第三章 綻び

                  1

 その日、昭は嬴冄を連れて、犀融宮から小邑へと足を運んでいた。姚氏領に入り込むための作戦としては、彼らが兄弟のふりをすることが最適である、という結論に達したのだった。小柄な嬴冄は、頭巾を深くかぶり、燦になりきっている。

「甲邑はまだか、嬀昭」

「ああ、俺たちの邑はかなり遠いんだ」

「毎日、こんな険しい山道を通って訓練に向かうなんて―俺には絶対耐えられねえわ。喬のやつ、よく融軍なんかに志願しようと思ったな」

 息も切らさずにずっと歩き続ける昭を、横目で見ながら嬴冄が言う。

「そんな、こんなの慣れだぞ。とか言いつつ、俺はかなり同期の中でも長い方だけど」

「幾つぐらいで入ったんだ?」

「十二。多分軍のやつらには忘れられてるけどな」

 それを聞いて、嬴冄は絶句した。一番若くても十三から、と嬴冄は言づてに聞いていた。しかし、目の前の少年はそれを塗り替えているのである。

「あの姚向でさえも十三って聞いたぞ。そんなにすごいのに、何故役職がないんだ」

 嬴冄は色々聞きたくて仕方なかった。しかし、質問が悪かったようだ。

「―ちょっとした暴力沙汰だ。この間も言ったけどな。―あとは、古株だからって、昇進できるとは限らねえ。色々な事情があるということだ」

 嬴冄はこれ以上踏み込んではならないと思い、質問をやめた。

「俺の邑は犀融宮から近いから、割と楽に通わせてもらってるぜ」

「でも、帰りはどうするんだ」

 それを聞いて、嬴冄はしまった、と感じた。帰りの山道は魔物が出ると言われており、かなり危険である。

「―すまん、何とかして、泊めてもらえねえかな。無理だということは分かっているけど。行きにも一応邑の奴らには伝えてきたんだけどな」

「別に構わねえよ。俺のとこちびが少ないから、そこまでうるさくもねえし。夜明けとともに抜け出せば大丈夫だろ」

「ありがてえ。恩に着るぜ」

 そのうち、大きな門が構えられている、開けた場所に出てきた。入り口には、「甲邑」の文字がある。

「姚氏領は、ここから更に奥の方なんだ」

 昭はそう言って、門の中へと入っていく。暫くすると、左手に「甲邑・嬀」と記された門が見えてきた。

「ちなみにここが、俺らが住んでるとこ。ぼろいだろ」

 そう言って、昭は笑った。成程、確かにお世辞にも綺麗とはいいがたく、茅葺屋根も所々はがれている。しかし、何とも言えない温かみが感じられる場所でもあった。

「でも、野郎たちはみんないい奴だぜ。多分お前のことも喜んで迎えてくれる」

「そうか、安心した」

 更に奥へ進むこと半時間。ようやく「甲邑・姚」と書かれた門が出てきた。その建物の立派な構えに、嬴冄は驚嘆する。

「―これ、半分王宮じゃねえの」

 門には、屈強な門番が二人立っている。そこから屋敷へと続く、長い廊下。中心にそびえるのは、三階建ての楼閣。それを中心として、左右対称に茅葺屋根の長い廊下が伸びている。

「まあ、これが名家とそうでない家との格差だな。甲邑姚氏は、姫周でも一二を争うと言っても過言じゃねえ。じゃ、入るぞ」

 入り口から入ろうとすると、二人の閽人が持っている槍を交差させた。嬴冄は頭巾を更に深く被った。しかし、その後彼らは昭の顔を見てはっとする。一人が口を開いた。

「お前たち、何者だ―って昭と燦、なのか」

「ああ、俺達だ、姚揮。姚向はいるか」

「ああ、自室にいる。入ってもいいぞ」

 そう言って、門番は槍をもとの位置に戻した。通っても良いという合図である。嬴冄は信じられないというばかりに、昭を見やった。

「お前、姚向と仲がいいとは聞いていたが―・ここまでとは」

「甲邑では、嬀氏と姚氏は割と古くから交流があるからな。小さい頃から普通に出入りさせてもらってる」

 門から続く廊下を歩いていくと、一際立派な竜の装飾が付いた引き戸が現れた。昭がそれをがらりと開くと、そこには大広間が広がっていた。長が座るであろう壇上の座席の周りには、数多くの巨大な青銅の酒器が所狭しと並んでいる。

「ここからあっちの扉の方に抜けて、それから梯子で上に上るぞ」

 昭は説明しながら、広大な敷地の中を迷うことなく進んでいった。嬴冄は彼に言われるがままについていく。まっすぐ進んだ先の扉を開け、梯子で上に上り、さらにぐねぐねと曲がった廊下を進んだ先に、姚向の部屋はあった。

 ここが、あの姚向の部屋。

 嬴冄の心臓は小鳥のように脈打っていた。この引き戸を一枚隔てた先に、彼はいるのだ。昭はそんな嬴冄の様子にも構わず、戸をどんどんと叩いた。

「姚向、俺たちだ、嬀昭と嬀燦だ。戸を開けてくれるか」

 戸の向こうから、これといった反応は伺えない。昭は、さらに戸を叩く音を大きくした。

「姚向!俺たちだ!」

 すると、戸ががらりと音を立てて開いた。

「なんだ、こんな夜分遅くにどうしたんだ、お前たち」

 姚向は訝しげな様子で二人を見つめる。それでも、特に拒絶するような様子は見当たらないことに、嬴冄は安堵した。

「俺たち、お前が心配でよ。ほら、最近のお前、なんか暗いからさ。何があるか気になるところじゃねえか。話でも聞いてやろうと思って」

 ―お前は小柄だし、燦になりきればいいんだ。彼奴、最近はよくしゃべるようになったけど、前に姚向に出くわしたときは一言も発さなかったからさ、ずっと黙ってればお前でもいけるって。

 昭に言われるがまま、彼は沈黙を貫いていた。しかし、果たしてこれで押し通せるのか。ひたすらに胸中に黒い暗雲が漂う。

 ふふ、と姚向が笑った。それは、嬴冄の別れ際に嬀昭のことを言い残した時の彼の顔と全く同じだった。

「あれは、最近新人教育とか、訓練の時の配置を考えるとかの業務が重なっててな。心の余裕がなくて、ついあんな反応をしてしまったんだ。すまない」

「構わねえよ別に。とりあえず、中に入るぜ」

 昭は姚向を押しのけて躊躇なく扉の先へと進んだ。嬴冄も慌ててその後についていく。部屋の中を見て、嬴冄は意外に感じた。

 そこには、寝床と思われる大きな筵が床に敷かれている以外は、特に何もなく、だだっ広い単純な作りの部屋だった。

「まあ、お前ら座れよ」

 姚向が指し示した場所に二人は座った。嬴冄は、昭にぴったりとくっつく形で、足を横に倒して座り、うつむく。

「はは、燦、お前も相変わらずだな」

 姚向の声が上から聞こえてきた。嬴冄は身をすくめ、さらに背中を曲げて、何も発言しないようにする。

「お前な、たまには挨拶しろって。俺についてきたかったんだろ」

 昭はそう言って、高らかに笑った。言うまでもなく、これは演技である。

「嬀昭、最近お前はどうなんだ」

「そこそこだな。最近姜環との連携がうまいこと行くようになったのは進歩だけど」

「姜環って―ああ、前にお前に決闘を申し込んでいた奴だな。最近は仲良くやれてんのか」

「まあな。彼奴から俺に謝ってきたし」

 姚向は大きな笑い声をあげる。

「お前を敵に回したのが悪かったな」

「ま、そういうことだな。彼奴も懲りたみてえだ。そういえばよ、この間の予行練習の時に、ちょっと気になったことがあってよ、俺の組の奴らと話になってたんだけどよ」

 嬴冄は恐る恐る顔をあげ、頭巾の隙間から姚向の顔を見やった。一瞬意味深な表情を浮かべたように見えたのは気のせいだろうか。そのようなことを考えながらも、嬴冄は再び顔をおろす。

「何日か前だけど、お前が振り分けられた組の様子、なんかおかしくなかったか?あの光る不気味な玉があった時、お前はどんな気分だったんだ?」

「それがなあ、あの時俺には意識がなかったんだ。俺たちを監視している何者かが、俺たちの意識を操っている。そんな風に思えた。帰り道、俺と同じ組の奴らは怯えてたぜ」

 嬴冄は、そこで姫栢の言葉を思い出す。姚向達の組との戦闘。その時にも、彼の意識はなかったのだろうか。そんな嬴冄の考えを代弁するかのように、昭は言った。

「あの時姫栢様が当日、俺達の組と姚向達の組に振り分けられた奴らで戦闘の対決をする、と言ったんだ。あの時はどんな気分だったんだ?」

「その時も、相変わらず俺は自身がどんな状態なのか分からなかった。だから多分、対決はするが俺らの組が意地でも勝つように、仕向けるつもりなんじゃないか。もしくは、何者かによる意識の支配をどの様に食い止めるか、という話になってくるんだと思う」

「―そうか、きっと俺らより出来る奴らは、乗り越えなければいけねえ試練の水準も高い、ってことだな」

 姚向はその言葉に噴き出した。

「そんなことないだろ、結果的には変わらないと思うぞ」

 それからも暫く二人の談笑は続いた。互いの親族についても言及していることから、嬀氏と姚氏は互いの内部事情についても把握している風に見える。そのうち、とうとう嬀昭は本題に切り込んだ。

「何年か前の入隊試験の時、欠損事故があったの、お前は覚えているか」

 昭は、姚向が過去に行ったことについて、やんわりと触れる形で話した。

「覚えていないな。そんなことがあったのか」

 嬴冄は再び顔をゆっくりとあげた。姚向は表情を作っていないように見えたが、内心は動揺しているに違いない。そう嬴冄は思った。

 「そのような失格に繋がる事故を起こしたにも関わらず、そいつは融軍に入ることができた。今も良い役職をもらって活躍しているらしい」

 姚向は沈黙した。何があったかは、口が裂けても言えないという風に見えた。

「―そういえば、最近俺の隊の新人が、良い働きをするようになってきたんだ」

 姚向はわざとらしく話をそらした。嬴冄ははらわたが煮えくり返り、居ても立っても居られない気持ちになってしまった。

「本当に、覚えていないのか!」

 そう怒鳴ると同時に、嬴冄は頭巾を取り去り、はじかれたように突然立つ。姚向の切れ長の目は、その瞬間眼窩がんかから飛び出しそうな勢いで見開かれた。

「―お前は、あの時の」

「そうだ、嬴冄だ」






                   2

 鬼のごとく顔をゆがめている嬴冄を見て、姚向は凍り付いたような表情をしていたが暫くすると、澄ましたような表情になった。

「お前と嬀昭はどんな関係なんだ」

 嬴冄は急に口をつぐんだ。昭は話すのをためらったが、友人に誠実でありたいと思ったので、考えた末に言うことにした。

「―友達同士だ」

「お前たちは、どうやって知り合ったんだ、そして、どんな目的で来たんだ」

「冠礼の予行練習で、同じ組に振り分けられて知り合った。こいつがどうしてもお前に会いたいっつうから、お前となじみがある俺が連れてきてやったんだ」

 淡々と事実を述べる昭の顔と、沈黙を貫く嬴冄の顔を、姚向は不思議な面持ちで見つめていた。それは形容するならば、得体の知れない生き物を見るような好奇心と、裏切りによる衝撃がないまぜになっているように見える。

「―なんつう顔してんだよ、綺麗な面が台無しじゃねえか」

 昭が茶化すように言うと、姚向は言った。

「いや、ただただ不思議でな」

「何がだよ」

「まず嬀昭に同年代の友人が新たにできた、ってことが奇怪だが、それ以上に、謎の結束力が、お前たちの間にはあるように感じた」

 おい、最初余計な事言ってるだろ、と言う昭を遮り、嬴冄は再び口を開きここぞとばかりにまくし立てる。

「お前と違って、嬀昭は俺たち歩兵を馬鹿にしないし、弱い奴に対して腕力で者をいわせたりしないから結束出来ているんだ、馬鹿にすんな、このいんちき野郎が」

 下から見上げる嬴冄を、姚向は鼻で笑う。

「嬴冄、お前が何を言ってるのかわからんが、俺は弱い者に対して暴力を働いたことは毛頭ない。俺が不正をして融軍に入ったとでも思ってるのか?俺は俺自身による力で入ったんだ。嬴喬のことは不幸だったとしか言いようがないが」

 嬴冄は息継ぎする暇もなく、興奮状態で話し続けた。

「喬は今も、お前と戦った時になくなった腕がまだついているように時折感じるらしい。俺は彼奴が夜な夜な欠損している方の腕を撫でながら、声を押し殺して泣いていたことも知っている。彼奴がどんなに辛い思いに苛まれて、日々の生活を送っているか知っているか?知らないだろ」

 姚向は黙って嬴冄の顔を見つめていた。その目には、明らかに嘲りの色が浮かんでいる。

「嬀昭、部屋から出て行ってくれないか。これは俺と嬴冄の話だから」

 姚向は引き戸を開け、その脇に立ち、顎で戸の方をしゃくる。昭は、隣にいる嬴冄がたじろぐほどの気迫を見せて、姚向の顔を睨みつけた。しかし、姚向は見慣れているのか、眉一つ動かさない。

「なんで俺が部外者みてえになってんだよ、嬴冄を連れてきたのは俺だぜ」

「今すぐ出て行かないと、嬴冄と同類になるぞ、いいのか」

 すると、昭は姚向につかつかと歩み寄るなり、自身より頭半分高い場所にある左頬を拳で一発殴った。あまりにもその音が大きかったので、嬴冄は体をびくりと震わせる。立っている姚向の身体が、大きく横に揺らいだ。

