第五章 真実

                1

昭は宮中にある、とある一室の前に辿り着いた。ここまでは、姚向による案内で来たのだった。彼は宮中に入って間もないのに、広大で複雑な宮中の経路を隈なく覚えているらしかった。

 嬴冄を始め、他の班員は犀融宮に取り残したままである。嬴冄は昭が国外脱出を企てていると知り、かなり混乱しているようだった。しかし、昭が事情を説明し、説得することによって、何とか受け入れてくれたようだ、

―大丈夫。俺らで何とかするよ。

 そう言って、犀融宮に残ってくれることになった。この友には、つくづく感謝してもしきれない。昭はそう考えていた。

「この向こうに、あの方がいらっしゃる」

姚向が、崇拝するような口調で、扉を指さした。中庭に面した場所にあるその扉は、何処か固く寒々しい印象を与える。

昭はこれまで声の主が実在するという実感が湧かなかったのだが、ここでようやく、その存在が現実味を帯びたものとなってくるのが分かった。

 姚向が、昭の髪に手をやった。結ばれている紐を解き、其のまま、懐に隠し持っていたらしい櫛を取り出し、髪を梳く。

 いででででっ。

 昭は危うく声を出しそうになった。何しろ、髪なんて一月に二度ぐらいしか洗わないのである。元々彼の髪はくせが強かったが、洗髪をしないことによって、それが絡まりに絡まっていることは明らかであった。

 「お前、本当に髪が汚いな」

 姚向は渋い顔をして言った。いつもは整っている鼻梁にしわが寄るのが何とも奇妙である。

 「しょうがねえだろ。面倒くさくて毎日洗ってられねえよ」

 「取り敢えず、あの方に会うのにそんな髪じゃいられねえだろ。おれが結ってやる」

数分かかって、姚向の手により、昭の髪はきれいな髷の形に結われた。根元に手をやると、丁寧に簪まで挿されている。

「いい感じじゃねえか。ありがとよ」

昭は姚向に向かって笑んだ。

姚向は照れくさそうにしていたが、直ぐさま厳しい顔に戻った。

「そんな事は良いんだよ。取り敢えず行って来い」

その後、姚向は扉をこんこんと、叩いた。

寸刻の後、女の声が返ってきた。

「入るが良い」

姚向はゆっくりと扉を開けた。

中を覗いてみると、中央近くに見慣れない形の油灯が置いてあった。台は、鳳凰の形に加工された青銅製であり、かなり高額な品であると分かる。その隣に、彼女はいた。

燦に促され、昭は中へと進む。入り口に入ってすぐの場所で、彼は叩頭した。

「お初にお目にかかります、嬀昭と申します」

 すると、彼女は柔らかい声で言った。

 「そんなに固くならずとも好い、其方を呼んだのは、他でもない、この私なのだから」

 あの声だ。ただ、姚向の前だからか、口調が異なっている。

 昭が驚いて黙っていると、彼女は言った。

 「まあ、先ずは面を上げてくれ。其方の顔が見たい」

 昭が顔を上げると、その先には、花のような笑顔を浮かべた少女が坐していた。年の頃は、彼と同じか、少し下ぐらいだろうか。黒く艶のある髪に、大きな瞳を持つ彼女はこれまで昭が出会ってきたどの様な娘よりも、愛らしい容貌をしていた。

 「私は、巫王姫旋が第四女・姫蓮という。其方は私に話しかけられた時、さぞかし驚いたことだろう」

 昭は、驚いたが、同時に、彼女の声に惚れていた。

 「―そうですね、確かに驚きましたけど、それよりも好奇心の方が勝っていました」

 すると、姫蓮は鈴を転がすような声で笑った。

 良かった。いい人みてえだ。

 昭は安堵した。

 「はは、其方は正直だな。でも、私はそんな其方の性格を買って、ここに呼び寄せたのだ。当初より予定が変わってしまったが、そこは勘弁してくれ」

 「いやいや、構いませんよ。ここにお呼び頂いて大変光栄である、という心情で御座います」

 姫蓮は相変わらずにこにことした様子で頷いている。彼女は扉の脇に控えている燦と姚向に言った。

「嬀燦、姚向、私は嬀昭と二人きりになりたい。外に出て、扉の脇で待っててもらえないか」

 「畏まりました」

 二人はそう告げて一礼し、外へと出ていった。

 姫蓮は昭の方を向いて言う。

 「嬀昭、心映は持ってきたか」

 「心映?何で御座いましょうか」

 「首から掛けられる様に紐が付けてある、紅い石だ」

 昭は懐から、かなり前に嬀健から貰ったそれを、取り出した。

 「これが心映で御座いますか」

 「左様だ。私が其方と交信することが出来たのも、この心映のお陰じゃ」

 「そうなのですか」

 昭が目を見開くと、姫蓮は頷いた。彼女は懐から同様に、心映を取り出す。

 「御覧、其方が持っている心映と、全く同じ色をしているだろう、これは心映珠と呼ぶ。私の父親―奵瑛の形見だ」

 「お亡くなりになったのですか」

 「そうだ――不治の病で」

 彼女が心映珠を見つめる様子は、心なしか憂いを帯びているように見えた。

 「俺自身もガキの頃、母親を亡くしましてね。とても優しい人だったんですけど」

 昭は、六つの頃に産みの母―嬀珉ぎみんを亡くしたのだった。その頃、邑を襲っていた疫病は、子供がかかる確率が高かったが、僅かながら成人に達した男女も罹患していた。昭の母親は、それに巻き込まれた、数少ない成人の一人だった。

 「何しろ、邑に侵攻してきた羌が運んできた病だと言われていたから、余計に憎かったです。でかくなってから融軍に志願しようと考えたのも、それがきっかけの一つだったっけな」

 「そうなのか、それは―悲しかったな」

 蓮は遠慮がちに言った。自分には言えない何かを隠している気がする、と昭が感じたのは気のせいだろうか。

 「いや、今は父親の嬀恩が頑張ってくれてるんで、大丈夫です。でかくて、熊みたいな奴ですけど」

 すると、蓮は又もや高らかな笑い声を上げた。

 「お前は本当に面白いな」

 昭は質問した。

 「そう言えば姚向は、あなたがこの部屋にずっと閉じ込められている、と言っていました。それは、何故なのですか?」

 姫蓮は逡巡したのちに答えた。

 「それは話すと長くなるから、今は言えないな」

 姫蓮の顔が更に曇った気がして、昭は慌てた。しかし、彼女は直ぐに再び明るい笑みを浮かべた。

 「案ずるな、苦しゅうない」

 昭はそれを見て、安心した。彼等は、今や共犯者であった。しかし、その罪を犯すことに何の躊躇も抱いていなかったのだ。

 二人だけしかいない部屋の中に揺蕩う時間は、とても穏やかなものであった。







                   2 

 「何を話してるんだろな、あいつら」

 部屋の外で待機している燦が、楽しげな様子で言った。姫氏の部屋は特殊な融により、中の音が聞こえないようになっている。

 「男女のことについて、あまり詮索するんじゃないぞ」

  姚向は眉をひそめ、呆れたように燦の方を見やる。

 「大袈裟だなあ。彼奴が姫蓮と事に及ぶとでも思っているのか」

 そう言って燦はくすくすと笑った。

 姚向の顔が青ざめた。勿論、そうなる事は彼にとって決して気持ちの良いものではなかったからだ。

 「―お前、見かけによらず言うことが卑猥だな。そんな事、考えるわけねえじゃねえか」

 「はは、冗談だよ、冗談」

 高らかに笑う燦と、顔を白くして、引いたような態度を見せる姚向の対比は、傍から見ると可笑しなものであった。

 「本当に洒落にならないから、やめろよ」

 「はいはい」

 軽くとりなすように言うと、燦は急に顔を青ざめさせた。何があったのか姚向は心配する素振りを見せたが、如何やら姚向とは別の理由であったようだ、

 「まずい、漏れそう、ちょっと厠に言ってきてもいいかな」

 姚向は迷うことなく、促した。

 「早く行って来い。少々時間かかっても大丈夫だから」

 「分かった。一人で番、宜しくね」

 そう言うと、燦は足早にその場を去っていった。

燦の姿が完全に廊下の曲がり角の向こうに消えて無くなった瞬間、姚向は部屋の入り口に面している中庭の柵を、音を立てないように慎重に乗り越え、木立に向かって歩いた。そこには、鬱蒼とした葉を茂らせた楠が一本、生えていた。葉の茂みに向かって、姚向は小声で呼びかける。

「恢、出てきてくれ」

すると、茂みの中から、一人の男が湧いて出てきたように飛び降りる。背中と頭には楠の幹から切り取った枝の一部で作った蓑を被っており、姫氏の個室の周辺を木に隠れて偵察出来るようにしていた。

彼は頭に被っていた蓑の一部を、さっと脱いだ。特にこれといった特徴を持たない、のっぺりとした顔が姿を現す。姚向が鋭く小さい声で何やら耳打ちすると、彼は一つ頷き、背中に付けていた蓑を脱ぎ捨て、大邑姫氏領の中枢―康宮へと素早く足を進めていった。

 

 





                  3

 その時、厠から出てきたばかりの燦が目にしたのは、一人の男が急いで廊下を駆けている姿であった。どうやら康宮の方に向かっているらしい。彼は燦の姿に気づくこともなく、目の前を一瞬で通り過ぎていった。

 ―閽人か。

 閽人が警備の為に廊下を走るのは身近な光景であったので、燦は男のことを特に気に留めずにいた。しかし、燦はその後すぐに何かがおかしいことに気付いた。男が通り過ぎた道の上に、葉がやたらと落ちているのである。

 燦は葉を拾い上げ、しげしげと眺めた。

 ―今は葉が散る時期ではないよなあ。

 落ちていた葉は、全て青々とした色を保っている。

 燦が葉の落ちている形跡を辿ってみると、大振りな木の枝が落ちていた。大きさからして、人が蓑として被る為に作られたように見える。

 燦の背筋に悪寒が走った。

 ―まさか。

 燦は姫蓮の部屋に向かって、急いで足を進めようとした。しかし、枝に足を取られ、その場に転んでしまう。

 後ろから複数の人間が駆け足でこちらへやって来る音がした。後ろを振り向くと、二、三人の屈強な姿をした閽人が姿を見せていた。一番背の低い一人が、冷たい目で燦を見下ろして言った。

「申し訳ございませんが、姚向殿のお達しにより、身柄を拘束させて頂きます」

そう言うと、彼は燦の腕を掴み、乱暴に身体を起こそうとする。

「止めろ!何しやがる」

燦は必死の形相で藻掻いたが、閽人の力には到底勝てそうに無かった。後の二人は、素早く姫蓮の個室へと向かっていく。

止めろ、と再び叫ぼうとした瞬間には、既に猿轡を口に嵌められていた。


  

 




                 4

 どんどんと激しく扉を叩く音がして、蓮は扉の方を見やった。

「何か急を要する事でも起こったんだろうか、ちょっと見てくる」

「分かりました」

昭の方を見て頷き、蓮は扉へと向かった。

蓮ががらりと扉を開けた瞬間、なだれ込むようにして、部屋に二人の閽人が入って来た。

「其方ら、何事じゃ」

蓮が怪しむように言うと、閽人は感情の欠落した声で告げた。

「姚向殿のお達しにより、姫蓮様が姫網第五条『姫周を出むと謀りし者、然るべき刑に処す』に抵触したとして、そこの輩共々、身柄を拘束することとなりました。どうか我々の仕打ちをご寛恕下さい」

言い終わるが直ぐさま、閽人は蓮の身柄を拘束した。

姫蓮は、今度は不思議と抵抗する気にはならなかった。これは自身の運命であるかのように思えたからだ。彼女は縄で後ろ手に縛りあげられ、そのままの状態でいた。

もう片方の閽人は、昭を拘束しようとしていたが、かなり手間取っているようであった。

昭自身、このまま捕まった方が好都合であるということを心では理解していた。しかし、彼の身の内から湧き上がる戦闘本能が、彼を突き動かしていた。

昭は駆け寄って拳を向けてきた閽人をすっと躱し、そのままの流れに沿って閽人の腕に手刀を叩き込む。激痛が腕を走った。

閽人は腕を抑え、束の間痛みによって呻いていたが、彼もまた手練れであった。直ぐに立ち上がって間合いを取り、腰の帯に付けていた青銅の小刀で昭の腹に狙いを定めた。閃光のような速さで切っ先が飛んで来る。

しかし、閽人が腕を掴まれる感触を覚えた瞬間、小刀が奪い取られていた。彼は何が起きたか分からず、呆然としている。

昭は肘で刀の柄の部分を挟んだまま、空いた方の腕で閽人の顔を一発殴った。閽人は体制を崩し、横倒れになる。彼は起き上がって来ようとする閽人の股間を蹴り、激痛で立てないようにしてから、腕の付け根を切りつけた。この部分を深く斬ると、腕は麻痺し、使い物にならなくなる。

 痛みで呻いている閽人を尻目に、昭は姫蓮を拘束している閽人の方へと向かった。そのまま刀を突き付けて彼は言う。

 「離してやれ」

 昭は閽人を壁にじりじりと追い詰めた。しかし、彼は蓮を縛る縄をつかむ腕に、より一層力を込める。姫氏の女の身を傷つけることは、重罪に値するので、下手な動きが出来なかったのだった。蓮が切実な眼差しで昭を見上げる。大人しく捕まっておけ、と彼女が小さな声で言うのも、彼の耳には届いていなかった。

