第5話 私、笑えてるかしら
私に必要なのは知識よ。少なくともお母様の病気を治すための医学の勉強は最優先ね。それから王太子のリュシアン様と婚約しなくていい方法を探す。
これを日記に書くのは控えた。代わりにばあやに頼んだ紙に書いて、挟んでおく。やっぱり6歳の私の字、本当に汚いわ。ミミズがのたくったような……その表現が本当に似合うもの。ある意味、好都合かしら。読もうとしても誰も読めないでしょうし、暗号化したみたいで使い勝手がいいかも。
まずは神様にお礼を優先しましょう。日記は帰ってからでも書ける。今すべきは昼間しか開門していないカオス様の主神殿へ向かうことよ。
「お父様はどこ?」
「執務をなさっておいでです」
頷いて執務室へ歩き出す。いつものことなので、ばあやは止めなかった。お母様は体調不良の日が多くて、私はお父様に甘えることが多い。だから仕事をしている部屋であっても、出入りを禁じられなかった。
ノックして返事を確かめてから扉を開ける。中に入るといつも通りにお父様が机に向かっていた。見慣れた風景も、視線が低いだけで別物になるのね。21歳の私と違って、正面から近づくとお父様が机の陰で見えなくなる。回り込んで、左側から声をかけた。
「神殿に行きたいのです」
「どちらの神様かな?」
「カオス様の主神殿です。お母様とお腹の子の健康をお祈りしたいの」
嘘ではない。他にもお礼があるだけ。じっと見上げる私に、お父様は微笑んで頷きながら提案した。
「優しいレティらしいお願いだね。だけど、健康をお祈りするなら女神ニュクス様の方も聞いてくださるよ」
夜の女神として有名なニュクス様は、女性の守り神と言われる。そのため出産や健康に関するお祈りが集まる女神様だった。それに、この屋敷から一番近い神殿だわ。
お父様は遠くへ子供の私を出かけさせるのを躊躇っているのね。扉の外で待つばあやと一緒に行くこと、安全のために騎士を連れていくことを条件にお願いした。どうしても無理なら、別の日にお父様に付き添っていただいて向かう。
どうしても直接お礼が言いたかった。あの日の祈りがどれほど救いになったか。生きてお母様やお父様、ばあやに会えた嬉しさも。与えられた未来の記憶も、すべてがカオス様の恩恵だと思うの。
理由は言えないけれど、じっと待った。真っ直ぐに見つめてくるお父様の青い瞳が和らぐ。
「騎士を2人、リタの他に侍女を連れていくこと。夕方には帰るんだよ」
「はい。ありがとう、お父様」
抱きついてお礼を言う。笑いながら膝の上に抱き上げて下さったお父様は、机の上の書類を左側に寄せた。目に止まったその1枚に、私は何気なく目を向けて題を読み、動きが止まる。
婚約申し入れの書類だ。今のラ・フォンテーヌ公爵家で、対象となるのは公爵令嬢の私だけ。弟はまだ生まれていないのだから、これは私への申し込みだわ。
目覚めた昨日、覚えていた記憶は「婚約したいと申し出があってね」だった。お父様の口から出たあの言葉は、私が過去に聞いた言葉とまったく同じ。このままだと私は、王太子リュシアン様の婚約者になるわ。
恐ろしさに手足から血が引いて、冷たくなっていく。震えながら、私はこっそり書類を手元へ寄せた。机に置いたペンが転がって、ことんと床で音を立てる。
「おや、落としてしまった」
お父様がペンを拾おうと動いた隙に、無理やり服の胸元に押し込んだ。紙が硬くて痛いけれど、そんなこと言ってる場合じゃないわ。押し込んだ紙を上から叩いて潰し、見た目を整える。
「遅くなる前に行ってきます」
「そうしなさい。馬車は一番大きなのを使うといい」
「ありがとう、お父様」
お父様の頬にキスをして、膝から下りた。バレるかも知れない。ドキドキしながら早足で進んだ。扉のところでお父様が呼び止める。
「レティ」
びくっと肩が揺れる。ぎゅっと胸元を掴んで、深呼吸してから笑顔を浮かべた。
「なぁに、お父様」
私、笑えてるかしら。
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