第10話 今はまだ何も

 ばあやにお部屋で休んでいいと伝え、侍女達にもお礼を言いました。ついてきてくれた騎士の方も、私に丁寧に挨拶して屋敷の警護のお仕事に戻られます。見送って、お父様のお部屋に向かいました。ノックして扉を開けると、お父様は書類をそのままに大股で歩み寄って抱きしめます。少し苦しいですわ。


「お父様、どうなさったの?」


「王宮よりお前の居場所の問い合わせが入った。もしかして、王太子殿下と何か……」


「……お会いしましたわ」


 嘘ではありません。ただ会話らしい会話はなかったけれど。ふとそこで気づきました。大切なことを忘れています。


「お父様。ただいま、戻りました」


「おかえり、私の天使」


 すりと頬を寄せて、私からもお父様に抱き着きます。嬉しそうに受け止めたお父様に抱き上げられ、応接用のソファに運ばれながらもうひとつ。


「それと寄進の金貨をありがとうございました。最高の席でカオス神様にご挨拶が出来ましたわ」


「寄付は信者の気持ちの表れだ。きっと全能神カオス様も喜んでくださっただろう。レティの冒険を話してくれるかい?」


 ソファに下ろしていただき、クッションをたくさん置いて背伸びします。出来るだけ姿勢よく保ちながら、私はお父様に促されて話し始めました。神殿の入り口で焼き菓子と寄付の金貨をお渡ししたこと、カオス様の神像を最前列で拝めたこと、予定してたお祈りは無事に済んだこと。


 一息にそこまで説明した私は、口ごもりました。王太子殿下とお会いしたことは、先ほどお話ししています。今さらですね。それにここを話さないと、今夜来ると仰ったカオス様のことが分かりません。


「王太子殿下が……来てくださいました」


 よほどひどい顔をしていたのでしょう。お父様は一度話を止めて、お茶を用意するよう侍女を呼びました。ゆっくりと香りが漂い始め、抽出された紅茶がカップに注がれます。水色は飴を溶かしたような明るい色でした。夕焼け色と呼ぶには淡い紅茶です。


「まずはお茶を飲んで」


 勧められるまま、そっと口を付けました。蜂蜜やミルクが必要ない、ほんのり甘いお茶でした。お父様が種明かししてくれます。侍女は心得たようにポットの蓋を開けました。中に果物が沈んでいます。


「うわぁ、これが甘さの秘密ですね」


「アドリーヌのアイディアだよ」


 なるほど、お母様の発案ですか。強い味を好まないお母様らしくて、私は自然と頬が緩んでいました。


「……レティは王太子殿下が、その、嫌いなのか」


 言いづらそうにお父様が切り出しました。私からどうお伝えしようかと迷っていたので、助かります。頷きかけて、しっかり言葉にしようと口を開きました。誤解が生じたら、取り返しがつきません。


「苦手です。怖いので、近寄って欲しくありません」


 姿も見たくないのですが、公爵令嬢の立場では無理でしょう。未来にわたって夜会や行事があるたびに、顔を合わせて挨拶を交わすのは義務です。ここでお父様を困らせないよう、それでも婚約を結ばないために言葉を選びました。


 小賢しいのは内面の年齢の所為でしょうか。


「何かされたのかい?」


 殺されました。そう答えたいけれど、未来の記憶の話をしようとすると、喉に言葉が詰まってしまいます。誤魔化すようにお茶を一口飲み、私は深呼吸しました。6歳の子供なら許される範囲で、拒絶の言葉を探します。カップをテーブルに戻しました。


「いえ……でも怖い。声を聞いたり姿を見ると震えて、会いたくない」


 まだ何もされていません。これからされるのです。婚約者である私を捨てて、別の女と一緒になるために。

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