 昭が睨みつけると、閽人は竦みあがった様子で目を泳がせた。

 彼は恐る恐る口に親指と人差し指をやると、次の瞬間、独特な拍子の指笛を数回吹いた。直ぐに足音が近づいてくる。

 「何しやがったんだ」

 昭が問うと、彼は言った。

 「別の閽人を呼んだんだ。お前は何としても捕まえなければならないからな」

 その時、昭の頭に浮かんでいたのは、目の前の閽人にではなく、姚向に対しての激しい怒りであった。

 自身の保身のためにやったのには違いない。姚向は以前とは変わってしまったのだと、昭はその時改めて実感したのだった。

 昭は唇を血が出る程強く噛んだ。

 姫蓮の方を見やると、彼女は虚脱したような表情をしていた。

 「大丈夫ですか」

 昭が声をかけると、姫蓮は正気を取り戻したように目に光を宿し、見上げた。

 「大丈夫だ。案ずるな」

 目の前で起きた事が目まぐるしすぎて、頭の整理が追い付いていないようであった。昭は姫蓮を見て頷くと、前を向き、他の閽人の到来を待つ。

 程なくして、彼等は躊躇なく部屋に入り込んできた。三、四人いる。全員の狙いは、どうやら昭に向かっているらしく、閽人達は息を切らしながら昭の方へと刃を向けた。

 彼らは昭の方に近寄ってきた。恐らく取り囲んで一斉に刺すつもりなのだろう。

 下手に前に動くとやべえな。

 昭はそう思い、閽人達を誘導するように横へとそっと動いた。すると、彼等は引き付けられるように昭の方へと急速に近づいてきた。

 昭は閽人達によって壁に追い詰められる少し前にまた別の位置へと移動した。端にいる一人が脇腹を見せた隙を見計らって、そこにまた手刀を素早く叩き込む。

 彼が悲鳴を上げてその場に頽れると、昭は入口の方へと素早く後ずさりしていった。閽人達は何故か昭の近くにはやって来ず、倒れた閽人を心配するように周りを囲んでいる。後ろを振り返ると、先程の閽人が蓮を外に連れ出そうとしているところであった。昭の存在には気づいていないようだ。

閽人を倒すことは、確か同士討ちには含まれなかった筈だ。

そのことに気づいた昭は音を立てずに閽人の後ろに近付くと、頸の辺りを小刀で素早く断ち切った。

閽人は血しぶきを周囲にまき散らし、声一つ上げずに前へと倒れる。姫蓮は折り重なるように閽人の下敷きになってしまった。

昭が閽人の屍を持ち上げ後ろに倒すと、姫蓮はもぞもぞとその下から這い出てきた。体勢を立て直すと、そのまま背中を向けてくる。どうやら縄を断ち切れということらしい。昭が姫蓮の背中に垂れた長い髪を搔き分け、その下にあった複雑に結ばれた縄を小刀で切ると、蓮は解放された手をぶらぶらとさせる。

「今のうちにお逃げください」

 昭が低い声で言うと、姫蓮は戸惑ったような表情を見せた。

「私と一緒に居るのは、だめなのか?」

「今はそんな事を言っている場合ではありません、早く!」

昭の剣幕に押されたように、姫蓮はふらふらとした足取りで外へと足を進めた。

それと同時に、体制を立て直したらしい閽人達が昭の方へとやってくる。

昭は彼らの方をしっかり睨みつけ、刃を構えた。

昭が戦闘に取り掛かってものの数十秒で、彼らは生命を失った只の肉塊と化した。






                  5

蓮は外をぼんやりとした心地で歩いていた。その時彼女の頭にあったのは、奵瑛が生前言っていた言葉であった。

 ―いざと云う時は、決して焦るでないぞ。じっと耐えて機会を待つんだ。

 しかし、待っていても、機会は訪れるのだろうか? 機会というものは、自身で取りに行かなければならない物では無いだろうか?

 蓮は漠然と考えていた。奵瑛は十二分に尊敬に値する人物であったが、其の考えの全てを鵜呑みにするということは危険なことであると、最近蓮は気づいていたのだった。しかし、そんな事を考えている暇はなく、今は一刻も早く姫周を出るために、尽力しなければならない。

 

蓮は昭の言葉の意味が分からなかったが、その時、意味を理解したのだった。

―巫王姫旋と近しい立場にある私が、先ず彼女への交渉を行う。

次の瞬間蓮は、弾かれた様に康宮へと足を進めていった。いつもの彼女と比べると、驚くほどの足の速さだった。

 暫くして、複雑な廊下を辿り、康宮の扉の前へと蓮は辿り着く。此処に燦が居るという保証があるわけでもないし、巫王姫旋からどの様な仕打ちを受けるのかも想像できない。蓮は恐ろしい気持ちでいっぱいだった。

 それでも蓮は歯を食いしばって、康宮の扉を開けようとした。しかし、彼女がどれだけ扉を横に引いても押しても、少しも動く気配がない。

 ふと、脇にある扉のことを思い出し、康宮の周囲を一周してみたが、扉は正面以外一切見当たらなかった。

蓮は仕方なく正面の扉の前に戻り、融を使おうと念じるが、意識下にある強力な結界に跳ね返されてしまった。手段が尽きた蓮は、涙目になり、嗚咽を漏らしながら扉を叩いた。叩いているうちに拳には血が滲み、関節の部分が赤くささくれる。

 どれぐらい叩いたかも分からないぐらい時が経った頃。やっと扉が独りでに開いた。蓮は倒れ込むようにして康宮の中に入った。心臓がばくばくと立てる音だけが、周囲に聞こえていた。

 蓮が立ち上がって奥へと進むと、扉は素早く閉められた。

「我が一族には稀な見苦しさだな。横にある入口は、面白いだろうと思って私が消したんだがな」

 巫王姫旋が笑い交じりに言う声が、奥の方から聞こえてきた。蓮は何も答えずに先へと足を運ぶ。

「重罪を犯した気分はどうだえ。さぞかし良いものに違いないだろう」

 皮肉るように、巫王姫旋は続けた。蓮は抑揚のない声で答える。

「別に。貴方様に言うほどの事でもないので、黙っておくことにします」

 すると、巫王姫旋は嘲笑った。

 蓮は長く続く通路の丁度真ん中の位置辺りに腰を下ろした。巫王姫旋は、急に深刻な口調で言う。豪奢な装飾が施されている玉座に、頬杖をつきながら。

「其方はこれから、我が一族が未だ嘗て味わったことのないような、厳重な処罰を受けるであろう。その覚悟は出来ておるのか」

「それ相当の覚悟はしております。そうでなければここに居ることも御座いませんでしょう」

 蓮は巫王姫旋の顔から目を逸らさずに言った。

「肝が座って居る所だけは、褒めて遣わそう」

ふと疑問に思って、蓮は聞いた。

「そう言えば、燦をどこへやったのですか」

 蓮は油灯のぼんやりと灯された巫王姫旋の仮面を凝視する。

「あれは、牢の中につなぎ留めてある。其方も近いうちに仲間になれるな」

 巫王姫旋は康宮の中を一通り見回しながら言った。

「しかし、同氏の別人に成りすますとは、此れ又よく考えたな。まあ、神通力のような物を持っていたらしいが。研究対象として婦功に調べさせようと思う」

既に事情聴取を済ませたのであろうか、巫王姫旋は、今回の出来事についてかなりの知識を持っているようであった。

「それにしても、兄弟そろって罪を犯すとはな。中々面白いことをしでかしてくれる。大したものだえ。血縁がないながらも、中身はしっかり兄弟であるからな」

 蓮は夢のことを思い出していた。昭にあの事を話すと、彼の中の自己同一性が揺らいでしまうことは間違いないであろう。

「蓮、もしや其方、嬀昭の身元について知っておるのか」 

 黙り込んでいる蓮を見て、巫王姫旋は勘づいたようであった。

「はい、はっきりではないですが、存じております」

 蓮は正直に応答した。すると、巫王姫旋は急に玉座から立ち上がった。脇息に掛けられていた衣の長い袂がするりと床に落ちる。

「どうやって知ったのだ、他の親族にすら漏らしてないのに」

「夢の中で、伝えてきたんです―彼の母親だ、という女性が」

 巫王姫旋はそれを聞いて激怒したようであった。仮面の下に隠れた憤怒の表情が、蓮にはありありと想像できた。

「己―ハル、死んでもなお、化けて出るか」

ハル、とはどうやらあの女の名前らしい。しかし、聞きなれない発音である事から、彼女が羌であることは明らかであった。

「姫旋様は、あの女性のことを知っておられるのですか」

蓮が聞くと、巫王姫旋は吐き捨てるように言った。

「知ってるも何も、彼奴は私の一番の敵だえ」

その時だった。扉をどんどんと叩く音が聞こえる。どうやら巫王姫旋が派遣した閽人が戻ってきたようであった。

「入るが良い」

巫王姫旋が扉を開けると、一人の閽人が息も絶え絶えに中に入って来た。相当の手傷を負っているらしく、片目を潰され、片方の腕が動かなくなっているようであった。

 その腕には、ぼろぼろになった昭の身体が抱え込まれていた。

 蓮は今すぐにでも駆け寄りたいという気分であったが、巫王姫旋の手前、どうすることもできなかった。







                 6

閽人は苦しみに顔を歪めながら言う。

「巫王様、ようやく嬀昭を仕留めることができました。私共は奴を相当侮っていたようです。お陰で四人の同胞がこの世を去り、私を含め二人が重傷を負いました」

「何はともあれ、良くやった。嬀昭を此処に置け」

そう言うと、巫王姫旋は蓮の隣辺りを指し示す。

閽人は覚束ない足取りでその場所まで昭の身体を運ぶと、どすりとそれを床に落とした。その直後、彼はその場に倒れる。

「きっと軽い気絶だろう。朔、姜測の所からあれを貰ってきてくれ」

「御意」

脇に控えていた朔―以前蓮と奵瑛を捉えた閽人だ―は小走りで奥の闇へと消えていった。

 康宮の広間に戻ってきた時、朔は栓のされている小さな器を持って来た。彼は昭の傍にしゃがみ込み、器の栓を外し、彼の鼻先へと近づけた。

 その途端、昭の身体がびくりと痙攣し、跳ぶように彼は起き上がった。

「―何だこれは」

「気付け薬だ」

 朔はそう言うと、器の栓を閉めて、また壁際へと去っていく。

 昭が後ろを向こうとすると、巫王姫旋は言い放った。

「一歩でも逃げようとすれば、八つ裂きの憂き目にあうぞ」

 昭は前を向いた。

「これから融軍第七隊兵卒、嬀昭並びに我が四女、姫蓮の尋問を行う」

 巫王姫旋の厳かな声が辺りに響き渡った。

 蓮は何処か信じられないような心地で、その場に坐していた。

 これから、自身の処遇が決まるのだと知っていても、心がそれを受け入れるのを拒否していたのである。

 しかし、ここから目を逸らすことは、許されない。

「先ず、この様なことに至った経緯を聞こうか、蓮」

巫王姫旋が頬杖を突きながら言った。

 蓮は一瞬伝えるのを躊躇したが、洗い浚い吐き出すことにした。

「死の直前、奵瑛様は私にこう言ってきたのです。―外に出たい、と。私はその日からずっと奵瑛様の未練を果たそうと、胸中に思いを秘めて参りました」

 すると、巫王姫旋はふんぞり返ったような様子で言う。

「やはりな」

 昭ははっとしたように顔を上げ、蓮の方を見ようとしたが、面を上げることを許可されていないことを思い出す。

「でも、姫周を出た後はどうするのかえ。外は羌が蔓延る魔境の地。そんな中で、其方が生き残れる自信はあるのか」

蓮は顔を下げ、逡巡する。

 正直、その様な自信は皆無であった。蓮は羌を実際に目にしたことがない。その為、万が一彼らに遭遇した時も、どの様に対処すればいいのかは見当も付かなかった。しかし、昭がいる場合は、話が別だ。数え切れないほど羌と対戦した彼と居れば、大事には至らないだろう。そう思い、蓮は口を開いた。

「二人で力を合わせれば、どうにでもなる、と考えております」

「其方から融を剥奪することは出来ぬが、嬀昭からは間違いなく剥奪することになろう。非力なお前が、奴を守りおおせるのか」

 姫網から考えれば当然のことであったが、昭が融を使えないのなら、間違いなく二人の生存には痛手となりうる。

しかし、蓮は確信めいたような眼差しを巫王姫旋に向けた。

「私は今まで、様々な人々に守られ、十余年生きてきました。しかし、そんな私にも守るべき者が出来たんだと思います。私は、私の人生で恐らく初めて課されたであろう試練を、全うしたいので御座います」