「おい、姚向。今の言葉、もっかい言ってみろや」

 昭は、落ち着いているが凄みのある声で言う。姚向の頬は大きくはれ上がり、衝撃で抜けたらしい歯が一本、口から零れ落ちた。そこからさらに、血が一筋、二筋と流れ落ちる。姚向はせき込みながらも口を開いた。

「全く、いつもお前の短気さ加減には驚かされるな。嬴冄と同じように俺の昇進を阻む奴扱いされたいのか、ということだ」

「昇進を阻むということはお前、やっぱりやったんだな」

 姚向の顔は、しまった、と言わんばかりに、次の瞬間蒼白になった。嬴冄はしたり顔になって言う。

「ただの歩兵である俺が密告しても、笑止千万という感じでなかったことにされるだろうが、融軍の嬀昭がこのことを司令本部に伝えれば、例え名家のお前はひとたまりもないだろうな」

 嬴冄の言葉によって、姚向の血の気はさらに引いた。昭はため息をついた。

「本当はこんな事言いたくねえんだが、お前がそんなに臆病者だなんて気付かなかった」

 姚向も名家の圧力に翻弄されている者であることはわかる。ただ、これまで自身の内側に眠る傲慢さを外に出さないのが上手かっただけだ。それは分かっていたが、昭はどうしてもそれを認めたくなかった。

「わ、悪かった。でも、どうか司令本部には伝えないでくれ」

 姚向は、今や滑稽とも言えるうろたえようであった。昭は唇を噛んで下を向く。

「俺が言ったところで、司令本部は相手にしねえから、大丈夫だ」

 皮肉めいたように言う昭を、嬴冄はここぞというばかりに弁護しようとする。

「な、なんだよ!お前、嬀智とかいう奴を成敗したんだろ、彼奴が怪我をしているなら、司令本部への障壁はなくなったも同然じゃねえのか」

「そんなことはねえ、お前には分からないと思うが。そろそろ遅くなってきたから帰るぞ」

 昭は嬴冄の腕をつかみ、無理やりに引っ張る。昭の手は、想像に反してかなり大きい。嬴冄は手を振りほどこうとしたものの、その力があまりにも強かったので逆らえず、そのまま戸から出て行くことになった。

 昭は扉を閉めた。姚向が付いてくる気配はない。そのまま梯子を下り、一目散に二人は入口の外へと駆けていく。








                   3

 だいぶ先まで進み、姚氏の館が見えなくなったところで、昭は立ち止まった。空を見ると、一面に暗雲が立ち込め、雨が今にも降りだしそうな様子であった。

「悪かったな、変なことに巻き込んで」

 嬴冄が言うと、昭は被りをぶんぶんと振った。

「俺も、ついかっとなってしまって、あんな真似をしてしまった。本当に馬鹿だな、俺って」

「いや、そんなことはないぞ、お前はよくやったと思うぜ」

 取り敢えず明日、彼奴に謝るかどうか。

 かなり複雑な思いが、昭の胸の中にわだかまっていた。不正を行う者たちや、弱者をいたぶる者たちは勿論のこと憎い。しかし、古くからの友人である姚向に対しては、どうしても情が勝ってしまうのである。数少ない、昭に偏見を持たず、同じ目線で接してくれる姚向。嫌いになれるはずがなかった。

「くそがっ―!」

 その声があまりにも大きいので、嬴冄はびくりと肩を震わせた。恐る恐る昭の背中に手をやる。

「と、取り敢えず、領に帰って落ち着こうぜ」

 昭はただ、何も言わずにうなずいた。

 暫くして二人が嬀氏領の中に入り、奥に進むと、嬀恩がはがれかかった屋根の補修に使う茅を運んでいるところだった。明日の作業に備えて準備をしているのだろう。二人の姿をとらえた二重幅の広いぎょろりとした目が、ぐっと見開かれる。

「おお、昭。お帰り。隣にいるのは誰なんだ」

 昭は彼の顔を一目見ようともせず、無言で奥にある館へと、つかつかと足を進める。そのしょげたような背中を見て、恩は困ったように笑みを浮かべた。

「俺は嬀恩。彼奴の直接の血縁?みたいなものだ。お前はなんて言うんだ」

「俺は嬴冄といいます。嬀昭と行動してて夜遅くなったので、今夜だけお世話になってもいいでしょうか」

「おう、別に構わんぞ。見たところ、お前はいい奴に見えるしな。変にひねくれた奴が一人いるが」

 そう言って、恩は奥にある館に目をやる。

「まあ、あれが口を利かねえことは日常茶飯事だ。昔から頑固で喧嘩っ早い奴だから、気にするな。ちびのころから、チャンバラで年下に容赦せず、こてんぱんにやっつけて泣かせてたりな―全く、変に手がかかるのなんの」

 ぶつぶつと呟く恩を見て、嬴冄は笑い出してしまった。

「やっぱり、そうなんすね。それよりかは、正義感が強い、という風に見えましたが」

「まあ、曲がったことは嫌いだからな彼奴は」

「俺は正直、彼奴が羨ましいです。やることなすこと、全て筋が通っているので」

「それは大事なことだ。しかしお前さんも、彼奴にはない、心の広さを持っていると俺は思うけどな」

「そうですか。ありがとうございます」

 嬴冄は姚向のことを喋ろうと考えたが、言ってはいけないように思えたので、それについては触れないでおくことにした。

「まあ、明日の朝も早いからな。早く寝に行けよ。なんかあったら、俺に声をかけてくれ」

「あ、はい。了解です」

 そう言うと、恩は別の場所へと移動していった。

 嬴冄は、奥にある館へと足を進めた。女性の居住域に近い所にいるので、なるべく早く立ち去らなければならなかった。途中、嬴冄から見て一番向こう側の個室からごそごそという音が聞こえたが、疲れ切っていた嬴冄はそれに特に気を留めることもなく、その横を通り過ぎていく。そのうち、自身の寝床である建物が見えてきた。

「ここが、嬀昭たちが寝ている館か」

 粗末な外観であるが、中を覗いて見ると、意外に広く、嬴冄が普段生活している屋敷と酷似している。それも当然と言えば当然なのだが。

 入ってすぐ手前には、殺風景な空間がある。恐らくここで食事をするのであろう。その左奥の角に近い場所には、小さいとはいえ厨房があり、籠に入った野草や米の入った俵が置かれている。だだっ広い空間の左奥に、寝室はあった。寝ている男達の姿は暗すぎて見えない。松明をつけるわけにもいかないので、目が暗順応するまで嬴冄は暫く待っていた。すると、次第に寝室の中の様子が見えてくる。

 目を凝らすと、昭は入り口に近い場所に寝ていた。その隣の小柄な少年のそのまた隣に、人一人がぎりぎり入るぐらいの空間があいている。嬴冄はそこに無理矢理身体を押し込んだ。

「なんだよ、痛いな」

 嬴冄の背中がぶつかったらしく、隣に寝ている少年が起きてしまった。

「すまん」

 嬴冄が慌てて謝ると、少年は体を起こし、こちらを向いた。目が大きく、黒目がちな瞳で、少女めいた顔をしている。少しおどおどとした表情で、昭の弟分の燦だと分かった。

「誰なんだ、お前は」

 少年は怪訝そうな様子で聞いてくる

「嬴冄だ、嬀昭の付き添いで来た。お前は嬀燦だな、話は嬀昭から聞いている」

 燦はこくりと頷くと、改めて口を開いた。

「もしかしたらお前達、姚氏領に行ったのか」

 嬴冄はどきりとした。

「ああ、そうだが」

「やっぱりな。しかし姚向は、昔からいけ好かなかった。昭は仲良くやっているみたいだが」

 燦が単刀直入に姚向の話題に切り込んだので、嬴冄は困惑する。それでも言葉を何とか選んで、恐る恐る話を繋げた。

「今日、俺と嬀昭と姚向で喧嘩しちまったんだ。もとはと言えば、俺と姚向が原因なんだけどな」

「ちょっとそれ、詳しく聞かせてみてくれ」

 妙に強い光を湛える燦の目を見ていると、彼はこれまでの顛末を全て話さざるを得ない気分にさせられた。

 一通り話し終わると、燦はやっぱりな、という素振りで頷いた。

「成程、そういうことか。今日、彼奴昭の様子がおかしかったからな。不思議に思ったんだ。あんなおっかない奴に引っかかるとは、お前は災難だった。でも、彼奴はお前みたいな奴を放っておけないところがあるから、何とかなって、良かったんじゃないか」

 燦は、そう言うと再び床に寝転がった。

「それはそうだけど」

「もう寝た方がいいぞ、明日は早いからな、お休み」

「あ、お、おい、待てよ」

 その時には、既に燦は寝ていた。嬴冄はあっけにとられてその様子を見つめていたが、馬鹿馬鹿しくなり、自身も寝ることにした。ふと隣の二人を見やると、左を向いて同じような寝相をしている。嬴冄は燦が寝返りを打つのに備えて、右を向いて寝ることにした。

 翌日、嬴冄が起きると、寝室には陽光が差し込んでおり、部屋には彼一人以外誰もいなくなっていた。嬴冄は上半身を起こし、辺りを見回した。そういえば先程から、左肩に冷たく固いものが触れていて、何と無く気持ち悪い。彼が冷たいものが触れた辺りに恐る恐る目をやると、何やら人の身体が横たわっていた。その顔を見た途端、嬴冄の喉から声も出ない叫びが漏れる。

 そこに横たわっていたのは、顔の上半分が焼け爛れ、胸に刺し傷のある燦の死体だった。





                  4

 嬴冄は逡巡していたが、すぐさま外で作業をしている大人たちを呼びに館から飛び出た。館の裏手にある田園で耕作作業を行っていた男達の一部が振り向く。

「お前、もしかしたら昨日昭と来た嬴冄って奴か。なんで戻ってないんだ」

 輪のように髭と蟀谷が繋がった男が興味ありげに彼を見る。顔を蒼白にし、息を荒くした嬴冄は彼に向かって頷いてから、必死に嬀恩を探した。彼は確か、屋根の補修作業をしているはずだ。嬴冄は屋根の上に向かって叫んだ。

「嬀恩さん、大変です!今すぐ来てください!」

「分かった!今すぐ向かうから待っててくれ」

 暫くすると、嬀恩は屋根の上からがっちりとした巨体に似合わぬ俊敏さで飛び降りてきた。

「どうしたんだ、顔が真っ青だぞ」

 嬴冄は口早に言った。

「寝室の中で、燦が死んでいます!」

 男たちの間から、声にならないどよめきが聞こえた。衝撃のあまり、作業をする手が止まっている。恩は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐさま冷静な表情に戻った。

「嬴冄、取り敢えず俺と一緒に寝室に来てくれ」

「わかりました」

 嬴冄はこくりと頷いた。

 寝室の中に入った途端、視界に入り込んだ凄惨な死体を目にして、嬀恩は言葉も出ず立ちすくんでいた。

「―取り敢えず、俺が死体を表に出すから、嬴冄は筵を運んできてくれ」

 嬴冄は頷き、恩が死体を抱き上げた後に、その下に敷かれている筵を畳んだ。

 二人が作業を続けている男達の元へ現れると、彼らは再び手を止めて、絶句した様子で恩の方を見た。

 嬴冄が指定された場所に筵を引くと、恩は燦の死体をゆっくりと筵の上に置いた。

 男達は田や屋根から引き上げ、急いで燦の元へ駆け寄る。

「燦、どうしたんだ、燦」

「燦、なんで死んだんだよ」

 男達は涙を流していた。無表情なままで、涙を一筋二筋と流す者もいれば、滝のように大粒の涙を流す者もいる。動かなくなった身体を撫でる者もいた。嬴冄は死体を見るのが怖いわけではないが、内心ただただ不気味に思う気持ちだけが募っていた。

「嬴冄、燦に少し触れてみろ。今生の別れだからな」

 恩にそう言われ、嬴冄は恐る恐る燦に触れる。冷たく硬い感触が掌に伝わり、死体と生きている人間は別物である、ということがまざまざと思い知らされた。

「燦の魂が、大嬀の下で健やかでいられますように」

 恩も涙を流しながら、そう呟いた。姫周では、民草は死後、自らの祖先神であり、魂の源である女神の元へと還っていくと言われている。嬀氏なら大嬀、娰氏なら大娰だ。

 恩は立ち上がり、傍らにいる一人の初老の男に声をかけた。

「健爺、邑長を呼んできてくれ」

「分かった」

 八の字の形の眉を更に下げ、嬀健は駆けて行った。

 暫くすると、健は白い衣を着た一人の老女を連れて戻ってきた。小柄ではあるが、背筋は伸びており、気品と威厳の感じられる女だ。

「話は聞いた、お前達は燦から離れてくれ。恩に運ばせる」

「承知致しました」

 燦の周りから、人垣がさっと引いた。恩は燦を、音を立てず速やかに持ち上げる。彼らはこれから大嬀廟へと向かう。嬴冄は隣にいた、先程の繋がった髭の男にそっと耳打ちした。

「あの、俺はそろそろ戻った方がいいのでしょうか」

 男は嬴冄を見下ろした。

「邑長―嬀欣様が大嬀廟に入るまでは、出ない方がいいな。だから少し待ってくれ」

 男がその場で待っている様子だったので、嬴冄も待つことにした。邑長と恩、二人の姿が館の向こうへと消えていったのを見届け、男達は再び動き出した。彼らには燦の訃報を聞く前の活気は当然ながらもうなくて、どことなく背中が小さく見えた。

