第8話 6歳でも未婚の貴族令嬢ですわ

 まだ婚約はしていないのよ? 私の記憶通りなら、あなたとの婚約は私が8歳の時。まだ2年あるし、未来の記憶では私はカオス様の神殿へ来ていない。なのにどうして、ここにいるの!?


 混乱した私はさらに数歩下がろうとして、祭壇の端に足を引っかけた。座ったのが最前列だったから、今の私の後ろにあるのはカオス様の祭壇。捧げられた供物が並ぶ棚に向かって、体が傾いていく。無理、掴まるところもない。転んでしまうわ。


 ぎゅっと目を閉じた。カオス様にお礼に来たのに、こんな粗相をしてしまうなんて。家名に傷を残してしまう。ごめんなさい、お父様、お母様。走馬灯ではありませんが、倒れる時って意外と冷静にいろいろと考えることが出来るみたいです。


「お嬢様っ!?」


 叫んだのはばあや、でも間にあった椅子が邪魔で間に合わない。諦めて目を閉じた私は、次の瞬間誰かに助けられました。大きな音や痛みを予想して強張った体が、逞しい腕に引き寄せられます。ふわりと香ったのは、百合でしょうか。


 白い百合はカオス様を象徴する花として、よく捧げられます。強い香りを胸に吸い込み、私は安堵の息を吐きました。祭壇を壊さずに済んだみたい。ほっとした途端、体の力が抜けました。手足が震えて、今さらですが恐怖を思い出します。


 私を抱きとめたのは誰? もし、大切あなたなら……意識を留める自信がないわ。王太子リュシオン様ではありませんように。


「無事か? 


 ――目を開いて、飛び込んだのは優しい微笑みの男性でした。初対面……いえ、お見かけしたことがありますわ。すぐに思い出せないですが、知らない異性ではないので微笑み返します。お礼はきちんと、出来るだけ早くしなくては。


「ありがとうございます、助かりましたわ」


 起こしていただいたのですが、肩に手を置き、もう片方の手でエスコートされています。どういうことかしら。ばあやは卒倒したようで、侍女達が半泣きで抱きとめていました。ごめんなさい、お転婆が過ぎましたね。


「無事でよかった、レティシア」


 向かいでほっと胸を撫で下ろすのは、かつての婚約者です。金髪碧眼、非の打ち所がない外見の持ち主は、自分の言動が他人にどう受け止められるのか。計算して動く人でした。幼い頃は気づけなかった私ですが、それでも愛していました。恋で目が曇った、あの頃の私を殴ってやりたいわ。


「あの……」


 手を離していただけませんか? まだ6歳ですが未婚の貴族令嬢なので、家族以外の異性に肩を抱かれるのは問題があると思います。微笑んだまま待つ私に、彼は顔を寄せました。美しい黒髪がさらりと流れます。もしかして腰のあたりまであるのでしょうか。


「可愛いレティ、迎えに来たよ」


 レティと呼んでいいのは家族だけ。やっぱりさきほどもそう呼んだのですね? 淑女という意味のレディだと思っておりました。どうしましょう。困惑した私の向かいで、王太子殿下が青ざめておりました。

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