を聞き取れません。でもカオス様はリュシアン殿下に何かお話されたのでしょう。怒鳴るリュシアン殿下の形相は、とても恐ろしい。目を逸らしてカオス様の胸元に顔を埋めました。百合の香りに混じるカオス様の匂いを、胸いっぱいに吸い込みます。次に目を開けた時には、もう怖い光景が見えませんように。そう願いながら、私は意識を手放しました。

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