 繋がった髭の男は突然、嬴冄の背中を力任せに叩いた。

「わっ」

 嬴冄は素っ頓狂な声を上げてしまった。

「坊主、そろそろ戻れ。お前にも自邑での作業が待っているだろう」

「はあ」

「はあじゃねえ。さっさと戻れ!邑の奴から怒られるぞ!」

 男に怒鳴られ、嬴冄は慌てて駆け出した。しかし、ふと思い出したように、彼は立ち止まる。

「あの、最後に名前だけ聞いて帰ってもいいですか」

「は?」

「そちらだってなんも名乗らずにいるのは、無作法だと思うのですが」

 そう言うと、男はやれやれといった風情で口を開いた。

「嬀加だ、嬀加。分かったらとっとと帰れ」

「嬀加さんですね。泊めていただき、どうもありがとうございました。嬀恩さんに宜しく言っといて下さい」

「ああ」

 そう言うと、嬴冄は足早に甲邑嬀氏領の門をくぐり抜けていった。進んでいると、すぐさま邑の入り口が見え、先には昨日歩いてきた険しい山道が見える。

 さっき起こったこと、昭にはどう伝えたらいいんだろうか。

 嬴冄はただそれだけを考えていた。情に厚い彼のことだから、燦が死んだと分かると、この世の終わりとばかりに落ち込むには違いない。しかし、あの死体の存在に、どうして誰も嬴冄が報告するまで気付かなかったのだろうか。あの死体が寝室に運び込まれたのは、間違いなく陽が昇り、全員が作業に向かった後である。どうして俺だけが、あれまで眠っていたのか。疑問はひたすらに尽きず、険しい山道を辿る嬴冄の頭の中を駆け巡っていた。





                   5


 蓮はその朝、鳥の鳴き声と共に目を覚ました。彼女にとっては珍しく、目覚めの良い朝だった。部屋の隅にある壁の隙間から、光が漏れ出ている。湿り気を帯びた襦袢が、足に柔らかく絡みつく。彼女ははっきりしない頭で、むくりと蒲団から起き上がった。暫くすると、外から戸を叩く音がした。

 開けてみると、娰瑜がそこに立っていた。

「蓮様、今朝はご機嫌いかがでしょうか」

「かなり良い目覚めだったわ」

 そう言って蓮は口元に微笑みを浮かべる。

「それは良かったですね。やはり、安眠に効果的な吉草根を処方したのが功を奏したのでしょうか」

「そうね、またあの薬湯を煎じてくれと、姜鳴にお願いしといてくれる?」

「承知致しました。あと、これ、差し入れでございます」

 手に持っている、藁の小包を蓮に手渡し、娰瑜は部屋を後にした。

 蓮は清々しい気分で入り口近くに立っていた。薬湯の効果もあるが、何よりも、今日は月に一度の各邑長の会合の日であった。巫王姫旋は勿論、姫瑳や姫汪などの国内主要人物達が康宮に集合する。閽人の警備も康宮に集中するため、個室には注意が集まらないのだった。蓮はこれまでは大抵、部屋の中に閉じこもっていたが、この日は婦功が特別休暇をもらっていたので、蓮は娰瑜と共に、婦功になりすましてお忍びで外に散策しに行くことが決まっていた。蓮は蒲団の横に置いてある、空色の絹の衣に手を伸ばした。これは、婦功が主に着るものである。袂には、銀糸で繊細な刺繡があしらわれていた。

 見つからないように、しまっておかなくちゃ。

 蓮は衣をしわにならないよう気を付けて小さくたたみ、懐にしまい込んだ。

 扉を開けて外に出ると、外は閽人一人おらず、閑散としていた。蓮は恐る恐る廊下へと足を進める。そのうち遠くから足音が聞こえてきたので、蓮は廊下から飛び下り、床と地面との隙間に素早くもぐりこんだ。自身のいる上を、ばたばたと走る音が近づいては遠ざかっていく。完全に足音が無くなったのを見計らって、蓮は再び廊下の上を進んだ。娰瑜は薬草庫で、蓮と同じ格好をして待っていると聞いていた。薬草庫までの距離はそこまで遠くないが、閽人が侵入者を捕まえるための経路に面しており、下手をすると見つかりかねない。蓮の心は浮き立つ反面、閽人に決して見つかるまいと張り詰めてもいた。

 何とか途中までの道を乗り切り、あともう少しというところで、再び足音が聞こえてきた。今度は、廊下の周りが岩に囲まれている状態であり、床と地面の間にも固い岩が屹立する状態であった。周りに隠れられるような場所が見当たらなかったので、蓮は仕方なく、融を使うことに決めた。

 目を閉じて、胸の中心で合掌した手を広げると、蓮の姿は見えなくなった。彼女はそのまま、廊下の隅にしゃがむことにした。少し経ち、廊下の真ん中の方を横目で見ると、そこを横切る三人の兵の足が見える。遠くを見やり、兵が完全に去ったことを確認すると、蓮は再び立ち上がり、倉庫へと歩いた。

 そのうち、蓮は木の引き戸の前に辿り着いた。厳重な閂がかけられており、少し引っ張っただけではびくともしない。蓮は合図として、拍子を付けて扉を叩く。

 たたん、たんたん、たたたん、たんと音がすると、娰瑜が内側から扉を開けて、蓮に向かって微笑んだ。餅を搗くときに表面にできる溝のようなしわが、口角に刻まれる。中に入ると、娰瑜は再び閂をしっかりと閉めた。中に隙間なくびっしりと壁に沿って積み上げられている木箱の群れを見回す蓮に、娰瑜は改めて声をかける。

「蓮様、何とかここにたどり着けましたね」

「ふふ、割と苦労したけど、無事で良かったわ」

「ささ、早くお召し変えなさってください。今日は歩きますよ」

「分かった」

 そう言うと、蓮は懐から衣を取り出し、襦袢の上に羽織った。着替え終えたのを見計らって、娰瑜が藁を編んで作った傘を手渡す。蓮はそれを顔が隠れるように、入念に深くかぶり込む。娰瑜が最後の仕上げとして、衣の裾の位置を整えたりした。

「では、出発しましょうか」

「うん」

 二人は部屋の外へと出た。暫く廊下を歩いていると、前方に婦功専用のすっかり開け放された裏口が姿を現す。婦功は宮中の第二の番人、という異名があり、情報の機密性を守り抜くことが出来る者已がなれると言われている。そのため、大昔から巫王は彼女らに全幅の信頼を寄せてきた。婦功専用の裏口があるというのも、その名残である。

 裏口の外へと二人が足を踏み出すと、少し湿り気を帯びた空気と共に、平地の茂みの向こうに広がる、果てしない青空と雄大な山々が視界に入ってきた。蓮は姫瑳の体で外に出たことがあるとはいえ、興奮を隠しきれなかった。陽光の眩しさに目を細めながらも、彼女は言った。

「やっぱり外の空気は格別ね」

「そうおっしゃるかと思いましたよ。ずっと自室の中に閉じ込められていちゃ、体にも悪影響ですしね」

 二人は前方に足を進めた。遥か上空には燕が数羽、縦横無尽に飛んでいる。その様子は、蓮自身の心の浮き立ちようを表しているかのように思えた。

 二人は、近くにある姫墟と呼ばれる小高い丘の方を目指すことにした。丘の上には大きな桜の木があり、初夏の時期になると、真っ赤な甘酸っぱい桜桃の実をつけるので、大邑姫氏領の者たちには親しまれている場所である。

 姫墟の上にたどり着くと、傘のように大きく広がった数多くの枝に、赤いまるまるとした実が鈴なりに付いていた。蓮はそれを見るなり、目を輝かせて木のもとに駆け寄り、笠を脱いで、そこに実をもぎ取って次々に入れ始める。それを見て、娰瑜は大きな笑い声をあげた。

「蓮様、あまりとりすぎては、他の姫様方の取り分が無くなってしまいますよ」

 すると、蓮は振り返り、我に返った様子で申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさい、久しぶりに外に出ることができたから、つい興奮しちゃって」

「でも、それも蓮様らしいですね」

 娰瑜は再び高らかに笑った。蓮はそれを見て、目を伏せ、どこか寂しそうな様子で笑みを浮かべる。長閑な風景の中で、ゆっくりと揺蕩う時の流れ。丘の上で気の知れた娰瑜と二人きりでの桜桃狩り。これほど幸せなことはないように思えるのだが、同時にどこか物足りなさも感じていた。

「ねえ、娰瑜」

 実の母より、母に近い女は片眉をぐっと上げる。

「なんでございましょうか」

「このままでは駄目よね」

 その口調には、何かを憂うような響きが詰まっていた。自室に監禁され続ける自身の未来とか、そういったものではなく、それを飛び越えた先にある、何か。

「わたくしには、蓮様が何を心配していらっしゃるのかは分かりません。しかし、ここにいるから、言わせていただきます。ご自身の心の赴くままに、進めばいいと」

 蓮は、目を見開いた。やがて、その大きな黒目が滲んだかと思うと、その眼から、大粒の涙がこぼれだす。それは頬を伝い、赤く艶々とした実の上に落ちた。

「うわあああああああああ」

 蓮は籠を木の根の脇に置き、赤ん坊のように身体を丸めて泣きじゃくった。

 娰瑜は蓮のもとに歩み寄り、なだめるようにして背中をさする。しかし、蓮の涙は益々溢れ出すばかりであった。周囲に誰もいる気配がないことを確認し、娰瑜は胸をなでおろした。

 これからはどうなるのか。それは彼女にとって未知数である。しかし、このままではろくなことにならないのは確かだ。最悪の事態を避けるためにも、国を出ることが必要だった。亡き奵瑛の遺言を守るためにも、だ。

 暫くすると、陽が真上に昇ってきて、光と影の明暗の対比がはっきりしたものとなってきた。

「そろそろ帰りましょうか、蓮様」

 泣き疲れて暫く眠っていた蓮は、声を聞いてうっすらと目を開けた。心配そうにこちらを見下ろしてくる娰瑜の顔を見て、彼女はすぐさま起き上がる。開口一番、彼女は言った。

「本当にごめんね」

 娰瑜はきょとんとした顔で蓮の方を見る。

「なんで蓮様が謝るのですか」

「いや、私がいなかったら、娰瑜はもう少し楽になれるんじゃないかなって、考えてしまうの」

 蓮は目を伏せ、下を向いた。長い睫毛が、頬骨の辺りにくっきりとした影を落とす。

「大丈夫ですよ。私は何があっても、蓮様を見捨てたりなどしません」

 蓮は目を見開いた。

「本当?」

「そうですとも」

「本当に?」

 蓮は更に念押しをする。その声には、今までの彼女にはなかった気迫のようなものが込められていた。自身の内面をのぞき込まれているような深い色の瞳に見つめられて、娰瑜はたじろぐ。

「ふふ、冗談だって。私はあなたのこと、信じてるから」

 蓮の目元が緩む。その目元のしわの寄り方が在りし日の奵瑛にそっくりで、娰瑜は胸が傷んだ。

「蓮様、戻りましょうか」

「うん」

 そう言うと、二人は立ち上がり、丘を後にする。その後蓮は閽人に見つかることなく、無事に娰瑜の手で送り届けられた。自室に辿り着いてから疲労のせいか、強い眠気が襲った。蓮は心映珠に見向きもせず、再び眠りにつく。外はまだ明るく、陽の光が強かったが、部屋の中には別世界のように、誰にも邪魔されることのない静寂が広がっていた。





                  6  

 その前日、昭や嬴冄が寝静まってしばらくたった時。一人の少年が、壬邑嬀氏の門の前に立っていた。門には他の邑の者が許可なしに入ることができないように融がかけられているが、少年は自邑の者の目を盗んで行っていた日々の張り込みのお陰で、邑の者たちの眠りが深い時間帯は、融の効果が薄まることを発見したのだった。

 門の柱に軽く手を触れ、何も反応がないことを確認し、少年は中へと入る。奥へと進み、彼は館の立派な造りに特に気を留めることもなく、扉に手をかけた。その先には、長い廊下が伸びている。足音を立てないように、少年は慎重に足を運ぶ。暫くすると、彼はとある部屋の前に辿り着いた。慣れた手つきで戸の隙間から金具を差し込み、彼は閂を開ける。戸を開くと、そこには彼と同じ年頃の少年が二人眠っていた。年上らしき方は、途切れ途切れに口から呻き声を漏らしている。抜き足差し足で近づいた彼は、呻き声を上げている少年の胸のあたり―丁度心臓がある場所の真上に短刀をかざした。刃には羌族が鏃に塗るものと同じ毒が塗り込まれている。彼は虚ろな目で、少年を見下ろした。実は彼が本来目的としていたのは、年上の方ではなく、年下の方であった。貞人である姫栢の侍童をしていると、彼は自身の兄から聞いていたのである。年下の少年は彼と背格好がそっくりで、はたから見ると見分けがつかない。しかも少年は壬邑嬀氏内での立場が低いらしく、顔を布のようなもので隠しており、休日には土嚢を一日に百個運ばせられるなど、家畜同然の扱いを受けていた。理由は明らかではないが、王宮に潜入したい野望を持っている彼にとって、年下の方は格好の標的であった。

 彼は大きく息を吸うと、肋骨の隙間を狙い、年上の方の胸に短刀を素早く突き刺した。刃が肉を貫通する厭な感触が腕に伝わり、切り口からは血がどくどくと流れ出たが、年上の方はゔっ、と大きな呻き声を上げたきり、目を覚ますことはなかった。彼は安堵したような様子を見せ、年下の方が寝ている方へと向かった。年下の方は、寝ている間も顔に布をかけており、表情がわからない。彼はその布をおもむろにはぎ取る。そこには、焼けただれたような醜い傷跡が上半分を覆っている顔があった。しかし彼は何も感じることなく、速やかに頸動脈を切り裂いた。すると、年下の方は一瞬目を見開く。赤黒くなった皮膚の中に浮かぶ二つの白い眼は、何が起こったのか察していないようだった。声にならない呻き声を上げたあと、年下の方は絶命した。