蓮の眼が放つ強い光に押され、巫王姫旋はたじろいでいるようであった。蓮はにっこりと笑顔を浮かべ、言う。

「決まりきった事で御座いますのに、私の身を案じてくださるなんて、巫王様は優しいお方ですね」

皮肉めいた蓮の言葉に、とうとう巫王姫旋の堪忍袋の緒が切れたようだった。蓮が言い終わるなり彼女は立ち上がり、

「今すぐ此奴を牢にぶち込め!」

と叫んだ。

脇に控えていた閽人が直ぐさま蓮を担ぎ上げた。今度は蓮は微塵も抵抗を見せない。蓮を担いだ閽人は、そのまま奥へと消えていった。







                   7

その後、康宮の広間には、昭と巫王姫旋のみが、残された。

長い沈黙が続く。

暫くして、沈黙を割るように、巫王姫旋は口を開いた。

「面を上げてみてくれ」

昭が上半身を起こすと、巫王姫旋の仮面が一番に視界に入った。

昭は姫周という国家の最重要人物を目にして、圧倒されていた。身から醸し出される、有り余るほどの威厳。衣の袂と裾が引きずらんばかりに長いのは、高位の証であろう。しかし、同時にその身からは、冷酷さも感じ取られた。

 「忌まわしいものよの。やはり、彼奴を思い出してしまう」

 「彼奴って、何ですか」

 昭が怪訝そうな顔をして聞くと、巫王姫旋は言った。

 「そうだな―今更隠すこともないが、お前の実の父親だ」

 昭は目を見開いた。

 「私の養育は、嬀恩が請け負ってきましたが」

 「いや、彼奴はお前の産みの親ではない」

 「―は?」

 昭は面食らったように言った。

「じゃあ、誰であるとお思いになっているのですか」

 すると、巫王姫旋は脇息を床に叩きつけるように投げた。稲妻のような緊張した空気が、辺りに漂うのが分かる。巫王姫旋は、憎しみのこもった声で言った。

「―お前の親はな、姫周を混乱に陥れた、獣だ」








                 8 

先王が世を去る数年前。姫旋は一定期間姫周から外に出たことがあった。その時姫周は、秘密裏に羌との交流を行っていたのだった。二代前の巫王が、婦功達に命じて姫周の周辺に居る羌を把握するための調査を行わせていたのがことの始めであった。調査で命を落とす者も少なからずいたため、先王の妹であった姫旋自らが外に向かうこととなったのだ。

この頃、姫周の周囲には数多くの羌が生息しており、現在よりも頻繫に侵攻が見られた。姫旋が当時最も頭を悩ませていたのは、羌に関する問題であったのだ。

―どうすれば周辺の勢力と和平を結ぶことが出来るのか。

ある日、姫旋は自室の卓に肘を付き、考え込んでいた。右手の指は、卓を軽快な拍子で叩いている。脇には、二人の婦功が控えていた。

巫王姫旋は後ろを向いた。

「其方達、先ず何処を当たれば良いか、意見はないか」

すると、新入りの婦功―姜明が口を開く。彼女は巫王姫旋に聡明さと思い切りの良さを買われ、登用された実力派の若手であった。

「姫周西部から八里ほど離れた場所に集落を形成する土羌と呼ばれる勢力は、私達に対し比較的温和な姿勢を示しております。そこに向かわれては如何で御座いましょうか」

「姜明殿、土羌は面従腹背で名高い勢力です。饗応するふりをして、酒に毒を盛られて、帰らぬ者となった婦功の例を聞きます。巫王様は避けておいた方が賢明で御座いましょう」

反対意見を述べたのは、姞羽という年配の婦功であった。

「それなら、人羌は如何ですか」

姜明が言うと、姞羽は首を横に振った。

「人羌も駄目です。彼等は人肉を食らうとも言われており、殺傷能力の高い武器を常に携帯していると言われておりますから」

「お前達、私が融を持っていることを忘れたのか」

 姫旋は顔を顰めた。

 すると、姞羽は焦ったように言う。

「いや、忘れておりませぬ。只、幼い頃から仕えさせて頂いている身なので、心配に感じられただけです」

思い出したように、姜明が告げた。

「なら、狼羌は如何でしょうか。彼等は温和という訳では御座いませんが、義理堅く、勇猛な性質で知られています。又、過去に姫周に住んでいた経験の在る者で、数人我々の言葉を操れる者がいます、それに」

「それに?」

「彼らは世にも珍しい青い髪と金色の目を持つのです。我々の中には先ず見られない風貌故、訪れる価値は十分にあるかと」

「姫周に在住していたというのは、もしかすると見世物巡業の為か?」

「左様で御座います。とは言え、二、三十年程昔の話で御座いますが」

姫旋は納得したように頷いた。狼羌の容貌は、黒髪に黒い目を持つ者ばかりの姫周ではさぞかし目を引いたことだろう。

「しかし、彼等は我々を遥かに凌ぐ運動能力を持つと言われています。二年前、晴嵐平野を巡って人羌と対戦した際には、たった十人で五百人の軍勢を殲滅致しました」

姞羽が横から口をはさむ。しかし、顔に反対の色が浮かんでいないことからも、狼羌はそこまで危険な勢力ではないのだろう。

「数は少ないのか」

「はい、数は少ないです。多く見積もっても精々百数十人ではないでしょうか」

「へえ。何故それだけしかいないんだ?」

「それはまだ解明されておりませぬ。今回の調査では、姫旋様に彼等の生態を調査して頂きたいと考えております」

巫王姫旋は笑みを浮かべた。

「随分面白そうな奴らではないか」

「では、狼羌に致しますか」

「それで頼む」

  姜明が微笑みを浮かべ、口を開いた。

「そう言えば、奥の書庫に、幾つか狼羌についての書類があったと思うので、調べてきますね」

「ああ、頼む」

姜明は長い衣の袂を揺らしながら、部屋の外へと消えていった。ぎい、と地下扉が開き、階段を駆け下りる軽快な足音が響く。

姫旋の心は湧きたっていた。彼等の実態を知るまでは。








                 9 

 三日後、姫旋は数人の婦功と共に、狼羌のいる集落へと旅立った。

隔壁の外へ出る。通常なら、それは国禁を犯しているということになるが、今回は話が別であった。

青い髪を持つ異国の民。それは巫王姫旋の好奇心を大いにそそるものだった。

姫旋は、特殊な呪文を唱え、康宮東部にある、国外へと続く関門を開ける。丸太を組み合わせて作られたそれは、重々しい轟音をたてて上へと開いた。

婦功を乗せた馬が、二頭外へと出ていった。それから、姫旋が乗るための無人の馬もぽくぽくと足音を鳴らしながら出ていく。三本の黒く長い尾が、思い思いにさらさらと風に靡いていた。

彼女らが全員出終えた後、姫旋は最後に外へ出る。その途端、扉は物凄い勢いで落下し、閉じられた。

―奴らに会うのが楽しみだな。

姫旋は背嚢を背負う手に力を込めた。幾ら巫王と雖も、彼等に怪しまれては命が危ないので、馬に乗っていくことになる。普段馬に乗り慣れていない姫旋は、上下に揺られ、内蔵がむかむかする心地で山道を闊歩していた。下半身には身には男性用の袴を身につけ、足を取られないようにしている。

「姫旋様、ご気分は如何ですか」

姜明がこちらに向かって笑いかけた。彼女は何回も調査に向かっているだけあって、かなり慣れた様子で馬を走らせている。

「ああ、最高だ」

姫旋は微笑み返した。麗王、とも称されていた彼女の笑みは切れ長の瞳に紅唇も相俟って非常に美しいものであった。

その顔をまじまじと見た姜明は顔を赤らめる。

「あり難きお言葉で」

 それから姜明はふいと前を向き、再び手綱を力強く握った。

「姫旋様、そろそろ狼羌の集落が見えて参ります。あともう少し辛抱下さいませ」

 もう一人の婦功―姚桂が声をかける。若く闊達として、長身で才気あふれる彼女は、今回の先導役に持って来いであった。

「了解した」

 それから半時間程馬を疾駆させた後、姚玲は馬上から降りる。すらりとした体躯が、音もたてずにふわりと草いきれの生えた地面に降り立った。

 姫旋と姜明もそれに倣って、すとんと地面に降り立つ。

 姫周東部から十二里ほど離れた場所に、狼羌は住んでいた。

鬱蒼とした原生林。薄暗く不気味さを醸し出しているそこをかき分けて進むと、大きな洞窟が湧いて出たように姿を現した。

「―狼羌がいるのは此処か」

 姫旋が聞くと、姚桂は大きく頷いた。

「そんな不安げな顔を為さらないでください。彼らは気の良い質で御座いますから」

「別に、そんな思いをしている訳では無い」

不貞腐れた様に姫旋は答える。洞窟内に広がる漆黒の向こうに、彼らが居るというのは、何とも荒唐無稽な話のように思えてきたが、姫旋はなるべくその様なことは考えないでおこうと思った。

姚桂は、暗がりに向かって鋭い指笛を吹いた。高い音が、かなりの高さを持つであろう空間に澄んだように響き渡る。

すると、それに反応するように、暗がりからばたばたと足音が近づいてきた。

来る。

姫旋が唾を飲んで暗闇を凝視していると、一人の人間が奥からふっと湧いて出出現した。

出てきたのは、一人の少女である。明るく金に光る眼で、はっとしたようにこちらを見つめた彼女は、まだ顔にあどけなさが残っており、成人には達していないようだったが、うなじで束ねられた長い髪は深い青色をしていた。顔の造りは整っており、美人と言える見た目である事は確かである。

褐色の滑らかな肌には、胸当てと腰を覆う毛皮しか身につけられておらず、筋肉のついた引き締まった体躯が余すことなく露出されている。下品だ、と姫旋は感じたが、何とか顔に出さずにいることは成功した。

「こ、こにちは」

 彼女はたどたどしい姫周の言葉で挨拶を述べた。

「ああ、ハルか。久しぶりだな。ソウは居るか」

ソウ、とは如何やら狼羌の長らしい。ハルは細い首でこくりと頷くと、三人の方に向かって手招きし、暗がりの中へと進んでいった。三人もそれに続いて洞窟の中へと入る。

洞窟の中は足場が非常に悪く、崖に突き当たる場所も少なくなかった。

三人が姫旋の融の力に頼り、恐る恐る降りている所を、ハルは鹿のように軽々と下っていく。

「待ってくれ、ハル。余りに速すぎて追いつけない」

 姚桂が言うと、ハルは高い声を上げて笑い始めた。

「笑うんじゃない!」

 姫旋が叫んでも、尚もハルは笑い続ける。激昂する姫旋を取り成すように姜明は言った。

「彼らは別に可笑しくて笑っている訳では御座いません。あれは彼等の歓迎の意志の表れです」

「本当か?」

「ええ、そうですとも」

ハルの方を見やると、岩壁の巨大な出っ張りの下に彼女の爛々と光る眼が二つ見えた。

獣みたいだな、と姫旋は感じた。

「暗がりでも、彼らの目はしっかりと周囲にある物を感知します」

「だから狼羌、って言うんだな。何故犬なのかは分からないが」

「後にその理由が分かる事でしょう」

そう言うと、姚桂は口にちらりと笑みを浮かべた。







                 10

 ハルが辿った道を同様に辿っていくと、その先に大きな広間が見えた。かなり大きな炎が焚かれているようで、頻繫に薪が投げ入れられているのが見える。

 その周りを、彼等は取り囲むようにして座っていた。

 姫旋達が広間に足を踏み入れようとすると、彼等は一斉にこちらを向いた。一斉に笑い始めた彼らを見てむっとしそうになったが、先程の姚桂の言葉があったので、辛うじて怒りを抑え込むことが出来た。ハルが焚き火の向こう側にいる青年に声を掛ける。すると、彼は立ち上がり、こちらに歩いてきた。姫旋達の前までやって来ると、彼は右手の人差し指と中指で左右の鎖骨を順番に軽く触れる。

 ハルがこちらをねめつけてきた。如何やら同じ様にしろ、という意味らしい。姫旋達は三人とも青年に倣い、指で鎖骨を軽く叩いた。

 「初めまして、私の名はソウと申します。ハルから話は伺っております。姫旋様でいらっしゃいますね?」

 目の前の鋭い目つきをした男の口から、流暢な姫周の言葉が飛び出したので、姫旋は驚いた。屈強な見た目に反し、物腰は柔らかである。

 「ああ、そうだ。お前は、姫周に来たことはあるのか?」

 「実は、二、三年前に住んでいたことがあるんです」

 果たして青い髪をした人間は居ただろうか、と姫旋は考えを巡らせる。しかし、彼のような者は思い当たらなかった。

 すると、ソウは破顔して言った。

 「分からないのも無理はありませんね。私はあの時、黒髪黒目だったもので」

 「ああ、そうなんだな」

 理由を追求するのも気が進まなかったので、姫旋は話を切った。

 後に巫王姫杷から聞いた話だったが、彼女は見世物とは別に、一時期姫周の文化を羌に対して叩き込むために、群衆の中に羌を紛れ込ませて生活させるという事を秘密裏に行っていたらしい。特に狼羌は髪と目の色が鮮やかである為、姫杷は融を使って絶対に色が取れない染料と薬を調合し、彼等にそれぞれの色を変えさせたのだとか。姫旋は後に自身がこの作業を行うことになるとは、夢にも思わなかった。

