07 急転

「みなさん手はよく洗ってくださいね、それから火元には十分注意すること、いいですね」


 調理実習の注意点を説明するが彼はこちらを振り向こうともしない。あの女ことのをジロジロと見ている。人が話をしている時ぐらいはちゃんと聞きなさいよ!


 説明を終えると各班は調理を始める。ずっと彼を見ていたいが他の班の様子も見ないといけないため、彼があの女とどんな会話をしているのか気になる。時折、彼に目を向けると楽しげにしている。なにが楽しいのか知らないけどそれも今のうちよ。


 30分を過ぎ全員が席に着く。


「みなさん準備できましたね、それじゃあいただきます」


 さあ、味わってちょうだい、私の想いを。


 遠目に彼を観察していると物凄い速さで食べている。そんなに急いだらのどに詰まるわよ、まるで小さい子供みたいで可愛い。まあ実際はのどに詰まるどころか全て吐き出して苦しむのだけど。そろそろかしら。


「ウッ!ゴホッ!ゴホッ!」


 来た、彼が胸を押さえて苦しんでいる。


「湯ノ本く――ゲホッ!」


 あの女も苦しそう、本当なら彼と私だけの苦しみにしたいけれど、彼だけをピンポイントに狙う方法が思いつかなかったから仕方ないわね。

 彼と同じ班の生徒が次々と倒れ教室が騒然とする。他の生徒が彼らを取り囲んでいる。邪魔よ、彼の苦しむ姿が見えないじゃない。


「みなさんどうしましたか!」


 心配するふりをしながら彼に近づく。口から泡を吹き痙攣している様は目も当てられない。大丈夫よ、すぐ楽になるわ。


「あんな女の料理なんか食べらおなかが腐っちゃうわ、私がきれいにしてあげる」


 耳元で囁やく。彼が何か言いたそうに口を動かしているけど、空気の抜ける風船のような音しか聞こえない。そして動かなくなった。予定ではもう少し苦しんでもらうつもりだったのだけど薬、入れ過ぎちゃったかしら。


「職員室から他の先生を呼んできますからみなさんは近づかないでください、もし具合が悪くなった方は食べたものを吐いて保健室で休んでいてください」


 生徒を調理室に残し誰もいない階段に向かう。周りに誰もいないことを確認し持っていた硫酸を一気に飲み干す。


 ドクンッ!

 のどが焼ける!まるで内臓を食い破られているようにお腹が痛い!


「グッ! ゴホッ! これは……すごい! 強烈だわ! ……けんくん、これがあなたの苦しみなのね!」


 足の力が抜け階段を転がり落ちる。普通なら苦し過ぎて早く死にたいと思うはずだが、今となってはもっとこの苦しみを味わいたいとすら思っていた。彼との繋がり、そう思えば思うほど苦しみが快楽になっていく。


「ゴホッ! けん……くん、今、ゲホッ! 私達は、一つになっているのよ」


 開くことのできないまぶたの裏に彼の姿が映し出される。今そっちに行くわ。

 幻影の彼に手を伸ばしながら力尽きる。


――――


 気がついた時には調理準備室の床に倒れていた。


「ウッ!」


 体を起こすと同時に近くにあった鍋に胃の中のものを吐き出す。


「はぁ、はぁ、けんくんは?」


 放課後を告げるチャイムが鳴る。彼を、彼の苦しむ姿を見届けなければ。込み上げてくる吐き気を飲み込み、自分の教室へと走る。

 そこには彼が机で眠っていた。彼の顔を至近距離で見つめる。はあ、寝ている姿も素敵よ。


「今ならいいかしら」


 千載一遇のチャンスとばかりに彼に口づけをしようと顔を近づける。けん……くん。


「有、島さん」


 寝言であの女の名前を呼んでいる。あの女、彼の夢にも出てくるの!どこまでしつこいのよ!このままキスしてもあの女との思い出になってしまいそうで嫌だわ。しょうがない、キスは私たちが結ばれた時のために取っておきましょう。