 その後彼は年下の方の亡骸を筵でしっかりと包み、音を立てないよう慎重に外へと引きずり出した。やせ細っていて軽かったので、それを運ぶのには何の造作もない。  

 自邑に死体を持ち帰るため、彼は手押し車の上にそれを置く。傍から見ると、館を補修する木材が置かれているようにしか見えない。それから再び壬邑嬀氏領に戻ると、彼は館の中にある厨房へと駆け込んだ。彼は周囲を見回し、竃へと目をやる。

 どうやら先程盛大に火を燃やしたのか、竃にはまだ少し火が残っていた。彼は竃に近づき、ためらうことなく燃え残りの中に顔を突っ込んだ。炎は容赦なく、彼の顔の表皮を赤黒くあぶっていく。それでも彼は呻き声一つ漏らさずに、顔の上半分を焼いた。顔を上げると、彼のかつての少女めいた面影は跡形もなく消え失せていた。







                 7

 昭はその日、いつも通り一人で訓練場へと向かった。最近、姚向は隊長としての職務内容が激しくなってきているのか、昭より早く出ることが多くなってきていたのだった。心なしか、山道を進む足が少し重く感じられたが、昭は時折立ち止まって深呼吸をすることで何とか気を紛らわせていた。荒れた岩道を乗り越え、それから続く平坦な道を歩くと、訓練場が見えてくる。

 訓練場にたどり着くと、入り口に近い所で各隊の隊長が軍議を行っていた。他の隊長より一際若い顔を見つけ、それが姚向だと確信する。顔の腫れはある程度引いていたが、まだ痛々しい印象が見受けられた。一瞬目が合ったが、姚向はすぐさま何事もなかったかのように目をすっとそらした。

 暫くすると、姚向の顔は大柄な他の隊長の背中に遮られ、見えなくなった。昭はそれと同時に、その場から去る。

「よお、嬀昭。久しぶり」

 後ろから聞き覚えのある声がした。振り向くと、そこにいたのは娰朔である。彼は狐のように細い目を更に細めて言った。

「お前、辛気臭い顔してどうしたんだよ」

「―いや、昨日少しごたごたがあってな」

「ごたごた?」

「殴り合いの喧嘩だ」

「お前はいつも手が速いなあ。って、本当かよ?」

「ああ、そうだ」

 細い目が、まん丸に見開かれる。信じられないといった様子だった。

「何があったんだよ。お前ら、いつも仲いいのに」

「まあ、女性関係だ」

 昭は適当に嘘をついた。彼は嘘を付けない性格だったが、今回は付かざるを得ない。

「お前に好きな娘なんていたのか?まあ姚向は人気だろうけどな」

「大きなお世話だ」

 ふと昭は、娰朔が一つ年上であることを思い出し、彼に冠礼の日の話を聞こうかと思ったが、断念した。

「そろそろ朝の点呼の時間だ。列に並んでおいた方がいいぞ」

 娰朔はそう言い、第一隊の列に並びに走っていった。昭も、自隊の列の中に身体を滑り込ませた。

「おお、嬀昭。おはよう」

「おはよう。姚洋、だったっけな」

「そう、合ってる。覚えていて良かった」

 声をかけてきたのは、隊の中では一番融軍歴が短い姚洋であった。中肉中背の彼は、悪く言えば特徴がなく、よく言えば何でもそつなくこなす、そういう少年であった。昭は未だに姚洋を他の隊の兵と間違えてしまうことがあり、その度彼は張り付いたような苦笑いを浮かべるのであった。昭はそんな彼と慣れ合う気になれず、どことなく距離を置いていた。

 ―それにさ、選り好みが激しいようにも見える。お前、特定の奴に対する執着が強いんだよ。

 嬴冄の言葉が不意に頭の中に蘇った。言い得て妙、とはこのことであったが、耳が痛いのもまた事実である。嬴冄はかなり人の内面を見る力があるのだ。最初のうちは彼を迷惑な人間だと考えていた昭も、最近は認めずにはいられなくなっていた。

 姚洋とも飯の時に話してみようか。

 昭はそのようなことをぼんやりと考えながら、列に並んでいた。

「それではこれから点呼を行う」

 面皰にきびが特徴的な、まだ幼さが残る顔の軍長は、いつものように大きな声で叫んでいる。

 早く終わらねえかな。

 昭は漠然と考えていた。彼はひたすらに姚向と話す時間がほしかった。しかし、あのような出来事が起こってからでは遅いかもしれない。

 しかし、冠礼の日も近くなっている。出来る限りのことはしておきたかった。その日の訓練が終わり、全体が解散した後、昭は姚向のもとへ近づいた。姚向はいつも通り、第八隊の少年達と談笑していたが、彼らはやはり姚向のことを心配しているようだった。

「姚向」

 昭は集団の後ろから声をかけた。姚向の隣にいた背が高く、青白い肌をした少年が、訝しげに彼を見る。

 昭は詰まりながらも、必死に言葉を絞り出す。

「き、昨日はすまなかった」

 姚向は沈黙したままである。しかし、赤く腫れたその顔には悲痛な表情が浮かんでいた。少し経つと、姚向は口を開いた。

「俺と古くからの誼だから、許してやる。特別だぞ」

 姚向の顔には打って変わって、傲慢とも言える笑みが浮かんでいた。

「姚向、彼奴が」

 隣の少年が昭を見ながら、小声で姚向に話しかける。

「ああ、そうだ」

 姚向の言葉を聞き、少年は昭の方をきっとした目つきで睨みつけた。

「なんだよ」

 昭はせせら笑うように少年を見上げた。

「嬀昭と言ったかお前、あまり姚向に対して余計な事はしない方がいいぞ」

「余計な事?」

 すると、少年はそれきり黙り込んでしまった。少年も姚向が過去に行ったことを把握しているのだろうか。

 「やめろよ、姜永。そろそろ時間が迫ってるんだから、行こうぜ」

 姚向が姜永の肩に手を添える。姚向が歩きだすと、他の者たちも歩き出した。去りゆく五つの背中を昭は見送る。

 何だったんだ、今の奴は。

 昭は姜永のことが気になっていた。前から姚向との話で何度か話題に上っていた少年である。直接話したのはこの日が初めてであったが、昭は彼から妙な空気を感じ取った。彼は間違いなく、姚向と重大な何かを共有している。

 隊の同期であり、姚向と親しいことは間違いない。しかし、過去のことも共有しているのだろうか。いずれにせよ、彼が姚向のことをかばっているのは確かであった。

「よお、嬀昭」

 肩を叩かれたので後ろを見ると、そこにいたのは嬴冄であった。毎日鍬を握っているのだろう、肩を叩いた手の指には立派なたこがある。

「おお、嬴冄」

「丁度良かった。話があるんだけど、いいか」

 彼はどことなく浮かない顔をしていた。

「どうしたんだよ。なんかあったのか」

「物凄く言いにくいだけれど、言ってもいいか」

「いいぞ。もったいぶらずに言えよ」

「―悪い知らせだ」

「なんだよ、悪い知らせって」

 嬴冄は言うのを躊躇していたが、勇気を振り絞って言った。

「お前の弟の、燦が亡くなった」

 昭は耳に入ってきた言葉が信じられなかった。油断をして食事をとっている時に、いきなり横っ腹に矢が刺さったような気分である。

「―なんて言った。もう一度聞かせてみろ」

「燦が亡くなったんだ!」







                 8

「なんだと!」

 昭は嬴冄の肩を掴んでゆすった。嬴冄はその手を慌てて引き剝がそうとする。

 突如始まった二人の乱闘に、周囲の者達は足を止めていた。そのうち、人垣の中から一人の少年が走ってこちらに向かってくる。昭と嬴冄は取っ組み合いをしていたが、近付いて来る少年に目を止め、立ち上がった。昭の目には憤怒の表情が浮かんでいる。

「何やってるの君たち―って、嬀昭と嬴冄じゃないか!」

 駆けつけてきた少年は、娰勧だった。紅い頬を上気させている。

「久しぶりだな」

「君ら取りあえず、歩きながら話そうか」

 娰勧は笑みを顔に浮かべた。

「う、うす」

 その口調に抗えないものを感じて、二人は言われた通り歩き出す。

 「それは、災難だったね」

 嬴冄から事情を聴いた娰勧は静かに言った。

 「俺も、まさか自分の隣で死んでいるとは思わなかった。あれぐらいの年の奴が亡くなるのって、珍しいっつーか」

 昭の目には涙が滲んでいた。彼は再び嬴冄につかみかかる。

 「なんでもっと早く言わなかった!」

 「知らねえよ!だって俺が燦を見つけたのは、お前や嬀恩さんが出て行ってからだ、てゆーか鼻水付けんな、汚ねえ!」

 「おい、やめろ。君らもうすぐ成人するのに、大人げない」

 娰勧は二人の両肩に手を添え、それまでの柔和な様子とは打って変わり、かなり凄みのある口調で言った。

「泣いたからって、どうにかなることなのかい?もしそうならば、とっくに燦とかいうやつは生き返っているだろう」

 昭は黙り込んだ。それは正しいに違いないが、どうにも納得できない。それに、遺体は既に大嬀廟に運び込まれている。このまま見ることも叶わないのは嫌だった。

「取り敢えず、この話の続きは予行練習が終わってからにしようぜ」

 嬴冄がとりなすのを見て、昭は唇をかみながらも頷いた。気がつくと、周囲の者たちも動き出している。些か通りにくそうにしている者もいた。彼らは正に、川の中に腰を据え、水を半ばせき止めている大岩のようであった。娰勧はふと思い出したように何かを言おうとしたが、それを喉の奥に押し込むように、唾を飲み込んだ。

「ほら、行くよ」

 娰勧は昭の背中を押した。目のあたりがまだ赤い彼は、渋々ながらも促されるままに歩き出す。重い足を何とか進めていると、そのうち、犀融宮が見えてきた。四方をぐるりと塀で囲まれているそれは、一段と閉鎖的に見える。入り口から中に入ると、その日もいつも通り、姫栢が染み一つない白装束に身を包み、面を被って立っていた。その脇には、侍童と思われる小柄な少年が立っている。成人前の少年少女已が就くことを許される、特殊な職業だ。だが、その任務について昭はあまり良い噂を聞かなかった。汚れ仕事であることは確かだ。それを知っていたからか、燦は侍童になることを勧められても、決してその誘いに乗ることはなかった。

 それにしても、背格好が燦に似ているな。

 昭は少年の姿を見て、また涙が溢れそうになった。彼が小さい頃にも、甲邑嬀氏では多くの子供が死んだ。燦と彼はたった二人、その災禍を生き残ったのだ。しかし、今度はその燦を亡くすことになるとは。彼は目を必死に擦り、涙が出ないようにする。幸いなことに、少年の顔は布で隠れており、こちらからは見えなかった。







                  9

「それでは今日も予行練習を開始する」

 少年たちはこれまで、亀甲の上に血を一滴垂らすことによって出来る模様の違いによる組み分けを何度も行われてきていた。最初は組間の移動が多々あったが、これだけ回数を重ねると、大体どの組に入るかが定まってくる。昭は嬴冄や娰勧らとともに、時折普通の模様が出る組に行ったりしたものの、大体は模様がはっきりと出ない組に分けられていた。しかし昭はかなり、この組の面々が気に入っている。軍での出世や、上下関係など余計な事を気負わずに話せるという点で、彼にとっては最良の仲間と言っても良かった。しかし、彼らは毎回姚向達の組にこてんぱんにやられていた。何しろ、まともな戦闘力となるのが昭のみなのである。人間の想像の範疇を超えた彼らに立ち向かうのには、融の取得なしには難しいということが明らかになりつつあった。

 ―なんでこいつら、こんなに強いんだよ。

 昭は息を切らしながら、暗闇の中で横一列に並んだ、手元から青い光を放つ集団を見つめている。彼らは隊長である姚向を差し引いても、精鋭級の武術の腕前を持つ者ばかりだった。彼らを何とかして打ち負かしたい。しかし、打ち負かした先には何があるのか、彼らには見当もつかなかった。

 姜永が、こちらに左の掌を向け、青い光を放ってくる。昭は物凄い速度で襲い来るそれをぎりぎりで避けきった。

 ―取り敢えず、どうやって上手いこと反撃するかだ。

 昭は光線を避けながら対処法を考えていたが、全く思い浮かばなかった。ひたすら攻撃を避け、時々接近してくる者に拳で反撃すること已が、出来ることである。

 気がつくと、昭の横には誰もいなくなっていた。嬴冄は肩に光線を食らったらしく、倒れて左肩を抑えながら呻いている。他の者たちも同様に身体の一部を押さえて呻いていた。しかし、娰勧の姿が見当たらない。

 ―どこにいるんだ、娰勧。

 昭が後ろを振り返ると、死んだふりをしているのだろう、娰勧は何やら地面に丸まって寝ていた。しかし、腹はしっかりと上下しており、生きているのが丸わかりな格好をしている。それでも相手方はそんな彼に気づいていないようだった。

 ほんと彼奴、変なところで知恵が回るというか。

 昭は内心舌打ちをした。この様な状況に陥ったことのあることがある彼にとっては、考えられない行動だったからだ。自分なら加勢するのに、どうして彼奴は離脱するのか。彼がそんなことを考えていた時。