「今回はどうなさるご予定ですか?前回は滞在時間があまり長くなかったようですが」

 「今回も調査が目的で来た。お前達はいつも通り過ごせばよい」

 姚桂が言うと、ソウは頷いた。

 「了解致しました。では、自由に見て回って頂いて結構です」

 すると、ソウはその場から再び焚き火の方へと去っていった。

 姫旋は、姚桂の耳元に囁く。

 「これで良いのか?羌にしては警戒心が薄過ぎる気がするが」

 「これで構わないのです。彼等は我々に友好的な感情を持っているので」

 自信ありげな瞳で姚桂が見返してくるので、姫旋は納得せざるを得なくなった。

 「彼等が狩猟に出かけるのは、完全に日が沈んでからです。それまで我々は焚き火の前で待機しておきましょう」

 姚桂が言うと、姫旋は頷いた。







                  11

 姫旋らは焚き火の前まで近づいたが、彼等が気にする気配はない。皆ちらりと姫旋らを一瞥したきり、まるでこちらの存在など見えていないかのように無視し、自由に振る舞っていた。輪になって雑談している者達も居れば、絶えず焚き火の中に薪を投げ入れている者も居た。

 こうして見てみると、彼等は非常に美しい、ということに姫旋は気づいた。男は勿論、女子供も全員が鋼のように鍛えられ、引き締まった筋肉を持っていた。姫周に連れてこられた彼らを見てみたかった、と姫旋はふと考える。

 しかし、彼らをそれと無く観察していると、奇妙なことに気づいた。老人が一人も見当たらないのである。

 医療が発達しているとは言えない姫周においても、老人は時折見られる。この場のように若者しか見当たらない、ということは有り得なかった。

 姫旋が立ち上がり、姚桂の方に近づこうとすると、ハルが隣にやって来た。彼女の姫周語はやはりたどたどしい。

「姫旋様、ご気分はどですか」

 ハルは細い腕で姫旋の上腕に触れてくる。馴れ馴れしい、と姫旋は感じたが、満更でもないような気もした。

「至って普通だが、どうしたんだ?」

 姫旋が聞くと、ハルは金色の目でこちらを見つめてきた。肌の褐色との対比がはっきりとして、神秘的な雰囲気を醸し出している。

「良かた、私、姫旋様、怖い人だと思てた」

 民の上に立つ者として恐怖は不可欠だ。しかし、ここでは断じて恐怖で誰かを操ることはしてはならない、と姫旋は姚桂から言われていた。

―彼等は友好的ですが、怒らせると何をしでかすかは分かりませぬ。姫旋様の融ならば対処できるとは考えておりますが、それでも悪戦苦闘することは確かでしょう。

 婦功達を死なせないためにも、怒らせてはいけない。そう考えた巫王姫旋は、なるべく警戒心を持たせないように努めるようにした。

「心配するな。其方を怖がらせるようなことはしない」

 そう言うと、ハルは笑みを浮かべた。

「姫旋様と私、&$*だね」

「なんて言った?もう一度言ってくれ」

「&$*。友達のこと」

 姫旋は「友達」を意味するその部分をどう頑張っても発音することが出来そうになかった。

「そうか、友達か。初めて出来たな」

 実際、姫旋は世俗から隔離されているに等しかった。幼い頃、小邑から同じ年頃の少女が呼ばれてくることはあったものの、彼女らは確実に姫旋とは距離を置いていた。

―私共は姫旋様のご学友に過ぎませんので。

 美しく着飾り、目尻と唇に紅を施した少女達は、姫旋が野原を駆けまわることを提案しても、微笑んで座って居るだけだった。

 姫旋は躊躇なく自身の元に駆け寄ってくる存在を初めて目にしたに等しかった。それ故に、この上ない喜びを味わっていたのだった。

 ハルは満面の笑みを浮かべながら言った。

「狩りまで時間ある。だから私、姫旋様案内したげる」

「おお、案内してくれるのか。有難う」

 ふわりと身体が浮かんだように感じた刹那、ハルは姫旋の身体を軽々と肩に担ぎ上げていた。細い腕が、姫旋の身体を落とさないようにがっちりと掴んでいる。

「わっ!いきなり何するんだ!」

 姫旋は叫んだが、ハルは何食わぬ顔で前を向いている。

「じゃ、行くね」

そのまま彼女は広間を抜け、上に続く足場の悪い急な坂を軽々と駆け上った。突風が吹き抜けていく。身体が揺れる感覚もないまま、姫旋は気が付くと、大きな鍾乳洞の前に辿り着いていた。

―これが狼羌の身体能力。

 姫旋は身をもって実感した。正直、ハルがこの様なことをやってのけるとは思わなかったのである。彼等が戦闘を仕掛けてきたなら、一溜まりもないだろうという思いが脳内を去来し、姫旋は縮み上がる。

「じゃあ、降ろすね」

 身体が地面にすとんと降ろされる。姫旋はそれから暫くの間、その場にしゃがみ込んでいた。頭が追い付かなかったのである。

「姫旋様、前見て」

 言われた通り前を向くと、そこには、想像を絶する光景が広がっていた。鍾乳洞全体が美しい赤色の光を放っていたのである。姫旋は息を飲んでその光景を見つめていた。

「これ、・2%&、神様が来る場所。私達、入ったらいけないことになっている」

 ハルは金に光り輝く目で、こちらを見つめてくる。青が反射し、表面に複雑な模様を形成していた。

「―何で光っているんだ」

「*♡%が来ていない時、ここは光るの」

 ふと疑問に思った姫旋は、聞いた。

「神は普段、何処に居るんだ?」

 ハルはあっさり答えた。

「*♡%、普段は$√☆+にいる。三年に一度、長が変わるときだけ、此処にやって来る」

「長って、そんなに頻繫に交代するのか」

「うん、ソウが今の長。でも、多分次の年には死ぬ」

 ハルは伏し目がちに答えた。しかし、その顔には悲壮感が浮かんでいるわけでもない。

「待ってくれ、ハル、其方は今生まれて何年経ったんだ?」

 姫旋は、ハルの肩を掴んで詰め寄った。

「うーん、良くわからないんだけど、生まれてから二回此処にやって来たから、六年かな」

 姫旋は絶句した。男性が長を務めるという事にも驚いたが、それ以上に、彼等の寿命が非常に短いという事に驚いた。成程、彼等は成長が早い分、寿命が尽きるのも早いのだ。

 彼女は薄くくびれた腹の下の方を優しく撫ぜた。褐色の表面に目を凝らすと、縦横にしっかりと筋が入っている。

「私、来年ソウの子供、産む。その子が男の子だったら、次の長」

彼女は無邪気な笑顔を姫旋に向けた。革に覆われたハルの胸の膨らみはまだ小さなものだったが、これも一年経つと、果実のごとく重たく、豊かになるのだろう。そこまで考えが及んだ途端、姫旋はぞっとした。顔に苦いものがよぎったのを見て、ハルは不思議そうな顔をする。

「どうしたの?」

「いや、何でもない。ちょっと頭が痛くなっただけだ」

「大丈夫?あなたの国の人、しょっちゅう身体悪くなるから、心配」

「私達の身体は、其方達のように強く出来ていないのでな。労ってくれよ」

そう言って姫旋はハルに笑いかけた。ハルはほっとしたような表情をする。

「そう言えば、何故私を此処に連れてきてくれたんだ?」

姫旋が聞くと、ハルは考え込む様子を見せた。二分ほど経つと、彼女の表情は憂いを帯びたものに変わっていた。

「ここなら誰にも見つからないと思った。長い時間話してると、ソウも皆も、あまりいい顔しないから」

「そうか?私が見る限り、ソウは寛容に見えたが」

「ソウ、普段は優しいけど、狩りの時は凄い怖いよ。ソウに見つめられたら竦みあがっちゃうし、自分が鼠になっちゃったみたい。獲物も一発で仕留めるし」

ハルが苦虫を嚙み潰したような顔をするのを見て、姫旋は笑った。手で艶やかな青い髪をそっと撫でると、ハルの表情は緩んでいく。

「ははは。ソウは強いんだな。だから長なんだな」

「うん、一番狩りが上手い人が長」

そういえば、其方とソウはどの様な関係なのだ、とハルに聞こうとしたその時。

「ハル、$%6♤#、%&#+*#$!」

後ろから叫び声が近づいてきた。振り向くと、そこにはソウが立っている。彼はハルの元に駆け寄ると、彼女を狼羌の言葉で軽く叱った。その後、姫旋の方に向かって頭を下げる。

「姫旋様、申し訳ございません。ハルは徘徊する癖がありましてね。でもまさか、貴方様をお連れになっているとは」

「案ずるな。中々に悪くなかったぞ」

 姫旋が言っても、ハルは申し訳なさそうにする。

「二度とこのような事が無い様に、きつく叱っておきますんで」

「悪くないって言ってるんだからいいじゃない!」

 ソウは鋭い目つきでハルを睨みつける。確かに、こうして睨みをきかされると、竦みあがる心地がした。

「お前は黙っとけ!」

 このまま行くと、まずいことになりそうだと勘づいた姫旋は、二人の間に割って入った。

「まあまあ、私が楽しかったんだから、そんな気にすることはない。下に降りよう」

 二人は黙り込んだ。寸刻の後、ソウはハルに謝る。

「悪かったよ。でも次からはこんな事はするんじゃないぞ」

「―分かった」

 二人の関係は何とも奇妙だ、と姫旋は感じた。本当に婚姻する者同士なのだろうか、というのが正直な感想であった。彼女らを見ていると、どちらかと言うと兄弟に近いものを感じた。







                 12

 それから、姫旋、ソウ、ハルは広間へと戻った。如何やら狩りの時間が迫って来たようで、彼等は入り口近くに整列していた。ソウから簡単な説明を受けたのち、彼等は洞窟の外へと足を進め始める。

「姫旋様は一緒に来る?」

ハルは首を傾げた。

「ああ、是非とも同行したい」

 姫旋が言うと、ハルは喜色満面の笑みを浮かべた。その時には、姫旋はそれがとんでもなく愛しい笑みに感じられていた。

「じゃあ、外に出るね」

 そう言うと、彼女は再び姫旋の身体を担ぎ上げ、軽々と崖を昇り始める。

 目まぐるしい速さで周囲の光景が通り過ぎていく最中で、姫旋は必死に岩壁に目を凝らした。融を使って天井を光で照らし出すと、蝙蝠や蛾が点在するのが見えた。蝙蝠は光を見て驚いたのか、ばさばさと羽音をたてて飛び去っていく。

「凄い!姫旋様、今なにしたの?」

ハルの声が頭上から聞こえた。激しい動きをしているにも関わらず、彼女は一切息切れしていない。

「これは私だけが使える力だ。融っていう」

「融?」

「そうだ」

「融でどんな事が出来るの?」

「其方が想像する限りのことは、何でも出来るぞ」

「へえ、すごいね!姫旋様って、神様みたい!」

 そう言われて、姫旋は顔を赤らめた。手放しで褒められる、という経験が、これまで生きてきた中でどれだけあっただろうか。ハルが純粋なせいもあるだろうが、姫旋は非常に嬉しい気分になった。

 洞窟の外へ出ると、ハルは姫旋を地面に下ろした。

「狩りはどうやって行うんだ?」

姫旋が聞くと、ハルは前方の茂みを指差した。刃物も何も持っていない状態で、どうっやって狩りを行うのか、姫旋には想像もつかなかった。

「ほら、今、あそこ、動いたでしょ」

 指さされた方を見ても、姫旋には何も見えなかった。ハルを見やると、彼女は茂みの方を凝視していた。彼女の瞳孔を見て、姫旋は驚愕した。白目を覆いつくす程に、広がっていたのである。

 ハルは音を立てずに、茂みの方に近寄っていった。姫旋も身体を僅かに浮遊させて彼女に付いていく。

 ハルがピタリと止まった位置まで近付くと、そこには木の皮を食んでいる鹿の姿をした影があった。

 背後まで忍び寄ったかと思った刹那、ハルは鹿に馬乗りになるように覆いかぶさった。鹿はじたばたとして逃げ出そうとするが、ハルの手は鹿の首をがっちりと掴んで離さない。そのまま彼女は首に噛り付いた。常人より遥かに鋭い犬歯がちらりと見える。すると、鹿の首元から物凄い勢いで血液が噴出し、彼女は口を離した。鹿は一通り痙攣した後、しばらくすると出血多量で動かなくなる。

「やた!大物だ」

ハルは鹿を軽々と担ぎ上げ、血塗れの口で、姫旋に笑いかける。姫旋はそれを見て気分が悪くなった。ハルの様子は悪夢そのものだったからである。

―これが呼称が狼羌たる所以か。

姫旋は感じた。彼等は狩りの最中は狼のように獰猛になるから、狼羌と言うのだと。しかし、後に文献「羌経」を読み、彼等は狼のような生活形態を持つが故に、狼羌と呼ばれることを知るのだが。

