08 過去

 西日を背にして立つ彼の顔は逆光になっていてどのような表情をしているのかが読み取れない。ただ彼の声からは怒りや憎しみを感じず、どこか悲しむような声だった。


「湯ノ本くん、思い出したってあの日のことを言っているのね。私達が初めて会った日のことを」


「忘れていたんだ、なにせ10年も前のことですから。小学生の頃の何気ない日常なんて普通は覚えていないものですよ。でも先生は違った、当時は中学生で進路について悩んでいた。今後の人生について考えている時の出来事は記憶に残っていて当然ですよね」


 そう、すべての始まりは10年前のこの場所だった――。


――――


「進路調査票、こんなもの渡されても私には……」


 中学3年の1月、休みは終わっているというのにまだ正月の喧騒けんそうが残る街の中心部から逃げるように人のいない公園のブランコにひとりたたずむ。


 私はいつもひとりだった。未熟児で生まれた私は呼吸をしておらず生まれてすぐに死にかけの状態だったらしい。医師の懸命な処置で命をつないだ後も生死の境を彷徨さまよっていた。なぜこの時に殺してくれなかったのかと親を恨んだこともある。


 この世に細い糸で繋がれた命にはさらに重い宿命を背負わされていた。症例の少ない難病をわずらっていた。私の記憶は体中に管が巻き付かれていた状態から始まる。


 幼いころはこれが普通なんだと思っていた。でも小学校に入る頃から周りと違うということを思い知らされる。激しい運動はできないため体育はいつも見学、運動会に参加することは許されず、遠足や修学旅行などの遠出はひとり学校で過ごすのが常だった。さらに体調が安定せず入退院を繰り返す私にクラスメイトは近づこうとはしない。それは中学生になった時でも変わらなかった。


 私にはみんなと同じような思い出は無い、将来を夢見てなにかにひたむきになることもできない。過去も現在もそして未来も私には何も無い。ただそこにあるだけの小石と同じだ。