「嬀昭、いったん離脱して!そいつらは死んだふりをしてたら襲ってこない!」

 後ろから娰勧の鋭い叫び声がした。昭は言われた通りに、攻撃を避けながら娰勧の近くに駆け寄り、寝そべった。

「そのまま寝そべっといて。これから僕が考え付いた策を説明するから」

「どんな策なのか、早く言ってくれ」

「そんな焦らないで。これからその手順を言うから、よく覚えておいてよ」

 娰勧はなるべく小声で、話し始めた。

「まず君、融が使えるんだよね。どの程度まで使えるの?」

「どの程度までって」

「よく分からないけど、戦いのときだけ使うのか、その時以外の目的でも使えるのか。どっちなの」

「俺は基本戦いや訓練の時だけだ」

「やはりそうなのか」

「そりゃそうだろ。多目的で使うことが出来るのは姫氏だけだ」

「何とかできないの。ここは僕たちが考えられる常識の外にある。何かやらかしても罪には問われないはずだ」

「なんでそう言い切れるんだよ」

 そう言って、昭ははっとした。軍内での同士討ちがここでも罪とされるのならば、先程姜永がこちらに光線を放ってきたとき、何かしらの制裁が下されるはずだ。

「そういうことか」

「そうだよ。それで考えたんだけど、君、融で鏡みたいなの作り出せない?」

「鏡?なんだそれ」

「え、鏡を知らないの」

 昭が軽く頷くと、娰勧は眉をひそめ、説明する言葉を探すように視線を落とした。

「ええと、湖面に自分の顔とか写るとき、あるでしょ?あれみたいに、自分の顔とか周りの風景とかを写す板が、鏡だよ」

「だったら、湖面みたいな板を思い浮かべればいいんだな」

「そういうことさ。そうしたら、彼奴らの姿がそれに映し出されるだろ。鏡というのは光を反射する性質を持っている。君の作った板に光線が当たれば、そのまま跳ね返るという塩梅だ」

「成程。お前、頭いいな」

「そりゃ伊達に歌業やってないよ」

 そう言って娰勧は得意そうに鼻を鳴らす。歌業とそれとは全く関係がない気がするが、とりあえずは安心だ。昭は再び前線に戻った。手を前にかざし、湖面の様子を思い浮かべる。暫くすると、透明な板が空気中に出現した。しかし、その表面はぐにゃぐにゃと波打っている。

「嬀昭!もっと滑らかにできないの?」

 咎めるような娰勧の叫び声が後ろから聞こえる。普段はやらないことだったからか、かなり体力を奪われる作業であった。元々、重力に特化していた彼の力は、鏡面を作るのに適していなかった。光線は鏡面を貫通し、後ろへと飛んでいく。

 これでは、到底勝てそうにない。

 昭が絶望しようとしていた、その時。

 昭、こういう時は西母を思い浮かべなさいって、言ったでしょう。

 またもや少女の声が頭の中にこだました。この少女は、昭が絶体絶命という時に、決まって手を差し伸べてくれる存在となりつつあった。しかし、少女自身は、どんな生活を送っているのだろう。昭はそれが気掛かりだった。

 そんなこと、今は考えなくていいの。早く思い浮かべて。

 少女に急かされ、昭は頭の中に西母を創出する。以前と同じ、克明な姿が脳裏に映し出された。それから目を開けて前方を見ると、波打っていた鏡面が、明らかに平坦になっていく。それきり少女の声は聞こえることはなかった。

「いいぞ、その調子!」

 また娰勧の声が聞こえた。反射した光線を食らったらしい相手方が、呻き声を上げて地面に一人、二人と倒れていくのが見える。しかし、最後の一人は、倒れることなくいつまでも立っていた。姚向だった。

 くそ、やっぱり彼奴、強えな。

 意識を奪われていても、それまで覚えてきた技が身体に染み込んでいるのだろう。姚向は光線をすべて避けきり、こちらの鏡面が消え失せるのを伺っているように見えた。暫くして、姚向は腕を大きく広げ、そのまま両手首を力強く打ち付けた。ぱあんと音がして、姚向の手元から青色の光の波紋が広がっていくのが見える。それを見たと同時に、昭は意識が真っ白になり、身を大きく後ろに仰け反らせた。どさり、と音がして、背中に何かをぶつけたような重い衝撃が走る。その瞬間、彼は気を失った。

 倒れた昭を見て、娰勧は顔を歪ませた。しかし、直ぐにきっとした表情になり、何とか前線へと近寄る。

 僕には歌しかないのに、どうして戦わなければならないのだろう。

 娰勧はぼんやりとそのようなことを考えていた。彼には何も武器がなく、丸腰同然だった。その中でどのように戦えば良いのかが分からなかったのだ。

 歌しかない―なら、歌で撃破することは出来ないのだろうか。

 娰勧は思い立った。姫周の者なら誰もが知っている歌はあるだろうか。考えた末、彼はある一つの歌を歌い出した。伸びやかで力強い荘厳な声、自邑の者を魅了してきた声が暗闇の中に響く。


 我に投ずるに木瓜を以てす

 之に報ゆるに瓊琚を以てす

 報ゆるに匪ざる也

 永く以て好を為す也


 我に投ずるに木桃を以てす

 之に報ゆるに瓊瑶を以てす

 報ゆるに 匪ざる也 

 永く以て好を為す也


 男女の愛についての歌だった。その声は青い光の波となって、姚向のもとへと届く。姚向の身体が大きく痙攣し、昭同様に揺らぐのが見えた。娰勧は意外な結果に驚き、暫くの間その場に立ち尽くしていた。しかし、暫くして気を取り直し、最後の一節を歌う。


 我に投ずるに木李を以てす

 之に報ゆるに瓊玖を以てす

 報ゆるに 匪ざる也 

 永く以て好を為す也

 

 娰勧が最後まで歌い終えたその時。

「ぐわぁぁ」

 姚向が大きな叫び声を上げた。その端正な顔には明らかに苦悶の表情が浮かんでいる。彼は頭を力任せに掻きむしった。簪を挿した髷の元結がほつれ、あっという間にぼさぼさになる。

 何が出てくるんだろう。

 それから少し経つと、姚向の頭から青白い靄のようなものが滲みだすように出てくるのが見えた。明るく光るその靄は、やがて角のついた大きな怪物の形を成した。怪物はこちらに向かって口を開く。その口の中にはびっしりと鋭い歯が生えていた。怪物は声のない咆哮をした後、再び靄の形になる。その靄は娰勧の方に急速に移動してきた。娰勧はその様子をぼおっとして見つめている。

「危ねえ!」

 意識を取り戻したらしい昭がこちらに走ってきて、娰勧を咄嗟に押し倒した。間一髪で娰勧は助かる。そのまま靄は壁にぶつかって四散した。束の間の沈黙が続いたのち、押さえつけられた状態のままで彼が恐る恐る口を開く。

「僕達、もしかしたら勝った―?」

 昭は身体を起こし、立ち上がって言った。

「ああ、俺らの勝利だな」

 娰勧は立ち上がり、いきなり昭に抱き着いた。昭はいきなりの出来事に、びくりと身体を強張らせる。

「やったー!」

 その声に促されるように、周りに倒れている少年達も次々と目を覚ました。

「ん・・何が起こったんだ」

 嬴冄は目をごしごしとこすりながら起き上がった。

「何言ってるんだよ、勝ったんだぜ、俺ら」

「まじかよ、どうやってだ」

「昭と協力して、融で鏡を作ってもらったんだ。それで相手方は殆ど全員が倒れ、最後の一人だけが立っていた。でも昭はそいつの攻撃を食らって倒れ、僕が歌を歌ったら、何故か最後に残った彼奴が倒れたんだ」

 そう言って、娰勧は倒れている姚向を指し示す。

 姚向を一瞥して、特に何も言わずに昭は呟いた。

「―こいつあ驚いたな」

「ん?なにかあった?」

 嬴冄が不思議そうに言う。

「融がなくてもあの集団を倒すことが出来た、ということだ」

「それはすげえな」

「取り敢えず、歌と関係があるか、燦に聞いてみるとす―」

 そう言って、昭は涙が流れそうになったので、そこで言葉を切った。

「決着がついたようだな」

 頭上から嗄れたような声が降って来た。姫栢だ。

「今回の勝者は、娰勧達だ」

 程なくして姚向達の集団が徐々に意識を取り戻してきた。先に倒れたうちの一人がむくりと起き上がる。彼は喜んで飛び跳ねているこちら側を見てきょとんとしていた。泣いている昭の方を見ると、怪訝そうな顔をする。その一人に続いて、後の面々も起き上がり始めた。

「何してたのかさっぱり分からなかった」

 そう言って、姜永は汗ばんだ額を手の甲でこする。

「俺も」

 隣にいた少年も、ついた覚えのない左腕の擦り傷に手をやった。

「取り敢えず訳が分からん」

 もはや話す言葉も無かった。彼らは勝負に負けたかどうかよりも、自身の身体の主導権が何者かに奪われていたという方に気を取られていたのだった。理解の範囲を超えた大きな力に引きずられ、自我を失うということはこの上なく恐ろしく思える。

 その内、姚向が起き上がった。それを感づいた周囲の面々は、びくりと身を強張らせる。彼は瞬時に立ち上がると、姜永の方へと素早く近づいた。

「姚向、どうしたんだよ」

 あっけに取られている姜永の胸ぐらを、彼はいきなり物凄い力で掴んだ。その瞬間、空気は凍りつく。姜永はそのままやり返すこともせず、ただ姚向を怯えたような目で見つめている。

「済まなかった、どうかしているな」

 暫くすると、姚向は胸ぐらをつかんでいた手を離した。その身体はわなわなと震えている。

 嬴冄らはそんな彼をあっけにとられた様子で見つめていた。

「今回のような場合もある。しかし、姚向達、勝率はお前たちの方が高いのだ。案じなくても良いが、油断するな」

 気がつくと、両者の間の空間に姫栢が立っていた。松明の火が、少し大きくなった気がした。不気味だなあ、と嬴冄は思い、顔に出そうになったところをすんでのところで堪えた。姫栢は、嬴冄達の方に向き直って口を開いた。

「お前達、今回は良くやったな。しかし、この状態を維持し続けることは難しい。気を抜かないように」

 姫栢がそう言ったのち、明日の予定について簡単な説明を受け、昭達はその場を後にした。

 






                 10

帰り道、昭は俯き、ただただ無表情で歩き続けていた。横に付き添うようにして嬴冄が歩き、娰勧は二人より少し斜め後ろに離れたところを歩いていた。松明の灯りだけを頼りに進む彼らの間には、炎の燃える音と、砂を踏み鳴らす音已が響き渡っていた。その静寂を割るように、娰勧は口を開く。

「しかしねえ、どうなるんだろうねえ」

 嬴冄が振り向くと、娰勧の澄ました顔があった。

「ああ、冠礼のことか」

「それもあるんだけどさ、やっぱり、最近いくら何でも色々起こりすぎだと思うよ」

「何かあったのかよ」

「知らないの? 壬邑嬀氏の嬀智っていう融軍兵が殺害されたって話。なかなかの名家だから、話題になっていたんだけど」

 昭は顔を上げ、娰勧の方を向いた。知らないな、と返す嬴冄の声を遮るようにして声を発する。

「それ、どういうことだよ?」

「え?ああ、嬀智が亡くなったっていう話。嬀昭は融軍だもんね、仲良かった?」

「仲良くはなかった。ていうか、寧ろ悪かったな」

 娰勧は気まずそうな様子で黙り込んだ。再び沈黙が辺りを覆う。昭はそれを

「何でも、同室にいた侍童は無事だったらしいけど、嬀智自体は胸の辺りを深々と刺されていて、即死だったそうだよ」

「侍童って、姫栢の?」

「その通り。今日、姫栢の横にいただろ。あれだよ」

「そうなんだな」

 昭の脳裏に、白い布を顔にかけた少年の姿が蘇る。娰勧は、低く言葉を続けた。

「嬀燦が亡くなったのと重なっているから、妙だと思っているんだ」

 嬴冄がそれに対し、神妙な顔で頷く。

「確かにな。なんか不気味だ」

 暫くすると、嬴冄の邑の入り口が見えてきた。

「じゃあ、取り敢えず俺、帰るわ」

「おう、また明日」

「また明日ね」

 去っていく嬴冄に手を振り、二人は別の方向へと歩き出す。昭の手に握られた松明の炎が、心なしか小さくなったように思えた。

「嬀昭、そういえばさ、どうして歌で相手を倒すことができたんだろう」

 娰勧の声が、先程よりも近くで聞こえる。

「うーん、分からねえな。歌に対して弱点があったとか?」

 昭は半ば疲れ切った様子で返した。それに構うことなく、娰勧は続ける。

「まあ、嬀昭に分かるはずないよね。鏡も知らなかったぐらいなのに」

「逆にお前は、何で鏡を知っていたんだよ」

 昭は疑問に思い、質問した。あれだけ綺麗に磨かれているなら、普通の者が使えるものではない。娰勧は全く躊躇うことなく言った。

「それは、俺が元々侍童だったからだよ」

 急に強い風が吹き、松明の炎が揺れる。僅かな枯れ葉が宙を舞う影が見えた。娰勧の色素の薄い髪が、ふわふわと風になびいた。

「本当かよ、道理でなんか浮世離れした感じがすると思ったぜ」

「本当?そんなことないでしょ」

 昭が驚くことを期待していたらしい娰勧は、がっかりした様子で言った。

「いや、明らかお前変わってたもん。いきなり歌い出すし、それに」

「それに?」

「―それに、所作がなんとなく男らしくない、つうか」

 それは、昭が娰勧を見ていて、度々気になっていたことだった。娰勧は男の割にかなり華奢な体をしていた。その上、彼の動作には、荒っぽさが全く見当たらないのである。同じ年頃の娘が作るようなしなも彼には時折見られた。