「―せめて口ぐらいは拭え」

 姫旋は融でハルの口元の血を消した。

「姫旋様もやってみる?楽しいよ」

「いや、気持ちはあり難いが、やめておく」

 姫旋は血の匂いに少し酔って、頭がぼうっとしていた。

「そうかぁ。勿体ないな」

 ハルは残念そうな顔をした。しかし、彼女は直ぐに表情を切り替え、提案する。

「じゃあ、ソウを探しに行こう!」

「それはいいな。今どの辺りに居るんだ?」

「えとね、ちょと待ってよ」

 ハルは目を閉じ、空気の匂いを嗅ぐ。

「多分あっちに居るね」

 ハルは東の方を指差した。そこは姫旋達が此処に来るまでに辿ってきた場所であった。

「じゃ、付いてきてね」

 すると、ハルは四つん這いになり、地面を駆けて行った。姫旋もその後を付いていこうとするが、ハルの動きは速く、融の力で脚力を増強し、加速して付いていくのがやっとであった。

「ハル、もう少しゆっくり進んでくれ」

そう姫旋が叫んでも、ハルはこちらを無視したまま、先へと進んでいく。融を使っているとはいえ、自身の体力も消耗するので、姫旋は疲弊しかけていた。

 小一時間走り続けた後、ハルはようやく足を止めた。

 「うーん、ここら辺だと思うんだけど」

 すると、次の瞬間、姫旋の目の前を大きな人影が一瞬通り過ぎた。

 「ソウ!」

 姫旋が呼ぶと、ソウは足を止めた。

 振り向いた彼の目もハル同様、金色に爛々と光り輝いていた。月の光に照らされ、引き締まった身体の輪郭が青白く照らし出されている。がっちりとした双肩にはツキノワグマを担いでおり、何も知らない者が彼を見たならば、震え上がるに違いなかった。

 「姫旋様、いらっしゃったんですね」

 「ああ、気になってな。調査目的だが、付いてきてしまった」

 姫旋が笑い交じりに言った時、ハルが隣にやって来た。

 「ソウ、私もこれ、捕まえた」

  ハルは身体を左右に回し、担いだ鹿を自慢げに見せる。

 「でかしたな。良くやったじゃねえか」

ソウはハルににっと笑いかけた。それから彼は真剣な表情で姫旋に向き直る。

 「姫旋様、そろそろお戻りください」

 「どうしてだ?」

 姫旋は不安になり、つい問いただすような口調になってしまった。

 実際の所、彼は姫周の王の一子女に、何かあってはならないと考えた上でこの様な

発言をしたのであろう、しかし、当時は姫旋はその意図を理解できなかった。徐々にこの非日常の場を楽しむようになってきた、というのも理由の一つだ。

 「姚桂殿と姜明殿は残っておられるんで」

 「でも」

 「ハル、姫旋様をお連れして戻ってくれ。獲物は預かっておくから」

 ソウの意図を察したのか、今度はハルはあっさり同意した。

 「分かった。戻るね」

 ハルに運ばれて洞窟内に戻ると、広間には姚桂と姜明の二人のみが残っていた。二人は姫旋を見るなり、心配そうな顔をして駆け寄る。

 「姫旋様、大丈夫でしたか、明朝には姫周に戻るんですよ」

 姫旋は寝耳に水の思いであった。まさか翌日には戻るとは思っていなかったのである。

 「ご存知なかったのですか?明日の昼には巫王姫祐に謁見し、証言を基に報告書簡をまとめる予定で御座います」

 三人の様子を見守っていたハルは、悲しそうな顔をして、姫旋の衣の袂を掴んだ。

 「姫旋様達、行っちゃうの?」

 「ああ、明日には発つ。私も今まで知らなかったんだ」

 姫旋はハルに微笑みかけた。自身の顔を見上げてくるハルが、とんでもなくいじらしく思える。

 「また此処に来る?」

 取りすがるようにハルが聞く。

 「ああ。また来るとも」

 「絶対だよ。約束」

 ハルの眦からは、一筋の涙が伝っていた。








                  13

 翌日、姫旋達三人は、姫周へと発った。晴れた日の早朝に元来た道を辿ると、行きとは全く異なる景色が見えて驚いた。霧が晴れ、晴れ間になった部分には、雀が沢山止まっている木が点在しているのが見えた。

 帰りまではあっという間であり、驚くほど早く聳え立つ隔壁が見えてきた時には、姫旋はほっとしたような、拍子抜けしたような心地になった。

 姫旋達が中に入ると、巫王が迎えに寄越した閽人が二人待ち構えていた。彼等に脇を護衛されながら、三人は姫氏領へと戻る。

 自室に戻って準備を整えた後、康宮へ入ると、そこには現巫王―姫祐が待ち構えていた。彼女は原因不明の疫病にかかっており、四肢が枯れ枝のようにやせ細っている。祐は旋の姉であったが、旋は彼女と接するのがどうにも苦手だったのである。

 「旋、狼羌の集落はどうだった」

 厳めしい表情をした仮面の奥から、声が聞こえてくる。

 「多くの収穫が得られた旅であったと思います。後に報告書簡をおまとめ致しますので、巫王様はそれをお読み下されば良いかと」

 旋は話を切り上げ、さっさと部屋に戻りたかったが、祐は盛んに話を聞きたがる様子で、旋は疲弊した。

 「狼羌は青い髪に金色の眼球を持つと言われていたが、実際のところどうなのだ」

 「はい、風聞と相違なく、彼等はその様な容貌をしております」

 「私はこの目で狼羌を見たことがない。だから其方の記憶が頼りなんだ。心しておけよ」

 「承知致しました」

 旋は数時間たった後に、疲弊した様子で自室へと戻った。祐は狼羌の様子について根掘り葉掘り質問し、その度に旋は事細かに説明しなければならなかったのだった。聞き落としも多く、旋は同じ事を何度も述べる羽目になり、結果戻るのが遅くなった。後にこれと同じ出来事を文献として纏めなければならない、というのも骨である。

 ―姉は巫王に足る器なのか。

 それは旋の頭の中に予てから存在した疑問であった。祐は即位当時は優秀であったが、病にかかってからというもの、公務上での失敗が明らかに多くなった。それでも祐が譲位しないのは、彼女の嫡子である瑳が乳飲み子で幼かったからである。

 姫旋の継承権は、瑳に次ぐ第二位であった。

 姫旋はその日から、王位の簒奪を計画し始めたのである。簒奪は当然罷り通るようなことではないが、姫周に於いては起こっても揉み消しにされてきた、という歴史があった。実行は調査が終わってからの予定だ。

 翌年の春、姫旋らは二回目の調査へと向かった。昨年と同じく、姜明と姚桂を同行しての調査であった。

 狼羌の集落に到着すると、前と同じくハルが洞窟内から迎えにやって来た。彼女は姫旋を一目見るなり、一目散に駆け寄ってくる。

「―姫旋様、久しぶり!」

 姫旋の目の前に立った彼女は、大人の女性へと成長していた。身長が伸び、目線が姫旋と同じぐらいの高さになっている。また、顔からもあどけなさが無くなり、その表情は上品な美しさを湛えていた。

「ハル、久しいな」

姫旋が言うと、ハルはいきなり抱き着いてきた。胸当てに覆われた豊かな乳房が身体に当たる感触が、柔らかくくすぐったい。

「ずっと待ってたんだよ。姫旋様に話したいことも沢山ある」

「そうなのか。是非話してくれ」

姫旋達三人はハルに連れられ、中へと入っていく。広場の様子は、一年前と全く変わっていなかった。人々が思い思いに寝たり寛いだりしているのも、去年と同じである。

 ハルは四人分の素焼きの茶碗を地面に置いた。中には黒っぽい緑色のとろりとした液体が入っている。ハルの説明によると、狼羌で長い間伝統的に製造されてきた&$3(又しても姫旋は発音を聞き取ることが出来なかった)という飲み物らしかった。姜明は口を付けるなり、顔を顰める。

「―これは」

姫旋も恐る恐る口に含む。すると、強烈な酸味と苦味が口の中に広がった。それ以外の味覚は一切感じない。

「身体に良いんだよ、これ。私達、疲れたら絶対飲む」

ハルは満面の笑みで三人の顔を見つめたが、険しい顔をしている姫旋を見て、一気に顔色を青くした。

「どうしたの、姫旋様。何か嫌なことあったの?」

「―何が入ってるんだ、これ」

「何って、#$$と、@と、&%と―」

「私にもわかるように言え!」

 姫旋は鬼の形相でハルに向かって叫んだ。周囲に居る者たちは、何事かという様子で姫旋とハルの方を見る。

「姫旋様、お止め下さい!彼等の逆鱗に触れると、何をしでかすか分かりません」

 すると、広場の奥、焚き火の向こうの方から、屈強な出で立ちをした男達が数人やってくる。

「▲☆♡#&、&#!*+&$、#!$%&!」

 その内の一人が、ハルに向かって何かを叫ぶ。

「%&$#*++$%&、☆〒※◎◆。」

 ハルはそれに訴えるようにして何かを言い返す。姫旋は我に返り、二人の様子を固唾を飲んで見守っていた。言い合いの後、ハルの形相が変化した。それは、一言で表すなら獰猛であり、今にも襲い掛かろうとせんばかりの狼のようであった。整った繊細な顔面の中で、金色の瞳と鋭く尖った歯だけが、異彩を放っている。

 彼女の喉から、低い唸り声が漏れた。

 すると、男達は一転して、恐れを成すように去っていった。先程ハルに向かって何かを叫んだ一人は、最後にハルに謝るような素振りを見せ、それから焚き火の向こうへと戻っていく。

「―済まないな。急に怒って」

姫旋は謝った。ハルが激昂しなければ、姫旋ら三人は間違いなく被害を被っていたことだろう。

「いいの。彼奴ら、私には敵わないから。狩りも私の方が得意だし」

ハルは先程とは打って変わって、得意げな笑みでそう言った。

「それよりも、あの飲み物は何を意味していたんだ?」

姚桂が神妙な顔をして聞いた。

すると、ハルの顔にちらりと陰りのようなものが見えた。目線も定まらず、泳いでいる様子である。

「いや、何でもないよ。歓迎の意味」

すると、姜明は納得したように眉毛を上げる。

「そうか。我らは其方らの歓迎を拒んだことになっていたんだな。済まなかった」

姚桂が謝った。ハルは分かりやすく決まりの悪そうな顔をする。

「私も、あんな顔、見られたくなかった」








                  14

今回の調査は、長期に渡るものであった。と言うのも、今回は狼羌の洞窟に眠る鉱物資源を調査する物であったからだ。紅い鍾乳洞の存在を巫王姫祐に話した際、彼女は姫旋にそれを採取するように命じたのであった。

 ―全く、無茶なことを命じなさる。

 姫旋は内心歯噛みしていた。一刻も早く姉を弑することを夢見ている彼女にとっては、調査の時間は苦痛の一つでもあったからだ。ハルは妹のような存在に感じられていたが、その感情も状況次第でいつ覆るかは分からなかった。

 調査は、慎重に慎重を期して行われた。狼羌は夜中に狩りに出た後、朝から夕方にかけては眠りについている、というのを念頭に置いた上で、考えを練った結果、調査を実行するのは朝にしましょう、と姚桂は提案した。

「姫旋様には、融で玉を切り出す作業を行っていきたいと思います。ご負担をお掛けすることになるかと存じますが、どうかご寛恕下さい」

「構わぬ。了解した」

 その夜、三人は広場で眠った。狼羌側から一人当たり二枚の大きな毛皮が支給され、三人はそれで身体を挟み込むようにして眠りにつく。寝心地は悪くなかった。

 姫旋が起き上がると、周囲には自身を入れて三人以外、誰も居なかった。用を足したくなった姫旋は、毛皮から抜け出し、場所を探し求めて歩き回る。

 広場を出ると、辺りは闇と化した。姫旋は光を指先に灯し、足場を確認しながら歩く。

 ―この中で一生暮らせと言われたら、耐えられないな。

 姫旋はとりとめもない思考を巡らせながら、歩いていた。狼羌は誠実な民族ではあるが、野蛮である、というのが姫旋の感想であった。

 ―だが、悪くはない。

彼等の数々の蛮習は、正されなければならないものである、と彼女は考えていたが、ハルを含め、数々の狼羌が三人を受け入れる姿勢を取ったので此処に滞在することが出来ている、ということは確かである。

 すると、姫旋の歩いている道の右側の岩壁から、物音がした。

 ―何事だ。

 姫旋が岩壁の近くに歩み寄ると、そこには目で覗ける程度の大きさの穴が空いていた。姫旋は迷わずそれを覗き込む。部屋のような空間になっているらしかった。

 覗き込んだ先にいたのは、ハルとソウであった。空間の真ん中で二人で向かい合い、何やら言葉を交わし合っている。暫くすると、彼は手のひらをハルの頬に当てた。

 ハルは高い位置にあるソウの顔を愛おしげに見上げる。胸当ては着用しておらず、乳房が露になっていた。その表情は、昨年見た少女のものでなく、色香を放つ女のものと化しており、蠱惑的であった。

 それから再び互いに言葉を交わした後、ハルはソウの分厚い胴に力強く抱き着いた。豊かな乳房が、ソウの筋骨隆々とした腹部に当たり、柔らかく押しつぶされる。

それからハルはソウの頭に両腕を回し、抱き寄せたかと思うと、口づけをした。

 これから何が起こらんとしているかを察した姫旋は、飛び上がるようにして穴から目を離した。そのまま無我夢中で広場へと引き返す。

 ―見てはならないものを見てしまった。

 姫旋は毛皮の中で身を震わせていた。

 ―汚らわしい。

 昨年ハルが、ソウの子を産む、という発言をした時から、その思いは頭の片隅にあった。

―奴らはやはり、獣だ。姫周の民とは、異なるんだ。

 それから、姫旋は更に狼羌に対する嫌悪を募らせていくことになる。








                   15 

 「姫旋様、起きて下さいませ、約束の時間がやって来ました」

 姚桂の声で姫旋はむくりと起き上がった。彼女を見ると、既につるはしを携え、準備を整えている様子であった。周囲を見渡すと、狼羌が姫旋ら同様毛皮を被って眠りについていた。

