第6話 当たり前だった特別

「ちょっとおいで」


 お父様の手招きに、胸元のリボンを掴んで息を詰める。でも行かない選択肢はなかった。微笑みを作ったまま近づくと、手が伸びて私の黒髪のリボンに触れる。一度解いてから結び直してくれた。


「これでよし。カオス神様によろしくお伝えしてくれ」


「はい。お父様」


 ほっとして足早に部屋を出た。ばあやと自室へ向かい、着替えを用意してもらう。その間に書類を隠す場所を探した。


 ベッドやクローゼットの引き出しは危険だわ。私の留守中に掃除をする侍女が見つけてしまう。お父様やお母様にも見つからない場所……ぐるりと見回した。早くしないとばあやが戻ってきちゃう。脱いだら書類が見つかるわ。


 慌てふためいてうろうろした後、目を止めたのはお母様が作ってくれたお人形だった。これなら誰も手を触れない。移動させることはあっても、人形の服や体に手を入れる侍女は考えられなかった。


 それに……人形なら常に抱っこして歩いても平気だわ。私、まだ6歳なんだもの。そうよ! そこへばあやが戻ってくる足音が聞こえる。慌てて取り出した書類をたたみ直し、人形の腹部へ入れた。


 このお人形はお座り出来るから、ちゃんと下着も作っていた。お陰で書類をしっかり固定できる。


「お嬢様、こちらのドレスでよろしいですか?」


「ええ。さすがばあやね」


 大人びた言い方は、この頃覚えた。だから少しくらいは違和感を誤魔化せるだろう。弟が出来るからと背伸びし、マナーの先生の口調を真似ていたのだ。


 手早く着替えたのは、紺色のワンピースだった。神殿へ行くときに煌びやかな服を纏うのは、失礼に当たる。もちろん質素なら良いわけでもなかった。地紋が織り込まれた上質な生地で、装飾を抑えた服が好まれる。ワンピースは膝下まであり、子供らしさと貴族令嬢の中間を取った感じ。リボンも紺色に揃えてもらった。


「神殿へ急がなくちゃ」


 早くしないとお祈りの時間が短くなってしまう。離れた場所にあるカオス様の主神殿は、往復で3時間ほどかかった。用意された一番大きな馬車に、ばあやはクッションをたくさん並べる。その上で着替えや上掛けまで持ち込んだ。絶対に私が寝ると思ってるのね?


 でもお陰で人形を持ち込んでも浮かない。大切な人形を抱きしめ、私はお父様に見送られて出発した。がたがた揺れる馬車の中は、クッションのお陰で快適だ。上にコートも羽織ったから、温かくて眠くなりそう。


 馬車の中は侍女2人とばあや、表に御者と侍従。騎士はなんと3人もつけてもらった。お父様は2人って言ったけど、心配したお母様の提案で1人追加したんですって。うふふ、愛されてると実感したわ。


 カオス様の元へ向かう馬車の中で、私はすでにお祈りを始めていた。まず時間を戻していただいたお礼、それからお母様と弟の健康……お父様とばあやも追加しましょう。あとは、未来を変えてもいいか。お伺いしたいわ。返事をいただければ嬉しいけれど、お叱りがなければ是と判断します。


 両手を組んでじっと祈る私が目を開くと、ばあやが嬉しそうに笑っていた。


「私のお嬢様は、聡明でお美しくてお優しくて……奥様の仰った通りの天使様でいらっしゃいます。ばあやは幸せです」


 じんわりと目の奥が熱くなって、私は誤魔化すように人形を引き寄せて顔を埋める。当たり前に受け取っていた愛情が、すごく特別だったことを心に刻んだ。

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