 娰勧は口元に戸惑いの感じられる笑みを浮かべて言った。

「そうなのか、だったら、これから僕が言うことを聞いてくれる?」

 昭は何故かはわからないが、一瞬、背中に寒気が走るのを感じていた。何となく、良いことではないような気がしていたのである。それでも彼は敢えて、聞いてみることにした。

「いいぞ、何かあるのか」

 暗がりから、ごくりと唾を已込む音が聞こえた。

 「―実は俺、君が好きなんだ」

 その直後、昭は身体に絡みつくような重みを感じた。松明が手から転がり落ちる。幸い雨後で地面が湿っていたので、炎は消え、木々に燃え移ることはなかった。ぬるりとした生き物のような何かが唇を割って口内に入ってくる感触を感じた刹那、その行為の意味することを認識した昭は、唇が離れたところを見計らい、反射的に娰勧を突き飛ばしていた。娰勧は自身の身体がどすりと音を立てて地面に打ち付けられ、視界が横倒しになるのを感じた。

「―馬鹿かてめえ」

 地面に転がった娰勧を見下ろす昭の目は、かなり冷ややかなものに思えた。しかし、それをよく見ると侮蔑ではなく、ひたすらに戸惑いと拒絶が表れていた。

「ごめん」

 昭は娰勧から目を逸らし、眉をひそめて唇を噛んだ。娰勧がどんな顔をしているかは見たくなかった。

「ずっと、君のことが気になっていた。でも君への感情を、何と呼べばいいのか、分からなかった」

 昭はそれに対して、何も答える気分になれなかった。代わりに口をついて飛び出たのは、一つの質問だった。

「聞きたいんだけど、お前って、男か女、どっちなんだ」

「俺は男だ。でも、これまで特定の娘を好きになるということはなかった。でも、君に出会って分かった。これが恋というのかと」

 娰勧は小さい頃から、外でちゃんばらを行ったり、泥で遊んだりするよりも、少女達と一緒に花で冠を作ったり、室内で人形遊びをする方が性に合うと感じていた。実際、彼は女子と遊ぶことは許されなかったのだが。彼は少女達を友人として見ることはあっても、恋愛対象として見ることは出来なかったのである。

 昭は、無言だった。なんて返したらよいかが分からなかったというのもあるが、目の前にいる娰勧という少年が、得体の知れない存在に思えてきたのが確かである。今まで彼のことを変に思う気持ちが全くなかったと言えば語弊になるが、このことをきっかけに、彼は娰勧を避けるようになった。しかし、そんな娰勧の存在が、彼が危機に陥った際に活きてくるのが分かるのは、もう少し後の話である。

 昭は暫く佇んだのち、地面に倒れたままの娰勧を残し、一目散に自邑の方向へと駆けて行った。途中で後ろを振り返っても、娰勧の姿は見られなかった。








                  11

 そのまま館に辿り着くと、入り口からでさえも、微かに女の泣き声が聞こえた。あれは燦を産んだ女・嬀媛に違いないと、昭は直感した。彼は女がいるらしき一室に近寄り、部屋の中の様子を伺おうと、壁に耳をつけた。しかし、聞こえてくるのは号泣する声以外何もない。だが昭は、暫くすると自身が立っている位置より少し左にずれた先に、片目で覗けるぐらいの小さな穴があるのを発見した。昭が左に進み、穴に目を当て、中を覗き込もうとした刹那、灯りが見えていた視界を、至近距離で何かが遮るのが見えた。それが悪臭を放つ龟甲虫だと気づいた昭は、思わず小さく叫び声を上げて遠のいてしまった。

「わっ」

 その声が中にいる嬀媛にも聞こえてしまったのか、中から足音が聞こえる。どうやら開扉しようと入口に向かっているようだった。昭はかなり焦った様子で、走って奥へと進もうとした。しかし、彼が奥へと姿を消すよりも、嬀媛が彼の姿をとらえる方が早かったようだ、

「もしかして、昭?」

 か細い声が自身の名を呼んだ時、昭は足を止めざるをえなかった。そのまま嬀媛がいる方を振り返る。嬀媛は泣きはらした大きな目をこちらに向けていた。その眼が余りにも燦に酷似していたので、昭は心が痛む。

「そうだけど。何かあんのか」

「相変わらず、あなたはぶっきらぼうな話し方をするのね。まあ、ここの男達は皆そうだけど。―まあ、取り敢えず中に入ったら?」

 昭は早く部屋に帰りたい気持ちもあったが、この日は嬀媛の部屋に入ることにした。この日は特別だ。

 室内には、家具は寝台と簡素な机があるだけであった。しかし、寝台には布が貼ってあり、肌触りの良さそうな掛布団が置いてある。机の上には、小ぶりな爵(酒器)が置かれている。嬀媛は机の方を手で指し示し、昭は言われた通りに座った。

「正直、あの子が急に亡くなって、どうしていいか、分からなくて」

 昭の向かい側に坐した嬀媛は、懸命に涙をこらえているようだった。小さな肩が微かに震えている。

「俺も、急すぎて」

 昭は、言葉を選んで話そうと努めた。

「それに、実際に彼奴の死体にもお目にかかれなかったし」

「私もよ」

 それきり、嬀媛は黙り込んでいた。

 これじゃ、堂々巡りだ。

 そう考えた昭は、自身の頭の中にあった疑問を嬀媛に話してみることにした。

「昨日事情があってうちに泊まってた奴が見つけたんだけど、そいつが起きるまで死体はなかったらしいんだ。これっておかしいと思わねえか?」

「それは今朝聞いたわ。私もおかしいと思う。でも、あの子の死に目にさえ会えないなんて、あんまりよ」

 そう言うと、嬀媛は大きな目から大粒の涙をこぼした。昭は目を細めて、その様子を見守っていた。今の彼女には、話が通じない。

 俺だって泣きてえんだよ。

 昭はそう言いそうになったが、その言葉を嬀媛にかけるのは禁句であると感じ、堪えた。

「まあ、取り敢えず、寝たら」

 昭は素っ気なく返した。不思議なもので、自身より取り乱している者を見ると、心が静まってくるのである。昭はそのまま席を立ち、入口から出ようとした。

「俺、もう今日は疲れたし、戻るわ」

 ずっと引き留めておくことも悪いと思ったのか、嬀媛はそのまま頷いた。努めて気丈に振る舞っているようだったが、涙がまだ二筋程頬を這うようにして残っていた。

 昭は嬀媛の部屋を出て、男達が寝る寝室に辿り着いた。いつものように雑魚寝している中に、当然ながら燦の姿は無い。二人分空いた空間が、とても広いように昭は感じた。昭はため息をつくと、その空間に身を滑り込ませた。

 その夜、昭は床に顔を埋め、声を押し殺して一晩中泣き続けた。







                  12

 蓮が異変に気付いたのは、眠りから覚めたあとであった。外は既に暗くなっている。胸に提げている心映の光が目に入るのに気付き、彼女は慌てて飛び起きた。心映は眩いばかりの光を放っている。蓮が心映珠の前に向かうと、珠はすぐさま、一人の少年が倒れている様子を映し出した。よく見ると、背格好は例の少年の弟だ。彼の顔は真っ赤な火傷に覆われている。

 まさか。

 蓮は目をまじまじと見開いた。

 いや、そんなはずはない。

 蓮はぎゅっと目を閉じて、しばらくたってからもう一度珠を見た。しかし、そこには変わらず弟の変わり果てた姿が映っていた。

 すぐさま場面は切り替わり、少年がうずくまって涙を流している姿が映された。

 蓮はその時、少年の弟がこの世から消え去ったことを自覚した。彼も蓮の計画の上ではなくてはならない人物だったが、蓮は彼を観察していくにつれて、彼に対して実の血族以上の親近感を覚えていたのは事実だった。

 蓮は頭を抱えて、何をすべきか考えた。しかし、考えれば考える程、脳内は混沌と化していく。

 蓮が蹲っていると、扉ががらりと開く音が聞こえた。蓮は身を更に内側へと丸め込む。

「蓮様、少しいいですか」

 聞こえたのは、娰瑜の声だった。

「こんな遅くに、どうしたの」

 娰瑜は少し間をおいてから言葉を発した。

「実は、謁見の話が一つ、入っていまして。意見を伺いたく思い、参りました」

 蓮は怪訝に思った。幽閉されていたら、生涯婚姻出来ないものだと思い込んでいたからである。しかし、取り敢えず娰瑜の話を聞くことにした。

「―いいわよ」

 そう言うと娰瑜は恐る恐る中に入ってきた。彼女は蓮の向かい側にどすりと如何にも重そうな腰を据える。

「謁見希望の伙子は、どの様な者?」

 蓮は単刀直入に聞いた。姫周では、成人した十七から二十代半ばまでの男を伙子と呼ぶ。姫氏と婚姻が許されるのは伙子のみである。

「いや、それが、伙子ではないのです」

「どういうことなの」

「特例として、名家の者はそれ以前から申請することが可能なのですよ。ご存知なかったのですか」

「―そんな決まり、姫網の中にあったかしら」

「御座いましたよ。昨年から改訂されて」

 蓮は、どうもおかしいと思った。そんなこと、耳にしたこともない。

「まあ、蓮様からすると無理もないですよねえ。会議に御呼ばれでなかったですしね」

「あ、そうだったわね」

 蓮は言われて初めて気が付いた。

「で、どんな者なの?」

 蓮は半ば娰瑜ににじり寄るようにして聞いた。

「蓮様もご存知だと思われます、甲邑の姚氏出身、姚向です」

「姚向って、ぎ―いや、相当な名家よね」

 蓮は口から例の名が出かけたが、ぎりぎりのところで抑えた。蓮は会ったことがないが、彼の姉が確か婦功だったはずだ。

「それにしても、私みたいな立場の者の存在をどうやって知ったのかしら」

 娰瑜は一瞬言おうかどうか逡巡している様子を見せていたが、暫くして口を開いた。

 実は、以前姚向は巫王姫旋様からの招集命令をかけられていたみたいです。どの様な意図をもって姫旋様がそのようなことを行われたかは私では理解しかねますが」

「そうなのね。姚向と話してみた印象はどうだった?」

「非常に感じの良い者でしたよ。融軍でも隊長を務めているだけありますね」

 少年の弟の死によって蓮は心中半ば塞ぎ込んでいたが、姚向と会うことが少し楽しみになってきた。少年の友人なので色々聞きたいこともあったが、堪えなければならないのが残念だった。

「成程、会ってみたいわ。私が謁見できるのは何時なの?」

「明後日の戊辰の日ですね。こんなに早く面談できるのは前代未聞とのことです」

 もう決まっているのか。

 蓮は驚きの気持ちと同時に、何か訳の分からない不安が胸をよぎるのを感じた。胸の奥が底冷えするような不安だ。

「どうなされましたか」

 顔色の悪い蓮を案ずるように娰瑜が顔を覗き込む。

「いや、何でもないわよ」

「そうですか。お気分が優れないようでしたら、私に何時でも申し付けて下さいね」

「ありがとう」

 その後、娰瑜はいそいそと部屋を後にした。

 娰瑜が去ったあと、再び蓮の心の中に黒い蟠りのような物がじわじわと生じた。

 これから、良くないことが起きるんじゃないかしら。

 蓮は恐る恐る胸の心映を取り出し、見た。懐から出された心映は、先程よりも更に光を増しているようだった。蓮は再び、心映珠の前に向き合うことにした。

 珠の中には、相変わらず寝ている少年の姿が映し出される。泣き疲れたのか、今では豪快な鼾をかいていた。訓練による疲れの方が勝ってしまったのだろう。

 蓮はそんな少年の様子を見て、少し愁眉を開いた。


 



 


                  13

戊辰の日が来た。

 通常姫氏の女が男と面会するのは、夜分であると相場が決まっている。通常なら姫氏に対しては伏礼しか許可されない男が、この時は跪礼已で許されるのであった。

 どんな姿なのかしら。気質は私と合うのかしら。

 蓮は半ば狼狽しながら、背筋を伸ばして姚向という少年を待った。この日、彼女は姫氏の女がしうる最大限の盛装をしていた。裾を引きずらんばかりの薄紅色の長い祷君に、頭には蓮を模した紅玉の簪など、数多くの宝飾品が付けられている。どうやら娰瑜と仲の良い若い婦功の見立てであるようだった。

 ―外出しないというのも辛いけど、外出出来てもこの様な格好をする機会が増えるだけだものね。

 蓮は着飾ることが少ないのがこの状況の美点であると気付き、溜息をついた。

 娰瑜は今頃、姚向に対し事前の確認を行っているところだろう。姫氏との面会は、周囲に厳重な監視が敷かれるが、蓮の場合はそれが薄いのだった。何しろ、普段身の周りの世話をする者が娰瑜一人なのだ。閽人を置くには、閽人自身が婦功と何かしら関係のある者でなければならない。娰瑜は伴侶を五年前に亡くしていたから、仲のいい婦功に頼んで、閽人を派遣してもらうことしか選択肢が無かった。幸い彼女は後宮内に知り合いが多かったので、婦功の内の何人かに頼み、閽人を配置することになった。

 ―そろそろ来るかしら。

 蓮は首を長くして待ち構えていた。しかし、一向に娰瑜がくる気配はない。

 ―何があったんだろう、時間かかってるわね。

 業を煮やした蓮は、こっそり外を見てみたいと思い、起立した。戸には特殊な融がかけてあって、彼女已が開けられないようになっていた。散策の時は娰瑜に命じて、戸に僅かな隙間を作ってもらったから出られたのだ。