 「―もう朝か、早いな」

 姫旋は先ほど見た光景が頭の中で反芻され、碌に眠りにつくことが出来ずにいた。しかし、姚桂の言葉で我に引き戻されたので、眠気は覚める。

 「じゃあ、向かおう」

 姫旋は準備を整え、鍾乳洞へと向かった。道順は覚えていなかったが、時間をかけて何とか辿り着く。ハルがいないと、こんなにも遠く感じるのかと、実感した。初めて鍾乳洞に辿り着いた姜明と姚桂は、その光景を見て、息を飲む。

 「―何と美しい」

 鍾乳洞は、相変わらず美しい赤色を放っていた。その造形は、今となってはハルの口から剥き出しになった鋭い歯列を連想させる。

 「こんな場所、良くぞ突き止められましたね」

 「実はな、ハルが私に教えたんだ」

 「何と。ハルが」

 「ここは奴らにとっては、神の玉座に当たるものらしい。この場を見つけたという事が、前回の調査における私の最大の手柄と言っても良いだろう」

 「それにしても、ハルは何故姫旋様をこちらに連れてきたんでしょう?」

 姜明は深く考え込む様子を見せた。

 「何故かは解らない。表面上の理由としては、二人きりで話がしたかったからだ、と言っていたが。ソウに私達の様子は既に見つかっているから、奴がこちらに何をしてきてもおかしくない」

 「まあ、取り敢えず、切り出しを先に終わらせておきましょう。前回の出来事について考えることは、後から幾らでも出来ます」

 姚桂は手に持った木の棒を前に突き出し、何処をどの様に削るかを考えている。半時間程経つと、姚桂は姫旋と姜明を手招きした。

 「あの手前より三番目の列に生えている右端の二本を折り取って下さいますか。折った後、断面は綺麗に削り取って均して頂けると」

 姚桂が指示を出すと、姫旋は頷いた。

 「了解した」

 姫旋は意識を三列目の右端に向けた。断面を均すのに苦戦したものの、姫旋は無事に鉱物を採取することに成功した。そのまま持ち上げ、自身の元にそれを引き寄せた後、木苺の実の大きさ程度に砕く。姚桂はそれを細長い青銅の容器に詰め込んだ。

 広場に戻ると、狼羌は一人残らずまだ眠りについていた。姫旋ら三人は、胸をなでおろし、再び眠りについた。陽光が差し込まない此処では、眼がすっきりと覚めるという事はなかった。

 

姫旋らは周囲のざわめきによって目を覚ました。既に夕方になっているらしく、狼羌が狩りの準備に動き出している。姫旋の垣間見など知る由もないハルはいつも通り、姫旋の元にやって来た。

「姫旋様、今日も向かう? 宴の日だから、沢山捕るつもりだよ」

姫旋は、ハルを以前と同じ目で見ることが出来なくなっていた。彼女は既に子を身籠っている可能性もあったからだ。

「済まない、今日は行かないでおく」

ハルは寂しそうな顔をした。

「そうか、残念」








                 16

狼羌が全員狩りに向かうのを見届けた後、姫旋ら三人は寄って話し合いを開始した。

「―何故、ハルはあの鍾乳洞に私共を案内したのか、ということですね」

 姜明は確認した。姚桂は無表情で頷く。

「姫旋様をあそこにわざわざ連れ出す、という意味が私には理解しかねます。彼等は私達が調査に来た、ということを本当に分かっているのか、ということです。理解していたならば、彼らにとって聖域とも言えるあの場所を教えるという事は、不利益を被る以外の何物でも無いですからね」

「私が思うに、奴らは文字を読むことが出来ないのでは?」

 姫旋は意見を述べた。

「姫周が初めて狼羌に勅使を派遣した際には、確か甲骨文で書かれた文を渡し、その内容を勅使が説明する、という形をとった筈だ。最初の交渉の時、お前達は勅使には任命されていなかった」

 姚桂は真剣な顔をして頷き、口を開く。

「でも、彼等からすると、我々の文字を読むことが出来ないのは、当然では御座いませんか?見たところ、彼等は文字文化を持っている様子は一切見られませんでしたし」

「それだ」

姫旋は姚桂を指差した。

「奴らは『文字』という概念すら理解していない、ということだ。恐らくは文字が意味を伝達する役割を持つ、という事も分からなかった」

「確かに、土羌や人羌は彼ら独自の文字を使用しますしね。姫旋様が違和感を持つのも無理はないと思います。ですが、」

 そこまで言いかけたところで、姜明は息を飲んだ。

「つまり、狼羌は勅使の説明のみを聞いていた、ということですか?」

姫旋は深く頷いた。

「つまり、そういうことだな。過去に姫周に住んでいた経験のあるソウでさえも、文字は恐らく習得していない」

「文書に書かれていたことを口で偽っても、彼らに対してはそれが罷り通ってしまう、ということで御座いますね」

姜明が言うのを聞いて、姚桂は呟いた。

「―だとしたら、これは彼らにとっての危機だ」


 狼羌は帰ってきた後、食事の準備に取り掛かった。

姫旋らの食糧は主に、干し飯と山羊の乳を発酵させたもの、そして、狼羌が提供する干し肉であった。彼等は生肉を常食とするが、姫旋らは食べることが出来なかったため、立てこもる際に食べられる干し肉を食べるしかなかった。姫氏領で食べるもの程ではないが、それなりに豊かな食生活であったことは間違いなかった。

姫旋がお返しに酒器に入った姫周の花酒を渡すと、彼等は非常に喜んだ。姜明や姚桂も、小さな盃に一杯だけ、口にする。

「これ、いい香り」

 ハルは先程例の飲料が入っていた茶碗に、酒を注いで飲んでいる。顔が赤くなり、呂律が若干回らなくなっている。

「そうだろう。これは茉莉花や桃を基調に作られた酒だからな」

 姫旋は今が機会であると考え、ずっと心の隅に引っ掛かっていたことをハルに聞くことにした。

「そう言えば、お前とソウはどの様な関係なんだ?」

 すると、ハルはあっさりと答えた。

「ソウはね、兄。私とソウは、両親も一緒」

 姫旋はこの時、耳を疑った。先程見た光景が再び頭の中で映像として再生される。しかし、姫旋は努めて冷静に振舞った。

「其方らの間では、兄弟同士も結ばれることが出来るのか?」

「何故、そんなこと聞くの?」

 ハルの顔は一転し、こちらを怪しむようなものに変化する。

「いや、何でもない」

 「噓だよ。ちょっとからかっただけ。寧ろ、それが普通かな」

 姫旋はほっとした。昨日の垣間見は、如何やらばれていない様だった。

 「兄弟以外の者同士で結婚する方が異常、ということか?」

 「そういう訳ではないんだけどね。ただ、私達+:&%は、他の国の民との間には、子を産めないの。血が近ければ近いほどいい、みたいな」

 ―だから、生まれることになるのか。人以下の、蛮族の風上にも置けない獣が。

 「そうか、哀れだな」

 姫旋の喉から、ぼそりと声が漏れた。

 「なんて言った?」

 ハルが不思議そうな顔できく。

 「いや、何でもない」

 姫旋はそう返したが、その瞳は虚ろであった。








                  17

 その日から姫旋の頭の中に巣食った思考は、完全に固定されたも同然であった。彼女は狼羌を征討することを視野に入れ始めた。

 「掃討なさるのですか」

 姫旋からこの話題について詳しく聞いた時、姜明の顔がすっと無表情になった。

 「ああ、私はどうにも狼羌が気に入らない、という事に気付いてな。我が姫周の民も、唖奴らの正体を知ったならば、さぞかし気味悪がることであろう」

 「姚桂殿が聞きましたら、猛反対するに違いありません」

 「姚桂は一婦功に過ぎん。言うに及ばないだろう。だが、現巫王は揺らぎやすい。私が進言すれば、すぐさま手を貸し、融軍を派遣することであろう」

 姫旋は内心舌なめずりをした。

 「しかし、彼等はそう一筋縄ではいかないでしょう」

 「なに、戦わせてみなければ分からないじゃないか。前例がないのだから」

 「確かに、そうで御座いますが。融軍に多数の犠牲が出ることを、拙は避けたいと考えております」

 「犠牲は出さぬ。この私が断言しよう」

 姫旋が花のような笑みを浮かべて断言すると、姜明は納得したようであった。

 「―承知致しました。戻ってから準備を進めましょう」

 その夜、姫旋は何と無く違和感を感じた。

 ―身体がだるい。

 全身の関節に、僅かではあるが、痛みを感じていた。

 ―まあ、寝たら治るだろう。

 そう考え、姫旋は眠りについた。








                 18 

翌日、姫旋の身体に感じただるさは消失していた。この日は年に一度の祭日であった。如何やら、集落西方の$√☆+山に集まるらしい。

その日の夕方は彼らも狩りに出かけることを辞め、山に行く支度を行っていた。

 「―今日だけは三人とも、来ちゃ駄目」

  ハルは生真面目な顔で言い放った。

 「私達が来ると、何か不都合でもあるのか?」

 姜明が聞く。

 「そんなことはないけど。神様、*♡%は全てを受け入れるし」

 「じゃあ、何故その様に渋るのだ?」

 「―なんか、悪いことが起きる気がするの」

 思えば、その頃からハルは何と無く気づいていたのだろう。姫旋らが決して和平の使者として来たわけではないという事に。

 「とにかく、絶対付いてこないで」

 そう言いのこすと、彼女は他の民と共に、入口へと向かっていった。

 沈黙が続いたのち、姚桂は言った。

 「姫旋様、今回ばかりはハルのいう事に従いましょう」

 「ああ、そうだな。行かないでおく」

 姫旋は姚桂に気づかれぬように、懐から小さな丸薬を取り出した。

 「気分転換に、茶でも嗜まないか。持ってきたんだ」

 「良い提案で御座いますね。拙は水を沸かしてきます」

 そう言って、彼女は小さな茶器を取り出すため、背嚢の元へと歩いて行った。

 姫旋も、同様に足を進める。

 茶を淹れた後、姫旋は姚桂の杯に、丸薬を一粒入れる。これは酸棗仁と呼ばれる強力な睡眠薬であった。処方された者は、丸一日目を覚まさない。

「出来上がったぞ」

 姫旋は椀を三つ持ち、姜明と姚桂が待つ場所へと向かう。姚桂の前に、先程の丸薬を入れた椀を置いた。

 姫旋は茶を少し口にいれる。

「うん、やはり茉莉花の茶は、良い香りだな」

 その時、姚桂が急に気を失ったように倒れる。茶を飲んだようだ。

「姫旋様―?」

 姜明が驚愕したような眼つきで、こちらを見た。姫旋はそれとなしに笑いかける。

「行こう。奴らの元へ」

 姚桂の身体を毛皮で隠した後、姫旋らは融で作り出した綱で、何とか入り口に辿り着いた。

 姜明の玉のような汗が浮かんだ白い額が、月光に照らし出される。

「西に向かおう」

 二人は彼等が儀式を行う、あの山へと向かった。姫旋は空を飛ぼうとした。そうなると、必然的に、姫旋が姜明を抱きかかえる形になる。

 姫旋は姜明を背負うと、紐で身体を括り付け、空へと飛び立った。最初は上下左右に揺られたものの、何とか位置を安定させる。

「いつの間に、身体浮遊を習得していらっしゃったんですね」

 姜明が言うと、姫旋はふん、と言った。

「これぐらいどうという事はない」

 しかし、身体浮遊はかなり体力を消耗するのが激しく、山に辿り着く頃には、姫旋は疲弊しきっていた。何とか姜明に肩を支えられながら、姫旋は山の麓に辿り着く。

 その山にも、同様に洞窟が見られた。山の表面を穿つようにして形成された穴は、常世への入口を思わせる。

「恐らくこの中だ」

姜明は姫旋に頷きかけ、二人で中に入った。

狼羌の集落とは異なり、中に続く道は平坦であった。歩き安いが、身を隠す岩が見られないのが難点である。

中に入っていくと、そこには又一つ山が見られた。姫旋は驚愕した。外から見ると、山を貫通している穴のように見えることだろう、と思いながら、姫旋は隠れられる場所を探した。