「こんなものに何を書けっていうの! 何を思い描けばいいっていうのよ!」


 調査票をぐしゃぐしゃに丸め投げ捨てる。


「何を、何を書けば……何で私だけなの……」


 止まらない涙を隠すように手で顔を隠しうずくまる。


「姉ちゃんごみを捨てちゃいけないんだよ」


 顔をあげると男の子に声をかけられた。捨てた調査票を私に突きつける。


「ごみはごみ箱に捨てないとダメなんだよ、姉ちゃん大人なのにそんなこともわからないの?」


「私はまだ大人じゃ……それにごみというわけではないけど……」


 私を見つめる目は自分のやっていることは正しいことだと信じている目だった。私の心を映し出す濁った目にはまぶしすぎる。


「姉ちゃん泣いてるの? どこか痛いの? 俺、絆創膏持ってるんだよ、姉ちゃんにあげる」


 ランドセルから絆創膏を取り出し渡してくる。別に怪我なんてしていないのだけど私を本気で心配しているようだったので思わず受け取ってしまった。


「あ、ありがとう、それとごめんね、それ拾ってくれて。投げちゃったけど大事なものだったの」


「大事なものを投げちゃダメだよ、ほら俺みたいにくっつけちゃえばいいんだよ」


 そう言うとランドセルを見せる。たくさんのシールが貼られていた。


「え~っと、これはシールじゃないから鞄につけるのは無理かな」


「そうなの? それじゃあそれ何?」


 丸めた用紙を広げて説明をする。


「これは進路調査票って言って自分の夢とかやりたいことを書くものなの」


「自分の夢……姉ちゃんは何になりたいの? 俺はね消防士になりたいんだ、お父さんが消防士だから」


 私の夢、今を生きるのに一杯でそんなことを考える余裕なんて無かった。この子のように堂々と人に話せる夢なんて持ち合わせていない。なんて羨ましいのだろう。


「私にはまだわからないかな」


「姉ちゃん大人なんだから自分のやりたいこと決めきゃ。そうだな、先生なんてどう? 姉ちゃん俺の先生に似ているから」


「だからまだ大人じゃないよ、それに先生なんて私に何かを教えることなんてできないよ」


「そんなことないよ、さっき進路なんとかってこと俺に教えてくれたじゃん。そうだ、俺の宿題を教えてよ、冬休みのものがまだあるんだよね」


 男の子は教科書とノートを取り出し私の側に近寄る。


「ほらこれ、早くやらないと先生に怒られちゃう」


「……見せて。これはこの数からこの数を足して、それでこれを引くの、このやり方なら簡単でしょ」


「すげえ、姉ちゃん天才だよ、じゃあこれは?」


「これはこうしたらこの数になるからそれで――」


 気づいたら日が沈みかけ、辺りは薄暗くなっていた。こんなに人と話をしたのはいつぶりだろう。


「宿題もう終わりそうだよ、姉ちゃん俺の先生より教えるの、うまいね」


「いや、小学生の問題なんて簡単すぎるというか」


 さすがに中学生になって小学校低学年の問題がわからないのはまずいと思う。それに教えるのが上手と言ってもこの子の飲み込みが早いから基本的なことしか言っていない。


「姉ちゃんもう先生になりなよ、学校で勉強している時より楽しかったよ」


 本当に楽しかったのかすごく嬉しそうにしている。


「おーい、のっちん、ここにいたのか、早く帰らないと怒られるぞ」


「たっくん、今帰るよ。ありがとう姉ちゃん、俺早く帰らないとお母さんに怒られちゃうからもう行くね。先生になれると良いね」


 そう言い男の子は走りながら公園を後にする。


「別に先生になるなんて言っていないんだけど。ありがとう、か、お礼なんて言われ慣れていないからなんだか恥ずかしいな。……先生」


 調査票を広げ気づいたら職業欄に教師と書いていた。


――――


 ――あれから私は勉強に励み高校、大学と進学して教員になった。夢に向かった時から体調は良くなっていき今では月に一度の通院で済むまでに回復していた。


「まさかあの時公園で会った人が先生だと思わなかったよ、先生が4月に赴任してきた時にはあのことはすっかり忘れていたからね」


「私もよ、あなたの本当の先生になるとは思わなかった、あなたの変わらない笑顔を見てすぐにあの時の男の子だとわかったわ。でもあなたはどうして私のことを思い出したのかしら?」


「孝也のおかげさ、先生、あいつの言った『のっちん』という名前ですぐ俺だとわかったよね。中学になってからその名前で呼ぶのは禁止していた。でもあいつ緊張したりするとたまに言うんだよ。高校生になってからあの名前を言ったのは初めてだったんだ」


 そうだったのね、そんなことでばれるなんて思いもしなかったわ。


「先生、もうこんなことは終わりにしよう」


「あなたの心からあの女が消えたのなら私も終わりにしていたわ、でもあなたは諦めなかった。だから私も諦めることはできない」


 彼と再会をしてこれは運命だと思った。そして彼に対する愛が芽生えたの。でも私達は教師と生徒、もちろんこの気持ちを伝えることはできない、だから卒業まで待つことにした。それなのにあの女に心引かれていることを知って耐えられなくなった。


「わかったよ、だったら俺が終わらせる」


 私に刃物を突きつける。


「いいえ、終わらないわ、私達の繋がりは切ることができないの」


 持ち出した包丁を取り出す。


「先生」


「けんくん」


「「死んで!」」


 同時に走りお互いに突き刺す。


 ズブッ

 私の包丁は彼の腹部を刺す。彼の突き出した刃物は私の脇腹をかすめるだけだった。


「あなたに人を殺せるだけの覚悟は無いの。でもそれが普通の感覚よ、私は違う、愛のためなら殺人だっていとわない」


「クッ! 先……生」


 彼がその場に倒れ込む。苦しそうにしているけどまだ息はある。傷が浅くて致命傷にはなっていない。


「けんくん、愛してる」


 彼に馬乗りになり包丁を持つ手を振り上げる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る