 蓮は気づかれぬように、そっと自身が坐していた場所に戻った。寸刻の後、戸を叩く音が聞こえた。

 ―来たわ。

 蓮は固唾を飲んで戸を見つめた。

「開けて良いぞ」

 蓮は重々しくなるように、声を発した。戸の向こうから、何やら小さい声で娰瑜が話すのが聞こえる。姚向の声らしき音が聞こえた時には、蓮の心臓は更に跳ね上がった。

 戸ががらりと開く。蓮は恐る恐る伏せていた目を開けた。

 そこには、顔の整った端正な印象の少年が跪礼の形をとり、座っていた。年頃の娘ならば、彼を好く者は多いだろうと思わせるような風貌である。全身黒い衣でまとめた中で、頭上に光る金の簪だけが、松明の炎に反射して光を放っていた。

「姫蓮殿、お初にお目にかかります、姚向に御座います」

 姚向は落ち着いた声で言った。蓮は頬が赤らむのを抑えられなかったが、何とか冷静沈着でいるよう努めた。

「姚向か、話は聞いている。中に入って座るとよい」

 姚向は音もたてず、すっと立ち上がる。その上背がかなりある事を知って、蓮は胸が高鳴りそうになった。彼は蓮より二尺ほど離れた位置に膝を折り畳んで坐した。

「どんな経緯で私の所に来たのだ」

 まずは当たり障りのない質問をした。すると、姚向は口角を僅かに上げ、全く臆すことなくすらすらと応えた。

「巫王姫旋様から、我が甲邑姚氏の邑長・姚恢に私宛の招聘の通知が来ましてね。これは絶好の機会だと思い、お受けいたしました」

 これが名家の者か、と蓮は思った。姫氏との対面に慣れきっている様子がそこにはあった。しかし、彼ほどの者が、私と結ばれても良いのだろうか。蓮は単刀直入に本題に切り込むことにした。

「其方は、私がどの様な者かよく分かった上で、この話を受けたのか」

 姚向は沈黙した。何かを考えている素振りもなく、彼は静かに蓮の瞳を見つめている。蓮は人に目を見られるのがあまり好きではなかったが、姚向の目はしっかりと凝視することができた。暫く経った後、姚向は口を開いた。

「はい、貴方様につきましては、婦功からの説明で一通り承知しております。長きに渡る幽閉生活をお送りになっていること、心から気の毒に存じます。しかし、私は何としても貴方様と添い遂げたいのです」

 彼のような男に言い寄られて、靡かない娘はいないだろう。それは蓮も同様である。彼女は既に姚向に夢中だった。

「何故、其方は私と添い遂げたいと思ったのだ」

 姚向は寸刻考え込んだ後、答えた。それは安直であったが、蓮を虜にするには充分であった。

「貴方様のその心です。他の姫君とは異なる、謙虚なお人柄。私は驕り高ぶる御人があまり好きではないのです」

 そう言うと、姚向は美しい顔に苦笑交じりの笑みを浮かべた。それを見て、蓮もつい笑んでしまう。

「有難う」

 蓮の口から、礼の言葉がぽろりと出た。すると、姚向は驚いたように目を見開いた。彼の斜め後ろに坐す娰瑜が、責めるような眼つきで蓮を見る。蓮は寒気がするのを感じた。

 そう言えば、卒倒する者が出るから、あまり軽々しく有難うや御免なさいを言わないように注意されていたっけ。

 蓮はすごくうろたえ、言葉をどう次いで良いのかが分からなくなってしまった。しかし、暫くして姚向が助け舟を出すように笑って言った。

「はは、姫蓮殿は、随分面白い方であられるんですねえ!謙虚なのは美点で御座いますが、度がすぎるのもどうかと思われますよ」

 蓮は驚いたが、同時に安堵した。姚向の機転には只々感服するばかりだった。

「分かった、直すよう努力する」

 そう蓮が言うと、娰瑜は安堵したような様子を見せる。

 彼となら、やっていけるかもしれない。

 蓮はそう強く感じた。彼女は娰瑜に言う。

「娰瑜、妾は姚向と結ばれたく思う」

 娰瑜は目を見開いた。彼女は焦った様子で口をぱくつかせて言う。

「れ、蓮様、本当に良いのですか。まだ一人目ですよ。まだ他の伙子と面会してからで良いのではないでしょうか」

「いや、妾はもう、姚向から心変わりすることはない」

 娰瑜は眉を顰め、考え事をしている様子だったが、彼女も姚向に文句の付け所がないのだろう、渋々承諾した。

「承知致しました」

 すると姚向は、最初は蓮に、次に娰瑜に向かって、深々と跪礼をした。

「誠に恐悦至極で御座います。姫氏一族の発展に貢献するよう、心から尽力して参りたいと思います」

「承知した。我が一族の素晴らしき一員になるよう、日々精進せよ」

「ありがたき幸せに御座います」

 そう言って再び跪礼する姚向の俯いた顔が一瞬ほくそ笑んだことを、誰も知る由もなかった。


 




                14

 姚向が姫氏と婚姻することになったとの知らせは、瞬く間に甲邑内に行き渡った。その日は珍しく融軍にとっての休日で、兵たちは各邑で農作業を行っていた。

「姚氏の向が、御上の所に入るんだってよ」

「流石名家だなあ、俺も婚姻して美女に囲まれてみたかったぜ」

「ははは、お前みたいな中年を御上が受け入れるわけねえだろ!」

 耕作をするのに障害となる礫が沢山入った重い籠を担いでいる昭の耳にも、この話は伝わった。昭は足を止め、籠を下ろし、笑いながら嬀氏の門のすぐ外を歩いている中年の男二人に駆け寄る。

「おい、そこのおっさん二人!今の話聞かせてくれや!」

 呼ばれた二人は足を止めた。小太りの方が怪しむような眼つきで昭を見る。

「何だ坊主、仕事に戻らんか」

「そうだ、お前んとこの邑長に罰を食らうぞ」

 加勢するように横の髭もじゃの男が言う。昭は間髪入れずに啖呵を切った。

「おっさん達も一緒じゃねえか。軍の訓練もねえこんな昼下がりになにほっつき歩いてんだ」

 そう言って真正面からねめつけると、二人は困惑したように目を逸らした。

「そ、それは」

「坊主、これには大人の事情があってなあ」

「そんなん知ったこっちゃねえ。それに俺はもう直ぐ大人だ。取り敢えずこっちに来い!」

 昭は二人の腕をぐいと引っ張る。小柄な身体から繰り出される、意外に強い力に二人は驚いているようだった。彼はそのまま二人の男を、嬀氏領を取り囲む壁の隅の方へと連れて行った。

「で、さっきの話はどうしたんだ」

 昭は単刀直入に問いただした。

「姚向って奴が、姫氏と婚姻の契りを結んだ」

 髭もじゃの方が、渋々といった様子で答える。

「ああ、それで?」

「そいつはまだ冠礼を迎えていねえんだが、それで婚姻するのは異例なんだってさ。それでな、相手がまたやばそうで」

「おお」

「なんつーか、巫王姫旋様の末娘らしいんだ。俺もそこまで詳しくはないから、分からねえんだけどな、宮中であまり待遇が良くないらしい」

 昭は二人に背を向け、腕を組んだ。名家でも特に優秀な者は、冠礼を迎える前に婚姻することがあると聞いたので、そこに違和感はないが、何故相手が名を聞いたこともない巫王の末娘なのかが疑問だった。

 嬀昭、西母を信じなさい。

 昭はぎょっとした。不意にあの時の声が、頭の中に蘇ったのだった。更に、ある一つの疑念が思い浮かんだ。

 いや、まさかな。

 昭は考えを振り払うように、頭をぶんぶん横に振った。その時だった。

「おい、昭!」

 野太い声が左側から聞こえてきた。声のした方を見ると、そこには嬀恩が立っていた。熊のような大きな肩を更にいからせんばかりにして、憤怒の表情を浮かべている。

「お前何処にいたのかと思ったら、こんな場所で何してやがるんだ」

 昭は悪びれる様子もなく言った。

「事情聴取。このおっさん達が何話してんのか気になってよ」

「さっさと戻れ!中は手が足りなくて、大変なことになってんだぞ!」

 その他にも色々まくし立てると、嬀恩は二人の男の方を向いた。

「お前らはこんな昼下がりにほっつき歩いているが、畑仕事はどうしたんだ」

 二人の男は目を泳がせ、しどろもどろに答える。

「いや、ちょっと抜け出してきたというか」

「まあ、俺らがいなくてもそれなりに」

 すると、嬀恩は顎に右手を添え、黙り込んだ。寸刻の後、考えが纏まったのか、頷いて顔を上げる。

「取り敢えず、嬀氏領に来い。仕事を手伝ってもらう」

「でも」

 二人は指先を眺め、まるで話を聞いている様子がない。しかし、嬀恩が壁にどんと拳を突き立てると、びくりと震えて前を向いた。

「どうせてめえら、暇なんじゃねえの」

 昭が揶揄するように言うと、二人はぶすっとした表情で言う。

「まあ、暇だけどよ」

「じゃあ、手伝えよ」

「―分かったよ」

 こうして、二人の男(奵輪と奵核といい、農作業や館の修復作業が終わったがために、奵氏領を抜け出してきたらしい)は、昭や嬀恩と共に嬀氏領の農耕に従事することになった。






                15

「はい、これ、お前らが使うやつ」

 昭は倉庫にある鍬を持ち出して来て、二人に手渡した。

「なんだこれ、ぼろぼろじゃねえか」

 刃の部分が錆び切ったそれを受け取り、髭もじゃの方が言った。

「うるせえ、うちにはそれしかねえんだ、我慢しろ」

 重い鋤を担いだ嬀恩が、後ろを振り返って二人をぎろりと睨んだ。男達が住む大きな館の裏には、広大な畑が広がっている。そこでは生姜や里芋など、様々な作物が栽培されていた。昭は肥料として使う排泄物の入った籠を肩に乗せ、畝の隙間を歩いて行く。二人はその後ろをついていった。

「ここから耕せよ」

 昭は畝の一番端を示した。表面が整えられておらず、空いた穴からは甲虫の幼虫などが顔を出し入れしている。二人は昭が柄杓で肥やしを撒いた上に鍬を突き刺した。撒かれる度に鼻を衝く臭いに三人ともが顔をしかめる。

「この臭いには未だに慣れねえな」

「そうか?俺は気にならないが」

 昭は誰に話しかけるという風でもなく、言った。

「実は俺、もうすぐ冠礼を迎えるんだけどよ」

 二人が顔を上げる。

「その時って、おっさん達はどうしたんだ。例えば、」

 その瞬間、喉の奥に石が詰まったようになり、声が出なくなった。

「ゔっ」

 昭は喉を抑えて苦しんだ。籠が肩からどすりと落ちると同時に、二人が駆け寄る。幸い、籠の中の肥やしが飛び散ることはなかった。

「大丈夫か、坊主」

 昭に二人の声は届いていなかった。

 ―嬀昭、それだけはおやめなさい。取り返しのつかないことになるわ。

 姫氏の耳。昭はこれまでその存在を実感したことはなかった。しかし、このような場面で遭遇することになるとは。

 ―どうしてこんなことになるんだ。

 昭は心の中で呟いた。

― 解るでしょう、次はこれでは済まないわ。あなたには無事に康宮まで来てもらわなければならないのに、何たる醜態。

 それを聞いた途端、昭は頭がかっとした。しかし、今は抵抗する術がない。

 分かったよ。

 苦し紛れに言うと、首の詰まりが無くなった。昭はぜえぜえと息を吐きながら、二人の方を見る。奵核が昭の顔を心配そうに覗き込む。

「なんか今、凄いことになってたぞ」

「なんでもねえ、大丈夫だ。それよりも、作業を続けるぜ」

 昭はすぐさま立ち上がった。しかしまだ息が上がっている。

「ちょっとは休んだらどうなんだ」

 すぐさま息を整えて昭は言った。

「いや、もう何ともねえ。お前らとは違って、日頃から訓練を積んでるからな」

「訓練って?」

 不思議そうな顔をする二人に、昭が答える。

「一応融軍だからな、俺」

「本当なのか。そういう風には見えないが」

 奵輪が怪訝そうな様子で言った。

 「あまり信じてもらえねえんだけどな」

 昭は少しきまり悪そうにした。

 「でもすげえじゃねえか、名家でもねえのに融軍なんて」

 「ただの小僧かと思っていたけど、見直したぞ」

 案の定、二人は昭のことを称賛した。しかし、昭は自身が称賛されるほどの人間ではないと思っていた。

 「そんなすげえもんでもねえよ。俺は名家ではねえからな」

 どうして、自身のような体力だけ有り余っているような者がここでは徴用され、燦のような者が日の目を見ることはないのか、昭は考えていた。それは、当たり前のことかもしれないが、姫氏が女であるからだ。力仕事をするとなると、どうしても女は体力では男に劣る。武力の増強を男に頼らざるを得ないがために、融軍を始めとする軍隊が設立された。とどのつまりは、知識面を担う人物は姫氏には既に足りているのだ。

 くそ、よくわからねえけど、こんな場所、出て行ってやりてえ。

 昭は苦々しく歯噛みした。しかし、彼は次の瞬間あることに気づく。それは、声の主と自身の意思が一致したということである。

 そうか、彼奴と一緒に出て行ってやればいいのか。

 昭は頭にかかっていた霞が少し晴れたような気持ちになった。しかし、出て行くという事は、同時に融を失うことを意味する。だが、失うこと自体には不思議と抵抗はなかった。冠礼は既に二日後に迫っている。昭は鼻を衝く臭いにさえも意識を向けず、作業を繰り返し動作が染みついた身体に任せ肥やしを撒き続け、明後日のことばかりを考えていた。