「ここは、何処なの?」

姜明は錯乱状態にあった。無理もないだろう。山の上部にある空は、正に夕日が沈む最中だったのだから。

 岩壁の中に窪んでいる箇所を見つけ、姫旋は姜明を呼ぶ。しかし、姜明は立ち尽くしたまま、こちらにやってこようとしない。

「姜明!」

 姫旋は姜明を無理矢理引っ張って岩陰に連れて行こうとした。しかし、姜明はその場から動こうとしない。

 姜明の目線の先を追っていくと、そこに狼羌は居た。山の前に並ぶようにして地面に膝を付け、両手を上に上げ、祈っている。

「吖呵,难耐娃速八让四壹」

 一番前で羽の着いた飾りを頭に付け、何かを唱えているのは、ソウだった。それに返答するように、他の者達も呪文を唱える。

「练练,练练」

「练练,练练」 

 すると、ソウの周りの者達は腕を徐々に下げていき、合掌の姿勢をとった。ソウは反対に胸の前で合わせていた腕をゆっくり上げていく。

 すると、山の稜線がまばゆく光り出す。姫旋は思わず目を背け、前方に手を翳した。

「练练,练练」

「练练,练练」

 光の強さが収まった後に前を見ると、狼羌の民の前には巨大な狼が浮かんでいた。落ち着いた金の色味の目を持ち、毛並みは青く、丸で青い草原を見ている様だった。

 ―あれが、狼羌の信仰する神か―

 姫旋は余りの美しさにそれをまじまじと見つめていた。姫旋自身も、その場から動けなくなっていたのである。しかし、それが運命の分かれ目であった。

 巨大な狼の目線は、こちらに気づくと、真っ直ぐに姫旋ら二人の視線を射抜いてきた。

 「%$#、%$#%$U$#”!」

 狼の口から声が出てきたので、姫旋は度肝を抜かれた。それと同時に、狼羌が一斉に姫旋ら二人の方を向く。

 彼等の表情は、憤怒の物に変わっていた。しかし、姫旋達に襲い掛かろうとする彼らを、ソウが制止する。彼は羽飾りを揺らしながら、こちらへと向かってきた。均整の取れた完璧な肉体が、姫旋のすぐ目の前まで迫る。

 「やはり、やって来たのですね」

 「ああ、つい気になってな」

 「今すぐ、我が部族からお引き取り願います」

 これまでにない厳しい眼つきで、ソウは鋭く言い放った。

 「何故だ?ハルは其方達の神は、全てを受け入れる、と言っていたが」

 「あれは、場合によります。我々健狼族の場合は、他部族の民が来た場合、狼神に伺いを立てるのです。それで、その民が我が部族にとって、禍を成すか福を成すかを判断します」

 ―つまり、我々は災いと見なされたのだ。

 それを察した姫旋は、直ぐに洞窟から逃げ出そうと踵を返した。

 次の瞬間、隣に立っていた姜明の身体が、がくりと崩れ落ちる。

 「姜明!」

 姫旋はしゃがみ込み、姜明の上半身を抱き上げた。胸に針のようなものが深々と突き刺さっている。痺れを切らした屈強な狼羌の男が持っていた吹き矢に当たったのだ。

 「き―旋様―今すぐお逃げください―」

 そう言ったきり、姜明の顔は動かなくなった。吹き矢を持っていた男は、興味を無くしたように山の方へと引き返していく。

 「貴方達は健狼族を滅ぼすだろう、ということが、狼神の言葉でした。その為、今御命を頂戴します」

 姫旋はソウが言い終わるか終わらないかの内に、その場から融を使って身体を勢い良く推進させ、逃げ出した。

 洞窟から抜けるまでの間、後ろからは狼羌の怒声とけたたましい足音が聞こえた。その声が聞こえなくなる位置まで、姫旋は一気に身体を加速させる。

 暫く経って後ろを見てみると、山は無く、元の鬱蒼とした暗闇がそこにはあった。

 ―戻らねば。

 背嚢は持って来ていた。中には例の赤い玉も入っている。

 姫旋は最後の力を振り絞って、姫周に戻るために身体を浮遊させた。

 ―可哀想な姜明。愛する者をあっけなく逝かせた唖奴らを、私は一生許さない。







                19

翌朝、姫周の隔壁のすぐ内側に倒れ ている姫旋を見つけたのは、閽人の朔であった。彼は姫旋を姫氏領まで運んだ。

「―ん、ここは」

 姫旋が起きたのは、寝台の上であった。

 ―そうだ。私は狼羌から命からがら逃げて、力尽きて倒れたんだ。

 そこで姫旋はがばりと起き上がった。

 ―あの石は。

 寝台の傍らに、背嚢は置かれていた。姫旋は寝台から降りるなり、背嚢の中に手を突っ込み、ごそごそと探る。石の入った小さな青銅の筒を見つけた彼女は、ほっと胸を撫で下ろした。

 その時、戸を叩く音がした。姫旋が開けると、そこには姞羽が立っていた。

「お目覚めですか」

 姞羽は姫旋の身体を舐めまわすように見た。

「姫旋様、お召し物がかなり汚れているようですが、大丈夫ですか」

「ああ、私は大丈夫だ。問題ない。それより姜明が」

「姜明が?」

「―狼羌にやられて亡くなった。唖奴らは獣だ」

 

 






                 20

その後、姜明は姫旋の手によって、丁重に弔われた。身体を埋葬させている間、姫旋の目からは涙が止まらなかった。

 赤い玉は巫王姫祐自らその効能が調べられ、その結果は驚くべきものであった。

 何と、読心の効果があったのだ。

 姫祐は工師に頼み、すぐさま鉱物を加工させた。完成したのは、獣面紋の形をした首飾が二つ。この時、所持している者同士の間で離れていても意思疎通が可能な事が明らかになり、巫王姫祐やその専属の婦功は大いに驚いたという。二つの内、一つは巫王姫祐の物となり、もう一つは康宮の深部に厳重に保管された。

 姫祐に見聞したことを話した際、姫旋は狼羌の討伐を進言した。驚く姫祐に、姫旋はこれまで観察してきた彼等の生態や行為などを話して聞かせると、姫祐は狼羌に対してかなり悪い印象を持ったようであった。

 ―さて、狼羌の討伐も視野に入れたところで、どうやって姉を倒そうか。

 姫旋が熟考した結果考え付いたのは、毒殺であった。巫王姫祐は、食物の味覚が感じられないのだ。

 彼女は巫王の直系の妹であったので、かなり強い発言権を持っていた。巫王の部屋に出入りすることも許されていたのだ。

 彼女は庭に生えている馬酔木の花を摘み、乾かし、磨り潰した物を持ってその夜の謁見に訪れた。

 「姉上、花茶を持って来たのですが、召し上がりますか」

 すると、姫祐は身を乗り出した。

 「良いな。私も丁度、飲みたかったところなんだ」

 「では、お淹れ致しますね」

 姫旋は馬酔木の粉末を茶の中に入れ、それを姫祐に渡す。面を外し、杯の中のそれをぐいと飲み干した姫祐は、気を失ったきり、動かなくなった。姫旋は笑み、巫王姫祐に近づき、その頸にかかっていた頸飾を取り、自身の頸に付ける。

 翌日、姫祐は禅譲したことになり、一週間後に巫王姫旋の統治が始まったのだった。








                 21

 即位してから姫旋は先ず、姫周にとって脅威になり得る狼羌の討伐に乗り出した。討伐には、融軍兵三百、歩兵七百の計一千人が徴用されることとなった。総指揮は巫王姫旋自らが執るという異例の自体に、姫周の民は大いに驚いた。

 姫旋はしんがり近くに本部を築き、狼羌の集落の入口まで、連合軍を進軍させた。

 戦は惨憺たるものであった。

 狼羌は、刀や弓矢で身体を傷つけられると、すぐさま損傷を恢復させる、ということを完全に姫旋は見落としていた。

 先頭に立つとある融軍兵は、洞窟から出て来た狼羌の女の上半身を燃やすことに成功したが、それでもなお死さない女に、頸の肉を噛みちぎられ死亡した。

 洞窟の入り口付近での攻防戦は、熾烈を極めた。

 狼羌側の鉄の防御により、姫周側は中々突破できずにいたのだ。

 中には、狼羌をかいくぐって洞窟内に入ることに成功したが、余りに悪すぎる足場に躓き、岩に頭を打って死亡する者も居た。余りにも不憫な死に方である。

 狼羌達は、嬉々としていた。融軍兵の胴体に蹴りを入れ、全身の骨をぐずぐずになるまで折る者も居れば、素手で歩兵の首を直接へし折る者も居た。

―奴らはやはり、野蛮だ。

 攻め入る軍の上を軽々と跳躍する彼等は、まるで常世の神の使者であった。姫旋を見つけると、狼羌の男は嬉々として近寄ってくる。

 姫旋は、首を捻って殺すことを試みた。首に意識を集中させ、そのまま眼前近くまでやって来た男の首をねじ切る。男の屈強な胴体は、その場に崩れ落ちた。

 すぐそばに転げ落ちた男の首は、なおも意識を残していた。

 姫旋は男の首を融で持ち上げ、話しかける。

 「ハルとソウは何処に居る、言え」

 すると、男の口から、流暢な言葉が流れてきた。

 「お前は俺たちを人間として扱っていない」

 姫旋は眉一つ動かさない。

 「それがなんだ?貴様らの生態は狼そのものだが」

 髪の生え際の辺りに力を籠めると、男は苦し気に呻いた。

 「言え。今すぐに」

 すると、男は小さな声で最期の言葉を漏らした。

 「―神の玉座」

 「承知した」

  姫旋が頭を真っ二つに割ると、それきり男は動かなくなった。姫旋は融で自身の声を拡声させ、軍に伝達を行う。

 「全軍、戦闘を続けながらでもいいから、聞け!そいつらは首をねじ切れば、抵抗できない。頭をかち割れば、それきり動かなくなる!だから、首を狙え!」

 情報を耳にした軍は、色めきだった。

 それから間もなく、融軍兵の少年が首をねじ切り、頭蓋を割ることに成功し、更に軍の士気は向上する。入り口を防衛する羌は、ほぼ居ないも同然であった。

 「気を付けろ、中は非常に足場が悪い!崖も見られる!足元にはくれぐれも注意しろ!三、四人で進め!」

 融軍兵一人に対し、歩兵二、三人の組を作って、兵達は中を進んで行った。それでも、崖では狼羌達が圧倒的有利であり、全体の三割がここで命を落とした。それでも残りの兵は善戦し、崖に待ち構えていた狼羌は一人残らず殲滅される。

 命からがら広場に辿り着いた彼等は、衝撃の光景を目にすることになる。

 そこには狼羌は居なかったが、四肢を地面に縛り付けられた女の死体が一つ、そこには置かれていた。その知らせはすぐさま姫旋にも飛んで来ることとなる。広場に向かいその顔を見て、姫旋はそれが自身の良く知る人物だという事に気づく。

「姚桂―?」

 そのすらりとした肢体は、間違いなく姚桂のものだった。姚桂の胸から下腹にかけては、一本の切り傷が入っている。

 姫旋が恐る恐る手を触れずに中を開くと、そこには一切臓器が無かった。姫旋は顔をゆがめ、死体をもとの位置に戻す。

 ―奴ら、食べたな。

 姫旋はぎりぎりと歯噛みした。

「まあ良い。奴らが待ち構えているのは、この先の神の玉座へと続く坂であろう」

 姫旋は元の位置に戻り、号令をかける。

「進軍、再開!」

 神の玉座へと続く坂は、先程よりは緩やかな物であったが、かなり険しいことには変わりなかった。

 そこでも、狼羌の雨は姫周側に容赦なく降り注ぐ。しかし、急所を分かっていた姫周側は、慌てることはなかった。

 しかし、問題となったのは、歩兵が使い物にならなかったという事である。彼等は、言わば軍事訓練を日頃から受けていない者達の集まりだ。

 他の羌との戦の場合もそうであったが、武器の扱いにも慣れている者はごく少数であるが故に、肉壁としての役割しか果たせない者も多くいる。こちら側の状況が掴めてきた狼羌は、彼らを狙うことが多くなってきた。融軍兵が彼らを守護していると、守護に気を取られ、融軍兵諸共命を落とすという事もあった。

 融軍将軍である姚阿―後の姚向の親である―から報告を受けた姫旋は、再び軍全体に伝達を行った。

「融軍兵よ!歩兵を守護するな!狼羌との戦闘のみに集中せよ!」

 すると、狼羌の数は次第に減少してきた。その代わり、歩兵には甚大な被害が出、九割以上の戦力を失うことになったのだが。

 姫旋も、迫りくる狼羌の頭をねじ切ってはかち割る、という作業を繰り返していた。そのため、坂には狼羌の真っ二つに割れた頭と、頸のない胴体、歩兵の死体が散乱するという、凄まじく吐き気を催す光景が広がった。







                  22

 何とか狼羌を滅し、坂を上り切ったその先に、神の玉座はあった。

 そこには、赤々と照らし出される鍾乳洞を後ろにして、ハルとソウが二人並んで佇んでいる。ハルのお腹を見やると、かなり膨らんでいる様子であった。

 残った兵が全員神の玉座の前に来たのを確認すると、姫旋は空中浮遊し、彼らの近くまで近づいた。

 「久しぶりだな」

 ハルは姫旋の顔を見ようとしなかった。彼女は慈しむ様に大きな腹をひたすら撫でている。それは目の前で起こった余りにも惨憺たる現実から、目を背けようとしているかのようだった。