「湯ノ本くん、湯ノ本くん、起きてください、湯ノ本くん、HRは終わりましたよ」


 彼が起きる。寝ぼけているのか視点が定まっていない。


「先生……ウッ!」


 起きたと思ったら教室を飛び出していった。あの時の苦しみが戻ってきたのね。

 トイレの外で出てくるのを待つ。よほど苦しかったのかなかなか出てこない。しばらくして青ざめた顔で出てきた。


「湯ノ本くん大丈夫ですか、急に吐くなんてなにかの病気でしょうか」


「いえ、そこまでのものではないですよ、ただ胸焼けがしただけです、吐いたので少しスッキリしました」


 無理しちゃって、今にも倒れそうなんでしょ、私も一緒だからわかるわよ。


「そう言われましてもやはり心配です、一緒に保健室に行きましょう、歩けますか?」


 彼の腕を掴み保健室に向かう。まるでデートをしているカップルみたいね。

 保健室のベッドで横になる彼を介抱していたら質問をされる。


「先生、今日の調理実習ですけど食材は先生が準備したんですよね? ひとりで」


 私を見る目は取り調べをする刑事さんみたいだった。私を疑うのも無理はないわね、でもそんなに詰め寄っても証拠なんて出ないわよ、何も無かったことになるんだから。


「ええ、そうよ、もしかしてその中に傷んでいるものがあったのかしら、ひとつひとつちゃんと確認はしたのだけど」


「それを買ったのはいつです!? ちゃんと保管はしていたんですよね!? 先生以外の人が触ることはありましたか!? 調理室は俺たちの実習の前に開けていないですよね!?」


 彼が私を抱きしめてくる、すごい幸せ!どうしよう顔がにやけてきちゃう、怪しまれちゃう!


「痛いわ!湯ノ本くん、離して!」


 もう少し彼と触れ合っていたかったけど、このままだと私の方から抱きしめにいっていたかもしれない、それはさすがにおかしいわよね。


 さらに彼が質問を重ねてくる。いくら探ろうとも無駄よ。ここはひとつ女の武器というのを使ってみようかしら。


「ひどいです、もしかして私が準備したものに傷んでいるものがあって、それで湯ノ本くんが食あたりになったことを恨んでいるんですね、もしそうだとしても殺人者呼ばわりするなんてあんまりです!」


 我ながら完璧な演技だわ、しっかり涙も流れてくれる。


「すいません、言い過ぎました、俺もう帰ります」


 彼が保健室から出ていく。それにしても今日はなんて良い日なの、あんなに強く抱きしめられるなんて。夜、眠れるかしら。

 興奮冷めやらぬまま帰宅する。


 翌日、彼は欠席していた。彼は今、相当落ち込んでいるはず、このタイミングで私が彼の支えになればあの女なんて敵じゃないわ。

 休み明けの月曜日の夜に彼の家を訪れる。彼の母親に彼の現状を聞き出すがこの土日は部屋から出たがらず静かだったらしい。けんくんのお母さん、いや、将来のお義母様、彼は私が必ず元気にしてあげますからね。


 彼が学校を休み始めてから2週間が経った。あれから4回ほど彼の部屋の前にまで行ったが応答はなかった。ここであきらめてはダメよ、根気よく話し続ける事で私に振り向いてくれるわ。

 朝のHRを終え今日も彼のところへ行こうかと考えていた時、教室の後ろの扉が勢いよく開く。


「すいません! 遅れました!」


 彼が登校してきた。教室に入ってくる彼の顔は晴れ晴れとしていて前日までとは大違いだった。どういうこと?どうしていきなり元気になるの?

あまりの態度の変わりように困惑する。


「先生、すいません、遅刻ですよね」


「えっ! ああ、いいのよ今日は、気にしないで、それより学校に来てくれて先生、嬉しいですよ」


 その後も彼は何事もなかったかのように明るく振る舞う。ギスギスしていた川北あずさとも、保健室を怒りながら出てきた谷崎歩美とも普通に接している。前の彼に戻ったかのように見えるが今度は逆に有島葉月とは距離を取りあまり話をしようとはしない。それが余計に混乱を招く。


「孝也! 昨日はありがとう! じゃあな!」


 放課後になり彼はすぐに帰っていった。


「佐藤くん、湯ノ本くんなんだけど、昨日何かあったの? 急に元気になって」


「健児ですか? 昨日、あいつに電話したんですけどその途中に俺はもう大丈夫だからって言われましたけど」


「電話ってどんなことを話したの?」


「どんなって言われても他愛ないことですよ、子供の時よく遊んだ公園で会って話でもしないかって誘ったんですけど、そしたら急にありがとうってお礼言われちゃって。俺にも何のことかわからないんですけどね」


 公園?――ッ!まさかあの時のことを思い出したの⁉︎


「ありがとう、佐藤くん!」


 あの時のことを、10年も前のことを覚えていたなんて。私も教室を飛び出し彼の後を追う。おそらく彼はあの公園に向かったんだ、私達の始まりの場所に。


 10分ほど走り公園に着くと彼はブランコに座っていた。


「湯ノ本くん……」


「先生……俺、思い出したんだよ……先生だったんだね」


 そう言い立ち上がる彼の手には鋭い刃物が握られていた。

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