 「坊主、肥やしが零れ落ちそうになっているぞ」

 奵輪の声で、昭は我に返った。籠に目をやると、かなり傾いていた。もう少し気づくのが遅いと、地面の広範囲にわたってぶちまけられる羽目になったのかもしれない。慌てて位置を直す。

 「すまん、不注意だったな」

 「いや、こぼれる前で良かったぜ」

 昭は二人に向かって軽く頷いて、作業を再開した。

 明後日はどうなるのだろう。しかし、彼にとってこれまでにないほどの変革がもたらされる事は確かだ。

 昭は二日後に期待を馳せながら、それまで残された時間を過ごした。

 そして、とうとう冠礼の当日がやって来る。


 




 

               宮中の前日譚

 少年はその日、蓮の個室の前にたたずんでいた。彼が戸を敲いても、中にいる気配は無かったので、寝ているのかと思い、待っていたのである。

 それにしても、なんて窮屈なんだ。

 宮中で数日暮らしてみて、少年が抱いた感想はそれだった。宮中で暮らす男性はかなり行動が制限される。特に、行動範囲は男性が主に暮らす蜂窩殿と中庭に限られていて、伴侶に許可された場合已、個室への入室が許されるというように、極めて厳格であった。

 でも、我が氏族の名を上げるためだ、我慢しなければ。

 少年はそう思うことで、何とか生活を耐え忍ぶことができた。蓮と婚姻することを決めたのは、一番目を付けられにくく、胸の奥にしまっている策略が暴かれないと考えたからだ。策略とは、巫王姫旋や姫瑳を始めとする姫氏の跡取りとなる婦女を弑した後に、蓮を巫王の座に付け、摂政として国政を牛耳ることである。

 ―、我が一族の名を決して汚すでないぞ。

 過去に、邑長は少年に向かってそう告げた。彼女は少年を産んだ人そのものであり、才能を見込まれ、先代の死後若くして邑長となった。しかし、名家の圧力によるものなのか、少年が融軍の入隊試験を受ける前辺りから、彼女は心を病んでいく。 年を経るにつれ、発言も極端なものが多くなり、最近では鴉片を吸うことで辛うじて正気を保つことが多くなってきていた。しかし、そんな頼みですらも、少年はどうしても断ることが出来なかった。

 ―、何としても入隊試験に合格するのじゃ。合格しなければ、妾は自ら命を絶つ。

 ―どんな手を使っても、ですか。

 ―そうじゃ。

 ―分かりました。

 少年は言われた通り、入隊試験の時になると、姫網で禁止されているのも関わらず競争相手を容赦なく傷つけた。幸い、少年は一廉の実力を持っており、かなりの成績で入隊試験に受かった。その後暫く、少年は自身の犯した罪に対して多大なる罪悪感を抱くことになったが、彼の身に危険を及ぼす出来事は何も起こらなかった。不思議に思って邑長に問うてみると、彼女は震える手で、自室の奥の薄暗い空間を指さした。少年は指さす方に向かって進んで行く。その先にあったのは、見渡す限り、山積みになった酒器。大邑姫氏領にしかない、見事な質の物であり、表面は虹色の不思議な光沢を放っている。

 ―これは。

 少年は息を飲んだ。それは、彼が見たこともないような美しい光景であった。

 ―どうしたのですか、この酒器の山は。

 ―玲に言って持って帰って来させた。唖奴は三女の姫汪様に顔が利く。姫汪様は酒器を集めるのが趣味であられるのでな。姫氏の持つ酒器には、不思議な霊力があり、罪を無かった事にできるのじゃ。

 ―私が人を傷つけたのにも関わらず、融軍に入ることができたのは、これのお陰なのですね。

 俯く少年に、邑長は優しい声で言った。

 ―そうじゃ。しかし、そなたが気負うことは何一つない。我々―邑―氏は、姫氏に仕えるべくして存在しておるのだからな。

 少年は暫く逡巡した後に言う。

 ―左様で御座いますか。有難きお言葉。

 それから、少年の頭から罪悪感は無くなった。

 同時に、同じ邑に属す幼馴染―昭に出会ったのもその時だった。豪放磊落な性格の彼とは非常に馬が合い、彼と話している間だけは、名家の圧力から逃れられる気がした。

 しかし、嬴冄が現れたことで、事態は大きく変わったように思える。正義感溢れる性格であった昭は、身内が少年の被害に遭った嬴冄の擁護をした。しかし、流石の彼も友情には絆されてしまったようで、少年の罪を告発することはこの日まで遂になかった。今の所、昭とは疎遠な状態である。冠礼の日が過ぎれば、会うことも叶わないだろう。

 しかし、任務を遂行するためには、それから目を背けずにはいられない。

 蓮様の機嫌も多少は取らねばな。

 そう考えた少年は、中庭で採れた櫻桃を籠に入れて持ってきた。しかし、それでも彼女が出てくる気配はない。少年は一端蜂窩殿に引き返すことにした。蜂窩殿は、大邑姫氏領の中心部にある康宮からかなり西に離れた場所に位置している。故に、康宮をぐるりと取り囲むように存在している巫女の個室に行くまでも一苦労であった。

 やっぱり、少し遠いな。

 廊下を歩きながら、姚向は漠然と物思いに耽っていた。最近度々考えるようになったのは、燦についてである。彼については、余りにも奇妙な死に方であったがために、かなり様々な噂が甲邑内で流布していた。中には、燦はまだ生きているのではないか、という説もあった。しかし、誰もその根拠を述べることが出来ず、直ぐに立ち消えになったことを覚えている。

 そもそも、燦は少年からしてもかなり不思議な存在であった。いつも昭の後ろにくっ付いている印象が強く、姚向とは意地でも話すことはなかったように思える。その為、姚向は自身の過去の行いが見透かされているのではないかと考えたこともあった。

 実際、彼は融を超越した力を持っているように思えた。

 ―こいつは人見知りなだけだから、気にするなって。

 初めて燦と出会った時、余りの無口さに困惑する少年に昭はそう告げた。しかし、昭の衣の裾に取りすがって、爛々とした目でこちらをじっと見つめてくる燦を見て、少年はそうではないことに気が付いた。

 明らかに、こちらの本性を見透かされている。

 そう考えた少年は、昭に相談してみることにした。しかし、彼は全く気にしている様子はなかった。

 ―そんなこと考えているわけがねえだろ。彼奴の頭の中には設計の事しか頭にねえからな。

 そう笑い飛ばす昭を見て、なんて鈍感なやつなんだ、と少年は思った。しかし、あの目を向けられたことのない人間には、分からないのも当然なのかも知れなかった。そのうち気のせいなのかもしれない、と思えてくることもあった。だが、三年経ったある日、昭はこう言った。

 ―いいか、これから話すことは絶対他の奴らに口外するなよ。信用してるからな。

 ―何のことだ。

 ―この間のことだ、燦と共に夜中にこっそり館を抜け出したことがあってな。奴は徐に、女性の居住域の方に足を進めた。どうしたことかと思って、奴の後をつけてみると、丁度とある一室の中に居る二人が、俺たちについて話をしている最中だった。こんなこと、普通はありえねえだろ。

 ―本当かよ。ということは、燦はつまり―

 ―何か融に通じる力を持っているかもしれねえ、ということだ。

 少年はその日から、燦が特殊な力を持っていることを確信した。しかし、これを口外すれば何が起こるかは計り知れない。彼は一体何者なのか。少年にとって燦は得体の知れない存在となりつつあった。

 かさ、と何かが擦れる音が中庭の辺りから聞こえたが、特に気にすることなく彼は通路を進んでいく。辺りには風の吹き荒ぶ音も聞こえず、静寂が漂っていた。

 かさ、じゃり。

 その音がした瞬間、少年の身に悪寒が走った。すぐさま音の聞こえる方を向き、宮中で唯一帯刀が許される青銅製の刀を構える。

「誰だ、出てこい」

 少年は目をかっと見開き、中庭の方にいる、見えない敵を見つめた。寸刻の後、中庭の果樹の辺りから、忍び笑いをする声が聞こえてきた。

「久しぶりだな、―」

 その口調には、こちらをおちょくるような響きがあったので、少年は激昂しかけた。聞いた覚えのない声だ。

「先ずは出てこい。返答を聞いて、我に仇成すようだったら、その場で斬り捨てる」

 すると、声はあざ笑うように言った。

 「本当に出てきていいのか?」

 少年は果樹を凝視して言った。

 「ああ、構わない」

 それでも、一向に声の主が出てくる気配は無かった。

 どうしたんだ。

 少年は額に汗を浮かべながら辺りを見回した。相変わらず、周囲は真夜中の湖面のように静かである。ただ一つ、少年の荒い息遣いだけが響いていた。

 「滑稽だね。まあ、昭が見たら驚きのあまり気を失いそうだけど」

 再び声がした。先程とは違い、無機質な響きである。少年は何かを思い出したように、口を開いた。

 「燦、もしかしたら、燦なのか?」

 すると、声の主は笑い交じりに言った。

 「ああ、そうだけど」

 少年は驚いた。燦の声自体を聴いたのも初めてだったので、二重の困惑があった。

 「死んだ筈ではなかったのかよ」

 燦は少し黙り込んでから、言った。

 「見せかけだよ、見せかけ。僕が生きているなんて知ったら、昭はどんな顔をするだろうな」

 燦はくすくすと笑った。馬鹿言え、と言いかけて、少年は自身が昭と不和であることを思い出した。しかし、感情が表に出やすい昭のことだ、大いに混乱するであろうことは予測できた。

 「一体、お前はどういう目的でここに来たんだ」

 少年は眉をひそめた。

 「僕はね、ここではない何処かに行きたかったんだ。姫周の民の中で稀有な能力があるにも関わらず、御上は僕を召し上げてくれない。ここ以外の何処か別の国、例えば男権政治の国ならば、僕が活躍できる機会があったのかも知れないと、ずっと考えていた」

 「そう考えた時点で重罪だぞ、分かっているのか」

 語気を荒げる少年に、燦は又もや笑い交じりに返した。

 「ばっかだねえ、そんなことは分かった上なんだよ。万が一、身一つで追放されたとしても、僕なら生きていける自信がある。自分で編み出した技術があるからね」

 少年は青銅刀を脇に収めた。

 「しかし、お前は既に死んだことになっている。そんな状態でどうやって出て行くんだ。そもそもお前はどうやって姫氏領内に入って来たんだ」

 燦は再び黙り込んだ。

「前者に関しては、なんも言えないな。でも、後者なら教えられる」

 少年は唾をごくりと飲み干す。

「分かった、誰にも言わねえから、教えてくれ」

 すると木陰から、小柄な影がぬっと姿を現した。庭に建てられている松明の近くまで、彼は移動する。

 明るみに出たその姿を見て、少年は絶句せずにはいられなかった。

 そこには、過去の面影もなく、顔面が真っ赤に焼け爛れた燦が立っていたからだ。

 

 ちょうどその頃、蓮は暗闇の中で、我を忘れて心映珠を見つめていた。万が一明日までに計画を妨げるような出来事が起きると本末転倒だからだ。彼女は一睡もせずに夜を明かすつもりだった。甲邑嬀氏領にある心映は、この日まで目当ての少年以外の手には渡っておらず、蓮は安堵した。

 しかし、冠礼当日となると、どの様なことが起こってもおかしくない。実際、半分近くの若者が、成人することが出来ずに、その一生を終えることになると言われているのだ。計画の成否は、少年をどの様に生き延びさせるかにかかっていると言っても過言ではなかった。

 ああ、嬀昭、どうにか生きて。

 蓮はそれだけを祈っていた。あと出来ることは、彼に約束の場所まで来るよう指示を出すこと已だ。

 思えば、これまで意思を持って行動する、ということをあまりしてこなかった人生であった、と蓮は考えていた。奵瑛が生存していた時でさえも、幼いという理由もあっただろうが、彼に判断を委ねる機会が多かったように思う。明日のことを考えると、怖くて怖くて堪らなかった。

 しかしこれは、人生を切り拓く為の戦いだ。ここで姫周から出て行くことが出来なければ、一生宮中から出ることも叶わないだろう。そう思うと、自然と心が引き締まった。どのような形であっても、自由を得たかった。

 暫くして流石に限界が来たのか、心映珠に映し出される光景が、ぼやけた不明瞭なものへと変化してきた。

 少し寝た方がいいかもしれないわ。早朝になるまで彼らは動き出すことはないだろうし。

 蓮はそう思い、仮眠をとることにした。寝台に身体を横たえると、闇の中に吸い込まれるように彼女の意識は失われていく。

 その夜、彼女は夢を見た。紺青の髪に、金色の目を持った人々が、太陽に祈りを捧げているのを自分自身が俯瞰している、という夢であった。集団の中で、一人の女が、気づいたようにこちらを見る。体つきがすらりとしていて、目つきが鋭いが、顔の整った美しい女だった。

 彼女は何かをこちらに向かって語り掛けているようだったが、完全なる異国の言語で、その内容は蓮には全く理解できなかった。

「御免なさい、私には、全く分からないの!」

 蓮は必死に叫んだ。すると、女は困ったような顔をして、迷うような素振りを見せたが、暫くして再び、言葉を発した。その顔には、よく見ると、一筋の涙が浮かんでいる。

「―ヲ、助ケテ」

 それは片言ながらも、紛れもない姫周の言葉であった。しかし、まだ名前の部分だけが聞き取れない。困惑した表情の蓮に向かってもう一度、彼女は大きな声で言った。

「昭ヲ、助ケテ」

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