ソウは姫旋を、絶望と憎しみの詰まった様子で見上げた。

 「―貴様に分かるか、同胞を全て殺された、俺の気持ちが」

姫旋は虚ろな目で答えた。

 「仕方なかったんだ。貴様らは獣だから。獣のくせに、外観だけでも人間であろうとするから」

 「―俺達は、人間だ」

 「第一、本当に同胞を守護したかったのならば、貴様も率先して戦に参加すれば良かったのだ」

 すると、ハルがようやく口を開いた。

 「―もう少しで、生まれるの。ソウは、私と赤ん坊を守るために、ここに居てくれる」

 その時、姫旋の脳裏に、ある考えが浮かんだ。

 ―ハルを姫周に連れ帰ってしまえば良い。

 理由は、単純な好奇心以外の何物でも無い。

 ―目的は、ハルの子供だ。

 姫周で狼羌が、自身の本来の身元も、外観も、能力も知らず、育った場合にはどうなるのか。姫旋は検証してみたくなった。

 思い立つや否や、彼女は軍に指示を出した。

 「分かった。全軍に告ぐ。男は殺し、女は捉えろ。女の方は連れて帰る」

 そう言い残して、姫旋はしんがりの方へと戻った。

 ソウは強かった。彼は五人の融軍兵から同時に攻撃を受けてもびくともせず、彼らを順番に屠っていく。全員の首をねじ切り、骨を砕いた後、彼は獣のような咆哮を喉から漏らした。

 しかし、圧倒的な数の差という点で、姫周は有利であった。次の融軍兵に取り掛かるソウの隙を見計らった姚阿が、後ろからソウの頸部に一太刀浴びせたのである。

 しかし、ソウの首は完全には離れなかった。こちらに気付き、襲い来るソウの手を、姚阿は手慣れた様子で避ける。彼はソウをかいくぐり、もう一太刀浴びせることに成功した。

 姚阿の斬撃は正確で、ソウの頭はごろりと地面に落ちる。彼はソウの長く伸びた髪を掴み、頭を持ち上げた。

 「最期、言い残すことはないか」

 姫旋の問いに対し、ソウは何も答えようとしなかった。

 「そうか、では姚阿、頭蓋を割れ」

 「待ってくれ」

 ソウは言った。

 「なんだ。言え」

 「貴様、ハルを連れて帰る、と言ったな?」

 「そうだが」

 「ハルの命は守る、と約束してくれ」

 姫旋は暫く沈黙したが、やがて答えた。

 「了解した。心得る」

 すると、ソウは安心したように目を閉じた。それを見て、姫旋は姚阿に指示を出す。

「姚阿」

 ソウはこうして、十五年の短い生涯を閉じた。


 一方のハルを見ると、融軍兵によって抵抗することなく、後ろ手に枷を嵌められ拘束されていた。姫旋はハルの元へと進む。

 「意外だな。お前の力なら、今すぐ此処に居る全員を殺めることが出来るだろうに」

 実際、ハルはこの時、本当に動くことが出来なかった。狼羌であろうと、身重な際に激しい運動を行うことは身体にとって毒であった。だから捕まらざるを得なかったのだ。

 しかし、ハルはか細い声で言った。ほつれた青い髪が、整った輪郭の上に幾筋かかかっている。

 「―姫周に連れていって。あなたの国を見たい」

 こうして、後に姫氏の女の間で語り継がれることになる、「姫狼の戦い」は幕を閉じた。狼羌はハル一人を残して全滅、姫周側は全兵力の七割以上を失うという結果になり、小邑の民がこの顛末を伝聞することは、燎刑や刖の対象となった。


 






                23

その後、ハルは姫旋と数人の将軍の監視下で、馬車に乗せられ、厳重に護送された。

 姫氏領に戻る途中、幾人かの小邑の農民がハルを目にした。彼等は人生で初めて見る異国の民の姿に、総じて奇異と好奇心が綯い交ぜになった顔をしていた。

 姫氏領に到着した後、ハルに用意されたのは、牢とまではいかないものの、粗末な小屋であった。しかし、これは巫王姫旋が特別に増設した小屋であり、壁は漆喰を何層にも塗り固め、融で補強してあり、鍵は三匹の象が代わる代わる踏み合い、やっと壊れる、という強靭さであった。

 ハルは赤ん坊が生まれるまで、その中で一人で過ごさなければならなかった。閉じ込められて暫く経つと、閽人ががちゃりと音を立て、扉を開いた。

 「―衣だ。そんなみっともない恰好は見てられんからな」

 そう言って、閽人が投げ込んだのは、着古された襤褸であった。小邑の民が着る中でも粗末な部類の衣服である。

 「―これ、着方分かんない」

 そんなハルに、閽人は一言吐き捨て、小屋を出ていった。

 「自分で考えろ!」

 ハルは何とか着用し終えたものの、衣服を着ることに違和感を感じていた。姫旋の衣服を思い出し、見よう見まねで着てみたものの、どうにもしっくりこないのだ。帯で腰の辺りを縛ると、内臓が締め付けられる苦しさが感じられた。

 ここから、ハルにとっての地獄が始まる。








                  24. 

 姫旋はその時、自室にてまだ幼い瑳の髪を撫でていた。その時、丁度瑳は卓につかまり、立とうとしているところであった。

 瑳は、本来ならば姫祐の子供として育てられる予定であった。姫旋は簒奪者であり、瑳はその犠牲者である。

 ―しかし、瑳、お前は私の後継だ。

 姫旋は、瑳の浮いては地面に付くを繰り返す臀部を見て、とんでもなく愛しくなった。

 実はその時、姫旋の腹の中には、もう一つ命が宿っていたのだが、後継は瑳にすることに決めていた。彼女は、後に三人の娘を産むこととなる。しかし、今の姫旋の関心は、専ら瑳にどの様な教育を施すかであった。

 彼女が再びハルに着目することになるのは、数か月後、小屋の中から呻き声が聞こえてきた時であった。

  

ハルは、食事こそ三食与えられたものの、その小屋から一切出ることを許可されない日々を送った。それは今まで動かない日が無かった彼女にとっては、この上ない苦痛だった。

 三食と着替えを持参する閽人以外は誰一人訪れないこの部屋に、ハルは希望を吸い取られていった。時折訪れる閽人達が口にするのは、罵倒と嘲笑のみである。

―姫旋様に目を掛けてもらって、嬉しい限りだぜ。

 皮肉たっぷりの閽人の言葉にも、彼女は最早抵抗する気力はなかった。

―姫旋様は何故、私達を蛇蝎のごとく嫌ったのだろう。

 ハルにはそれが理解できていなかった。愛憎が綯い交ぜになった感情を姫旋に対して抱くようになったのは、確かだ。以前彼女は、姫旋に恋愛感情ではなく、人間として一目見た時から惹かれていた。あれだけ強く美しい女は、見たことが無いとさえ感じていたのだ。

 薬湯を拒否された際も、一瞬腹が立ちはしたものの、彼女を許す気でいた。

 その分、義兄弟であるアラタが、姫旋のことを罵ったのは、我慢ならないことであった。

 ―異国の女三人を、今すぐここから追い出せ。

 今となっては、その忠告が正しかったことに気が付き、聞き入れなかったことを後悔していたが、ハルは姫旋のことが憎み切れなかったのだ。

 複雑な思いを抱えながら過ごしていたある日、姫旋は大きく膨張した下腹部に強い痛みを感じた。彼女は、余りの痛みに大きな叫び声を上げる。立ち上がる事すら出来なかった。

 ―生まれる。

 そう感じた時、小屋の戸が開いた。

 その先にいたのは、身を美しく着飾った姫旋だった。







                

                 25

 姫旋は饐えた匂いに顔を顰める。

 「そろそろ狼羌の子供が生まれそうです」

 付き添いの姞羽が言った。

 姫旋は、数か月ぶりに目にするハルの姿を覗き込む。彼女は、食事をきっちり与えられていたため、やつれている様子は無かったが、その身体からは酷い異臭がした。

 「―姫旋―様―?」

 姫旋はハルの言葉を無視し、部屋に入り込む。

 「取り敢えず、こいつを姜測の元へ運ぶ」

 姫旋は、ハルの身体を融で持ち上げ、外に置いてある手押し車の上に乗せた。

 手押し車で姜測の元まで運ばれる間、姫旋は声を上げるハルを徹頭徹尾無視した。今更ハルに情が移っては、本末転倒だからだ。

 姜測は、姫周一の名医であった。元々先々代の巫王に薬学に対する知識を見込まれ、婦功として登用された身であったが、今では彼女は、姫氏領内における疫病や出産など、あらゆる事柄を一手に引き受けるようになっていた。

 医術を施す施薬殿にハルを乗せた手押し車が辿り着いた際、姜測は眉一つ動かさなかった。

 「取り敢えず、先程伝えていた此奴を頼む」

 「了解いたしました、巫王様」

 姫旋は姜測に案内された寝台の上に、ハルの身体を乗せた。

 それから小一時間と経たないうちに、ハルは一人の男児を出産した。

 その次の日、ハルの元に姫旋はやって来た。

 「調子はどうだ」

 姫旋が声を掛けると、寝台の上に横たわったハルはうっすらと目を開ける。陽光が僅かに差し込む寝台の傍らには、赤ん坊が一人、寝かされていた。赤ん坊の顔を見て、姫旋は仰天した。ソウそのものであったからだ。

 「思ったより、痛かった。でも、今は大丈夫」

 「子は男児だったと聞いたが」

 「そうなの。男の子。ソウの生まれ変わりだね」

 姫旋は事もなげにいうハルの様子に戦慄した。元より、短命である彼らには、死を怖がるという概念が無いのかも知れなかった。

 枕の上に広がった豊かな青い髪のうねりは、姫旋が伝聞で聞いた風紋を思わせる。風紋は、遥か西に広がる海辺の砂浜に出来ると言われている、風が作り出す美しい文様だ。

―この子が大きくなった時、どうなるのだろうか。

 姫旋は鋭い目つきをした赤ん坊を見下ろしながら考える。

 旅に出るのではないか、という予感がしていた。姫周の外にある自身のルーツや、見もせぬ世界、風紋の果てにある国を求めて。

 その三日後、ハルは貞人姫栢により、頸を切り落とされた。貞人は、死刑執行の役割を以前は担っていたのだという。

 そして、姫旋は、自身の手により、黒髪黒目に変えられ、成長速度を抑制されたハルの忘れ形見と、今此処に居る。








                 26 

 昭は、混乱していた。

 何より驚いたのは、姫周に居る自身の命が、夥しい流血が流された末に、成り立っているという事であった。そして、彼が見ていたあの青い髪の女が出てきた悪夢や、人々が祈りを捧げている夢は、亡き母が常世から送ってきたものである、という事に気づいたのも。

 意気消沈する昭に、巫王姫旋は言う。話し始めの激情したような様子はなく、安らかな口調に変わっていた。

「何と無く、妾は其方が旅に出る、という気がしていた。だから、其方が此処に来た時も、驚かなかった」

「心映は、貴様を引き取ると決めた嬀健に渡した。こんなくだらないもの、私には必要なかったからな」

 昭が何かを言おうとした、その時。

 牢の番をしていた閽人が、康宮内に駆け込んできた。

「大変です!嬀燦と姚向が、相打ちで死亡しました!」







                  27

  牢の中に一人閉じ込められていた蓮は、呆然と隣に折り重なる二つの亡骸を見つめていた。

 事の始まりは、蓮と燦が閉じ込められていた牢のある地下室に、姚向が乗り込んで来たことであった。

 姚向は、燦に言い放った。

 ―お前が消えてくれたら、俺も安心して野望を実現させることが出来る。

 燦から、姚向の持つ企みについては、先程聞かされていた。蓮は信じられない思いでそれを耳にしていたが、姚向の一言で、それが真であると気付かされたのだ。

 牢にもたれ掛かる姚向の背中を、燦は鳥兜の毒を塗った短剣でぶすりと刺した。しかし、姚向は最期の力を振り絞り、振り返りざまに燦の頸を、同じく短剣を持った震える手で突き刺したのだった。

 燦は若くして死んだが、姫氏領内に蔓延る不穏分子を排除するという意味では姫周に貢献したと言える。

 ―ありがとう、燦。あなたのことは一生忘れないわ。

 蓮は今となってはただの肉塊と化した燦に、心の中で礼を言った。

「姫旋様、裁きの時間です」

 閽人が中に入って来た。

 時は来た。蓮が、姫周を出る時が。








                 28 

閽人に連れられた蓮が康宮に入ってまず目にしたのは、呆然とした昭の姿であった。

 ありとあらゆる情報を短時間に流され、頭が追い付かなくなっているのかも知れなかった。そんな昭に、蓮は声を掛ける。

 「行くしかないのよ。貴方も、私も。色んな人々の思いを抱えているんだから」

 昭は、虚ろな目で蓮を見上げた。

 「―蓮様は、自分が生まれてきたことに、意味はあると思います?」

 蓮は、うろたえた。

 奵瑛のことはまだ昭には話していないが、彼の遺志を継ぐため以外に、特に生まれてきた意味というのは、見当たらなかった。昭の背景について聞かされた際には、彼が真実を知れば、自身を受け入れられなくなるだろうという事は想像できていた。でも、生まれてきた意味というのは、無くてもいいのではないか、と蓮は考えるようになっていた。

 「私は、意味なんか無くても良いんじゃないか、と思う。人生は意味じゃなくて、何をしたいか、という所に帰結すると思うから」

 「そうですか」

 それきり、昭は黙ったままだった。

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